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機械の少女の初恋ものがたり~藍内友紀『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』(ハヤカワ文庫JA)冒頭100ページを公開!

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ブリーフィング  星 の 眼

   〈0〉

 青臭く尖った芝に肘を刺されながら這い蹲ったボクは、玩具の〈ライフル〉に頬をつけてスコープを覗き込む。
 玩具、といっても地球の戦場では現役で活躍しているライフル銃とお揃いだから、結構重たい。玩具と呼ぶのはこの〈ライフル〉が、地球で人間の頭を飛ばしているものと違って銃弾を吐き出さないからだ。
 その代りボクの〈ライフル〉には先端技術が詰まっている。たくさんケーブルが生えている。ケーブルのうち二本はボクの耳を覆うヘッドフォンに、五本は右手に嵌めたグローブに、残りは全部、頭上にかぶさる巨大な〈トニトゥルス〉につながっている。
〈トニトゥルス〉とは、その名に相応しく、無骨な三脚に座った巨大な砲門から超高密度の指向性高エネルギーを放つ兵器だ。人間なんか容易く蒸発させてしまえる。
 何しろボクらが狙うのは、星だ。ボクたちは星を撃つ。星たちはボクが知るどんなものよりも、美しい。ボクらは他の何よりも、美しい星たちを愛している。
 青白く発光するボクの、機械の眼が〈ライフル〉のスコープレンズにぼんやりと反射していた。脈拍に連動して眼球とつながった脳内チップが、忙しない射撃演算を開始する。眼球が、視界に影響を与えないレベルでレンズを収縮拡散させている。それを、脳の表層をくすぐる振動で捉える。瞼が熱い。
 スコープの向こうに据えるのは、底なしの闇を煮詰めた宇宙の夜だ。暗視モードに入ったボクの眼には、その漆黒すら暗緑色に発光しているように映る。
 予告なく、無数の白い点が現れた。宇宙を走る、星々だ。一拍遅れて、それを囲む薄緑色の目標ボックスが多重になって彷徨う。
『来たぞ』とヘッドフォンから神条の低い声がした。
 わかってるよ、と伝えるために指先で〈ライフル〉の安全装置を解除する。連動して〈トニトゥルス〉も発撃準備に入ったはずだ。ボクに付随する機材の全てをモニタしている神条には、それだけでじゅうぶんな返答になる。
 早く、早く、早くと祈るように呟く。
 ボクの脳波を拾うヘッドフォンとトリガーに寄り添う右手のグローブ、そしてボクらの照準を従順に〈トニトゥルス〉へ伝達してくれる〈ライフル〉。ついでに〈ライフル〉を支える三脚と、そこから地中に広がる平衡センサ。その全部を複雑につないだケーブルの中を電気信号が駆け巡り、〈トニトゥルス〉を臨戦態勢に入れる。
 コォーと甲高く、重力調整に怯える廃屋みたいな遠吠えが頭上から降ってきた。左右に並んだ仲間の〈トニトゥルス〉も吠える。冷却水が、早く仕事をさせろ、とせがむ声だ。
 スコープの中で目標ボックスにも囲んでもらえない小さな星たちが次々と消えていく。ボクらに逢うことなく燃え尽きてしまったものや、近隣惑星に浮かぶ自動迎撃艦隊のAIに狙撃されて瓦解したもの、その余波で軌道を変えたものなどが、どんどん狙撃対象から除外されていく。
 ややあって、目標ボックスの重なりが視認できるくらいになった。
 ボクが撃てる星の数が減っていくさまを見るのは悔しいし、なによりも寂しい。
 早く、早く、と急く心を抑え切れなくて、トリガーに添えた指をばたつかせる。ご馳走を前にした子供みたいだ、と我ながら呆れる。もっともボクはまだ、仲間以外の人間たちからは子供と呼ばれる年齢だ。
『あと十秒』とまた神条の、笑いを含んだ声がした。きっとグローブがボクの駄々をデータとして届けたのだろう。
 唾を飲み込んで、呼吸を落として、星が射程に入るのを待つ。狩りをする狼みたいにワクワクする。とはいっても、狼なんて生き物はとっくに地球上から姿を消しているらしいから、本物の狼がどんな気分で獲物を狩っていたのかなんて知らない。子供のころ、初等教育で視たホログラム映像の狼の、きらきらとした瞳を思う。
 目標ボックスが赤く瞬いた。ロック・オン。
 ゆっくりと、でも撃ち漏らさない程度には素早くトリガーを引いた。
 ドッと一瞬だけ頭上に爆薬が直撃したみたいな光と音が炸裂する。〈トニトゥルス〉の吐いた光が、氷のドレスを纏った星を貫いた。
 きちんと星を破壊、あるいは軌道を逸らせるほどに加熱できたか、なんて確認しない。どうせ気象技官たちがコンピュータを通して観測している。よしんば火力不足で星の脅威を取り除けていなかったとしても、仲間の誰かが仕留めてくれる。
 立て続けに射程に入ってきた星を撃つ、撃つ、撃つ。
 目標ボックスの隣に小さく示された星を構成する素材を読み取り、星の形状から砕きやすい個所を推測し、狙い、脳波によって〈トニトゥルス〉の出力を調節する。一撃で仕留めてあげることこそ、星への最大の敬意だ。
 ボクは無心に星を観測し、撃ち、殺し、愛する。
 不意に、トリガーが空振った。ちらりと見上げた先で、圧倒的な質量を誇る〈トニトゥルス〉が逆上せた息を吐いていた。音は聞こえない。動きで悟る。いつだってコイツはスムーズに撃たせてくれない。怠け者め。ボクはスムーズに撃ちたいのに。
 すぐにスコープの中の星たちに意識を戻す。彼らは、自由だ。ボクらに墜とされるために、あらゆる生き物の上に落ちるために、縦横無尽に降り注ぐ。
 トリガーに弾力が戻る。狙っていた星はボクじゃない誰かに砕かれて消えていた。舌打ちをしたけれど、狙う必要なんてないんじゃないかってくらいに星たちは踊っている。轟音があちこちから響いて鼓膜が音を拒んでいる。思考も吹き飛んで解けていく。この時間が好きだ。余計なことは何も考えない、考える必要だってない。星に集中する。
 ボクはただ、星を殺す。
 冷却水のないボクの眼球が鈍く痛んだ。終わったら神条にメンテを頼もう、と思ったことだって、次の一撃で掻き消える。

 ボクらが守る地球に降り注ぐものは結構たくさんある。紫外線、赤外線、放射線、その他にも目に見えない様々な、有害だったり無害だったりする光線。透明だったり茶色だったり黒かったりする雨。ときどき、もっと低いところから絶滅しかけの鳥なんかも墜ちてくるらしい。
 そして夜空に鮮烈に走る、『星』たち。壊れた人工衛星だったり死んでしまった惑星探査船だったり、もちろん何光年も先から飛来する隕石たちだって、地球に惹かれて降る。
 夜間シフトに入っているボクらが見る星々は、その正体に関係なくみんな美しく、苛烈に輝いている。
 だから星は夜にしか降らないんじゃないか、というのがボクたち夜間組の共通見解だ。昼の明るさの中からじゃ星の美しさは見られないときく。ならば星たちは地球が夜になるのまで隠れて俟っている、と考えるのが妥当だろう。だって星たちはボクらに撃たれるために翔けて来たんだ。長旅の最後は美しくありたいものだろう。
 美しい星に、青く輝く水を湛えた惑星に、抱き留められて死にたい。
 他でもない、それこそがボクらの願いでもある。ボクらと星は、同じ最期を願っている。それこそが、ボクと星が同じイキモノである、証明だ。
 ボクたち〈スナイパー〉は星を愛している。星の美しさに、惹かれている。星たちがボクらに撃たれながらも地球の青さを愛でるのと同じように、ボクらの最期は苛烈に燃える星とともにあればいい。きっと〈スナイパー〉の誰もが、そう願っている。

 ボクは月と地球との間を周回する全天開放型軌道庭園に住んでいる。『ヌスクァム・アレナ』とは、『どこにも存在しない砂』という意味らしいけれど、もちろんそんな発音しづらい正式名称で呼ぶ奴なんかいない。みんな軌道庭園と省略する。
 宇宙に浮かぶ軌道庭園の堅牢な外殻は、内側の快適な居住空間をしっかりと守ってくれている。そしてボクらが這い蹲る擬似大地は、その外殻の表層に──宇宙に晒された状態で、存在する。『どこにも存在しない』とはよくいったものだ。なにしろこの軌道庭園以外に、そんな離れ業を成し得た人工物は存在しない。
 もともとここは宇宙空間農耕の可能性を探るために建造された巨大な実験施設だ。その名残として、擬似大地が存在する外殻表層は今でも『耕地』と表記されている。
 けれどボクにいわせれば、この擬似大地は耕地などではなく、戦場だ。
 ボクらは存在するはずのない耕地に身を伏せ、地球の兵士とお揃いの〈ライフル〉を構えて星々を狙い、巨神の矢めいた〈トニトゥルス〉で宇宙を翔けて来る星たちを撃ち墜とす。
 ボクらは対流星用に脳の一部と両の眼球に機械化を施された〈スナイパー〉だ。
 だからボクらの青い、虹彩だけが白く輝く機械の瞳は『星の眼』と呼ばれている。


第一段階  雨 が抱く 熱

   〈1〉

〈トニトゥルス〉は沈黙したけれど、耳の底ではまだ轟音が燻っている。ヘッドフォンを首に下ろしているのに、仲間たちがやたらと大声で話しているのはそのせいだ。
「今日の定期健診、どうだった?」とか「やぶ医者ばかりだから、健診のあとは成績が落ちる」とか「二つも撃ち漏らした」とか、どれもこれも星に関係する話題ばかりだったけれど、ボクはどの会話にも加わらず掃除された空を見上げる。
〈トニトゥルス〉が食いつくした電力が施設に戻るまでの数分間、何かトラブルがあれば十数分になったりもするけれど、遥か遠くの宇宙で粛々と自らの軌道を周ることに専念している星々を見られるのは、ボクたち夜間組〈スナイパー〉の特権だ。炎や氷で着飾ってボクらに迫る星々ほどではないけれど、好ましいと感じる。
〈トニトゥルス〉の整備工や〈スナイパー〉以外の人間たちは一日を軌道庭園を形成する外殻の内側、十二層に積み重なった閉鎖空間で過ごす。空といえば各階層の天井に映し出された映像しか知らない連中ばかりだ。
 皮肉なことに星を墜とす仕事に就いている者だけが、軌道庭園の表層に移植された地球の大地──擬似大地から本物の星空を見ることができる。
 ぽっと周囲が明るくなって、空から星々が拭い去られた。ボクらの背後、平べったい箱に突貫工事で窓をくっつけたような建物が眩い電光を点している。気象技官や整備工たちが控える司令棟だ。ボクらは簡単に「施設」と呼んでいる。
 光を背負って表情を隠した神条が、灰色の作業服のポケットに両手を突っ込んで歩いてきた。機械仕掛けのボクの瞳孔がすぐさま対応して、逆光の中から彼の顔を拾う。
「眼は?」と口の動きだけで神条が訊く。本当は声を出していたのかもしれないけど、まだ〈トニトゥルス〉の残響がこだまするボクの耳では聞き取れなかった。
「あんまり良くないよ」グローブを外しながら答える。「調節音がギリギリうるさいし、熱をもつんだ。いい加減、新しい眼に換装するべきなのかな?」
「必要ないって言ってるだろ、信用しろ。あんまりひどい不調が出るようなら後で整備してやるから、外せ」
 神条は顔をしかめると、銃器オイルの匂いのする角張った指でボクに触れる。彼の視線は〈トニトゥルス〉の群れに向けられている。そのくせ繊細な機械を相手にするときに似た力加減で、ボクの瞼を揉むのだ。人間より少し硬い眼球が押し込まれて、神経をくすぐられているようなむず痒さを覚える。〈トニトゥルス〉の冷却水と同じで、彼の指先は星を殺して逆上せるボクを醒ましてくれる。
 神条が〈トニトゥルス〉よりも先にボクに手を伸ばすのは、別にボクが大事だからってわけじゃない。〈トニトゥルス〉もボク自身も星を砕くための備品で、神条にとっての優先順位はあまり変わらない。ただ、ボクのほうが早く冷えるってだけだ。
 整備工である彼はボクよりも、怠けながらも星を砕く熱の塊が好きなのだ。ボクだってたぶん、神条よりも自身の存在を燃やしながら降ってくる星たちのほうが好きだ。
 急に二基隣の〈トニトゥルス〉が騒がしくなった。整備工たちが集まっている。
「担架!」と叫んだ誰かの声で、ボクは事態を悟る。だからって野次馬になったりはしない。〈スナイパー〉が耐用限界を迎えることは、珍しくもない。
 仕事を終えた〈スナイパー〉たちに逆流して、白衣を着た技官たちが駆けてくる。その中の一人が、橙色の担架を抱えていた。
 二基隣の〈トニトゥルス〉の足元で、細身の男が硬そうな担架に転がされるのが見えた。ヘッドフォンとケーブルに拘束されたままの頭が、ボクへと向く。瞬きを忘れた眼が、ぼんやりと青く発光していた。
 担架が持ち上げられるのに合わせて、男からヘッドフォンが外れる。
 男の眼から光が消えた。文字通り、ヘッドフォンから供給されていた微弱電流を断たれた男の眼は、生命活動を放棄した男の後を追ってシャットダウンされる。
 神条が、そして周りの整備工たちが、胸に手を当てた。死者への礼儀だ。最期の瞬間まで星を撃ち続けた〈スナイパー〉に対する敬意が、芝生を伝播する。
〈スナイパー〉たちは誰一人、哀悼の意を示さなかった。羨ましい、と呟く程度で、雑談を交わしながら帰っていく。仲間の死なんてものは、擬似大地に敷かれた芝の葉程度にありふれた出来事だ。
 ボクだって例外じゃない。
 整備主任に命じられた神条が使用者を喪った〈トニトゥルス〉を慰めに行くのを横目に、施設へ戻る。
 優秀な彼は、ボクよりずっと忙しい。
 建物に入ってラウンジの窓際にあるカウンター席に座った。耐爆ガラス製の大きな窓からは、芝生に整然と並んだ二十五基の〈トニトゥルス〉の雄姿が見渡せる。加えて、ここには眼の調整ボックスがある。本格的な調整は無理だけど、〈トニトゥルス〉から放出される電磁波や低周波によるちょっとした不具合ならば、このボックスで事足りた。だから仕事上がりの〈スナイパー〉たちはよく、ここに座って時間を過ごす。
 でも、今はボク一人だった。ボクの班はもう勤務を終えて帰ってしまったし、次の班はブリーフィングの真っ最中だ。星にかかわれない時間を無為に過ごすなんて、〈スナイパー〉のすることじゃないから必然的に、ラウンジには誰も残らない。
 スニーカーの先で、カウンターの下にある調整ボックスから伸びる太いケーブルを引き寄せた。漏斗型のアダプタを右眼に当てて左眼だけで、施設から漏れる電光に煽られる〈トニトゥルス〉と整備工たちを眺める。
 三脚に寝そべった〈トニトゥルス〉に登って、懐中電灯やヘッドライトの明かりを頼りに細部の作業に没頭する神条の横顔は嫌いじゃない。キュキュと回転数を上げる調整ボックスに眼を任せている間眺めている程度には、好きだ。
 目元に皺みたいなクマがあって、それが彼を三十代後半に見せている。一度それを言ったら物凄く嫌そうな顔をしていたから、二十代なんだろう。〈スナイパー〉の基準ではもう死が近いとされる歳だけど、機械の眼を持たない整備工の間では若いほうに分類されるはずだ。実際、彼は他の整備工よりも──疲れ切った目元以外は、という注釈がつくけれど──瑞々しい。
 対するボクは十八歳の誕生日を前に、夜間組の最年長になったわけだ。
 そういえば神条が登っているのはボクのじゃない。ボクより二歳下の、千里って女が使っているものだ。
 同性同士の気安さからか、いつもはやたらと話し掛けてくる千里に、今夜はまだ会っていなかった。最終段階まで声をかけられなかったことなんて数えるくらいだったから、気付いたとたんに首筋がざわつく。ひょっとしたら、今日の午後に行われた定期健診で問題が見つかったのかもしれない。自分には関係のないことだからすっかり忘れていた。
 狙撃前に彼女の不在に気づかなくてよかった、と心底思う。イレギュラーな事態っていうのは、意識できないレベルで狙撃に影響を与えるのだ。
 彼女の出勤はともかく、ボクの〈トニトゥルス〉が後回しにされているのはあまりいい気分じゃなかった。
「なんだ、霧原」と背中から濁声に呼ばれて、耐爆ガラス越しの神条から視線を剥がす。左眼だけの歪んだ視界の中に、背広姿の水野が立っていた。〈スナイパー〉たちの適当な私服と整備工たちの作業着、あとは技官が羽織る白衣がせいぜいの擬似大地にあって、背広はひどい違和感をもたらしている。
「眼の調子が悪いのか?」
「大丈夫です」
 ボクは立ち上がらずに答えて視線を〈トニトゥルス〉の群れに戻す。会話終了、という合図だ。
 水野は〈スナイパー〉を統括する部長だから直属の上司にあたるけれど、ボクをはじめとする〈スナイパー〉たちは彼をまったく敬っていない。そのことに、水野自身も薄々気がついているはずだ。
 水野においてボクらの上司らしいところといえば、襟に光る所属を示すバッヂくらいだろう。輝く星の一粒と、それを穿つ〈トニトゥルス〉の閃光が彫りこまれたものだ。
 生憎と、星を撃つ専門職たる〈スナイパー〉には、そんな洒落たバッヂは支給されていない。ボクらがそのマークに触れるのは〈ライフル〉の銃底、玩具である証として刻印されたそれだけだ。
 水野はわざわざボクのすぐ隣の椅子を引いた。胸が悪くなる煙草の臭いが押し寄せた。神条曰く、水野が吸っている煙草は神条と同じ銘柄だ。それなのに水野にはひどい不快感がつきまとう。神条がときどき漂わせているのは上品で仄かに甘い香りなのに、どこでどう間違えばこうなるんだろう。
 水野とは反対側の尻に体重を移して、眉間に寄った皺を隠すために芝の葉が付いたジーンズの膝頭を見た。左眼が不機嫌な熱を帯びて嫌々ピントを合わせてくれる。ギリギリと調節音が脳に響いた。
「君の分だけ健診表が出ていなかったが」
 受けていないんだから当たり前だ。だいたい何年も、それこそ水野がボクの上司になってから一度だって提出したことなんてない。つまりこれは水野なりの嫌味だ、と判断して黙殺することにした。
「霧原」水野は妙に沈痛な声音だ。「ヒナギクが、亡くなったよ」
 ついさっき、彼の命が潰えるのを見たところだから報告してもらう必要なんてない。
 ああ、そうか、とボクはようやく理解する。水野のこの重苦しい調子は、部下が一人いなくなったことに対する憂鬱の発露なのだ。それが、いろんなことに気を回さなきゃいけない上司ってものの義務だ。
「残念だ」
 ボクは太腿についていた芝の切れ端を弾く。それが、水野への返事だった。
「彼は健診で引退勧告を受けていた。今日が最後の任務になるはずだったんだ。霧原、やはり整備工などに眼を任せるべきじゃない。いい加減、ちゃんと資格を持った技官に診てもらうべきだ」
「成績が落ちていましたか?」
「そういうことじゃない」
「なら問題はないと思いますが?」
「霧原、成績の問題ではないんだよ。ヒナギクのようにはなりたくないだろう?」
 形の定まらない苛立ちが湧いた。頬の辺りに力を入れて睨み上げる。〈スナイパー〉じゃない水野が、ボクらのなにを知っているというんだ。
 ヒナギクとは、名前をどう綴るのかは知らないけれど、少なくとも水野よりはボクのほうが親しかった。水野より多く言葉を交わした。ボクより数日だけ年上の少年。彼の望みを、いや、〈スナイパー〉全員の希求を、ボクは理解している。共有している。
 ──死の瞬間まで、星を撃っていたい。
 水野はボクの視線に含まれる感情の一切を受け止めないように最大の努力をしているのか、鼻先にある虚空に低く言った。
「霧原。神条君に診てもらうといい」
「は?」
 取り繕う余地もなく声が出た。だって水野は神条を君付けで呼んだりしない。他の整備工には敬称を付けているから個人的に彼を快く思っていないのかもしれない。それもボクたちが水野を嫌う理由の一つだ。
〈スナイパー〉は優秀な整備工を、星の次くらいに愛している。
 水野の四角い顔の横に、白衣の女が立っていた。その襟に、所属を示すバッヂは見当たらない。長い前髪の下にある卵色の、傷一つない額が印象的な女だった。
〈スナイパー〉じゃない証だ。
 ボクたちの額には、機械仕掛けの眼をつないだ痕がある。耳の上から両眉の上を通って反対側の耳の上まで一直線に走る傷痕だ。ボクのように狙撃に邪魔にならない長さに切りそろえた前髪の下から剥き出しにしている奴が大半だけど、中にはわざわざ髪を伸ばして隠している仲間もいる。千里なんかがそうだ。
 でも総じて、〈スナイパー〉たちはこの傷を勲章みたいなものだと認識している。
 女は、調整ボックスとケーブルでつながれたボクの右眼と、機械仕掛けの青い左眼と、ついでに額を舐めるように見てから「はじめまして」と手を差し出した。オレンジ色に塗られた唇の両端が見えない糸で絞られたように上がっている。
「神条よ」
 彼女が何をしたくて手を出しているのかも、どう思われたくて笑顔を作っているのかもわからなかったから、ボクは手も表情も動かさずに黙って頷いた。
「じゃあ、あとは二人で」と水野はなんの説明もせず、一人でそそくさとラウンジから出て行く。あれは、この女についての説明を求められることが怖くて逃げたんだろう。
「亡くなった彼と、友達だったの?」女は水野を見送りもせず、ボクに問う。「残念だわ」
「友達じゃないし、残念でもないよ」
「……そんな風に言うものじゃないわ、霧原」
「同い年だったから、他の奴より喋る機会が多かっただけだよ。友達じゃない。ただの仲間だ。それに彼は幸せだった。星を撃ちながら死ねるなんて、理想的な最期じゃないか。星が美しく見えるっていうのは、美しい星を撃てるっていうのは、ボクらにとって何よりも、それこそ生きること以上に大事なことだ」
「あなたは引退勧告が怖くて定期健診をサボってるの? ここ三年、ずっと記録がないわ」
「わかるだろ? ヒナギクが死んだなら、ボクに残された時間も多くない。健診なんかで眼の調子を崩されたくないんだ。少しでも長く、ベストな状態で撃っていたい」
 無遠慮に近付いてきた女の細く尖った指を、反射的に避けた。椅子の脚が床と喧嘩する声がラウンジに響く。
 彼女は、天然だとわかる焦げ茶色の瞳を大きく瞬かせて首を傾げた。どうして避けられたのかわからないみたいだ。
 神条以外の奴に眼を触らせるのは怖い。あの大きな〈トニトゥルス〉の部品に慣れている整備工たちは揃って乱暴だ。でも整備工は、白衣を着ただろうか?
「どうしたの? 大丈夫よ、診せて。ベストな状態でいたいんでしょう? それとも、上司に報告できないような専属医でもいる?」
「……神条」
「神条?」
 女は頓狂に訊き返すと耐爆ガラス越しの擬似大地、夜の暗がりに揺らめく懐中電灯の群れへ顔を向けた。でも視線が泳いでいる。彼を見つけられていない。彼女の眼はボクとは違う、天然のものだ。一度も外したことのない、彼女が生まれたときから所有している人間らしい眼球だ。
 ややあって、女は諦めたように首を振ってボクに眼を戻した。
「神条って、整備課の、神条シヅカ? 彼は、医師でも技師でもないでしょう?」
「だから?」
「だから……機械を調整する仕事に就いている彼に、あなたの眼は任せられない」
「どうして?」
「どうしてって……あなたの眼は確かに機械だけど、『星の眼』を着けているあなたは、人間でしょう?」
「星の眼、ね」
 短く息を漏らして呟く。
 ボクの仲間は、神条たち整備工も含めて、ボクらの眼を『星の眼』とは呼ばない。そう呼ぶのは部外者だけだ。
 ピピッと右眼の調整を終えたことをアラームが知らせてくれた。アダプタを左眼につけかえる。世界から隔離されていた右眼が大急ぎでピントを合わせる音が、さっきよりいくぶん小さく頭に響いた。
『神条』って名前は一般的なんだろうか? と思ったけれど、もう彼女には興味がなかったから、右眼を神条に向けた。
 近距離視野から、中距離探索へ。一秒もかからず、ボクの右眼はボクの〈トニトゥルス〉に登る神条を見つける。右眼のレンズが収縮するのを、額の傷の下で感知する。ズーム・インをかけると砲身の熱に慌てる彼の表情まではっきりと見えた。
 ほら、ボクの眼は好調だ。
「そんな顔もできるのね」
 立ち去ったと思い込んでいた女の声が真横からした。驚いたことを知られないように平静を装って、隣の椅子を見る。
 虹彩が光ることも動くべき多層レンズもない天然の茶色い眼が、ボクを映していた。
 仕方なく訊いてやる。
「そんな顔って?」
「笑っていたわ」
「笑うのは、ダメ?」
「いいえ、いいことよ。精神の安定を図る反応だわ」
「精神の安定、ね。あんたは医者?」
「ここに来たのは医師としてではないけれど、医師の免許も持っているわ。『星の眼』の技師としての資格だってあるの。だから、あなた自身も、あなたの眼も、診られるわ」
 まだその話題だったのか、と呆れた。
「調整ボックスでじゅうぶんだよ」
「調整ボックスが調整するのは『星の眼』だけよ。あなたを診ることはできないわ」
「ボクを病人にしたい? 先生」語尾を上げてやった。
「いいえ、違うわ」予想したよりも強い口調が返ってきた。「わたしは、あなたたち〈スナイパー〉の……整備、そう整備をするために来たの。わたしは整備工よ。彼と違うのは」彼女は耐爆ガラスの向こうにそびえる〈トニトゥルス〉と蠢く整備工たちの背中を一瞥した。「彼らは機械を診るけど、わたしは人間を診るの」
「あんたは神条じゃない」
「……神条、ハヤトよ」
「どうでもいいよ。神条以外に眼を触らせる気はない。これはボクの眼だし、ボクの仕事は星を撃つことで、あんたに媚びることまでは入ってない。あんたの仕事は〈スナイパー〉の整備だっけ? でも、残念だけど、ボクにかんしていえば間に合ってる。他を当たって」
 手を振って追い払う動作をしてから、鈍間な調整ボックスを窺う。無表情な箱は相変わらずの回転数で、淡々と働いていた。
 これ以上の議論は無意味だと悟ったのか、彼女はため息をひとつだけ残して椅子から降りた。カツカツと聞き慣れない靴音を連れてラウンジを後にする。
 これでようやく落ち着いて、ボクの〈トニトゥルス〉を整備する神条の顔を眺めることができる。
 それから数十分程で神条は施設に戻ってきた。オイルで黒くなった手袋を外して作業着のポケットに突っ込みながら、彼は片頬を歪めて笑う。
「調整ボックスの仕事っぷりは?」
「及第点」用無しになったケーブルを調整ボックスに蹴り戻す。「もう平気だよ。君、今日はもう終業?」
「ん?」
「給料日だから」
「ああ」彼は思い出したように頷いた。「お前の眼が快調なうえ、お前がこれ以上星を撃たないってなら俺の仕事はない」
「撃たせてもらえないよ。もう次の班の勤務時間だ」ボクは笑う。「飲みに行こう」
 着替えたボクらは連れ立ってエレベータに乗り込むと、二階のボタンを押す。擬似大地を有する軌道庭園の外殻層は『A』と表記されている。そこから下層に地下二階、三階と、全部で十二層の密閉された居住区画が積み重なっているのだ。
 軌道庭園の分厚い防護パネルによってボクと星たちとはしばしの間、別たれる。

 ある夜、片田舎の町が一つ消えた。それが全ての始まりだった。町があった場所に残されていたのは三つの連なったクレーターのみで、六万人を超える住人は蒸発してしまったのか腕一本すら回収できなかったという。同時刻に発生した爆風は、人々を焼き建物を破壊しながら瞬く間に千二百キロメートル先まで到達した。当時の情勢から隣国の新型爆弾だとの噂がまことしやかに囁き交わされ、一時は戦争目前までいったらしい。
 それなのに憤怒に燃える人々にもたらされたのは、町に降り注いだのは爆弾ではなく隕石だった、という拍子抜けもいいところの調査結果だった。
 たかだか直径七十メートル少々の鉱物の塊が町を亡ぼし、国すら亡ぼしかけたのだ。
 当初、人間たちはこぞって地下シェルターに逃げ込んだ。隠れている間に流星が去ってくれることを願ったのだ。けれど流星群は止まず、あまつさえ惑星を簡単に砕いてしまえる質量を有するものがいくつも地球を目指していることが判明した。
 焦った人間たちは人間同士の争いを休止し、流星群に対抗すべく協力体制を敷いた。全地球規模で対策法案が練られ、合同研究チームがいくつも発足し、情報が共有され、人道より流星の破壊や軌道の変更が優先されるようになった。
 地球の衛星軌道に配置された無人迎撃艦隊や、宇宙エレベータの頂上を結ぶレーザー網、指向性高エネルギー兵器たる〈トニトゥルス〉や機械の眼をもつ〈スナイパー〉や、その他諸々がすさまじいスピードで開発されたのが三十年くらい前になる。ボクらが住む軌道庭園にいたっては、ようやく宇宙空間に地球の大地を再現し様々な実験に取り掛かろうという段階だったにもかかわらず急遽、〈トニトゥルス〉に貴重な全天開放型の擬似大地を明け渡す羽目になったのだ。『耕地』なんて未練がましく呼ばれたところで、もはや呑気に農耕に励んでいる場合じゃないというわけだ。
 もっとも、ボクはおろか神条すら生まれていないころの話だから、全部初等教育で使っていた教科書の受け売りだ。
 人類の母星たる地球が壊れるかもしれない危機なのだから全世界が一丸となって立ち向かおう、っていうのが人間たちの建前だった。そのくせいったん星への迎撃態勢が整いだした途端に国家間の戦争だの競争だのが復活した。その一端が、ボクたち〈対流星スナイパー〉の在りようだ。
 ボクの脳や体は国の所有物で、ボクの眼は企業の最先端技術が詰め込まれた商品で、ボクが身を寄せる軌道庭園は数ヶ国によって運営されている。星を撃つ〈トニトゥルス〉や玩具の〈ライフル〉の細かい造りは国家機密扱いで、整備工にだって詳しくは知らされていないのだという。
 星が降り続ける今なお他国を牽制し合っているのだから、人間たちの流星に対する真剣度はちょっと疑わしい。ライバル国に星が直撃してくれればいいとすら思っているのかもしれない。だから、どこかの国が不利益をこうむらないように、どこの国に対しても平等に星を排除するように、〈対流星スナイパー〉の多くは宇宙に配置されているのだろう。
 そんなバカなことをしなくたって、ボクらは星を撃ち漏らしたりしない。国同士の諍いにも地球の安否にも興味はない。もっといえば、ボクたち〈スナイパー〉の微妙な立場だの構造だのにも興味がない。
 だって星を撃つことには関係ないことだ。
 ボクらは星さえ撃てれば生きていける。美しい星を見られるならば何も要らない。いささか欲張るなら、毎日のベッドと給料日のビール。
〈スナイパー〉っていうのは、そういう生き物だ。

   〈2〉

 擬似大地を後にしたエレベータは、やけに長い時間をかけて地下二階を目指す。巨大な〈トニトゥルス〉を制御するためのコンピュータと電源が隠されているせいだとも、宇宙空間を望む全天開放型の擬似大地が吹き飛んだ場合に軌道庭園の内部を守るための分厚い隔壁があるせいだとも噂されている。
 二階フロアは地球の空を模した低い天井が藍色の照明を点けていた。地球のタイムテーブルに合わせて、各フロアの天井は色を移ろわせている。夜を強調するためか、小さな電灯で星々までもが再現されていた。もっとも本物の星空を見た後じゃ、造り物には何も感じない。
 なによりも宇宙生まれ宇宙育ちのボクは、地球の空を知らない。
 エレベータホールから三ブロック先にあるいつものバーは、いつもと同様に空いていた。マスターはボクらの来る時間が悪いからだと言うけれど、歓楽街として運用されている二階フロアには仕事を終えた商売女たちの笑い声が響いている。でもこの店のボックス席は半分も埋まっていない。
 ボクらはいつもの席に座る。カウンター席の端っこ、神条が奥でボクがその隣だ。
 いつもと同じビールとピザを注文する。毎月給料日に来ているボクたちをマスターは覚えていて、「グラスかジョッキか」なんて野暮なことは訊いてこない。
 ジョッキを突き合わせて乾杯して、一息に半分くらい流し込む。苦い泡が舌と喉の奥で弾ける。腹に流れ込むビールの温度を追って思わず肩を竦めていると、神条も同じ動きをしていた。天然の黒い瞳に薄く涙まで浮かべている。
「仕事の後のビールってのは、なんでこんなにウマいんだろうな」
「後は帰って寝るだけ、って解放感がスパイスなんだよ、きっと」
「お前の奢りだってのも大きい」
「そっちが本音? 君、他の整備工より給料高いんだろ? こんな食事を奢られたくらいで大げさだよ」
「こんなってなんだ」とのマスターの低い威嚇に二人して肩を竦めて、ボクらは大人しく食事と雑談に専念する。
 溶けて泡立ったチーズを伸ばしながらピザを頬張り、ジョッキに汗をかいているくせにあまり冷えていないビールを呷り、他愛もない話をして笑い合う。
 店に入ってきた二人連れの商売女が神条を見て目を細めるのが、視界の端に引っかかった。でも隣に座るボクに気付くと、慌てて視線を伏せる。鼻を刺す香水の臭いばかりが未練がましく神条に忍び寄ってくる。
 ボクの額に走る傷痕はボクが国の備品である印で、ボクの瞳は薄暗い店内でだって機械仕掛けだと知れる鮮やかな青だ。その二つを見て声を掛けてくる奴なんか、擬似大地以外じゃいない。みんな遠巻きに横目で窺うか、ボクらを存在しないものとして無視するかの二者択一だ。
 別に〈スナイパー〉が差別されているってわけじゃない。誰だって未知の生物に遭遇したら好奇心と恐怖心との間で揺れ動くものだろう。
 だからいつもボクがこっち側──他の客と神条とを隔てる位置に座るんだ。
 不意に肩を掴まれた。ゆっくりと、商売女たちに見せつける速度で、神条が屈みこんでくる。嗅ぎ慣れた煙草の匂いと彼の黒髪がボクの傷痕に触れた。
 そしてボクの唇に。
 押し当てられた唇がひどく、呼吸すら苦しくなるくらい優しい。機械にしか優しくできないはずの男なのに、キスをするときの神条は優しい。ひょっとしたらボクは眼以外の部分も機械でできているんじゃないか、と思う。この瞬間だけは。
 誤解のないように弁明するなら、神条もボクもお互いを好きだからキスをするわけじゃない。彼がボクの眼を完璧に整備するための、契約みたいなものだ。提案者である神条にいわせると『信頼の証』らしい。無防備に彼の体温を享受する程度には、ボクは優秀な整備工を信頼しているし、好いてもいる。〈スナイパー〉とは、星を撃つために必要なものの全てを愛するようにできているのだから。
 給料日のこのバーの、この席でだけボクらは友達でも恋人でもないくせにお互いのジョッキと唇を触れ合わせる。
 薄く視線を寄越していた神条が笑った。
 喉の奥が熱くなる。その意味が解らなくて、ボクは目を閉じる。
 瞼の裏、漆黒の底に、光を失ったヒナギクの青い眼球が沈んでいく幻影を見る。それもすぐに、きれいな額と長い前髪の女へと変貌した。神条と同じ苗字の、女だ。
 唇をなぞる神条の乾いた熱だけが、確かだった。
 ウィン、とボクの機械の眼が幻影たちを追い出して、疼く。

 人工の空が紛い物の朝日で発光し始めたのを合図に、ボクらは連れ立ってバーを出た。調整ボックスにかけた眼は嫌がることなく明ける夜を映している。
 エレベータに乗り込んでボクは六階、神条は八階のボタンを押した。ゆっくりと落ちていく箱の中では何も言わない。暗黙の了解ってやつだ。
 内臓が持ち上げられる衝撃とともにエレベータがボクを吐き出すための口を開けた。
「じゃあね」と軽い挨拶をして箱を出る。ボクらはもう、目も合わさずに朝焼けを演出する町と沈む箱とに別れる、はずだったのに、肘をつかまれた。ぎょっとして振り返る。
 神条が、痛みに耐えているように眉を寄せていた。
 ボクの眼が彼との距離に戸惑って、レンズを絞ったり開いたりする。稼働音が頭痛めいた不快感を生じさせる。せっかく調子がよかったのに。
 エレベータの二重扉が焦れて閉まり始めてから、彼は慌ててボクを放した。
 ほっと息を吐く。
 それなのに、神条の腕はどんどん細くなる隙間をくぐって再び伸びてきた。銃器オイルの染みた冷たい指がボクの額に、国の備品である証に、触れる。
 一瞬の空白。本当は触れてなかったんじゃないかと思う程の時間で、彼は手を引いた。
 ゴゥンと重たい音を立てたエレベータが神条を連れ去る。
 今まで何回も何十回も給料日のたびに二人でバーに行ったし、最初の数回を除けばそのたびにキスもした。でもバーを出たら、手をつないだことすらなかった。
 どうして今さら? 今日のボクは何かしただろうか? ひょっとして彼はボクの整備工を辞める? いや、ボクが異動になるのかもしれない。水野が神条と同じ苗字の女を紹介してきたのは布石か? 神条を失ったボクは、ボクの眼は、〈スナイパー〉を続けていけるのだろうか。
 いろいろな妄想が浮かんでは消える。無性に怖くて、そのくせ何が怖いのかも定かにはわからない。
 寒かった。
 低い空を見上げる。白、今日は曇りだ。軌道庭園の内側にあるのは晴れか曇りだけで、雨を知りたければ擬似大地に出るしかない。あそこは人間たちが持ち得る叡智の全てを注いで宇宙に再現した、地球の大地だ。毎朝の日光も雨も、風すらも再現されている。
 雨を浴びたいと思った。
 唐突に、雷鳴が轟いた。文字通り飛び上がる。地下にあるはずのない音だ。音源を探す眼が、激しい心拍に合わせてギリギリと鳴る。
 正体はすぐに知れた。エレベータホールの売店が電動シャッターを上げている。日常の音なのに、どうして驚いたりしたんだろう。
「ああ」雑多な商品の奥で、老女がボクを認めて笑った。「そういや、今日はあんたが来る日だったね」
 老女は皺の中に埋まった小さな目をさらに埋没させながら、ラックの一番上にある紙新聞を取ってくれた。骨の目立つ細い腕は、星を撃つために浮かぶ軌道庭園には相応しくない。きっと彼女はここがまだ地球環境を再現するための実験に用いられていた時代に移住し、そのまま地球へ戻り損ねてしまったのだろう。
 ボクは給料日翌日の朝刊だけを買うことにしている。老女とは月に一日きりの付き合いだ。疎遠な客を、それでも老女は覚えてくれているらしい。
 ポケットから掴み出した小銭で支払いをして、挨拶も交わさずアパートが密集している区域に足を向けた。薄っぺらい外観のアパートがみっしりと詰まっている。
 ボクはV棟の十二階に部屋を与えられていた。軌道庭園内側の階層表示とは逆でアパートの階数は下の方が若い。つまりボクの部屋は、人工の空に触れるんじゃないかって高さにある。だからって試したことはない。ボクらが手を伸ばしたいと感じるのは、星々とつながる空だけだ。
 錆びたエレベータは十階にいたから、トレーニングをかねて階段を駆け上がる。狙撃というのは存外体力が必要な仕事なのだ。少しの息切れと無理やり三半規管を振ったような酔心地を覚えるころには十二階に到着している。
 呼吸を整えつつ汗を吸ったジャケットから鍵を取り出したとき、廊下に立っている女に気が付いた。ボクの部屋の前だ。タイトスカートから伸びた脚は少し開かれていて〈トニトゥルス〉を支える三脚めいていた。ボクの内で燻っていたアルコールが霧散する。
 白衣を脱いだ女の、今一番思い出したくない名前を、思い出した。神条、と親切に呼んでやったりはしない。
 昔、水野が「地下六階に住んでいるのは〈スナイパー〉ばかりだ」と言っていた。確かめたことはないけれど、正しい情報だろう。だって〈スナイパー〉は表札なんか出さない。ここに住んで四年になるけれど、一度だって表札の出ている部屋を見たことはなかった。
 つまり彼女がそこに立っているということは、彼女がボクにかんする資料をボクに無断で見たことの証明に他ならない。
「悪趣味だよ」
「未成年が朝帰りなんて、そっちのほうが悪趣味だわ」
 勝手に調べて勝手に来たくせに随分な言い種だ。
「ボクの班はいつもこうだよ。夜間組の勤務時間は一八〇〇時から翌〇二〇〇時。四交代で二十四時間星を撃ち続ける〈スナイパー〉の勤務形態なんて、当たり前に知ってるだろ?」
「もう五時半よ。他の子たちはとっくに帰っていたわ」
「他の奴の部屋にも行ったの?」
「ええ、あなたが最後」彼女は壁から背を離すと、少しだけ眼を見開いた。「酔ってるの?」
「素面だよ。階段を使ったから、回っただけ」
「飲んでたの? 未成年でしょ」
「〈スナイパー〉は成人として扱われる。飲酒も喫煙も法律で認められてるよ」
「あなた、まさか煙草も」
「何しに来たの?」ボクは彼女の言葉を強引にぶち切って、彼女の鼻先に鍵をぶら下げた。「入らなきゃ帰らないって顔だ」
「……ええ、そうね。家庭訪問よ」
 彼女はボクから鍵を奪いながら言った。バカみたいに真剣な顔で。
 瞬き一つ分の間だけ、機械と格闘する神条の横顔がよぎった。舌打ちと嘆息を落とす。
 彼女はそれを自分に対するものだと誤解したらしい。「仕事なのよ」なんて言い訳めいたことを呟いて鍵を回す。
 錆びた蝶番を軋ませて湿った冷たい部屋が口を開けた。このちっぽけな眠るためだけに存在する部屋のどこにどんな『家庭』が見えるのか、ボクが教えてもらいたいくらいだ。そもそも『家庭』っていうのは、星を撃つのにどうかかわるというんだ?
 走るとか踏ん張るって行為とは無縁だろうとわかる華奢な靴を脱いだ彼女に続いて、ボクも砂と芝の切れ端がついたスニーカーを脱ぐ。二足とも元の色は同じ白のはずなのに、若々しい子供と生きることにくたびれた老人みたいにくすみ方が違った。
 一口コンロのついた小さなキッチンとユニットバスが向き合った短い廊下の奥、剥き出しのコンクリート壁に囲まれた正方形の空間が、ボクの部屋の本体だ。同居人は床に直接置いたベッドマットと隅で蹲るテレビと何を入れればいいのかわからないラックの、三つだけ。この部屋を与えられたときから居座っていたものだから、先住者と呼ぶべきかもしれない。
 女神条は首を廻らせるまでもなく観察できる小さな部屋を数十秒もかけて、それこそテレビの裏まで覗きこんで、チェックしていた。そんなところ、ボクにだってどうなっているかわからない。『家庭』ってやつが隠されているとでも思ったんだろうか? だとしたら相当間抜けな話だ。
 ボクは彼女の存在を無視して、床に新聞を広げる。四つん這いになって、真上から最後のページを覗き込む。
 先月の成績優秀者が千番まで、無数の細かい文字になって並んでいた。一万人とも二万人ともいわれている〈スナイパー〉のうちの千人だから、一ポイント差で何百番も順位が変わる。かなりシビアな世界だ。
 ボクの眼は星のために作られたものだから、近距離で動かない文字を拾うことには向かない。視点移動を失敗すると、読み取る前に別の文字にピントが流れてしまう。
 一番から順に名前を拾っていると不意に肩をつかまれた。新聞に集中していたから反射神経が体を動かした。振り払った反動で床を転がって、ベッドマットまで逃げる。
「……どうしたの?」
 女神条が屈みこんで手を伸ばしたままの姿勢で、目を瞬かせた。眉をひそめながら笑って首を傾げる、なんてムダに高度な表情まで作っている。
「驚かせたのなら、ごめんなさい。真剣だったから、かわりに読んであげようかと思って。〈スナイパー〉は本が読めないんでしょう?」
 読めないわけじゃないし、あんたは他人が真剣に読んでいるものを取り上げるのか、とは言わなかった。彼女につかまれた肩が冷たくて皮肉を言うどころじゃない。バーで神条が触れた肩だ。得体の知れない女の手の感触が、神条の名残を消し去ろうとしている。激しい嫌悪感が冷気となって骨に沁みていく。
 別に潔癖症でもないのに、今日のボクはおかしい。神条の奇行のせいで、あらゆる変化に対して過敏になっている。
 広げた新聞には未練があったけど、女神条に触られた肩に走る寒気に耐えられずバスルームに逃げ込んだ。服を脱ぎ捨ててシャワーコックを捻る。首を竦めるくらい激しい雨が降ってきた。肩の不快な感触が紛れる。
 前に雨を浴びたのはいつだっけ? 擬似大地の上にへばりついている大気層はとても不安定で、大気の比重は地球より重たいらしい。だから〈トニトゥルス〉の高エネルギーや磁気嵐、太陽風などに乱されるとすぐに水蒸気を雲や雨に変えてしまうのだ、と神条が教えてくれた。急ごしらえで農耕地から星の迎撃用戦場へ転用された弊害だという。
 あのときは環境維持装置のトラブルと重なって、茶色く濁った雨が注がれていた。
 そうでなくとも薄っぺらい大気層の下、分厚い雲に遮られて目標が視認できないから、雨は〈スナイパー〉の天敵だ。でも、ボクは嫌いじゃない。墜とされる星たちのために、宇宙と軌道庭園の擬似大地とが干渉し合って流す涙だ。
 ひょっとしたら宇宙は〈スナイパー〉と星との逢瀬に嫉妬しているのかもしれない。

 シャワーから出たら女神条が消えていればいいのに、という淡い期待は廊下に出た途端に打ち砕かれた。逃げる前のボクと同じ姿勢で新聞を読んでいる彼女が居た。スカートから覗く膝裏が、星を受け止めた地球の表面みたいだ。どうせなら今、星の破片でも降ってきて彼女を仕留めてくれればいいのに、と不謹慎なことを思う。もっともそれには〈スナイパー〉の誰かが星を撃ち損じてくれる必要がある。でもきっと、誰もそんな失礼なことはしない。全身全霊でもって、星をきちんと撃ってあげる。それが愛するってことだから。
「あなた、七百四十九位よ」顔を上げずに彼女が言った。「優秀ね」
 たいてい、ボクの名前は七百番から九百番くらいの間にある。もっとも、それを見つけて教えてくれるのはいつも神条だ。ボクはボクの順位に興味がない。
「どいて」
「嬉しくないの?」彼女は素直に立ち上がると、今度は勝手にベッドマットに座った。
「別に」テレビをつけながら応じる。「順位が欲しくてやってるわけじゃないよ」
 ついでにいえば、順位によって給与が変わるわけでもない。ボクたち〈スナイパー〉の給与は平等に、一律だ。
 さっきの続きを探して、名前拾いを再開する。丁寧に一文字だって零さないようにゆっくりと眼を動かす。
「なら、どうして順位表を見ているの? 誰かを探してる?」
 ボクは答えない。無視しているわけじゃなくて、文字の処理と眼の制御に必死で聴覚から入ってくる情報を拾い切れていないだけだ。テレビとは違って、双方向通信を求める声は集中できなくなるから黙っていて欲しい。
「言ってくれれば、協力できるかもしれないわ」
 七十番目の『八月一日』はなんて読むんだろう? 先月は見た記憶がないから波のある奴か新人だ、そう思った端から忘れる。求めている名前じゃないならボクには無価値だ。
「ねえ、霧原」
 九十七番目を読んだときに呼ばれて、仕方なく顔を上げた。本当は百番まで読みたかったけど、残りの三人はパーフェクトの成績じゃなかったから未練はない。
 あの人はミスなんてしない。名前がないってことは仕事に出てないってことだ。名前を見なくなって何年だろう。ひょっとしたら、もう──。
「悩みはないの? 相談に乗るわ」
 何を言われたのか理解できなくて、首を傾げる。彼女の言葉が新聞と同じ細かい文字で吐き出されてくるような錯覚さえする。
『……政府は予算の削減案として地球、〈星の庭〉双方に展開されている対流星狙撃手の削減、および各惑星の衛星軌道上への無人迎撃艇の増派を検討すると発表しました。一部の議員からは安全性を懸念する声が上がっていますが……』
 テレビの内容のほうが素早く頭に入ってきたので、そっちへ視線をやる。『星の庭』というのは、この軌道庭園の愛称らしい。『星の眼』だの『星の庭』だのと、部外者たちはやたらと『星』を冠した別称をつけたがる。不思議な生き物だ。
 ニュースキャスターも部外者らしく、真面目な顔で奇妙なことを読み上げていた。画面の下に白く細長いテロップが流れていた。動く文字は簡単に追える。
〈先週から降り続いている流星は今日から明日にかけて最も多くなると予想されます。午後六時以降は地表へ出ることが禁止されます。現在、流星注意報レベル7が発令中。 気象局〉
 テレビは軌道庭園専用ではなく地球主体の共有チャンネルなので、注意報はあてにならない。そもそも〈スナイパー〉は地球に被害が出るレベルの星を見逃さない。地球に注がれるのはボクらに撃たれて瓦解した星の破片だ。大気圏で燃え尽きるまでの数秒間、地球からは空を横切る光の筋が観測できる程度のサイズでしかない。注意報なんてせいぜい、流れ星を見るために夜更かししてはいけません、程度の意味合いでしかない。
 でも星が多いってことは確からしい。
「霧原」とまた呼ばれた。
 そういえば、テレビに眼を向ける前に彼女が何か言っていた気がする。ベッドマットに視線を戻すと、焦点距離の変化を受けた眼がキュンと鳴った。
「なんでも相談してちょうだい。わたしはそのためにいるのよ」
「ボクのため、って言いたいの?」
「そうよ。何かわたしにできることがあれば、言って欲しい」
「あるよ」テレビを消して彼女の前に立つ。「出てって。ボクはこれから寝るんだ」
 彼女は不意打ちを食らった猫みたいに大きく目を見開いてから、瞼を落とした。
 細く息を吐いて立ち上がったその顔に、神条が重なった。別れ際に神条が変な行動をとったせいだ。舌打ちをする。
「わかったわ、今日は帰ってあげる。でも何かあれば、話して」
 今の舌打ちは彼女に対するものじゃなかったんだけど、まあいい。これで眠れる。いつもの生活リズムを取り戻せる。神条の奇行はともかく、女神条のことはすっぱり忘れて星を撃つことだけに集中する日常へ還ろう。
 彼女が短い廊下を抜けるのを見送りもせず、ベッドマットに倒れ込んだ。扉が開閉する重たい音を眠りの縁で聞く。疲労感がボクを包みこむ。下がった体温が心地好い。仕事を終えて冷却水に身を任せる〈トニトゥルス〉と同じだ。ボクはボクの電源を落とす。

   〈3〉

 いつも通り、一七〇〇時には擬似大地へつながるエレベータに乗り込んだ。ボクの足の下、隔壁で区切られた下層では終業を待ちわびた人たちが帰り支度に勤しんでいるころだろう。もっともボクはここより下の、いわゆる〈スナイパー〉以外の人間たちが住む世界には下りたことがない。この軌道庭園は星を撃つために存在しているのだから、ボクの足元に住む人たちも二十四時間、誰かが起きて働いているのかもしれない。
〈スナイパー〉は早朝、午前、午後、そしてボクが配属されている夜間の四組に分かれて絶えず星を撃っている。
 エレベータを降りて、更衣室の脇で出勤カードをタイムリーダーに食べさせる。更衣室といっても這い蹲って星を撃てればいいわけだから、すべきことといえばジャケットを脱ぐくらいだ。
 ロッカーから取り出したヘッドフォンを首にかけてコードが生えたグローブを手にラウンジに出たところで、作業着と私服が入り乱れる中を泳ぐ背広を見つけた。一際そぐわない格好だから、すぐにわかる。面倒だな、と思ったけど回避運動をとる前にその背広──水野がボクに気が付いた。
「早いな、霧原」大きな口を横に裂いたような顔で彼は言う。たぶん笑っているんだろう。「助かるよ」
 ボクが早いわけじゃなくて、水野が始業前にラウンジにいることがイレギュラーなんだ。
 彼は両腕を緩く広げて、凄く親しい友人に近付く足取りで寄ってくる。
 ボクはそっと呼吸の回数を減らす。神条と同じ銘柄なのに胸やけがする彼の煙草の臭いは嗅ぎたくなかった。
「神条君とはどうだ?」
 ぎりぎり臭いが届かない距離で立ち止まった水野が掌を見せた。
 彼の言う神条がどっちの神条なのかはすぐにわかったけれど、どんな回答を期待されているのかわからなかった。黙って顎を引く。
「神条ハヤト君だよ」
 どっちの神条も名前を知らないから、その言葉には意味がない。いや、どっちの名前も聞いたことがあるような気もしたけれど覚えていないんだから同じことだ。
「わざわざ地球から来てくれたんだ。彼女は優秀なドクターだから、君の眼の不調もすぐに良くなるよ。『星の眼』に関する研究で論文を書いたそうだからね、彼女の開発した新しい眼を試してみるといい」
 水野はときどき理解のできない言葉を使う。ロンブンっていうのは普通の人には書けないものなんだろうか? だいたい、〈スナイパー〉を統括する立場の人間が『星の眼』なんて部外者の言葉を使うのも情けない。だから彼は尊敬されないんだ。
「必要ありません。眼は良好です」
「そういう報告は受けていないよ」
 誰からの報告だろう。神条じゃないことだけは確かだから、あの女かもしれない。やっぱり要注意人物だ。
「神条君の査定を受けるんだ。これは業務命令だよ、霧原。心配することはない、彼女は研究員養成機関を主席で卒業した優秀な人材だ。『星の眼』の研究主任もしているからね、きっと君ともうまくやれる。結果を楽しみにしているよ」
 水野は言いたいことを言い切って満足したみたいで、ボクの返事を待つことなくラウンジの隅にぽつんと設置された小さなオフィスに入って行った。彼に与えられた彼だけのオフィスだ。〈スナイパー〉や整備工や技官たちと同じ空間に彼を放たないための檻だ、とボクらは理解している。
 初等教育しか受けていないボクには、彼女の成績や地位がボクとの関係にどうつながるのかはわからなかったけれど、わかったこともあった。女神条、改めハヤトがボクの部屋に来た理由だ。
 きっと神条がバー以外の場所でボクに触れたことにも関係しているんだろう。
 ニュースキャスターが言っていた言葉を思い出す。
 ──〈スナイパー〉が削減される。きっとボクはそっち側なんだ。
 国は何もわかってない。〈スナイパー〉を減らすなんて、バカげている。地球からずっと遠い惑星たちの衛星軌道上に配置されている無人艦隊や、そこに搭載されている自動迎撃システムは完璧じゃない。地球から星々を狙う〈トニトゥルス〉は分厚い大気層によってエネルギー量が激減する。無人艦隊が撃ち漏らし、地球からの火力でも足りないほどの星を最後に仕留められる可能性が、月と地球の間にいるボクらだ。
 もし星が地球を亡ぼすならば、ボクを撃ち貫いてからにしてほしい。
 手の中でグローブが軋んだ。指の動きを〈トニトゥルス〉に伝えるためのケーブルが複雑に絡んでいる。首にかけたヘッドフォンから垂れ下がっているケーブルや、玩具の〈ライフル〉たち。ピントを合わせるたびに音を立てるボクの眼や一文字に額に刻まれた傷痕だって全部、ボクという存在の全てが、星のために存在する。
 地球を守れと命じられている。地球の生命がどうなろうと知ったことじゃないけれど、地球からの観測情報を失えば、ボクらは星を撃てなくなる。それはボクの存在理由が消失するということだ。国だって、地球を星に砕かれてしまえば存続できない。ボクらは互いに支え合っている。それなのにどうして国はボクらを『要らない』なんて言うんだろう。
「霧原?」
 神条が、ボクを呼ぶ声が聞こえた。でも姿が見えない。視界が黒とも白ともつかない明滅に潰れている。嗅ぎ慣れた優しい煙草の香りだけがした。昨日の夜、別れ際に彼はボクの額に触れた。〈スナイパー〉の証である傷痕に。
 あれはボクがまだ〈スナイパー〉であることを確認する行動だったのだろうか。やっぱりボクはもう、職を奪われる時期にきているのだろうか? ヒナギクがそうであったように、ボクにも耐用限界が迫っている。その自覚が、ある。
「霧原っ!」
 ぱん、と軽い破裂音がして、世界が戻ってきた。
 いつものラウンジだ。耐爆ガラスの嵌った大きな窓越しに、仕事を待つ〈トニトゥルス〉たちが整列しているのが見える。身を屈めてボクを覗き込んでいる神条の目元に、やっぱりクマがあるのも見える。ボクの頬に触れる手前で躊躇したのか半端な距離で留まった彼の手も、彼を彩る銃器オイルも、さっきまで潰れていた視界が嘘のように鮮やかに捉えられる。
「大丈夫か? 顔色悪いぞ」
 水野と話していたときには立っていたはずなのに、今のボクは調整ボックスのあるカウンター席に座っていた。どうやって移動したのか覚えていない。左の頬がじんわりと熱を帯びていた。神条に平手で打たれたのだ、とようやく理解する。
 答えないボクをどう思ったのか、神条は短く息を吐いてラウンジを出て行ってしまった。
 水野に報告が行くだろうか。勤務から外されたらどうしよう。星に逢えないまま医療機関へ収容されるくらいなら、今、この軌道庭園に星が直撃してほしいとすら願う。
 ボクは星を撃ちながら、叶うならば星に撃たれて、最期を迎えたいのに。
 次々と言葉が浮かぶくせに、一言だって喉を通らない。神条を追いかけることも水野への言い訳も思いつかなかった。冷たい汗がこめかみに浮いてくる。
 風のない施設が息苦しくて、外に出た。
 芝を踏むボクのスニーカーは薄茶色くくたびれている。ハヤトの靴とは全然違う、大地に這う者の色だ。湿った風が運ぶ土の匂いは雨が降る前兆だろう。
 整備工たちを乗せた〈トニトゥルス〉は不服そうだった。射撃軸上では一面の雲が、星をとりまく炎に似た彩度で移ろっている。午前、午後の組が撃ち込んだ高エネルギーの影響が残っている証拠だ。ボクらが放つエネルギーにも影響が出るかもしれない。
 地球環境を再現するにしても、ここまで完璧にしなくてもよかっただろうに、と〈スナイパー〉の誰もが不満を抱いている。
 整備工たちの邪魔にならないように、〈トニトゥルス〉の堅牢な三脚に凭れて座った。三脚の少し先には〈ライフル〉を固定するための小さな三脚が寂しそうに生えている。ボクらの照準を正しく計測する端末が、芝の下に隠されているのだ。そこに座るべき〈ライフル〉本体はといえばボクの足先に横たわり、ケーブルの束を靴に寄り添わせてくれている。神条は〈トニトゥルス〉だけでなく、こちらも整備してくれる。
 もしボクが削減されたら、と考えてみる。たぶん神条は困らない。次に来る奴の癖を把握するのに手間取るかもしれないけど、優秀な彼は早々に順応するだろう。
 彼は次に来る奴とも、バーに行くだろうか?
 湿った草を踏む音に顔を上げる。神条と目が合った。さっきまで手ぶらだったのに、今は茶色い紙袋を持っていた。
「なんでラウンジに居ない。居ろって言っただろ」
 言われた記憶はなかったけれど、彼があまりにも不機嫌そうだったから斜め三十五度くらいに首を傾げて頷く。
 神条は咀嚼し損ねた食べ物を無理やり飲み下したような顔をして、「まあ、いい」と全然よくなさそうな呻きを上げた。
「お前、飯食ってきたか? 低血糖だろ、それ」
 そういえば、最後の食事は彼と行ったバーで食べたピザだった。
「食え」と彼は紙袋からミネラルウォーターと固形食品のパッケージを取り出した。
 ボクは慌てて財布を探す。更衣室に脱ぎ捨てたジャケットのポケットだ。
「ごめん、後で払う」
「別に要らん。これくらい、大人しく奢られろ」
 彼はもうボクには興味がないみたいで、芝の上に放り出されていた〈ライフル〉を膝の上に置いて調節し始めた。
「うん」と素直に頷く。「ありがと。ここで食べてもいい?」
 期待していなかったのに「ああ」と返事があった。
「見張ってないとお前、危なっかしい」
 ボクは顔を伏せて唇を歪める。ほら、ハヤトなんか居なくてもボクの整備は神条がしてくれる。
 パッケージを歯で破いて、クラッカーを何十枚も圧縮したみたいな固形食品を齧る。
「そういや」とボクが半分くらい食べたところで神条が言った。彼が相変わらず手元ばかりを見ているせいで、他の整備工たちの喧騒に紛れて聞き逃してしまいそうだ。
「お前、七百四十九位だったぞ」
〈スナイパー〉の成績順位だ。
「知ってる」
「へえ、珍しいな」神条は〈ライフル〉をいじっていた手を止めて顔を上げる。「なんで?」
 彼の、虹彩の光らない天然の眼が、ボクの機械の瞳を真正面から見据えた。その強さに、わけもなく後ろめたい気持ちになった。
「違うよ」
 彼の視線を正確に捉えて、そこに含まれる疑問を即座に否定した。ボクの恩人が、ボクを〈スナイパー〉にしてくれた大先輩が──森田ヒカルが、そんな下位にいるわけもない。
 森田ヒカルは、全ての〈スナイパー〉が憧れ目標とする完璧な存在だ。そのずば抜けた撃破数と成功率は部外者にも知れ渡っている。森田ヒカルの狙撃データを基にした眼までが開発されている。
 ボクが装着している眼こそが、他ならぬ森田式の眼だった。だからこそボクは、この眼を新型に換装したくないのだ。
 そんなボクの情熱とは対照的に、神条は「そうか」と素っ気なく呟いて〈ライフル〉に視線を戻した。『なんで?』には答えていなかったけれど、もう彼の意識はボクにない。
 神条は、ボクの恩人の話になるといつも面白くなさそうにする。そのくせ、成績表に彼の名を探すのはやめろ、とも言わない。虹の終りを探す子供の旅に付き合わされる猫みたいに、ひどく冷めている。見つかりっこないのに、って顔だ。
 食事を終えてミネラルウォーターを呷っていると、〈ライフル〉が差し出された。玩具であることを主張するように、銃口が神条自身の胸に向けられている。
「〇・〇三度、左に振ってみた」
「逸れてたの?」
「心持ち」神条は右手の人差し指を曲げ伸ばしした。トリガーを引く動きだ。「お前、関節引っかけるクセあったか?」
「まさか。素人じゃあるまいし」
 トリガーとは指の腹で引くものだ、ということは〈スナイパー〉としての教育以前、初等教育の段階で教え込まれることだ。地球の戦場で人を撃っていたスナイパーが直々に、指導してくれた。地球の戦場を生き抜いた凄腕のスナイパーたちは老いたり再起不能な傷を負ったりして第一線から退くと、たいてい星を撃つボクらを育てる仕事に就くのだという。
 自分の手で家族を守れなくなったのだから、次は家族が住む地球を守ってくれる〈スナイパー〉に自分の技術を継いでもらいたい、と語った老兵の柔和な微笑みをよく覚えている。
 地球の戦場に生きる彼らは生身の眼と脳を持つ、人間だ。彼らは愛する人間を守るために、人間を撃っている。
 だから機械の眼と脳を得たボクらも、愛する星を撃つ。
 ボクの指が正しくトリガーを捉えているのなら、原因は別にあるってことになる。芝の上でくたばっていたグローブを嵌めて指を動かしてみたけど、異常はわからない。
 神条はツールボックスから板状の機械を取り出して、グローブのケーブルをつなぐ。
 構えてみろ、と言われるままに腹這いになって〈ライフル〉を覗き込む。条件反射で呼吸が腹式になった。雲ばかりの空を射撃軸上に置く。胸の奥に草の香りが広がった。当初の目的通り、この擬似大地が耕地として用いられていたとしても、きっと同じ空と匂いがあっただろう。
「ちょっと振れてるな」
「〈ライフル〉の回路? それとも三脚の計測?」
「いや、グローブのプログラムか回路か……開けてみないとわからない。とりあえず」神条は安全靴の先で〈ライフル〉を示す。「こっちじゃないし三脚でもない。グローブ、終わったらデスクに置いといてくれ。直しとく」
「今日の狙撃への影響は?」
「調整したから大丈夫だろう。もし、おかしかったら休憩時間に言え」
「わかった」
「じゃあ、後で」
「うん、後で」
 神条の足音を聞きながら、もし星を撃ち漏らしたら、と考える。
 ボクと神条が言った『後』なんてものは、永遠に来ないかもしれない。

 ブリーフィングルームで、八時間で九回──第九段階まで働くのは久し振りだ──なんて過密スケジュールを告げられているころ、雨が降り出した。仲間の何人かが耐爆ガラスを濡らすそれに舌打ちをしたけど、ボクはどこかほっとしていた。
 施設を出てボクの〈トニトゥルス〉の陰で雨宿りをする。もう少し激しく降れば、擬似大地と同等にボクを濡らしてくれるはずだ。雲を生み雨を降らせる装置は、地球の天候よろしく整備工たちにも手に負えない代物らしい。
 施設の照明が短く二度、点滅した。
 ヘッドフォンを耳に当てる。回線のつながっていないスピーカが、こもった沈黙でボクの不安を潰してくれた。ケーブルの束をグローブと〈ライフル〉、そして〈トニトゥルス〉にも接続する。
 腹這いになると、柔らかく頭を垂れた芝がボクの体を受け止めてくれた。土と湿った草の香りが肺を満たす。遅れて、焼けた機械の匂いがした。
〈トニトゥルス〉の影が夜に紛れた。施設の電力が落とされたんだ。擬似大地にある電力のほとんどが、星を穿つために費やされる。
 漆黒の世界に対応しようと、ボクの眼が軋む。ギギッと回転数を上げる機械の音、レンズが絞られては弛緩する振動、視神経を駆ける微弱電流、その全てを額に刻まれた傷で感じる。
 暗緑色の明暗で視界が整うのを待って、スコープを覗き込んだ。レンズに反射したボクの瞳が、青白く発光している。
 スコープで切り取られた丸い世界いっぱいに広がる雲で、星たちが見えない。ボクらに見つからないように、空に頼んで姿を隠してもらったんだろう。ボクらだって〈トニトゥルス〉の陰に隠れて彼らを狙っているんだからお互い様だ。
『来たぞ』と神条の低い声がヘッドフォンから聞こえた。
〈ライフル〉の安全装置を外して、〈トニトゥルス〉を起こす。冷却水がそわそわと仕事を待ちわびる甲高い音が、あちこちから上がる。
 一瞬で、数えきれないほどの目標ボックスが表れた。射程外のデータだし、雨の影響があるから信用できない。いつもなら目視で調節するところだけれど、一面の雲じゃそれも叶わない。
『修正値を送る』と神条の声がした。
 すぐにヘッドフォンが受信したデータを微弱電流に変換し、ボクの脳に直接情報を送ってくれる。ジジッと漏電みたいな音とともに視界がブレて、すぐに治まる。
 再び目標ボックスの嵐が表れる。気象技官たちが補正したデータだ。薄緑色の重なりが、少しずつ解けていく。
『あと十秒』
 ボクは見えない星を狙ってトリガーに指をかける。三秒だけ、瞼を下ろした。いつもの、鮮烈に自分の存在を燃やして翔ける星たちの姿を思い描く。
 目を開ける。呼吸はゆっくりと、眠りに就く寸前に似た腹式だ。ボクは擬似大地へと融け出し、滲みこみ、存在を宇宙へ同化させる。
 目標ボックスが赤く輝いた瞬間を逃さずに、トリガーを引いた。
 ドッと空気が焼ける閃光と、轟音が炸裂する。〈トニトゥルス〉が吐き出す光の弾丸が、星へと走る。
 次の目標ボックスが赤くフラッシュした。ロック・オン、といってもコンピュータが他の〈スナイパー〉たちと目標がかぶらないように『これを撃て』と示しているだけだから、ボクはボクの眼と勘を信じて照準しなきゃならない。
 〇・三秒で狙いをつけてトリガーを引く。ヘッドフォンで保護された鼓膜が音を拒絶する。〈ライフル〉が肩を圧する感覚も、強く打ち始めた雨に流れていく。ボクは〈トニトゥルス〉と擬似大地、そして星が翔けまわる宇宙と、一つになる。
 本当にそうなればいい、とどこかで思いながら、でもそうなれば二度と神条とバーには行けないな、とも考える。
 ボクは、神条と交わした『後で』って言葉のためにトリガーを引き続ける。
〈トニトゥルス〉のような冷却水を備えていないボクの眼が、熱く脈動している。額の傷がじりじりと痛む。けれどそんなことは気にもならない。スコープの中で泳ぐ目標ボックスだけを追ってトリガーを引く。
 ふっと空振った。まただ。〈トニトゥルス〉を振り仰ぐ。また、鉄の塊が熱にのぼせて怠けていた。
〈トニトゥルス〉の砲身に触れた雨粒が湯気になって立ち昇る。それを確認して、すぐに視線をスコープの中に戻した。
 星を隠す雲と目標ボックスだけの世界が広がっている。
 もし本当にボクが〈スナイパー〉として削減されるなら、星が撃てなくなるくらいなら、ボクは躊躇なく迫りくる星の一つを見逃すだろう。この軌道庭園ごと、ボクは星に撃たれる。そうすれば、みんな道連れになるけれど、少なくともボクの願望は叶えられる。
 ボクは最期まで星を撃ち続けていたい。星を撃って、星に撃たれて、星と溶け合って、死にたい。だってそれが、愛するってことだろう。

 結局、一つの星だって見逃すことなく撃ち尽くした。
 きれいに掃除したはずの空は、けれどスコープ越しではない視界では、高エネルギーでぶつ切れになった雲の滓が散らばっていて全然きれいじゃなかった。こんな空が墓場だなんて、星たちだって不本意だろう。
 どうせ一時間もせず次の段階に入るんだから、と施設には戻らずに水で弛んだ芝に寝転がる。ヘッドフォンのコードが首に絡まりそうだったから、それだけは〈トニトゥルス〉の下に投げておく。
 三脚から外した〈ライフル〉を抱いて、濡れた擬似大地に頬を預けた。
 冷やす必要なんて微塵もなかったけれど、〈ライフル〉をボクごと雨に晒す。雨粒に打たれて、擬似大地に溶け出す夢に酔う。
 それなのに、予想していなかった熱が肩に触れた。せっかくの心地良い夢を味わい損ねたボクは、緩慢に瞼を持ち上げる。
 神条の、不機嫌顔がとても近くにあった。目元のクマの下に皺が寄っている。彼の髪先を伝った雨が、ボクの唇の端から入り込んで舌を撫でた。
「バカ、何やってんだ。早く戻れ。風邪ひくぞ」
「老けて見えるよ、その顔」
「うっさい」彼は眉間にも皺を作った。「風邪ひく前に、中入れ」
「どうせ、また濡れるんだから」
 ここでいいと答えると、神条はため息をついて屈めていた体を起こした。そのまま〈トニトゥルス〉を支える三脚に足をかけて、登っていく。濡れて滑りやすいはずなのに器用なものだ。きっと整備工の靴底にはボクらには見えない吸盤が装備されているんだろう。
 熱を帯びていたボクの眼が雨粒で冷やされていく。じわりと神経が解れる感覚に息を吐いた。怠け者の〈トニトゥルス〉も同じ感覚を味わっているのかもしれない。でも撃っている最中は、やめてほしい。
 ごろごろと自堕落に芝の上を転がって〈トニトゥルス〉の傘から出る。体を打つ雨粒が直接感じられた。リズミカルで心地いい。思いのほかシャツが肩にべったりと絡みついてきた。次の狙撃に入る前に急いで着替えに戻るべきかもしれない。六階のアパートまで戻っていたら第二段階の狙撃に遅刻してしまうから、地下四階のマーケットで着替えを買うべきだろうか。
 施設の照明がぼんやりと曇天を照らしていた。鋭い雨粒がボクの眼球を狙ってきたけれど、そんな柔らかい銃弾じゃあボクの機械の眼はびくともしない。冷却水代りだ。眼尻から伝った滴が耳に入って音が遠くなったけれど、まだ発砲の残響がしていたからそれもいい。
 雨音をくぐって、重たい金属がぶつかり合う音も聞こえる。その中のどれかは神条がボクの〈トニトゥルス〉を撫でる音だ。
 着替えに戻るのも億劫で、程良く冷えた眼を閉ざして音に集中することにした。
〈トニトゥルス〉がいつもの冷却水と空からの冷却水で冷やされる音、砲身の熱に苦労しながら微調整をかける整備工たちの話し声、そして濡れた大地を不器用に歩く人の気配がいくつもしている。どれもが星を撃ち、愛するための音だ。
 不意に、雨粒が途切れた。
 目を開けると、ウィン、とピントを合わせる機械音が一秒だけ。施設の照明と雨とで白く煙った視界に、バカみたいに咲き乱れた花が円形を作っていた。まるで、さあ撃って、と墜ちてくる星が纏う炎みたいだ。
 あまりにそぐわない色彩にボクの眼がギュンと竦む。
「風邪ひくわよ」
 鉛色の水溜りを避けて立つハヤトが、ボクを見下ろしていた。豪奢なのか悪趣味なのか判断しにくい花柄の傘が、彼女の顔色をくすませている。ハヤトは神条と似たようなことを言いながら、彼は持っていなかった自分が濡れないための傘をボクに傾けた。
 そんなことをしてもらってもボクはすでに大地と同じくらい水を吸っていたし、傘の端から寄り集まって大きくなった雫が不規則に腹を叩いてくるから気持ちが悪い。でも、それを口にしないくらいの礼節は持っていた。
 玩具の〈ライフル〉を抱いたまま上半身を起こす。派手な花はまだボクの上で咲いていた。「ありがとう」って言うべきかな? と二秒も考えたけど、結局黙ってハヤトを見上げるだけにした。
「入らないの?」とハヤトは、狙撃段階を終えて電力を取り戻した施設を振り返る。光に縁取られた彼女の肩は濡れて、灰色に沈んでいた。
「寒くない? 今日はいつもより地表の設定温度が低く感じるわね。雨のせいかしら」
 地表、とはこの擬似大地のことだろうか。ここを地表と表現する人間を、ボクは彼女以外に知らない。やっぱりハヤトは、部外者だ。
「……別に。寒いなら、あんたが入ってればいいだろ」
「わたしは今、出てきたところよ」彼女のオレンジ色の唇は、ボクの眼に馴染む速さで回転する。「あなたは入らないの? 他のみんなは熱いシャワーを浴びて次に備えるって言ってるわ。雨が好きなの?」
 彼女は質問をするくせに、答えが返ってこなくても勝手に話を進められるらしい。
「わたしも雨は嫌いじゃないわ。傘が使えるもの。これ、わざわざ地球から持ってきたのよ、どう? 傘が必要な生活なんて、ここじゃ地表に出られる立場の人たちだけの特権でしょう」
 さらりと複数形にされたけど、黙っていた。ボクが傘なんて持っていないことは昨日、いや時間的には今朝、部屋にきたんだから知っているんじゃないのか。それとも家庭訪問ってやつは持ち物じゃなくてボクには見えない何かを探すものなんだろうか?
「霧原っ!」
 唐突に降ってきた叫び声で、反射的にぬかるんだ地面を蹴った。半秒前までボクが座っていた場所に神条が落ちてくる。彼の安全靴に踏み抜かれた泥が芸術的な軌跡を描いて散った。
 タイミング的にはかなり際どかった。でもまあ、ボクと彼の間にある阿吽の呼吸ってやつだ。阿吽が何かは知らないけれど。
「きゃっ!」なんて今まで聞いたこともない高い悲鳴が聞こえた。ハヤトだ。半分泥に沈んだ靴から伸びる華奢な足に、小さな黒い点がいくつも飛んでいた。
「ちょっと、何するのよ! このスカート、気に入ってるのに」
「バカかお前、こんな日のこんなトコに、そんな格好してくんな」
 神条は濡れて束になった髪をかき上げて、物騒な顔をした。その眼光でハヤトの文句を封じてからボクを見る。もっともボクには彼の機嫌がさほど悪くないことがわかる。眉が寄っているのは雨が目に入ることを嫌がっているからだ。
「眼は?」
「悪くないよ」神条とは違ってボクの眼は、冷却水代りの雨に濡れたほうが調子がいい。「えっと……知り合い、なの?」
 彼は嫌そうな、本当に心底答えたくないって顔でぼそりと言った。
「元、ヨメ」
「元じゃないわよ」
 ヨメをどう漢字変換すればいいのかわからないボクの頭越しに、ハヤトが胸を反らす。
「まだ届を出してないもの」
「なんでだ! もう三年だぞ。出せ、とっとと、今日にでも出せ」
「無理よ、紛失したの」彼女はどこか自慢気に顎を上げる。「あなたと違って、わたしは忙しいのよ。それに、コッチの職場でも『神条』って名前が浸透しちゃってるから、このままでもいいかなって」
「いいわけあるか」
「不都合でもあるの? 誰にも夫婦だなんて言ってないわ」
「元、だ! それに、今こいつにっ」
 不自然な呼吸で言葉を切った神条が、ボクを見下ろした。俯いた先にたまたまボクの顔があっただけなのかもしれない。
 それでもボクは、聞かれたくない話なんだ、と直感する。少し考えてから「着替えてくるよ」と宣言して彼の無言の希望を叶えてあげることにした。
「ああ」だか「おお」だか微妙な発音で頷いた神条から、ボクは半歩だけ後退る。
 神条は不穏に歪んだ顔をボクから背け、オイルと雨が重たそうに滴る軍手をはめたままの手だけを伸ばしてくる。
 抱えていた〈ライフル〉をその腕に預けて、ボクは踵を返す。
 神条たちを振り返らないように、二人の声を聞かないように、最大の注意を払いながら建物に入った。
 つるんとした床が、ボクの濡れた靴底に悲鳴を上げる。外で這い蹲っていたボクらの水滴をさんざん浴びたラウンジの床はひどく不機嫌そうだった。
 クリップボードに挟まれた書類を大事そうに抱えた女性技官が、とばっちりを受けて盛大に転ぶ。〈スナイパー〉は、ボクを含めて誰一人として興味を示さなかった。そのかわり彼女の周りにいた整備工たちが手を貸してあげていたから問題ない。彼女だって星のためだけに存在するボクらの手を向けられるより、たとえ銃器オイルが染みついていたって人間のために存在する手を差し伸べられるほうがいいに決まっている。
 ボクの中で、ヨメって音がようやく『嫁』って意味を持ちはじめた。嫁? 家族? 『家庭』ってものを構成する部品だ。
 家庭訪問よ、と告げて部屋に押し入ってきたハヤトの、いやに真剣な顔が脳裏をよぎる。家庭なんてものはボクの部屋にも人生にも存在しない。なのに、どうしてハヤトはそんなものを求めたんだろう? 彼女はボクの部屋でその破片でも見つけたのだろうか? だとしたら、それはどんな形をしているのだろう?
 顔の半分だけで雨の夜を振り返る。ハヤトと神条が並んでいるところを見たくなかったから、施設の電光に艶めく泥色の足跡だけを睨む。
 なんとなく、神条は機械しか愛せない男だと思っていた。ボクが星を愛するように、彼も機械を愛しているのだと思っていた。
 でも神条は、ボクとは違う。人間に分類される生き物だった。
 そんな簡単なことに気がついて、裏切られたような気分になっているボク自身が一番忌々しい。
 星のために作られた眼が痛んだ。もう冷えているのにどうしてだろう? こんな調子だからボクは削減されるのか、と妙に納得して、なぜか笑いたい気分になった。大声で笑ってやろうとしたのに、ボクの喉からは嗚咽じみた細い吐息が逃げただけだった。

 グローブから滴る雨の残りがなくなったころ、ボクらはまた雨の中に追い出された。
 短く二回点滅した施設の照明に急かされて、駆け足で〈トニトゥルス〉の下に戻る。放り出したままだったヘッドフォンと隣に置かれていた〈ライフル〉のケーブルとをセットする。
 耳朶の奥に空気が閉じ込められる気配にほっとした途端、肩をつかまれた。ぎょっと振り返る。狙撃開始間際に〈スナイパー〉以外の人間が外にいるはずがない。
 神条が、何かを怒鳴っていた。防音機能のあるヘッドフォンに阻まれて聞こえない。
 彼は焦れた様子でボクのヘッドフォンを鷲掴みにして、少しだけ浮かせた。髪を一筋一緒につかまれてちょっと痛かったけれど、ボクの手はすでにグローブとケーブルに埋まっていたから任せるしかない。
 雨に濡れて黒ずんだ作業着がオイルの匂いと混ざって、彼の煙草の香りを消していた。
「何、どうしたの? 耳潰れるよ」
「出力を五パーセントほど上げた!」彼はボクの耳元で怒鳴った。ヘッドフォンを外されているボクの鼓膜には痛いくらいだ。「照射角のブレがマシになってるはずだ」
 たった一段階分のデータで雨の影響を計算してくれたというわけだ。優秀な整備工がいると心強い。
 無言で頷くと、神条も大きく頷き返してヘッドフォンをボクの耳に戻した。二度、肩を叩かれる。がんばれとか、しっかりやれって意味だ。
 笑って見せたけれど、施設の照明が消えると同時くらいだったから彼に伝わったかどうかはわからない。
『来ます。準備してください』と少し焦った感じの男の声がした。通信系統は整備工の担当だから神条の後輩なのかもしれない。
 芝の上に這い蹲って安全装置を外すと、コォーと冷却水が咆え猛る。今日は雨に仕事をとられて拗ねているんだろう。大地を洗う雨音だって聞こえなくなる。
 神条がちゃんと施設に戻れたかなんて気にしなかった。もう興味がない。
 だって、星が来る。

 第九段階までだったはずの仕事は、第十段階にまでなった。〈トニトゥルス〉の稼働限界ギリギリの回数だ。雨が冷却水を助けていなかったら焼きつきを起こしていたかもしれない。
 ボクは最後まで服を着替えなかったから、雨の降らないラウンジに戻ったときにはそれなりに汚い格好だった。すれ違う技官たちは自分たちの白衣を守るためか、そろってボクの通り道を開けてくれる。ヘッドフォンをロッカーに入れ、けれどジャケットはとらずにグローブだけを持って再びラウンジへと戻った。神条が調整してくれていたおかげで狙撃に影響はなかったけれど、彼が「直す」と言ってくれたのだからグローブは彼に任せるべきだろう。
 水野のオフィスの前を抜けて、奥へと続く廊下を進む。
 基本的に〈スナイパー〉は軌道庭園の下層へ沈むエレベータと更衣室、ラウンジを抜けて擬似大地へ、ついでに売店で食事を買う、以外のルートを歩くことは滅多にない。ボクがこの廊下を迷わず歩けるのは、神条が教えてくれたからだ。
 節電のためなのか三つに一つしか電灯が入っていない廊下の一番奥が、整備工たちの部屋だった。そのまま銃器の部品やオイルが備蓄してある倉庫まで行ける構造になっているから、人と機械の臭いが混ざった不思議な空間になっている。部屋中に積み上げられた段ボールの割に、どのデスクもきれいだった。元々席に着いてどうこうする仕事じゃないから、彼らにデスクを与えているほうがおかしいんだと思う。
 神条のデスクはすぐにわかった。だって、彼だけは分厚い専門書を山積みにしている。勉強熱心なのか単なる情報マニアなのか。神条のことだからきっと後者だろう。
 濡れたグローブを本の上に載せるのは気が引けたから、安っぽい椅子の背に引っかけておく。乱暴に動いたつもりはなかったのに、本がちょっとした雪崩を起こして隣のデスクにまではみ出した。でも、そっちには何も載っていないんだから使用者だって気にしないだろう。
 早々に部屋を出る。水が溜まった靴の中で指先が泳いだ。ぎゅぽぎゅぽと、ボクの歩調に合わせて間抜けな音が廊下に押し出される。
 エレベータに乗り込んで六階のボタンを押す。小さな箱は、なぜかとても寒かった。仕事中毒の空調設備が加減を忘れているのか、ボクが濡れているせいなのかは判然としない。どちらにしろ早く着替えたほうがよさそうだ。
 ふわりと脳が浮き上がる感覚がして、星たちとは比べ物にならない鈍重さでボクの体は落ちる。それもすぐに鈍った、と感じたときには止まっている。
 ずいぶん潜った気がしたのに、表示は二階だった。面倒そうに扉が開く。
 背広姿の男が二階フロアに広がる歓楽街からエレベータに逃げ込もうとして、たたらを踏んだ。
 ボクに驚いたのだろう。半歩引いて場所を空けてやると、男は気まずそうに顔をしかめながら乗り込んできた。
「何階ですか?」なんてバカなことは訊かない。彼だって勝手に十二階のボタンを押してそのまま箱の角に身を寄せる。ふつうの反応だ。
 ゆっくりと口を閉ざしたエレベータが動きだす。三階、四階。
「あの……」と彼が振り返ったので、本当に驚いた。幻聴かと思ったくらいだ。これまでも誰かと乗り合わせたことはあったけれど、声をかけられたことなんか一度だってなかった。
 ボクは濡れた髪を撫でつけていたから、虹彩が白く輝く青い眼も政府の備品だって印が刻まれた額もはっきりと見えているはずだ。
 それなのに彼は神条と同じ虹彩の光らない、人間の眼で、ボクを見て言った。
「上は雨ですか?」
「…………どうして?」
「どうして?」男は笑ったようだ。「あなたが濡れているからですよ、寒そうだ」
「違う」エレベータは寝惚けた速度で五階を通り過ぎる。「どうしてボクに話しかけたの? ボクが〈スナイパー〉だって、わかるはずだ」
「子供にだってわかります」
「ならどうして?」
「あなたに話しかけては、いけませんか?」
「ふつうは、話しかけない」
「ふつうの〈スナイパー〉なら、僕を無視しますよ」
 ゴゥン、と誰かに殴られたような大きな音がした。エレベータが六階に着いた衝撃だ。嗅ぎ飽きたコンクリート壁の匂いが流れ込む。
 そして、男の笑い声が響く。
「ああ、でも、僕も〈スナイパー〉だから、仲間、ですね」
「嘘だっ」声が震えているのを自覚する。「だって」
 だって、おかしいじゃないか。男の眼は神条と同じ色をしている。男の額には皺があるけれど傷痕なんかない。ボクの眼とは、額とは、なにもかも。
「……違う」
 喘ぎになった。ちゃんと声になっていたのかも定かじゃない。
「ええ、そうですね。正しくは、過去形です。僕は〈スナイパー〉だった。あなたと同じ、十七世代だ」
 十七世代、眼のヴァージョンのことだ。ボクが装備するのと同じ型の眼を嵌めていたのなら、どうしてこの男の眼は今、こんな色になっているんだ。〈スナイパー〉の証が刻まれているはずの額だって──。
「いずれ、あなたも」男の人差し指が、傷痕のない額を見せつける。「こうなる」
「……そんなはず、ない」
「どうして?」
「だって……」
 だって、なんだ? その続きが舌の上で転がって出ていかない。まるでボク自身がその続きを知らないみたいだ。
「だって?」男が平淡な抑揚で、ボクの言葉の続きを紡ぐ。「だって、『ボクらは星のために造られた』から?」
 喉が引きつって、空気が逃げていく。たぶん喉が渇いているんだ。早くあのちっぽけな部屋に帰って水を飲まないと干からびてしまう。
 そうだ、帰らないと。
 ふらりと足を踏み出した。閉まりかけていたエレベータの口をこじ開けて、転がり出る。
 再び閉まり始めた扉の隙間で細っていく箱の中を、ボクは振り返らなかった。怖くて、振り返れなかった。
「また、いつか」
 男の声が聞こえた気がした。モーターの唸りを聞き間違えただけだろう。
 また? ボクは足早にアパートの間を抜けながらぞっとする。
 冗談じゃない、二度と会いたくない。
 アパートの階段を一段飛ばしに駆け上がって部屋の前に辿り着いたとき、途方に暮れた。
 ジャケットを更衣室に置いてきてしまった。鍵もあそこだ。取りに戻るにはエレベータに乗らなきゃならない。でも乗りたくない。あの男のいた空間にもう一度戻るなんて、怖くてできない。
 たった一枚の薄っぺらい鉄板の向こうにボクの空間があるのに、たった一つの金属片がないだけでボクは立ち尽くす。
 カカン、とご機嫌に階段を鳴らして上がってきた男がボクを一瞥した。青い機械の、ボクと同じ眼だ。額にも一文字の傷痕がある。四階にあるマーケットの袋を提げていたから買い物帰りだろう。
「どうした?」男が訊く。
「鍵を、上に忘れた」
「ふうん」
 男は自分の部屋の鍵を開けて消えていく。外の世界をボクごと拒絶する音を立てて、ドアと鍵が閉まった。
〈スナイパー〉なら当然の行動だ。ボクだって彼の立場なら、そうする。だって星には関係のないことだ。
 そう『造られた』だって? バカらしい。ボクらは星を愛しているだけだ。誰かにそうなれと命令されたわけでも、まして造られたわけでもない、はずだ。星を愛するのは、〈スナイパー〉の本能なのだから。
 だって地球の戦場で人間を撃つスナイパーは、人間を愛しているからこそ、人間を撃っているんだ。彼らが人間を愛するのは、そう造られたからじゃない。ならボクらだって、星を愛しているからこそ、星を撃っているのだ。
 それなのにどうして、星を撃つ〈スナイパー〉だけが造られた存在だと考えるんだろう。
 こめかみを伝う雨の残滓を拳で拭う。何も考えたくない、最低の気分だった。今ならハヤトの家庭訪問だって歓迎できる。神条と築いた家庭について語ってくれれば、あんな男のふざけた言葉だって忘れられるかもしれないのに、たいていの人にとってそうであるように、必要なときに望むものはない。
 もしこんなにずぶ濡れになっていなければ、このままここで眠って全てを忘れてしまってもよかった。
 でも今日は寒い。環境装置の設定云々じゃなくて単純に、ボクが濡れそぼっているせいでそう感じるのかもしれないけれど、寒すぎて眠れもしないだろう。
 仕方なく階段を下りる。さっきは必死で駆けた道をできるだけゆっくりと戻った。
 エレベータの呼び出しボタンに伸ばした指が、情けなく震えていた。初めて〈ライフル〉に触れたときみたいだ。
 勤勉に各階層を往き来するエレベータのモーター音に、さっきの男が否応なく浮かぶ。
 まるで幽霊だった。本物の幽霊なんて見たことはないし、具体的にはどんなものなのかも知らないけど、たぶんあれが幽霊って奴なんだ。だって〈スナイパー〉じゃなくなった〈スナイパー〉なんて、存在するはずがない。〈スナイパー〉じゃないボクなんて、星が降らない世界で錆びていく〈トニトゥルス〉みたいなものだ。そんなもの、必要ない。役立たずだ。
 星を撃てないなら、星を愛せないなら、生きている価値が、ない。
 仲間の死顔がよぎった。肉体の活動が停止してもなお、ヘッドフォンから供給される微弱電流によって息づいていた、白い虹彩と青い瞳孔を思う。
 同じ眼が、ここにある。ボクの生命活動が停止したとしても、星を愛している間は輝き続けてくれる眼だ。
 ボクは指先で強く瞼を押さえる。星を撃ちながら死んだ仲間を、心底羨む。ボクもあんな最期を迎えたい。あれ以外の最期なんて、要らない。
 同意を示してか、眼が重たい痛みを発した。
「っ……」
 不意打ちに喉を鳴らす。額の傷が、眼が熱い。オーバーワークをさせたときの疼きだ。今日の過密スケジュールのつけが回ってきた。
 膝をつく。エレベータの扉に痛む額と眼を擦り付ける。硬質な冷たさが、皮膚を侵して神経に触れた。
 咄嗟に誰かの名前が零れた。気のせいかもしれない。だってボクは縋れる相手を知らない。神条は整備工であって、幽霊に怯えたボクが縋っていい相手じゃない。呼べる名前なんか、一つだって持っていない。
 額を抱えて倒れ込む。頬や肘に食い込んだコンクリートの凹凸だけが妙に優しい。ゴゥン、とどこかで奈落の開く音がした。きっと幽霊の世界の扉が開く音だ。

   〈4〉

 ボクは星だった。
 ぽつん、と漆黒の宇宙に取り残されたボクは遠くに、たぶん人間の一生を何万人分つなげたって辿りつけないくらいの遠くに、青く輝く惑星を見つけて歓喜していた。
 あの星と一緒になれたら、なんて幸せだろう。あの星をボクの一部にしたなら、どれほど昂揚するだろう。
 ボクは孤独を捨てて、その青い星に会いに行こうと決めた。ボクを縛るだけで構ってくれない母星を捨てて、邪魔な衛星たちを押し退けて、ボクは走り出す。
 しばらくすると次々に星たちが集まってきて、みんながあの星を目指して競い合った。誰もが、これが命を削る旅だと気付いていたけれど、誰も諦めたりしなかった。
 その惑星の美しさは、命を賭けるに足る魅力を持っていたから。
 一度の瞬きで、その惑星は目の前に現れた。夢って便利だ、と思ったボクはこれが夢であることを自覚している。
 眩い青さを前に、ようやく憧れ続けた星と一つになれるのだ、と感動に震えたとき、一緒に旅をしてきた仲間が深紅に染まって崩れた。
 何が起こったのかわからなくて周りを見回す。
 青い星のすぐ傍に、緑の芝の塊が浮かんでいた。気紛れに大地を掌ですくい取って宇宙に抛りだしたように小さくて、脆そうだ。
 ど、っと光の矢が飛んできた。芝の塊から、いくつもの光が放たれる。仲間の何人かはそれに砕かれて、何人かは身体の半分を失って、それでも青い星に近付こうとしていた。
 ボクだって例外じゃない。近くの惑星の重力を借りて加速して、一直線に青い星へと走る。身体のどこかが炎を噴いたけど、気にも留めなかった。
 また、光が来た。芝の大地から放たれた閃光がはっきりと見えた。青い星自身に拒まれたわけじゃないことに、少し安堵する。
 仲間はどんどん減って、今じゃボクの周りには三人しかいなかった。でも、青い蒼い星はもう眼の前だ。もう誰もボクらを止められない。ようやく一緒になれる。この腕に抱いて、一緒に崩れ去ってしまえる。
 そう思ったのに。
 光に包まれた。ボクは青い星を抱く質量を、失う。絶望を覚えてもいいはずなのに、ボクは嬉しかった。
 だって最後の光は青い星から伸ばされた。青い星は、ボクの最期を抱きしめてくれた。それはボクが、青い星に愛されたってことに他ならない。

 目を開けるとレンズが収縮する音がした。白一色だった世界がゆっくりと形を結んでいく。
 見えたのは青い惑星でもスコープ越しの暗緑色の空でもなく、青白いボコボコとした天井だった。擬似大地の土で部屋を作ったのを誤魔化すために白く塗ったんじゃないかと思うくらいに粗い模様だ。
 ボクの部屋じゃないってことはわかった。あそこはもっと無表情だ。
 寝返りを打ってから、肌が捉えるシーツの感触に気が付く。服を着ていないことはどうでもいい。誰がボクを運んだのか。ここが誰の部屋なのかってことが、一番の問題だった。
 激しい雨音がしている。擬似大地の施設だろうか? 水野に眼の不調が知られて、医療施設に収容されてしまったのかもしれない。いや、それよりも。
 もしあの男の部屋だったら、と考えてぞくりと肩が震えた。ここがあの幽霊の部屋で、ボクはもう〈スナイパー〉じゃないと言われたら、どうしたらいいんだろう。
 寒くもないのに歯が鳴った。顎に力を入れて怖気を殺す。
 きん、と耳鳴りがする。おかしくなりそうだ。雨が止んでいた。人の気配が遠くのほうで揺れている。
 ふっと湯気と石鹸の匂いがした。雨だと思ったのはシャワーの音だったらしい。
 そして嗅ぎ慣れた、煙草の匂い。
 どっと力が抜けて、背中に汗が噴き出した。
 両腕を突っ張って体を起こすと、ボクは行儀よくベッドの上に載せられたベッドマットにいた。壁の一面が本棚になっている。初めて見る部屋だった。
 当然だ。ボクは彼のプライベートな空間に入ったことなんてない。
 生命工学倫理だの電子工学理論だの、何が書かれているのか想像すらできない題名の、分厚かったり薄っぺらかったりする本が床に積まれていた。飽和状態で紙切れをいくつもはみ出させている本棚に拒否されて仕方なく床に寝かされているんだろう。ボクの部屋の暇そうなラックと違って、この部屋の本棚は苦労が多そうだ。
「なんで」神条の低い、物凄く不機嫌な声がした。「このタイミングで起きるか、お前は」
 頭からタオルをかぶっているから表情は窺えない。ジャージのズボンを穿いただけって格好に、ちょっと驚いた。作業着の印象が強いから、正直に言えばボクは彼の私服だって咄嗟には思い出せない。
 神条は本の山を漁って、探り当てたTシャツをかぶる。ボクからは本しか見えないけれど、その陰に服が隠してあるらしい。
「何にビビッたかってぇと」神条は珍しく、砕けた口調だ。「お前がエレベータホールに転がってたことよりも、乗り合わせたヨシオカがお前を完全に無視したことだ」
 ヨシオカって誰だろう? でもまあ、六階で降りたなら〈スナイパー〉だ。
「……ありがとう」
 一秒くらい迷って、とりあえず口にしてみた。この状況に相応しい言葉なのかは、わからない。ただ、何か答えなきゃと思っただけだ。
「ああ?」彼はタオルを頭から首に落とした。跳ね上がった眉の下で目元に皺が寄っている。「何が?」
「拾ってくれて」
「あれを捨てとくのは、人としてどうかと思うぞ」
〈スナイパー〉だからね、とは言わなかった。〈スナイパー〉が星を撃つこと以外に興味を示さないことは、神条だってわかっているはずだから。かわりに別のことを訊く。
「なんで君の部屋なの? ここ、君の部屋だよね?」
「女の部屋に入れってか」
 てっきり『部屋を知らない』と言われると思っていたから、本気で驚いた。彼はボクの部屋の場所を知っていたっけ? と考えた直後には思い出した。〈トニトゥルス〉や〈ライフル〉にトラブルが出た場合には連絡してもらえるよう、彼と出会った当初にボクにかんするデータの全てを渡していた。
「言っとくが」神条はボクとは逆方向に視線を逃がしながら、怒っているような声で言う。「服を脱がしたのは、お前が雑巾以下に汚れてたからだ」
 意味がわからなくて首を傾げる。
「だから、お前に何かしたりは……」
「ああ」ようやく理解して、笑った。「なんだ、そんなこと。わかってるよ」
 ボクにとっては、彼がボクを女だと認識していたことのほうが驚きだった。
 少し緊張する。
 神条は目元の皺をさらに深くしてボクを睨んで、重力に負けたみたいにベッドの端に腰を下ろした。優秀なスプリングのせいでボクまで弾む。
 彼の襟足から、ボクとお揃いの石鹸が香った。地下四階のマーケットで売られている十個パックの安物だ。そしてボクとは違う、神条の濡れた肌の匂いが潜んでいる。
 神条から重たい銃器オイルの香りを嗅ぐことはあっても、こんなに甘ったるい匂いは初めてだった。ボクらの関係には似合わない、完全にプライベートな空気だ。
 今なら訊けるかもしれない、と思った。できるだけ自然に「ねえ」と喉を震わせる。
「ボクは、削減されるの?」
 神条の動きが止まった。疚しいところがあったわけじゃなく、単に内容が理解できなかったらしい。「は?」と間抜けな声を上げて振り返った彼は「サクゲン?」と微妙な発音で繰り返す。
「ボクは」とテレビが話していたことを思い出しながら、言い直す。「〈スナイパー〉として使い物にならないから、国の予算削減の対象になってる?」
「ああ、そういう意味か」
 神条はタオルで首を拭って、ため息を吐く。
 彼のTシャツの背が湿って、色が濃くなっていた。きっと触れたら熱を感じられる。でも触れない。触れたいとも思わない。だって彼はボクの整備工だ。ボクは彼の整備の腕を愛しているけれど、ボクらが触れ合うのは給料日のあのバーでだけと決まっている。
「俺がそんなネタつかんでるわけないだろう。整備工だぞ?」
「じゃあ、なんでボクに触ったの? 昨日、エレベータの前で、バーを出た後」
 彼は顔の半分だけで振り返る。あのときと同じように、頬が歪んでいる。ボクに話せない、話したくない、何かを隠しているのだと知れる表情だった。
 彼の反応が怖くなって、訊いたことを後悔した。皺になったシーツを睨む。ギュンと眼球が振動した。
「……そこからか」
「どこから?」
 神条は自分の首から外したタオルをボクの頭にかぶせて乱暴にかき回した。
「まあいい、こっちも端から期待はしてない。風呂に湯張っといたから体温めてこい」
「神条」ボクは逃げる彼を呼ぶ。「期待って?」
「いいから」彼は振り返らないまま、少し声を大きくした。「風呂入れ」
 ここは神条の部屋だから主導権は彼にある。しぶしぶベッドから足を下ろす。雨でふやけたボクの指は白くて、人間よりもあの幽霊に近い気がした。
「神条」バスルームのドアを開けながら再びボクの整備工を呼ぶ。「ボクは、まだ必要?」
 彼はボクの言葉の裏の裏まで読んでいるような沈黙を三呼吸も落としてから、黙って頷いてくれた。
 今のボクにとっては何よりも信じられる、信じたいと願う、答えだった。

 神条の残り香がするバスルームで熱い雨を浴びながら、ここがボクのフロアじゃないことを実感する。シャワーの水圧が高いし、何より湯船がある。
 乾いた泥で束になっていた髪を解してから、シャンプーに手を伸ばして戸惑った。双子のボトルが並んでいたからだ。ボクのバスルームには、髪を洗うボトルと石鹸が一つずつしかないのに。
 湯気を手で払いながら、苦労して眼のピントを調節する。ボトルの説明文を一字ずつ読んで、ようやくシャンプーを見分けた。もう片方はシャンプーの後に使うものらしい。神条は存外、マメな男だ。
 シャンプーだけを使ってから、今度は馴染みの石鹸で体を洗う。指の間を擬似大地の名残がざらざらと流れていった。
 ボクを伝う水がきれいになってから、湯船にたっぷりと張られたお湯に恐るおそる足先を入れた。指先が痺れるくらい熱い。
 星を穿つ〈トニトゥルス〉の熱に苦労している神条が、こんな温度に浸る生活を送っているというのは不思議な感じがする。
 しばらく指先だけを湯に入れて覚悟を決めてから、肩まで沈む。
 つかってみると、それほど熱くはなかった。少しだけ息苦しい。
 胸から押し出された空気がため息となって、湿気で霞んだ空間に反響した。湯船の縁に頬を預けて、薄緑色に見える水面を眺める。同じ水なのに雨とは全然違う。雨は擬似大地を溶かすのに、この水はボクの体を融かしてくれない。かわりに思考が解けていく。
 眼に触れてみた。レンズを傷つけるといけないので、そっと、白眼の部分だけに。
 柔らかいような硬いような、濡れているような乾いているような、曖昧な感触だった。青い、はずだ。水面では見えないけど、少し伸びあがれば鏡がある。白く曇っているけれど、ボクの眼の色くらいは見えるだろう。
 でも、そうはしなかった。できなかった。
 もし黒や茶色だったら? 〈スナイパー〉じゃなくなっていたら?
 怖くて、喉が鳴った。とても小さな音だったのにバスルームに響いて、泣いているみたいに聞こえた。
 バカだな、と自分でも思う。この眼になってから泣いたことなんてない。〈スナイパー〉は泣かない生き物だ。ボクらの人生には悲しみなんて存在しない。あるのは、星を撃つ、星を愛する悦びだけだ。そう、教えられて育った。
 ボクはお湯の中に顔を突っ込む。聴覚がゴボと水の遊ぶ音を捉える。耳の後ろで髪が泳いでくすぐったい。眼は、開けない。だって水底に何かが、たとえば幽霊の世界とかが見えたら嫌じゃないか。
 このまま沈んだら、きっと軌道庭園の多重階層を抜けて、隔壁さえ破って、宇宙に出られる。星と一緒になれる。このままずっと深く、ずっと奥で、ボクが求める星々が翔けている。
 ふっと夢で逢った青い星を思い出す。ときおり擬似大地の果てから、ボクの眼と同じ色の曲線を覗かせる、水の惑星。
〈スナイパー〉たちは、あの青い星を守れと命じられているけれど、宇宙生まれのボクはあの星に降りたことがない。ボクにとってのあの星は、ただそこに浮かぶだけの存在だ。
 ボクらが星を撃つのは、青い星に逢うために命を燃やして翔ける流星たちを愛しているからだ。その延長として、星を撃つのに欠かせない優秀な整備工も、愛している。
「霧原!」
 突然ひどい痛みが走って悲鳴を上げた、はずなのに呼吸を塞がれた。熱い液体が喉を滑り落ちて、盛大に咽る。額の奥が痛い。眼が急激な明度の変化についていけず、世界が赤くフラッシュした。まるでロック・オンだ。撃たれるのは、ボク。
「霧原っ!」
 神条の怖い顔が間近にあって息を呑んだ。おかげで鼻の奥で水がグズる。咳がひどくて肺まで痛んだ。銃器オイルの黒が縁取る神条の短い爪が、ボクの肩に食い込んでいる。
「ふざけんな! お前……」
 何をそんなに怒っているんだろう?
 神条は不自然に呼吸を詰めてボクの首元に額を落とした。傷のない皮膚を擦りつけて、何かを祈るような長い息を吐く。
 その真剣さに、咳き込むのを耐えた。
「勘弁してくれ」
「どう、したの?」
 神条の大きな掌が、ボクの肩骨を握り潰したそうにしている。
「神条、痛いよ」
 彼は動かなかったけれど、指の力は弛めてくれた。
「本当に、どうしたの?」
「……なんでもない」
「そんな嘘、誰にも通じないよ」
「なんで、嘘?」
「だって……」神条の肩に触れる。水を吸ったシャツが、ボクの手の形に色を変えた。「震えてる」
 はっ、と彼は短い息を吐いた。自嘲したのかもしれない。彼はボクから手を離して、湯船の縁を掴む。額はまだ、ボクの肩だ。そして、唸りに似た囁きが。
「……死ぬ気かと思った」
「誰が?」
 ボクの鎖骨に触れた熱い吐息が、彼の答えだった。
「ボクが?」
「……お前が」
「死なないよ」ボクは控えめに笑う。「星が降る限り、ボクは死なない。〈スナイパー〉はそういう生き物だろ」
「ああ」神条は呻く。「お前は〈スナイパー〉だったな」
「そ……」うだよ、ってボクの声は甲高い間抜けな電子音でかき消された。
 ビンポンだかギンゴンだかってフレーズを二回も繰り返したそれが何の合図なのか、ボクにはわからなかった。
 でも、神条は違う。「んのヤロ」と小さく舌打ちをして、湯気をお供にバスルームを出て行ってしまった。
 少し冷えてしまった空気から逃げて、顎まで湯に潜る。体中を眠気に似た安堵感が満たしていく。瞼を下ろして、自分を世界から隔離した。深く呼吸をすると、咳で痛めた喉に甘い湿気が広がっていく。機械仕掛けの眼を制御するために額の奥に埋められているチップが、電気信号を血流に乗せていくのを感じる。
 最近の神条はおかしい。ボクが削減されたって彼にはなんの影響もないはずなのに、まるでボクを手放したくないような反応をする。正直、やめてほしい。ボクが彼にとって特別な〈スナイパー〉だと、勘違いしてしまいそうになる。
 ボクにとって神条は特別大事な整備工だけど、それは〈トニトゥルス〉だけでなく、ボク自身の眼の整備も任せているからだ。ボクが全力で星を愛するために、彼は欠かせない。
 でも神条の腕なら、むしろボクより優秀な〈スナイパー〉と組んだほうが、彼の実力が発揮される可能性が高い。事実、ボクより成績の良い奴は七百人以上いるのだ。少し残念な結論だけど、彼は生命限界を迎えつつあるボクなんかに執着するべきじゃない。
 ボクだって、神条を星より愛せない以上、彼を独占するべきではないとわかっている。ボクは神条を撃てない、殺してあげられない。彼は星とは違うイキモノなのだから。
「霧原」女の声がした。「男の人の部屋の、それもバスルームで会うとは思わなかったわ。面談室としては悪趣味ね」
 重たい瞼を持ち上げて、見る。ハヤトが体を斜めにして戸口に立っていた。オレンジ色の唇から出てくる声は不機嫌そのものなのに、なぜか笑う形に歪んでいる。奇妙な光景だ。どこか、ちぐはぐ。
「着替えを持ってきてあげたの」ハヤトは手にした紙袋を少し持ち上げる。「感謝してちょうだい」
「ボクの部屋に入ったの?」
「いいえ、買ってきたの」
「悪趣味な服を?」
 彼女は眉を上げて唇を引き結ぶと、ようやく声と同じ表情を作った。それきりボクの皮肉には応えずバスルームを後にする。八つ当たりみたいに薄い扉が跳ね返って、閉ざされた。
 はは、と意識して笑う。確かにボクの喉が震えたのに、笑い声はどこまでも遠い場所から降ってきた。

 バスルームを出ると、小さなキッチンにハヤトが立っていた。一口コンロの上に乗せられた大きな鍋が、ぐらぐらと水面を揺すって熱いと訴えている。
 彼女は何も言わなかった。ボクがここにいる理由も、彼女が買ってきてくれた着替えに対しても。だからボクも無言で彼女の背後を通り過ぎる。
 結論からいえば趣味をどうこういえる程の服じゃなかった。無地のTシャツとジャージと下着が一揃え。ジャージのウエストが少しばかり緩かったけれど紐で絞れば着られないこともない。おそらくハヤトは、ボクの身体データも把握している。
 神条がいる部屋の敷居の前で、ハヤトを振り返る。
「いくらだった?」
「もう精算してもらったからいいわ」
 ハヤトは鍋を睨んだまま、ボクに菜箸を突きつけた。ボク越しの神条を指したのだろう。
 本があふれた部屋に入って、デスクに向かっている神条の横顔に同じ質問をする。
「いくら?」
「ん?」と神条は顔も上げずにベッドの上を指した。皺くちゃになったシーツの上に領収書が投げ捨てられていた。値段を読んでからジャージのポケットにしまう。
「明日でもいい? 財布を上に忘れてきたんだ」
「ああ、……ん、別に……」
 神条は生返事すら途中で放棄して沈黙してしまった。シャツの肩に染みたボクの手形が彼の動きに合わせて歪んでいる。
 神条の手元を覗き込んでみると、汚いグローブが解剖されているところだった。ボクのだろう。手首から手の甲までの装甲と指関節の丸いカバーが外されている。血管や筋肉みたいに複雑に絡まり合っているコードが何本も束で引き出されていた。
 廊下から鍋とシンクがぶつかる音がする。時計の針が走る音まで聞こえる。幽霊に対する恐怖心も、ボクが〈スナイパー〉として削減されるのではないかという危惧も、いつの間にか凪いでいた。神条が湯船に満たしてくれた熱さが、ボクの動揺を吸い出してくれたのかもしれない。
 何時だろう? と秒針の音源を探る。壁にはない。枕元にも、本の雪崩に沈んでいる床にも見当たらない。ベッドの下を覗き込んでみたけれど、やっぱり本が積み重なっているだけだ。音を頼りに視線を移動させる。星を撃つのに音なんて必要ないから、ボクの眼は戸惑いも顕わに視界を痙攣させながら探索モードに入った。
 どっちを見ても本、本、本。
 この部屋には本しかないんだろうか? 機械の眼は文字を読むことには向いていないから、最後に本を読んだのはボクの眼がまだ黒かったころだ。黒? ボクの眼は黒かっただろうか? 茶色だったかもしれない。もう思い出せない。思い出したくもない。
 過去を追い払うように頭を振って、見つけた。
 外された腕時計が、神条の陰で身を丸めている。黒いラバーゴムで着飾る、というよりは武装した大きな腕時計が〇三四三時を指していた。きりきりと誰かに追われているように秒針が逃げ回っている。
 仕事を終えたのが〇二〇〇時過ぎだったから、それほど長い間寝ていたわけじゃない。
 神条は、壊しているのか直しているのか判断できない大胆さでコードを切断しては測定器らしきものにつないでいく。
 彼の作業音と秒針が駆ける音、なによりも彼の濡れた匂いが、とても心地好かった。
「いっつもそう」
 急に背後から声がした。驚いたのを悟られないように一呼吸おいてから振り向く。
 ハヤトがお盆に載せたパスタ皿を大型本の上に移しながらため息を吐く。
「その人、機械を前にしたら周りなんて見えなくなるのよ」
「整備工としては優秀だ」
「人としては、てんでダメよ」
「ふうん」と適当に応じてから、テーブル代りになった本を指す。「傷むんじゃない?」
「いいのよ。テーブルがないんだし、付き合ってたときからこうだったわ」
「いい加減にしろ」神条が眉間に深い皺を刻んで振り返った。「その話題はよせ」
「いいじゃない」ハヤトは、何かのゲームに勝ったみたいに艶然と笑う。「霧原しかいないんだから」
 彼は舌打ちでハヤトとの会話を打ち切ると、ボクにグローブを差し出した。
「嵌めてみろ。調整かけるから」
「うん」と受け取ろうとしたけれど、ハヤトが先にそれを取り上げてしまった。
「グローブは逃げないわ。伸びたパスタを食べたい? 優先順位ってものがあるのよ」
 ボクにとっては食事なんかよりグローブのほうが大事だけど、神条が素直に椅子から下りてしまったから仕方がない。ボクも倣って、床に座る。
 神条は不満そうに「インスタントかよ」って毒づいたけど、ボクにとっては誰かが一手間かけてくれただけでも、とても珍しい食事だった。活動エネルギーになるならなんだって構わないからボクはたいてい、売店の固形食品で済ませてしまう。例外としては給料日のバーでありつくビールとピザだけど、あれだってボクらが注文しなければ出てこない。
 それなのにハヤトは、わざわざ加熱した料理をボクの前にも並べてくれるのだ。
 食事の間、神条はボクのグローブの状態や狙撃時の癖なんかを説明してくれた。ボクは狙いを定めるまでの時間が仲間よりも十五パーセントも短いらしい。だから〈トニトゥルス〉が逆上せるんだって。
 ボクは興味を持ちすぎて、五分に一回くらいハヤトから「手が止まってるわよ」って注意された。でも、彼女は仏頂面で咎めるくせに、どこか満足そうにしていた。
 これが、ハヤトがボクの部屋に探しにきた『家庭』ってものに近い空気なんだろうか。彼女が出してくれたパスタくらい温かくて、辛いものだ。ボクの記憶に断片的に潜りこんでいる『家庭』とは少し違う気がして落ち着かない。
 ハヤトが食器を片づけている間に、神条にグローブの数値をとってもらった。微調整を三回もかけて、彼はようやく「完璧」と頷く。
 片頬だけを持ち上げて笑う神条を見ると、ほっとする。そして、そんな彼にバー以外の場所で触れたいと思わないことが、ボクがまだ〈スナイパー〉である証明だった。

 ハヤトが帰ると言い出したので一緒に出ることにした。玄関まできて初めてハヤトが靴まで買ってくれていたことを知った。ボクがいつも履いているスニーカーの、正しいサイズだ。その事実を追及することなく、彼女がビニール袋に詰めてくれた汚れた服と靴を提げて町に出る。
 ハヤトと肩を並べて歩きながら、改めてここが八階だってことを実感した。エレベータの位置がわからない。彼女と一緒に出るって判断は、偶然だったにしろ正しかった。そうでなきゃ迷子になっているところだ。
「わたしはまだ地表でやることがあるんだけど、あなたはどうするの?」
「上がる。鍵を忘れたんだ」
 エレベータの扉が開く一瞬だけ、あの幽霊が潜んでいたら、と怯えたけれど、箱は面倒そうにボクらを呑みこむ口を開けただけで結局、誰に会うこともなく擬似大地に出た。
 施設は今まさに星を撃っている〈スナイパー〉たちのために電力を落としていて、暗闇に包まれていた。エレベータホールが煌々と明かりを灯している他は、非常灯が点々と廊下を形作っているだけだ。
 ボクはハヤトに別れを言うと一人で更衣室に行く。光がなくても、ボクの優秀な眼は暗緑色の濃淡で鮮やかに世界を描いてくれるのだ。
 難なく今のシフトに入っている班の荷物に埋もれていたボクのジャケットを掘り出してから、エレベータホールに戻る。眩しいほどの電灯に、ボクの眼は暗視モードを終了。
 驚いたことに、まだハヤトが居た。
「何?」着替えと食事の借りがあるから、友好的に尋ねてみる。
「わたしを頼って」彼女は小さな紙を差し出した。
 手を伸ばさないまま一瞥する。名前、所属、オフィスの直通電話番号が洒落ているとも悪趣味ともつかない字体で印刷されていた。そして、彼女の自宅らしき電話番号と住所が手書きで添えられている。地下十階。
 ちょっとした好奇心に駆られた。
「十二階には何があるの?」幽霊が潜った階だ。
「十二階?」
 ハヤトは顔をしかめた。何かを思い出しているわけじゃなくて、迷いや疑いを抱いている表情だ。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「別に。乗り合わせた奴が押したからだよ」
「どんな人?」
「どんなって」ボクは嘘をつく。「ふつうの人」
「……別に、何もないわ」彼女もたぶん、嘘をついた。「ただの居住区よ」
「……そう」
 ボクはもう一度、差し出されたままの名刺を見る。
「わたしを、頼って」
「神条じゃなくて?」
「ええ、彼じゃなくて」
「どうして?」
「わたしの、仕事だから」
「なるほど」
 頷いた。納得したわけじゃない。これ以上彼女と話しているのが面倒になっただけだ。
 名刺をジャケットのポケットに入れて、エレベータの呼び出しボタンを押した。別の階に逃げていたらしくワイヤーの軋む音が応える。
 背中で、ヒールの音がした。ボクの短い人生では絶対に縁がないタイプの靴だ。エレベータはまだ唸っている。
「ねえ」振り返って「ハヤト」と彼女の名前を呼ぶ。
 振り向いた彼女は目を見開いていた。呼び止められたことよりも、ボクに名前を呼ばれたことに驚いたんだろう。でも仕方がない。ボクにとっての神条は、神条しかいないんだから。
「なぁに?」
「ボクのことを人間だと思う?」
 彼女は初めて聞く言語を聞き取り損ねたような顔をする。
「それは……どういう意味かしら」
「そのまま。ボクは人間?」
「当たり前でしょ。人間じゃなくてなんだって言うの?」
「星」即答してから、一秒で別の可能性を思いついた。「もしくは、機械。この眼がボクって存在の全部。だからあんたじゃボクを整備できない」
 ハヤトはわずかに眉を寄せてから、表情を消した。真剣とは少し違う顔でボクを見詰めて、エレベータの階数表示を見て、またボクに視線を下ろす。
 虹彩が茶色い彼女の瞳はきっと、ボクよりも柔らかい。
「あなたは……」彼女は掠れた声で言ってから、また黙った。
 沈黙に色があるとしたら、きっと濁った白だ。エレベータが昇ってくる音だけが、ボクとハヤトの間に漂う。
「ボクは?」
「あなたは、人間でしょ?」
「ボクが質問したんだよ」
「あなたは……人間よ。星でも機械でもないわ」彼女は自分に言い聞かせるみたいに、一単語ずつはっきりと発音する。「あなたは人間で、生身で、女の子」
「女の子?」思わぬ言葉を反復した声が、裏返った。「ボクが、女の子?」はは、と笑いが漏れた。とてもバカバカしくて、とても腹立たしい言葉だ。「ボクは〈スナイパー〉だよ」
「そうね」彼女は表情のない顔のまま頷く。「でもわたしにとっては……怖い、女の子よ」
「……」
 絶句してしまった。彼女が、わからない。冗談を言われたわけじゃないってことだけは、彼女の瞳を掠めた光で理解できた。本気の目だ。
 ゴゥン、とようやく昇りつめたエレベータが口を開ける。
 ボクはライバルを前にした猫みたいに、彼女から視線を外さないまま後退る。
「ボクは女じゃない。〈スナイパー〉だ」
 彼女のオレンジ色の唇が震える、開く、空気を吸い込む。
 ボクの眼がそれを捉える。とてもたやすく、精密に。
 そして眼ほど優秀じゃない聴覚は、エレベータが口を閉ざす音に紛れたハヤトの言葉を聞き逃す。
 でも、優秀すぎる視覚が彼女の言葉を拾った。
「違うわ」と。


インターミッション  花

 元嫁と担当〈スナイパー〉が帰った部屋はがらんと寒々しかった。いや、これが常なのだ、久し振りに客があったくらいで惚けるな、と神条は自身を叱咤する。
 乱暴にかき乱した髪はまだ湿気ていた。バスルームでドライヤをかけたついでに無意味にドアの施錠とドアチェーンを何度も確認してから、ようやく人心地がつく。
 やはり、なんとはなしに空虚に感じる。気疲れがひどいのかもしれない。
 ベッドに腰を下ろし、疲労感に背を潰されるまま両膝の間に頭を埋めた。そのまま手を伸ばせば、ベッドの下に抛りこんである科学雑誌の束に触れる。その中程の一冊を引きずり出した。
 淡い色彩で描かれた銀河の表紙をめくる。数ページもすれば、紙質が変わった。安っぽい紙に、掠れた黒がのたうっている。神条がプリントアウトした、名簿だ。
 ──第十七期 流星観測デバイス装着者一覧
 百名と少しの名前が羅列されている。性別と生年月日と、読み取れないほど画質の悪い顔写真。そのほとんどが二重線で消されている。消したのは他でもない、神条自身だ。
 指先で名簿を辿り、消されていない名前へ行きつく。
 ──霧原アキラ
 名簿を顔の前にかざしたまま倒れ込む。神条の体重に抗議したベッドが、嗅ぎなれない匂いを寄越した。つい数時間前にここで横たわっていた彼女の、霧原の残り香だ。シャンプーや石鹸とは違い、地上に咲く花に近しい甘さを孕んでいる。
 なぜか、擬似大地で見たハヤトの傘を思い出す。色鮮やかなあれから漂っていたのは鉄錆に似た雨の臭いだった。
 すん、と鼻が鳴った。より強く、霧原の香りを鼻腔深くに感ずる。バツが悪くなって、なけなしの腹筋に力をこめて上体を起こした。
「十七世代の、生き残り」
 名簿を辿っていけばもう一つ、二重線から逃れた名前がある。けれど、と神条は眉をひそめて唇を噛む。
 ハヤトが来た。彼女が元妻であるという事実はこの際どうでもいい。彼女を見ると、過去の自分の愚かさを突きつけられている気分になるが、それもかまわない。ハヤトが霧原に接触しているということが、問題なのだ。
 神条はデスクに転がっていたボールペンをとり、霧原ではないほうの名に一本線を引く。
 確定ではない。けれどおそらく、ハヤトがわざわざ地球から霧原に会いに来た以上、十七世代の生き残りは霧原だけになったのだ。
 雑誌に擬態した名簿が、ぎち、と軋んだ。掌が汗ばんでいるのがわかる。焦燥と危機感とがないまぜとなって神条に絡みつく。
 視界の端、電子配信された新聞記事をプリントアウトしたものが、白々しく自己主張していた。
〈スナイパー〉たちの成績表だ。霧原は七百四十九番目にいる。当の本人は、未練がましくまだあの男をそこに探している。なにが恩人だ、と唾棄してやりたい衝動は、隠し通せている自信があった。
 探しても無駄だ、と伝える気はない。探したいなら求め続けていればいい。どちらにしろ霧原に、霧原の瞳に触ることが許されているのは自分だけなのだ。多くの〈スナイパー〉を一律に診る医師でも機械の眼を専門にいじる技師でもなく、巨大な指向性高エネルギー兵器の整備工がそれを許されている。
 震えるほどの昂揚は、けれど今となっては恐怖へと変換される。一度手の内に収めた宝物を誰かに横取りされるのではないかという危惧だ。
「シヅくん」抑揚の乏しい、女の声がした。「そのばっちいの、なぁに?」
 ぞっと首筋が粟立った。素早く振り返る。当たり前に、誰もいない。壁がのっぺりと佇んでいる。いるはずがないのだ。母は、死んだ。それなのに幻聴が神条を撫でる。
 潔癖なところのあった母は、神条から全てを取り上げ捨てた。泥の跳ねた服、手を洗う前に触ってしまった食器。遠足先から持ち帰った押し花はもちろん、初等教育課程で描いた母の絵も、遺伝子操作の授業で作成した無菌室育ちの野菜もすべて、棄てられた。
「そんなの、汚いだけでしょう?」
 初めて小遣いを貯めて母に一輪の花を贈ったときのセリフを、今でも一字一句違えず思い出せる。
「虫がきたらどうするの。今のお家、捨てなきゃいけなくなるのよ」
 ダストシュートに投げ入れられた花を、何度も夢に見た。次は自分が捨てられるのだ、と怯えつつ過ごした日々は、母が眠る地球を離れてなお神条を苛む。
「霧原は」呻き声で、自分にいいきかせる。「捨てない」
 花に彩られた傘をさしたハヤトの顔が浮かんだ。雨の擬似大地で泥が跳ねたスカートを、彼女はもう捨てたのだろうか。ついさっき別れたハヤトは、スカートを穿きかえていただろうか。わからない。お気に入りだと自慢していたスカートも、この部屋に霧原の着替えを届けてくれたときに穿いていたものも、神条は覚えていない。
 けれど確信がある。
 ハヤトは汚れたスカートを、買ったばかりであろうとも容易く捨てる。
「あなた」と霧原が風呂に入っている間に囁かれた言葉が、背筋に悪寒を走らせた。
「少し霧原と距離を置くべきよ。〈スナイパー〉の寿命、知ってるでしょう? もう、あの子を切り捨てるべき時期にきてるのよ。いくら親身になっても、あなたはただの人間で、あの子は〈スナイパー〉なの。あの子は星のために死ぬの。あなたは、あの子の星にはなれないのよ。わかるでしょう? あなたのために、忠告してるのよ」
 ハヤトの声が、いつの間にか母のそれになっている。一緒に暮らしていたころにも何度かあったことだ。ハヤトと母は本質的に似ているのだ。
 二人ともが、身勝手な理屈で神条から大切なものを取り上げる。だから、と神条は名簿を閉ざす。過去の自分が生み出した十七世代の〈スナイパー〉たちの生死を隠す。
 だから可能な限り、あの二人を接触させないようにしなければならない。そう考える。


……続きは書籍版本篇でお楽しみ下さい。

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