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【試し読み】たったひとりで墓地を管理する女性が、誰にも語ることのなかった「ある喪失の物語」──ヴァレリー・ぺラン『あなたを想う花』

フランス発のベストセラー長篇小説、ヴァレリー・ぺラン『あなたを想う花』(高野優=監訳/三本松里佳=訳)が4月25日に発売されます。


本作はフランスで130万部を突破し、2022年には「フランス国民が選ぶ必読本25冊」のうちの一つに〈ハリー・ポッター〉シリーズなどと並んで選出されています。反響はフランス国内のみにとどまらず、2020年、ロックダウン中のイタリアで一番売れた本で、2022年にはノルウェーで一番売れた本となり、アメリカでも〈ウォール・ストリート・ジャーナル〉が選ぶベスト・ブックに選出されるなど、国際的なベストセラーとなっています。

日本版も、発売を前に書店員さんから絶賛のコメントが届いています。どんな物語か気になる…というかたはぜひ試し読みをどうぞ。主人公のヴィオレットがいったいどんな人生を送ってきたのか。そしてなぜ今、墓地の管理人をしているのか。続きが気になること、間違いなしです。


『あなたを想う花』

ヴァレリー・ぺラン=著/高野優=監訳/三本松里佳=訳

1

 

たったひとり大切な人を失っただけで、すべては虚ろになる

──アルフォンス・ド・ラマルティーヌ『瞑想詩集』「孤立」

 

ここにいる人たちは何も恐れない。心配もしない。恋もしない。爪も噛まない。巡りあわせも信じない。約束もしない。騒音もたてない。社会保障番号も持たない。泣くこともしない。鍵もなくさない。眼鏡やリモコンも探さない。子供たちを呼びにいくこともしない。幸せも求めない。

本も読まない。税金も払わない。ダイエットもしない。好き嫌いもない。意見を変えることもしない。ベッドも整えない。煙草も吸わない。買い物のリストも作らない。口を開く前によく考えたりもしない。そもそも考えない。代わりをしてくれる人もいない。

ここにはおべっか使いもいない。野心家もいない。執念深い人もいない。おしゃれ好きもいない。卑怯者も、気前のいい人も、やきもち焼きもいない。不精者も、潔癖症も、人格者もいない。変わった人もいないし、麻薬中毒者もいない。にこやかな人も、抜け目のない人も、乱暴者もいない。恋をしている人もいない。愚痴をこぼす人もいないし、偽善者もいない。優しい人も、厳しい人もいない。弱虫もいなければ、意地悪な人もいない。嘘つきもいない。泥棒も賭博師もいない。勇敢な人も、怠けてばかりいる人も、信心深い人もいない。悪賢い人もいなければ、楽天家もいない……。かつてはそうであったかもしれないが、今はそうではない。今、私と一緒にここにいる人たちは……。

なぜなら、ここにいるのは埋葬された死者たちだからだ。その意味では、ひとりひとりにちがいはない。

唯一、異なる点は、棺桶の材質が、オークかパインかマホガニーかということ、それだけだ。

 

 

2

 

君が去っていく足音が聞こえなくなったら、ぼくはどうすればいい?
去っていくのは君? それともぼく?
  

──ヴィクトル・ユゴー『静観詩集』「君のもとでなければ息ができない」


私の名前はヴィオレット・トゥーサン。昔は踏切の管理人をしていた。今は墓地の管理人をしている。

私は人生を楽しんでいる。それはちょうどハチミツを入れたジャスミンティーを少しずつ、ゆっくりと味わうようなものだ。夕方になると、私は墓地の門に鍵をして、その鍵を浴室の扉に掛ける。それから、天国に行くのだ。

もちろん、ここにいる人たちが住む天国ではない。

仕事が終わったあとに、ポートワインをひと口飲む──それが天国だ。生きている人間の天国……。ポートワインは1983年産の高級品だ。この墓地に眠るマリア゠ピント・フェルナンデスの夫、ジョゼ゠ルイ・フェルナンデスが毎年、バカンスが終わった9月1日に持ってきてくれる。そのポートワインを小さなガラスのグラスに注ぎ、私はゆっくりと口に運ぶ。毎日、午後7時頃に。バカンスの名残りを味わうように……。雨が降ろうと、雪が舞おうと、風が吹こうと、ボトルの栓を開ければ、心は小春日和になる。

小さなグラスに入った深紅の液体。それは葡萄ぶどうの樹に流れる血液だ。その液を、私は目を閉じ、静かに味わう。小さなグラスに2杯だけ……。お酒が好きなのではなく、ほんの少し酔った気分になるのが好きだからだ。

ジョゼ゠ルイ・フェルナンデスは週に一度、この墓地にやってきて、《フェルナンデスの妻 マリア・ピント(1956-2007)》と刻まれた墓に花を供える。だが、バカンスで町を離れる8月だけは、私が代わりをする。ポートワインはそのお礼だ。

 

私の〈プレザン〉があるのは、天からの〈贈り物プレザン〉だ。毎朝、目を覚ますたびに、私は自分にそう言い聞かせる。

というのも、かつて、私はとても不幸だったからだ。生きる気力を失っていたと言ってもいい。すべてがからっぽで、存在しないかのようだった。まるで、ここに埋葬されている死者たちのように……。いや、もっとひどい。自分の意思はなく、ただ身体だけが機能していた。人間の魂の重さは、体重や身長や年齢に関係なく21グラムだというけれど、まちがいなく、私の体重からはその重さの分が欠けていただろう。

だけど、私は不幸に浸る趣味はなかった。だから、その状態から脱しようと決めた。不幸というのは、いつか終わりにしなければならないものだからだ。

 

そもそも、私の人生は、始まりからして最悪だった。生まれたのは、アルデンヌ県のどこかだ。県の中でもベルギーに近い北の方で、秋は雨が多く、冬は頻繁に霜が降りる。内陸性気候の悪いところが出ているような土地で、まさにジャック・ブレル(ベルギー生まれのシャンソン歌手)が歌っているように、空は低く、運河と見分けがつかないくらい灰色だった。

生まれた時、私は産声をあげなかった。だから、私を取りあげた産婆は死産だと思ったらしい。そこで、役所に出す書類に必要事項を書きこむために、ひょいと私を脇に置いた。これから郵便局に持っていく2670グラムの小包のように……。まだ宛名もなく、切手も貼っていない小包。

命もない、姓もない死産児。それが私だ。

けれども、役所に届けを出すためには、とりあえず姓名を記入する必要がある。産婆はヴィオレットという名を書いた。

たぶん、頭のてっぺんから爪先までヴィオレット──紫色だったからだろう。

その後、私の肌の色がピンクに変わって、今度は出生証明書を書くことになった。それでも、産婆は名前を変えなかった。

私は蘇生した。置かれた場所が、たまたまヒーターの上だったからだ。それで身体が温まったのだろう。肌が紫になるほど冷えきっていたのは、私の誕生を望まない母親のお腹にいたからだと思う。私は危うく死にそうになった。けれども、熱が私をこの世に連れもどしてくれたのだ。夏が大好きなのは、きっとそのせいだ。毎年、夏が訪れると、私はその最初の日差しを絶対に見逃さない。向日葵ひまわりの花みたいに……。その日は、ベンチでも、芝生の上でも、どこかに腰をおろして、ゆっくりと太陽を浴びることにしている。

私の現在の姓はトゥーサンだけど、結婚する前はトレネといった。母親の姓でも、ましてや父親の姓でもない。私に姓はなかった。だから、出生証明書を書く時に、産婆がつけたのだ。歌手のシャルル・トレネと一緒の姓だ。産婆はきっと、シャルル・トレネが好きだったのだろう。私も好きになった。姓が同じだということで、遠い親戚のような気がした。一度も会ったことのないアメリカの叔父さんのような感じ……。そんな気がしたのは、トレネの歌が好きで、よく歌ったからかもしれない。好きな歌手の曲をうたっていると、親戚のように感じることがあるそうだから。

姓がトゥーサンになったのは、ずっとあとのことだ。私がフィリップ・トゥーサンと結婚したあとのこと……。フィリップと言えば、キリストの十二使徒のひとり、フィリポのフランス語名。トゥーサンは〈すべての聖人〉。まったく、なんという名前だ。そんな名前の男には最初から気をつけるべきだった。プランタン──〈春〉という姓で、妻に暴力をふるう男だっているのだから……。名前が素晴らしいからと言って、ろくでなしではないという保証には決してならないのだ。

母親がいなくて淋しいと思ったことは一度もない(熱を出した時は、そう思ったことがないわけではないけれど……)。それに、私は健康で、よく育った。背筋もまっすぐに伸びていた。まるで背中に長い棒を入れたみたいに。両親がいないのだから、しゃきっとしなさい。背中がそう言っているみたいに……。だから、私はいつも背筋をピンと伸ばした。背中を丸めることは決してなかった。悲しい時も、顔をあげて、まっすぐに前を見つめた。それが私なのだ。そのせいだろう、今でも時々、「クラシックバレエを習っていらしたんですか?」と訊かれることがある。私は「いいえ」と答えて、こう続ける。「生きているうちに、自然に身についてしまったんです。ほら、毎日の生活って、必死にバーをつかみながら、トウシューズで爪先立ちしているようなものだから……」

 

3

 

たとえ、ぼくやぼくの大切な人の命が奪われても、それは結局、同じこと。
どうせいつかは墓地が庭になるのだから……

──ダミアン・セーズ「ピエロ」


前にも言ったように、私と夫は踏切の管理人をしていた。けれども、1997年に遮断機が自動化されたことによって、私たちは職を失った。その踏切がフランスで最後の手動遮断機を用いていたことから、この出来事は評判になった。私たちは文明の進歩がもたらす、新たな犠牲者の代表として、新聞に取りあげられたのだ。写真入りで……。記者にカメラを向けられると、夫のフィリップ・トゥーサンは、わざわざ私の腰に手をまわしてポーズまで取った。私のほうは──今、その写真を見ると、私は笑顔を作ってはいても、悲しい目をしている。

その記事が新聞に載った日、夫は職業安定所に行き、げっそりとした様子で帰ってきた。その時になって、やっと気づいたのだ。これからは自分も働かなくてはいけないということに……。踏切の仕事はほとんど私がやっていて、夫は何もしていなかったのだ。ものぐさ亭主という点では、私は大当たりを引き当てていた。スロットマシンでラッキー7を三つ並べるくらいの大当たりだ。

夫がげんなりしているのを見て、私はずっと以前から大切にしまっていた採用通知書を見せた。ブルゴーニュにあるブランシオン゠アン゠シャロンという町の墓地管理人の仕事で、そこには《フィリップ・トゥーサンとヴィオレット・トゥーサンを墓地の管理人として採用する》と書かれていた。それを見ると、夫は「頭がおかしくなったのか?」という目で、私を見た。もっとも、その当時、夫はいつもそんな目で私を見ていたのだが……。

「ねえ、いいでしょう? これまでの管理人がどこか遠くに行ってしまうのよ。それで、管理人の仕事をする人が必要になったというので応募したの。墓地の管理の仕事なら、踏切番より働く時間が安定してるでしょ。列車の騒音もないし……。町長さんとも話をすませていて、8月から雇ってもらえることになっているの」

予想どおり、夫は嫌な顔をした。

「墓地で働くだって? とんでもない! おれは行かない。死人を相手に働くなんて、そんなハゲタカみたいなことをするもんか! それくらいなら、死んだほうがマシだ!」

そう言うと、テレビをつけて『スーパーマリオ64』を始めた。ピーチ姫を助けるためにクッパ大魔王が奪ったすべてのパワースターを取り戻す──それがゲームの目的だ。パワースターですって? 私が手に入れたい星はひとつだけ。〈幸せの星〉だけだ。パワースターを求めて、画面のなかを駆けまわるマリオを見ながら、私は思った。そう、私が欲しいのは、〈幸せの星〉だけ……。

だから、私は食いさがった。墓地の管理人になれば、踏切番より、たくさんお金がもらえる。列車の面倒を見るより、死者の世話をするほうがずっとお金になるのよ。家だって、管理人専用のきれいなところに入れる。雨洩りのする、こんなあばら屋ではなく、本物の家に住めるの。しかも、家賃なしで……。ここは冬になったら雨ばかりで、真夏でも寒いくらいだけど、あちらの気候はもっと穏やかよ。新しい生活を始めるには、素晴らしいところじゃない! そう、私たちは新しく出発するの! お墓の十字架や花を供えにくる未亡人たちを見るのが嫌なら、窓に素敵なカーテンをつければいい。愛する人たちを奪われた悲しみが直接、私たちの生活に入ってこないように……。そのカーテンが他人の悲しみと私たちの生活を隔てる境界になってくれるのよ!

いえ、ほんとうは、「そのカーテンが他人の悲しみと私の悲しみを隔てる境界になる」と言いたかったけれど、それは口には出さなかった。余計なことを言ってはいけない。こうするのがいちばんいいと夫に信じこませること──それが大切だった。そのためには、私がそう思っていると夫に見せる必要があった。どうしても、夫にうなずいてもらわなければいけなかったのだ。

夫を説き伏せるために、最後には「あなたは何もしなくていいから」と言った。墓掘りの仕事はすでに3人の墓掘り人がいるし、その人たちが墓地の手入れもしてくれる。だから、あなたにしてもらうことと言ったら、せいぜい門を開けたり、閉めたりするくらいで、ほかには何もない。あなたはただ墓地で暮らしてくれればいいの。踏切番のように、毎日、時刻表を眺めて暮らす必要もない。週休もあるし、バカンスだって、長めにとれる。ヴァルスリーヌ川にかかる鉄橋と同じくらいの長さは……。だから、あなたは何もしなくていいの。もし何かやらなければならないことがあったら、私が全部するから。全部……!

テレビの画面では、マリオが駆けまわるのをやめていた。ピーチ姫は助からなかった。

寝室に行く前に、夫は採用通知書をじっと見つめていた。《フィリップ・トゥーサンとヴィオレット・トゥーサンを墓地の管理人として採用する》と書かれた通知書を……。

私たちが番をしていた踏切は、フランス北部のナンシーの近郊にあるマルグランジュという町にあった。その頃、私は〈生きて〉いなかった。だから、その当時のことを言うなら、〈私が死んでいた頃〉と表現したほうが正確かもしれない。毎日、機械的に起きて、着替えて、仕事をして、買い物をして、眠るだけ……。もっとも、眠る時には睡眠薬が必要だった。1錠か2錠、あるいはもっとたくさん……。そうして、朦朧もうろうとした意識で、私のことを「頭がおかしくなったんじゃないか」という目で見ている夫を眺めていた。

踏切番の仕事は大変だった。一日に15回ほど遮断機を上げ下げするだけだが、時間がきつかった。始発列車の通過が朝4時50分、最終列車は23時4分だ。その間、ずっと起きていなくてはいけないし、何よりも列車の通過に合わせて、遮断機を上げたり下げたりしなくてはならない。その作業を繰り返しているうちに、時間が近づいてくると、実際に踏切の警報を鳴らす前に、頭のなかで自動的に警報が鳴るようになった。交代で仕事をまわしていけば、休む時間もできたのだが、夫はほとんど遮断機には触れなかった。フィリップ・トゥーサンに触れることができたのは、バイクのハンドルと愛人たちの身体だけだったのだ。

遮断機を操作しながら、私は目の前を通過していく列車の乗客たちが羨ましくてしかたがなかった。鉄道自体は地域の住民の足として、ナンシーとエピナルの間の10ほどの集落を結ぶ短い路線にすぎなかったが、それでもあの列車に乗っていれば、どこかに行くことができる。毎日、毎日、一日中踏切にしばりつけられている私からすれば、夢のような存在だった。あの列車に乗っている男たちや女たちには会う約束した人たちがいて、そこに向かっているのだ。私にもそんな約束があったら、どんなにいいだろう? そう思った。

 

結局、夫が墓地の管理人になることを承諾して、私たちはブルゴーニュに向かった。新聞に記事が載ってから3カ月後のことだ。風景は灰色から緑に変わった。地面はアスファルトから草地に。匂いは鉄道のタール臭から田園の香りになった。

ブランシオンの墓地に着いたのは1997年8月15日。フランス中がバカンスの季節なので、この町の住民たちも町を離れていた。住民だけではない。灼熱の太陽に、十字架の上を飛びまわる小鳥たちの姿も見えない。鉢植えの花の間で伸びをする猫たちもいない。大理石の墓碑が熱く灼けているせいで、その上を這うアリたちやトカゲたちもどこかに隠れていた。墓掘り人たちは休暇中で、新しい死者たちもバカンスに行っていた。夫はそのままバイクに乗って、どこかに出かけてしまったので、私はひとりで墓地の通路を歩きまわった。墓碑に刻まれた人々の名前を読みながら……。名前を知っても、この人たちとは決して知り合いなることはできない。でも、それでよかった。

ここは私の居場所だ──そう思った。

***

●『あなたを想う花』書誌情報


『あなたを想う花』(上・下)
著=ヴァレリー・ぺラン
監訳=高野優
訳=三本松里佳
ご予約はこちらから!(Amazonページに飛びます)

【あらすじ】
ヴィオレットは、ブルゴーニュにある小さな町で
たったひとりで墓地管理人をしている。
彼女が住む管理人用の家の一階には、
墓地に来る人の待合室──のような空間がある。
墓参者はここで悲しみに浸り、故人との思い出を語り、
死にまつわる秘密を打ち明ける。
そして二階には、ヴィオレットだけの部屋があり
誰も踏み入ることはなかった。
彼女の過去と同じように──。
そんなある時、一緒の墓に入ると決めた男女の存在が、
彼女の人生を大きく揺るがし、
あきらめていた感情に血が通い始める。