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『アガサ・クリスティー失踪事件』訳者あとがき公開!

世界一有名なミステリ作家、「ミステリ女王」とも称される、アガサ・クリスティーが1926年に実際に起こした11日間の失踪事件をご存じでしょうか。当時の《ニューヨーク・タイムズ》にはこんな記事が掲載されました。

その衝撃は世界中に広がり、日本でも。

11日後、ホテルで発見されたとき、クリスティーには失踪中の記憶がなかった…とされています。果たして本当にそうなのか。真相は藪の中です。

本日4/25発売の本書『アガサ・クリスティー失踪事件』は、この事件をモチーフに、気鋭の作家ニーナ・デ・グラモンが想像力を膨らませて書いた小説です。

『アガサ・クリスティー失踪事件』表紙

内容については、数々のクリスティー作品の翻訳でも知られる本書の翻訳者・山本やよいさんの「訳者あとがき」に詳しいので、今回、発売記念ということで、特別公開いたします。

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アガサ・クリスティー失踪事件』訳者あとがき

山本やよい

〝その次の年は、わたしの人生で思い出すのもいやな年である。人生にはよくあることだが、一つのことがうまくいかないと、あらゆることがうまくいかない〟

『アガサ・クリスティー自伝』下巻より


アガサ・クリスティー自伝』 (クリスティー文庫)の第七部「失われた満足の地」にこんな一節がある。〝その次の年〟というのは1926年のこと。4月に最愛の母を亡くして悲しみのなかで日々を送り、8月には夫のアーチーから不倫を告白されたうえに離婚を切りだされるという、アガサにとっては〝思い出すのもいやな年〟になった。そして、1年を締めくくる月である12月の初めに、彼女は謎の失踪事件を起こす。ただし、この自伝には、失踪そのものに触れた箇所はいっさいない。アーチーが荷物をまとめて家を出ていき、やがて2週間後に戻ってきたものの、ぎくしゃくした夫婦仲がもとに戻ることはもうなかった、という事実が書かれているだけだ。

 1926年の回想は最後をこう締めくくっている。

〝わたしは一年間、彼が変わってくれることを望みながら最後まで辛抱していた。だが、彼は変わってくれなかった。/こうしてわたしの最初の結婚生活は終末を告げた〟

『アガサ・クリスティー自伝』下巻より

 2年後、クリスティー夫妻は離婚し、アーチーは愛人のナンシー・ニールと再婚した。

 謎の失踪事件に話を戻そう。

 12月3日金曜日の夜、アガサ・クリスティーは夫と大喧嘩をしたあと、秘書と夫のそれぞれに宛てて手紙を残し、自分で車を運転して出かけていった。それきり消息を絶ってしまった。1920年に『スタイルズ荘の怪事件』(クリスティー文庫)で作家デビューし、1926年に6作目の長篇『アクロイド殺し』(クリスティー文庫)を発表、『アクロイド』のトリックがフェアかアンフェアかをめぐって世間で論争が起きていたこともあって、新進気鋭の女性作家の失踪に人々の注目が集まり、延べ数千人の警官が捜索に動員された。夫が彼女を殺して死体を遺棄したのではないかと疑う警官たちもいた。11日後の12月14日、ヨークシャー州のスパ・ホテルに滞在していたアガサが発見された。彼女の本名ではなく夫の愛人の姓で泊まっていたことに捜査関係者は首をひねった。だが、本人は記憶をなくしていて、何を尋ねても「思いだせない」と答えるだけ。そのため、姿を消した理由も詳しい経緯もわからないまま、アガサの11日間にわたる失踪はミステリ界の永遠の謎として残ることになった。

 本書『アガサ・クリスティー失踪事件』は、1926年に起きたこの事件を土台にして、ニーナ・デ・グラモンが綿密なリサーチをおこない、豊かな想像力を駆使して書き上げたフィクションで、アガサの失踪の謎に新たな光をあてた力作である。

 語り手の〝わたし〟はアーチーの愛人のナン・オディー。〝はるかな昔、別の国で、わたしはもう少しで一人の女性を殺すところだった〟というナンの衝撃的な告白で話が始まり、わたしたち読者はいっきに物語の世界にひきこまれる。

 ナンは四人姉妹の三女で、会社勤めの父親と、雑貨店でパートをしている母親との六人暮らし。ロンドンのある会社で秘書として働きながら、雇い主の友達アーチー・クリスティーの愛人になっている。金持ちのパトロンをつかまえて贅沢をしたいからではなく、じつは心の奥底に秘めている理由があるのだが、それを知る者はほとんどいない。物語が進むにつれて、隠されていた理由が徐々に姿を見せはじめる仕掛けになっている。

 アーチーの妻のアガサは二人の関係に薄々気づきつつも、問いただす勇気がなく、夫が愛人を捨てて妻のもとに戻ってくる日をひたすら待ちつづけている。

 しかし、かつては狂おしいほどアガサを愛していたアーチーだが、愛はすでに冷めてしまい、いまは一刻も早くナンと一緒になることしか考えていない。ある夜、ついに「離婚してくれ」と妻に告げる。逆上して夫に殴りかかるアガサ。アーチーは追いすがる彼女を冷たくふりきって、ナンと週末を過ごすために、ハウスパーティが開かれる友達の家へ出かけていく。土曜日の朝、そちらに緊急の電話が入る。かけてきたのはアガサの秘書をしている女性で、アガサが夜遅く車で出ていってそれきり帰ってこないため、心配でたまらず連絡してきたのだ。これが11日間にわたる謎の失踪事件の始まりだった。

 アガサ・クリスティーが世に送りだした膨大な数の作品よりも、この事件のほうがさらにミステリアスで、真相は永遠に藪のなかだ。のちの世の作家たちが創作意欲を刺激されて、不明の部分を独自の推理で埋めようとしたのも、無理からぬことと言えよう。例えば、キャサリン・タイナンもその一人だ。本書と同じく、アガサの失踪をめぐる謎を土台にして、Agatha を書き上げた(1978年刊。日本では翌年の1979年に『アガサ 愛の失踪事件』としてサンリオから出版。のち文春文庫。夏樹静子訳)。本書とはまた違う趣向で書かれた作品だが、著者の想像が大きく広がって驚愕の展開を見せていく点や、架空の人物(この作品ではアメリカ人コラムニストのウォーリー・スタントン、本書では警官のフランク・チルトン)が重要な役割を果たす点は共通している。

アガサ 愛の失踪事件』は映画にもなり、一九七九年に公開された。主人公のアガサを演じるのは、アカデミー賞助演女優賞を始めとして数々の賞に輝くヴァネッサ・レッドグレイヴ。アーチー役はのちに《007》シリーズの四代目ジェームズ・ボンド役に抜擢されたティモシー・ダルトン。そして、ウォーリー・スタントンを名優ダスティン・ホフマンが演じている。

 ほかに、ジャレッド・ケイドの『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか 七十年後に明かされた真実』(中村妙子訳、早川書房)なども、興味深く読んでもらえるだろう。こちらは著者が想像の翼を広げて描きだしたフィクションではなく、アガサの親友の遺族から得た証言や警察の捜査記録をもとにして事実を掘り起こしたものである。

 本書に描かれているアイルランドの女子修道院についてさらに知りたい方には、謝辞でも紹介されているジューン・ゴールディングの『マグダレンの祈り』(石川順子訳、ヴィレッジブックス)をお勧めしたい。『アガサ・クリスティー失踪事件』にちりばめられたエピソードのいくつか──バターをたっぷり塗ったほかほかのパンの話や、大釜に湯を沸かして少女たちが汗まみれになりながらシーツを洗濯する話など──はおそらくこの本からとったものだろう。もちろん、修道院に一時的に身を寄せた少女たちが耐えなくてはならない苛酷な日々についても詳しく書かれている。

 著者ニーナ・デ・グラモンはニュージャージー州生まれ、現在はノース・カロライナ州在住。夫、娘、2匹の愛犬と暮らし、作家活動と並行してノース・カロライナ大学ウィルミントン校文芸創作学部で教鞭をとっている。

 2022年に『アガサ・クリスティー失踪事件』についてインタビューを受けたとき、デ・グラモンは次のように語っている。

 わたしがアガサ・クリスティーの失踪事件のことを初めて知ったのは、2015年に〈ラインナップ〉のサイトでマシュー・トンプソンが書いた記事を読んだときでした。アガサが夫の愛人の姓でスパ・ホテルに滞在していたという事実がとても印象的だったのを覚えています。この事件を題材にして長篇小説を書くことになったとき、事実はおそらくこうだっただろうという推測に基づいてストーリーを展開させるのではなく、わたし自身の純粋な想像から生まれた物語を作りたいと思いました。

 ナンもアガサも強い女性で、同じ一人の男性を愛しています。それにもかかわらず、いえ、それだからこそ、ナンとアガサのあいだには、理屈では説明しきれない不思議な絆が存在するのです。わたしは二人の女性の関係をそう解釈し、ナンを語り手にしようと決めました。

 インタビューの最後に、「アガサ・クリスティーの作品でいちばん好きなのはなんですか?」と尋ねられて、彼女が挙げたのは『オリエント急行の殺人』(クリスティー文庫)だった。

ニーナ・デ・グラモンの作品リスト(刊行順)
Of Cats and Men(2001, 短篇集)
Gossip of the Starlings(2008)
Every Little Thing in the World(2010)
Meet Me at the River(2013)
The Boy I Love(2014)
The Last September(2015)
The Distance from Me to You(2015, Marina Gessner 名義)
The Christie Affair(2022, 本書)

 アガサ・クリスティーの大ファンである訳者は、10年以上前に『アガサ・クリスティーの秘密ノート』(クリスティー文庫)の翻訳を担当したときと同じく、本書を訳しはじめたとたん、アガサの作品を再読したくてたまらなくなった。翻訳作業に必要だからと思い、「崖っぷち」が収録されている短篇集『マン島の黄金』(クリスティー文庫)と、ウィリアム・ブレイクの詩をエピグラフに使った『終りなき夜に生れつく』(クリスティー文庫)をとりあえず読み直した。いつものことだが、読みだしたらもう止まらなかった。至福のひとときに浸ることができた。それがアガサ・クリスティーという作家の持つ力なのだ。

 大好きなアガサ・クリスティーをめぐる物語を訳す機会に出会えたことを、訳者としてとても幸せに思っている。

 2023年4月



山本やよいさんによる「訳者あとがき」でした。

クリスティー失踪当時のイギリスのミステリ界の様子は、『探偵小説の黄金時代』にあります。


さて、実は本書、ケネス・ブラナーが主演・監督を務めた映画「オリエント急行殺人事件」で、家庭教師のメアリ・デブナム役を演じたデイジー・リドリー主演・製作総指揮で映像化予定。続報をお楽しみにしてください!

また、クリスティー関連でいえば、ブラナー版ポアロの第3作の映画「A Haunting in Venice」も2023年内公開(全米公開は9月15日予定)と言われています。

早川書房では、上記A Haunting in Veniceの原作『ハロウィーン・パーティ〔新訳版〕』(クリスティー文庫)を、こちらも山本やよいさん訳で刊行予定。また、続けて『ポアロのクリスマス〔新訳版〕』(クリスティー文庫)川副智子さん訳で予定しています。

さらに、5/25発売のミステリマガジン7月号は、クリスティー特集(同時特集・北上次郎追悼)です!

本書『アガサ・クリスティー失踪事件』を皮切りに、今年もクリスティーづくしです。

どうぞお楽しみにしてください!

書誌情報
アガサ・クリスティー失踪事件
ニーナ・デ・グラモン 著
山本 やよい 訳
定価 2970円(10%税込)
カバーイラスト YOUCHAN
デザイン 日髙祐也

内容紹介
【特報】
小説家のアガサ・クリスティー夫人、
イングランドの自宅から不可解な状況で失踪

世界で最も有名なミステリ作家が
実際に起こした11日間の失踪事件をモチーフに、
妻と夫とその愛人の奇妙な関係を描く
傑作サスペンス!


1926年12月3日、『アクロイド殺し』などで注目を集める気鋭の作家アガサ・クリスティーが失踪した。ときにアガサ、36歳。最愛の母親を亡くし、夫のアーチーは年若い下流階級の娘ナンと愛人関係にあって、ひどく落ち込んでいたという。そして失踪当日の朝、離婚を切り出した夫と大喧嘩をしたアガサは、夫と幼い娘テディの乳母に手紙を残して、煙のように姿を消した。捜索には延べ数千人の警官が動員されたが、アガサは一向に見つからず、夫による殺害と遺体遺棄まで疑われたーー11日後、ホテル滞在中に発見されるまでは。一方、アガサからアーチーを略奪したナンは、ある秘密を抱えていた……不可解な失踪のあいだ、アガサとナンに何が起こったのか? 世界で最も有名なミステリ作家の実際の失踪事件をもとに描かれた衝撃のサスペンス。

『アガサ・クリスティー失踪事件』内容紹介


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