「量子もつれ」の概念は、量子コンピューター、量子通信、量子暗号など、さまざまな技術応用への可能性を秘めている——『量子テレポーテーションのゆくえ』監修者解説特別公開
世界で初めて量子テレポ―テーションの実験に成功し、2022年のノーベル物理学賞を受賞したアントン・ツァイリンガーによる量子情報科学の入門書、『量子テレポーテーションのゆくえ 相対性理論から「情報」と「現実」の未来まで』(アントン・ツァイリンガー、田沢恭子訳、大栗博司監修、早川書房)が発売しました。近年、急速に関心が高まっている量子テレポーテーション、量子コンピューターなどの基礎を学ぶのに最適な一冊です。是非お買い求めください!
また、本書は理論物理学者の大栗博司さん(東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構 機構長)にご監修をいただきました。今回の記事では、大栗さんによる「監修者解説」を特別公開いたします。
監修者解説
大栗博司
本書の著者であるアントン・ツァイリンガーは、量子力学の基礎に関する精密実験で数多くの業績をあげた物理学者である。「量子的にもつれた光子を使った実験でベルの不等式の破れを確立し、量子情報科学を開拓した業績」により、フランスのアラン・アスペ、米国のジョン・クラウザーとともに、2022年のノーベル物理学賞を受賞している。
ツァイリンガーは、ドイツとの国境に近い北部オーストリアの地方都市リート・イム・インクライスで生まれ、10歳の時に家族とともにウィーンに移り住んだ。国立高等学校を卒業後、ウィーン大学で物理学と数学を学び、同大学の大学院に進んで、ヘルムート・ラウホの指導の下で博士号を取得している。
大学院卒業後はラウホの研究室の助手となり、ウィーン原子研究所助教授、ウィーン工科大学准教授を経て、1999年にウィーン大学の教授となった。2004年からはウィーンの量子光学・量子情報研究所の上級科学者を兼任し、また2013年から2022年までオーストリア科学アカデミーの総裁も務めている。
マサチューセッツ工科大学でフルブライト奨学生として研究をし、またミュンヘン工科大学やインスブルック大学で教授を兼任したことがあるものの、キャリアのほとんどをウィーンで過ごしている。そのためか、本書にはウィーンの歴史や文化的背景が色濃く反映されている。
本書は、ウィーン楽友協会で毎年元旦に開かれるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートで始まる。ヨハン・シュトラウス2世のワルツ「美しき青きドナウ」の演奏が終わると、ツァイリンガーは読者をドナウ川の中洲の地下にある実験室に誘う。そこではドナウ川を渡る量子テレポーテーション実験が行われているのだ。実験室の案内の後、量子力学における波と粒子の二重性、アルベルト・アインシュタインのノーベル物理学賞受賞対象となった光電効果の説明、不確定性原理、量子もつれとそれを使った量子テレポーテーションなど本書で重要になる概念が、いくつかの短い章で手際よく説明される。
こうした準備の後で、ウィーン大学1年生のアリスとボブが登場する。2人は「物理学101」(大学初年度の入門講座にはしばしば「101」という番号がつく)を担当するクォンティンガー教授を訪問し、量子物理学をもっと勉強したいと言う。クォンティンガー教授は2人に実験をすることを勧め、大学院生のジョンを紹介する。
ちなみに、情報理論では、「アリス」と「ボブ」は、2つの場所で情報をやり取りする状況でしばしば使われる仮名である。アルファベットでは、「アリス」の頭文字がA、「ボブ」の頭文字がBだからである。この仮名の使い方は、インターネット決済などでも使われている公開鍵暗号RSAを発明したロナルド・リベスト、アディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンの1978年の論文が初出とされる。本書後半では、2人の友人で哲学専攻の学生の「チャーリー」が登場するが、これは頭文字がCであり、情報理論では情報のやり取りが3カ所で行われる場合に使われる3番目の仮名である。「クォンティンガー教授」は、ツァイリンガーのアバターと思われる。量子のことを英語やドイツ語では「Quantum」と書き、これはマックス・プランクが光量子の概念を表現するのに「量」という意味のラテン語「Quantum」を使ったからである。「クォンティンガー」は「量子屋」とでも訳すべきか。大学院生の「ジョン」は、本書で中心的な役割をする「ベルの不等式」を導いたジョン・ベルにちなんだものだろう。
アリスとボブは、ジョンの助けを受けてベルの不等式の実験に取り組む。ここが本書のハイライトのひとつである。このような実験を実際に行ってきたツァイリンガーが書いているので、2人の試行錯誤にリアリティがある。測定ミスも起こる。大学院生のジョンは、「確実な予想というのは、観測誤差のない予想とは違うんだ」と語る。
私は理論物理学者なので、実験物理学者であるツァイリンガーの表現を興味深く読んだ。たとえば、「シュレーディンガーは、量子物理学を発明した一人だ」という箇所がある。私なら「発見した一人だ」と書くところだ。原本を確認すると、“one of the inventors”とあり、“discoverers”ではない。したがって、「発明した一人」は正しい翻訳である。自然現象を理解する理論的方法を「発明」するという考え方は、実用・実践を重んじる実験物理学者らしい態度だと思う。
「量子もつれ」は、量子力学の最も重要な性質のひとつである。これはナチスを逃れて米国に亡命したアインシュタインが、1935年に若手研究者ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンと発表した論文『物理的実在の量子力学的記述は完全と見なし得るか』ではじめて明確に認識された。この論文の主張は、量子力学の原理が「局所実在論」と矛盾するというものである。この問題の解説は本書に譲るが、論文が出版された当時は、アインシュタインらの哲学的な立場の表明であり、実験で解決できる問題とは思われていなかった。
状況が変わったのは、ジョン・ベルが1964年に『アインシュタイン゠ポドルスキー゠ローゼンのパラドックスについて』と題した論文を発表してからである。その12年ほどまえに、デイヴィッド・ボームが「隠れた変数」によって量子力学の原理を変更することで、「局所実在論」が回復できると指摘していた。ベルは1964年の論文で、もともとの量子力学か、それを変更した隠れた変数の理論か、どちらが正しいかを実験で判定する方法を提案した。それが「ベルの不等式」である。隠れた変数の理論を仮定すると、観測量の間に必ずこの不等式が成り立つ。一方、本来の量子力学の規則では、この不等式が破れる場合もある。したがって、ベルの不等式が破れることが実験的に示せれば、隠れた変数の理論を棄却することができるのである。
ベルの不等式によって、局所実在論という哲学的な立場が、実験で否定しうることになった。これについて、ツァイリンガーは、哲学者で物理学者でもあるアブナー・シモニーの「哲学的な立場を実験によって否定できるとわかってうれしい」という言葉を引用している。
ベルの不等式が破れることを最初に示したのはスチュアート・フリードマンとジョン・クラウザーである。
フリードマンと私は、同じころにカリフォルニア大学バークレー校の教授となり、いくつかの委員会で一緒に仕事をしたことがある。フリードマンはクラウザーとの実験の後、ニュートリノなどを使った素粒子の実験にも力を振るっていた。岐阜県飛騨市の神岡宇宙素粒子研究施設で行われたKamLAND実験では米国側のリーダーを務め、その功績などによってアメリカ物理学会のトム・ボナー賞を受賞している。残念ながら2012年に68歳の若さで亡くなってしまったので、2022年のノーベル物理学賞の受賞者には含まれなかった。
フリードマンとクラウザーの実験は巧みであったが、いくつか抜け穴があり、局所実在論を完全に否定することはできなかった。そこで、これをさらに精密化し、抜け穴をふさいでいったのが、パリのアスペのグループとウィーンのツァイリンガーのグループだった。
ベルの不等式がどのようなものであるのかは、アリスとボブの実験によって明らかになる。また、巻末の用語集にも簡潔な解説があるので、それを先に読んでおくと、本文を読むときに見通しがよくなるかもしれない。付録の解説は、クォンティンガー教授が「哲学者の集まりのために書いた」短い論文とされている。ツァイリンガー自身、ウィーンの哲学者のグループの会報に寄稿したりもしているので、おそらくこれもツァイリンガーが実際に哲学者の集まりのために書いたものであろう。
最後に、ベルの不等式に関する思い出を書いておきたい。私が大学生であった1980年代前半には、ベルの不等式のような量子力学の基本的問題が、精密実験の対象となりつつあった。日立製作所の外村彰によるアハラノフ゠ボーム効果の検証もそのひとつであった。1983年には、「量子力学の基礎と新技術」と題された大きな国際会議が日立中央研究所で開催されている。そのころ、ベルの不等式の実験の精密化に成功したアスペが来日し、講演を聞く機会があった。ベルの不等式は2つの粒子の間の量子もつれに関するものであるが、私は講演を聞いているうちに、3つ以上の粒子についても同じようなもつれの状態があり、それに関する不等式があるのではないかと思いついた。そこで講演のおわりに手を挙げて質問したが、英会話に慣れていなかったので、うまく伝えられなかった。
この3つの粒子の量子もつれ状態は、その後1987年にツァイリンガーがダン・グリーンバーガー、マイク・ホーンとともに発表しており、3名の名前の頭文字を取ってGHZ状態として知られている。GHZ状態を使うと、局所実在論と量子力学の矛盾が、ベルの不等式よりもさらに明確な形で明らかになる。この話題は、本書283ページからの「多光子のもたらした驚き、そしてその途上での量子テレポーテーション」に登場する。これを読むと、ツァイリンガーらが、精密実験へのチャレンジとして、3つ以上の粒子の量子もつれに深い興味を持っていたことがわかる。また、その過程で開発した様々な方法が、ツァイリンガーの量子テレポーテーションの実現においても重要な役割を果たしていた。学生時代にアスペに質問をしたことを思い出して感慨深いものがあった。
「量子もつれ」の概念は、量子コンピューター、量子通信、量子暗号など、さまざまな技術応用への可能性を秘めている。また、物質科学では、新物質の発見やその性質の理解のために重要になってきている。最近では、超弦理論や量子重力理論など、物理学の基本法則に関する研究においても、量子もつれが本質的な役割を果たしている。この分野の第一人者であるツァイリンガーが、量子もつれの不思議な世界を数式を用いずにわかりやすく解き明かした本書を、多くの人に読んでいただきたい。
◆書籍概要
『量子テレポーテーションのゆくえ 相対性理論から「情報」と「現実」の未来まで』
著者: アントン・ツァイリンガー
訳者: 田沢恭子
監修:大栗博司
出版社:早川書房
本体価格:2,500円
発売日:2023年5月23日
◆著者紹介
アントン・ツァイリンガー (Anton Zeilinger)
1942年、オーストリア生まれ。量子物理学者、ウィーン大学物理学教授。量子情報研究の先駆者であり、1997年、世界で初めて光子の量子テレポーテーションの実験を成功させたことで知られる。2022年に「量子もつれ状態の光子を用いた実験によるベルの不等式の破れの実証と、量子情報科学における先駆的研究」でアラン・アスペ、ジョン・クラウザーと共同でノーベル物理学賞を受賞。
◆訳者略歴
田沢恭子 (たざわ・きょうこ)
翻訳家。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科英文学専攻修士課程修了。主な訳書にプフナー『物語創世』(共訳)、クリスチャン&グリフィス『アルゴリズム思考術』(以上早川書房刊)、ルース『AIが職場にやってきた』、マネー『酵母』など。
◆監修者紹介
大栗博司 (おおぐり・ひろし)
1962年、岐阜県生まれ。理論物理学者。東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構機構長、カリフォルニア工科大学フレッド・カブリ冠教授、ウォルター・バーク理論物理学研究所所長、アスペン物理学センター理事長。著書に『重力とは何か』、『探究する精神』など。