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日常は〈愛の失敗〉とともにある――ぱぷりか『きっぽ』劇評

 MITAKA "Next" Selectionをご存知でしょうか。三鷹市芸術文化センターが、新進気鋭の団体を選出し、いち早く紹介する上演企画です。
 今年選出された団体のひとつである「ぱぷりか」は、作・演出を務める福名理穂氏が主宰する劇団です(2014年旗揚げ)。9月7日~17日まで三鷹市芸術文化センター星のホールで、「愛する母に向けた80分のラブレター」と謳う新作『きっぽ』を上演しました。
 『悲劇喜劇』11月号(10月6日発売)より「演劇時評」の評者を担当する堀切克洋氏による劇評を公開します。(冒頭写真撮影:保坂 萌)

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 巷でうわさの『トラウマ類語辞典』(フィルムアート社)の冒頭には、こんな記述がある。

娯楽だけを目指して書いた物語は深みに欠けてしまう。書き手が綴る文章で読者を取り込むには、その内容が、読者が常に探し求めている何かと深いところで共鳴しなければならない。つまり、コンテキスト(文脈・背景)の重要性を認識する必要があるということだ。(10頁)

 福名理穂が主宰する「ぱぷりか」の公演「きっぽ」は、実にかわいらしい言葉だが、広島弁で「(ぷくっと膨れた)傷跡」を意味する方言であるらしい。前掲書は、さまざまな種類のトラウマを、あるいはトラウマがもたらす「コンテクスト」を辞典化したものだが、福名の新作『きっぽ』もまた、こまやかな「コンテクスト(文脈・背景)」の織物であるように思われる。
 福名は広島生まれで、この作品も広島の(おそらく近くに空港がある)町が舞台になっている。東京から再婚のために引っ越してきた父親セイイチと高校生の娘ヒナコ。再婚相手のハルコには、27歳の息子と、19歳くらいの娘がいる。

◎最小限のことば、シンプルな装置

 四角形の台(プラトー)の中央に、ひとつのローテーブルだけが置かれたシンプルな空間で、このあたらしい家族の〈日常〉が切り取られる。だらだらとした会話からは程遠く、この家族の構成員は最小限の言葉によって相手の確認を求め、自分の意見を言い、多くの場合は諦めている。絞られた照明を多方向から当てることによって、ぼんやりとした不可思議な空間がたちあがる。
 舞台も静謐だ。場面転換のときに時折聞こえてくる飛行機の音をのぞけば、とりたてて音響効果と呼べるものは多くない。例外は、オフコースの「愛の中へ」を登場人物が口ずさんだり、あるいは楽曲の断片が場転などに挿入されるということだろう。この作品のライトモティーフになっていると言ってもいいかもしれない。

  誰にも似ていない あなたはあなたで
  だから僕は/あなたのこと
  かけがえのないひとだと思う
 
 このフレーズが『きっぽ』のなかでは、何度も聞こえてくる。福名の小田和正への偏愛は、この対談のなかでも語られているが、私は彼女のほかの作品を見たことがないので、作品のなかでどれほどモチーフ化されているのかはわからない。しかし、少なくとも『きっぽ』は、そのタイトルが象徴するように「愛の失敗」を取り扱った作品であり、その意味では、「普遍的な愛」をうたう小田和正の歌詞は一種のユートピアの機能を果たしている。
 この物語の中心には、高校生のヒナコ(石渡愛)がいる。福名がもっとも自己を重ねやすいのも、年齢が近いこの人物なのだろう。ちなみに福名は、オフコース解散後に小田が「ラブストーリーは突然に」をヒットさせた1991年に生まれた若い劇作家だ。

◎ヒナコ:頼りないオトナに囲まれて

左から川隅奈保子、瓜生和成【撮影:保坂 萌】

 ヒナコは大人しい性格で、それほど自己主張をするようなタイプではない。それゆえに、父親との関係は少しゆがんでいる。たとえば冒頭、父親であるセイイチ(瓜生和成)が縁側で娘ヒナコの髪を結っているという「奇妙な」シーンからはじまるが、これが母娘であれば、ありふれた光景だろう。しかし、髪を結っているのは父親なのだ。しかも娘はもういい年である。事情はわからないが、少なくともヒナコにとって「母親」は不在であり、そのいくらかを父親が代理を務めているようにも見える。
 したがって、ヒナコの目線に立てば、父親の再婚にともなって自分の人生に突如として現れる母親は、その欠落を埋めるという役割を期待されそうだが、彼女はそもそも「母親」を求めてなどいない。それどころか次第に、セイイチが仕事への意欲を失いつつあり、実質的にハルコの家に転がり込んできた「ひも」であるにもかかわらず、娘のことが心配でたまらないという父親だということが見えてくる。つまり、彼女にとって不在なのは母親というより、むしろ「オトナ」なのだ。だが父親のみならず、このあたらしい母親ハルコ(川隅奈保子)もまたどこか頼りない。

◎ハルコ:理想と現実の乖離

左から坊薗初菜、石渡愛、川隅奈保子【撮影:保坂 萌】

 当日パンフレットに福名はこの作品を「愛する母に向けた80分のラブレター」であると形容しているが、ハルコの頼りなさ、あるいは不器用さは、80分の舞台のあいだに三度、同一の演劇的手法によって強調されているのが、まず面白い点だ。福名は、ほとんど同じセリフと展開を使って、ふたつの家族イメージを対照的に――一方は過剰なまでの「親密感」によって、他方は典型的なまでの「疎遠さ」によって――同じシーンを描く。
 お互いがお互いのことを気遣うことで楽しい会話が生まれ、当たり前のようにハグやハイタッチが行われる「幸せな」家族――それが本当に幸せかどうかという問題は別として――もちろん、そんな家族、日本中どこを探しても見つからないだろうが、このグロテスクな虚構の家族は、母親の「理想」でもある。というのは、あたらしい家族全員がはじめてリビングに集合する「第一のリフレイン」の場面のなかでは、ハグをしようとしてスルーをされてしまって首をかしげる母親の姿が、描かれているからだ。
 現実は後者である。相手の話にまったく耳を傾けない、あるいは否定的な言辞しか与えない、もちろん身体接触などまるでない。一例を紹介しておくなら、ヒナコのバイト先の友人であるカナエ(岡奈穂子)がこの家に遊びにくる「第二のリフレイン」の場面で、ハルコが前夜につくっておいたコーヒーゼリーは、人数分が用意されているにもかかわらず、ほとんど誰も食べてくれない。唯一、口にしたハルコの姉(坊薗初菜)は、その味の悪さを非難して、食べるのをやめてしまう。首をかしげながら、ひとりで自分のつくったゼリーを食べている母親の姿は、なかなかに痛々しい。

◎ヒナコとハルコ:あやふやな態度

 そんな母親ハルコに対し、劇中で、娘ヒナコは何か行動を起こすわけではない。むしろ一定の距離を置いて、何もアクションを起こさないようにしているようにさえ見える。もし、劇作家である福名がこのヒナコという人物にみずからを託しているのだとすれば、この劇作品のなかで、ヒナコとハルコを衝突させないようにしているというのは、むしろ彼女のハルコ的母親像に対する共感のあらわれなのだろう。ともかく、母と娘は衝突どころか接触もしない。
 なぜ、ふたりが接触/衝突しないのかといえば、それは彼女がハルコにどこか「似ている」からだろう。たとえば、父親セイイチがヒナコとすれ違うたびに、腕や背中に触れるというシーンが何度もある。セリフには現れないが、この性的なコノテーションを含んだやりとりには、観客は少しだけ「はらはら」とさせられる。が、ヒナコはおそらく内心はそれに違和感を抱きながらも、嫌がる素ぶりを見せることはない。

◎セイイチとソウタ:少女への依存

 冒頭でおとなしく髪を結われていたのも、そうだ。この奇妙なシーンは、中盤でも繰り返されるが、この微温的な異常性から、カナコは父親のもとにいるかぎり、抜け出すことはできないだろう。したがって、唯一ありえる決断は、この家を出ていくこと以外にはない。実際に、ヒナコは終幕で友人のカナエと大阪の大学に進学することを決断する。
 この決断をめぐって、父と母が衝突するというのが、この作品の終幕に用意された、ほとんど唯一といってよい劇的な展開である。父は、家でずっと寝てばかりの無職の息子ソウタ(橋口勇輝)が何かしたのではないかと訝っているのである。というのも、この家のなかで、ソウタがヒナコに「ちょっかい」を出していたことは、鈍感な母親以外にとっては、周知の事実だったからだ。
 実際に、この場面と前後して、ソウタはヒナコに付き合おう、結婚しようとまで告げている。ただし、ソウタは年のわりに幼い。法律的に見ても、再婚による義理の兄妹の結婚は血縁がないので何ら問題なく、いわゆる近親相姦というわけでもない。もっとも、ヒナコはもう家族なんだから、と言って笑いながら断るのは、彼女にとってソウタは実年齢こそ上だが、両親と同じで「オトナ」には見えないからだろう。

◎師匠:唯一の「オトナ」?

安東信助【撮影:保坂 萌】

 では、彼女にとっての「オトナ」とは誰なのか。もし可能性があるとするなら、それは近所でボランティアのゴミ拾いをしている「師匠」と呼ばれる男(安東信助)である。そもそも、この素性の知れない中年の男が「師匠」とあだ名されているということには、それなりに注意を払っておいてよい。パパイヤ鈴木よりもはるかに長身の、強めのパーマをかけた巨漢の男性が、ズボンを低めにはいて、猫背でゴミを拾いながら、たどたどしく話すと、素性の知れなさには拍車がかかるという、安東の演技も重要な要素だ。
 ヒナコとカナエは、この巨漢の――と書いたが、これはあくまで偶然的な要素であり、もちろん「師匠」は痩せていてもいい――中年に「惚れて」いる。そこに性的なニュアンスはない。正確には憧れ、といったほうがよいかもしれない。まるで野球少女が、甲子園に出場した高校生を遠くから眺めているように。賃金労働という経済的制度からも、家族という社会的制度からも解放されているこの男が、ゴミをゴミ袋に入れていく、あるいは分別するという動作の「手際のよさ」に彼女たちは見惚れている。
 この男に対して、父セイイチはわざと目の前でゴミをばらまくというような挙動に出る。娘に近づかないでくれますか、とセイイチはいうのだが、しかしそこには労働や家族という社会制度の「外」にいる得体の知れない男に対する差別的なまなざしも感じとられるだろう。だが、セイイチの期待とは裏腹に、「師匠」は声を荒げることもなく、ただ散らかったごみを片付けていく。
 ただし、この男が人畜無害であると断言できるわけではない。なぜなら、最後の祖母の死をめぐる「第三のリフレイン」の場面の直前に挿入される「幕間劇」において、「師匠」がカナコの手を強く引っ張って悪戯をしようとするシーンがあるからだ。直前まで、観客はセイイチの身勝手な態度に反発を抱いていたにもかかわらず、まるでそれを転覆させるかのように、「師匠」は少女に暴行をはたらこうとするのだ。
 このような「二面性」は、昨年に松戸で小学生が殺されてしまった事件を彷彿させる。被疑者は、被害者となってしまった小学3年生が通う小学校の保護者会の会長で、通学路などで児童の登校を見守る活動をほぼ毎日していたという。

◎成熟した男の不在

 このようにほとんど劇的展開の起こらない家族劇をひもといてゆくと、登場人物の男性3人が3人とも働いておらず、そしてゆるやかな性的倒錯を伴っている、ということの奇妙さが明らかになってくる。この奇妙さは、父が娘の髪を結っているという、あの冒頭のシーンの奇妙さとも通低するものだ。
 もちろん、ヒナコが「兄」と付き合うことはないし、「父」に必要以上の身体接触をされることもない。「師匠」に強姦をされることもない。と同時に、ヒナコ自身が恋の悩みを語ったり、セクシュアリティに関する告白をしたりすることもない。そのため、この世界のなかでは、まるで「成熟した男」がこの世には存在しないかのような錯覚を覚えるのである。一見すると普通の家族劇であるようでいて、ちょっとした不快感を感じつづけるのは、おそらくそのような理由がもっとも大きい。
 ただし、ヒナコが何を考えているのかは、この作品のなかではそれほど描かれていない。それはおそらく周囲との不協和音を通じて不器用な母親(ハルコ)を描こうとする劇作家の意思と無関係ではないのかもしれないが、しかし上で述べてきたように、ヒナコという人物は(多かれ少なかれ劇作家の意図に反して)この物語の中心にいる「主人公」なのである。そうであれば、ヒナコという少女が父親に対し、あるいは母親に対し、何を考えているのかが間接的にでもわかるような仕掛けがあってもいいだろう。

◎間と動作で語る

 【撮影:保坂 萌】

 最後にひとつ指摘しておいてよいのは、福名の演出家としての側面である。本稿ではあまりに物語の解読に文字数を費やしてしまったけれども、この舞台の魅力のひとつは、やはり俳優たちが生み出す「言葉の間」や「ちょっとした動作」の連続にあるといっていい。とくに石渡愛はヒナコの秘めた聡明さを暗示していたし、ハルコの娘(板橋優里)や息子(橋口勇輝)もよかった。
 最小限の会話で、人物どうしの関係性を示していく手つきは、ミニマルな舞台づくりと密接に結びついているし、リリカルでもある。だからこそ、最後の場面で用意されているハルコの「ハグ」は、予定調和であることが否めないし、エンディングとして「愛の中へ」が流れるというのもやや強引だろうとも思う。思うに、父セイイチがどうして広島へきたのか、どうして仕事の意欲を失っているのかが、ヒナコの思考とともに、物語のなかにもうすこし描きこまれていてもよかったのだが、おそらくそれは「母に向けたラブレター」という劇作家自身の規定によって、ロジカルに排除されてしまった要素なのだろう。「パーソナルなもの」からはいちど離れ、舞台だけから立ち上がるものを客観視することができれば、もうすこし違う着地点があったのではないだろうか。(了)

堀切克洋(ほりきり・かつひろ)1983年、福島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。専門はアントナン・アルトー研究、舞台芸術論、表象文化論。2016年7月より「日本経済新聞」夕刊劇評担当。俳人としても活動し、2017年第8回「北斗賞」受賞。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社、2010)、上田洋子・内田健介・永田靖編『歌舞伎と革命ロシア』(森話社、2017)、共著に毛利三彌・立木燁子編『北欧の舞台芸術』(三元社、2011)、共同執筆に大笹吉雄他編『日本戯曲大事典』(白水社、2016)など。『悲劇喜劇』2018年11月号から「演劇時評」の評者を担当。

[今後の予定]2018年9月に第一句集『尺蠖の道』(文學の森)を刊行。他、近刊としてパスカル・キニャール『ダンスの起源』(パトリック・ドゥヴォス、桑田光平と共訳、水声社)、アンヌ・ユベルスフェルド『ポール・クローデル』(中條忍監修、根岸徹郎・大出敦らと共訳、水声社)など。

ぱぷりか 2014年に旗揚げ。 メンバーは福名理穂、坊薗初菜、岡奈穂子。主に会話劇を中心とし、人との繋がりで生まれる虚無感を描く。「孤独な気持ちを抱えていても本当は一人ではなかったり、歳を重ねても大人になりきれない人々」を描き、観た後に人の温もりを感じるような作品を作りたいと奮闘している。              http://puprika.wixsite.com/papu

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