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【試し読み】『BEATLESS』原作者・長谷敏司、最新作にして最高傑作『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』刊行!

右足を失ったダンサーとAI義肢との共生。それは、最も卑近で最も痛切なファーストコンタクトの始まりだった──
長谷敏司氏による10年ぶりの本格SF長篇『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』がついに刊行されました。著者も「現時点で、長谷の長編ではいちばんよくできた作品になったと思います」と語る本作は、これまで刊行されてきた数々の作品──『あなたのための物語』「allo,toi,toi」『BEATLESS』を凌ぐ最高傑作となりました。
はたしてこれは言い過ぎか否か……ここに単行本80ページまで読むことができる試し読み拡大版を公開しますので、どうか少しでもお時間をいただき、あなたのその目で確認してください。

 ──われわれの頭蓋の中にあるものは、つまりは、ただの内臓にすぎない。

 護堂恒明(ごどうつねあき)は素晴らしいダンサーだった。
 身長とプロポーションに恵まれ、バネのように鍛え上げた筋肉は、激しい振りのときも静止したときも、目を惹かずにおれない存在感を持っていた。彼は鋭く回転するコマであり、緊張感を孕(はら)んでたたずむ彫像だった。身体表現の最前線を志向するコンテンポラリーダンスを主戦場にする彼は、ジャンル外からも注目される新星だった。
 彼が、2050年代のダンスシーンに輝かしい名を刻むことを、多くの関係者が予感した。27歳の彼自身も、これから絶頂期に向かう中、素晴らしいステージを踊れると思っていた。だから、自らの深奥に耽溺(たんでき)するような内向的なダンサーだった彼は、いっそう練習に打ち込むようになった。
 おのれの身体に宿った可能性を残らず掘り返そうとするように、彼は自分を鍛えた。早朝から体力作りに励み、ほとんどのダンサーがそうであるように踊り以外の仕事をし、それが終わると毎日踊った。誰とも話さず、すでに乗る者もすくないバイクにまたがって、ひとりで移動した。環境に対して搭乗者が露出する、全自動車よりずっと刺激が強い搭乗感が、身体感覚の引き出しが欲しい彼には魅力的だったのだ。
 だから、恒明がバイクで大事故に遭ったとき、彼を知る者は危ぶんだ。もしも後遺症が出て踊れなくなったら、あの男はもう生きていられないと思ったのだ。
 恒明は、意識がない間に、首と頭を固定具で胴に固定される手術を受けていた。右足は倒れたバイクの下敷きになった上に、車に踏まれて骨が粉々に砕けていて、膝から下を切断するよりなかった。
 事故から2日目、意識を取り戻したとき、恒明は心の底から恐怖するということを初めて知った。鉄と樹脂の保護具に折れた頸椎を支えられて、自分の力では起き上がることもできなくなっていたからだ。
 カテーテルから尿を垂れ流していた。おむつを汚して尻を拭いてもらっていた。栄養も点滴でとるしかない。3日目に、言葉が出せて、のどから嚥下(えんげ)することが可能だと確認されて、ようやく水を吸い飲みから舐(な)められるようになった。
 さらに3日後、車椅子でトイレに行かせてもらえるようになった。もう3月も中旬だ。もうすぐ桜が咲くと聞いて、きっと他のダンサーは楽しんでいるのだろうと思うと、嫌気がさした。朦朧(もうろう)としていた意識がはっきりとしてくると、右足に猛烈な痒(かゆ)みを覚えた。右足がなくなっていて、これが幻肢痛だと知ったとき、自分はダンサーとしてだけではなく人間としてもう終わったのだと、心ではなく体で理解した。
 自分の足で歩くことは認めてもらえず、看護師に車椅子を押してもらうことでしか移動もできない。鏡を見ると、樹脂製のベストのような上半身固定具からは、4本の細い柱が伸びていて、頭蓋骨にネジを直接打ち込んだ輪形の補助具が、頭部に嵌(は)まってこの柱と接続されている。どんな姿勢をとっても首が動かず頸椎に負担をかけないかわりに、顔の肌は痒み、まったく頭は動かない。左右を向くだけのことにも上半身をひねるしかないおのれの身で、いつか再び舞台に立てるとは思えない。
 横になることに耐えられず、車椅子を窓に向けてもらって、座ったまま、じっと病室の外を眺めた。駐車場と表の通りしかない、おもしろみのない風景だ。それでも、心が揺さぶられてどうしようもなかった。
 もしも死んでいたら、今、目に映るすべてを失っていた。人生が終わったように絶望していても、それでも目の前にこの何の変哲もない光景がある。
 ほんの数日前なら、この地の底でほのかな輝きを見つけたような心の動きを、肉体で表現したかったはずだ。だが、今は、体はもう苦痛と絶望を伝えるばかりだ。
 彼の若い体は、瀕死の心をよそに、自然治癒を進めつつあった。2週間後、医師からレントゲン画像を見せられ、回復は順調だと伝えられた。頸椎骨折による重篤な後遺症は、さいわい認められないという。手術ではなく保存的治療で自然回復にまかせると説明を受けたときは、改めて安堵した。
 だが、治療計画を聞きながら、恒明は足を見下ろした。膝関節のすぐ下で、右足は無惨に切断されている。心から大事なものが永遠に失われたまま、回復と言われても、ただ空虚だった。
 護堂恒明という人間の、土台をなしていたのは、踊ることだった。それがおのれの生命そのものだったと思い知った。
「自分は、また踊れるようになりますか?」
 画像を再び確認しながら、医者は、「今のところ踊りは絶対におすすめできません」と答えた。首の骨が治癒するまでは、いつ症状が出るとも限らない。右足のことがなくとも、激しい運動は厳に控えるべきだと注意された。
 自分の人生は終わったと思ったはずなのに、叫び出したい気持ちになった。
 命を繋いだ肉体を疎(うと)んだ。すべてを注ぎ込んで鍛えあげた踊りは、もう戻ってこないのだ。

 面会謝絶は事故から1週間後に解けたが、見舞い客はひとりしか来なかった。身体表現にのめりこむうち、恒明は、ダンスカンパニーの仲間を寄せ付けなくなっていたからだ。来たのは、病院から連絡を受けた父だけだ。
 恒明の父、護堂森(ごどうしん)は、50年間も一線で戦い続ける、現役の舞踏家にして振付家(ふりつけか)だ。大ベテランであり、年齢を重ねるごとに身体表現を深化させてゆく、コンテンポラリーダンスのジャンルの顔でもある。
「手術はもうしなくていいのか?」
 事故から2週間で、2度目の見舞いに来た父は、パイプ椅子の背もたれに身体を預けていた。総白髪を後ろでまとめたその目のまわりにしわがあり、ちいさなしみがある肌こそたるみがちだが、顔には精気が満ちている。1976年生まれの74歳の老人なのに、春先とはいえ、スラックスにTシャツだけで、首には金のネックレスを巻いている。鍛えた肉体にはたるみがなく、年齢のわりにずいぶん若く見える。
 恒明は、父の身体に、ひどい劣等感を覚えた。
「ぶざまだろ。親父より早く、ダンサー廃業だな」
 恒明は、護堂森にとって50歳近くになってできた次男だ。年をとってからの子どもだったからか、習い事はダンス以外も自由にやらせてもらった。それでも舞踏家を志したのは、中学生の頃、父の鬼気迫るダンスをネット上の動画で見てのことだ。父が、公園の清掃もしていない公衆便所で踊った映像は、DVDで発売された、今となっては粗い解像度のものだった。それでも、タンクトップにタイツの衣装の父が、特別なものに見えた。
 キャリアが台無しになろうとしている自覚があるから、父と自分を比べてしまった。自分より若い20代前半で、護堂森は、100もの場所で踊った、《聖と俗》と名付けた一連のダンススケッチで世に出た。人が生活し、働き、楽しむあらゆる場面を、父は舞踏空間に塗り替えた。
「ぶざまで上等だ。うまく踊るだけなら、きょうびダンスロボットのほうが、よっぽど上手い。人間性が見えないダンスに、価値はない」
 半世紀の間に1000本を超えるダンススケッチを残し、いまだ人間と空間というテーマに挑戦し続ける大ベテランが、そう言った。
 いっそうみじめな想いがした。恒明にとって、父は、いつか肩を並べたい存在だった。芸術大学のダンス学科を卒業したのも、護堂森にないものを手に入れたかったからだ。同じ舞踏家の道に進んだ恒明のことを、認めてくれているのだと思っていた。だからこそ、右足を失って、何を言えばよいのかわからなかった。
 言葉がなくなった。窓の外は、もう夕方近く、日の光は穏やかに色づいている。父が、ようやく言った。
「半年は踊れないらしいな」
「最低半年は、激しい運動は禁止だってさ。首を折ってそれなら、早いくらいだ」
 恒明は、まだひとりではベッドから起き上がることすら満足にできない。首の固定具が重いし、自分の腹筋で体を起こすことは許されていない。今日も看護師の補助なしでは何もできなかった。恒明の姿を見て、父が軽くため息をついたのが、ショックだった。
「だから、バイクはやめろと言ったんだ」
 見舞いに来て、このドン底の息子を見て、出てくる言葉がこれかと、呆れた。父は、人の気持ちがわからない男だった。その感性が、芸術と自分自身を掘り込む探求にばかり向けられているせいだ。そして、年齢とともに体力が衰えるにつれて、いっそうかたくなになった。
 そういう人だとわかっていても、恒明は今、本当に疲れていた。
「そんなことを言いに来たのか」
 護堂恒明はもう踊れない。いたわりや慰めが欲しかったわけではない。ただ、そのことを、父から改めて思い知らされるいわれはない。
「そうじゃない。ダンサーは、踊ってナンボだろう」
 恒明は正面を見ていられずうつむいた。護堂森といえば、この世界では有名人だ。大きな舞台や海外公演でも実績がある。恒明は、まだ信用をひとつずつ積んでいる最中だが、ダンスカンパニーが舞台のメディアを自主製作するたび、父に必ず1枚は渡していた。
 父が、もたれていた椅子から、身を起こした。
「これを見ろ」
 そう言って、ベッドサイドの個人用のものを置ける棚に、メモリースティックを置いた。父の手は、しなやかだが、しみとしわだらけだ。よく見ると、年齢相応の手だった。
「カネはあるのか。一隅(いすみ)は、見舞いに来たか」
 恒明には、9歳離れた兄の一隅がいる。彼が小学生だったときには、高校から大学に進んでいた兄とは、年齢が離れすぎていて話が合わなかった。兄の記憶といえば、父と折り合いが悪く、何かあるとよく衝突していたことばかりだ。恒明が中学生でダンサーの道へ進みだした頃には、会社員として社会人生活をスタートしたせいか、疎遠というより関係が空虚になっていった。その兄は、今は大阪に住んでいる。
「もう2年以上も会ってないよ」
 兄のことは、好き嫌いというより、生き方が合わない気がしている。ダンサーとして舞台に立っている恒明を、兄も家族であるはずなのに一度も見に来たことがない。たぶん、本質的に人生を結び合わせる引力が弱いのだと思っていた。
 父が、見舞いに持ってきたゼリーを自分でばくばく食らいながら言った。
「そうなのか。来李(くるり)には、一隅も出張ついでだとかで顔を見せに来るらしいぞ。俺が帰る前には、いつも出て行くから、俺は会ってないがな」
 母の護堂来李は、父より8歳年下だが、身体が弱い。恒明が事故にあった時も、腎臓の調子を悪くして、入院していた。
「母さんは、まだ入院してる?」
「もうすぐ退院の予定だ。来週には出られるから、そうしたら見舞いに来ると言っている」
 そうして、忘れていたとばかりに、さっきメモリースティックを出したハンドバッグから白い封筒を出して、恒明に手渡した。
「手紙だ」
 封筒には、「恒明へ」と表書きされていた。
 父が帰った後で、母からの手紙を見た。習字を習った人によくある、流れのいいきれいな線で書かれていた。ケガの様子をたずね、一生懸命打ち込んでいたダンスはだいじょうぶなのかと、心から心配してくれていた。
 母は、父を支えていてずいぶん苦労させられたという。ダンサーがどれほど儲からないかを知っているし、足を失ったことでどれほど大変になるかも察している。きっと、ダンサーをやめて、別の仕事について欲しいのだ。
 言葉にならなかった。

 その晩、右足の失ったはずの膝下が、ねじられるようにうずいた。幻肢痛だ。痛みに寝ていられず、ナースコールする。結局、鎮痛剤を処方してもらって、ようやく眠れた。
 身体が制御のまったくきかない暴走するものになっていた。恒明にとって、踊ることは、たぶん肉体との対話だった。だが、この痛苦を、どう表現に昇華できるか、まるでわからなかった。自分が肉体と対話できていたなど、幻想だったかのようだった。
 折れた首の違和感も、足の傷口の絶え間ないうずきも、傷があるから痛むと頭で納得できる。ただ、傷ごと部位が失われたくせにまだ痛む幻肢痛は、いわれのない暴力のように、肉体への信頼を削った。
 1か月も経って、ようやく恒明の知り合いが見舞いに来た。恒明から、父の持ってきた動画を見るために、カンパニーの知り合いに家からノート型端末を取ってきてほしいと頼んでいたのだ。
「僕の会社の使わない備品だが、いいか? 目的は、メモリースティックの動画を見ることだろう?鍵を借りて君の私物をとりに行かなくても、僕が貸せば一度で済む」
 そう言ったのは、頭をそり上げた、繊細な顔つきで背の高い男だ。タートルネックのシャツの上に、灰色のジャケットを引っかけている。肩幅が立派で、動きがシャープだから、ジャケットが似合った。谷口裕五(たにぐち ゆうご)という男は、恒明のいたダンスカンパニーでは異色の経歴を持っていた。東京理科大学でロボット工学の博士課程まで修了した秀才だが、コンテンポラリーダンスに魅せられた。そして、ダンサーの副業として、飲食店店員や肉体労働者が多い中、自ら起業したのだ。
 谷口が、持ち込んだ端末内のエージェントに命じて、機材を恒明専用にするようセッティングさせた。もともと、メールとネットが主な用途だったから、それほど複雑なことは必要ない。恒明がベッドからひとりで下りることもできない様子を見たせいか、PCにくわしくない彼を助けてくれた。
「メールはクラウドで使っていたんだろう? それなら、ログインすればメーラーの設定も必要ない。SNSのパスワード設定は、自分でやってくれ」
 谷口が、セッティングが自動で進むのを待つ間に、ダンスカンパニーがどうなっているか教えてくれた。恒明が出演するはずだった公演は、代役を立てたという。見舞いに誰も来なかったのは忙しかったからだそうだ。おとなになってから始まった人間関係は、そんなものだ。特に親しかったわけでもないのに、谷口が来てくれたことに感謝しなければならなかった。
 電源を入れて20分もすると、動画を見られる状態になっていた。恒明の端末よりも動作が速い。
 メモリースティックを挿入すると、動画プレイヤーが立ち上がった。そこに映っていたのは、ひとりのダンサーのステージだ。鍛え上げたしなやかな上体を晒(さら)し、黒いタイツを穿(は)いた男性だ。一目でわかる。左脚の膝から下は、足のかわりに、金属か塗装した別の素材なのか銀色の短い棒が伸びている。義足のダンサーだ。
 音楽に合わせて、ダンサーが寝転がった姿勢から足をあげ、円弧を描くように下ろす。その勢いを利用して、立ち上がる。暗い舞台で、スポットライトを浴びた義足のダンサーが踊る。
 傷ついた瀕死の白鳥を思わせる、羽ばたくような腕の動き。健常な身体であると錯覚させるジャンプ。義足だからこその、関節の限界がない回転(ピルエツト)。
 もう自分は踊れないのだと絶望していた恒明を打ちのめす、高いレベルの身体表現だった。いつの間にか、ベッドフレームを強く握りしめていた。
 息をすることも忘れて、見入っていた。足を失っても変わらない、強固な価値が、このダンスにはあった。動画の再生時間では4分にも満たないステージが、まるで尽きない豊かさをもって押し寄せてくるようだった。
 そして、踊りを終えたダンサーが、義足を外して立った。
 立っていた。2本の足で立つのと同じに見える重心位置で、けれど左足がない。脳が見間違えているかと疑った。立つという当たり前のことが、あるべき左足という一部がないだけで、空白の存在感に震えるほど不穏なものに転じる。恒明は息を呑んだ。ダンサーの自然さがどれほど困難な表現で、どれほど鍛え上げ練習を重ねて実現したものか。足を失った恒明だからこそ、嫉妬に焼かれ、憧れに打たれた。
 誰にでもできる、立つということが、芸術になっていた。それだけのことが尊いのだと、失望で穴だらけになっていた心に、しみた。
 今ではダンスだって、ロボットのほうが正確に踊る。それでも、生身のダンサーが芸術として残っているのはなぜか。それぞれ違う人間の身体表現だからこそ、とらえられる世界があるのだ。
 恒明は、まだしびれたままの胸から、ひとつ言葉を吐き出した。
「そうか。踊れるのか」
 心が現実に戻ってきた。恒明は、自分が泣いていることを知った。
「ああ。本当に」
 谷口が、何かに取り憑かれたような勢いで、メモをとりはじめた。

 そして、恒明は、治療の経過が良好ということで、リハビリを開始できるようになった。とはいえ、ダンスどころか日常生活にもほど遠い。歩行補助具をつけて歩くだけのことに、四苦八苦していた。
 ただただ、不自由だった。だが、がむしゃらに努力することで乗り越えることもできない。恒明は、まだ首が治ったわけですらないのだ。
 筋力が衰え、ボディバランスが狂ったことで、介助されてなお立つことが難しい。かつては当たり前にできていたことができないというくらいの話ではない。自分の身体が、自分のものではなくなったように、ままならなかった。まるで借り物の肉体を、初めて動かしているかのようだ。
「ダンスどころか、バイトすら、ほど遠いぞ」
 恒明は、アルバイトで力仕事をできそうか想像して、ため息をつく。
 足だけではない。腕の筋肉も、腹筋も背筋も、すべてが不足していた。汗だくになって、復帰のために筋肉に負荷をかけ続ける。点滴台のようなかたちをした理学療法士の補助ロボットに、動きを撮影して筋肉量を測ってもらう。足りない筋肉を、首に負担がかからないように鍛える。
 何もかもが遅々として進まない気がした。首の骨が固まってきて、命の危険を脱したからこそ、昔のように戻れないことがもどかしかった。時間はどんどん過ぎてゆく。義足でもダンサーとして復帰するために何が必要か、リハビリのたびに理学療法士と義肢のトレーナーを質問責めにした。体を鍛え直し、頭には新しく必要な知識を詰め込んでも、普通だと思っていた動きにまったく届かない。
 アルバイトしていたカフェが、恒明のかわりを雇ったことを知った。ダンスカンパニーでも、彼の代役で入ってきた新しいダンサーが、チャンスを掴んでいるという。
 仕事はなくなるだろう。ダンスカンパニーの居場所もそうだ。恒明が地の底を這っている間に、世界は進んでゆく。
 祈るように、義足のダンサーの動画を見ていた。自分ならどう踊れるのか、イメージがまるで掴めなくて、ダンサーとして再出発する目標も曖昧なままだ。だから、まず片足でのダンスを評価する目と脳を育てるしかないと思った。身体表現が持つ確かな価値をとらえて、高みを目指す第1歩にできると信じた。いつか鏡の前でダンスの練習に戻るとき、恒明自身が自分の踊りを評価できなければ何も始まらないのだ。
 ベッドで動画を見ながら、自分の上半身のバランスのとりかたとどう違うだろうかと、上体だけ同じポーズをとってみた。治療用のベストに拘束された首と上体では、やわらかい動きはとれない。
「後遺症はないだけ、運がよかったんだ。焦るなよ」
 声をかけられた。谷口が、病室に入ってきていた。
 谷口は、週に一度くらいのペースで顔を見せるようになった。他の団員が、恒明の絶望を恐れているかのように誰も見舞いに来ない中、谷口だけが距離を詰めてきた。
 初めて来たときはタートルネックだったが、夏が近づいて、ダンスロボットを作るハッカソン(開発イベント)で買ったらしいTシャツに替わっている。
「病院にいると、いつまでも同じところから進めない気がする。おれの時間は、価値があるのか、何もかもあやふやだ」
 世間を見れば、たった2か月で変化が早すぎると感じる。その同じ2か月が、病室で治癒を待ち、苦痛を数えていると、耐え難いほど長い。ふとしたとき、窓から明るさを増した青空を見て、途方に暮れそうになる。
 恒明の迷いに、谷口はコメントしなかった。首の骨を折り、右足を失った彼に、時間の価値を説けるほど、親しいわけではない。
 だが、谷口は、空気を読むほど殊勝でもなかった。
「僕は、人間の脳ってのは、内臓だと思ってる。歓びも悲しみもその内臓の働きで、だからこそ人間は内臓の働きによって可塑性を保証されている」
「へえ、そういうものか?」
 疲れ切った恒明の脳には、その話が難しくて入ってこなかった。谷口は、余力がない彼にもわかる言い方に変えてくれた。
「脳っていう内臓は、人を踊らせる働きも持ってる。そんなおかしなものを、僕らは頭の中に抱えているんだ。だから、僕は、片足になって鍛え直している、護堂恒明ってダンサーに興味を持った。護堂のダンスは、脳の中で一度壊れて、今、再構築してる最中なんだ」
 恒明の疲れ切った心にも、しみわたるものがあった。
「おれのダンスか」
 恒明の肉体は、右足を失って、一般性から大きく離れた特徴を付けられた。つまり、もうどんなすぐれた振付家も、彼にとってベストのダンスを振り付けられない。この肉体の限界と可能性、そしてこの肉体でできる表現に、一番興味を持っているのは恒明自身だ。これから未来にわたって、彼をもっともよく知ることになるのは自分自身で、その踊りをもっともうまく振り付けられるのも、自分自身なのだ。
 谷口が、彼の目を見て、言った。
「赤ん坊が成長して、芸術としてダンス表現を始めるまでの過程を、狙って追いかけることなんてできない。けど、ダンサーが失った表現を再生するのには立ち会える」
「ドキュメンタリーでも撮りたいのか?」
「違う。僕はどんな手続き(プロトコル)がロボットと人のダンスをわけているかを知りたいんだ。ダンスするロボットはたくさんできたが、人間のダンスは何かが特別だ。僕らは、人間のダンスから、人間の生の熱気を確かに感じる。それはきっと、隠れてはいるけど、僕と護堂みたいな別々の人間のあいだで人間性を伝えている、正しいプロトコル(手続き)が存在するからだ。僕は、そのダンスが人間性を伝える謎を、解きたいんだ」
 恒明の胸に、腹の底から噴火するように、熱がこみあげてきた。
「おれのダンスに、そのプロトコルはあるか」
「護堂恒明のダンスには、それがあった。足を失っても、新しいそれを、君はきっと見つけ出す」
 理由がわからない涙が、こぼれおちた。

 首を固定する補助具が、上半身をすべて固めるものから、首まわりに巻く頸椎固定カラーに変わった。
 リハビリの内容が、歩行補助具を使って歩くことから、バランスをとったり生活動作に必要な筋肉を鍛えて感覚を取り戻すことへと進んだ。
 そして、義足を使っての歩行訓練をすると決まると、谷口が申し出た。
「知り合いのやっているベンチャーの義足を使わないか? 特別な義足で高価なものらしいが、モニターをしてくれるなら無料でいいらしい」
 病室のベッドで恒明は、自分を救ってくれる技術はないかと、ノート型端末で技術ニュースを探しているところだった。
 ちょうど、人体組織内のイオンに情報を書き込んで媒体(メディア)にする通信技術のニュースを読んでいた。体内に埋設したコンピューターからのデータを体外の受信機にワイヤレス送信するだけでなく、イオン通信ネットワークを体内に構築することで、身体のデジタルツイン(データ写像)を作れるらしかった。
 ニュースは面白そうだが、恒明の失った足を代替できるものではない。ため息をついて、谷口からの提案に答えた。
「義足は、信用できるものを使わないと危ないだろう。ダンス用でも日常使いでも、リスクはとりたくない」
 おかしな義足で転んで、治りかけた首を打って後遺症でも出たらと思うと、臆病にならざるをえない。
 だが、谷口が得たりとばかりに笑う。
「モニターといっても、安全基準をクリアして発売してる製品だ。僕が一流のダンサーを知ってるって言ったら、製品モニターをしてもらって次の開発に活かしたいって話になった」
 谷口が、持っていた折りたたみ画面の携帯を広げて、その会社のウェブサイトを表示した。人間の足を模した、黒いカーボン素材のロボット義足だ。足の指までついていた。
 サイトのトップに義足をつけて歩く人の動画が表示された。とても自然だ。足があったときのように生活できるなら、チャンスなのではないかと欲が出た。
「もうすこし具体的に教えてくれ」
 だが、人生がかかっているのだ。曖昧なままでは選べなかった。
「義足自体が高度なAIを積んだロボットなんだ。昔からある敵対的生成ネットワーク(Generative Adversarial Network)だな。1つの仕事のために2つのAIをのせて、片方のAIが義足の関節や人工筋肉の動きを生成しながら、もう片方でそれが〝おまえの動作らしい〟かを監視する。そうやってAI同士で競い合いながら、AIが自分で〝おまえらしい動き〟を学んで、おまえの動きに、生き物みたいに適応してゆくんだ」
 技術の話をする谷口は、饒舌だ。恒明は、人工知能のことはくわしくない。
「〝おれの動作らしい〟ってなんのことだ? AIに、〝おれの動きらしさ〟なんて、わかるわけないだろ」
「30年以上前からある枯れた技術だから、そこは信用してくれ。映像から人の骨格を推測して、公開されている動きのモデルデータセットとの差異をとることで、〝その人の骨格にとっての自然な動き〟のモデルをAIが生成するんだ。海外のテックベンチャーがトレーニングジムのために10年以上前に開発した技術だよ。〝その人らしい動き〟ってのは、自覚してない本人らしさのレベルまで、AIで自動生成できるんだ」
 肉体というアナログの聖域に生きているつもりのダンサーだった彼が、突然、マシンの中に組み込まれたようだった。
「そんなことをして、義足の会社になんの得がある」
「たとえばダンスのジャンプの着地からは、階段を何段か飛ばして下りて片足で着地したときの衝撃制御を学べる。他のダンサーをリフトする(持ち上げる)のは、重くて複雑なかたちの物を持ち上げるときの、足の動きを学べる。コンテンポラリーは、肉体のありとあらゆる動きと、あらゆる場所で止めることを、ダンスにする」
「それで、向こうのやつらは、よろこぶのか」
「ダンサーは、イマジネーションで普通じゃない姿勢を突然とるから、そういうモニターはありがたいんだよ。膝を落として床を滑るみたいな、無茶苦茶に負荷の大きい動きもする。コンテンポラリーのダンサーに使用感がいいAI義足なら、誰がどう使ったって不満なんて出ないさ」
 それでも、谷口の話はうますぎるのではと疑った。義足が高性能になっているというのはわかる。だが、ダンスに使う義足といえば、護堂森がくれた動画の義足のダンサーですら、短く頑丈なだけの棒のようなものを使っていた。
「義足を荒く使うんならメンテナンスも大変だろう。ずいぶん高くつくはずだ」
 練習ごとにメンテナンスが必要なようなら、収入がなくなった恒明が使うのは現実的ではない。
「モニターだから、メンテも無料だよ。もし払うとしたって、メンテ保険は、君が今見てた身体的デジタルツインみたいな最新技術よりずっと安い。デジタルツインで健康状態を常時監視して、異常を感知すると回復オペレーションに入るプランは、月額で3000ドルだ。こっちはメンテ保険に月額2万で入れて、メンテ費全額補償になる」
 円安が進んだ今では、3000ドルなら日本円で60万円を超える。別世界の話だ。もっとも、恒明の経済状態では2万円でも苦しいから、メンテ無料もお得だ。心が揺れている彼に、谷口がさらに売り込みをかけてきた。
「モニター用の義足には、製品版とは違うセンサーが入っていて、ネットからの監視でメンテナンスが必要と判断したら、すぐに代替品と取り替えてくれる。どのくらいでへたるかも確認したいらしい」
 恒明は、義肢ベンチャーのサイトに掲載されたプロモーション動画に目を奪われる。スポーツジムで、義肢の使用者が普通にランニングマシンで走っていた。映っているそのフォームは、義足側の足が重そうだが、それ以外は自然だ。
 だから、ダンサーとしての人生を取り戻せると、欲がわいてしまった。
「後から言っても、カネは本当に払えないぞ。あと、モニターを打ち切るんなら、最低3か月前には言ってもらわないと困る。義足があるつもりでステージの予定を入れたのに、突然引き上げるなんて言われたら、一緒にやるカンパニーやスポンサーに迷惑がかかる」
「わかった。その条件なら、モニター契約書に問題なく入れられるはずだ」
 そう言って、谷口が面白そうにかすかに肩を揺すった。すっかり乗り気になっていることを見透かされたようで、恒明は赤面した。

 ロボット義足をつけるのは、理学療法士が付き添ってくれた。
 義足は金属とカーボンのフレームをもち、2つのパーツにわかれていた。両腰から太ももを支える歩行補助具のような本体パーツと、そこから関節つきのフレームを伸ばして装着する義足部だ。まず、腰にベルトのような本体パーツが巻き付けられる。その本体に繋がった頑強なフレームの長さを調整し、義足部を膝関節のすぐ下から欠損している先に接続した。癒えて肉が盛り上がった足の切断面と義足の間は2センチほど空間が空いていて、そこに衝撃をやわらげるための充填(じゆうてん)材を詰めた。
 リハビリ室の壁に設置されたバーを掴んで、立ち上がってみた。思っていたよりずっとスムーズに立つことができた。リハビリ中、日常動作でも筋肉に負担を感じていたことが嘘のようだった。
 薄緑の清潔な制服を着た女性の理学療法士が言った。
「これは、いいですね。自動でフレームが姿勢を調整するわけですか。もう義肢の品質認証規格もクリアしてるんですね」
 恒明は、義肢ベンチャーの技師から名刺をもらった。望月利夫(もちづき としお)という、パーマをかけた長髪の太った男の肩書きは、主任研究員だ。
「腰のパーツに、昔の自動運転車みたいにレーダーを積んでいて、周囲の三次元データをとるんです。このデータにジャイロと速度センサーを組み合わせて、接近するものを感知してます」
 療法士が、望月の説明に感心したように自らの太ももを叩く。
「BMI(脳コンピユータインタフエース)義肢ではなくて、独立したAI義肢でこのパフォーマンスを出せるのは、いいですね。レーダー式なのに稼働時間も立派ですね」
「枯れた技術をうまく使って、いいものが安くできたんですよ。BMIだと、手軽な非侵襲式でも定期的に調整が必要で、企業努力ではランニングコストが下がらんってこともあって。AI義肢をユーザーと共生するように学習させたほうが、サービスが現実的な値段におさまったんです」
 恒明には、2人がしている技術的な説明はよくわからなかった。ただ、思ったより使用感が自然だったから、バーを掴みながら、ゆっくりと歩いた。うなるような機械音を響かせながらも、歩行は自然に行えた。
 右の太ももに重みを感じたが、動きは想像したより自然だった。腰の本体部分とフレームが、動作の〝おこり〟をセンシングして、恒明が意識する前に動きをアシストしてくれているのだ。ロボット義足はモーターと関節の数が多いため義足としては重量があり、生身よりも幾分か重いという。それでも、本体が腰を押して正しい動作をガイドしてくれることと、太ももを覆うフレームが体重を支えてくれるせいで、装着感は軽い。
 恒明が太ももを上げ下げしていると、望月が解説してくれた。
「AI制御で、腰の歩行補助具とフレームが自律して動くことで、ボディバランスが崩れないように誘導してるんです。そのAI義肢は、ユーザーである護堂さんのことを学習して、第二の右足として共生します。学習が進んだら、ダンサーの複雑な動きにだって、対応できるようになりますよ」
 AI技術の説明は、聞いても頭に入ってこなかったが、体験してみるとすぐれたものだと納得できた。
 その場でジャンプしてみる。重心の移動を大きく、上下動を激しくするほど、AIの蓄積が足りていないのか、イメージとの違和感が強くなる。だが、感触は悪くない。フレーム構造で義足にかかる重量を支えることで、義足が足を圧迫するのをやわらげて、痛みを軽減しているからだ。
「なるほど、共生ね」
 知能があるのだと思うと、試してみたくなった。新しい義足の具合を、何度も体重をかけなおして確かめる。そして、右足の義足だけで片足立ちになった。
 息を整える。怖い。けれど、踊るためには必要なハードルだ。片足立ちから、ゆっくりと、左膝をあげてゆく。もう存在しない右足には、彼が意識して動かせる自前の筋肉はない。そのかわりに義足のフレームが、腰のレーダーが感知した姿勢を修正するために、自動制御でバランスをとらせる。この義足に宿った知能が、恒明と共生するのだというのなら、追い詰められた彼の願いを読み取って欲しかった。
 預けた肉体の重みで、右足を切断した傷跡が圧迫され、フレームと固定バンドが軽く食い込む。左膝を体側(たいそく)のほうへ引き上げて、左足の踵を腰の高さまで上げる。今、右足に完全に体重が載っている。生身の肉体が、義足に支えられて宙に浮いていた。息が細くなる。呼吸を乱すと、姿勢も崩れそうだった。それを感知した義足が、フレームを収縮させて、決定的な転倒を防止する。体幹の筋肉が弱くなっているせいで、ちぎれそうな痛みとつらさを感じる。
 理学療法士が、まだ早いという顔で、補助に入ろうとするのを、手を伸ばして制止した。バランスできている。今、叫び出したいほど、うれしい。
 脚を慎重におろした。この金属とカーボンの義肢がダンスの心強い武器になるかは、生身の足と同じように体重を支え、あるいは地面を蹴ることができるかにかかっている。何回も深呼吸しても、胸から緊張のつかえがとれない。汗が背中にじわりとにじんできた。息を止めて、顔を上げた。 
 次は、生身の左足だけで立つほうを試すのだ。義足を装着した右脚を曲げて踵を右手で持ち、膝を上げてゆく。バランスを維持するための筋肉が、本当に衰えきってしまっていた。さっきの疲れが残っていて、身体が震える。
 Y字バランスをとるために、カーボン製の踵をしっかりホールドしながら、膝を腰から胸の高さに近づけてゆく。腰に巻いた本体の可動域が限界に達したため、途中でつっかえて右脚が上がらなくなった。恒明は、そのときようやく、首も治りきらないのに危ないことをしていると、怖くなった。
 足を下ろした。
 エンジニアの望月も、緊張から解放されて、大きく息を吐いた。早くも発見された欠点に、神経質そうに頭を掻いた。
「日常生活には十分な可動域でしたが、ダンサーさんには狭いってことですね。参ったな。直立した姿勢で胸に膝をくっつけようとすると、可動範囲を超えてますね。フィットネスの柔軟運動とかでも、このくらいの姿勢は前屈とかで体の柔らかい人ならとりますよね」
 恒明は、義足への期待がふくらんでいたので、正直に落胆を漏らした。
「これじゃ困る。ダンスの途中でフレームがこんなふうに引っ掛かったら、受け身のとれない姿勢のまま転倒する」
「レーダーユニットと義足がフレームで結ばれてないタイプもあります。ただ、傷跡に体重がモロにかかるので、慣れるまでそれなりに痛みますよ」
 痛みが怖くないわけではない。だが、恒明には、手本があった。
「痛むだけなら、そっちにしてくれ。義足で踊ってる先輩のダンサーは、最初は踊れないくらい痛んだってインタビューで言ってた。練習で、克服できたらしい」
 義足に体重をかける。これが優秀な義肢であることは明白だ。だが、恒明の欲しいものは、踊りのための義足だ。
 望月が、持っていたタブレットを、彼に見せた。
「こっちのタイプですね。レーダーユニットが小型で、義足はフレームで支持されていません。腰につけるレーダーと義足本体が通信する、ワイヤレスタイプですね。体重を支えるっていうより、衝撃をやわらげる機構を組み込みました。昔のシンプルな義足よりは、痛みは減ってるとは思いますけど、激しい運動をするならフレームタイプのほうが快適ですよ」
 提案された新しい義足は、本当にレーダーユニットが小型で、普通のベルトとかわりがなかった。そして、義足部分はフレームを排して、生身の足とシルエットがほとんどかわらない。フレームの金属のせいで人間の足より力強い今の義足と違って、表面は、肌の曲線を模したような黒一色の樹脂製カバーで覆われている。
「そうか。これで踊れるのか」
「AIを新しい義足に合わせて調整しないといけないから、2日ほど義足なしになっちゃいますけど、いいですか」
 この新しい右足と共生して、踊っている自分を想像した。首が完治して、踊れるようになることをイメージできた。それは、彼にとって、かすれて消えかけたものでも、希望だった。

 退院までには、結局、事故から4か月を要した。もう夏になっていた。激しい踊りはまだ禁じられている。
 それでも恒明には、いろんなことが手一杯だった。まず義足で日常生活を送ることが、苦闘だったからだ。望月が警告したように、運動の強度をすこしでも上げると、ダンスを踊ることなど可能なのかと疑うほど傷跡が痛んだ。医者にはまだ踊らないよう注意されているが、3歩も走れば苦悶に歯を食いしばって立ち止まる有様では、とうてい不可能だ。
 共生がまだ深まっていないせいで、右足のAIが期待外れの答えを出すことも、悩ましい。AI義足には、日常動作で転倒したりしないよう、足の踏み位置を勝手に補正する機能があり、これが悪さをするのだ。体に負担をかけないよう、ゆっくりした速度で踊りの脚の部分だけを確認する作業を毎日続けているが、共生義足をイメージ通りに踏み下ろせないでいる。というのも、ダンスでは、あえて不安定になる足の置きかたをして、重心を崩して体に回転力(モーメント)をかけることが、よくある。これをAI義足が勝手に補正して、安定する着地にしてしまう。たとえば、つま先を90度内側へ向けて右足を後ろに踏み落としたはずが、これを、つま先を前に向けた普通の足の運びにされてしまう。もちろん、こんなことをされては体の動きの流れが意図せず止まってしまって、踊りにならない。恒明は、苛立って「このクソ足」と毒づきながら、物覚えの悪いAIを教育するために、ゆっくりと何度も足をおろす。
 事故の前は、日常生活の中でふとしたときにステップを踏んだり、軽い空き時間に練習したりしていた。その時間が全部、共生義足の教育に奪われてしまう。いくつも新しい作業が必要になったことが、おっくうだった。それにも増して、不安と戦わねばならなかった。ジャンプのような危険とスレスレの踊りは、この勝手に踏み位置を変える義足を使うと、かえって危ない。いつまでも、失ったものを取り戻せないかもしれないのだ。
 退院から10日、生活を立て直すために仕事を探して、ようやく新しいアルバイト先が決まった。その間は、求人マッチングサービスで、近所に突発で発生した仕事を入れて日銭を稼いだ。それすらも、恒明の首の保護具と義足を見て断られるケースが半分以上だった。
 ようやく見つけたバイト先も、ブラック労働で評判の悪いチェーンの居酒屋だ。なにせ、店内を常にカメラ監視していて、店員の表情を解析することで勤務態度を自動分析している。AI画像認識で顔の向きまでチェックして、働いていない時間の給料を秒単位でカットするのだ。労働力を極限まで搾取することで、最低限の店員数で回しているから、勤務時間中はずっと激務だ。
 首が動かないよう保護する頸椎カラーはまだ外せない。だが、首に負担をかけない範囲で、ストレッチや筋トレは必要だった。日常生活では右足をかばいながら暮らせたが、踊りでは右足のまわりこそ鍛えなければならない。義足に体重をかける痛みも、義足に触れる肌がこすれるうずきも、一生慣れることなどないように思えた。
 そして、きつい仕事が明けた夜には、江戸川の河川敷で、理学療法士に作ってもらった柔軟体操と筋トレのメニューを繰り返す。
 堤防につくられた道路を一定間隔で照らす街灯が、真っ暗な河川敷(か  せん じき)を照らしている。転ばないように平らな場所を探す。鉄橋の下はコンクリート打ちだが、段ボールの家があったから、粛々と生活の邪魔にならない距離をとった。
 事故前に働いていたカフェを解雇になってから、再就職までの空白期間が長かったせいで、貯金はカツカツだ。義肢のモニターはあくまで義足のサポートが受けられるだけで、金銭収入にはならない。首が完治していないせいで、もっと割のいい仕事を見つけるのも難しい。
 自然と、恒明は、踊ることに戻ってきた。自分のために身体を動かすことだけは、誰に拒絶されることもなかったからだ。踊っている間は、失ったはずの右足が痛む、幻肢痛からも逃れられた。
「おれは今、どこまでできるんだ」
 練習しながら、何度も自分に問いかける。身体を動かしていないときも、ずっとイメージの中で踊ろうともがいていた。踊る自分を想像したときの脳内像を、今の右足が義足になった肉体に更新しなければならない。脳に、新しい身体感覚を教え直さなければならないのだ。
 過去の自分のダンスと突き合わせて、変わってしまったことを見せつけられるのは、拷問のようだ。それでも、毎日、日々のわずかな進歩を信じた。義足を軽く持ち上げて、体、足、手のポジションを確認する。気を抜くと勝手に足の置きかたを修正してしまう、共生義足をなだめる。
 踊りを取り戻すための自己レッスンにはバレエを選んだ。自分の骨格と筋肉に、残酷なまでに厳しく向き合うダンスだからだ。中学生の頃、コンテンポラリーをやりたいと父に言ったとき、バレエを必ず習うように指示された。それが、ダンサーにつきものである体のトラブルが起こったとき、土台を作り直すためだったかのように思える。中学から8年続けたレッスンを、鏡の前でのバーレッスンから本格的にやり直したかったが、無理なことはわかっていた。バレエレッスンを受ける費用が、4か月の入院のせいで重い。
 だから、技術を磨き直すための物差しとして、携帯端末のカメラを頼った。2メートルほど離して端末を置いて自分を録画し、音声で操作してすぐ映像を確認する。距離を置いてもわかるシルエットをざっと見て、気になったら画面に近づいてよく確かめる。右足が義足になった自分の骨格のために、筋肉をどう動かせば理想の速度と美しさに届くのか、何百回も基本の動きを繰り返す。自分のボディイメージとのずれを、必死ですりあわせる。
 今の義足システムでは、周囲の人やものとの位置関係を、腰のレーダーユニットが感知する。そして、その死角になる足元を、義足の内蔵センサーが補う。おかげで、右足の可動域はダンスに十分だ。だが、義足は生身の左足とぶつかりそうだと感知すると、勝手な判断で足の位置を決めてしまう。悩ましいことに、ダンスには足を捌(さば)きながら踊るテクニックがあるのに、AIが選ぶ足の適切な位置は、これと関係なく決まるのだ。そんな義足に踊りを教えるのは、正確さを要求されるバレエでは、神経が摩耗して気が遠くなる作業だった。だが、義足のレーダーと携帯端末のカメラを連動させると、動画をズームして手足の距離と角度を0・1ミリ単位で正確に測れた。生身にはない長所を実感すると、すこし愛着もわいた。
 それに、努力は実を結びはじめてもいた。AIが学習するより恒明が先に慣れることで、すこしはリードできるようになって、共生の道すじが見えてきたからだ。つまり、社交ダンスで男性(リーダー)側が踊りの指示を出すように、足に対して踏み下ろしたい位置を、筋肉のちいさな動きで指示するのだ。
 だが、恒明の苦労は、義足のリードだけではない。自分の身体の扱いにまだ四苦八苦している。義足は、筋肉でも腱でも骨でも繋がっていない、3キログラムもの重量物だ。右足だけに重りをつけたようで、事故前なら自然にできたポーズを確認するだけで、これまで使わなかった筋肉が酷使された。
 身体を動かすことが、苦痛に繋がれていた。まるで赤ん坊に戻ったように、身体が言うことをきいてくれない。イメージ通りにゆっくり踊ろうとしては、バランスを崩しかけ、義足が危険を感知する。転倒事故になると姿勢監視AIが推測すると、即座に腰の筋肉を電気で緊張させて、注意をうながす。体のあらゆる場所が痛んだ。赤ん坊があんなにも泣くのは、筋肉が足りていないせいで、なにをしても筋肉痛にさいなまれるからだと思えた。
 右足に繋がる筋肉を中心に、全身に無理が重なっていた。激しい運動というレベルにも到達できていないのに、耐えがたかった。それでも、1日にひとつずつ新しいことをして、進んでいる実感が欲しかった。恒明は、義足の右足に全体重を支えさせて、左脚を後ろにぴんと伸ばしてバランスをとる。肉体が、無機質な義足に活けられた花になったようだ。身体の揺れを感知して、タイツのように穿く義足用ライナーが、修正するよう電気刺激でうながしてくる。
 恒明は、姿勢に合わせて変形する小型ロボットだというシリコン製のライナーを、空気を抜きながら脚の断端まで穿いていた。そのライナーの脚の断端部の先には、太ももの筋電位を伝える端子でもある頑丈な接続用ピンが伸びている。このライナーピンをロボット義足のソケットと接続する。この接続も、重いロボット義足を脚に懸垂するため、5つも金具を使う厳重なものだ。接続部にかかる負荷は強烈だ。脚の断端と義足の間に緩衝用の充填材を詰めているが、それでも傷跡が押しつぶされるように痛い。義足側からも、装着後にソケットに取り付けたサスペンションスリーブを太ももまで引き上げて、ライナーとあわせて二重に固定している。これほど厳重に右足を縛りながらでなければ、今の恒明は踊れないのだ。
 かつて、彼にとって、挑戦とはひとつクリアするたび空への階段をひとつ上るような、断ちがたい麻薬だった。今では、肉体の限界と怪我への恐怖が、透明な天井としてよろこびを塞ぐ。前進しようとすることも、地べたを這いずることで停滞から逃れるためでしかない。
 練習の録画に使っていた携帯端末から、警告音が鳴った。AIの画像分析で、彼が脱水症状になりかけていると、警告が出たのだ。
 持ってきていた水筒から、水をがぶ飲みする。
 一息つくと、おのれの限界への疑いから生じた恐怖は、ピークを過ぎていた。
 かつて谷口は、人間の脳をただの内臓だと言った。歓びも悲しみもその内臓の働きでしかない。実際、しっかり養生(ようじよう)して内臓を休めてストレスをかけないよう気をつけたおかげで、精神のコンディションは、決定的には崩れなかった。
 時間が必要だった。生活動作のひとつひとつにも、気を払わなければならない。幻肢痛すら、まだ消えない。脳という内臓が、今の身体に慣れるまで、ゴールが見えない鍛錬を続けるしかないのだ。
 夜の鉄橋の上を、トレーニングを始めて何度目かの電車が通りすぎた。人間は脳という内臓の働きによって可塑性を保証されている。努力を止めなければ、可塑性というレールの先にたどり着くべきゴールがあると、信じたかった。

 頸椎の完治が告げられ、頸椎カラーを外せるまで、さらに2か月かかった。経過を観察してダンスを完全に元通り再開するまでは、もう1か月待たねばならなかった。
 義足での日常生活にはすっかり慣れた。空き時間のほぼすべてを費やして、義足で踊るための基礎トレーニングを執念深くしたせいか、日常動作には支障がなくなった。おかげで、居酒屋のアルバイトもすこし楽になった。もう一度入院にでもなったら浦安に借りているアパートを引き払うしかない、ぎりぎりの貯金水準だけは脱した。ただ、母とはまだ会えていない。今の苦しい状況を知られれば、ダンサーを諦めろと言われるだろうからだ。そのときは、最後にはわがままな子どものような感情的な反論をするしかなくなる。
 ロボット義足のモニターとしても、進展があった。AI義足を辛抱強く教育したことが評価されたのだ。恒明は、義足の技術者から、ダンスの練習を計測したいという申し出を受けた。場所は、地下鉄新宿線と大江戸線の森下駅近くにある、企業文化支援(メセナ)で建てられた古い芸術施設だ。両国や清澄白河に簡単に出られる下町には、彼もなじみが深い。コンテンポラリー・アートの振興を図る東京都現代美術館(Museum Of contemporary art Tokyo)が近く、芸術イベントに協力してくれる地域であるため、ダンスの公演がよく開かれているのだ。施設は、今は休ませてもらっているカンパニーで、何度も練習場として使ったところだ。
 施設内のスタジオのひとつを、今日は2時間借りているという。中は板張りで30坪以上あり、走り回るには狭いが、ひとりで踊るには空間を持てあますほど広い。壁面は、撮影した映像をプロジェクターで投影できるよう、白塗りの殺風景なものだ。とはいえ、鏡のようにリアルタイムでポーズや動きのチェックをしたり、ドローン撮影で鏡ではわからない角度の視点像を見られるから、練習には役立つ。
 恒明は、いつも通りに柔軟をこなし、練習を始める。今日の練習前に、恒明の義足には新たなセンサーが取り付けられた。
 望月はスタジオの隅にノート型端末を持ち込み、義足からのデータを取り込んでいる。せわしなく後頭部を掻いていた。
「モニターさせていただいて、義足AIの護堂さんとの共生の深め具合は、期待以上でした。内蔵のレーダーと運動センサーの組み合わせで、ロボット義足は主観をきちんと作って選択してますね。ただ、もうちょっとダンス中の学習データの蓄積を分厚くしたいんで、次からの練習中は常に外部から義足をモニターしたいんですよ」
 望月は冷たい床にあぐらをかいて、膝の上に端末を置いている。ダンスの練習ではスタジオから机や椅子を借りないためだが、生粋(きっすい)のデスクワーカーにはつらそうだ。
「谷口さんから、骨格データと動きのモーションデータを使って、いろんなアプローチの機械学習で、その人の最適な動きのモデルを作るって話は、聞いてると思うんですが。既存のデータセットって、義足の人からとったデータじゃないから、義足の人の姿勢が健常者と微妙に違うことを反映してないんですね。動きだって、骨や筋肉で生身部分と繋がってないから、すこし違うんです。健常者の動きのモーションデータセットを監視AIとして学習に使うと、学習効率が悪化することはわかってるんです。けど、義足使用者のハイエンドのデータは極端にすくないんですよ」
「ハイエンド?」
「最上級にAI義足を使いこなしてるくらいの意味です。たとえば健常者だと、ダンス人口は日本人全体の13%ですが、全人口の0.08%しかいない義足使用者に限ると、さらにその5%です。つまり、義足でダンスの上手い人はとても貴重なんです。本当の義足使用者のハイエンドだったらパラアスリートなんでしょうけど、スポーツ用義足は競技に最適化しすぎて一般の義足と仕組みから違うんで、データを日常生活に流用できませんからね。だから、ハイエンドの動きのモーションデータセットが欲しいときは、学習効率が悪くても健常者のやつを調整して使ってたんですよ。けど、ここに高度な義足運用のデータを増やしてくれる護堂さんがいるわけです」
 早口でまくし立てられても、恒明はAIのことは門外漢だ。結局、何をすればよいのかもわからなかった。
「わからん。なにか大事なことを言ってくれてるのはわかるけど、望月さんの話は難しい」
「えっと……。われわれが何をしたいかっていうと、練習のときに、ドローンを飛ばして自動撮影させてほしいってことですよ。それが何のためかっていうと、義足用の独自モーションデータセットを作るためのデータが増えるんです。データセットが豊かになると護堂さんに何の利益になるかっていうと、義足装着者の動きのデータの蓄積が、AIの学習に反映するんで、複雑な動きでもだいぶ改善しますよってことです」
 早口で言いたいことを言う。望月は、恒明と話すとき、いつも汗をかいて緊張しているのだ。
「義足で、なにか要望はありますか?」
 望月に意見を言えるようだったので、率直に返した。
「義足のAIに、最低限でいいからダンスを覚えさせておいてくれ。踊ってる最中に、右足に勝手なことをされたら、本当に危ない」
「ああ、なるほど。姿勢の危険度の判断に、幅を持たせたいという要望ですね。僕らの開発チームでは、コストにあうメリットが見出せなくて切り捨ててた問題でした。護堂さんの義足との共生のデータから、そっちの学習を深めるよう計算資源を振り分けてみます」
「あとは、義足を軽くできないか? データとしては、生身と変わらないってことはわかってるんだ。けど、体感では重すぎる。義足はこっちがリードしてやらないとわかってくれないから、重いぶんだけ体力を削られる」
 見てくれと、恒明は、左脚を軸脚にして、両足で軽やかに床を蹴る。左足をつま先立ち(ポワント)に、右脚は膝を曲げて軸脚の膝裏に義足のつま先をつけた三角形をつくり(パッセにして)、回転力を保持する、バレエの回転(ピルエット)だ。シンプルな踊り(パ)だが、義足に余計な動きをされると回転が乱れるから、右膝は常にリードのため緊張している。義足がすっぽ抜けそうで、回転を増やすのも無理だ。
 恒明が回り切れたせいか、望月がいぶかしげに眉根を寄せている。だから、次に、右の義足を軸脚にして回って見せた。回転中の不安定さを回転力(モーメント)で補助するために必要な軸脚の繊細な判断に、ロボット義足が対応しきれず、姿勢がぐらつく。恒明の全身で、右足だけがダンスをわかっていない。義足をコマの軸のようにして回転できる、可動部がない棒状の義足を使ったほうがよいのではないかと疑うほどだ。
 望月が、今度はうなりながら腕を組む。
「重量は、ソフト面よりも改善がむずかしいですね。予算がかかりすぎるし、強度設計のやり直しなんかで時間もかかりますからね」
 何度か試して、恒明は一度練習を中断した。
「難しいのは、わかってるんだ。でも、義足は、性能がよくても骨や筋肉で繋がってるわけじゃないことも、知ってほしい。重さ以上に、こう、振り回される」
「一体感が最大の問題なら、解決策は、可動域の狭いフレーム型ですね。それがダンスに不適だったわけですから、今の義足にダンスを学習してもらうのが最短の突破口ですよ。ロボット義足は、護堂さんの踊りに反応して、自動で足首と指を動かしてますよね。これ、間違いだとしても、AIが共生するため学習した結果なんです。ボディバランスの補助になる動作は、学習が進むと改善するんで、いい一体感のところが見つかってゆくはずですよ」
 その言葉を信じて、恒明はもう一度、踊りの動きを確かめてゆく。自分の身体に染み込んでいたはずの基本から、違和感が消えない。情報の受け渡しにおいて意味を伝える、約束ごととしてのプロトコルを、今の体で整理できていないせいだ。ダンスが人間性を伝える仕組み、谷口の言うところの人間性のプロトコルは、人間が言葉を獲得する前からきっとあった。一つ一つ、伝統に根ざしている踊りのプロトコル(正しい手順)を、今の自分の体で踊れるように練習を重ねる。
 恒明のダンスの表現は、その土台の上に築かれている。だから、遠いゴールに向かって、自分の身体と対話するように、何度もポーズや単純な動きを繰り返すしかない。
 そんな姿は、他人からみれば退屈なものだったのかもしれない。
 望月が、モニターを見ながら言った。
「装着部のライナーは、衝撃を予測すると通電して厚みを増すようになってますが、クッションは十分ですか。今の護堂さんみたいにジャンプしたりすると、さすがに痛いはずですが」
 そのとき、防音のスタジオの入り口が開いた。
 そこにいたのは、黒いトレーニングウェアを着た老人だった。顔は老けて、髪は白髪だ。だが、その肉体は細身ながら鍛えた筋肉がよく張って、動きはしなやかだ。74歳とは思えないほど精力的にみなぎっていて、年老いた虎のような、ひりついた空気を出している。護堂森、恒明の父だ。
 会うのは、義足のダンサーの映像を置いていって以来だった。恒明が驚いていると、父が手を打ち鳴らした。その音が、大きく響く。
「恒明、リハビリかダンスの練習か、曖昧になっているぞ。技術を身につけ直すなら、課題をもっとはっきりさせろ」
 中学生の頃、恒明を直接指導しないことを含めて、踊りの骨格を最初に形作らせたのは、このベテランダンサーの父だった。
 護堂森が、速めのリズムで手拍子を叩きながら、動きの指示を出す。
「おまえの最初は、バレエだったな。本気で動いてみろ。──右脚を軸に、タンデュから、ジュテ、ピルエット・アン・ドゥダン!」
 恒明は、今の身体でも不安なく正しくできる、脚をすっと伸ばして両膝の裏と両踵をどちらも合わせた1番(ファースト)ポジションをとる。両脚に体重をかけた状態から右脚に軸を移すと、踵を浮かせた左足の指で床をなめるように横に差し出し、スムーズにつま先を立てる。思い通りにならない義足の右足にばかり気を取られていたが、生身の左足の踊りが目も当てられないほどもっさりしていた。基礎のレベルの低下にショックを受けて、横に、後ろにと、同じように動きを見せる。続いて、今の動きよりさらに遠くへ脚を動かして、左足を軽く床から浮かせる、ジュテだ。後ろに左足を出して動きの最初のポーズをとり、すぐに、さっき失敗したものより難度を落とした、右脚の義足を軸にした基本の内回りの回転(ピルエット・アン・ドゥダン)に移る。
「軸脚がふらついているぞ。生身の左足が重いからだ」
 護堂森が、恒明が何ひとつ満足にできないことを確認するように、矢継ぎ早に左足の質が問われる踊りを要求する。
 一通りの動きを見て、自信がズタズタになるほど、容赦なく課題を指摘された。リズムに乗ることなど不可能なほど生身の踊りが遅く、しかも不正確だ。次は技術ではなく表現を見ると、床に座るように指示された。言葉のイメージを、身体の動きで表現する訓練だ。
「地面から、命が燃え上がるように」
 スタートを告げる手拍子が、音高く打ちならされる。恒明は、体の動きすべてに意味を込めて、コンテンポラリーを事故以来初めて本気で踊る。座った状態から身体を丸めて、種が固い殻を破って芽吹こうとするように、背中を弾(はず)ませる。首に負担をかけないように頭を振り、肩甲骨が双葉になって太陽を目指し伸びるようにゆっくりと身体を引き上げてゆく。
 その動きの土台になる足が、義足の右足が思ったように床を滑らない。義足が重いからだけではない。力のかけかたが、滑るという目的に合っていなくて、ガクリガクリと床に引っかかるのだ。
 ポーズをとって静止した恒明に、護堂森が評価をくだした。
「気持ち悪い動きだな」
 その客観的評価は、自覚はあっても、胃にずしりと重かった。護堂森こそが、恒明にとって、ダンスの始まりだったからだ。
 前衛で先端的なコンテンポラリーダンスに最初に心を打たれたのは、中学生のときに見た父のダンス映像だった。理由のわからない熱気に、脳髄が縛られた。価値を、目から直接頭に叩きつけられた思いだった。少年時代のこの憧れが、彼をコンテンポラリーに導いたのだ。
「重力と足の関係は、立つことだけか」
 その父が、新しく立ち上がろうとしている恒明のダンスを、そう評した。義足のデモンストレーションにはなっていたからだろう、望月が、護堂森にくってかかった。
「何が悪いっていうんですかね」
 護堂森は容赦がない。
「その大仰(おおぎょう)な右足だ。その足だけが、筋肉の拮抗ではなく、骨格の構造で立とうとしている。恒明、生身の左足だけで立ってみろ。骨だけで立っているか? 違うだろう。それなのに、その右足は、構造で体重を支えられる場所と角度を選んで、勝手に動く。そんな不自然な足があるか? だから、ダンスが不自然なんだ。当たり前のことじゃないか」
 恒明にとっては、そう内心思っていたところを容赦なくつく、打ちのめす一言だった。
 だが、技術に一切忖度(そんたく)しない芸術家の舌鋒(ぜつぽう)に、技術者が反発した。
「ちょっと待ってください。まず今日は、忙しいところ、AI義足を使ったダンスを見てほしいという谷口からの要望に応えてくださって、ありがとうございます。でも、そんな厳しい基準をいきなり持って来られても困りますよ。われわれの説明も聞いてください」
 望月の話を聞くに、谷口が、義足を使ったダンスを護堂森に見てもらうことを計画したのだという。コンテンポラリーを担うダンサーのひとりが、こんな話を引き受けてくれたのは破格の厚意だ。だが、74歳の父は、時間をかけて丁寧に相互理解を深める仕事のしかたをしてくれなかった。
「ダンスは第一印象が全部だ。公演に来た観客に、いちいち言葉で説明はできん。観客は、目で見たものしか持って帰らないし、ダンス公演の価値はそれで判断される」
「公演のことだったら、谷口さんが考えますよ。僕から技術者として言わせてもらうと、骨格構造で立たせるなと言われましたが、ロボット義足ってのはですね。何時間も動かしっぱなしでも焼き付かず自然回復する筋肉じゃなく、モーターで動くんですよ。常時緊張なんかさせてたら、部品寿命は半年もなくなる。バッテリーのもちだって最悪だ。そんなメンテナンス性が悪くて耐用年数も短い足、誰も使いませんよ」
 望月は、AI義足の技術にプライドを持っている。谷口が席を外しているから、護堂森と技術者の間を繋ぐ人間がいない。
「それがダンスになんの関係がある? 作ってるやつがその程度の意識だから、その義足は〝踊れてない〟んだ」
「お言葉ですけど、動作モデルとの比較スコアだって十分です。90%以上の確率で、人間の動きと差異を判別できませんよ」
 恒明の感覚では、護堂森のほうが正しい。だが、感情は、技術者の理論とデータに根ざした反論に、勇気づけられていた。彼はハンデキャップを負っても、到達するゴールが劣ったものにはならないと信じ、科学技術に希望を見出したからだ。だから、ダンスで、技術チームにモニターの肉体と感性で価値を提供した。
 だが、今、思い知っていた。それは、恒明の踊りの質が低ければ、義足技術にも、ダンサーや身体表現の専門家からは厳しい評価が与えられるということだった。
「親父の指摘が、もっともなところはある。おれは、いつの間にか、リハビリのテンポで踊っていた。ステージ上のダンスが要求する速さに、まったくついてゆけていない。けど、ひとつずつ丁寧にクリアしてゆけば、限りなく100に近づけられる」
 ダンサーとして当たり前の速度の動きを、すこしこなしただけだった。だが、インナーマッスルをはじめ、全身が筋肉痛を起こしはじめていた。その衰えぶりを、直視しなければならないことが、つらい。
「10%もの違和感があって、気が狂いそうにならないか。もっと危機感を持て。恒明、その足が踊れないままなら、おまえが踊らせろ。そんな足に踊らせてもらうつもりでいたら、いつまで経っても、おまえの表現にならんぞ」
 この程度で息があがっている恒明には、反論すらできない。今、彼のダンスはとうていプロを名乗れる質ではない。護堂森の指摘した通り、踊れているだけで頑張っていると、自己評価のハードルが下がっているのだ。
「恒明、今のおまえは違和感の塊だ。突っ立ったままなら、それなりに見えるだろう。ロボット義足の性能試験なら十分だな。だが、そんなものは、おまえの踊りか」
 ロボット義足が目立ちすぎているし、そうなってしまうほど右足以外のクオリティも低い。残酷な事実だ。だが、右足を失った恐怖から立ち直って踊り始めたことも、死に物狂いの努力も、全部否定されたようだった。指摘を丸呑みすると、立ち上がれなくなりそうだった。
「違和感があるのは、親父の目が慣れてないだけだ」
 もう10分も踊れば、違った見え方のものを引き出せてくると思っていた。
 だが、護堂森は、自分の感情と意思に、限りなく率直だった。
「立ち姿だけでカネがとれるのが、一流のダンサーだ。そうなってないってのは、義足に合った身体表現が、身についてないんだ。片足だろうと義足だろうと、姿にあった人間性の発露があって、美があるはずだ。なのに、おまえのダンスはそれを伝える入り口にも立ててない。おまえが、今の身体と向き合っていないから、こんな違和感の塊になる」
 わかったようなことを言われて、全身の皮膚が、怒りで粟立(あわだ)つ。
 だが、その感情をぶつける言葉をもたなかった。長い鍛錬で築いた美意識までは、足を失ってもなくしていない。中学時代、ダンスのプロを志した恒明は、父に「コンテンポラリーは自由だからこそ、身体表現に対する認識が問われる」と教えられた。そのときは、何を言っているのか、よくわからなかった。おとなになって、彼の脳という臓器が理解している。今の恒明のダンスは、評価されるレベルにも達していない。
 護堂森が、床に倒れ込んだ。そして、さっきの恒明がやったように、背中を弾ませ、しなやかな生命が芽吹くように上へ上へと身体を起こしてゆく。よどみのない筋肉の動きで、脊柱を若くやわらかい茎として立ち上がらせる。
 表現として、説得力があった。
 ひとたび踊り出せば、見る者に完全に年齢を忘れさせる護堂森が、彼をうながした。
「転んでみろ、恒明」
 首へのダメージを恐れて、手をつきながらも、床に倒れ込もうとする。転倒した肉体と床の関係を表現しようとして、膝を引く。右膝の義足スリーブの素材がこすれて、床に引っかかった。脚が引っかかるから、かわりに蚯蚓(みみず)がのたくるように床で回転した。見下ろしている父と、目が合った。恒明は、床に足をすべらせるというダンスでは当たり前の動作を、今の肉体でどう表現するのかも考えられていない。無様なほど、頭を使えていなかった。
 羞恥に身を焼かれて、叫び出したいほどだ。悔しかった。倒れること、立ち上がること、足を滑らせること、すべてがダンスだというのに。
 今の恒明は、義肢のデモンストレーターでしかない。彼が再びダンサーになるには、右足と共生しながら、自分だけの表現を創り出さねばならないのだ。

 そして、恒明にとっては、身体と向き合う、暗い深海に潜るような模索が始まった。
 言語にならない、言語以前からあっただろう踊りという表現手段を、もう一度、組み立て直さなければならなかったからだ。
 いつかまた公演に立つどころではなかった。ありとあらゆる動作を、見直すところからスタートした。護堂恒明というひとりの人間のダンスを、土台からもう一度、構築しなければならない。
 それでも、ダンス仲間の前から姿を消すわけにもいかない。コンテンポラリーダンスは狭い世界だ。狭く深い世界だからこそ、ダンスカンパニーで一番活発な年代層だろう20歳前後の大学生ダンサーと27歳の恒明で世代が違うほど、流れも早い。自分のダンスを獲得するのに5年かかったら、同年代のダンサーとの関係は断たれてしまう。人の繋がりを失えば、発表の場である舞台も遠くなる。
 ずいぶん久しぶりに、事故前から所属しているカンパニーの練習後の飲み会にやってきた。恒明の義足姿をみんな見たことがなかったせいか、居酒屋に集まったダンス仲間は盛り上がっていた。義足でどう踊れるかに興味があるようだった。
「その足、むちゃくちゃ格好いいっすね」
 恒明はカンパニーでは影響力があるダンサーだった。半年ほど時間を空けても、寄ってきてもらえる程度には思われていたようだった。
 100年前から業態がほとんど変わっていないような、揚げ物と枝豆と鮮魚と、申し訳程度にサラダを出す、ごみごみした居酒屋が、いつもの打ち上げの場所だ。恒明がこのカンパニーに入ってから、5年間、練習の後によくここに来た。座敷席なので、みんなは靴を脱いでいるが、義足の恒明は逆にビニールでロボット義足を包んで上がった。
「日常生活には十分だ。踊るのは、まだ相当練習がいる」
 仲間が、無断でべたべた義足を触ってきた。酔っ払ったみんなは、公演の話をしている。恒明には出番はなかった。
 ダンスカンパニーの代表の福島が、遠くの席からこちらにやってきた。
「元気そうでよかった。見舞いには、谷口が行ったんだったな」
 福島は、電子たばこを指にはさんでいる。気鋭の振付家兼主宰の彼は、会社員をしながらこのカンパニーを経営している。ダンスでは食えないし、皆そのことを知っているから、飲み会はいつも割り勘だ。
 恒明は、足りないものばかりでも、美しいものや活力を追いかけるこの集まりが、好きだった。
「谷口には世話になってる。この義足も、谷口の友だちの会社から借りてる」
 福島が、恒明の表情を確かめながら、言葉を押し出した。
「谷口が、自分のダンスカンパニーを作るって、知ってるか?」
「カンパニーって、何をするんだ? 谷口は、理屈は好きでも、たいして踊れないし、振付家や演出家志望でもないだろ」
 谷口は、名門大学出身だが、体が思ったように動かなくて理屈を表現にできないタイプだ。しかも、30代半ばになっているが、演出や振り付けを自分で作るタイプでもなかった。身体を使う集団らしい野蛮な活力があるカンパニーの中では、いつも盛り上がりの中心から離れたところで、あぶれ者と話をしていた。
 だが、福島は、谷口について、恒明とは違った感想があるようだった。彼が大きく息をついた。
「谷口は、自分のカンパニーにおまえを呼びたくて、義足を世話したのかもな。おれは、義足のダンサーをどう舞台に上げるかアイデアはないが、あいつはあるんだろ」
 それだけ言って、福島は、立ち上がって、舞台の話をする仲間のところへ行った。恒明は、おのれの義足に視線を落とした。福島は、谷口のカンパニーを薦めたのと同時に、恒明を戦力外だと言ったのだ。
 カンパニーの中心が去ったあと、自分に話しかけてくる者が誰もいなくなったことに気づいた。義足を見物するように、一通り挨拶に来ると、みんな去って行ったのだ。
 しかたなく、隣にいた人に声をかけた。見慣れない、同年代くらいの清潔感のある女性だった。誰かが女性をカンパニーの飲み会に誘うということは、しばしばあった。艶やかなストレートの黒髪を背中まで伸ばした彼女が、恒明に笑いかけた。
「皆さん、すごい活気ですね」
「練習の後は、みんなテンション上がってるんだ。話があう仲間だって、コンテンポラリーだと、特別な場所にしかいないからな」
 恒明は、コンテンポラリーの先鋭的な身体表現は、踊るロボットがありふれている時代にこそ、人間の奥深さを掬(すく)い取る可能性があると思っている。だが、そうした身体表現の追究を楽しみたいダンス好きは、少数派だ。
「コンテンポラリーダンスって、おもしろいですね。自分は、清澄白河駅のアートウォークでチラシをもらって劇場で初めて見たんですけど、なんか、言葉にできない感じで」
 感じのいい女性だと思った。カンパニーの誰かに誘われたのかもしれない。筋肉が乏しく、ダンサーの身体ではない。
「誰にとっても、簡単に言葉にできるものじゃない。コンテンポラリーは、範囲が広いんだ。新しめの前衛的なダンスは、ほとんどがコンテンポラリーみたいなもんだ」
 雑な分類だが、曖昧なまま踊っているダンサーはたくさんいる。恒明も、踊りを学ぶほど引き出しが増えて、だんだん区別がつかなくなっていったひとりだ。
「とは言っても、おれは、見ての通り、しばらくは舞台に立てないんだけどな」
 初めての場に興奮している様子の彼女は、恒明の義足にまだ気づいていなかった。
「わたし、ここの人に、練習を見に来ていいよって言われて、お邪魔したんです。恥ずかしいんですけど、最近になってからダンスが好きになってしまって」
 誰かが誘ったようだった。しかも、彼女をここに残して、仲間で盛り上がっているらしい。
「おれは、このカンパニーで世話になった護堂だ。君を呼んだヤツは誰だ?」
「有田さんというかたなんですけど、向こうで楽しそうにされてますね。あ、わたし、川上永遠子(とわこ)です」
 秋らしいブラウスの上にベージュのカーディガンを羽織った彼女は、やわらかいスカートが乱れないように端正に正座している。箸をきれいに揃えて箸置きにそっと置いた。彼女のしぐさは隙がなくきれいだ。いかにも育ちがよさそうで、享楽的な有田は、面倒がったのかもしれないと思った。
 義足に目をやって、我知らず、身を縮めていたおのれと、初めての場でも揺るがない彼女の立ち居振る舞いを比べてしまった。そんな自分のことが、情けなく思えた。
「ダンスの練習は、見てて面白かった?」
 彼女の顔がすこし赤らんでいた。アルコールが入っているのだろう。彼女が、手を太ももの脇につくと、すこしだけ恒明のほうに向き直った。
「面白かったです。最初からずっと見てたわけじゃないけど、ダンスの人たちって、動きを考えながら振り付けするんですね」
「振付家によるかな。ここの福島は、即興性に身体の本質があるってタイプなんだ。もっとガチガチに作り込む人もいる」
 ダンスの話をするのは楽しい。ダンスにどっぷり漬かった人間同士の話もいいが、初心者に話すのも新鮮だ。
「護堂さんは、どういうダンスを踊るんですか?」
 事故の前なら、気分がよければ店の前で何か披露したかもしれないし、悪ければはねつけたかもしれない。ただ、今夜はどちらもできなかった。
「事故で義足になって、ダンスを新しく作り直さなきゃいけないんだ。今は、これなら踊れるってものを、探してるところだよ」
 ようやく義足に視線を落とした彼女が、顔色を変えた。
「ごめんなさい」
 頭を卑屈にならない程度に下げた。背筋を伸ばしたまま、頭をすっと下げて、しっかりと謝罪の意思をジェスチャーで伝えてから上げる。ひとつひとつの所作に、雑さがない。
 彼女が美しいものに見えた。所作は、違う身体をもった人間同士が、人間性を伝えるためのプロトコル(通信手順)だ。一定の約束ごとが共有されているから、お互いの人間性が伝わる。その内実を詳細に理解していなくとも、恒明の脳はそれを好ましいと判断した。
 茶色い瞳と目が合ったから、恒明は肩をすくめて唇を笑みのかたちにする。
「気にしなくていい」
 彼女が目元をゆるめた。その安堵した表情を見て、薄化粧の彼女が、思っていたよりやさしい顔をしていたのだと知った。
 それでも、彼女にとっては、楽しんで飲むには居心地が悪くなったのだろう。落ち着いたピンクのマニキュアをほどこした手で、脇に置いていたバッグを膝に乗せた。
「思ったよりも、酔ってしまっていましたね。そろそろ帰ろうと思います」
 彼女が席を立とうとする。アルコールのせいか、足下がすこし怪しかった。
 恒明も、義足をついて立ち上がる。
「駅まで送るよ。おれも、そろそろ帰りたかったところだ」
 福島に割り勘の参加費を、電子マネーを転送して支払った。彼女も、有田にあいさつをしたい様子だった。
 なじみの店から出ると、薄暗くもなじみ深い街が迎えてくれた。福島のダンスカンパニーには、芸大を出てからずっと世話になっていた。深川は恒明の青春の町だ。古い引き戸を開けて、永遠子が店外に出てきた。
 秋も深まり、夜風はすこし肌寒かった。
 彼女が、手のひらを開いて自分の顔に向ける。腕輪型端末のカメラが持ち主の顔を認証して、手首と中指の指輪の間に、ホロディスプレイが展開される。開いた手のひらに、周辺地図を表示していた。
「駅まで案内くらいできるよ。おかしなことはしないから、信用してくれていい」
 彼女が、開いていた手を握った。画面が自動で消えた。
「それでは、お願いしちゃっていいですか」
 いい返事をもらって、恒明は清澄白河の駅へと歩き出す。義足の足裏に貼られた靴底(ソール)が、しっかりと道路をとらえている。恒明の歩くペースを気にするように、彼女が義足をちらりと見た。
「だいじょうぶだ。とっくに慣れたから、普通の速さで歩ける」
 人気(ひとけ)はなかったが、街灯の下で夜の道路は明るい。今日会ったばかりで、お互いなにも知らないから、会話はない。だが、その沈黙が嫌ではなかった。恒明にとっては、背筋をきちんとのばした彼女が、軽やかに腕を振って歩く姿が、彼女が持つ恒明への興味を伝えてくれている気がしたからだ。
 速度を合わせて心地のよい距離感になるよう、お互いが自然とペースを調整していた。
 彼女の目に自分がどう見えているだろうと思った。恒明は、踊ることでしか自分という人間を伝えられない。そして、「護堂恒明はどういうダンスを踊るのか」という問いに、答えていなかったことを思い出した。
 背中を押されたように、恒明は、歩く足の一歩を大きく弾ませて前に出た。そして、驚く彼女に振り返った。
 共生義足を信用しきれず、ジャンプのような危険で大きな振り付けを避けてきた。右足を失った自分の表現を、いまだ構築できていなかった。だが不安と、変わってしまった自分への不満を、振り切るときは、今なのかもしれない。
「今のおれが、どう踊るのか、ちゃんと答えられてなかった。ちょっとだけ、見てみてくれないか」
 それは、ただの衝動だった。なにという理由はなく、夜空がただきれいだったから、そうしたくなっただけかもしれない。
 だが、今、心が跳躍したがっていた。高く、遠く。
 恒明は、無人の街路で軽く助走をとる。そして、共生義足で踏み切った。大きく、重力を振り切るように、伸びやかに空中で身体を反(そ)らす。左足で着地すると、アスファルトから、舞台とは違った重い反動が返った。それでも、体幹の力を絞って、それをこらえる。ダンスは、優雅に見せようとするほど、隠れた場所を酷使する。殺しきれなかった勢いのまま、義足で大きく一歩を踏み出す。
 そのとき、恒明がイメージした完璧な位置に足を踏み下ろし、ロボット義足が再び地面を蹴った。再び身体が浮いた。軸脚を回転させて、軽やかに空中で振り返る。
 生身の左脚一本で、完璧とはいえない着地をする。共生義足はまだ、着地のとき、右足を美しくつま先までのばすことまでは、学んでいなかった。
 彼が全身で表現するのは、鳥が羽ばたいて飛び立つさまだ。それは、重力に対する、果敢な抵抗だった。護堂恒明の肉体は今でも軽いと、声にならない叫びを宿らすように、力を込める。傷ついた鳥がのたうちながら空を目指すように、ステップを踏みながら身体をよじる。上体は再び空を舞うことを願いながら重力に押さえつけられて、下半身は重い荷物を背負ったように跪(ひざまず)く。
 一節の振りが終わったとき、恒明は、彼女の前に頭を垂れていた。それは、気持ちのままに踊ったのに、まるで鳥の求愛のダンスのようだった。恒明は、身体に自分の気持ちを教えてもらった思いがした。30秒にもならない踊りで、心臓が跳ねるように胸の中で暴れている。
 顔を上げて、息を整えながら、彼女の顔を見る。
 彼女が、興奮に大きな目をいっそうまるくして、顔を赤くしていた。そして、いっぱいに力を込めて、拍手してくれた。
 長い拍手が終わって、彼女が祈るように手を合わせた。感情のやり場が見つからないように、合わせた人差し指を唇にあてて、目を閉じる。
 激しい鼓動が止まらないまま、恒明は立ち上がった。彼女も、きっとそうなのではないかと思った。
 恒明は、そうするのが一番適切なのだと、導かれるように、彼女に手を差し出した。目を開けた彼女が手をとった。身体がまるで正しい答えを知っていたかのように、触れ合ったとき、不思議と納得感があった。
「また会ってほしい」
 そう恒明は言った。今日会ったばかりだが、こんな感情を覚える相手を次はいつ見つけられるかは、わからなかった。
 彼女が頷いてくれた。何か、自分にとって大切なことが、始まったように思った。人を好きになったことがないわけではないが、きっと自分にとってこれが特別なことだと感じられた。

 彼女は、駅前から自動運転のタクシーで帰った。
 SNSで連絡先をもらって、端末でメッセージを送った。翌朝、スムージーと小さなパンの朝食の写真が送られてきた。文化が違うと思った。恒明は、朝は完全栄養食のエネルギーバーと牛乳とプロテインで済ませている。こちらが何もしないのもどうかと思って、エネルギーバーの写真を返送する。
 練習にも、新たな気分で取り組めた。これまでは、勝手に足の位置を決める共生義足を信用できず、義足に体を預けてリスクのある動きに挑戦できなかった。その壁を、跳びたい欲動が不安を超えることで、乗り越えた。あの夜の跳躍が、ひとつの達成だったのだ。
 数日もすると、前と同じ森下のスタジオで、義足のモニターとして技術者の前で踊る日になった。今回は谷口も来ていた。
 自然な上下の動きを意識しながら、曲線的に伸び上がるように踊る。護堂森の指摘を、自分なりに噛み砕こうと苦闘していた。だが、義足の動きが、まだ直線的で固い。どんなに足先を意識しても、右脚の膝から先は、AIが制御するロボット義足だ。気持ちは届かない。筋肉のように鍛えることもできない。
 白い壁面に投影された、自分の踊りのリアルタイム映像を見ながら、進歩を確認するように、ひとつひとつの動きをなぞる。固いロボット義足に支えられている恒明の肉体も、きっと制約を乗り越えて自由に踊ることはできる。身体の軸を揺らさないように、インナーマッスルの働きに細心の注意を払う。安定している軸を、観客に流れをイメージさせるように傾ける。溜められた力を表現して、身体を大きくひねる。
 その負荷は、自分の肉体ではない義足との継ぎ目に集中する。恒明は、歯を食いしばる。義足を接続するシリコン製のライナーはやわらかく緩衝性に富み、さらに充填材を詰め込んで接着した。それでも、ダンスの激しい動きは性能の限界を振り切っていて、義足が脚の断端を打つ衝撃と皮膚を引っ張る激痛に、自然と目が見開かれるのだ。
 この痛みを止めたければ、踊りをやめればいい。それだけで、痛苦はピークを通り過ぎ、ゆっくりとうずきに変わり、かすれ消え去ってゆくだろう。
 奥でデータをモニターしている望月に、視線をやった。休日だというのに、広いスタジオの隅に置いたデスクで、端末を操作してくれている。
 恒明は、あれから、父から与えられたテスト用のテーマを、どう表現するかに向き合い続けている。
「地面から生命が燃え上がるように」
 声に出して確認した。ステージではこんな説明はつかないが、練習なので、テーマを知って見たうえで感じたことを聞きたかった。
 恒明は、俯(うつぶ)せに寝そべった状態から踊りをスタートした。じりじりと、棒のように伸ばした義足を引きずりながら立ち上がろうとして、失敗して転倒する。バタンと派手な音がして、望月が心配したか、作業を止めて椅子から身を乗り出した。
 転がって、前転した勢いで床に義足の踵を打ち付けた。仰向けになった状態から、踵を床でこすりながら、膝を立てる。ブリッジで、ゆっくりと身体を反らしながら腕を使わずに、上体を起こしてゆく。ブリッジのたわみが大きくなるように、筋肉の悲鳴を聞きながら、重力と上体の釣り合いをたっぷりと見せる。息ができなかった。肺が膨らまない姿勢のせいで、酸欠の苦しみの中で頭だけはふわふわした。両腕を、空からの光を受け止めるように大きく広げる。
 上体が立ち上がって、空気を吐き出しきっていた肺が、大きく息を吸い込む。そして、その生命のリズムに乗せて、大きく呼吸をしながら2本の足で床をしっかり踏んで下半身も起こしてゆく。そのまま義足の右脚を軸脚に、ゆっくりと生身の左脚を伸ばして高く上げてゆく。義足AIは、恒明の生身からのサインを読みとって、モーター音をあげて体重を支えている。肉体の重さを、無機質な足にのせる。膝を曲げた危ういバランスで、恒明は不安定なポーズをとってぴたりと静止する。
 一定間隔で打ち鳴らす、賞賛の拍手が聞こえた。谷口だった。
「だいぶ変わったな。義足の不自然さと重量感を、武器にするんだな」
 恒明は、そっと右足を下ろして、まっすぐ立つ。息がまだ乱れて、全身に汗が浮いた。
 望月のほうはといえば、顔を青くしていた。
「義足をチェックさせてください。ダンサーの人って、こんな荒く扱っちゃうんですか?」
 言われてみれば、まったくその通りだった。ロボット義足は複雑な精密機械だ。
 義足を外して、ストレスのかかった部品をチェックしている間は、休憩時間になった。義足と肉体を繋ぐためのライナーも外してパイプ椅子に座る恒明は、しばらくダンスの練習に戻れない。
 谷口が、いつの間にか隣にいた。
「よかった。さすがだよ」
 恒明は、なぜこの男がここにいるのか、踊ってみたその反応でわかった気がした。
「自分のダンスカンパニーを立ち上げるんだってな」
 谷口が何かを決意するように、タートルネックの両袖をまくった。
「見舞いのとき言っただろ。人間性を伝えるプロトコルを、見つけたいんだ。それで、新しいダンスを作る。ロボットの性能が上がってるのは、仕事でよく見てきてる。今の性能なら、ロボットが人間らしい身体表現をするためのプロトコルを開発すれば、ロボットと人間が完全に共演者になって踊ることだってできるんだ」
 新しいダンスというのは、カンパニーを作る主宰者がだいたい言う決まり文句だ。だが、その先は、ずいぶん素(す)っ頓狂(とんきょう)な話に聞こえた。
「ロボットと、完全な共演者になるって、本気か?」
 ステージ上でロボットと、異物や道具ではなく人間同士のように共演することは、恒明の知る限り達成されていない。まったく違うものである人間とロボットがひとつになる世界を、舞台の上にいっときだけでも作ることだからだ。巨大な野望だ。だが、椅子から見上げた谷口の頬に、奇妙な確信を感じた。この男には、そうなる未来が見えているのだ。
 谷口が言った。
「今は、不安な時代なんだよ。AIだけじゃなく、独自の身体性を持った、要するに物理的な身体を持つことで獲得した知能で自然に振る舞えるロボットが、身近になってきている。だからこそ、みんな、揺れ動くリアリティに負けない強固な身体との繋がりがほしい。20世紀後半のコンテンポラリーが始まった時期と同じだ。不安になると、人は身体に回帰する。そんな今、ロボットと人間が共存しながらポテンシャルを限界まで発揮させ合う共演を見せるのは、身体芸術であるダンスの仕事だ」
 自動運転車や接客ロボットのような、自ら判断して決定する実体物が、人間の仕事に入り込むようになってひさしい。バイト先の居酒屋でも、レジ係はロボットだ。社会に漂っている不安は、恒明にも感じられた。だが、カンパニーを作るとは、人を集めて舞台を育てるということだ。チームを維持するには、実験的すぎるテーマだと思った。
「ロボットを人間とステージに上げるだけなら、カンパニーまでは必要ないだろ。ただやってみたいだけなら、企画公演を打てばいい。何年もかけて追究するほどのテーマがあるのか?」
 恒明が質問すると、谷口はほっとした顔をした。この男は、ずっと恒明が興味を持つのを待っていたのだ。
「僕の本業は、接客用ロボットの動きを制御するプログラムを書くことだ。ロボットのハードウェアも作ってるが、結局はロボットに人間らしい動きをさせる仕事をしてる。それには、ダンスの経験が生きてる。けど、10年研究しても、ロボットの動きは、人間が舞台を盛り上げるような、熱気の呼び水にはなっていない」
 谷口が言うような話を、恒明も聞いたことがあった。
「不気味の谷ってやつか? 人間に似ているから、かえって気持ち悪く感じるって」
「谷じゃない。そこを越えるのは、今の技術ではやれてる。ただ、谷を越えて違和感をなくしただけで、人間性みたいな何かが足りない。10分間のデモンストレーションなら気づかないが、たった1時間でも一緒にいると、もうしんどくなってくる」
 谷口の声が、すこしずつ力を増していった。恒明は、気のせいで考えすぎだと笑うことはできない。観客の心の微妙なひだをとらえられたとき、舞台は本当に盛り上がるからだ。
「今のロボットなら、有名バレエ団のプリマのダンスでも、正確に踊らせられる。そういうロボットは、よくできていると評価はしてもらえる。けど、それは動物に難しい芸を仕込んだら盛り上がるのと同じニュアンスで、人間と対等だと見られてない。まったく同じロボットに日常動作をさせると、5分でメッキが剥がれてしまう」
「動きに人間性がないからか?」
 谷口が、無意識にか、天井の照明に向けて手を伸ばす。
「そうなんだ。何か足りないんだ」
 茫洋とした、雲を掴むような話だと思った。ダンスの人間性は、身体についてくるものだ。つまり、身体はあっても人間性がないものは、ダンサーにすぎない恒明の守備範囲ではない。
 谷口が、そんな自分の問題と感じられなくなってきた恒明に、伝えてきた。
「僕のカンパニーで踊ってくれ。初めて病室に行ったとき、思ったんだ。僕の舞台に、護堂恒明が必要だ」
「義足がロボットだからだなんて、言わないよな」
 金属とカーボンとプラスチックの右足に視線を落とす。これが今の自分だと、割り切れない思いがわいてくる。だが、ただ純粋に身体とダンスを見せたい恒明に、谷口ははっきりと伝えてきた。
「義足も込みで、今の護堂恒明が理想なんだ。人間の身体はマシンを組み込んだ世界でも変わらず強固だと観客に伝えるためには、今、マシンと戦ってる護堂恒明が最高なんだ。マシンと共存する強固な身体を、僕の舞台で表現させてくれ」
 人の気持ちを考えない話だ。だが、護堂恒明が最高だというのは、今の彼には殺し文句だった。元いたカンパニーの主宰の福島には、扱いきれないと言われた。誰にも求められなくなったその彼を、谷口はステージに必須だという。
「おれは舞台にあがりたい。けど、考えさせてくれ。意思疎通ができないロボットと共演なんて、本気でわけがわからない。いや、AIとしゃべりたいって話じゃない。そういう意味じゃなく、ダンスで通じ合えない相手と踊れるかって話だ」
 即興の舞踏をやるダンサーには、わからないまま踊るのが好きな者もいるが、恒明はそうではない。精神と肉体、両方を合一させるために、自分の中で折り合いが必要だった。そういう土台を教育されて、護堂恒明のダンスとして築いてきた。
 迷っている彼に、谷口は誘いをかけた。
「時間を作って、今度、ラボに来てくれ。見て欲しいものがある」

 谷口裕五という男が、ロボット工学の博士であることも、ロボット会社を起業したことも知っていた。だが、常磐線の柏駅から徒歩10分のビルにある会社を訪ねに、真昼の道を歩くことになるとは、思っていなかった。12月はじめのまだ秋とさして変わらない晴れの日で、足を延ばして散歩したいほど過ごしやすい。恒明は、同じ千葉県住まいでもこのあたりに来ることはあまりないから、風景が珍しかった。駅前を横切るとさほど広くもない道路が一本あるきりで、その道路に視界をふさぐ高いビルが建ち並んでいる、ずいぶんひらべったい印象の街だ。
 通りをサッカースタジアム側にしばらく歩くと、1軒のビルがあった。《柏メソッド・ロボティクス》と看板がついていて、1階がショウルームのようにガラス張りになっている。思っていたよりも、ずっと立派な会社だった。
恒明にとっては、一般企業は、普段パートタイムで働いている飲食店とは雰囲気が違って、敷居が高い。企業人たちはオフィスの中で重心を大きく動かす動きをしない。そうした身体メッセージの乏しい環境は、彼にとっては居心地が悪いのだ。
 1階のインターフォンで、谷口を呼び出す。しばらくして、いつものタートルネックに、上品な生地のジャケットを羽織った当人がやってきた。
 ビル内の照明の下だと社長に見えるなと、恒明は、軽口を叩く。谷口は、会社社長にしては鍛えているが、普段は動きに気を遣っていないのか、身のこなしが普通すぎた。
 谷口に5階の開発室という部屋を案内された。観葉植物の鉢がたくさんある中に、車輪つきの自走式ロボットに載せられたテレビ会議用のモニターがある。作業台が5つほど固まっているスペースがあって、そこでは部品からロボットを組み立てている私服の技術者たちがいた。雑然とした部屋の壁際に、5台ほど大きな冷蔵庫のような機材が設置されている。今まさにそのひとつを開けて、運動が足りていなさそうな女性技術者が何かを取り出していた。
 谷口がオフィスを紹介してくれた。
「3Dプリンタでパーツを出力して、ロボットのプロトタイプを組み立ててるんだ。この作業ばっかりは、機材がある会社に来てやるのが一番効率がいい」
 ロボットと聞いて、目に入ったものがあった。オフィスの中心に、一辺3メートルほどのゴムマット(リノリウム)を敷いたスペースがあった。そこに、身長140センチメートルほどの白いロボットが立っていたのだ。
 人間なら小学生くらいの背丈だが、頭が大きくてもうすこし幼くも見えた。そのロボットの頭部には、髪こそないものの大きな2つの目がついていて表情がわかるようになっている。やわらかい動きをするマシンだと示すように、首関節が縦に3パーツにわかれている。恒明が見たことのある介護や工場の現場で人間と共働するロボットよりも、その白いボディは多くのパーツに分割されて関節が複雑だった。メディアでしばしば見るロボットよりも手足は細く、曲線で構成されていて人間のフォルムに近い。
 頭の大きい人間のようなロボットを前に、谷口が自慢げに言った。
「こいつは、踊るためだけのロボットなんだ」
 恒明は、拍子抜けした思いがした。踊るロボットなんていくらでもあるし、性能を誇示するために工業ロボットですら踊るデモンストレーションをするからだ。
「踊るなんて、どんなロボットだって、音楽に合わせて動きを見せるくらいはできる。そうだろ?」
 だが、谷口は熱のこもった手つきで、白いロボットの肩に触れた。
「ああいうのはダンスらしく動いてるだけだ。これこそが、本当に踊らせるためのロボットだ。百聞は一見にしかずだな」
 そして、恒明をリノリウムからのかせると、腕時計型の端末を操作した。
 音楽が流れたわけではなかった。だが、軽快なステップを踏んで、アイドルふうのダンスをロボットが踊り始めた。
 人間のそれと遜色ない、躍動感のある動きだ。一定のリズムを守りながら手足を動かすだけではない。キレのいいスピンをしたロボットが、やわらかい関節制御と完璧な重心移動で、リノリウムの上を滑るように移動する。前へと歩いているように見えるが、移動する方向は後ろだったり横だったりする。大昔のマイケル・ジャクソンの動画を見るような、見事なムーンウォークだった。上体も、左手を胸の前に右手は腰にあて、胸を斜めに傾けている。あらゆる動きが柔軟でリズミカルだ。音楽がないのに、つられて身体を動かしたくなるような、グルーヴを感じる。
 ロボットが止まった。ただ動作プログラムが終わったのではなく、指の関節まで完璧に神経の通った、決めのポーズだ。
 そのポーズから、セクシーに指を揃えて、流し目をするような頭の動きでボディバランスをわざと崩す。あやうさを見せて、動作に期待させてから、激しいダンスに戻る。だが、恒明は違和感を覚えた。これは、ソロではなく、4、5人で並んだほうが映える、チームで踊る振り付けだったからだ。
「この振り付け、どこかで見たな」
 恒明のつぶやきに、さっき3Dプリンタでパーツを出力していた女性が、出し慣れていなくてボリュームを間違えたような大声で教えてくれた。
「XTAです!」
 たしかアジア系アイドルの名前だ。アイドル好きの技術者が、推しのダンスをロボットに完全再現させたらしい。
 ロボットと踊るダンスカンパニーの話題で、見せたいものがあると言われてこれだ。恒明にもわかった。
「いいんじゃないか。けど、まさか、こいつと共演しろっていうのか?」
「そういうことだ。ダンスを踊らせる身体性のほうがキモなんだが、ロボットの機体はこいつらを新しいダンスカンパニーで使う」
「何人? いや……何機あるんだ?」
 谷口が、得意そうに笑った。
「今は2体だが、最高まで順調に広告案件をとれれば、5体は用意できる」
 ロボットだから、ダンサーを雇ったり育てたりしなくても、作ればいい。確かに、ステージにほしいダンサーが足りない問題が起こらないなら、カンパニーでやれることは広がるだろう。
「まあ、面白いのかもな。振付家は誰がやる?」
 ダンスの世界では、花形は、ステージで踊る振りを決める振付家だ。カンパニーの主宰者が兼ねることが多いが、谷口の振り付けは見たことがなかった。恒明にも振付家の経験はない。
「谷口、おまえにできるのか?」
 カンパニーを引っ張る男は、恒明の守備範囲外の答えをもってきた。
「振付家は、AIにやらせる。いや、細かい観客の機微はAIにはわからないから、大枠を作らせて、人間が修正する」
「また、雲を掴むような話だな。だいじょうぶか」
 まだソロで観客を呼べない恒明にとって、カンパニー選びは重要だ。プロのダンサーの踊りは、結局、舞台で何を見せるかだ。谷口が恒明のことを高く評価してくれているにしても、どんな価値を表現するかわからないカンパニーには入れない。
 なのに、恒明が人工知能について知っているのは、「AIは、言葉や画像を扱うことはできるが、その意味を理解できてはいない」ことくらいで、それが現在有効な知識かもわかっていない。ただ、価値とは、「何が可能か」から生まれるのであって、「不可能か」からではない。谷口が可能だというなら、そこから萌え出る価値に乗ってみたくはあった。
「AIに、おまえが言っていた、人間性を表現する踊りを作れるのか。まずもって、AIは感性を持ってないのに、内面をダンスで表現することなんてできるのか? 大枠がAIで、人間が修正するってのも、具体的な作業がさっぱり見えない。直すにしても、どんな方向に直すんだ?」
 だが、困惑する彼に、谷口が楽しそうに言った。
「実を言うと、できてみないとわからない。けど、わからないから、やりたいんだ」
 ダンスは、振付家が踊ってダンサーに教えるものもあれば、振付家の感性を言葉や身振りにしてダンサーの内面から踊りを引き出すものもある。
 恒明のような舞踏家は、自分の肉体と向き合ってその内にあるダンスを形にする。だが、彼には、ロボットの根幹にあってダンスの土台になる《ロボットの身体性》が、何も読み取れない。
 途方にくれている彼の前に、谷口が、さっきアイドルのことを教えてくれた女性技術者を連れてきた。
「あと、彼女もメインスタッフだ。成海絵梨子(なるみえりこ)。このロボットの開発プロジェクトのリーダーをしてもらっている」
 彼女は、丸顔で体格はぽっちゃりした女性だった。動作が直線的でぎこちなく、緊張した様子で、手を小さく上下に動かしながら話しだした。
「な、成海絵梨子です! 会社の仕事としてですが、ロボットの開発やメンテを担当してます」
 眼鏡型の端末のつるを彼女が人差し指でなぞる。それが何を意味するしぐさか、理解できなかった。彼女に「IDを」と言われて、いわゆる名刺交換なのだと気づいた。
「そういうのは持っていない。護堂恒明、ダンサーだ」
「社長がやる新事業のキーマンだそうですね! カンパニーっていうんでしたっけ」
 成海は、話し慣れていないようで、恒明と話すと突然声が大きくなることがある。
 テンションの上がっている成海と谷口と違って、恒明は不安をかすかに感じていた。公演を一度やるだけなら、物珍しさで話題をさらえるだろう。だが、彼らはダンスカンパニーを作って、継続的にロボットと共演する公演を打つ。だったら、その舞台は、独自の存在意義を持つべきだ。そして、踊られるのは、護堂恒明とこのロボットだから踊れるダンスであるべきだ。そんなビジョンは、恒明にはない。
「カンパニーの主宰は谷口だ。カンパニーの細かいことなら、谷口に聞いてくれ」
 その谷口が、即座に、どんな主宰からも聞いたことがない設立の趣旨を口にした。
「僕は、踊れる主宰じゃない。だから、作りたいステージはあっても、踊りたいダンスはない。ただ、はっきりわかる。振り付けはAIにまかせられても、人間のダンサーがいなきゃカンパニーがはじまらない」
 あったのは、先がまだまったく造られていない、巨大な空白だ。ダンスロボットが踊るべきダンスすら見えないのに、彼は選択をうながされていた。
 恒明は、着地点のわからないジャンプを、それでも跳ぶことに決めた。
「おれは、ダンスしかできないぞ」
「いいのか。やってくれるのか」
「この先、おれを受け入れてくれるところは見つかるかもしれないが、おれが最高だと言ってくれるカンパニーはそうないだろう。先行きはさっぱりだが、おまえのカンパニーで評価されれば、キャリアを新しく始められる」
 新しい試みをやると決めると、清々(すがすが)しい思いがした。どうせチャレンジの先にしか、護堂恒明というダンサーの居場所はもうない。だが、明るい展望もある。このチャレンジは、主宰の谷口ですら、やってみないとわからない。それなら、勝てば、挑戦自体の価値も跳ね上がるかもしれないのだ。
「どうせ、おれは、踊らない人生なんて、想像もできない」
 ロボットを見下ろす。樹脂製のつるりとしたボディは、人間個々人が必ず帯びている人間性を、まったく感じさせない。まるで硬質な壁のように、身体性への洞察を跳ね返していた。

 新しいダンスカンパニーが、ひっそりと立ちあがった。初回の練習は、その週末にやることになった。谷口の会社と違い、義足メーカーの望月が、休日でないと時間をとれなかったからだ。谷口は、義足メーカーをカンパニーの技術協力スポンサーにつけた。カンパニーの活動が宣伝になるだけでなく、技術面で他社にない強みをもたらすと、説得したらしい。
 いつもの森下のスタジオで、今日はロボットと一緒に踊れるようにリノリウムをかなり広く敷いた。
 立たせたロボットを前に、ジャージに着替えた恒明は言った。
「まずは、AIを使った振り付けってやつを、実際に見てみないと始まらないな」
 人間とロボットが共演するなら、それぞれの身体とそれを踊らせる知能のことを深く突き詰める必要がある。なのに、その中身を具体的に知っている者はいないのだ。
 谷口が、ダンスロボットから離れるようにジェスチャーした。
「振り付けを自動生成するAIネットワークを作ったんだ。音楽や小説を自動生成するAIがあるって話は、聞いたことあるだろ? それのダンス版さ。生成AIがポーズを生成して、監視AIがそれを人間の姿勢データベースと突き合わせて、ロボットにそのポーズをとらせて安全かをチェックする」
「複雑なんだな」
 恒明の素朴な感想に、谷口が「さらにもう一工程ある」と返す。
「その生成とチェックを繰り返すことで、ロボットが転ばないとAIネットワークが〝推測した〟ポーズ集ができる。実機を壊したら実験が進まないから、AIには、物理法則のある仮想空間内で仮想のボディを持たせて、複数のポーズの間の動きを作らせる。つまり、ポーズから、ダンスの学習をさせるわけだ。AIがミスをして何百万回転んでもいい仮想空間で物理シミュレーションして、最終確認したものが、これだ」
 そして、谷口が、動きを見落とすまいとロボットに集中していた恒明の、ジャージの袖を引っ張った。
「近くにはいないほうがいい。ロボットは、転ばないこと以外、どんな動きが飛び出すかわからない」
 恒明は、こいつと同じ舞台にどうやって立てばいいのかを知りたい。たぶん、義足メーカーの望月も、ロボットの調整にきた成海絵梨子も、息を呑んでいた。
 谷口は、それ自体が現代アートでもあるダンスロボットの話を、本当に楽しそうにする。
「人間が踊るとき、ダンサーの文化的な背景や個人の歴史によって、ダンスの手続き(プロトコル)が規定される。裏を返せば、そういうものがまっさらなロボットのプロトコルは、もっと自由でいいはずだ」
 谷口がダンスをスタートさせた。同時に、ロボットが、ピンと腕を伸ばしたまま右腕だけを垂直に上げた。そして、痙攣するように、高く差し上げた腕を震わせた。激しい震えによって、ボディバランスが崩れて、下半身がリズムも何もなく自動で足を踏み変えて転倒を避けようとする。ロボットが足を踏み直すと、上体をこわばらせたまま、右足だけすり足にして移動しはじめる。昨日見た見事なムーンウォークとは似ても似つかず、ふらついて歩くようにも見えるケークウォークのステップですらない。そこにはリズムすらない。ロボットが狂ったのだと説明されたら、それがもっとも納得いっただろう。
 わからなすぎて笑いがこみ上げてきた。おかしかったのではなく、緊張が振り切れたのだ。
「なんだこれは?」
「実際には複雑なんだが、振付生成AIの第一工程になるポーズ生成AIは、一言でいうと、小説を自然言語処理でロボットのポーズに自動変換している。小説は自然言語のルールに従ったデータの塊で、このデータは価値を表現するために配置されている。それなら、AIがこれに対して身振りへの変換という編集を加えれば、AIが作った価値の集合として扱うこともできるはずだ。さっき見せたロボットのダンスは、この人間の美の感覚とは関係を断ち切られた価値を、身体の動きとして表出したものだ」
「要するに、舞踏譜の変種か」
 ダンスの1ジャンルである舞踏において、スコアにあたる舞踏譜は、言語で書かれる。言語とイメージによる振り付けで、伝統的なダンスの流れから人間の動きを解放する。それにならって、谷口は人間のダンスを参考にAIに振り付けを生成させるのではなく、AI自身が作った価値のデータで、体の動きを自ら発生させようとした。
「ロボットを動かしているAIは、知能だが、〝意思を持っていないもの〟だ。だから、それを踊らせる舞踏譜も、意思のない知能が自ら踊るダンスが存在することを前提にしなければならない」
 理屈は、コンテンポラリーダンスの歴史を考えれば、ダンスからの意味の排除は試みられてきたし、おかしいものだとは感じなかった。だが、理屈になっていることと、表現として成立しているかは話が別だ。
「人間型をしてるから、ロボットの動きとして表に出るってだけのものを、表現と扱っていいのか?」
 恒明は、無理筋ではないかと疑う。だが、谷口は自信をもって言い切った。
「表現と扱うべきだ。AIが音程とリズムを自動生成して、シンセに入力して音を鳴らす音楽はもうあるが、そこに演奏という表現行為はない。それでも、聴衆との関係で音楽として成立する。小説を音楽に変換するAIだって、すでにある。そうある以上、AIが自動的に振り付けを決定して、ロボットの身体を動作させたものは、観客との関係でダンスとしないといけない」
 得意満面な谷口のことを、気の荒いダンサーならば怒鳴りつけたかもしれない。こんなダンスと一緒に、人間のダンサーはどう踊ればいいというのだ。
 恒明にしても、眉をひそめずにいられなかった。
「カンパニーの振付方法から、組み立てなきゃいけないんじゃないのか」
 谷口は腕を組んで沈黙した。ダンスの専門家ではない成海が、ピンとこなかったのかいっそう目を丸くしていた。彼女のために、はっきりと言い直した。
「振り付けのやりかたから、イチから全部、洗い直せってことだ。このダンスを踊るロボットだけを、舞台に置くならいい。けどな、このダンスと一緒に、人間は何を踊れって言うんだ? 人間とロボットを舞台にあげて、観客に何を見せるカンパニーなんだ」
 ロボットと同じ舞台で共演するとは、ロボットの身体性と人間の身体性がそこで交錯し、衝突し、融和するということだ。そこに生まれるのは、強烈な違和感かもしれないし、違和感すらない空振りに近い無接触なのかもしれない。いつか調和が生じるとして、恒明にはそれのかたちを想像もできない。結局のところ、人類がこれから何百年も付き合ってゆかなければならない問題に、先鞭をつける試みなのだ。
 谷口が顎に折り曲げた人差し指を押し当て、他人事のように言った。
「ロボットと人間が同じ場所にいるとき、そこにどんな空間が生じるのか。それは、本質的な難問だ。まさに、舞台で、別の知性とのファーストコンタクトが起こっているんじゃないか? いや、舞台で、人間性と異種知性のダンスによって、人類史がファーストコンタクトの真っ最中なことが掘り起こされるんだ」
「おまえのカンパニーだぞ」
「僕のカンパニーだが、人間のダンスは護堂恒明の仕事だ」
 怒鳴ってやりたい気分になったが、谷口の言うことはまるっきり見当違いではない。恒明はさっきの踊りを、頭の中で反芻(はんすう)する。
「ダメだ。わからん。隣で踊らせてくれ」
 恒明は、人間には美しさを感じられない腕をあげたポーズで静止したロボットから、3メートルほど空けて立った。
 谷口が、腕を組んだまま指示を出した。
「成海さん。ドローンで撮影しといて。3機使ってみよう。音楽はなにかいるか?」
「このロボットは、鳴らせば、音楽に合わせて踊るのか」
 もしもそうなら、理解できないものと舞台上で共有できることが、ひとつあることになる。だが、谷口が首を横に振った。
「いや、そういう機能はまだない。だけど、そのかわり安全機能は一応ある。自分の踊りで転倒しないし、レーダーで感知して障害物を避けるから、人間のダンサーが勢いよく当たりに行かない限り、衝突はしない」
「視界が悪くなる振り付けでなきゃ、こっちでも避ける。勢いよくってのは、踊りながら助走をとってジャンプしたくらいの速さなら、衝突するか?」
 谷口が「たぶんする」と言った。
 ダンスが始まる。恒明は、呼吸を読めないロボットと踊るために、その正面に立って動きに備える。
 ロボットが、不意に身体を前屈させた。見ながらインスピレーションで踊ろうという思惑が一瞬で崩壊して、しかたなく相手から視線を切らない程度の中途半端な前屈をする。前屈したまま、ロボットがすり足で右に左に移動する。ダンスをすこしでも同調させようと、恒明もそれにならう。
 突発的すぎて動きの流れもない。ダンスを同調させるのは不可能だった。対照的な動きになるよう、恒明は身体を起こす。意味のある絵を踊ることを諦め、抽象的な身振りを見せることに切り替えたのだ。ロボットが、上半身を、関節の限界からさらに曲げようとしたかのように、びくびく断末魔のように震わせる。その両腕が伸ばされた。不自然な動きと対照的になるように、恒明は流れるようなやわらかい動きで踊る。
 尋常ではなく直線的で固いロボットの動きに、恒明は義足の右足が重要になる振りでだけ、ついてゆけた。ロボット義足は恒明の動きに適応して動いているだけで、人間の動作律を持っていないから、幻惑されないのだ。
 3分近く踊って、恒明はダンスを止めてもらった。
「きつい。せめて動きにリズムはつけてくれ。このままじゃ、踊っても、舞台の統一感はまず出ない」
 まったく動き出しが読めないロボットの自動振付と合わせて踊るのは、息をつくタイミングもない。踊り続けて疲れ切っていた。極度の緊張のせいで、全身に汗がびっしり浮かんでいる。
 床に置いていたタオルで、それをぬぐう。
「身体か知能(アタマ)か、どっちかで、とっかかりをくれ。こいつのダンスと、コミュニケーションできなきゃ舞台にならない。ロボットと人間が噛み合わないことを見せたって、意味がない。観客だって、そんなこと知ってたって感想しか、浮かばないだろ。そんなのは、人間がダンスを見てコミュニケーションを問い直す体験とは、質がちがう」
「鑑賞料を取るのに舞台にならないのは、確かにまずいかもしれないな」
 と、谷口が、うなる。だが、主宰は、この問題に関しては明確な方針を持っていた。
「けど、それでも、人間である僕らのほうが、ロボットにギリギリまで近づこう。わかりやすい答えを選ばないことが、人間とロボットを共演させる実作集団(カンパニー)の価値だと思う」
 かつて谷口は、首を折った恒明を見舞ったとき、「ダンスが人間性を伝える謎を、解きたい」と言った。そういう男がロボットを踊らせるのだ。人間のダンスを演じさせるより、あるのかないのかわからないロボットのプロトコルに向き合いたいに決まっている。
「だとしたらだ。小説を自然言語処理ってやつでロボットの振り付けに自動変換するのを、〝ロボットの身体性〟とするのだって、おかしいはずだ。ロボットの身体性なのに、ロボットの身体感覚と繋がってないところから、ダンスが生まれてることになる」
 恒明の指摘に、谷口が深く息をついて腕を組む。
「感覚情報は、身体性の土台だ。確かにな……。だが、AIにとっての身体性って概念は、知能や感覚を身体と切り離せない人間とは、別物だぞ。遠くにあるセンサーから飛ばしたデータと、ロボットにのせたセンサーからのデータは、同じ形式のデジタルデータで区別がないんだ。自由度が高くなりすぎるAIの身体性の、何を中心にするかだ」
 困難な仕事になると、わかっていた。だが、恒明は、ステージに上がるダンサーだからこそ、ここについては引けなかった。
「ステージに上げて、人間の観客の五感で鑑賞してもらうんだぞ。ロボットのダンスは、ロボットの感覚と繋がってないとまずい。でないと、ステージ上で人間のダンサーと人間の観客だけが影響しあって、そこからロボットだけ取り残されるだろ」
 ロボットだけが疎外されてしまうと設計的にわかっている公演を、共演したと言えるのかという話だ。
 互いに、首を絞め合うような笑みが漏れた。
 始めた途端に、恒明も谷口も、解決できないかもしれない難題を背負うことになっていた。

 難問にとっかかりも見えないまま、年の瀬になった。
 一度、母と会うことにした。退院後に実家に顔を見せに行ったきりで、もう4か月ぶりだったからだ。
 谷口のカンパニーに参加して、ダンサーとして再びスタートを切り、報告できる前進があって安堵していた。退院直後のときは、無事だということだけわかってもらえばよかった。だが、次となると、何かダンサーとして進展がないと敷居が高かった。母、護堂来李は、恒明がダンサーになることに反対だったのだ。
 恒明の借りているアパートからは、電車とバスで1時間近くかかる。朝遅くに出たせいで、実家に着いたのは昼になっていた。
 千葉県のこぢんまりとした2階建ての一軒家。ジャンルでは名の知れたダンサーである護堂森の、最後に手に入れた住処(すみか)が、このくらいだ。コンテンポラリーダンスは、いまだ儲かる世界ではない。
 実体キーの合鍵と生体認証で、玄関のドアを開ける。
「ただいま」
 家の中では、ドアの開閉に反応して呼び鈴が鳴っている。奥から、スリッパの足音が近づいてきた。父はスリッパを履かないから、これは母だ。
 肩までの髪をパーマにした母が、エプロンをしたままやってきた。今年で65歳なだけにほうれい線や目元のしわは隠せないが、明るい表情と明るく染めた茶髪のメッシュで印象はほがらかだ。毎日美容体操のようなものを根気よく続けているせいか、年の割には筋肉がついている。母のしぐさは、整ってはいないが、自然な感情がよく乗っていた。
「おかえりー、よく帰ってきたね」
 うれしそうに、両手を振っている。かわいらしいというか、ジェスチャーが若い。それと、勢いがよい。
「お父さん、家にいるよ」
 恒明は、玄関から廊下を通って、1階のLDKの居間に入る。テーブルは今では珍しくなった家具調こたつで、すでに唐揚げやサラダが並んでいた。父が氷を入れて焼酎を飲んでいる。電子たばこの臭いがした。
 恒明は、その姿を見て苛立った。
「母さんが入院したとき、もう家でたばこ吸わないでくれって言ってただろ」
 母は、腎臓と肺に疾患を抱えている。肺のほうが悪化した原因は、間違いなく、父が半世紀にわたって吸い続けているたばこだ。
 父がばつの悪い顔をする。
 母は笑っている。
 席について、食事をしていると、これが自分のルーツなのだと思えた。
 ボウル一杯ありそうな大量の大豆ミートの唐揚げは、恒明の好物だった。若い頃はずいぶん遊び歩いた父に対して、母はせめて家にいるときはと、健康的な食事をさせた。父母はもう油物をたくさん食べる年齢ではないが、息子のために用意してくれたのだ。
 恒明は、忘れないようにと、父の前にメモリースティックを置いた。
「これ、今やってるカンパニーの練習。ロボットと踊るカンパニーを、おれを中心にして立ち上げたんだ」
 このあいだロボットと踊った映像を、父に渡した。「珍しいな」と、父が言った。恒明は、護堂森とは目指すテーマが違うから、おとなになってからはダンスの相談をしなかった。本格的に舞台に立つようになって、意見に流されることを恐れたのだ。
 ただ、ロボットと共演することは、過去経験したことがない難題だった。何をやってもロボットと通い合うものを感じず、何をやっても正解の手応えがなかった。相手の踊りについて知るために、ロボットとは練習の後に居酒屋で飲むどころか、会話することもできないのだ。
 父が、メモリースティックを携帯端末に挿(さ)した。それに反応して、テレビの動画プレイヤーが立ち上がる。4機のドローン撮影の映像を、テレビの内蔵AIが恒明たちの反応を見ながら選択する。それでも、最初はロボットの踊りばかりだから、母が言い出した。
「恒明はいつ出てくるん?」
「この日の練習は、最初の30分くらい、ロボットにいろいろ踊らせてた。最初よりマシになったけど、ロボットのダンスがわからなくて、どうあわせていいかわからない」
 人間には意味を見出せないロボットのダンス映像が、テレビに流れる。父が、興味深そうにそれを見ていた。
「振り付けもAIか。20世紀のモダンダンス黎明期から、機械の自動性を人間のダンスに取り入れようとする動きはあった。古い問題の問い直しだな」
 そして、テーブルに行儀悪く右肘をつくと、その手に、脱力した顎をのせて支える。ダンサー、護堂森の鋭い目になっていた。
「この振り付けは、どうやって選んだ?」
 恒明は、谷口から聞いたままを返した。
「カンパニーの主宰者が、小説文をAIで身振りに変換して、生成した。確か、1時間で100万個、振りを作れるらしい」
「そこは要点じゃない。その100万個作ったなかで、〝なぜあえてこれ〟なんだと聞いている」
 映像の中では、ロボットが、痙攣するようなリズムのない動きを見せている。意味から解放されてはいるが、これを芸術だとするなら、ランダムにアルファベットを出力しただけの文字列が文学作品になってしまう。
 護堂森が、おせち用のかまぼこを指でつまんだ。ロボットのデタラメにしか見えない動きから、あきらかに興味を失っていた。
「だいたいはわかる。おまえんとこのカンパニーは、このロボットに踊らせる100万通りの振り付けを作ったが、その中でどれに価値があるかマシン側は判別できなかった。だから、自分たちが求める条件を設定したフィルターを通して、絞り込んだんだ。その候補の何個かを、実際に人間がピックアップして、よさそうなのを選んだってところだろう」
「よくわかるな。アタリだ」
「AI生成芸術は、だいたいその手順になる。おまえが生まれる前にも、AIに小説を書かせるプロジェクトが話題になったことがある。大量に生成はできても、その質は、いまひとつだった。AI技術が上がると着実にレベルも上がって、20年もしたら商業的に成功したサービスも出てきた。けど、結局できあがるのは芸術を作るAIじゃなくて、人間が芸術をプロデュースすることの下働きをするツールになるって、落とし穴にはまる。おれは、AIには芸術性の高さがわからんっていう、問題の本質を越えられたという話を聞いたことがない」
 父が当時読んだのだろう参考文献のリストが、恒明の端末に送られてきた。30年以上も前から、ごく短いSF小説をAIに書かせるチャレンジはあったのだ。そして、10万本以上の大量の作品を出力させることはできても、その中からすぐれた作品を選びだす困難にぶちあたっていた。明らかに、恒明たちのカンパニーの遠い先祖だ。
「技術で簡単に越えられても困る。そこを芸術で越えるために、新しくカンパニーを作ってロボットと踊るんだ」
 恒明がこのチャレンジを面白いと思っているのは、身体芸術の根幹に迫ろうとする野心なのだ。
 彼らダンサーにとって、AIが意味そのものを理解できていないことは、複層的な価値を持つ。意味が通じていないから、ロボットとのダンスはすれ違っているという層がある。だが、別の層では、人間の芸術家がまだ滅んでいないのは、AIが人間による意味の解釈をまだ必要としているおかげだ。谷口は技術者でもあるから、おそらくその構造そのものを踏み越えたいのだ。
 護堂森が、なにか言うべきことを見失ったように、中空をにらんだ。
「俺も覚えがある。30から35くらいの年齢(トシ)で、新しくて野心のある仕事をやりたくなる。仕事を一通り覚えて、自分にしかできない仕事が欲しくなる頃合いだ」
「親父はその頃、なにかやったのか」
「カンパニーをやめて、ソロの仕事を増やした。そのくらいのトシで、カンパニーを作ったやつも、ダンスの外に出たやつもいる。成功して一生の仕事をものにしたやつもいれば、すっ転んだやつもいる」
 恒明は、人間の身体を通じて出たものしか信じられない。古い時代のダンサーである父もそうだ。
 テレビには、恒明がロボットと一緒に踊るところが映っている。母が、にこにこして映像を見ている。それは、ディスコミュニケーションの度合いがひどい、一体感などなにもないダンスだ。けれど、母には別の評価軸があるようだった。
「義足で不自由はない? しっかり食べてはいるみたいだけど、生活はできてるの?」
 母をずいぶん苦労させてきた父は、空気を読んで、ダンスの議論を止めた。
「カンパニーはあるし、仕事も見つかったよ」
「それじゃ、結婚とかどうなん? 誰かいないん?」
 開いた両手で、リズムを取るように指先を合わせている。ふと、母はこういうとき、手を開いたしぐさをするんだなと気づいた。そして、ふと、恋愛の話を聞かれて恥ずかしがるとき、永遠子が、きれいに手の指を揃えるのを思い出した。ビデオ通話で毎晩話すようになった彼女のことを、母親と比べてしまっていることに、自分でもどうかと思った。
「そういう人ができたら、連れてくるよ」
 彼女がそうなってくれたらいいと思った。
 母には、何かが伝わったようだった。
「本当に、家はめちゃくちゃだったけど、恒明はよくまともに育ってくれたよね」
 今でこそ仲良くなっているが、恒明が小さな頃、父母の関係はよくなかった。父はあまりにも家のことを顧みず、母は自由を求めて働きに出た。
 どう答えてよいかわからず、恒明は曖昧に言葉を濁す。実家以外ではもう会うこともない、9歳年上の兄のことを思い出したからだ。兄の一隅は、恒明が小学生の頃すでに高校生や大学生で、いつも遊びに行ったり予備校に行ったりしていた。夜遅くにしかいなかったから、懐くような時間もなかった。そんな環境で、小学校から帰ると家には誰もいなかったが、恒明はその時間を嫌いではなかった。父の持っていたメディアで映画や演劇を見たり、ものを考えたり、本を読んだり、やることはあったからだ。
 母は、護堂家の中で、ただひとり家族を強く意識している人だ。すでに距離が離れている男たちのことを、ずっと心配している。
「恒明は、一隅と話してる? 正月には顔を見せるって言ってるし、兄弟なんだから」
 首を折っても、兄は一度も見舞いになど来なかったとは、言えなかった。一隅は父のことを嫌っているし、ダンサーになった恒明とも話がまったく合わない。正月に実家に顔を出せば、見舞いもまとめてできるくらいの腹積りなのかもしれない。
 その気詰まりな沈黙に、父が、ぽつりと言った。
「思い出した。ロボットと人間が踊る舞台を、30年以上前にやってた。タイトルは確か《プロトコル・オブ・ヒューマニティ》だ」
 恒明が生まれる前から答えが見つかっていない、追い求めがいのあるテーマなのだと、手応えを感じた。

 兄は、結局、年が明けても実家に戻らなかった。
 ただ、思いもかけないかたちで、数年ぶりに顔を見ることになった。
 正月休みが終わった頃、父が運転する自動車が事故を起こして、同乗していた母が死んだのだ。
 1月7日のことだった。

 その日、真昼の冬空はよく晴れて、高く青かった。
 事故で重傷だと聞いて、全自動タクシーで救急病院にかけつけた。その入り口で、恒明は看護師に迎えられた。案内された救急処置室で、ベッドに横たえられて、頭が動かないよう金具で厳重に固定された母を見た。
 母の症状をたずねようとしたとき、医者がどうしようもない現実を突き出してきた。
「お母さまは、今、脳死状態です。わたしたちとしては、回復の見込みはないと考えています」
 なにを言われているのか、現実感がわかなかった。だだっ広(ぴろ)い仕切りのない室内には、車輪のついたベッドがいくつもあって、そのひとつに母が横たわっていた。母は、人工呼吸器を装着され、まだ血色もよかった。これで死んでいると言われても、受け入れようがなかったのだ。
 医者が、処置室の壁側にあるデスクで、母の頭のCTスキャン画像を見せてくれた。頭蓋骨の中に真っ白なものが詰まっていた。事故で強く頭を打ったことで、脳が浮腫(むく)んで、脳ヘルニアの症状で脳細胞がもう死んでいるのだと言った。比較のために、正常な脳のCTスキャン画像を見比べさせてくれた。母の脳は、一眼でわかるほど異常だった。生きている人間の画像にはあるしわも隙間も失われて、頭蓋骨に密着するほど中身がぱんぱんに腫れている。
 立ち上がったとき、ようやく周囲の現実を見られるくらいには、混乱から脱していることに気づいた。救急処置室は、ひどく寂しい場所だった。母の治療をしているスタッフはいない。もう、できることはし尽くしてしまった後なのだ。
 顔を洗いたかった。頭を冷やして、考えをまとめたかった。だが、現実は変わらない。医者が言っているということは、それは事実なのだ。だが、求められていることを、恒明は言えなかった。
 医者が、恒明に、ついにはっきりと伝えてきた。
「まだ、人工呼吸器をつけ続けますか」
 母のベッドの脇に置かれた心電図計には、鼓動を表すパルスが表示されている。もしも呼吸器を外したら何が起こるか、想像して震えた。
「母は、まだ心臓は動いてるじゃないですか」
「機械で動かしている状態です」
 状況を説明されるほど、望みが失われてゆく。
「父は知っているんですか。兄も、今、大阪にいるんですが」
 納得できるはずなどない。しかも、ひとりで、母の命のことを決めるのだと思うと、そらおそろしくなった。
「お父さまは、混乱して現実を受け入れておられません。お兄さんに、通信でお母さまのことを相談されるのはよいと思いますが、大阪からお越しになるのを待つのは、緊急処置室の都合で」
 医者が言葉を濁す。救急病院の、いつ次の患者が運び込まれるかもわからない命のかかった救急処置室で、家族を待つ目的で死者が何時間もベッドをふさぐことは、推奨されないのだ。
 恒明しかいないのだと、思い知る。答える前に、何か救いが欲しかった。
「母は、苦しんだんですか」
「推測ですが、CT画像をみる限り、ほとんど即死に近かったのではないかと思います」
 母の顔を見た。苦しんだ表情ではなかった。そのかわり、いかなる感情も感じられない。無だ。
 寒さを感じた。それは腹に静かに響くような、苦痛でもあった。気持ちが重かった。
 一度処置室から出て、兄の携帯に連絡した。仕事中なのか、繋がらない。留守番電話サービスにメッセージだけを吹き込んで、救急処置室に戻った。もう延命は十分ですと、伝えなければならない。
 人工呼吸器を外すため、ベッドサイドに立った医者が、恒明に言った。
「最後ですので、お声をかけてあげてください」
 今の母に届くような、どんな言葉があるのだろうと、思ってしまった。恒明は、ダンサーなのだ。本当に大事なことを、言葉で表現する方法など、わからない。
「ありがとう」
 絞るように言葉を口から押し出せたのは、母がそうすればよろこぶ気がしたからだ。
 恒明は、母の臨終の時を告げる、医者の声を聞いた。
 そして、現実感のないふわふわした足取りのまま、外の空気を吸いに出ようとして、呼び止められた。
「お父さまの手術の同意のために、ご説明をさせてください」
 次は父のことらしかった。泣かせてもらえる時間もないのかと、恨んだ。
「父は、命のほうはだいじょうぶでしたか」
 疲れの中で、大きすぎる緊張の山を越えて、冷静というより鈍くなっていた。
「頭を検査した結果ですが、今のところ生命に別状はありません。ただ、第二頸椎に、ほとんど折れているような状態の、大きいヒビがあります。脊髄は、頸椎の内側を通っているんですが、第二頸椎の位置で傷つくと、生命の危険があります。首を固定する補助具の手術のために、書類にご家族のサインをいただく必要があります」
 恒明にとっては、聞き覚えのある症状だから、本当に命は助かるのだとわかった。彼も第三頸椎が割れていたとき、同じ補助具を装着していたからだ。
 サインをして、待合室で動けずにいると、警官がやってきた。事故の状況を、教えにきてくれたのだ。
 交差点のカメラ映像を確認したところ、父の不注意で一時停止のところを不停止で直進してしまったことが、事故の原因だったという。そこに折り悪く、母の乗った助手席に、横合いからトラックが突っ込んだ。両車ともに自動運転ではなかった。運転手がハンドルを握っていたために、緊急のブレーキが間に合わなかったのだ。運転者だった父が手術中のため、代理人として、事故にかかわる書類に恒明がサインをした。警官たちは、すぐに帰って、彼をひとりにしてくれた。
「だから、自動運転にしろって言ったんだ」
 父の手術を待つ間、病院の外に出た。母は、これから、その体を整えられて、遺体安置所に引き渡されるのだという。
 冬の太陽は、いつの間にかもう傾きかけていた。すこしずつ、青天を掃(は)く黄色い陽光が、茜色へと移ろいゆこうとしている。
 今日、恒明の人生は変わる。そのことを、はっきり自覚していた。
 踏み出した一歩から、カシャンと軽い異音が鳴る。見ると、金属と樹脂でできた義足の右足だった。彼はもう子どもだったときとは違う。とっくに、自分の人生の結果を身体化している、おとななのだ。
 きっと、今日この日のことを、人生で何度も思い出す。まだ、その重みは、自分の胸の奥にしみこみ始めたばかりだった。(試し読みここまで)

──こうして友人の谷口が主催するダンスカンパニーに参加した恒明は、人のダンスとロボットのダンスを分ける人間性の手続き(プロトコル)を表現しようとするが、待ち受けていたのは新たな地獄だった……

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