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私たちがまだ知らないミクロの世界の壮大なドラマ『細胞 ―生命と医療の本質を探る―』試し読み

ピュッツァー賞受賞のベストセラー作家『がん』『遺伝子』に続く待望の新作

私たちの体はいかにして恒常性を保っているのか? がん細胞が増殖する器官とそうでない器官の違いとは? ――「細胞」についてわかったつもりになっていた人類の知識に、いかにまだ多くの欠落があるかを浮き彫りにするのが、1月29日発売の新刊『細胞 ―生命と医療の本質を探る―』(シッダールタ・ムカジー、田中文訳、早川書房)
COVID-19など感染症と免疫細胞との絶え間ない戦い。たゆまず働く血液や筋肉などの細胞の精妙な仕組み。分裂し生殖する細胞の神秘と、それを操作しようとする人々の飽くなき欲望――さらに「ニューヒューマン」誕生の光と影を圧倒的スケールで描く本書から、一部抜粋して試し読み公開します。

『細胞 ―生命と医療の本質を探る―』(シッダールタ・ムカジー、田中文訳、早川書房)
『細胞 ―生命と医療の本質を探る―』上巻(早川書房)
『細胞 ―生命と医療の本質を探る―』(シッダールタ・ムカジー、田中文訳、早川書房)
『細胞 ―生命と医療の本質を探る―』下巻(早川書房)

前奏曲――「生物の初歩的な粒子」より抜粋

本書は細胞の物語である。ヒトを含むあらゆる生物がこれらの「初歩的な粒子」で成り立つという発見をめぐる年代記である。生物の自律的な単位である組織と器官、そして器官系が互いに協調しながら、組織的に集まることによって、免疫や生殖、感覚、認知、修復、若返りといった複雑な生理機能がいかに生み出されるのか。本書はそれを解き明かしていく。

また、細胞が機能不全に陥り、私たちの身体が細胞生理学ではなく細胞病理学の下に置かれるようになる現象についても取り上げる。細胞の機能不全が身体の機能不全をもたらす仕組みについてだ。そして最後に、細胞生理学と細胞病理学についての知識の深まりによって起きた、生物学と医学の革命について触れる。その革命によって医療は変革を遂げ、変革した医療によって、人間は変化しつつある。

2017年から2021年にかけて、私は《ニューヨーカー》誌に三つの記事を書いた。ひとつめは、細胞医学とその未来について、とりわけ、がん細胞を攻撃できるようにT細胞を人工的につくり変える方法の開発についての記事だ。二つめの記事では、細胞の生態学●●●という概念から、がんをとらえ直した。それは、体外に分離された状態のがん細胞ではなく、がんを体内の部位との関係でとらえる考え方であり、なぜ体内の特定の部位は他の部位に比べて悪性細胞の増殖に適しているのかを解明する試みだ。三つめの記事は、新型コロナウイルスのパンデミックの初期に書いたもので、ウイルスが細胞や身体の中でどのようにふるまうかについて書いた。そして、その挙動から、ある種のウイルスが人体の生理機能を破壊するメカニズムを解明できると示した。

三つの記事に共通するテーマはなんだろう。これらの記事の中心には、細胞と細胞の再設計(リエンジニアリング)があるように思える。進行中の革命と、すでに書き換えられた歴史(そして未来)がそこにはある。細胞と、細胞を操作する人間の能力、さらには、革命の進行に伴って次々と起きる医療の変革の歴史だ。

これら三つの記事の種子から、本書は茎や根、つるを伸ばした。本書は年代記であり、その始まりは1660年代から1670年代にかけてである。およそ320キロメートル離れた場所で個別に研究していた、世捨て人のようなオランダ人の織物商人と、型破りな英国人の博識家が、それぞれ手製の顕微鏡をのぞき込み、そして、細胞の最初の証拠を発見した。そして物語は現在へと進む。ヒト幹細胞が科学者によって操作され、糖尿病や鎌状赤血球症といった命を脅かす慢性疾患をわずらう患者へ注射される時代へと。難治性の神経疾患の患者の脳の神経回路に電極が挿入される時代へと。

さらに物語は、不確かな未来の危険なふちへと私たちを連れていく。「一匹狼」の科学者(そのうちのひとりはすでに懲役三年の刑に処され、実験をおこなうことを永久に禁じられた)がはいを遺伝子編集でデザインし、それを子宮に移植することによって、人間の「自然な状態」と「増強された状態」との境界線をあいまいにする未来へ。

本書は数多くの情報に基づいている。インタビュー、患者との出会い、科学者たち(と彼らの飼い犬たち)との散歩、研究室への訪問、顕微鏡をのぞいて見えた光景、看護師、患者、医師たちとの会話、歴史、科学論文、個人的な手紙。私の目的は、医学の包括的な歴史や細胞生物学の誕生について、たとえば、ロイ・ポーターの『人類にとっての最大の利点――人類の医学史(The Greatest Benefit to Mankind: Medical History of Humanity)』や、ヘンリー・ハリスの『細胞の誕生―― 生命の「もとい」発見と展開』、ローラ・オーティスの『ミュラーの実験室(Muller’s Lab)』のような本を書くことではない。

本書はむしろ、細胞という概念や細胞生理学についての知識が医学や科学、生物学、社会構造、文化をいかに変えたかを物語る。そして本書の最後には、人間が細胞という単位を新たな形につくり変えたり、細胞を合成したり、人間のパーツを人工的につくり出したりする未来のビジョンをお伝えしたい。

細胞についてのこうした物語には空隙や欠落が避けがたく生じてしまう。細胞生物学は遺伝学や病理学、疫学、認識論、分類学、人類学と密接につながっている。医学や細胞生物学の特定の分野の愛好家、とりわけ、特定の細胞を偏愛する正当な理由をお持ちの方々は、本書の歴史をまったく異なる接眼レンズをとおして眺めるにちがいない。植物学者や細菌学者、真菌学者のみなさんは、植物や細菌、真菌に十分な焦点があてられていないと感じるかもしれない。そうした分野に本格的に足を踏み入れようとしたら、迷宮の中に入り込むことになる。いくつもの新たな迷宮に分岐するような迷宮だ。それらの分野についてのさまざまな説明は、傍注や巻末の原注に記したので、ぜひとも読んでいただきたい。

本書の旅をとおして、私たちは多くの患者に出会うことになる。その中には私自身が担当した患者もいる。本名の方もいれば、ご本人の希望で、名前や、個人を特定できるような詳細を伏せた方もいる。危険を顧みることなく未踏の領域へ飛び込み、発展途上の不確かな科学へその心と身体を委ねてくださった方々には計り知れないほど感謝している。そして、細胞生物学が新たな医療として生まれ変わるのをの当たりにしながら、私はやはり計り知れないほどの高揚感を覚えている。


この続きはぜひ本書でお確かめください。電子書籍も同時発売です。

著者略歴

シッダールタ・ムカジー(Siddhartha Mukherjee)
医師、がん研究者(血液学、腫瘍学)。コロンビア大学医学部准教授。1970年、インドのニューデリー生まれ。スタンフォード大学(生物学専攻)、オックスフォード大学(免疫学専攻)、ハーバード・メディカル・スクールを卒業。デビュー作『がん-4000年の歴史-』(2010年。邦訳は早川書房刊)は、ピュリッツァー賞、PEN/E・O・ウィルソン賞、ガーディアン賞など多くの賞を受賞し、《タイム》誌の「オールタイム・ベストノンフィクション」にも選ばれた。本書『細胞-生命と医療の本質を探る-』(2022年)も《エコノミスト》《ガーディアン》など各紙誌の年間ベストブックや、ビル・ゲイツ「2023年冬のおすすめ本」に選ばれている。

記事で紹介した本の概要

『細胞 ―生命と医療の本質を探る―』(上下2巻組)
著者: シッダールタ・ムカジー
訳者: 田中 文
出版社: 早川書房
発売日: 2024年1月29日
本体価格: 各2,500円(税抜)

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