『レディプレ』の次はコレ! アーネスト・クライン『アルマダ』文庫解説
スティーブン・スピルバーグ監督によるゲームとフィクションへの愛に満ちたSF映画『レディ・プレイヤー1』がついに公開。原作者アーネスト・クラインの新作『アルマダ』も『レディプレ』同様、ゲーマーによるゲーマーのための怒涛のゲームSFです。映画の公開を記念して、今月『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』を上梓した藤田祥平氏による文庫解説を特別公開します。
現実が、ゲームとおなじくらい理路整然としていればよかったのに──これは、すべてのゲーマーが抱いている思いだ。オンラインでゲームをプレイしていると、私の友人たちはしばしば、こんな表現を用いる。
「現実はクソゲーだ」
ゲーマーがそう考えてしまうのは、現実の諸要素を規定する各種のパラメーターが、プレイヤーである人間には、ほぼ不可知であるからだ。他者が自分に対してどれくらいの「好感度」をもつのか、ある難問を解決したときにどれだけの「経験値」が入るのか。私たちは私たちが暮らす物理現実において、これらの要素を定量的に測定できない。
しかし、ゲームのシステムにおいては、あらゆることが数学的に厳密に計算される。ビデオゲームなら、どのタイミングでボタンを押すか、どのようにレバーを倒すのかという入力にたいして、じつに明朗かつ精確なフィードバックが返ってくる。つまりゲームプレイの快楽とは、このフィードバックを隅々まで知り尽くし、現実では実現不可能なレベルの細密さでゲームをコントロールし、それによって虚構世界の運命を変えることにあるのだ。これは現実世界で、受け入れてもらえるかどうかわからない恋文を出す行為の、ちょうど正反対の性質の楽しみといえる。
アーネスト・クラインの『アルマダ』は、この「現実がゲームのように理路整然としていたらよかったのに」という、じつにゲーマーらしい願望を、フィクションのなかに結実させた作品だ。
著者の来歴は、世のほとんどのゲーマーとおなじく、華々しいものではなかった。一九七二年、オハイオ州アシュランド生まれの彼がはじめて作品を世に出したのは、二十四歳のときだ。形式は脚本。その内容は、一九八四年公開のいわゆるB級映画、『バカルー・バンザイの8次元ギャラクシー』の二次創作で、発表の場は九十年代後期のインターネットときている。これは褒め言葉だが、明らかに筋金入りのギークだ。
一九九八年には、二十六歳で『ファンボーイズ』の原作となる脚本を物した。筋書きはこうだ──末期ガンで余命三カ月を宣告された若者が、半年後に封切りとなる『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』を一目見たいと仲間たちにこぼす。仲間たちは結託し、厳重なセキュリティで幾多のファンを排除してきた、ルーカスフィルム社への潜入を試みる。
『ファンボーイズ』の脚本は二○○五年にアメリカの独立系映画会社、ザ・ワインスタイン・カンパニーに買い取られ、四年後の二○○九年に、めでたく映画が公開された。これらの作品からは、彼が古くから「エンターテインメント」としてくくられがちなタイプの作品に傾倒していたことが読み取れる。
特筆すべき彼の仕事は、二○一一年に米国の出版社ランダムハウスから刊行された初の小説、『ゲームウォーズ』(原題:Ready Player One)であろう。深刻なエネルギー危機に悩む二○四一年のオクラホマシティを舞台とした本作においては、人々は理想の世界である仮想現実「オアシス」での生活に耽溺している。主人公の少年は、「オアシス」のどこかに伝説の開発者が隠したという、手にした者に巨万の富を与えるイースター・エッグ(隠し要素)を探し求めるうち、世界の真理に近づくこととなる。
この小説は二○一四年にSBクリエイティブ社から邦訳が出版されているが、日本での知名度でいえば、二○一八年四月公開の映画、『レディ・プレイヤー1』の原作としての印象が強いだろう。
ワーナー・ブラザースがYoutubeに公開しているトレーラーには、往年のスピルバーグ映画──『E.T.』、『インディ・ジョーンズ』、『ジュラシック・パーク』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などなど──にあわせて、アーネスト・クラインによる、喜びに満ちあふれたコメントが寄せられている。
スティーブン・スピルバーグの映画とともに育ってきたからこそ、僕は『レディ・プレイヤー1』を書くことができた。スピルバーグの作品がなければ、あの小説の筋書きはまったく異なるものになっていたか、そもそも書くことができなかっただろう。彼の仕事は、僕の人生の織物に編み込まれているんだ。それどころか、映画を作りたい、彼と仕事をしたいと夢見る人、みんなの人生に編み込まれていると思う。だからこの作品は、僕の夢が現実になった証なんだ。〔筆者拙訳〕
そう、映画『レディ・プレイヤー1』の監督は、彼が熱愛してきたスティーブン・スピルバーグその人なのだ。彼の喜びが並々ならぬものであることは、本作『アルマダ』を読めば、ただちに了解されるだろう。
なにせ、この小説で用いられる引用は、数え切れないほどの量にのぼる。スピルバーグ作品はもちろんのこと、その分野は小説、映画、ゲームと多岐にわたり、しかも引用される作品の傾向は、ほとんどエンターテインメントものばかり。本当に、フィクションが好きなのだ。その知識量たるや、エンタメ界のボルヘスと呼ぶにふさわしい。
そして──ここがじつに上手いところなのだが──膨大な数にのぼる引用はすべて、小説の世界観を強固にするために用いられる。本作には、隅々にいたるまで、不条理をはね除けるフィクションの魔法がかけられている。
物語は、オレゴン州ビーヴァートン(主人公兼語り手によれば、「アメリカを代表するあくびタウン」)に暮らすゲーマーのティーンエイジャー、ザック・ライトマンが、ハイスクールの教室の窓越しに「空飛ぶ円盤」を目撃するところからはじまる。その円盤はあまりにリアルで、現実のものとしか思えない。彼は深く動揺するものの、自分が見たものは幻であったと断定する。なにせその「空飛ぶ円盤」は、ザックがはまっている、エイリアンの軍勢と宇宙を舞台にして戦闘機で戦うゲーム、『アルマダ』に登場する異星人の船と、そっくりだったから。
彼は帰宅したのち、早世した父の遺品である膨大なエンターテインメント産業関連の作品や、ほとんど陰謀説としか思えない考察ノート──「ビデオゲームを通して、僕らは自分でも気づかないうちに戦闘訓練を受けているんだとしたら?」──を閲覧する。そして、ハイスクールの窓越しに空飛ぶ円盤を見たのも、亡き父から受け継いだこの趣味が原因であったのだと考え、オタク趣味から足を洗う決心をする。
しかし、骨身に染みついたゲーマー根性は、すぐには治らない。なにせ彼のアルバイト先は、IT関連株の取引で大儲けし、早めの引退を決意した筋金入りのギークが築き上げたビデオゲーム店だ。ゲーマーにとって、これほど居心地のいい勤め先はないだろう。
家庭環境も、これ以上は望めないほどのものだ。女手ひとつで息子を育て上げた母親は、彼のゲームへの傾倒をかなりのところまで認めてくれている。その甲斐あってか、『アルマダ』におけるザックのランキングは世界六位。世界数十カ国に計九百万人以上いるというプレイヤーのうちの六位だから、ものすごい腕前だ。
ただ、母はすべてに甘いわけではない。ハイスクールの卒業を間近に控えて、まだ進路が決まっていないザックに、将来についてよく考えるよう忠告する。もちろんザックもまじめに考えなければと思ってはいるのだが、難しいところだ。というのも彼には、『アルマダ』をプレイするほかに、やりたいことが何ひとつないのである。
そしてザックは『アルマダ』に追加された新ミッションに参加し、血が沸き立つような高揚感を覚える。もはや彼には、「何かから逃れようとしている感覚」はない。将来への不安も、その日に見た「空飛ぶ円盤」のこともすっかり忘れ去り、精根尽きてベッドに倒れ伏すまで、ただ目の前のエイリアンのドローンを撃ち落とすことに熱中する──まさに、ゲーマーだ。
翌日、ザックがハイスクールに登校すると、空から宇宙船が降りてくる。それは『アルマダ』に登場する、ザックが見慣れた宇宙船「ATS-31航空宇宙軍用シャトル」にそっくりだ。そこから、ザックのアルバイト先のオーナーが下船してくる。彼は言う──「ザックがいまどこにいるか誰か知りませんか? 〔…〕国の安全保障に関わる緊急事態が発生して、ザックの協力が必要です」
そして、ザックは船に乗る。船内で、彼はこんな説明を受ける──現実に存在するエイリアンの脅威から地球を守るために設立された地球防衛同盟軍に、おまえはスカウトされた。おまえがプレイしていた『アルマダ』は、ただのゲームではなく、地球を救う兵隊を育てるための、練兵シミュレーターだったんだ。あのゲームで世界六位だったおまえの階級は、中尉だ。
小説でも、映画でも、ゲームでもそうだが、私たちは芸術を楽しむとき、どこかで後ろめたい気持ちを感じている。見方によっては、芸術鑑賞は現実逃避の一形式であるからだ。たしかにゲームをプレイするのは楽しいが、この時間で、なにか役に立つ、現実世界の仕事をしておくべきだったんじゃないか──そんなふうに考えてしまう瞬間が、誰しもあるだろう。
しかしザックのもとにゲームの宇宙船が現実のものとして現れるとき、ゲーマーがゲーマーのまま自己を実現するための途方もない条件が、いっぺんにクリアされる。そう、いままでゲームにつぎ込んだ時間は、現実で役に立つものだったのだ! ゲーマーにとって、これ以上に嬉しいことはないだろう。
宇宙船が登場してからの本作の世界においては、なんの役にも立たないと思われていた「ゲームをうまくプレイする」という技能が、そのまま地球を守るための貴重な技能となる。この設定のリアリティの補強のために、クラインが古今東西の、読者の現実に存在するエンターテインメント作品を持ち込んでいることはすでに述べた。これまで人類が作り上げてきたSF的な作品は、きたるエイリアンとの戦争に人類一丸となって戦うため、その心の準備をするためだったという設定なのだ。
そしてアーネスト・クラインは、このフィクション的なリアリティを用いて、私たちの現実に変更を加えるのではなく、小説の世界を救ってみせた。
ここが、すごいところだ。この小説は、私たちが夢見る「想像の世界」を、「小説の世界の新しい現実(=フィクション)」として、エンターテインメント的に描いてみせた。そうすることで、「小説の世界の新しい現実」が、現実に暮らす「私たちの想像力」によって救われるさまを描いてみせた。つまりこの小説は、想像の世界を私たちの想像力で救うことで、私たちの想像力そのものを、強く容認してみせたのだ。
私たちゲーマーは、みんな夢見ている。もしも夢の世界がすべて現実であったら、どうだろうと。スピルバーグの作品のように、恐竜が跋扈し、エイリアンが現れ、時間旅行ができたなら。自分のゲーミング・スキルで世界を救うことができたなら、どんなにすてきだろう。
もちろん、本作が書かれたからといって、その夢が現実となることはない。
私たちゲーマーが習得することを心から楽しんでいるゲームの技術は、いまのところ、ほとんど現実と関わりがない。ゲームをうまくプレイすることで社会的な承認を得る機会はまれだし、そもそもゲーマーたち自身が、そういった出来事をあまり期待していない。
本書においても、このゲーマー特有の厭世的な発想はあらわれている。息子のゲーム好きを容認しながらも、将来について考えるように諭す母親の言葉は、すべてのゲーマー、本読み、映画好きの胸に刺さるものだ。そして小説の後半には、そもそもこの小説世界の戦争の状況自体がじつに都合のいい、ビデオゲームめいているではないかと批評する人物まで現れる。
つまりこの作品は、世界全体からかなり強烈なフィクションの匂いがすることに自覚的なのだ。母親の言葉や、自己言及的な批評眼は、濃厚な作り話の箸休めとして機能し、ページを繰っている読者とおなじ地点にまで、リアリティのレベルを引き戻してくれる。そしてもちろん、ページから目を上げたところで、読者の現実にエイリアンはいないし、コントローラーを操作して救うべき世界もない。
しかし、それでもページを繰る手が止まらないのは、じつはこの作品が、まったくのフィクションであるからだ。そして、それでいいのである。なぜなら私たちは、本書のような優れた芸術によって促された想像力の世界のなかで、宇宙船のエース・パイロットとなり、地球を救うことができるのだから。実際に、あなたはいま夢中になって読んだ小説のなかで、ザック・ライトマンとともに、「エイリアンの脅威から地球を救ってみせた」ではないか!
ある意味、現実がクソゲーでなければ、この小説の面白さは引き立たないと思う。もしも現実にエイリアンが存在したら、そもそもゲームなど存在しなかったはずだ。だから本作に秘められているのは、現実も虚構も、ひとしく人間にとって必要不可欠なものであるという、強烈なメッセージである。通読すれば、私たちが現実世界の住人であると同時に、夢の世界の住人でもあることを、痛感させてくれる。どちらが手落ちでもいけないのだ。
そして自らのゲーマーとしての情熱と、想像力への勇気ある信仰によって作品を書き上げたアーネスト・クラインが、あたかもゲームの世界からやってきた宇宙船に乗り込むように、スピルバーグによる自作の映画化という夢の切符を手に入れたことは、おなじゲーマーとして本当に嬉しい。彼の夢が叶うことが他人事に思えないのは、この出来事が、すべてのゲーマーの熱心なプレイに対する、世界からの最大級の承認であるからだ。
おめでとう、クライン。あなたがゲームをプレイしていて、本当によかった!
(藤田祥平)