東の果てnote

【9月7日発売】特別試し読み第2弾! ロード・ノヴェルにしてクライム・ノヴェルの傑作『東の果て、夜へ』


  本年のハヤカワ・ミステリ文庫最大の注目作『東の果て、夜へ』。9月7日に発売となる本作は、刊行当時ニューヨーク・タイムズほか各書評で絶賛をもって迎えられ、さらにはクライム・ノヴェル界の巨匠ドン・ウィンズロウ(『犬の力』『ザ・カルテル』『サトリ』) をして「長年の読書経験で最上級の一冊だ」といわしめた傑作です。
 前回に引き続き、その冒頭部分の試し読み第ニ弾を公開します!


 あらすじ
 ロサンゼルスのスラム街「ザ・ボクシズ」。15歳の少年イーストは、おじのフィンが運営する犯罪組織に所属し、麻薬売買斡旋所(通称〝家〟)の見張りを受け持っていた。見張りの少年たちのリーダーとして信頼を置かれていたイーストであったが、ある日警察による強制捜査が行われ……。


(承前)

 イーストは知っていた。撃たれた者がどうなるかを。よろめき、這い、銃弾と競おうとする。銃弾が体内でどんな働きをするかも知っていた。だが、少女は知らなかった。少女がたじろいだ。イーストは見ていた。少女が両手を前に出し、ゆっくり倒れる。不安げに空を見上げる。しばらく、イーストはまったく信じられなかった──当たるわけがない。弾なんか。この子はちょっといかれてるだけなのに。さっきの火事と同じで、現実味が感じられない。
  やがて血が白い綿のシャツを内側から染めはじめた。少女の目がゆっくり動き、イーストに向けられた。素早く、静かに死が迫っている。
  また携帯電話が着信を伝えた。
 「ばか野郎」シドニーが息を切らしながらいった。
  うしろの警察は機を窺った。三人が狙いを定めた。二階の窓から突き出ていた銃が落ち、派手な音を立てて庇を転がり落ちた。同時に、玄関前の警官がドアを蹴破った。
 「やばいときは警告するのがおまえの役目だろうが」シドニーが携帯電話越しにいった。「そういう役目だろうが」
 「やれることはやった」イーストはいった。
  シドニーは答えない。荒い息遣いが聞こえた。
  イーストは携帯電話のスイッチを切った。逃げ道は知っている。最後にもう一度、振り返った──警察が窓を吹き飛ばし、芝生を制圧し、ひとりのUが、服に火が燃え移ったかのようによろよろと出てきた。おれの〝家〟。そして、路地に倒れたジャクソンの少女。路面を這う血溜まりがその長い指を排水路に向かって伸ばし、もうすぐ触れようとしている。警官が少女を上からのぞき込むが、彼女はイーストを目で追っていた。路地の突き当たりにたどり着き、角を曲がって見えなくなるまで。



 集合場所は、一マイル先の名もない塗装・修理工場の地下駐車場だった。何年も前に閉鎖した──耐震だかの条例に引っかかったとか──が、隣接したアパートメントの地下駐車場の壁に穴をあけてあるから、車で中に入ることもできる。駐車場は長く立ち入りを禁止できるようなところではない。
 イーストはシャツで鼻を覆って階段を降りた。小便と粉の浮いたコンクリートのにおいが漂っている。地下三階まで降り、ドアをあけ、中に入ってドアを閉めたあと、やっと止めていた息を再開した。いくつか壊れていないライトが天井から垂れ下がり、忘れ去られた電力線とつながっていて、まだ生きている。天井の割れ目沿いに何かが動いた。どうにか生き延びているらしい。
 イーストはここに誰がいるのかと思った。フィンには、ザ・ボクシズにもほかにも何百人もの手下がいる。まずいことになったあとは、この手の待ち合わせは上から下への命令になりがちだ。ひょっとしたら、会いたくないやつと会うのかもしれない。どのみち、行くしかない。
 奥にシドニーの車が見えた。ダッジ・マグナムのワゴンで、色はすべてマット・ブラック。ジョニーがワゴンに寄りかかり、体をほぐしていた。手を頭のうしろに持っていって肘を張り、胴体をくねくねと動かすのに合わせて、筋肉が盛り上がったり、へこんだりしている。その後、体を曲げ、両肘を地面に近づける。
  少し離れた暗がりで、銃身を短くした銃をイーストの頭に向けて、シドニーが立っていた。
 「しくじりやがった三流のみじめなクソ野郎」
  イーストはじっとしていた。ここでは人を殺しても、真っ暗な通気孔に落とせば、においもしないという。顔色を変えず、銃口の向こうに目を向けた。
  シドニーが怒りをぶちまけた。「おれは〝家〟を取られるのが嫌いだ。フィンも同じだ」
 「何があったのか、まだわかってない」イーストはありのままにいった。
 「おまえの手下はクソの役にも立たんな。どこのどいつだ」
 「ダップ。ニードル」
 「まぬけがいたわけだ。注意してなかったやつが」
  イーストは口を挟んだ。「やることはわかってたはずだ。あそこは二年前からおれの〝家〟だった」
 「おれの〝家〟だぜ、おい」シドニーが吐き捨てるようにいった。「おまえのは庭だけだ」
  イーストはうなずいた。「あそこで仕事をするようになって長いという意味だ」
 「ザ・ボクシズでいちばんの〝家〟だった。フィンはおまえの痩せこけたケツを気に入ってる──あの〝家〟がなくなったと、おまえがフィンに伝えろ」
  銃を向けられて命令されるのははじめてではない。身じろぎしてはいけない。怖がっていないと思わせる。そして、待つ。
  そのとき、シドニーの電話が鳴った。シドニーが遊底を戻し、銃をしまった。そのうしろでは、ジョニーが首を左右に曲げ、車から身を離した。シドニーの付き人にしては変わっている。ジョニーは漆黒の肌で、ゆったり動くのに、シドニーは中国人とのハーフで、いつもぴりぴりしているのだから。それに、ジョニーはよく冗談を飛ばす。親切な一面もある。
 〝家〟の中の問題を処理し、U同士で喧嘩したりしないようにするのが役目だ。それでも、ジョニーの機嫌を損ねるのはまずい。
 「シドニーは〝家〟の仕切りなんか好きじゃないがな」ジョニーが笑った。「わかってるとは思うが」
  イーストは呑んでいた息を吐いた。「みんな逃げたのか?」
 「どうにかな。Uは何人かつかまった。カネとブツは取られなかった」
 「銃を撃ってたのは誰だ?」
 「さあな。どこかのバカだろう。パンツにショットガンを隠してやがったんだからな。おれたちはブツやカネをつかんで逃げたぜ。そいつもそうすると思うだろ」
  シドニーが電話を耳から離した。振り向いた。いらだっている。「撃たれたやつがいたらしい」
 「知ってる」イーストはいった。「小さな女の子だ」ジャクソンからやってきた少女が脳裏に浮かんだ。顔がプラムのように丸くて、小さなピンク色のもので髪を束ねていた。
 「ニュースじゃ、小さな女の子にはならんだろうな」ジョニーがいった。
 「でっかい女の子になるぜ。おまえのケツが撃たれてたら、小さな女の子だってことになるんだろうが」
  時期がまずい。三カ月前にフィンの部下のマーカスがつかまっている。マーカスはカネを預かっていた。薬物所持も、スピード違反も、銃の携帯もせず、おとなしくしていた。片腕が異様に小さくて、指が七本ついている。何がどこから来て、どこへ行くのか、どこにあるのか、すべて頭に入っている──帳簿がないから隠すものもない。歳は二十二で、仕事をよく知っていて頭が切れる。そういうところをフィンは気に入っていた。だが今マーカスはつかまっていて、保釈は認められていない。保釈が認められなかったということは、ロス市警は訊くことがなくなるまで尋問を続けられたということだ。あれ以来、いろいろと風当たりが強くなっている。表をぶらついていただけでつかまった見張りもいる──三日も放してもらえなかった。通りを歩いていた売人が次々と連行された。みんなまだガキなのに、警察は何台ものパトロールカーと強力なライトで追いつめて、まとめて引っ張っていった。
  どこかの判事が全面戦争を望んでいるらしく、締めつけがきつくなってしまった。

  彼らは黒のワゴンに乗り、険悪なまま南へ向かった。こんな仕事をしてきたせいで肺をやられたのか、シドニーが湿った咳をした。「標識を見るな」彼が醜い顔を拭って鋭い口調でいった。
 「そんなの、誰が気にするんだよ? どこの通りを走ってるのかぐらい知ってるが」ジョニーがいった。
  スピーカーからパン、パン、パンと曲が流れ、エアコンがイーストの顔にまともに当たり、ちくちくしている。シドニーもああいっていたし、イーストは目を閉じ、通りを見なかった。
 〝家〟を失った──イーストの責任にされる。日中の見張りはイーストの手の者だから、そいつらの失敗もイーストのものになる。庭の見張りを二年やり、部下を教育してきたが、今日まではみんなによくやっているといわれてきた。部下は仕事を覚え、時間どおりに来て、喧嘩もせず、騒ぎも起こさなかった。どこでおかしくなったのか、わからない。あの少女──あんなに長く話をしなければよかった。そうすればどこかへ行ってたかもしれない。アントニオにもっと強く対応させててもよかった。とにかく、あの子は死んでしまった。
  何ができた? あれだけ大勢の警官に来られたら、〝家〟が取られるのも当然だ。
  ワゴンがスピードを緩めると、外で二匹の犬が騒ぎ出したが、イーストは目をあけなかった。この辺にはフィンの犬もいるはずだ。たいがいの連中は、餌をあげられるなら立派な犬を飼う。そして、警官は犬がいるところに目を向ける。自分が寝泊まりするところは犬など飼わない場所だ。
 「番地を見るな」
 「なあ、どの家か見ないわけにはいかねえだろうが?」ジョニーがいい返した。
 彼らは通りにワゴンを駐めて、歩いた。安っぽい三輪車に乗った幼い少女が、プラスチックの靴底で歩道をこすっている。暑くなり、風が強くなっていた。シドニーが「ここだ」というと、ほかのふたりは黄色い平屋の家に顔を向け、二段の階段を登った。
 〝売家〟の看板が出ていた。誰かが不動産屋の名前を黒く塗りつぶしていた。

  玄関に出てきたのは、前にどこかで見たことがある背の低い無表情の女だった。宝石をちりばめた黒いネットを髪につけていた。唇は薄くて、青白く、真一文字に結んでいる。三人を中に通したあと、奥のキッチンに引っ込んだ。キッチンで何かが泡立っているような音がするものの、においはしない。
  部屋はがらんとしていた。家具はなく、茶色い板張りの床が広がっている。ブラインドが下ろしてあるせいで、日の光が柔らかい紫色に変わっている。四方の壁にぽつりぽつりと打ってある釘が、かつてここで人が暮らしていたことを物語っている。チルコとショーンというふたりの用心棒もいた。イーストは前にもこのふたりを見た。ふたりがいるのはよくない徴候だ。
 「ああなったとき、全員が〝家〟から逃げたのか?」ショーンが訊いた。ジョニーと同じく、背の高い男だ。
 「このチビは、危険を知らせもしなかった」シドニーが怒りもあらわにいった。
  イーストは反応しなかった。今いいわけをする相手はシドニーではない。今回の出来事について、みんなどれくらい知っているのだろうか。
  ショーンが一本の指を口に入れて、頬の内側をぬぐい、不快そうに唇を噛んだ。
 「明日、ウエストウッドに行かないといけないのか?」
 「状況しだいだ。これからどう転がるかを見てからだ」シドニーがいった。「奇跡が起こらんとも限らんからな」
  ショーンが噴き出した。咳をしたようにも聞こえた。ジーンズのポケットの膨らみを、うなずくようにポンと叩いた。
  セキュリティー・システムの電子音が聞こえ、廊下の先のドアがあいた──カチリという乾いた音と、空気が漏れるような音がした。さっきの女が素足でキッチンから静かに出てきて、その廊下を歩いていった。開かれたドアの内側に入ってそれを閉める。しばらくすると、また電子音とともにドアがあいた。イーストは女を見ていた。不思議な雰囲気を漂わせている。この世界の時間を使って別世界の物事を調整しているかのようだ。
  女がイースト、シドニー、ジョニーを指さした。「来てちょうだい」女が落ち着いた口調でいった。
  ここのような、用心棒たちがぼそぼそと内輪の話をしている部屋には、前にも入ったことがある。今日までは、〝家〟を失ってしまうまでは、胸が躍るひとときだった。だが、今日は部屋から出るようにいわれてほっとした。あとについていくと女の体からにおいが漂ってきて、吸い込んだ。ふつう、これほど女に近づけるとすれば、その女が〝家〟に出入りするUの場合だ。それか、路地を掃いている女か、グリル料理でしみがついたような女だ。でも、この女は酒瓶から漂うのとはちがう、変わったいいにおいがする。イーストは息を呑んだ。
  髪のネットがきらきら輝いている。小さな黒真珠だ。
  歩いていった先でまたセキュリティー・システムの電子音が鳴り、ドアがあいた。

 フィンの部屋。二本のロウソクを除いて、照明はない。片隅に座っている。はだしで、落ち着いた色の長椅子(オットマン)に組んだ足を乗せ、祈っているかのように頭を垂れている。ロウソクの光が頭を光と影に二分している。がっしりしてはいないが、大柄の男で、肩の辺りでシャツが膨らんでいる。
  この部屋には、黒っぽい色の柔らかい絨毯が敷いてあった。何も載っていない別のオットマンが部屋の真ん中にたたずんでいる。
  フィンが片手をあげた。「靴を脱げ」
  イーストは腰を折り、慌てて靴ひもをほどいた。うしろの戸口にチルコが現われた。警官のベルトを巻いた十九歳の少年で、ベルトの片側には拳銃、反対側には警棒を着けている。首を中に突き入れて、まわりを見て、去っていった。〝よし〟。女がフィンの部屋から出て、ドアを閉めると、電子音が鳴った。
 ジョニーが煙草を出した。「ここでは吸うな」フィンがいった。
 ジョニーが慌てて煙草を箱に戻した。「申し訳ない」
 「この家は売り出し中だ」フィンが後頭部をなでた。「気に入ったなら買えばいい。何でも好きなことができるぞ」
  三人の少年はドアの前で靴をそろえた。
  埃が立ち上り、ロウソクの上を漂った。学校の教師のように、フィンが座ったまま待っている。口をひらくと、その語り口は不気味なほど穏やかだった。
 「どうした?」
  シドニーが答えた。苦々しく、あえぐような口調だ。「危険を知らせてもらえなかったんだ。外にいるガキどもにカネを払ってやってるのに。いざというときには誰も連絡しやしねえ。大声で呼びかけもしねえし、何もしねえ」
 「連絡はした」イーストは反論した。
 「警察がドアをドンドン叩いていたときにな」
  シドニーはイーストを吊るし上げるつもりだ。
 「おまえの手下はなぜ連絡しなかった?」フィンがいった。まるで独り言のように、落ち着いた明るい語り口だ。
  シドニーがイーストをわざわざ前に押し出した。やっぱりそうか。おれのせいにするつもりだ。
 「立て込んでいて」イーストは答えはじめた。
 フィンがいぶかしげな口調でいった。「立て込んでいた?」
 「消防車が来て。火事があって」イーストはいった。「やたら騒がしかった。端の見張りの連中──ニードルとダップ──も同じことを考えていたのかもしれない。警察が火事の現場に向かってるんだと。おそらく。まだ話をしていないから、なんともいえない」
 「おまえの手下は警察を見たら連絡するはずだったと思うんだが」
 「もちろん、そのはずだった」イーストはいった。「もちろん」
 「それなのに、なぜそいつらと話もしてないんだ?」
 「まずいことになったら電話を控えろ」イーストは答えた。「あんたにそういわれてたから」
  フィンがイーストからシドニーに目を移し、またイーストに戻した。
 「本当に火事があったのか?」
 「煙を見た。消防車も。現場に行って確かめはしなかったけど」
 「関係ないのかもしれないが」フィンが静かにいった。「知っておきたい」そういうと、イーストをにらみつけ、目を閉じた。イーストは鳥の羽ばたきのような胸の鼓動を感じた。
  一分ほど過ぎてから、フィンがまた口をひらいた。「〝家〟をすべて閉めろ」フィンがいった。「全員に伝えろ。地下に潜れ。何も聞きたくない。こんなことはいいたくないが、買いたい者にはしばらくほかを当たってもらうしかない」
 「了解」シドニーがいった。「だが、おれたちはどうしたらいい?」
 「何もするな」フィンがいった。「おれの〝家〟を閉めろ」
 「それはわかった」シドニーがいった。「だが、へまをやらかしたのはこの鼻たれ小僧(リトル・ニガー)だってのに、おれまで稼げなくなるのか? ジョニーも?」
 「不測の事態に備えておけといっておいたはずだ」フィンがいった。「それからな、シドニー、おれの前でその言葉は使うなともいっておいたはずだ。わきまえろ。引っ込んでろ。聞こえないのか?」
  シドニーがたじろぎ、顔をしかめた。「すまなかった」そういうと、きびすを返し、自分の靴を手に取った。
 「おまえもだ、ジョニー。帰っていい」フィンが嘆息を漏らした。「イースト、おまえは残れ」
 「こいつを待っていたほうがいいか?」
 「いや」フィンがいった。「帰っていい」
  イーストは立ったまま、ふたりの少年がうしろを歩いていくさまを見ていた。電子音とともにドアがあき、ふたりが出ていくと、さっきの女が部屋の外で立っていた。素足で待っていた。湯気が立ち上る陶器のカップふたつを載せたトレイを持っている。無言のまま、女とフィンとのあいだで、何かが交わされた。言葉をまったく使わず、電流のようなもので伝え合っている。やがて、女がふたつのカップが載ったトレイを、何も置いていないオットマンに置いた。
  女が黙ってイーストを一瞥し、きびすを返して同じドアから出ていった。電子音。
 「気分はどうだ?」フィンがいった。「動揺したか?」
  イーストは認めた。突っ立ったままなので、体が痛かった。いつになく緊張していた。膝が笑っている。「ああ」
 「座れ」
  イーストはふたつ目のオットマンにぎこちなく腰を降ろし、ほの暗い部屋に湯気を立ち上らせているトレイの横に座った。フィンが大きな鳥のように両腕を広げた。ゆっくりした身ごなしだ。脳と骨より重たいものが詰まっているのかと思えるほど、頭が重そうだ。
  フィンはイーストの父親の弟だった──もっとも、父親の顔など拝んだこともないが。そういったことはほかの者たちも知っている。そのせいで妬まれることもある。ちょろちょろできるのも、後ろ盾がいるからだと。だが、妬む連中の世界があるのもそのおかげだ。イーストに向けられている特別の厚遇、イーストの〝家〟、イーストのチームのおかげだ。イーストが子供のころ、フィンとはたまに顔を合わせていた──ときどき自分の家でクリスマス・パーティーをひらいていた祖母とか、日曜の午後、教会用の明るい色のだぶだぶの服でめかし込み、傷のついたプラスチック容器にサンドイッチとフルーツを入れてやってくるおばとはちがって、親戚付き合いではない。イーストの母親が困っていると、やってくる。食洗機を取り付けに来たこともあれば、イーストが中耳炎にかかったり、うっすらとしか覚えていないが、ひどい熱を出したときに、イーストを医者に連れていってくれたこともある。一度、レイカーズのゲームにも連れていってくれた。コートに近いなかなかの席だった。ただ、イーストはバスケットボールのおもしろさがわからなかった。ブザーがしょっちゅう鳴るし、敵意むき出しの白人がずらりと座って観戦していたから、ゲームがまだどっちに転ぶかわかっていないうちに帰ってしまった。
  だが、イーストが大きくなってからは、フィンは表だってイーストと関わることもなくなった。イーストは使い走りをしなくてもよかった。ブツやカネが詰まった弁当箱を持って〝家〟に出入りするガキの仕事だ。十歳で街区の見張りになり、十二で〝家〟のチームの見習いになった。二年前から庭の見張りを任され、手下の少年たちを指揮し、給金を出したりしている。手下には、自分より年上で腕っ節の強い少年もいる。この二年はあまりフィンを見かけることもなかったが、体内を流れるおじと同じ血が静かな引き波と化し、ますます自分を深みに引きずり込んでいくような気がしてならなかった。
  おれはこんなことをしたいのか? それはどうでもいい。食っていけるんだから。手下に一目置かれているのは、誰よりもよくストリートに目を光らせ、チームの手綱をしっかり引くからなのか? それとも、フィンが目をかけているからなのか? どうでもいい。どっちみち、いうことはいうし、手下たちも、いうと思っている。乗り切れる波(ライフ)なのか、おれがギャングから追い出した連中のように溺れ死ぬのか、それとも、ストリートで血まみれの姿や屍を曝すのか?
  どうでもいい。
 「飲め」フィンがいった。
  イーストはカップに触れたが、すぐに手を引っ込めた。熱い飲み物は飲み慣れていなかった。
 「まだ飲めないか?」フィンが自分のカップを手に取り、音を立てずに飲んだ。濃い湯気が立ち上った。「どうしてあの少女が撃たれたのか、もう一度いってくれ」
  イーストの脳裏にまた少女が浮かんだ。通りに横たわる横顔。あの頑固そうな目。まだ焼き付いている。「追い払おうとしたんだ」イーストはいった。声が裏返り、生唾を呑み込んで、どうにか調子を戻した。紅茶と、立ち上る湯気を見つめた。
 「よそへ行かせようとしたんだ」イーストはいった。「週末はずっと通りの離れたところでボール遊びをしていたのに、あのときだけなぜか近くに来た。そのとき警察が押し寄せた。どうすることもできなかった」
 「なるほど。運がなかっただけか。間が悪かったわけだ」
 「ミシシッピから来たとか」
  フィンが座ったまま、長々とイーストを見ていた。
 「〝家〟よりも、あの少女の方がおれにとっては痛手だ」フィンがいった。「〝家〟はほかにもある。移してもいい。〝家〟を移すたびに古客を連れていき、新客も開拓する。だが、あの少女の件は高くつく。あの少女の件でおれの信用はがた落ちだ」
 「わかってる」
 「あの少女は死んだ」
  イーストは生唾を呑み込んだ。「わかってる」イーストはいった。
  フィンがカップを揺らし、中身をじっと見た。「あそこのドアをロックしてこい」フィンがいった。「誰にも邪魔されたくない。ここから先はな」
  イーストは腰を上げた。長い毛足の絨毯にけつまずいた。ロックは押しボタン式で、そのほかのロックはない。イーストはロック・ボタンを恐る恐る押した。
 その後、オットマンに戻るさまを、フィンの黒い目が追った。
 「もうおまえは自由の身だ。前は〝家〟があり、仕事があった。だが、〝家〟はなくなり、仕事もなくなった」
  イーストはうなだれたが、フィンは何らかの反応を待っていた。「了解」
 「これからどうなると思う?」フィンが舌打ちした。「どうにもならないかもしれんが。少し休んだほうがいいかもしれんな」
 〝少し休む、か〟とイーストは思った。用無しだと思ってるやつに対して使う言い回しだ。
 「やってもらいたいことがある」フィンがいった。「イエスかノーで答えればいい。だが、ここだけの話だ。口には出すな。今も、来年も、ずっとな。死ぬまで黙っていろ」
  イーストはうなずいた。「黙ってる」
 「ああ。わかってるさ」フィンがいった。「それでだ、車でひとっ走りしてもらいたい。ひとっ走りしたあと、あることをしてもらいたい」片足をもう一方に重ね、膝を折り曲げた。関節が柔らかい。ゆっくりした動きだ。「ある男を殺せ」
  イーストは片方の肩を顔に寄せ、慎重に口をぬぐった。腹の中で火花が飛んだ。蛇がとぐろを巻いている。
 「イエスかノーで答えればいい。だが、答えたあとは、やるのか、出ていくかだ。よく考えろ」
 「やるよ」イーストは即答した。

***


 ――少年は旅に出る。2000マイル先へ、人を殺しに。
 イーストがフィンから命じられたのは、かつて組織に協力していた裏切り者、カーバー・トンプスン判事の抹殺。彼は現在遠く東に離れたウィスコンシン州へ旅行中で、組織幹部が裁かれる法廷に証人として立つため、来週ロサンゼルスに戻ってくる。その前に始末するのだ。
 イーストに同行することになったのは、13歳にして殺し屋である不仲の弟をはじめとした少年たち3名。崩壊の予感と軋轢を抱えながら、2000マイルに及ぶ旅が始まるが……。 
 罪の意識。同行者たちとの衝突。そして初めて見るロサンゼルスの「外」の光景が、イーストの心をかき乱していく――。


この続きはハヤカワ・ミステリ文庫より9月7日(木)発売の『東の果て、夜へ』でお楽しみください!  
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『東の果て、夜へ』ビル・ビバリー/熊谷千寿訳
原題/DODGERS
ISBN:978-4-15-182901-7
920円+税