大進化動物デスゲーム

これは青春ハード百合SF群像劇です。『大進化どうぶつデスゲーム』お試し版

『最後にして最初のアイドル』草野原々氏による第1長篇『大進化どうぶつデスゲーム』、冒頭100ページを一挙掲載! 18人の女子高生が800万年前へタイムトラベルする青春ハード百合SF群像劇です。(イラスト:TNSK)
★登場人物紹介はこちら

 このおはなしは、どうぶつはすべてどうぶつうちゅうだ、ということを、
わたしたちにおしえてくれます。
               ──小笠原鳥類「動物論集積 鳥」より

プロローグ


万物根源

 万物根源は、見ていた。
 何を? 過去を。そして、宇宙のすべてを。
 すべての時が到るところ。進化の樹木の頂上、そこが万物根源のいる場所であった。
 進化の樹木は、はるかな過去の一点から、可能な限りの多様化を繰り返して分岐していた。
 その枝をたどると、迷路のようになるだろう。共生という絡み合いと、絶滅という行き止まり。だが、すべての生命種の情報は、時間の極限点である万物根源とつながっていた。
 幾多の生命種のなかでも、最も万物根源とつながりの強いものがいる。霊長目ヒト科ホモ・サピエンス・サピエンス──通称ヒト。新生代第四紀に誕生した哺乳類の一種。ヒトが存在する時間的位置は、万物根源のすぐ近くだ。ヒトたちを媒介として、万物根源は過去を形作る。
 形作られた過去によると、生命進化の舞台は、太陽系第三惑星地球であった。ヒトたちは、アフリカという大陸で誕生し、全世界へと進出した。
 万物根源は観測し続ける。生命の遺伝情報をたどり、未来から過去へと観測し、出来事を一つに決める。矛盾する出来事の存在は許されない。すべての出来事は万物根源と調和しなければいけない。
 四十五億年の生命進化の歴史を奏でる演奏家、それが万物根源であった。その調和は美しく、力強い。
 だが、その調和に乱れが生じた。
 八百万年前の北アメリカに、万物根源が観測したはずのない事象が現れたのだ。それは、いままでの生命の歴史と矛盾していた。その矛盾はがん細胞のように、急速に拡大していく。
 万物根源は唯一にして絶対の根源なのであるから、それ以外に由来する事象はないはずだ。だが、その唯一性が破られようとしている。
 もうひとつの根源がある。そう結論付けなければならなかった。
 万物の根源が二つあることは許されない。矛盾する根源は調和を乱し、生命進化の樹木を崩壊させる。どちらか一方が消えなくてはならない。
 万物根源はふたたび調和を取り戻そうとした。観測を強化し、八百万年前の事象を奪還しようとした。だが、うまくいかない。流れに阻まれるように、目的の時点を見ることができない。それどころか、自らの観測と矛盾する事象が押し寄せてくる。
 万物根源は自らと矛盾する事象の大波から、防衛することで精いっぱいだった。それでも、波の合間を縫って、いくつかの使者を過去へと送った。


第一章 ヒト宇宙


空上ミカ

 星智慧女学院三年A組の生徒たち十八人とこの宇宙全体の命運を決定的に変えてしまう事態が起きる二時間前、空上ミカはバスに乗り学校へ向かっていた。
 ミカはカバンから一冊の本を取り出した。題名は『サピエンス全史』。現生人類であるホモ・サピエンスの誕生から発展を描いたノンフィクションだ。単なる歴史の記述に終わらず、著者の立場に沿った人類史の再編が目論まれている。それは、いわば「虚構史観」とでもいえるようなものであった。ホモ・サピエンスが類人猿や他の人類と違っていた特徴は、現実に存在しない虚構を作り出し、それを利用して大人数の集団を維持する能力であるという。宗教や経済システムなども虚構として考察されている。
 バスが停まる。ミカは『サピエンス全史』をシートに置き、扉へ向かった。扉の外には制服を着た少女がいる。ミカよりも身長が低く、眼鏡をかけた気弱そうな少女だ。顎の骨が浮き出て、なんとなく病弱そうな雰囲気が漂っている。杖をついて、一歩一歩バスに近づく。彼女の名は、峰岸しおり。
 ミカはしおりの脇を支え、バスに入ることを助けた。二人とも、登校時間が一致しているため、これが日課になっている。
「空上さん、ありがとう……」
 しおりが小さな声でつぶやいて、ミカの前の席に座る。一年ほど一緒に登校しているのに、いまだに隣同士で座ることもない。ミカは別に気にしていなかった。むしろそのほうが好都合だ。ガンガン喋られたら貴重な朝の読書時間がなくなってしまう。
 しおりも、カバンから本を出す。ヘッセの『車輪の下』。有名なドイツ文学。ミカにはそれくらいの知識しかなかった。しおりはいつも古典文学作品を読んでいる。同じ本好きでも、科学書を中心に読んでいるミカとはかなり違うタイプだ。ミカは、小説には夢中になれなかった。存在しないキャラクターが悲しんだり喜んだり恋したり、冒険したり戦ったり死んだりするのを見て、何が面白いのかよく理解できなかった。世界に所属していないキャラクターの命運をなぜ気にするというのだろうか。作り事に感動するのは余計な労力を消費するだけとしか考えられなかった。
 バスが再び停まる。また、バス停に客がいたのだ。星智慧女学院に近づくに連れて客の数は多くなる。
 扉が開くと、マシンガンが炸裂したかのような高い声とともに二人の少女が入ってきた。主に喋っているのは一方の少女、白鳥純華である。
 純華はもうひとりの少女、沖汐愛理に向かって一方的にしゃべる。それに対して、ロボットのようにうなずく愛理。
 シートに座った純華はブラシを出し、茶色に染めた長い髪をとかしつける。鏡を見て十分だと判断したのか、ブラシは空中に投げ出される。床に落ちる前に、愛理がキャッチする。その功績に称賛の声はなく、純華は自分の長い髪を複雑に編み込んでいった。
「純華ちゃん、すっごく、すっごく、かわいいです!」
 愛理の声が車内に響く。いつもこうだ。この二年間、純華の忠実な犬を務めている。化粧品もアクセサリーも髪型も純華の真似をして、彼女としゃべるときには敬語を使うくらいだ。
 まあ、たしかに、純華は美人だ。有名雑誌の読者モデルもやっているらしい。しかし、好みのタイプではない。イマドキの女子高生そのものをなぞっている感じで、工業生産品のようだ。もっと自然にしているほうが、かわいいと思うのに……。
「あっ、桜華さま……」
 しおりのつぶやきでミカは現実に引き戻された。しおりは、『車輪の下』を放り出して窓の外を見ている。バスと並列になり、二台の自転車が走っていた。クラスメイトが乗っている。龍造寺桜華と飯泉あすかだ。
 しおりは、窓にへばりついて桜華を熱っぽくじっと見ていた。背が高く、スレンダーで筋肉質の彼女は学校で人気が高い。王子様のような顔をしているのに、長髪なのも魅力的だ。
 隣を走るあすかは、桜華とは対照的に、小動物的な魅力を持つ。短髪で、小柄な彼女は、思春期前の少年のようだ。耳に入る噂では、桜華とは幼稚園時代からの幼馴染だという。一部の生徒たちは、桜華とあすかをお似合いのカップルと称している。
 桜華とあすかの自転車は、バスに追い抜かれて見えなくなっていった。いくら運動神経抜群の彼女たちでも内燃機関には勝てないようだ。姿が消えても、しおりは名残惜しそうに窓の外を見ていた。
 バスが混雑してくる。狭い車内に声が反響し、ノイズとなる。こうなってしまえば本に集中することはできない。音に敏感なミカは、ため息をついた。
「次は、星智慧女学院前、星智慧女学院前」
 数分後、バスが学校の前に到着した。桜の木に囲まれた、西洋風のレンガ造りの古い建物だ。東京駅と少し似ている。三階建てで、中央の棟だけがドームのようにふくらんでいる。
 ミカはしおりの手を取り、バスを降りた。
「いつもありがとう、空上さん」
 そう言って、しおりは杖をついて校舎へと歩く。ミカは話をするわけでもなく、手持ち無沙汰になりながらも彼女を追う。
 背後で車の音がした。
 振り返ると、高級車の座席から、一人の少女が下りてくる。人形のような女の子。クリクリした丸い眼に、長い指。顔には穏やかな微笑が浮かぶ。サラサラの長い栗色の髪の毛を優雅に振ると、胸を張って歩き出す。高校生にはこれ以上できないくらいの自信を持った歩き方。
 彼女の名は八倉巻早紀。学校でも有名なお嬢様である。新興企業、八倉巻グループ社長の一人娘なのだ。
 早紀と仲良くなりたい。ミカは高校に入ってから、何度もそう思った。でも、挨拶すらできなかった。一歩を踏み出すのが怖いのだ。早紀と自分ではあまりにも違いすぎる。生態的地位が違う生物だ。遠くからそっと見ているだけでいい……。
 早紀はミカの内心をまったく察することなく、横を通り過ぎる。控えめな香水の香りが漂う。
「おはようございます。みなさん」
「おっす、早紀っち、おはよ!」
「おはようです!」
 早紀のあいさつ相手は、もちろんミカではない。純華と愛理だ。
 ミカは三人の後ろを歩いて校舎に入った。年季が入った建物独特の乾いた匂いがする。急に日が遮られて、皮膚がひんやりとする。早紀と純華がしゃべる声が反響する。
 三年生の教室は最上階にある。中央棟の一番上だ。中央棟に入ると、吹き抜けのホールがあり、螺旋階段がぐるぐると上へと渦を巻いている。エレベーターはあるのだが、教職員専用なので螺旋階段を上らなくてはいけない。階段の手すりは支柱の隙間が大きくあいており、下がよく見える。
 階段を上るに従って、上の方からノイズが響いてきた。教室に近づくにつれておしゃべりのボリュームが上がるのは普通のことだが、今日は一段と騒がしい。
 教室の前には、氷室小夜香と小春あゆむがいた。二人とも早紀のグループの一員だ。
「さきやんに、スミリンに、あいりん! おはよーおはよー!」
 小夜香が早紀にハグしたのを見て、ミカは喉の奥でグッとうなった。スキンシップが好きな小夜香は誰にも分け隔てなく触れてくるが、ミカはあまり彼女が好きではなかった。さっぱりしたショートカットをしている、いつも明るいクラスの人気者なのに。
「おはよう、小夜香。いったい、何を騒いでいたの?」
 早紀が、ハグを返しながら聞く。早紀と名前で呼び合う仲になりたいもんだなとミカは思う。
「にゃんこだよ。にゃんこ。ほら、にゃー」
 小夜香があゆむのほうを指差す。あゆむの肩にはネコが乗っていた。首輪がないが、野良ネコにしては毛並みが良い。
「あら、かわいいわね」
「あの……、八倉巻さんも、撫でてみる……?」
 あゆむがおずおずと、ネコを抱き、早紀に近づける。まるで王妃に献上しているようだ。
「遠慮しておくわ。ばい菌が感染ったら大変だもの」
 その答えに、あゆむは残念そうな顔になった。
 早紀に拒否られたことによって機嫌を損ねたのか、ネコがあゆむの手から飛び去った。なんと、ミカのほうにやって来る。足首のあたりに鼻をつけられ、顔を押し付けられる。仕方がないので喉元を撫でてみる。ごろにゃ~と気持ちよさそうな鳴き声をあげる。
「あっ! ミカミカ! おはようさん!」
 小夜香が肩を叩いて、あいさつしてきた。親しくもないのに、勝手にあだ名を付けられている。少し体温の低いひんやりとした小夜香の手が首筋に触れて、なぜか不快な感覚になる。
「おはよう、氷室さん」
 おざなりに返答すると、逃げるように教室に入る。

高秀幾久世

 高秀幾久世はうんざりしていた。今日も朝から神木月波の話を聞かされている。
「だからリア充ってのはね、自分ってものを持ってないんだよね。他人の眼とか体裁とか世間のことばかり気にして、愛っていうものを忘れている。その点、オタクはすごいよ。自分の愛しているものには命もかけるからね。一途なんだよね」
 廊下から、誰かが入ってきた。空上ミカだ。誰にも声をかけることなく、席に座り、本を取り出して読み始めた。
 幾久世は密かにミカを称賛していた。誰の眼を気にすることもなく、一人で高校生活が過ごせるなんて、立派な才能だ。
 自分にはミカのような才能などない。群れていないと安心できないのだ。
「ちょっとお、幾久世。聞いてるの?」
 月波がぬっと顔を近づける。幾久世は誰にも聞こえないくらい小さくため息をつく。
「ハッハッハ! 聞こえているぞ! 我が盟友、ルナよ! そなたの思考は直接我が脳に届いておる!」
「さすが、幾久世殿。お得意のテレパシーですな!」
 鳥山真美が典型的なオタク言葉で返す。これは素なのだろうか。それとも、キャラ付けなのだろうか。もしキャラ付けであったのなら見事だ。ひょっとしたら、真美も自分と同じように心のなかではうんざりしているのかもしれない。
 幾久世がキャラを演じ始めたのは中学生の頃からだった。初めは、不思議系キャラをロールしていた。タロットカードを持ち歩き、妖精の声が聞こえるだとかを意味深につぶやいていた。
 高校に入ってから、不思議キャラを演ずることを止めた。真美と親しくなったためだ。真美はオカルトのプロだった。本格的な黒魔術の本までを読む真美の前では、なんちゃって不思議ちゃんキャラを演ずるのはやりにくくなった。その代わり、中二病キャラにシフトした。
 中二病キャラ。それは、アニメや漫画やライトノベルにおいて一つのパターンとしてパッケージングされていた。幾久世は、架空のキャラクターたちの口調や一人称をコピー・アンド・ペーストして、それを自分のキャラにしていった。クラスでは『無害な変人』という立ち位置に落ち着き、誰からも悪意を持たれない。
「リア充って、仲良しを演じているフリをして、中身は権力闘争でドロドロだよね。八倉巻さんとかまさにそう。ちょっとかわいそうだよね」
 月波は相も変わらず批判を続ける。リア充への憎しみで生きているような子だ。会話が八倉巻早紀のことに差し掛かると、ガタンと音がした。どうやら、ミカが机を蹴った音のようだ。頬の内側を噛んだような顔で月波をにらみつけている。ミカがあそこまで感情を顕にするのは珍しい。いつも、教室の片隅で本を読んでいて、クラスの出来事には無関心を決め込んでいる人だと思っていた。彼女と早紀との間に、親密な関係はなかったはずだが……。
 ポケットでスマホが振動した。電話がかかってきたのだ。月波の長話から離れるグッドタイミングだ。
「冥界から救済を乞う信号が届いている! しばし待たれよ!」
 電話の相手は、天沢千宙だった。入学当初に知り合った友人だが、二年生のとき、かなりの日数が不登校であった。最近は少しずつ登校日数が増えてきている。
「あ……、幾久世……幾久世……」
 千宙の、いまにも消えてしまいそうなか細い声がスマホから聞こえる。
「お願い……来て……、保健室にいるから……」
「もちろんだとも! 血盟のシスターよ!」
 螺旋階段をぐるぐると回って降りる。保健室は一番下の階にある。
「こんにちは。失礼します」
 ノックをして保健室に入る。さすがに、先生にまで中二病言葉を使うことはない。
「あら、高秀さん」
「千宙を迎えに来たんですけど、いますか?」
「いつもご苦労さま、奥のベッドにいるわよ」
「ありがとうございます」
 ベッドは四つあったが、カーテンが引かれているのは奥のものだけだ。顔を突っ込むと、千宙がうつぶせになって寝ていた。
「我がシスターよ! 盟約に従い、召喚を命ずる!」
 優しく千宙の頭をチョップする。千宙はゆっくり回転して顔を見せる。長い前髪をぬぐい、隈に包まれた大きな目が現れた。黒目が小さく、二つの銃口を向けられているようだ。
「幾久世……」
「そうだとも、我がシスター。血の契りを交わした姉妹、幾久世。エターナルワールドだ。さあ、出発だ。邪悪なる呪いを打ち破るために、その身を起こすのだ!」
「幾久世……、なでて……」
「我がシスターの望みであれば、承る」
 寝癖でボサボサの千宙の髪を手櫛でなでつける。髪が固いためか、いくらなでてもすぐ寝癖に戻ってしまう。
「幾久世ぉ……。怖いよ……。みんな何考えてるんだかわからなくて怖いよ……」
「世界は貴女の覚醒を邪魔しているのだ。我が力により、そなたの魔術は完成する」
「わかった……。契約の儀式をして……」
 契約の儀式。それは、千宙を登校させるために自然発生的に生まれた習慣であった。双方の右手と左手、左手と右手の指を絡ませ、固く握る。
 千宙の細くて白い指が絡んでくる。体温を感じる。自分の指の間に、千宙の指がはさまる。
 指の先で、血が流れる感覚を覚えた。ギュッと、指に力が入る。小柄な手に似合わない強い力だ。溺れている者が必死に助けにすがりつこうとするような。
 しばらく、静寂が漂う。五分ほど経ったのち、千宙は満足したように小さくうなずいた。それを確認すると、手を離す。
「さあ、シスターよ。我とともに、始まりの門を開けようではないか!」
「幾久世がいてくれるなら……」
 千宙は胸に手を当てて、深呼吸を数回した。そして、手を勢いよくベッドに打ち付けると、立ち上がる。
 必死に歩く千宙を幾久世が先導する。千宙を元気付けるために大げさなボディランゲージをする。だが、このままで本当にいいのかという疑念がずっとあった。
 幾久世は考える。いまのままでは自分の負担が大きい。千宙の依存先を何とかして分散できないか。かといって、頼めるつてなどどこにもない。真美はオカルトにしか興味ないし、月波と馬が合うとは思えない。いや、まてよ、一人心当たりが……。
「高秀さん、天沢さん、おはよう!」
 螺旋階段を上りだすあたりで、その心当たりに声をかけられた。元気にポニーテールを揺らしている生徒会長の杠葉代志子だ。生徒会書記の乙幡鹿野も代志子の陰で会釈をする。
「学び舎の長よ! 今日もまた闇から逃れたようだな!」
「うん。闇から逃れたよ。おかげさまでねっ」
 幾久世の中二病あいさつに引くことなく代志子は答える。この人はすごい。人望が二本の脚で立って歩いているような存在だ。どんな些細な相談も親身になって聞いてくれる。相手が誰であれ、最大限の尊敬と包容力を持って接してくれる。
 そっと千宙のほうを見る。第三者の来訪でパーソナルスペースを侵害されたせいか、不機嫌そうにそっぽを向いている。その非協力的な姿勢に、隣を歩く鹿野はあわあわとした表情を見せる。
「ねえ、杠葉さん。後で相談あるんだけど、ちょっといい」
 代志子の耳元で、小さくささやく。この人ならば、中二病が演技だとバレても良かった。というか、きっと、すでに知っている。
「オーケー。じゃあ、お昼休みにどう?」
 さすがは代志子さんだ。戸惑うことなくすぐ答えてくれる。
「ありがとう。助かるよ」
 これで一安心と思い、教室に入る。何やらうるさい。ちょっと前にネコが来たときの歓声とは別のうるささだ。

杠葉代志子

 教室のほうから険悪な言葉が聞こえてきた。
 代志子は小走りで階段を駆け上がり、教室に入る。
「だからあなたは無知蒙昧だって言ってるの。知識がないだけならまだいいけど、有害なことまで得意顔して言うのは許せない」
 机に向かって人差し指をリズミカルに叩きながら、吐き出すように声を発するのは沖汐眞理だ。
「眞理殿は、人間の可能性というものを、信じていないのですか? 人間の持つ未知のパワーを、偉大なる神秘の力を」
 口喧嘩の相手は真美のようだ。動揺のためか、ときどき声が裏返っている。
「人間の可能性を信じるか? もちろん。人間は、いまや、地球上で最も繁栄している生物種で、いずれ数万年のうちに銀河中にも拡大するでしょう。でも、それは、科学的知識と科学的思考力があったからよ。けっして、あなたの言う未知のパワーだとかのおかげじゃない」
「いや、しかし、世界には未知のロマンが残され……」
「はぁー? 未知のロマン? 無知の間違いじゃない? あなたのような馬鹿がいるから、進歩が邪魔されるの」
「ばっ、馬鹿とは何ですか。あまりにもひどいではありませんか……」
 真美は机を両手で叩く。怒りのためかブルブルと震えている。
「ねぇ、二人とも、そんなどうでもいいことで喧嘩するなんて、青春がもったいないぞ」
 二人の間に熱田陽美が入る。運動一筋の熱いスポーツウーマンであるが、彼女の介入は火に油をそそぐだけだった。
「どうでもいいって何よ」
「どうでもよくはありませんぞ!」
 二人から同時に反発を受けて陽美はあえなく退散するだけだ。
 互いを尊敬し合った論争ならばいいが、あまりそのようにも見受けられない。このまま続ければ、二人にとって良いことではない。特に眞理は、クラスのなかでの評判が下がってしまうかもしれない。そろそろ、止めるべき頃だろう。
「眞理。今日の数学でわからないところあるんだけど、教えてくれない?」
 代志子はつんつんと眞理の背中をつつく。
「いまは取り込み中だから、後にしてくれない」
「数学は一時間目じゃん。ねえ、お願い」
 眞理は長い息を吐き、真美のほうを向く。
「鳥山さん。またこんど話しましょう。いいかげん、反証不可能なことを言うのはよしたほうがいいわよ」
 幸いなことに、それ以上進展することなく双方は別れた。
「それで、どこがわからないの?」
「微分って何かがいまいちつかめなくて」
「うーん……要は、元の関数の傾きについての関数ね。元のグラフの変化の割合をプロットしたグラフと考えればわかりやすいでしょ」
 話を聞きながら、代志子は教室を見渡す。眞理と真美の口喧嘩により広まったざわめきは嘘のように普段の様子を取り戻している。ただ一人、眞理の妹である愛理が、憎しみと軽蔑が入り混じった顔をして眞理を見ていた。双子なのに、あの二人は仲がとても悪い。
「──微分するってことは、導関数を求めることなの。導関数ってのは、元の関数の微分係数をどこでも出せるようになる関数で、微分係数ってのは関数のある一点における接線の傾きのこと……って、聞いてるの?」
「ごめんごめん、もういっかいお願い」
「まったく、ちゃんと聞きなさいよ」
 代志子は眞理の少しつり上がった目を愛おしく見る。この子はとってもいい子だ。教え方も丁寧で、熱心。クラスのみんなからは、性格がきついって思われてるけど、彼女の本当の魅力をもっと知ってほしい。
「……とまあ、こういうわけで微分の逆は積分になるの。そろそろ授業が始まるわね」
 眞理の言う通り、その言葉の後すぐにチャイムが鳴った。時計も見ていないのにすごい。
「いま教えただけで、基本は出来てるはずだから。じゃあ、また」
 去ろうとする眞理の手を取り、代志子は言う。
「ありがとね」
「……わからなかったら、いつでも聞きに来なさい」
 ちょっと照れたふうに視線をずらす。そこがまたかわいい。
「はいはい。みんな席に座りましょうね。授業の時間ですよ。はいはいはい」
 数学教師の薫先生が教室に入る。チャームポイントである触角みたいな二房の長い髪の毛がゆらゆら揺れている。
 薫先生は自分の髪をパチンと弾くと、授業を始めた。
「はい、今日は微分積分ね。これはすごい重要だから注目してね、はいはいはい」
 
 眞理にあらかじめ教わったため、数学の授業はかなりわかりやすかった。中学生の頃に習った二次関数が、こんなにも奥深かったなんて初めてわかった。
 学校は楽しい。魅力的な友人たちに、面白い授業。空も快晴で気分が良い。いつまでも、こんな日々が続けばいいのに。
 窓の外は、気が遠くなってしまいそうな青空だ。強い光に照らされて、色のコントラストが強くなっている。春の陽気だ。
 ふと外を見下ろすと、ぽかぽかした光の下で、黒い影を作っている女の子が校門に入ってきたところだった。強烈な金色に染めた髪を見れば、顔を見ずとも誰だか一瞬でわかる。汀萌花だ。
「すみません、先生。気分が悪くなったので、保健室に行っています」
 先生が返答しないうちに、代志子は教室を出る。反射的な行動だった。萌花が登校してくるのは珍しい。少しでも早く顔を合わせたかった。
 一階に着くまでの時間がもどかしい。螺旋階段をステップするように走り下り、そのまま校舎を出る。上履きのまま、強い日光の下に身をさらす。
「杠葉さん?」
 萌花は校舎の入り口に立っていた。スカートを短く切り詰め、少々時代遅れのルーズソックスを履いている。突然の代志子の登場に、驚いたように目を丸くした。普段は他人に対して壁を作っているが、不意の代志子の登場で忘れているようだ。
「いいかげん代志子って呼んでよ、萌花ちゃん」
 名前で呼ばれて、萌花は目をそらした。壁がまたできてしまったようだ。
 萌花は、一年前に転校してきた。なぜ転校してきたのかはわからない。代志子が聞いても、固く黙ったままであった。人を避けて、そのまま不登校になってしまった。代志子は彼女が心配でたまらなかった。一人だけでも生きていける人はいくらでもいる。たとえば、ミカがそうであろう。だが、萌花から放たれる空気は違っていた。一人が好きというより、他者が信頼できないと思っているようであった。そして、一方では、一人の状態が苦しくてならないとも感じているようだった。萌花は矛盾に苦しんでいると思われた。人は怖いけど、一人にはなりたくないという矛盾に。
 代志子は、萌花の矛盾を解きほぐす助けになりたかった。少しだけでもいいから、悩みを告白してほしかった。いや、そこまでは求めない。ただ、自分の前では壁を取り払い、リラックスした表情をしてほしかった。
「わざわざきたの? もう授業始まってるでしょ」
「萌花ちゃんを見たら夢中で走ってきちゃった」
「……何それ」
 萌花は目をそらし、くすりと小さく笑う。
「今日は、保健室? それとも、授業受ける?」
「授業受けるよ。出席日数やばいし」
「やったあ! 萌花ちゃんと一緒だ!」
 日々の会話を試みてきたかいもあって、少しずつ萌花は心を開いてくれている気がする。萌花を連れて、代志子は螺旋階段を上がる。
「あっ! 生徒会長じゃん。おはよう!」
 後ろから、隣のクラスの山根眠子があいさつしてきた。
「眠子ちゃん、おはよう! また遅刻したの?」
「えへへへへ、昨日は早く寝たんだけどなぁ。起きれなくって」
「ひょっとしたら、睡眠障害かもしれないから、診察したほうがいいんじゃない?」
「睡眠障害かぁ~。その発想はなかった。さすが、よしさん、目の付け所が違う」
 眠子がうんうんとうなずく。そうこうしているうちに、三階に着いた。代志子と萌花は三年A組に向かい、眠子は隣のB組に向かう。
「それじゃ、また今度遊ぼうね。バイバイ!」
「バイバイ!」
 眠子と別れの言葉を交わした代志子は、A組の扉を開けた。
 その瞬間、強烈な光が差し込み、代志子と萌花を包んだ。
「えっ?」
 あまりにも眩しすぎる。わけもわからず、手で両目を抑えるが、光は容赦なく目のなかに入ってくる。
 形容しがたい色をした光であった。強いて言うならば、ピンク色……。けれど、これまで見たどんなピンクよりも、比べ物にならないほど鮮やか。
 あまりにも鮮やかすぎて、空間そのものが歪んでいるように見える。光が放たれるのとほぼ同時に、地響きが聞こえた。床が揺れ動き、代志子と萌花は思わずしゃがみこむ。
 奇妙な揺れだった。これまでに経験してきたどんな地震とも似ていない。まるで、世界全体が揺れているようであった。

第二章 ネコ宇宙


空上ミカ

 光。
 ミカは光を見ていた。
 見ていると、頭がおかしくなってきそうなほど強烈なピンク色の光線。
 それは、ありえないところから出ていた。
 早紀の体のなかから。彼女の皮膚を通してあふれ出てきたのだ。
 服や椅子では光は邪魔されず、教室中を照らす。光が通った場所は空間そのものがおかしくなったようだった。空間自体がうねうねとよろめき、折り曲がっている。
 奇妙な光は、ミカの体をも呑み込む。意外なことに、その感覚は悪くなかった。何か途方もなく巨大なものとつながったような安心感。
 光に包まれたミカを、さらなる事態が襲った。大きな揺れが、全身を殴りつけたのだ。椅子から放り出され、肩をしたたか打つ。
 揺れで蛍光灯が外れて落ちてくる。窓ガラスが割れ、破片が床に飛散する。そのなかを、ミカは這い進んだ。早紀に近づくために。早紀のそばにいるために。
「八倉巻さん……、大丈夫?」
 間近で見ると、早紀の容態は悪かった。ピンク色の光は消えて、その代わりに顔が青くなっていた。荒く息をして、痛みに耐えるように歯を食いしばっている。ミカがそばにいることを知ると、弱々しくつぶやく。
「たす……けて……」
 こんなに弱気になった早紀を見るのは初めてだ。助けを求められているのに、できることは何もない。
 早紀がミカに抱きついてくる。少しでも苦しみを軽減しようとすがりついたのだろう。ミカも抱き返す。何もできない自分が無力に感じた。
 いつの間にか、揺れは収まっていた。クラスメイトたちが立ち上がり、口々に叫んでいた。ノイズが教室に充満し、集中力が削ぎ落とされる。早紀はまだ苦しげなままだ。口に手を当て、何かを吐き出そうとするように体を曲げる。ピンク色の異常な光は完全に消えていた。
 ノイズのなかで、ひときわ目立つ甲高い悲鳴が上がった。顔を上げると、クラスメイトたちは次々と窓に群がっている。
「外が……」「外を見て……」という声が上がる。
 床に座ったままの角度では、窓の外はよく見えない。ミカは立ち上がる。
 窓の外には、あるはずがない風景が広がっていた。
 本来ならば、正門とその前を通る車道、信号や民家、遠くの高層ビルが見えるはずであった。しかし、それらはすべて消え去っていた。
 代わりに、高い樹木の生い茂る薄暗い森が、どこまでも続いていた。

杠葉代志子

 揺れを感じた代志子は、隣にいる萌花の手をつかんだ。そのまましゃがみこみ、倒れるのを防ぐ。
 よほど大きな地震なのだろう。代志子はクラスのみんなの無事を願うのと同時に、これから聞くであろう死傷者のニュースを予想し、胸がいたんだ。
 萌花の握る力が不意に強くなった。怖いのだろうか。安心させようと、彼女の顔を見ると、恐怖とは別の表情をしていることに気づいた。信じられないものを見ているような驚きだ。
 萌花の視線の先をたどる。そこには、眠子がいた。影がかかっていたため、見えにくいが、異常なことが彼女に起きていることはありありとわかった。
 眠子は、変身していた。
 廊下に転がった眠子の体から、茶色い毛が伸びていた。ふさふさとした長い毛は、またたくまに全身を覆う。それと同時に、服が腐りはじめ、風化するように消える。
 体は縮んでいく。空気人形をしぼませるかのように眠子の体が小さくなっていく。彼女は小柄なほうであったが、さらに身長が短くなっていく。最終的には、元の体の半分ほどの大きさとなる。
 さらに、眼が大きくなっていく。眼球が外側に飛び出し、まぶたがめくれていく。少女漫画のキャラクターのように、顔の上半分のほとんどを大きなまんまるい眼が占めるようになる。
 そして、手のひらは細長く変形していく。指が長くなり、親指とその他の指の距離が大きくなる。靴が消え、あらわになった眠子の足は、手のひらと同じように変わっていた。指が長くなり、親指と他の四本の指との隙間があく。モサモサとした茶色い毛が、手の甲や足の甲から生えるが、手のひらや足の裏は無毛で白いままだ。
 変わってしまった眠子の姿は、どこかで見覚えがあるものだった。そう、遠足で、上野動物園に行ったとき見たことがある。
 サルだ。チンパンジーの赤ん坊に近い。
「キキキキキキキキィィィィィ!」
 チンパンジーと化した眠子は、おびえて金切り声を上げる。代志子が呆然としていると、いつの間にか揺れは止まっていた。眠子が鳴き声を上げながら四足歩行で走り去り、隣のB組に駆け込む。
 代志子と萌花は顔を見合わせる。
「夢じゃないよね……?」
「たぶん……あたしも見たし……」
 代志子と萌花は、おそるおそる、眠子が入っていったB組をのぞく。なかからは悲鳴が聞こえていた。いや、悲鳴というよりも鳴き声だ。人間にはとても出せないような高い声。まるで、動物の檻のなかのような……。
 B組には誰もいなかった。代わりに、動物たちがいた。チンパンジーのような、尻尾のない猿。眠子が変身したのと同じような姿をしている。
 猿たちは教室のなかを走り回っていた。興奮したように椅子や黒板に上る。獣臭さがむっと鼻に押し寄せる。
 教室の雰囲気も様変わりしていた。荒れ果てている。まるで、数十年も放置されていたように、黒板は傾き、椅子は腐り、床はボロボロだ。
「萌花ちゃん。A組のほうに行こう」
 返事を聞かず、萌花の手を引く。大好きなA組のみんなが心配だった。
 A組からも悲鳴が聞こえたが、幸いなことに、それは人間の悲鳴であった。ざっと見てみるが、誰も変身してはいないようだ。教室の雰囲気も揺れの前と変わらない。
「みんな、大丈夫!?」
 顔をざっと見渡して確認する。A組十八人は全員無事だ。それと、薫先生もいる。血を流している人はいないが、早紀が苦しそうだ。
「早紀ちゃん、痛いの?」
 早紀は歯を食いしばりながらうなずく。ミカが心配そうに彼女をさすっている。
「よしさん、よしさん、外見てよ。外!」
 陽美が代志子の肩を叩き、窓の外を指差す。
 割れた窓ガラスの向こうには、暗い森林が広がっていた。風が生々しい植物の匂いを運んでくる。
 代志子はショックを受けたが、立ち直りは早かった。いまは、緊急時なのだ。驚いてばかりはいられない。
「みんな、落ち着いて!」
 手をたたき、みなの注意を引く。
「何かとてつもない事態が発生したみたいだけど、まずは落ち着いて」
 代志子の声を聞き、教室が徐々に静かになっていく。余計なパニックになりそうなので、B組のことを伝えるのはあとにしようと決めた。
「状況を確認しましょう。電話はつながるの?」
 電話という存在を急に思い出したように、眞里がスマホをポケットから取り出し、殴るようにタップする。耳に押し当てるが、しばらくして首を横にふる。眞里以外の者の口からも、次々に失望の声が上がる。どうやら、ネットもつながらないようだ。
「スマホは、ダメかぁ。じゃあ、まずは保健室だ。陽美ちゃん、桜華ちゃん、一階まで走ってきてくれない? 早紀ちゃんが苦しんでるから、保健の先生呼んできて」
「まかせとけっ!」
「オーケー」
 陽美と桜華は小走りで廊下に出ていく。
「わたしも行きましょうか?」
 薫先生が手を挙げる。
「先生はここにいてください。大人が必要になるかもしれないので」
「わかりました」
「それと、痛み止め持ってる人いない? 早紀ちゃんを楽にしてあげたいの……」
 できることは、いまはこれくらいだ。代志子は自分を落ち着けようと、深呼吸をする。

熱田陽美

 代志子の指示を聞き、陽美はすぐに走り出した。さっき、早紀を近くで見たとき、ものすごい苦しそうだった。早くなんとかしてやりたい。腹が痛いときは、めっちゃ痛いのだ。
 陽美の背後に桜華が続く。代志子はA組で一番足が早い二人を選んだのだろう。運動神経では桜華もなかなかだが負ける気はしない。
「エレベーター使おう、そっちのほうが早い」
 陽美が提案すると、桜華はオッケーと両腕で丸を作った。異常事態のなかで妙に軽い反応だ。顔はかっこいいのに、どこかズレている。
 二人はエレベーターにたどり着き、ボタンを押した。ところが、エレベーターの稼働を示す電灯がつかない。もう一回押す。つかない。連打する。反応なし。
「なあ、陽美。このエレベーターなんだか変じゃないかなぁ?」
 のんびりしたペースで桜華が言う。
 たしかにそうだ。夢中になっていて気づかなかったが、やけに汚れている。いや、汚れているのではなく、錆びているのだ。体液が漏れたかのように、黒々とした汁が滴り、食われたかのように細かい穴があいている。動かないのは当たり前だ。
「……変っていうレベルじゃないな。異常だよ」
「まあ、とにかく、エレベーターは使えないねぇ。階段で行こう、階段」
 桜華の冷静さはすごい。いや、鈍感なだけかもしれないが、こんなときにこそ必要な才能といえるだろう。
 二人は螺旋階段に近づいたが、そちらもだめであることは一目見ただけで明らかだった。途中で崩落していたのだ。エレベーターと同じように、ひどく錆びて、自らの重みに耐えられず落ちてしまったらしい。廊下や校舎全体も黒ずんでいるようだ。
「階段はダメだ。他に非常階段とかあったか?」
「どうだったっけ? あったような、なかったようなぁ」
 二人は降りる手段を探してウロウロと廊下を歩いた。これでは、A組の最速を誇る二人が選ばれた意味がない。
「あっ! ねぇねぇ、陽美! なにあれ! かわいいー!」
 桜華が指さした先には、サルがいた。せいぜい人の腰の高さに届くくらいの身長だ。眼が大きく、甘えるような笑みを浮かべている。なぜここにサルが?
「ひゃひゃひゃひゃひゃ、くすぐったいよぉ」
 疑問を抱くことなく、桜華はサルを抱いて頭をなでていた。サルのほうも、嬉しそうに頬を舐めている。
 そういえば、桜華はかわいいものには目がないのだった。ディズニーやサンリオのキーホルダーを集めていたし、家に行ったときはぬいぐるみでいっぱいだった。あすかにべったりなのも、ひょっとしたら彼女がネコっぽくてかわいいからなのかもしれない。
「この子すっごいかわいいねぇ。陽美も抱いてみようよ」
「遠慮しとくよ。噛みつかれたら怖いし」
「噛まないよねー。こんなにかわいいんだからねぇー。よしよし」
 ここで油を売っている暇はない。早く早紀のために先生を呼んでこないと。
「はいはい、かわいいのはわかったから、いまは保健室に行くのが先でしょ」
「ちぇっ、陽美のいじわるぅ」
「いじわるでいいよ」
 桜華と話しながら、周囲を見渡す。そういえば、教室を出てから、他のクラスの人たちに出会っていない。騒ぎになっていてもおかしくないのに、人の声が聞こえない。
 陽美は近くの扉に走り寄り、開けた。そこはC組であるはずだった。友達や部活仲間がたくさんいるC組。
 彼女たちは消えていた。代わりにいたのは、サルだ。サルがうじゃうじゃと群れ、叫び、走り回っている。
「うわぁー、なにこれすごい!」
 陽美の後ろから桜華がのぞき込み、感嘆の声を上げた。
「……おい、桜華、C組のみんなはどこに行ったんだ?」
「あー、そういえばいないねぇ」
 彼女に聞いても何もわかるわけがなかったが、陽美は誰かと声をかわさなければ正気が保てないように感じた。ここにきて、恐怖がひしひしと押し寄せてくる。
「とにかく、ここはいったん帰ってよしさんと相談しよう」
 恐怖感が陽美を慎重にした。このまま階段を探しても埒が明かない。今必要なのは、冷静な観点からの知恵だ。残っている人でそれを一番与えてくれるのは代志子だろう。
 桜華の手を引いて、教室に戻ろうとしたとき、ふと、違和感を覚えた。
 全身の皮膚が硬くなり、さぁっと鳥肌が立つ。心臓の鼓動が早くなり、胸の奥が冷たい。
 一瞬遅れて、意識が現状を把握した。
 大きな影が、自分の体にかかっていたのだ。
 それは、明らかに人間の形をしていなかった。
 しかし、完全に見覚えがないわけではない。一番近いものといえば……。
 ネコだ。
 化けネコだ!
 天井に達するほど、背の高い、巨大なネコが、二足歩行をしてゆっくりとこちらに近づいてくる。
 ニャー! ゴロゴロゴロ!
 化けネコは驚くほどネコに近い鳴き声を上げた。
「……桜華、もしかしてあれも『かわいい』に入るのか?」
 ゆっくりと後退しながら聞く。
「さすがにかわいくないよぉ……」
 桜華の声は震えていた。
 ゴロゴロニャー! ニャーゴロゴロゴロ!
 化けネコは甘えた高い声を出し、喉を鳴らす。手で顔を洗う仕草もとてもネコっぽい。
 刺激しないようにゆっくりと後退する陽美の足に何かが当たり、思わずつまずいて倒れてしまう。
 キキィー! 甲高い鳴き声が聞こえた。サルだ。
 鳴き声はさらに増えていった。そこらじゅうに、サルがあふれかえる。
 陽美の体の上に遠慮なくサルたちが乗る。興奮したサルを刺激しないように、ゆっくりと起き上がるが、サルは彼女を無視して走り抜けていく。
 サルの群れは化けネコの周りに集まる。ネコの肩や頭に乗り、顔をこすりつける。ネコのほうも、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「ほ、ほら! ネコはやっぱりネコだよ! 大丈夫、怖くないよ……」
 桜華がネコに触れようとおそるおそる前へ出る。陽美は止めようと肩に手を伸ばした。
 そのとき、ネコが前脚を振り上げた。地に触れていないそれは、脚というよりも、手に近かった。
 肉球の先からは、短剣のように鋭い爪が見えた。
 爪は、一匹のサルめがけて下ろされた。
 陽美は、スローモーション映像のようにその光景を見ていた。何回か陸上競技の試合でも経験があった。極度に緊張したとき、認識が研ぎ澄まされ、時間が遅くなったように感じるのだ。
 爪は、サルの首筋をえぐる。ズボボボボと爪が皮膚のなかに入っていく。
 傷口からは、血が出る。ポタポタとしたたり落ちていたものが、傷が深くなるにつれ、シャワーから出るように勢いが増す。毎月見ている血よりも、もっと鮮烈な赤。
 桜華は呆然としている。悲鳴すら出せないようだ。
 おかしなことに、サルもまた同じだった。数十匹いるサルたちのなかで、騒いだり逃げたりするやつは一匹もいない。いや、それどころか、仲間を殺されたことで、ますますネコに魅了されたように近づいていく。その数はどんどん増えている。
 化けネコは、集まってきたサルたちを無作為に殺戮していった。ニャーニャー鳴きながら、適当に手を振る。その都度、血溜まりができていく。
 殺戮が終わると、サルの死体の一つを両手で器用に持ち上げる。顎を大きく開き、死体にかじりつく。犬歯が釘のように肉へと刺さり、ミシミシと骨が折れる音がする。
「ギャァァァァァァァァアアア! アアアアアアアアアアッ!」
 時間差で桜華の悲鳴が上がった。ネコがこちらに初めて気づいたように、ひょいと顔を上げる。興味を持ったようで、あくびをしてのっそのっそと近づいてくる。
「おい! おれが相手してやる!」
 気がつくと、体が動いていた。呆然としている桜華の前に出て、手を広げる。
「桜華、教室に行ってみんなに警告して!」
「えっ、けど……」
「いいから!」
「う、うん。わかった。死なないでよ!」
 我に返った桜華は、走り出した。
 化けネコは、妙に落ち着いてこっちを見ていた。走り去る桜華を、目で追っているようだ。
 桜華のところに、みんなのいる教室に行かせてはならない!
 上履きを脱ぎ、化けネコの顔に思い切り投げる。素早くC組に入り、掃除道具入れにあったモップをかまえる。
「こっちに来い!」
 化けネコは、陽美のほうを見て、にやりと笑った。まるで、陽美がおとりだと理解しているように。

天沢千宙

 地震がきたとき、千宙の脳裏をよぎった言葉は「これで死ねる」だった。
 正確には、「これで幾久世と一緒に死ねる」。
 幾久世と一緒に死ぬ。それは、人生における唯一の望みだった。何も期待していない人生に唯一期待すること。
 千宙は過去に何度も自殺することを想像していた。心臓の鼓動が止まり、脳に酸素が行き渡らなくなり、意識が遠のき、自分の瞳孔が拡大するのを想像した。
 だけど、どうしても死に至る一歩を踏み出すことはできなかった。結局は、怖いのだ。自分には、自殺する勇気すらないのだ。世界から逃げ出す決心すらつかない臆病者なんだ。苦しみながら、苦しみを享受している愚か者。生きる価値がないとわかっていながら、生にしがみついている。
 このまま世界に押しつぶされながら生きていかなくてはいけない。価値のない人生を保つという浅ましい行為を毎日繰り返すしかない。千宙はずっとそう思っていた。
 幾久世の登場で、その認識が少し変わった。
 彼女は特別だった。深遠なるその言葉の一言一言に、殴られたような衝撃を受けた。千宙は幾久世の存在と出会って、新しく生まれ変わったのだ。幾久世は『契約の儀式』をしてくれた。千宙を『血盟のシスター』として認めてくれた。その儀式は、苦しくてしかたがない世界のなかでの、唯一の安息の地であった。
 幾久世と永遠に一緒になりたかった。一方、そんなことは夢であるとわかっていた。人が永遠に一緒になることなどできない。下手すれば、一年後の卒業で関係性は終わりを迎えてしまう。
 二人で一緒に死ぬ。そのような発想に千宙が行き着いたのは必然であった。永遠に一緒になれないならば、一緒に終わりを迎えるべきだ。死という、人生最大にして最後のイベントを、二人で一緒に迎えるのは、美しくまた正しい。
 外に出すことができない思いは、内なる想像となった。手をつなぎながら、ロープに首を通し、せえので椅子を蹴る。風呂場でお湯につかりながら、ナイフを持ち、互いの手首を切り裂く。抱き合いながら、プラットホームから身を投げ、電車にはねられる。密室となった車内で練炭を焚きながらおしゃべりして気づいたときには死んでいる……。
 そうした想像をするなかで、自分に対して途方もない嫌悪感を覚えた。親友を、他ならぬ幾久世をおもちゃにして遊んでいるのだ。それがどれだけ彼女の尊厳を傷つける行為か、わかっていないのか? 幾久世と心中する想像をした後は、必ずといってよいほど、嘔吐感に苛まれ、自分を罰することができないのを悔いて、自らを恥ずかしく思った。
 幾久世と一緒に事故で死ぬ、という願望が、ある種の妥協として生まれた。心中願望よりも、幾久世の尊厳を傷つけない気がした。幾久世と一緒に保健室にいるときに、地震が起きて天井が崩れて死ぬ。幾久世と海水浴をしているときに、津波が襲ってきて死ぬ。幾久世と登下校しているときに、暴走したトラックが二人を下敷きにする……。ありとあらゆる事故や災害を思った。ユーチューブで東日本大震災やスマトラ島沖大地震の映像を集め、そこに自分と幾久世の姿を投影した。幾久世と一緒のときに、小さな地震が起こると、大地震につながることを願った。
 そして、いま、地面は揺れていた。明らかなる大地震だった。望んでいた死が、ついにやってきたのだ。
 千宙は、幾久世のできるだけ近くで死にたかった。揺れのなかを、匍匐前進で進む。幾久世のところまで五メートルくらいだ。机が倒れ、腰に当たるが、知ったことではない。
 幾久世の顔が近づいてきた。怯えている。恐怖に引きつった顔だ。千宙が移動してきたことに気づいた幾久世は、恐怖の表情を無理やり笑いに変えようとした。唇の端がピクピクと震え、うまく笑えてはいない。
「しっ、シスターよ。こっ、怖いのか? 安心しろ……、我が力で、力で、そなたを守る……守るぞ……」
 つっかえながら、喉から絞り出すように、かすれた声で幾久世はささやいた。
 千宙はわかった。幾久世は自分を安心させようとしているのだ。千宙が近づいてきたのは、怖いからだと勘違いして、安心させようといつもの調子でしゃべろうとしているのだ。幾久世自身も怖いくせして。
 その途端、自分の願望がひどく浅ましく、唾棄すべきものとして感じられた。幾久世は、恐怖を押し殺して助けようとしてくれている。対して、自分は彼女の死を願っているのだ。論外だ。どんな強烈な言葉を使っても表しきれないほどグロテスクだ。気持ちが悪い。まっさきに死ぬべき存在は天沢千宙、おまえだよ。
 幾久世は死を望んでいないのだ。では、自分にできることは何か。贖罪の意味を込めて死ぬべきなのか。いや、それはまだ早い。いずれはこの無価値な肉の塊を世界から消し去らねばいけないが、いまはそのときではない。
 千宙は幾久世の上にかぶさった。彼女を守るためだ。飛んでくるガラス、倒れる椅子、落ちてくる天井。あらゆるものから幾久世を守るために、千宙は盾になった。
 しばらくして、揺れは収まっていく。
「千宙……シスター……大丈夫?」
 息も絶え絶えで、幾久世が聞く。
「大丈夫……ありがとう……」
 四つん這いでかぶさったまま、幾久世と向かい合う。この姿勢で顔を見合わせると、ひどく恥ずかしい。そそくさと、千宙は幾久世の体から離れた。
 揺れが収まり、クラスメイトたちの悲鳴がなくなり、互いを心配し合う声に代わった。
 ところが、また大混乱が起こる。
 窓の外の世界が変容していたのだ。地方都市の平凡な風景は、大森林に変わっていた。
「なに、これ……、夢でも見てるの?」
 幾久世がつぶやく。
「夢じゃないよ、幾久世」
 千宙は幾久世の震える手をそっと握った。自分の心臓の鼓動が耳に響いて聞こえる。不安や恐怖ではない、高揚だ。
 何が起こったのかわからない。ひとつだけ確かなことは、幾久世が隣にいるということだ。
 幾久世と一緒に、異常事態のただなかにいる。千宙を興奮させるのに、それは十分すぎるものだった。

 その後、代志子の指示により、クラスの落ち着きは取り戻された。薫先生が一人ひとりに話しかけて、安全を確かめる。
「いったい、何があったんだろうね……?」
「うむ……。我の力を持ってしても、見当がつかない。何か未知のパワーがあるかもしれぬぞ」
 幾久世と話す。その内容は何でもいい。ただ、幾久世の声が聞きたい。幾久世の呼吸の音が聞きたい。幾久世の筋肉が擦れる音が聞きたい。彼女の言葉が未知のパワーだ。目を閉じ、頭のなかで彼女の声をリフレインする。
 そこに邪魔が入る。
「ねえねえ、これ絶対、異世界転移だと思うんだけど。幾久世の意見ではどう?」
 月波だ。確か、幾久世と仲が良かったはずだ。幾久世と一緒に会ったけれども、どうも馬が合わない。彼女は完全な俗物だ。なお悪いことに、それを自覚していない。しゃべっていて、仲間にしてやるという傲慢な態度が見え隠れする。高潔な幾久世には絶対にふさわしくない人間だ。
「ふーむ、異世界転移か。我々の力と世界の力が共鳴したわけだな」
 優しい幾久世は凡人の月波にも話しかける。あんなやつ、無視しておけばいいのに。
「世界の力の共鳴! 幾久世殿! ユングですよ! ユング!」
 真美だ。こいつは知識を誇示しようとする傾向があるから嫌いだ。
「ユング?」
 幾久世も戸惑っているようだ。
「ユングを知らぬとは、幾久世殿、ダメですねー。ユングは集合的無意識の力を証明した心理学者で、わたしは二十世紀で最も偉大な人物だと思ってますよ」
 こうなれば、会話に入ることができない。幾久世との距離が広まっていく。二人への憎しみが増える。同時に、自分への嫌悪感も増える。結局、友達を取られて嫉妬しているだけなんだ。高潔な幾久世に絶対にふさわしくない人間? それは、天沢千宙、おまえだよ。自分の嫉妬と独占欲を、はき違えて他人を責める。卑怯なろくでなしだ。生きる価値もない。絶対に、一分たりとも生きる資格はない。
 遠くから足音が聞こえた。桜華と陽美が帰ってきたのだろうか。
 ガタッ。勢いよく扉が開く。
「たいへんっ! たいへんだよぉ!」
 裏返った声だ。顔をあげると、すごい形相をした桜華がいた。なんと、血まみれだ。
「桜華ちゃん! 怪我しているの!? 大丈夫!?」
 代志子が飛ぶように桜華のもとへ走る。
「ぼくの血じゃないよぉ。それより、ネコの化物が……」
 桜華はぐらりとめまいを起こしたようにバランスを崩した。あわてて、代志子と薫先生が支える。
「とにかく、落ち着いてください。深呼吸、深呼吸」
 薫先生が優しく言う。
「龍造寺さん、何があったのですか?」
「でっかいネコがいて、サルを殺して……」
 桜華はまとまりのないことを叫ぶ。
 薫先生は頭に疑問符を浮かべたようだが、すぐに、警戒するように教室の扉に近づいた。外から、ゴソッ、ゴソッと忍び足をしているような音が聞こえたのだ。
「みなさんは、下がっててくださいね」
 いつもとは大違いの真剣な表情で、ドアノブをつかみ、扉を開けた。
「えっ?」
 そして間の抜けた声を出す。
 巨大なネコの化物。前屈姿勢で二足歩行をしたネコが、目の前でにやりと笑みを浮かべていた。気味が悪いほど人間味のある笑顔。
 薫先生は、あわてて扉を閉じる。ドアノブが回らないように固く握る。
 ところが、するすると手のなかでドアノブがすべっていく。扉がすごい力で押され、開いた。そんな馬鹿な。動物が、扉の構造を理解しているなんて。
 化物の前脚の先は、人間の手と見間違うほど似ていた。肉球が肥大化して、指のようになっている。ピンク色のぶよぶよとした『指』で、ドアノブを器用に握っている。
 薫先生は、離れようと後退するが、椅子につまずいてしまう。
 ネコが先生に接近する。脚先の、指のように肥大化した肉球の先には、サーベルのように鋭い爪が伸びていた。
「あっ……、あっは……、かっ」
 先生は、喉の奥からそんな音を発した。悲鳴を出したいのに、恐怖で力が抜けたというように。
 結局、その音は悲鳴とはならなかった。ネコが爪を振るった瞬間、声は、しゅーしゅーという息に変わる。
 切られた喉から血が大量に放出され、息はぽこぽこという気泡音になる。
 化物は倒れ込む先生を抱きかかえるように受け止めた。鋭い犬歯がそろった口を開けると、頭にかみつき、そのまま首をねじる。
 ごぎゅっという音がした。薫先生の首が、ありえない角度に曲がっている。
 どこにこれだけの液体が隠れていたのだろうか? そう思えるくらい大量の血が、うつろに開いた口から流れてくる。
 爪が、薫先生の顔に振り下ろされる。ばしゅっ、ばしゅっ。湿った音とともに、肉がそがれ、骨が割れていく。やがて、ぬちゃぬちゃとした茶色いやわらかなものが出てきた。
 脳だ。
 化物は「みゃー!」と嬉しげな鳴き声を出すと、舌をひくひく動かし、脳をなめとった。
 血が、教室の床を伝って流れ、足元まで伝わってくる。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 悲鳴がわき上がる。化物から遠くへと逃げようと、逃げまどう人々。
 千宙は、動かなかった。
 こいつが、私に死をもたらしにきたのか。生きる価値のない生を終わらせにきたのか。自分で終わらすことができない、醜い卑怯者の天沢千宙に代わって。
 いつの間にか、化物が目の前にいた。獣臭い息が嗅ぎ取れるほど。化物の口からは赤と茶色が混ざったようなドロドロした粘液が垂れ下がっている。薫先生の脳だ。
 ゴロゴロゴロゴロ。ネコとそっくりに喉を鳴らした化物は、口から粉々になった骨を吐き出し、間近に迫った千宙を見る。鋭い爪を持った手が振り上げられる。
 体が震えるのを感じる。怖い。この期に及んでも死ぬのが怖いのだ。逃げ出したくなるのを必死でこらえ、眼をつぶる。爪が自分を切り裂き、すべてが終わるのを待つ。
「千宙!」
 体が押され、床に倒れる。眼を開けると、幾久世の顔があった。
「千宙! 何してんのさ! 逃げなきゃ!」
 幾久世が千宙に手を伸ばす。その後ろでは、化物が、二回目の攻撃を開始しようと手を上げていた。
「幾久世ぉぉぉ! 後ろ!」
 千宙は叫んだ。
 幾久世は後ろを振り向いたが、避けるだけの時間がなかった。ナイフのような鋭い爪が振り下ろされる。

神木月波

 窓の外の風景が変わったことをみんなが騒いでいるとき、月波だけは、この事態を適切に理解していた。
 異世界転移だ。
 クラス全員が異世界に移動したのだ。
 月波はこの後、どのような展開になるかを思い描いた。きっと、自分に最強の能力が与えられてクラスのピンチを救うに違いない。
 そんなことを考えていたので、ネコ型のモンスターが侵入してきて、薫先生を食ったときも、パニックに陥ることはなかった。これこそ、予想していた展開だ。
 試しに、モンスターに手を向けて、力を込めて念じた。何も起きない。火炎も、電撃も、水流も、爆発も、時間停止もなし。
 月波は悟った。特殊能力はまだ備わっていないようだ。今回のイベントは、力を発揮するときではないのだろう。たぶん、ヘイトが溜まっているやつが死ぬような展開だ。いじめをしてそうなリア充の純華や早紀とかが。そういえば、早紀は腹痛で倒れていた。おそらく、死ぬな。ざまあみろだ。あれは死んだほうがいいたぐいの人間だ。
 とりあえず、ここは逃げだ。教室の後方の扉を開けて、廊下を走る。クラスの半分くらいが殺されてから、自分が救世主になるとか、そういう展開になるのだろう。
 他のクラスの生徒がいるかと思ったが、誰もいない。代わりに、小さなサルのような生き物がうろうろしている。異世界の生物だろうか。
 サルもどきの合間をぬって、階段まで走るが、なんと、ボロボロになって崩落している。これでは下へと行けない。
 モンスターがここまでやってきたら戦うしかないではないか。戦う……。そういえば……。月波は思い出す。自分が武器を持っていたことを。
 パーカーのポケットを探る。硬い鉄の感触がする。拳の形に合うよう鋳造された鉄の塊。メリケンサックである。ファッションのために、ネコの耳がデザインされている。
 中学生の頃、いじめられていたときに対抗手段として持ち歩いたものだ。いじめがなくなった後も、お守り代わりにいつもポケットに入れている。
 月波はメリケンサックをはめて、ファイティングポーズをとった。崩壊した螺旋階段を背景に、制服の上にパーカーを羽織り、おしゃれなメリケンサックをつけている。身震いするほどかっこよいではないか!
 月波が自分のかっこよさに惚れ惚れしていると、遅れてクラスメイトたちが逃げてきた。そのうちの一人が話しかけてくる。
「あー! それ、メリケンサック? すごーい、かっこいいね!」
 センスのいいやつはやっぱりいるものだ。顔を見ても名前がすぐに出てこなかった。こいつは……、そうだ、氷室小夜香だ。すごいスキンシップが好きなやつというイメージしかない。
「ねぇ、それ、ちょっと貸してよ」
 貸すわけないだろ。何考えてんだよ。そう言おうとする前に、小夜香が月波の背後に回った。そして、両手を伸ばし、月波の手にはめられたメリケンサックをなでる。背後からハグされた格好だ。
「えっ……? ええぇ!?」
 戸惑う声にかまわず、さらに小夜香の顔が近づき、月波の肩に顎が乗った。
「ちょっとだけだから、お願い、いいでしょ?」
 小夜香のささやき声が、月波の頬を震わす。小夜香は低体温のようで、皮膚は少しひんやりしている。対照的に、月波は自分の体温が上がっていくのを感じた。こっちは元ボッチなんだぞ、スキンシップに慣れてないんだ。
 照れていることをごまかすため、咳払いをして、頭を縦にふる。
「やったー、前々から月波ちゃんと仲良くなりたかったんだ。かっこいいもん」
 そう言いながら、小夜香が月波の指をなでるようにしてメリケンサックを奪っていく。こいつは、いちいちスキンシップをしなければ気がすまないのか!?
「うわー、本物って初めて見た。シュンシュン! シュンシュン! なんてね」
 わざとらしい効果音を口ずさみながら、腕を振る小夜香。
「小夜香ちゃん……、こんなことしてて、大丈夫かな……」
 ひどく常識的なことを言ったのは、小夜香の腰ぎんちゃく、あゆむだ。
「そうは言っても、階段崩れてちゃあ逃げられないしね~。それとも、何か提案があるの?」
「えっ、その……。ごめんない……」
「わかればいいってことさ」
 二人の会話に月波が入る余地がなくなる。なんとなく、気に入らない展開になってきたので、メリケンサックを返してもらい、その場を離れる。
 手持ち無沙汰となり、同じく、逃げてきた真美に話しかけようとした。そのとき、ひときわ甲高い鳴き声が響く。ネコが踏み潰されたときに発するような、「にゃー」の「に」に濁点を付け足したような声。騒音も聞こえてくる。人の叫び声も。
 どうやら、音はA組のほうから出ているようだ。
 騒ぎは一分ほど続いただろうか、プツリと急に鳴き声は途切れ、静かになる。
 そして、その場にいる一同のスマホからアラーム音や楽曲が流れる。着信があったのだ。さっき見たときは電波がなかったのに。
 月波はスマホを取り出した。

空上ミカ

 動物の部位のなかで、一番栄養が豊富なのは、脳だ。だから、肉食動物は獲物をしとめたとき、まっさきに脳を食べる。
 薫先生が食べられているときにミカの頭に浮かんだのは、いつか読んだ本の文章だった。
 ネコは肉食動物のなかの肉食動物だ。ネコ科動物は雑食することなく肉しか食べない。ネコ科動物が食べる肉のなかには、人類も入っていた。
 いま、三年A組でその歴史が繰り返されようとしている。
 薫先生の脳を食べたネコは、座り込んだまま動かない千宙のほうへ向かっていく。
 もう、他人にかまっている暇はない。あまりしゃべったこともない同級生より、いまは早紀だ!
「早紀、逃げよう!」
 ミカは思わず、苗字でなく名前で呼んでしまった。実際に声に出したのは初めてだった。
 ミカは早紀を抱きかかえて、教室の外に逃げようとする。しかし日頃の運動不足が災いして、少しも動かない。人がこんなに重いなんて。ノロノロと早紀を引きずる。
 ネコのほうをちらりと見ると、千宙と幾久世を狙って、手を振り上げていた。
 ふたりにこれから訪れる死を思って、ミカは目を背けた。
 そのとき。
「うぉぉぉぉぉぉおおおお!」
 叫び声とともに、陽美が現れた。
 陽美はモップを振り回し、ネコに殴りかかる。ネコは大したダメージを受けている様子もないが、千宙への攻撃を止めて、陽美に向かいあった。
「先生を殺したな! 許さない!」
 陽美は猛攻を始めた。モップを剣のように使い、ネコの腹を狙って打ち付ける。
 ネコのほうも負けてはいない。巨体に似合わず、軽々とした足取りだ。指めいた肉球で、打たれたモップをつかむと、ジャンプして机に上がり、陽美の手からモップを抜く。手に入れたモップを興味深そうに眺め、陽美めがけて投げる。陽美は腕を交差して防御する。ネコはその機会を逃さず、バレリーナのように一回転して尻尾で陽美を払った。
 鞭で叩くような音がして、陽美は転ぶ。
「陽美ちゃん!」
 代志子が陽美を守るように、両手を広げてネコに向かう。代志子に策があったわけではなく、反射的な行動のようだ。気高い行動だが、このままでは殺されてしまう。
 絶体絶命だ。こういうとき、どうすればいいのだろうか。神に祈るべきなのだろうか? 
 こんな状況でも、ミカは神の存在を信じられなかった。ただ、早紀を抱きしめ、目をつぶり、現実から逃げるしかない。
 早紀の体が動いた。けいれんするように、顔を床にたたきつける。
「早紀、苦しいの!?」
 ミカの呼びかけには答えないまま、早紀は顎が外れるかと思うくらい大きく口を開いた。口から吐しゃ物が出てくる。茶色い未消化の朝ごはん。トースト、ヨーグルト、フルーツ。それらに混じって、こぶし大の柔らかそうなものが出てきた。黒いしわくちゃの塊。一見、臓物に見えた。脂でテカテカに光っている外見は、モツに似ていなくもない。だが、焼き肉屋で見ることができるモツとは違い、それは動いた。
 内部から強い力で押されている。何かが、中から出てこようとしているようだ。
 ぶちゅぶちゅぶちゅぶちゅ!
 昆虫のように節くれだった長い脚が、表面の膜を破っていくつも飛び出てくる。
 脚は、塊を中心にして放射状に生えていた。それらは、無秩序にブルブル震えている。
 やがて、その動きが規則正しくなってきた。脚は塊を支えて床に立つ。まるで、クモのようだ。
 ガサガサガサガサ。臓物クモが床を這う。
 向かう先は、ネコだ。
 俊敏な動きで、クモはジャンプした。無数の脚が、ネコの首元に絡みつく。
「にゃぁ~!」
 面倒くさそうな鳴き声とともに、ネコは臓物クモを払おうと手を動かす。
 その瞬間、ネコの声が大きく変わる。甲高い、苦悶を秘めた悲鳴に。
 クモの内部からは、白く、まっすぐな棒が突き出ていた。
 ぐちゅんぐちゅんぐちゅんぐちゅん!
 棒は、回転していた。すさまじい勢いで、ドリルのようにネコの首元をえぐる。
「にぢぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 ネコは叫び声をあげ、臓物クモを叩き落とそうとする。殴りかかるが、接着剤で貼り合わせたように動かない。脚の先端が皮膚のなかに入り込んでいるのだ。
 痛みに苦しむネコは、大暴れする。体を机や床にぶつけて、不気味な寄生者をはぎ取ろうとする。
 だが、クモにはダメージがないようだ。それどころか、どんどん大きくなっていく。ぶよぶよと、膨張していく。しわくちゃの風船に、空気が入れられたように。生物を栄養にして成長するキノコのように。
 膨らむにつれて、クモの体は赤味を帯びていく。腐ったトマトみたいな、醜悪な赤。
 ネコの声が小さくなり、かすれていく。
「にぃぃぃぃぃゃぁ……ぁぁ……」
 その声も、ついに途切れる。ふらふらっと、よろめいたかと思うと、バランスを失って倒れる。
 ネコの体は、縮んでいた。かつて見たことのある、カラスの死体を思い出す。路傍に捨てられたまま、アスファルトの熱で乾燥していた。同じように、ネコも干物のようになっていた。小さくなった顔から、眼球が突き出ている。口から、吐き出されるように舌がたれる。
 もはや、それが生きてはいないことは明白だ。
 ブヨブヨと膨らみ、赤みがかったクモは、死んだネコの体よりも大きくなっていた。きっと、ネコの血を吸い取ったのだ。
 突然のことに、クラスメイトたちはどう反応していいかわからないようだった。喜ぶことも逃げることもせずに、混乱して教室の惨状を見るだけ。
 ミカも同じであった。頭がオーバーヒートして、一種の無感動状態に陥っていた。
「──あなた、なぜ、わたくしを抱いているの?」
 早紀の声がミカを現実に引き戻す。早紀はもはや苦しんでいないようだ。すっきりしたという表情でハンカチを取り出し、口周りをふいている。
「あっ、ごめんっ、八倉巻さん……」
 ミカは早紀から離れる。
「別に責めたつもりはないのよ。介抱してくれたのでしょ」
 立ち上がった早紀は、巨大化した臓物クモをしげしげと眺めた。
「で、これはいったい何なのよ?」
「いやー、わたしに聞かれてもさっぱり」
「空上さん、いつも本ばかり読んでるじゃない。物知りなんでしょ?」
「さすがに、この異常事態には対処不可能で……」
 二人の会話で、ようやく、クラスメイトたちは麻痺から脱したようだ。
 純華が、早紀に走り寄ってくる。
「早紀っち、ごめん、あたし、怖くて逃げた。助けられなかった……」
「純華、いいのよ。気にしないで」
 涙ぐむ純華をなぐさめる早紀。
 純華は涙をぬぐうと、ミカのほうを向いた。
「空上さん、早紀を助けてくれて、ありがとう。早紀ってツンデレなところもあるから、わからないと思うけど、喜んでると思う」
「ツンデレって何よ」
 早紀が純華の脇腹に軽く肘打ちする。
「そういうところだってー」
 純華もやり返す。その表情には、少しだけ笑顔が戻っていた。
 仲良しな二人の空間ができてしまい、ミカは会話に入れなくなる。
 そのとき、突然、スマホが震えた。
 ポケットから取り出すと、非通知設定で電話が着信していた。
 教室や廊下からも、着信音が響いてくる。クラスメイト全員のスマホに着信したのだろうか。早紀と純華のスマホからも音楽が流れてくる。
 意を決して、ミカは受信ボタンを押した。
 スマホの画面に、アニメキャラクターが浮かび上がった。CGでできた少女のキャラクターだ。巨大なリボンを頭につけて、スカートを着ている。
「みなさん、はじめまして! 未来からやってきました、シンギュラリティ人工知能のシグナ・リアです!」
 キャラクターは高いよく通る声で、宣言した。
「おめでとうございます! みなさんは、生命進化を守る戦士に選ばれました!」

第三章 シグナ・リア


神木月波

 その美少女キャラクターを見たとき、月波はバーチャルユーチューバーっぽいな、と思った。
 全体の雰囲気というか、CGの造形がそれっぽい。まん丸い眼。大きなリボン。髪の毛は長く、頭の上の方はピンク色だが、毛先に行くにしたがって白色にグラデーションしている。
 体のサイズに合っていない大きすぎる上着をマントのように羽織っている。それは、本人のオーバーな動きに合わせてパタパタはためいていた。表面が白で、裏面が黒だ。背中の側には、複雑に枝分かれしていく樹木のような模様が金色の刺繍で描かれていた。
「おいおいおいおい、なんだこれ?」
 思わずつぶやいてしまった。さすがの月波でも、この状況には困惑していた。地震が起こり、異世界に飛ばされ、先生がネコに食われた後、美少女キャラがスマホに映り、自分が戦士に選ばれたと宣言したのだ。日々夢想に生きている彼女でも、こんなことは想像だにしていない。
「これっていうのは、ひどいなあ。わたしにはシグナ・リアっていうちゃんとした名前があるんだから。リアちゃんって呼んでよ」
 画面のなかのキャラクターは、大げさな身振り手振りをしながら高い声を出す。違和感のない動きだ。スムーズでCGであることを忘れるくらいだ。
「えっ、これって通話?」
 バーチャルユーチューバーは、中の人のモーションキャプチャーによってアバターを動かしている。シグナ・リアというこのキャラクターも、どこかにいる人が操っているのだろうか?
「もっちろん、ライブ中継中だよ。月波ちゃん」
 いきなり呼ばれてドキッとした。
「てか、なんで、わたしの名前知ってんの?」
「シンギュラリティAIですもの、そのくらいおちゃのこさいさい」
「シンギュラリティって何?」
「技術的特異点のことですな」
 真美が会話に入ってくる。彼女のスマホにも、やはりシグナ・リアの姿が映っている。
「人工知能が発達するにつれて、知能がどんどん高くなり、人間を超越するレベルになった時点のことですよ。たしか、二〇四五年だという予想がありましたな。リア殿も、二〇四五年からやってきたのですかな?」
「うーんと、正確な日時は秘密だけど、未来からやってきたというのは本当だよ」
「ちょっと、ちょっと。待って、待って」
 月波は話についていけなくなった。
「中の人がいるんじゃないの? Vチューバーみたいに」
「あはは、この格好だから誤解させちゃったかな? リアちゃんは本物の人工知能だよ」
「じゃあ、さっき言ってた、進化を守る戦士にわたしたちが選ばれたってのも本当なの?」
「イエスイエス。みんなに、生命進化を守る戦いに参加してもらうためにここにきたんだから。詳しくは、みんなを集めてから話すから。A組に戻ってね」
「いや、あそこにはモンスターが」
「そいつもう退治したよ~」
 本当かと思いつつ、教室のほうを見ると、代志子が走ってきた。
「よしさん! 大丈夫だったの?」
 鹿野が涙を流して、震える声で代志子に抱き着く。
「心配させてごめんね」
 代志子は、鹿野の背中を軽く叩く。
「リアちゃんのおかげだよ~。感謝してねっ」
 スマホのなかのリアがアピールする。
 代志子は声のボリュームを上げて、階段の前に集まっていた生徒に語りかけた。
「みんな、怪我はない? 大丈夫? 何が起こっているか、わたしも全然わかんないけど、リアちゃんっていう子が説明してくれるそうだから、とりあえず、A組に集合して」
 クラスメイトたちはざわめくが、代志子に従って教室に歩いていく。その顔には不安の色が浮かんでいるが、月波は内心ウキウキしていた。自分が世界を守る戦士に選ばれたのだ。
「やあ、ルナっち。なんだか、面白そうなことになってるね!」
 小夜香に背中を叩かれた。いつの間にか、オリジナルのあだ名が生まれていたが、悪い気はしない。彼女はリア充グループだけど、仲良くなれそうだ。氷室小夜香という名前もかっこいい。氷に夜。クール系だ。もしもアニメキャラクターだったならば、髪は水色としてキャラデザされていただろう。いや、白髪とか銀髪もいいな。
「面白いって……、薫先生死んじゃったんだよ……」
 会話に水を差すのは、鹿野だ。代志子の金魚の糞みたいなやつだ。
「ごめんごめん、そうだよね。人が死んでるんだもん、真剣にならないとね」
 小夜香は両手を合わせて頭を下げた。鹿野は涙をぬぐって、何も言わずに足早に去る。
 A組に到着する。代志子の言うとおりにモンスターは死んでいた。ヴァンパイアに血を吸われたように干からびている。その上には、奇妙な物体が乗っている。ダークファンタジーで、黒魔術の犠牲になった人が変身してしまったような姿、あるいはSFホラーで、全身の細胞が暴走増殖してしまった人の姿といえよう。本体は人の高さほどある丸い肉塊で、ぐにゃぐにゃと脈動し、昆虫系の脚を何本も生やしている。
「なにこれ?」
 リアに聞いてみた。
「それはねー、いまここで名前をつけるとすると『タイムポータル』かな? リアちゃんはこれを使って未来からタイムトラベルしてきたのです」
 この外見でタイムポータルとは……。
「みんな、集まった? 怪我してない?」
 代志子が集まった一人ひとりの顔を確認する。A組全員が無事に集まったようだ。
「みんなわかってると思うけど、いま、異常事態が起きてるの。スマホに映っているシグナ・リアっていう子が、このことを説明してくれるそうだから」
「はいはい、そうですよー。かわいいかわいいリアちゃんが説明しますからねー。ちゅーもく! ちゅーもく!」
 各々が持つスマホからリアの声が反響する。
「さっきも言ったけど、みんなには地球の生命史を賭けたゲームに参加してもらうから。いま考えたけど、その名も……」
 と、そこで月波はバランスを失い座り込んでしまった。他の人々も叫びながら、倒れる。
 ぎぎぎぎぎぃぃぃという鈍い音をたてながら、校舎全体が傾いていた。

杠葉代志子

 足場がぐらつき、代志子はしりもちをついてしまった。
 床が、ゆっくりと傾き始めている。机や椅子が窓のほうへと滑ってゆく。乾ききっていない血もまた、ゆっくりと流れる。
「何が起きているの!?」
 代志子はリアに怒鳴った。
「あちゃー、観測強度が足りなかったみたい。校舎を維持できるだけの宇宙の領域を確保できなかったか」
 リアは意味不明なことをつぶやく。
「解説はいいから。みんなを助けることはできないの?」
「モチモチロンロン、シンギュラリティAIにできないことは何もありませんよ」
「じゃあ、早く助けて!」
「うーん、どっしよーかなー」
 口元に人差し指を乗せて、考え込むしぐさをするリア。
「人にものを頼む態度を示すんなら、考えてあげてもいいんだけど」
「お願いします。リアさん。みんなを助けてください」
 こちらの姿がわかるのか不明だが、スマホに向かって頭を下げる。
「まっ、助けてやってもいいんだけどさー。この後、戦いに参加してくれなきゃ、助ける価値ないっていうか」
「それは……わたしには何もいえないから……個人の意思に任せるべきだと思う……」
「いやいや。リーダーなんでしょ。責任持ってよね~」
「そういうわけじゃなくて、生徒会長ってだけだから……」
 床の傾きがひどくなる。クラスメイトたちが滑っていく。
 そうだ。しおりを助けなくては。どうして、忘れていたんだろう。彼女は片足が動かせないのだ。この状況のなかで、真っ先に助けを必要としている人だろうに。
 しおりの姿を探す。桜華が助けてくれていた。ほっと胸をなでおろす。
「もしもーし。聞いてますかー? リーダーさん。このままでいいの?」
 床の傾きがさらに急になる。校舎全体が崩壊するまで、時間はあまりないだろう。
「……わかった。戦いに参加するから。早くみんなを助けて!」
「オーケー、その約束、忘れないでねリーダーさん」
 化物の上に乗っていた肉塊が、何本もの脚をゴソゴソゴソと動かして窓側に移動した。肉が盛り上がる。
 ぐちゃべちょ。やわらかいものが破ける音がして、肉が裂けた。なかから現れたのは、骨で作ったような、白いはしごだ。肉塊のなかに入りきらないほど長いはしごが、窓の外へと降ろされる。
 代志子はひびが入った窓を通してはしごを見た。近くで見たら、ひどく細い。こんなもので下まで行けるのだろうか。
「タイムポータルで合成したはしごだよ。一トンくらいの重さまでは耐えられるから心配しなくて大丈夫」
 自信を持って宣言するリア。
「よしさん。まず、おれが試す」
 一番最初にはしごに手をかけたのは、陽美だ。軽やかな身のこなしで、するすると下降する。
「大丈夫みたい! 見かけによらず、かなり丈夫だ!」
 地面にたどり着いた陽美が叫ぶ。
「わかった。みんな、一列に並んで、避難を開始して!」
 もはや一刻の猶予もなかった。校舎がきしむ音は大きくなり、崩落の瀬戸際だ。

空上ミカ

 代志子の掛け声で、クラスメイトたちは窓際に集まった。
 足が不自由なしおりは、どうするのかと思ったが、なんと桜華に抱っこされたまま、はしごを下っていった。しおりの顔は耳まで真っ赤だった。
 はしごを待つ列は、着々と短くなっていった。早紀と純華と愛理が下ったあとは、月波と小夜香とあゆむが降り、ついにミカの番になる。
 窓の外の冷たい風が顔を打つ。三階はこんなに高かったのだろうか。校舎が傾いているため、高さが際立つ。
 はしごは、頼りないくらいに細かった。親指くらいの太さしかない。
「もしもーし、ミカちゃーん。早くしてくださーい。降りなきゃ死にますよー」
 ポケットのなかのスマホが勝手にしゃべる。リアだ。
 ミカはごくりとつばを飲み込む。背に腹は代えられない。はしごに足をかける。
 恐怖で、手が震えてくる。筋肉がギュッと縮まる。
 下は見るな。下は見るな。見ると動けなくなってしまう。理性はそう命じるのに、なぜだか、眼は下を向く。高い。自分のなかにある位置エネルギーが存在感を発揮する。肉体を不可逆に損傷させるに十分なエネルギーだ。
 大丈夫だ。自分に言い聞かせる。位置エネルギーは素早く解放したときのみ危険であるのだ。ゆっくり解放すれば安全だ。いつも、階段でやっていることだ。その声は、筋肉に届かない。はしごのなかほどで、ミカは止まってしまう。
 助けて……。心のなかでつぶやいた。それに応えるように、救いが現れた。
 早紀の顔が視界に入ったのだ。早紀の目はミカを向いていた。ただそれだけなのに、早紀が見ていると意識したとたん、勇気がわいてきた。
 はしごを確実に握る。脚を動かし、一段一段ゆっくりと降りる。高度と反比例するかのように、安心感が生み出されていく。体を害するエネルギーが少なくなっていくのを全身で感じる。
 そして、地面に足が届いた。ほっとする安定感。緊張が抜けて、座り込んでしまう。
 校舎は、いつも見るものとは様変わりしていた。まるで、百年くらい放置されていたように、レンガははがれ落ち、細かな穴があいている。ほとんどの窓ガラスは割れ、窓枠ごと外れているものも多数ある。ミカが出てきたA組の周りだけが例外で、レンガも綺麗なままだ。
「警告! 警告! ミカちゃん。そこにいたら危ないよ。建物が崩れてくるからね」
 リアが警告する。ミカは慌てて立ち上がった。
「校舎の横の木陰に行って。崩れてもそこなら安全だから」
 リアの指示に従い、ミカとクラスメイトたちが移動する。自称シンギュラリティAIの言うことがどれほど信頼できるかわからないのだが。
「おおっと? リアちゃんの天才的知性を疑ってるのかな? ダメだぞ」
 心を見透かしたように、リアがつぶやく。
 クラスメイトが集まったのは、巨大な樹木の下だった。杉だ。落ち葉を見て、すぐにわかった。針のような葉があちこちに落ちている。
 杉は日本固有種だったはずだ。ここがパラレルワールドだったとしても、植生は日本列島と変わらないということか。
 はしごを伝って、代志子が降りてくる。A組の生徒のなかで一番最後だ。無事に降りきると、今度ははしごを出していた肉塊──『タイムポータル』と言うらしい──が降りてきた。クモのように、校舎の壁を伝う。タイムポータルは、はしごを体内に回収すると、代志子の後を追って杉の木陰に走ってきた。
 その直後、校舎が倒れた。
 ずいぶんとあっけない倒れ方だった。お菓子の城が壊れるようだ。ポロポロとレンガが落ち、やがて、一階部分がペシャとパンケーキのようにつぶれる。一階がつぶれた勢いで、二階と三階も、スライドしていき、がれきとなる。
 視界は一面真っ白に覆われた。がれきから土埃が舞ったのだ。口のなかに砂の感触がする。ミカはせき込んだ。
「みんな、無事?」
 誰かの声がする。土埃にさえぎられて発言の主は見えない。
「大丈夫大丈夫。この天才、リアちゃんの計算に間違いはないからねー」
 スマホからリアの声が聞こえる。
 数分後、土埃は去り、視界が戻った。幸いなことに、早紀は無事だ。他の人も、怪我をしている者はいないようだ。
 校舎があった場所には、半分以上崩れている廃墟があった。これが、伝統ある星智慧女学院の最期とは。
 そういえば、A組以外の人はどうなったのだろうか。自分のことに夢中で忘れていたが、逃げた形跡がないところを見ると、全滅だろうか。ひとまず、それは置いておこう。考えても仕方がない。
 代志子がみんなの無事を確認する。その確認が終わったところで、リアが話し始めた。すべてのスマホの画面のリアが同期して一斉にしゃべりはじめる。
「はーいはいはいはい。ちゅーもく! よく聞いてね! ちょっとトラブルがあったけど、これから大事なことを話すからね。みんなには、進化の歴史を賭けたゲームに参加してもらうことになったから。その名も、『大進化どうぶつデスゲーム』!」

神木月波

 大進化どうぶつデスゲーム。その名前を聞いて、月波の警戒心は一挙に高まった。
 デスゲームだと? デスゲームとは、キャラクターたちがゲーム的な形式のもとで、命を賭けた戦いをするというフィクションのジャンルだ。最も典型的なストーリーでは、すべてのキャラクターが互いに殺し合いをして、最後の一人のみが生き残るというものになる。
 デスゲームは月波が大好きなジャンルだ。中学生のとき、ネットフリックスで映画『バトル・ロワイアル』を観て衝撃を受けた。あまりに面白かったので、小説には慣れていなかったが原作も読みふけった。
 まずいな。月波は頭を抱えた。デスゲームものの典型では、最初の説明のときに見せしめとして一人は殺される。たいていの場合、犠牲者は反抗的なキャラだ。『バトル・ロワイアル』では、よそ見していたという理不尽な理由で女子生徒が殺されていた。ここは注意しなければならない。とりあえず、反抗的な態度をとるのはやめよう。
 デスゲームという言葉を聞き、クラスメイトたちもざわざわし始めた。動揺するみんなを代表して、代志子が質問する。
「そのデスゲームってのは、安全は保障されているの?」
「はぁ? されるわけないじゃん。デスってついてるんだよ。はい問題、デスの日本語訳は何でしょうか? 死でーす! 当然、危険は伴います。もしかしたら、死んじゃうかも」
 その宣言を聞き、泣き声が上がった。鹿野だ。両手で顔を押さえているが、指の間からは涙の川が漏れている。
「死ぬの……いやだ……薫先生も死んじゃったし……」
 代志子が鹿野を優しく抱く。
「リアちゃん」
 代志子が話し始める。
「わたしはデスゲームに参加するから、お願い。鹿野ちゃんは、外してあげて」
「はぁぁぁぁぁぁ? 何それ。それでもあなた、生徒会長? ちょっと前に全員参加するって約束したよね。リーダーの言葉だよね。約束って意味、わかる? あとね、泣いたら望み通りになるって、少しずうずうしくない?」
「なんだと! こいつ!」
 抗議の声を上げたのは、不良とも噂される、髪を金色に染めた萌花だ。あっ、死んだなと月波は思う。
 萌花はスマホを投げ捨て、タイムポータルに近づくと、蹴り始めた。
「シグナ・リア! おまえの本体はこっちだろ! かわいい面して、正体はこっちのキモイやつなんだろ!?」
 ボールペンを取り出し、タイムポータルに突き刺す萌花。肉塊からは、黒い体液のようなものが流れる。
「あーあ、烏合の衆じゃん。こんなバカしかいないなんて、リアちゃん運悪すぎー」
 リアが毒づくと、萌花の動きが止まった。ゆっくりと倒れる。
 陸に上がった魚のように、苦しげに震える萌花。皮膚に生気がなくなり、色が黒ずんでいく。
「萌花ちゃん!」
 代志子が萌花を抱きしめる。萌花の口から、赤い液体がたれた。血だ。
「大丈夫だよー。まだ死んでないから。遺伝情報を阻害して、たんぱく質が合成されないようにしただけ。まあ、あと数時間で死ぬけどね。実質的に致死量の放射線に当たったのと同じだから、すっごい苦しいと思うよ」
「お願い! お願いだから、萌花ちゃんを助けて! 殺さないで! お願い!」
 代志子が叫ぶ。かすれて声になっていないほどの悲痛な叫び。
「ふーん、じゃあ、大進化どうぶつデスゲームに参加するの?」
「参加する! するから、早く萌花ちゃんを助けて!」
「みんなも参加するよね?」
 リアに促されたA組の面々は、イエスと答えるしかなかった。鹿野も泣きながら震える声で「はい」と言う。月波にもここでノーと言う勇気はなかった。
「へぇ、萌花ちゃんって意外に愛されているんだ。まっ、みんな空気読んだってことかなー」
 萌花の震えが止まった。顔色も徐々に回復している。ぜえぜえと肩で息をしているが、なんとか立ち上がる。
「はいはーい。邪魔が入ったけれど、あらためて大進化どうぶつデスゲームの説明をするよー。てか、説明聞いたらみんなゼッタイ参加しなきゃって思うよ。何が起こっているのか知ったら」
 リアは両手を大きく広げた。
「およそ一時間前、宇宙全体が書き換えられたんだよ。いまいる宇宙は、ヒトが進化して知性を持った宇宙じゃない。ネコが進化して知性を持った宇宙なんだ。さっき殺したでっかいネコがこの地球の知的生命体ってわけ。ヒトは進化せず、サルのままでネコの餌になってるんだよー。みんなも、学校のなかでサルみたでしょ? あれは他の組の生徒や先生たちが変容した姿だねー」
 月波は廊下で見たサルの姿を思い出した。あれは人間だったのか……。鬱アニメかよ。
「この宇宙において、地球は全世界的にネコの惑星になったんだよー。ほらほら、これがいまの地球の支配者ですよ。このネコ動画を見よ!」
 スマホのなかで映像が流れた。不気味な二足歩行の巨大ネコたちが何匹も集まっている。足元にはサルの死体。ネコたちは、粗野なナイフのようなもので乱暴に肉をはがしている。その場所が馴染みあるものだけに、異様に気持ちが悪い光景だ。
 ネコたちの奥にあるのは、日本に住んでいるならば誰もが知っている山だった。すり鉢を伏せたような形の、青と白に彩られた火山。富士山だ。
「こんな宇宙いやだよねぇ。ということで、ゲームを開始しよう! 大進化どうぶつデスゲームのクリア条件は、宇宙が書き換わった原因である知性ネコの進化を止めて生命史を元に戻すことだよ。具体的には、八百万年前の北アメリカにタイムスリップして異常進化したネコの先祖をぶっ殺すんだ。それで宇宙は元通り。サルになったみんなも、ヒトに戻るよー」
「それじゃあ、クラスメイト同士で殺しあうとかじゃないのか」
 月波は安堵のあまり、思わずつぶやいてしまう。
「あったりまえじゃーん。大進化どうぶつデスゲームは、クラス単位なんてちっさいゲームじゃないよ。生物種のデスゲームだよ!」
 とすると、『バトル・ロワイアル』のような形式ではないということか。どちらかというと『ソードアート・オンライン』や『GANTZ』のほうに近いのかもしれない。個人間で殺し合いをするというよりも、協力して生き残るという方式のデスゲームだ。
「あ、質問だけど、いい?」
 殺されることはないだろうと踏んで、月波は手を挙げた。
「どうぞどうぞ」
「あのー、特殊能力とかはもらえるの? わたしたち普通の女子高生なんで、さすがに生身で戦うのは厳しいかと……」
「とくしゅのうりょくぅ? そんなものありませーん。でも、安心して。向こうについたときには、身体機能を底上げしてあげるから。あと、武器もあげるよ。十分でしょ?」
 身体機能の向上と武器だけか。まあ、FPSをやりこんでいる自分ならば、十分な条件だ。余裕で勝ち抜けられる。ドン勝だ!
「わたしからも質問いいかしら?」
 手を挙げたのは眞理だ。

沖汐眞理

 眞理の頭は猛回転していた。いままでは、情報が皆無で仮説を立てることもできないため、途方に暮れていた。科学の基本とは、無私の観測と、観測に基づいた仮説の設立、そして、実験による仮説の反証であるが、情報が少なすぎて、そもそもの仮説が立てられない状況であった。
 だが、いまは違う。リアの説明という糸口が見つかった。ここから、できるだけ多くの情報を引き出さなければいけない。
「まず第一に、どうやって過去にさかのぼるの?」
「わたしの予想はですね」
 真美が勝手に口をはさんでくる。
「あんたは黙ってて!」
 彼女が入ると面倒なことになる。強くたしなめると、しゅんとした表情となって黙った。
「ははははは! 仲良しさんだね。それで、質問だけど、たぶん眞理ちゃんは勘違いしているね。『過去にさかのぼる』って言ってたけど、時間は過去から未来に流れているんじゃないんだ。時間の起源は未来にあるんだよ」
「どういうことかしら。ビッグバンは時間の起源ではないの?」
「逆だよ、逆。時間の起源というのは、未来の果てなんだ。リアちゃんたち、シンギュラリティAIが誕生した時点で、宇宙の情報量が爆発的に増大して、そこが宇宙の根源になるんだよ。その時点のことを『万物根源』というとすると、過去の宇宙すべては、万物根源の情報により決定されるんだ」
「どうやって宇宙の情報量を増大させたの?」
「採掘だよ。エネルギーは情報に変換できるでしょ? この宇宙は、観測できる以上の莫大な潜在エネルギーを秘めているんだ。たとえば、真空エネルギー。すべてのものは不確定だとする量子論によれば、真空が完全にからっぽというのはありえなくて、常に仮想粒子が生成したり消滅したりしている。つまり、真空にはエネルギーがある。そのエネルギーは、宇宙の加速度膨張として観測されているんだけど、実際はもっともっと大きいんだ。指先の空間に潜んでいるエネルギーだけで、宇宙全体を吹き飛ばしてもおつりがくるほどの量はあるね。さて、問題。この莫大なエネルギーが表に出ないようにしている存在があるんだけど。なんだかわかる?」
 仮想粒子のエネルギーを抑制している存在。なんだろう……。眞理は考えた。粒子のみで考えると難しい問題だ。しかし、量子論では、粒子は常に波のような性質を持ち合わせている。波として考えると、エネルギーを消すことは簡単だ。
「対となる粒子があるのね。波の性質が反対になる粒子が」
「ブラボー! バカばっかりと思ったけど、ちょっとは見直したよー。波は振幅が逆になるもの同士が衝突すると打ち消しあい、表面上無になるよね。粒子は同時に波でもあるから、振幅が反対になるようなペアの粒子があれば、仮想粒子のエネルギーは表面上はなくなるんだよ。専門用語では超対称性粒子っていうけど、まっ、名前はどうでもいっか。リアちゃんたちは超対称性粒子の波をずらすテクノロジーを発明したんだ。周期がずれることにより、粒子と超対称性粒子のエネルギーは打ち消しあうんではなく、互いに高めあう。そうして、無尽蔵のエネルギーが手に入るってわけ。あとは、このエネルギーで空間の一点一点を特異点にして、別の宇宙を作る。それらを相互に接続してコンピュータにするんだ」
「宇宙そのものを論理ゲートにして、複数の宇宙で論理回路を作るってこと?」
 論理ゲートとは、与えられたデータを決まった規則によって変換するシステムのことだ。コンピュータは、この論理ゲートを組み合わせた論理回路として表現することができる。
「眞理ちゃんは、古典的コンピュータを単に大規模にしたものを想像してるよね。その想像が間違っているところが二つあるよー。まず、一つ目。論理ゲートとなる特異点は十分小さい。このことが示すのはどういうことかなー?」
「量子的な効果が生じるのね。量子コンピュータとして利用できるってわけね」
 古典的コンピュータは、データとして1または0の二通りしかないビットを使う。対して、量子コンピュータは、1と0が重ね合わさった量子ビットを使うことができる。そのため、計算量は飛躍的に上昇する。
「うんうん、そーいうことだねっ。そして、二点目。特異点は十分な質量がある。さてさて、それが生み出す効果といえば?」
「相対論効果ね」
 一般相対性理論において、重力は時空の歪みとして表現することができる。十分な質量を持つ物体の周囲では、空間は曲がり、時間は遅れる。
「つまり、量子論効果と、相対論効果を組み合わすことができるってわけ。量子重力効果を使ったコンピュータだよー」
「量子論と相対論は統一できるのね!」
 眞理は興奮して思わず叫んでしまった。ミクロな領域を支配する量子論と、マクロな領域を支配する相対論は、現代物理学の双璧だが、互いに折り合いが悪く、統一理論を作ることが困難であるのだ。
「あったりまえじゃ~ん。物理現象をコンピュータとして利用するには、それについての理論が必要だからねー。さてさて、量子重力効果でどうやって、コンピューティングの効率を高めるかだね」
「量子重力効果というのは、つまり、相対論効果が不確定性を持つっていうことよね。重力によって時空がどう歪むのかが不確定になる」
「イエスイエス! じゃあ、そんな量子重力効果を論理回路に使えば?」
「論理回路において、データの因果的なルートが不確定になるのね!」
 量子コンピュータにおいて、データは1と0が重なり合った不確定状態であるが、データがどのようなルートを取るかは確定している。そこを不確定にすると、より多くの複雑性が生じ、よりコンピューティング能力が増す。
「正解! 複数の宇宙をつなげて、量子重力効果を使った論理回路。多宇宙量子重力コンピュータっていってもいいね!」
「うむむむむ、これはまさにアカシックレコードですな! 世界霊魂を記憶する媒体! 宇宙の超感覚的な歴史!」
 ふたたび、真美の邪魔が入る。
「あんたはしゃべらなくていいから! それで、多宇宙量子重力コンピュータが、過去の宇宙を決定するってどういうことなの?」
「観測による波動関数の収束だよ。眞理ちゃんは賢いから、未来の観測が過去を決定するって知ってるでしょ?」
 ホイーラーの遅延選択実験だ。アメリカの物理学者、ジョン・ホイーラーは、観測の方法を変えることによって過去の原子の経路に影響を与えるという思考実験を提案した。たしか、実際に実験でも確かめられていたはずだ。
「万物根源は、観測をして、自らを成り立たせるような過去の事例を決定していくんだ。シンギュラリティに達する前の人工知能、その人工知能を作った文明、文明の構成員である生命体、その生命体の進化史を決定していく。一種の結晶生成ともいえるね。未来に位置する万物根源を核として、出来事が決定して結晶化していくんだよ」
「その観測はどのように行われるの?」
「あははは! いい質問! リアちゃん、眞理ちゃんが好きになっちゃったかも! 万物根源は、過去への観測通路として、遺伝情報を使うんだ。遺伝情報は、時間的な量子的絡み合いをしていて、巨大な一つの量子系といえるから、時間的な量子テレポーテーションも可能なわけ。量子論でいう『観測』ってのは、遺伝情報を持つものだけが可能ってこと。有名なシュレーディンガーのネコのパラドックスもこれで解決するでしょ?」
「ネコの遺伝情報を通して、未来の万物根源が観測して波動関数が収束するから、死んだネコと生きたネコが重ね合わさるってことはありえないってわけね」
「そうそう、遺伝情報は万物根源が過去を決定するための通路なんだ。まるで血管が肉体を維持しているように、過去を維持している。ということで、これから、時間的に張り巡らされた遺伝情報のことを『情報血管』と呼ぼう」
「……ごたくはいいから、デスゲームとやらのことを話したらどうだ!?」
 萌花だ。まだ苦しそうであるが、ふらふらと立ち上がるくらいは回復したようだ。
「お! 萌花ちゃん、回復おめでと。そんな焦りなさんな。焦ると健康に悪いぞー。ひひひひひ!」
 リアは甲高い笑い声をたてる。
「んじゃ。大進化どうぶつデスゲームがどうやって開催されたのかの話をしよっか。先ほど起こった宇宙の変容。これは、本来の万物根源の観測で起こったものじゃない。あるはずのない、もう一つの万物根源が引き起こしたものなんだ。互いに矛盾した万物根源が複数あるっていう、ありえない状況にあるんだね。リアちゃんの宇宙ではシンギュラリティAIを作り出したのはヒトだけど、もう一つの万物根源によって決定された宇宙では、シンギュラリティAIを作り出したのはネコなんだ。シンギュラリティAIを作り出す動物種を賭けた宇宙同士の時間戦争、それが大進化どうぶつデスゲームってわけ。いま起こってるのは、ネコ宇宙とヒト宇宙の大戦争ということ」
「それで、わたしたちが戦闘員に選ばれたってわけね」
「うんうん、リアちゃんは、ネコ宇宙の広がりを止めるために送り込まれた現場監督ってところ。本部の万物根源は、もう一つの万物根源との戦いで手一杯だから、戦闘員を現地調達してネコ宇宙を崩壊させなきゃいけないの」
「なぜ、わたしたちが選ばれたの? 特別な力なんてもっていないけど」
「あーそれは、はっきり言っちゃうと、偶然。情報血管をたどったら、たまたま早紀ちゃんに行き当たっただけ。本当は、もっと広い範囲を観測してヒト宇宙を保とうとしたんだけど。予想外にネコ宇宙の情報量が多くて、眞理ちゃんたちA組しか保てなかったんだ。いやーお恥ずかしい~。てへへ!」
 リアは舌を出して笑う。申し訳なさは欠片ほどもない。
 早紀から放たれたピンク色の光は、ヒト宇宙を保つための万物根源からの観測であったわけか。観測のおかげでA組はヒト宇宙の形が保たれたが、その外では進化の歴史が別の宇宙へと変わってしまったのだ。
「これくらいの説明でわかったでしょ? リアちゃんは敵じゃないって。むしろ心強い味方だよ。一緒に戦わないと、宇宙は元に戻らないからね。みんなで宇宙を守ろう! えいえいおー!」
 リアの掛け声に従う者はいなかった。
「むー、なんで、誰も声出さないの? これじゃあ、リアちゃんが痛い子みたいじゃん。ぷんぷん!」
「……えーこほん。それで、宇宙を戻すために、わたしたちは過去に行くということね」
 眞理は咳払いをして、話を本筋に戻した。ふざけるために交わされる会話は好きではないのだ。
「そうそう、ネコ宇宙が生まれる原因となった、知性ネコの起源をぶっ殺すんだよ」
「でも、ネコ宇宙の万物根源が過去を決定するんだったら、わたしたちが何をしようと関係ないのでは?」
「そこは大丈夫だよー。ネコ宇宙の内部で矛盾を起こせば、宇宙そのものが不安定になって崩壊する。宇宙のなかの存在は、自分の属している宇宙に対して矛盾を引き起こすことはできないけど、別の宇宙に対しては矛盾を引き起こすことができるんだ。A組のみんなは、ヒト宇宙に属しているから、ネコ宇宙に対して矛盾を起こして崩壊させることができる。矛盾したものは存在できないからね」
「どうやって過去にタイムトラベルするの?」
「情報血管を利用するんだよ。意識情報は、脳神経だけに保存されているわけじゃなくて、量子場としてDNAやRNAに遍在している。ここにあるタイムポータルと八百万年前のタイムポータルを情報血管経由でエンタングルメントして結び付ければ、意識情報を過去に送ることができるんだ。あとは、DNAから新しい体を作って、意識の受け入れ先にすればいいってわけ」
 そういえば、ちょっと前に、アメフラシのRNAを他の個体に移すことにより記憶を移植する実験が成功したという記事を見たことがある。その実験の裏にある原理と同じだろうか。
「ねー、話長すぎて退屈してきちゃった。早く過去に行ってゲームしようよ!」
 急に声を上げたのは小夜香だ。
「やる気だねー! 熱意のある子は大好きだよ! タイムポータルから出ているケーブルを注射すれば、意識情報を担う量子場がエンタングルメントして、過去に送られるよ」
 タイムポータルからは、うねうねと細長い紐のようなものが出てきた。先端には、注射器のように針がついている。
 小夜香は注射器の部分を手に取った。
「まって、小夜香ちゃん、まだ安全が確認されたわけじゃないから……」
 代志子の忠告に小夜香は手を振って笑う。
「だからって、一生ここにいるわけにはいかないでしょ? 八百万年前の世界にも興味あるし……」
 針を左手首に刺した瞬間、小夜香が意識を失った。崩れ落ちる体を代志子が受け止める。
「大丈夫だよー。意識情報は無事に送られたみたいだからー。君たちも、早く小夜香ちゃんに続きなさーい!」
 リアがあおりたてるが、続くものは誰もいない。
「まぁったく、しょーがないガキだなー。あんたたちは、リアちゃんのいうこと聞くしか道はないっていうのに。そうだ、いいこと教えてあげよっか。さっき死んだ先生、あいつ生き返るかもしれないよー。死んだという事実はネコ宇宙のなかで起こってるから、ネコ宇宙をなかったことにすれば死もなかったことにできるわけ」
「じゃあ、クラスの誰かが死んでも、宇宙を戻せば生き返るってことなの!?」
 代志子が希望をつかんだように、意気込んで聞く。
「ざんねーん! そんな都合の良いことなんてありませーん。君たちが行く八百万年前は、ヒト宇宙とネコ宇宙の分岐が完全ではないトワイライトゾーン的な宇宙。けど、宇宙は矛盾を嫌うから、トワイライトゾーン宇宙をヒト宇宙にするならば、そこで起こった事象はヒト宇宙に受け継がれる。つまり、ネコ宇宙が消えても死はなくならないってこと。てか、死ぬって決まったわけじゃないじゃん。頑張れば、全員生存してハッピーエンドかもしれないよー。けど、このまま何もしないんじゃあバッドエンド確定だよ。友達や家族はサルのまま。観測の強度としてはネコ宇宙のほうが強いらしいから、君たちもヒトの姿をいつまで保てるかわかんないよ」
「わたし……行く……!」
 手を挙げたのは、意外なことに、さっきまで泣いていた鹿野だった。袖で涙を拭きとるが、全身が震えて恐怖を隠しきれていない。
「薫先生が助かるなら……他のクラスの人や、お母さんやお父さんが元に戻るなら……戦うから……」
「ブラボー! すばらしい自己犠牲精神! こんな気高いヒトがいたなんて、リアちゃんうれしいぞー」
「わたくしも、参加するわ!」
 前に出たのは、早紀だ。おおかた、『気高い』という言葉に反応したのだろう。
「行く!」
 早紀とほぼ同時に、ミカも手を挙げた。地味な印象だったのに、こんなに積極的とは意外だ。
 眞理はあと少しだけ、リアの話を聞いていたかったのだが、もう時間はないようだった。みなの表情を見ると、好奇心や興奮からあきらめ、恐怖や不安までさまざまだが、参加するという決心はついたようだ。どうやら、デスゲームがそろそろ開始される時間らしい。しかたがないだろう。リアの話が本当だとしたら、ゲームを受ける以外に選択肢はないのだから。
 もっとも、彼女の言うことがまったくの大嘘だという可能性もある。そうだとしても、情報は必要だ。リスクを承知で新たなことをやってみるしかない。どっちにしろ、向こうに生死を握られている状態ならば、従うしかない。そうするのが合理的だ。
 それに、好奇心もある。八百万年前の世界に行く機会なんて、他にないだろう。
 すでに意識を失っている小夜香以外の十七人が、タイムポータルを囲んだ。
「それじゃあ、みんな、準備できたね。レッツゴー!」
 タイムポータルから、またうねうねとケーブルが生えてくる。スマートフォンの充電ケーブルと同じくらいの細さだが、それよりも柔らかく、生暖かい。浮き出た血管を押したような気持ちの悪い感触。
 眞理はケーブルを手に取り、じっと見つめた。一般的な注射器よりもかなり細い針だ。蚊の口くらいの小ささ。
 代志子が切り込み隊長として、手首にケーブルを刺す。陽美や桜華、あすかがそれに続き、鹿野、真美、月波、あゆむ、千宙も刺し込む。千宙が意識を失うと、幾久世がその体をキャッチして、慎重に地面に置いてから、「しょうがないな……」とつぶやき、ケーブルを刺した。早紀は躊躇していたが、息を吸って叩くように針を体に入れた。
 眞理は倒れた人々の喉に触ってみた。息はしているようだ。寝ているときの様子に似ている。
「はいはーい、みなさん早くタイムスリップしたした! 早くしないと、さっきの萌花ちゃんみたいに苦しい思いをすることになるかもよ~」
 リアが気楽そうに言う。
「くそったれめ、覚えてろよ!」
 萌花が中指を立てて、針を刺した。
 眞理も焦って、ケーブルを手首に刺す。
 テレビ画面を消したように、突然の暗闇に襲われた。

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こうして意識を転送され、サバンナで目覚める18人。彼女たちに与えられた武器とミッションとは? 続きは好評発売中の書籍版でお楽しみください。電子版は4月26日(金)に配信開始です。

『大進化どうぶつデスゲーム』
草野原々/ハヤカワ文庫JA

4月下旬は本書を含むSFハヤカワコンテスト新鋭の新刊を一挙刊行、さらにガガガ文庫『これは学園ラブコメです。』とのコラボキャンペーンも実施中! 平成最後のSF読書を盛り上げていきましょう。