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「ウエスト・サイド・ストーリー」はいかにして生まれたか(大串尚代さんによる解説)

第94回アカデミー賞にて、作品賞を含める7部門でノミネートされ注目の集まるスピルバーグ監督の「ウエスト・サイド・ストーリー」。早川書房ではこちらの映画化に合わせ、1957年に初演されたミュージカルのノベライズである『ウエスト・サイド・ストーリー〔新訳版〕』(アーヴィング・シュルマン/北田絵里子訳)を2021年11月に刊行いたしました。本作の巻末にて、慶應義塾大学文学部教授の大串尚代さんに、「ウエスト・サイド・ストーリー」が生まれた背景を解説いただいています。日本での映画の公開が迫る今、必読です!

『ウエスト・サイド・ストーリー〔新訳版〕』(ハヤカワepi文庫)
アーヴィング・シュルマン/北田絵里子訳

不朽の名作の誕生

1957年9月26日、ブロードウェイのウィンター・ガーデン劇場でミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』が初上演された翌日、ニューヨーク・タイムズ紙は批評家ブルックス・アトキンソンによる劇評を掲載した。アトキンソンは、ギャングの闘争を扱った本作はいまわしい内容ではあるが、それぞれ独創的な劇作家、作曲家、そして振付家の想像力と技巧が集結した結果、深い感動をもたらす作品になったと評している──ジャングルのような都市の醜悪さとともに、悲哀、優しさ、そしてゆるしが描かれていると。アトキンソンはこの記事を、「主題は美しいものではない。しかし『ウエスト・サイド・ストーリー』が導き出したものは美しい。なぜならこの作品には真実を探求しようとする眼差しがあるからだ」という言葉で締めくくっている。

アトキンソンが言うとおり、この作品が導き出すものが美しいのだとするのならば、それはいったいどのようなことなのだろうか。このことについて考えることは、世に出てからすでに半世紀以上が経つ本作品が、いまも繰り返し上演されつづけている理由を考えることにもなるだろう。

原案の成立──『ロミオとジュリエット』を現代に置きかえた物語

ブロードウェイでのヒットを受け、『ウエスト・サイド・ストーリー』が映画化されたのは1961年のことだ。だが本作の原案の成立は、1940年代末頃までさかのぼる。自身もダンサーであり振付家でもあったジェローム・ロビンスが、『ロミオとジュリエット』を現代に置きかえた物語を思いついたのは1948年頃だったと、歴史家のジュリア・フォルクスは推察している。舞台をイタリアのヴェローナから現代のニューヨークに移し、対立するモンタギュー家とキャプレット家は、都市に住むユダヤ系とカトリックのイタリア系移民へ変更しようと考えたロビンスは、若手作曲家として注目されはじめていたレナード・バーンスタインと、劇作家アーサー・ローレンツに声をかけた。3人が舞台化についての話し合いを始めたのは、1949年の1月のことだった。
 
この3人には様々な共通点があった。ロビンスとバーンスタインは1918年に生まれ、ローレンツは2人より一歳年上の同世代であり、みなユダヤ系アメリカ人であり、セクシュアリティに関しては男性同性愛者であった。また、ロビンスとバーンスタインは移民二世である。

先述のフォルクスは、彼らは大恐慌の30年代に青春時代を送り、第二次世界大戦を経験した、いわゆる「偉大なる世代」であることを指摘している。この世代の十代は、大恐慌による経済不況の時期と重なる。それは、若者の雇用口が減少したことから、高校の進学率が上がり、ティーンエイジャーという存在が注目され、若者文化の形成が進んだ時期でもあった。1961年に本作のノベライゼーションを担当したアーヴィング・シュルマンもまた、彼らより若干年長であるが、1913年生まれのユダヤ系アメリカ人作家である。彼らはまさに、「若者」がひとつの集団として認識されるようになった世代に属していた。

この原案はしかし、ロビンス、バーンスタイン、そしてローレンツのそれぞれが多忙になったため、すぐには実現しなかった。3人がふたたびこのプロジェクトを進めようとしたのは、1955年のことだった。そのとき思いついたのが、当時毎日のように新聞で報道されていた若いギャングたちの闘争という設定である。

ギャングの縄張り争いという設定

当初考えられていた宗教的な差異による軋轢は、人種・エスニシティをめぐる対立へと変更され、ニューヨークという都市の中で繰り広げられるギャングの縄張り争いの果てに起こる悲劇、というアウトラインが出来上がった。こうして生まれた『ウエスト・サイド・ストーリー』は、当時のニューヨークの状況を反映するものであると同時に、時代を超えて見る者の心に訴えかける作品となった。それは、この作品が現代にも通じる人種やエスニシティの問題を描いているだけではなく、(あるいはそれよりも)寄る辺なさを感じている若者という集団に焦点をあて、その閉塞感を中心に描いているからかもしれない。

第二次大戦後のニューヨークとストリートギャング

第二次世界大戦後の若者たちは、時代に翻弄された存在だった。エリック・C・シュナイダーは、ニューヨークにおける若いストリートギャングの出現は、ニューヨークという都市の経済問題と人種問題と深く関わっていることを指摘している。

小規模な衣服製造や機械部品製造業などが中心だったニューヨークは、大恐慌で多くの失業者を出したものの、第二次世界大戦下で雇用先が増え、女性や若者にも働き口がある状況になった。先にも述べたとおり、大恐慌の際に若者の高校進学率が上がっていたが、大戦期に雇用口が増加すると、高校を中退して働く若者が増加した。第二次大戦中、ニューヨーク市の高校中退は55%にも昇ったという。こうした若者の姿を小説の中で描いていたのが、実は本作をノベライズしたシュルマンだった。

シュルマンが1947年に刊行した、ユダヤ系ストリートギャングを描いた小説『アンボイ・デュークス』は、16歳の少年主人公が、高校なんかで時間を無駄にしていないで働くことを友人に勧められている。

 しかし第二次世界大戦後には、その状況が一変する。ニューヨーク市内での雇用が減少し、若い労働者たちは失業していった。特に雇用から取り残されていたのが、アフリカ系アメリカ人とプエルトリコ人のグループだった。そしてこのふたつのグループが、ストリートギャングの形成とも関わっているのだ。

大戦後、アフリカ系アメリカ人とプエルトリコ人のニューヨークへの流入が増加していた。1930年に4万5千人だったプエルトリコ人の人口は、1950年には25万人へと増加したことを、先述のシュナイダーは述べている。

またこれらのグループは若者の比率が高く、若者たちは自分たちの集団を作り、仲間と群れて行動することが多くなった。当時のニューヨークでは、ハイウェイ建設や都市計画により低所得者層は住む場所を失い、若者たちが集えるような場所も減少していた。こうした状況から生まれたストリートギャングの縄張りをめぐる闘争が、『ウエスト・サイド・ストーリー』の物語に取り入れられていったのである。

この頃は「ティーンエイジャー」という単語とともに、「少年犯罪(juvenile delinquency)」という言葉も、新聞や雑誌に頻出するようになっていた。同時代には、マーロン・ブランド主演の『乱暴者』(1953年)、ジェームズ・ディーン主演の『理由なき反抗』(1955年)、グレン・フォード主演の『暴力教室』(1955年)といった少年犯罪を描いた映画が相次いで公開されていたということも思い出されるだろう。

実は、ロビンスたちの原案では、当初は舞台としてイースト・サイドが想定されていた。プエルトリコ人と白人との対立へと設定を変更するとともに、アッパー・ウエスト・サイドにあるサン・ホワン・ヒル──現在のリンカーン・センター周辺──へ作品の舞台を移したのだ。

ここはもともとアフリカ系アメリカ人が居住していた地区だが、1940年代に彼らがハーレム地区へ移り住むにしたがい、そこにプエルトリコ人たちが住むようになったのである。しかしその後、再開発のために立ち退きを迫られることになってしまう。

『ウエスト・サイド・ストーリー』は、こうした特定の時代を背景にしながらも、しかし時代に取り残される作品ではない。それは「社会の周縁に追いやられる若者」という、ある種の普遍性をもったテーマを追求しているからではないだろうか。

寄る辺のない若者たち

家庭にも居場所がなく、通りに出れば刑事や警察官に厄介者扱いをされ、大人を信頼せず、仲間と小さな縄張りを死守する若者たち。同時に、劇中のナンバー「サムホエア」で「どこかに自分たちの居場所がある」と歌われるように、ここではないどこかを希求する彼らの姿は、時代を超えて見る者に訴えかける力を持っている。

ロビンス、バーンスタイン、ローレンツらと同世代の作家に、1919年生まれのJ・D・サリンジャーがいることは、その意味で偶然ではないだろう。1951年にサリンジャーが出版した『ライ麦畑でつかまえて』もまた、社会階層は異なるものの、学校という居場所を失ったティーンエイジャーであるホールデン・コールフィールドが、ニューヨークの街をさまよいながら、誰も自分を知らない場所へ行ってしまおうかと考える。

『ウエスト・サイド・ストーリー』で興味深いのは、居場所を追われるジェッツやシャークスのメンバーたちだけではない。ジェッツのメンバーになりたいと訴えるが拒絶されるエニボディズは、存在さえ認められてこなかったセクシャル・マイノリティを体現しているかのようだ。「誰でも」の意味を名前に持つエニボディズは、女らしさを拒み、男のように振る舞い、普段はジェッツのメンバーに馬鹿にされ、邪険にされる存在だ。それだけに、リフがベルナルドに殺され、逆上したトニーがベルナルドを殺害したあと、チノがトニーを探して殺そうとしているという情報をエニボディズがジェッツに伝える場面は印象的だ。

「あたしならちょっと物陰があれば隠れられる」と言うエニボディズに対し、スノーボーイが「そりゃあ、おまえならだれの目にも留まんないよな」と応じる会話は、不可視であるエニボディズの存在を浮き彫りにする。1961年版の映画では、リフの右腕だったアイスがエニボディズに「でかしたぞ、ぼうや」と声をかける場面がある。そこで嬉しそうな笑みを浮かべ「ありがと、オヤジさん」と言うエニボディズが、初めて他者に認められるという場面が挿入されていることには、意味があるのだ。

変わっていくもの、変わらないもの

もちろん、『ウエスト・サイド・ストーリー』に批判がないわけではない。特にプエルトリコの人々の表象については、ブロードウェイ上演当初から、表層的であるとか、歴史や文化のコンテクストから外れているという批判がなされてきた。アメリカ大衆文化におけるプエルトリコ人のステレオタイプを広めているもののひとつに、いまもなお『ウエスト・サイド・ストーリー』があることを、プエルトリコ人作家であるカリナ・デル・ヴァイエ・ショースキが指摘している。こうした声を作品にどう取り入れていくかが、今後も注目される。

冒頭に紹介した批評家アトキンソンの言葉にあるとおり、『ウエスト・サイド・ストーリー』の主題は美しくなくとも、この作品が導き出しているものが美しいのだとしたら、それは周縁に住む者たちへ目を向けることなのではないか。スティーヴン・スピルバーグ監督、トニー・クシュナー脚本(このふたりもまたユダヤ系アメリカ人である)の映画『ウエスト・サイド・ストーリー』では、1961年版の映画でアニタを演じたリタ・モレノが製作総指揮をつとめ、さらには原作ではトニーが働くドラッグストアの店主ドクにあたるヴァレンティナ役で登場する。時代に合わせて演出を変えながら、変わらない「美しさ」を見せる『ウエスト・サイド・ストーリー』は、これからも人々の心に残る作品であり続けるだろう。(2021年10月)

大串 尚代(おおぐし ひさよ)
1971年、滋賀県生まれ。慶應義塾大学 文学部 人文社会学科教授。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科後期博士課程修了、博士(文学)。専門分野はアメリカ女性文学、ジェンダー研究、フェミニズム、日本少女文化。近著に『立ちどまらない少女たち: 〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』(‎松柏社)がある。

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●映画『ウエスト・サイド・ストーリー』本予告




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