おじいちゃんのまわりでは、時間がゆっくりと進んでいるかのようだった——『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』試し読み
600年以上続く羊飼いの家系に生まれ、名門オックスフォード大学を卒業した作家/羊飼いであるジェイムズ・リーバンクスが、その故郷イギリス湖水地方の美しい自然の姿を描きつつ、持続可能な方式の農業・牧畜・生活のため奮闘を続けるさまを綴った世界的ベストセラー『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』。
本書は同じく羊飼いであった祖父・父との記憶と、農耕牧畜の過去・現在・未来が重ね合わされながら、著者の想いが綴られる家族の物語でもあります。
今回の記事では、第一章「郷愁」から、幼い頃の著者が祖父の仕事を手伝い始め、その魅力と価値に気付き始める場面を特別公開いたします。
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ある日、祖父が父親を叱りつける声が聞こえてきた。父のせいで私が農場の仕事にうんざりしている、私に厳しく当たりすぎだと祖父は言った。おじいちゃんは、いまだわが家のすべての土地の家長であり、農場から離れることはめったになかった。私はすぐに、家で父さんのために働くよりも、祖父といっしょに仕事をしているほうが愉しいことを悟った。フェルの祖父の農場に行くのは、さらに愉しいことだった。
おじいちゃんの見かけはあまりいいほうとはいえなかった。毎日、同じ茶色の古びた作業着を着た。ハンチング帽の下の頭皮は青白く、哀れなほど薄い髪が横に撫でつけられていた。椅子の横には爪楊枝の入れ物が置いてあり、それを使って口のなかの食べかすをほじくった。若く見えたことはいちどもなく、いつもだいたい同じように見えた。しかし、家にあるいちばん古い写真に写る祖父はもっと痩せていた。写真のなかの彼は、賞を獲ったビーフ・ショートホーンの雄牛をしたがえ、地元の町にある城のまえに立っていた。でも私は、見かけなど気にしたことがなかった。驚くべき物語を聞かせてくれ、自分の好きなことだけをしているように見える祖父といっしょにいられるチャンスを逃がしたくなかった。その年から彼は、牧草地に関して私にさまざまなことを教えてくれた。まず教えられたのは、大麦畑の耕作についてと、わが家の農場が四季を通じてどのように機能しているのかということだった。少しいっしょに時間を過ごせば、私を農場の虜にさせることができると祖父はわかっていた。予想どおり、1年のあいだに私は農場の虜になった。およそ40年後、農場教育がはじまったその年はべつの意味合いで重要なものとなった。なぜなら、のちにすぐに消滅することになる牧畜世界について、頭いっぱいの記憶を与えてくれたからだ。その期間の記憶は私にとって命綱となり、暗闇のなかの光になった。
その年に施された農場教育は秩序だったものではなく、ジグソーパズルのピースのように順番に私に手渡されたが、それがかならずしも完成図の一部であるとはかぎらなかった。それぞれの断片はとてもゆっくり積み重なっていき、その世界と価値についてのはっきりとした理解へとつながっていった。私はむかしながらの方法を学んでいったが、それはまさに最後のチャンスだった。その世界はまわりからだんだんと消えはじめ、私たち家族の農場も例外ではなかった。25キロほど離れたところには、立派な低地農場を営むおじやいとこがいた。新型のトラクター、機械、大きな建物を所有する親戚たちは、わが家の旧式の農業にたいする軽蔑をほとんど隠そうともしなかった。物事がすでに変わったことはあまりに明らかだった。
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庭先の勝手口の横に停めたランドローバーの運転席に坐る祖父は、エンジンをふかし、クラクションを鳴らした。早くしないとおじいちゃんがさきに行っちゃうよ、と母さんが言った。私は転びそうになりながらもウェリントン・ブーツを履き、戸口から出ていった。その日の私は、おじいちゃんの「ゲート・オープナー」を務める予定だった。車がガタガタと小道を進むあいだ、祖父は私が遅れたことについてぶつくさ文句を言った。1分後に〈ロング・メドウ〉のゲートで車が停まると、私は飛び降りてさっとゲートを開けた(ひどく重いゲートや有刺鉄線が張られたゲートのときだけ、祖父が車から降りてきた)。車が通り抜けると、私はそのうしろでゲートを閉めた。
いくつかの牧草地にたくさんの雌羊と小さな子羊がいた。すべての子羊がしっかりと親に世話され、元気に育っていることを祖父は注意深くたしかめた。彼はどの子羊がどの雌羊のものか親子の組み合わせをすべて頭のなかで把握しており、姿を消したり、異なる母親についていったりするのをけっして見落とさなかった。つぎに、冬の納屋から放牧地に出てきたばかりの「スターク」(幼い肉牛)を車で見てまわった。これらの幼い牛は気まぐれな性格で、頭を上げて全速力で走りだし、驚いたヌーのように鼻を鳴らした。みんな元気そうだからこのまま放っておいても問題ない、とおじいちゃんは言った。さらに車を進めると、牧草地から逃げだした3匹の子羊が道を疾走し、母親を捜してメーメー鳴き、なんとか生け垣を抜けて戻ろうとしているのが見えた。こういった事態に備えておじいちゃんは、餌のバケツ、ハンマー、針金をトランクに準備していた。子羊を連れ戻すために牧羊犬のベンを送りだした祖父は、そのあいだに柵を補修した。それから、羊の群れを新しい牧草地へと移動させた。この群れは「少し弱ってる」と祖父は言い、私の父がもっと早く移動させておくべきだったと指摘した。羊は同じ牧草地で教会の鐘を二度聞くべきではない、と彼は言った。それは、ひとつの牧草地に同じ群れを長くとどめておいてはいけないという意味だった。
ランドローバーを降りると、ハリエニシダで覆われた砂の斜面を歩いて横切り、農場のさらに奥の土地をたしかめにいった。私は、大股で歩く祖父になんとかついていこうとした。彼が膀胱を空にするときにも、私はタイミングを合わせておしっこをしようとした(しかし祖父は老馬のように延々とおしっこをするので、最後まで出しつづけることはできなかった)。彼が歩くとブーツに草が擦れ、歩を進めるたびに大鎌を振るうような音がした。祖父が履く古い茶色い革ブーツは、つま先のほうが木靴のように上向きに反り、そこに黄色い紐がついていた。祖母はブーツを保革油で磨いた。牛の群れに向かう途中で祖父は立ち止まり、谷の幅広い全景を頭のなかに取り込み、さまざまな緑や茶色を読み取った。それは、異なる牧草地やまわりのほかの農場のパッチワークだった。この渓谷でほかのファーマーたちがその時点でどんな作業をしているのか、彼はすべてをきっちり把握していた。歩きながら私は、あらゆる作物や動物にはそれぞれに独自の1年のサイクルがあるという話を聞いた。誕生や種蒔き、成長、保護や餌やり、収穫や解体、販売。それを意味する専門用語を教わったのは、10年か15年ほどあとのことだった──古い方式の「混合農業」または「輪作農業」。祖父には名前など必要なかった。たんに、知り合いの全員がしていたことにすぎなかった。
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農場を歩きまわるあいだにも、(私にとっては)困惑するほどの数のさまざまなことが起きていた。4つか5つの牧草地で干し草用の草が育てられていた。1、2面は貯蔵牧草用で、2、3面は大麦用だった(さきほど耕すのを手伝った牧草地もそのひとつ)。枕地の下のほうには、種が蒔かれたばかりのオーツ麦畑があり、それは馬の餌となる作物だった。それから羊用のカブ畑があり、家庭用のジャガイモが植えられた「スティッチ」(盛り土の畝)が10本ほど見えた。さらに遠くには、エンドウ豆やインゲン豆の「ホールクロップ」畑があり、それも冬のあいだの牛の餌になった。それだけの畑があってもまだ充分ではないかのように、祖父は家庭菜園で──祖母を喜ばせるためにしぶしぶながら──キャベツ、レタス、ニンジン、タマネギを育てた。毎年春になると彼は、口汚い言葉で文句を言いながら熊手で土を小さな塊になるまで砕いた。つい最近までは、牧草地や納屋でさらに多くの種類の家畜を育てていた。乳牛の群れ、肉牛の群れ、3種類の羊、豚、馬、卵用の雌鶏、クリスマスに売るために肥育されたカモと七面鳥。私の眼には、祖父は多種多様なものを育てて世話する方法を熟知しているように映った。まさに、農業版のなんでも屋だった。
ある日、祖父はこう私に言った。すべてのことに惑わされてはいけない、パターンはじつに単純だ。「農場はプラウのまわりで踊る」と彼は続けた。ほかの数々の新しい道具も使われるようになったが、プラウは王様だった。作物を育てるために祖父は、地面をプラウで耕して(「ティル」して)苗床を作り、刈り取られた古い作物を土に埋めて成長を止めなければいけなかった。プラウは、祖父の借り農場を「改良する」ためのカギとなる道具だった。それは祖父が若者だった1930年代や40年代からずっと続けられてきたことであり、彼らは馬を使って畑を耕し、底に鋲釘が打たれたブーツで畝のあいだを行き来した。
馬のうしろで地面を歩いて仕事をすることには、特別な何かがあった。おそらくそのせいで祖父は、強力なトラクターから景色を眺めた次世代とは異なる視点から世界を見るようになったのだろう。私の祖父は、あたかもみずからの体の延長であるかのように自分の土地を熟知していた。岩盤にプラウが引っかかったとき、彼はその震えを手やブーツをとおして感じ取った。馬のうしろを歩いているとき、すぐ近くに存在する草、土、虫を見、聞き、嗅ぎ、触れることができた。仕事場である自然と祖父のあいだには何も隔たりがなかった。労働は往々にして過酷で、長く、ときに退屈だったが、祖父が少しでも後悔するような言葉を口にするのをいっときたりとも聞いたことがなかった。
四季をとおして私は祖父とともに歩き、車やトラクターにいっしょに乗り、まわりの景色を見て音を聞いた。サッチャー政権真っただなかの当時、私は、祖父が語る1930年代の物語にトラクターの上で耳を傾ける少年だった(祖父の祖父が語ったという1890年代の物語もあった)。これらの物語にはたくさんの馬が出てきた。馬だけでなく、登場人物の男たちもすでにまわりにはいなかったため、物語には魔法のような魅力があった。祖父の世界のなかの太陽は沈みはじめ、農場で働く日々は終わろうとしていた。
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私たちは、自家農場から牧草地へと続く古い空積みの石垣に沿って歩いた。石垣は山の背──氾濫原の上にそびえる隆起したホッグバック(急傾斜の同斜山稜)の土手──の輪郭に合わせて上がったり下がったりした。マキバタヒバリが地面から飛び上がり、私たちのはるか前方へと軽やかに進み、途中、有刺鉄線が結ばれた支柱の上にちょこんととまった。それは、羊の逃走防止用に石垣の上に設置された柵だった。谷のいたるところで雌羊と子羊が互いに鳴いて呼び合っていた。祖父は立ち止まってパントマイムのように片手を耳に当て、フェルの森のなかのカッコウの鳴き声を聞いた。私はうなずいた。それから彼は、自身が「ホッガスト」と呼ぶ石造りの納屋の木製ゲートをそうっと開けた。その日、高齢の黒いアバディーン・アンガス牛が出産する予定だった。問題が起きたときにすぐに手助けできるよう、昨晩、祖父は牛をこの納屋に移動させた。
私たちは、割れた窓からなかをのぞき込んだ。納屋の扉の上から溢れんばかりに射し込む光の斑のなかに、漆黒の子牛が横たわっていた。祖父が静かに近づいていくと、私もついていって戸口で立ち止まった。母牛の乳首が光って柔らかくなっているのは、子牛が乳を飲んだ証拠だと祖父にはわかっていた。母親の大量の唾液によって子牛の毛は縮れ、輝いていた。じいちゃんは母牛に話しかけて安心させようとした。牛はモーと鳴いて反応を示したが、すぐにリラックスし、祖父がお尻を掻いてやっているあいだじっとおとなしくしていた。祖父は排出された胎盤をそっと引っぱり上げようとしたものの、手から滑り落ち、ぶよぶよの塊のまま納屋の床に落ちた。すると古い熊手で胎盤を持ち上げ、青いスレートと石灰モルタルでできた納屋の壁の脇のイラクサの茂みのなかに放り込んだ。つぎに子牛の下に手を伸ばして雄だと言い、それから体を持ち上げて立たせた。母牛は涙ぐんだ大きな黒い瞳で注意深く様子を見守りながら、草を反芻した。祖父がこちらに向かって手を振ったのは、扉を開けろという合図だと私は察知した。母牛が戸口をゆっくりと抜けると、子牛はそのあとをつまずきながら追いかけた。牛の親子は牧草地を横切り、群れの仲間たちのほうに歩いていった。母牛は数歩ごとに立ち止まり、よろよろ歩く息子が追いつくのを待った。私たちが見守るなか母牛はベックに水を飲みに向かい、途中で草の塊をくわえた。何頭かの牛が子牛を見に近づいてきて、母牛と鼻をつつき合った。群れのほかの牛たちは牧草地じゅうで草を食み、むしゃむしゃと顎を動かしながら尻尾をヒュッと振った。子牛のそばで横たわる数頭の牛が尻尾と耳を動かし、エメラルドと黒の斑がちらちらと光る眼と横っ腹に集るハエを追い払った。生後しばらくたった子牛が、顔いっぱいに乳白色の泡をつけながら、母親の乳房にやさしく何度も口先を食い込ませて乳を飲んだ。母牛がぼうっとしていると、べつの子牛がうしろから忍び寄って乳を盗み飲んだ。すると、おじいちゃんがこちらに向きなおって言った。
「なんて図々しい野郎だ。なあ。見られていない隙を狙って、おばさん連中からこうやって乳を盗んでいるんだな。そりゃ、こんなにバターみたいに丸々と太るのも無理ない」
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おじいちゃんのまわりでは、時間がゆっくりと進んでいるかのようだった。動物たちを注意深く観察し、時間をかけてしっかりと世話することが大切だと彼は信じていた。祖父は永遠とも思えるほど長いあいだゲートに寄りかかり、牛や羊をただじっと見つめた。その結果として、すべての個々の動物の状況を把握することができた。なんらかの異変によってふだんとちがう振る舞いをしたときも、発情期や出産のタイミングもけっして見逃さなかった。忙しく動きまわるのは愚か者だけだと彼は考えた。祖父にとって有能なファーマーとは辛抱強く、自身の眼、耳、鼻、感触を使う人々だった。彼が目指すのは、物事をうまくやることであり、素早く最小限の努力でやることではなかった。祖父は私のことを自分の「従騎士」と呼んだが、その意味が理解できるようになるのはずっとあとになってからだった──私は祖父のプロジェクトであり弟子だった。大麦畑を耕した1週間後、私たちは“石拾い”のために同じ場所に戻った。祖父ははっきりとは言わなかったものの、その畑は私のための教室であり、作物を育てるあらゆる過程を学ぶ場所だった。そう、私はいまになってわかった。
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風と陽射しによって畝は乾き、崩れていた。最低速ギアで8エーカーの畑を耕すよう指示を受けた私は、ガタガタ揺れるトラクターを運転し、畝に沿ってゆっくりと這うように進んだ。石が増えるにつれて車体後部の重みが増すと、前部がより大きく弾んだ。トラクターのうしろには祖父とジョンがいた。ジョンはがに股の農場労働者で、ブリルクリームで黒髪を固め、青い綿パンを穿いていた。ふたりは歩きながら石を拾い、それを「トランスポート・ボックス」と呼ばれる、トラクター後部の油圧アームにぶら下がった金属の箱に投げ入れた。男たちが投げる拳大の石は弧を描いて飛び、ガチャンと音を立てて箱に入るか、ほかの石に当たって割れた。このままだと畑の端の石垣に衝突してしまうと思った刹那、おじいちゃんがうしろからトラクターに飛び乗ってきて、私を小突いてどかせ、ハンドルを握った。彼は石の箱をさまざまな場所に移動させ、畑、ゲート、小道にある穴を埋めて地面を固めるために使った。石垣の修繕に使えそうな良質な石は、再利用されるべき場所に運ばれた。何も無駄にされることはなかった。石は役に立つものだった。男の子も役に立つべき存在だった。実際のところ私は孤独な子どもで、不器用で恥ずかしがり屋だった。ほかの人たちといると緊張し、結果として的外れなことを口にし、バカなことをしてしまった。しかし、祖父はちがった。彼といると、自分が評価に値する大切な存在なのだと感じることができた。祖父を誇らしい気持ちにさせるためなら、私はなんでもした。だから農場教育がはじまったときも、本心では自分がファーマーになりたいのかよくわからなかったけれど、私は真剣に取り組むことにした。
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◆書籍概要
『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』
著者: ジェイムズ・リーバンクス
訳者: 濱野大道
出版社:早川書房
本体価格:2,500円
発売日:2023年3月23日
◆著者紹介
ジェイムズ・リーバンクス(James Rebanks)
1974年生まれ。イギリス湖水地方の東部に暮らす羊飼い。オックスフォード大学卒業。2015年に発表した初の著書『羊飼いの暮らし』(早川書房刊)は《サンデー・タイムズ》紙のNo.1ベストセラーとなり、《ニューヨーク・タイムズ》紙などでも絶賛された。本書も多数の有力紙誌からの激賞を受けたほか、2021年のウェインライト賞(英国ネイチャーライティング部門)を受賞。Twitterアカウント @herdyshepherd1 のフォロワーは現在約16万人。
◆訳者紹介
濱野大道(はまの・ひろみち)
翻訳家。ロンドン大学・東洋アフリカ学院(SOAS)タイ語・韓国語学科卒業、同大学院タイ文学専攻修了。主な訳書にリーバンクス『羊飼いの暮らし』、ロイド・パリー『津波の霊たち』(以上早川書房刊)、グラッドウェル『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ』がある。