文明の進化は貧困を解決したか?『技術革新と不平等の1000年史』本文試し読み
生産性が向上し、労働者は貧しくなった?
農法改良、産業革命から人工知能(AI)の進化まで。人類のイノヴェーションの功罪を緻密に分析する話題の新刊『技術革新と不平等の1000年史』(ダロン・アセモグル&サイモン・ジョンソン、鬼澤忍・塩原通緒訳、早川書房)。
本書は世界的ベストセラー『国家はなぜ衰退するのか』のアセモグルが長年の共同研究者と放つ決定的著作。圧倒的な考究により「進歩」こそが社会的不平等を増大させるという、人類史のパラドックスを解明する一冊です。
本記事では、問題提起となるプロローグを一部編集して試し読み公開します。
プロローグ 進化とは何か
毎日のように、経営者、ジャーナリスト、政治家、さらにはマサチューセッツ工科大学(MIT)の同僚からさえ、こんな声が聞こえてくる。前例のないテクノロジーの発達のおかげで、われわれはよりよい世界へ向かって絶え間なく前進しているのだ、と。ほら、新しい携帯電話だ。最新の電気自動車もある。次世代のソーシャルメディアへようこそ。近い将来、科学の発達によって、がん、地球温暖化、貧困すら解決できるかもしれない。
もちろん、世界中にはびこる不平等、公害、過激主義といった問題は依然として残っている。だが、こうした問題はよりよい世界へ至るための産みの苦しみだ。いずれにせよ、テクノロジーの力は止めようがないと言われている。止めたくても止められないし、そんな試みは到底勧められない。それよりも、たとえば将来有望なスキルに投資するなどして、自分自身を変えるほうが得策だ。問題が継続するようなら、才能あふれる起業家や科学者が、より高性能なロボット、人間並みの人工知能、必要とあらばその他いかなるブレイクスルーであれ、解決策を生み出してくれるだろう。
ビル・ゲイツ、イーロン・マスク、あるいはスティーヴ・ジョブズの約束であっても、すべてが実現するわけではないことは誰もが知っている。だが、一つの世界として、われわれはテクノ楽観主義を吹き込まれてきた。あらゆる場所のあらゆる人が、できる限り多くのイノヴェーションを起こし、何が有効かを見極め、その後、荒削りな部分を取り除くべきなのだ。
〔中略〕
アダム・スミスの見解によれば、機械の性能向上は、ほぼ自動的に賃上げにつながるという。
いずれにせよ、抵抗しても無駄なことだ。スミスと同時代に活躍したエドマンド・バークは、商業の法則を「自然の法則、それゆえに神の法則」と称している。
神の法則に抵抗するには、どうすればいいだろう? 止められないテクノロジーの行進に抵抗するには、どうすればいいだろう? そもそも、こうした進歩に抵抗する必要があるのだろうか?
こうしたあらゆる楽観論とは裏腹に、過去1000年の歴史にあふれる新発明の事例は、繁栄の共有などもたらさなかった。
ここで、異を唱える読者がいるかもしれない。結局のところ、われわれは産業化から途方もない利益を得たのではないだろうか? モノやサービスの生産方法を改善したおかげで、わずかな収入のためにあくせく働きながら、飢えて死ぬことも多かった旧世代の人びとよりも豊かに暮らしているのではないだろうか?
そう、われわれは自らの先祖よりもずっと恵まれている。西洋社会の貧しい人びとでさえ、こんにちでは、三世紀前と比べればはるかに高い生活水準を享受している。われわれは、数百年前の人びとには想像もできなかったほど快適に、はるかに健康に、はるかに長生きする。そしてもちろん、科学とテクノロジーの進歩はこうした物語に不可欠の要素であり、将来の利益共有プロセスの基盤となるに違いない。
しかし、過去の広範な繁栄は、テクノロジーの進歩の自動的かつ保証された利益から生じたわけではない。むしろ、繁栄の共有が実現したのは、テクノロジーの発達の方向性と社会による利益分配の方法が、主としてごく一部のエリートに有利な仕組みから脱したおかげであり、それ以外ではありえなかった。われわれが進歩の恩恵に与っているのは、先人がその進歩をより多くの人びとに役立つようにしてくれたからだ。
〔中略〕
こんにち、地球上の大半の人びとが自らの先祖よりも豊かに暮らしているのは、初期の産業社会において組織化された市民と労働者が、テクノロジーや労働条件についてエリートの支配する選択に異を唱え、技術の進歩がもたらす利益をより公平に分かち合うよう強制したおかげだ。
現在、われわれは同じことを再び行なう必要がある。
幸いなことに、磁気共鳴画像法(MRI)、mRNAワクチン、産業用ロボット、インターネット、驚異的な計算能力、以前は測定できなかった事物に関する膨大なデータなど、信じられないようなツールが利用可能になっている。これらのイノヴェーションを活用すれば、現実の問題を解決できるはずだ。ただし、これらの素晴らしい能力が人びとを助けることに向けられればの話である。だが、それは目下われわれが進んでいる方向ではない。
歴史の教訓にもかかわらず、現代の支配的な物語は過去へ取って返し、250年前のイギリスでよく聞かれた話に酷似してきている。われわれは、ジェレミー・ベンサムやアダム・スミス、エドマンド・バークの時代よりも、テクノロジーに関して無闇に楽観的でエリート主義的な時代に生きている。第一章で述べるように、重大な決定を下す人びとが、進歩の名の下に生み出される苦しみにまたもや耳を傾けなくなっているのだ。
本書は、進歩は決して自動的なものではないことを示すために書かれた。現代の「進歩」が、少数の起業家や投資家をまたしても裕福にしている一方で、大半の人びとは力を奪われ、恩恵はほとんど受けていない。
テクノロジーをめぐる、より包摂的で新たなビジョンが生まれるには、社会的な力の基盤が変わらなければならない。そのためには、19世紀と同じく、世間一般の通念に対抗し得る反対論や組織の台頭が欠かせない。広く行き渡ったビジョンに立ち向かい、テクノロジーの方向性を一部のエリートの支配下から奪い取ることは、こんにちでは、一九世紀のイギリスやアメリカにおけるよりもさらに難しくなっているかもしれない。しかし、それがきわめて重要であることはまったく変わらないのだ。
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著者プロフィール
ダロン・アセモグル (Daron Acemoglu)
1967年生まれ、トルコ出身。経済学者。専門は政治経済学、経済発展論、成長理論など。40歳以下の若手経済学者の登竜門とされ、ノーベル経済学賞にもっとも近いと言われるジョン・ベイツ・クラーク賞を2005年に受賞。ほかにアーウィン・ブレイン・ネンマーズ経済学賞(2012年)、BBVAファンデーション・フロンティアーズ・オブ・ナレッジ・アワード(経済財務管理部門、2016年)、キール世界経済研究所グローバル経済学賞(2019年)など受賞多数。2019年以降はマサチューセッツ工科大学(MIT)における最高位の職階であるインスティテュート・プロフェッサーを務めている。著書に『国家はなぜ衰退するのか』『自由の命運』(いずれもジェイムズ・A・ロビンソンとの共著、早川書房刊)、『アセモグル/レイブソン/リスト マクロ経済学』(共著)など。
サイモン・ジョンソン (Simon Johnson)
1963年生まれ、イギリス出身。経済学者。専門は金融経済学、政治経済学、経済発展論。マサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院ロナルド・A・カーツ教授。国際通貨基金(IMF)の元チーフエコノミスト。著書に『国家対巨大銀行』(ジェームズ・クワックとの共著)など。
書誌概要
『技術革新と不平等の1000年史』(上下巻)
著者:ダロン・アセモグル&サイモン・ジョンソン
訳者:鬼澤忍、塩原通緒
出版社:早川書房
発売日:2023年12月20日
本体価格:上下巻各3,000円(税抜)
本書目次
〈上巻〉
〇本書への賛辞
〇プロローグ——進歩とは何か
〇第1章 テクノロジーを支配する
〇第2章 運河のビジョン
〇第3章 説得する力
〇第4章 不幸の種を育てる
〇第5章 中流層の革命
〇第6章 進歩の犠牲者
〇口絵クレジット
〇文献の解説と出典
〇索引
〈下巻〉
〇第7章 争い多き道
〇第8章 デジタル・ダメージ
〇第9章 人工闘争
〇第10章 民主主義の崩壊
〇第11章 テクノロジーの方向転換
〇謝辞
〇解説/稲葉振一郎
〇口絵クレジット
〇文献の解説と出典
〇参考文献
〇索引