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米国発の正統派ファンタジイシリーズ『風の名前』、3月末から第1部5分冊連続刊行開始! 村上春樹『騎士団長殺し』を一時中断して読みふけった書評家・大森望氏、本気の絶賛解説を特別公開。

異世界ファンタジイ屈指の傑作シリーズ、開幕

SF翻訳家・書評家  

大森 望 

『風の名前』は、パトリック・ロスファスのデビュー長篇にして、全世界で一千万部以上を売った超人気異世界ファンタジイ・シリーズ《キングキラー・クロニクル》の第一部(The Kingkiller Chronicle: Day 1)。原書 The Name of the Wind は二〇〇七年に米国 DAW Booksから六六二ページのハードカバーで刊行。早くも翌二〇〇八年には、白夜書房から、大判ハードカバーの上中下・三分冊で邦訳された。本書は、その白夜書房版を五分冊にしたうちの一冊目ということになる。

 近年の異世界ファンタジイとしては、ジョージ・R・R・マーティン《氷と炎の歌》(TVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の原作)に次ぐ大成功を収めたシリーズで、現在、劇場映画化とTVドラマ化が同時に進行しているが(詳細は後述)、残念ながら日本ではまだそれほど知られていない。ロスファスってだれ? キングキラーってなに? 三部作の第一部だけで文庫本五冊ってどういうこと!? と、本書の購入をためらう人も多いだろう。

 実際、『風の名前』はかなりのスロースターターなので、この本一冊を読んでも、メインの物語はまだろくに始まりもしない。舞台はどんな世界だかよくわからないし、主人公らしき男はなんだかさえないおっさんだし、話の行き先がなかなか見えないし、これ、ほんとに面白くなるの?

 と懐疑的になるのはもっともですが、解説者として断言する。本書に始まる『風の名前』(および《キングキラー・クロニクル》)は、絶対に面白い。とりたててこのジャンルが得意ではない(むしろたいていの異世界ファンタジイに食傷している)大森が言うんだからまちがいない。この解説の依頼を受けたときも、十年前に白夜書房版で読んだ印象が(最近の小説にしては珍しく)けっこう強く残っていたので、再読するまでもないかと思っていたところ、文庫版五冊分のゲラをPDFで送ってもらって最初のほうをぱらぱらiPhoneで読みはじめたら止まらなくなり、村上春樹の新刊を放り出して二日がかりで読み通したほど。本書を評して、「二度目に読んでも、一度目とおなじように夢中になれる。ほとんどの作家が、こんな小説が書けたらなあと夢に見ることしかできない、理想の第一長篇」と書いたのは〈パブリッシャーズ・ウィークリー〉ですが、まさにそのとおり。

 あなたがさほど熱心なファンタジイファンじゃないとしても、物語が好きで、魔法や異世界に抵抗がないなら、文庫本で全五冊、本文総計一三二〇ページに及ぶ『風の名前』(およびこれから邦訳される第二部、これから原書が刊行される第三部)は、至福の時を約束してくれるはず。この《キングキラー・クロニクル》は、《ハリー・ポッター》の大ブーム以降、雨後の筍(たけのこ)のごとく大量に刊行された現代ファンタジイ群の中でも指折りの傑作なのである。解説者の褒め言葉なんか信用できないという人のために、『風の名前』に寄せられた多数のコメントの中から、代表的な二つを抜粋して引用する。

「みなさんお立ち会い。こいつは本物だ。《ハリー・ポッター》シリーズよりかなりダークだが、これもまた成長物語(ビルドウングスロマン)──長じて伝説の英雄となる人物の少年時代と教育と訓練の物語だ。七〇〇ページ近い大長篇ながら、無駄な部分は一語もない。(中略)最低でも、《ハリー・ポッター》の最終巻が出るまでの無聊を慰める役に立つことはまちがない。ただし、警告しておく。『風の名前』のあとでは、《ハリー・ポッター》の新作はちょっとばかり薄っぺらで──あえて言えば──子どもっぽく見えるかもしれない」(オースン・スコット・カード)

「ファンタジイを書くには言葉を正確に使うことが絶対的に不可欠だと思いますが、それだけでなく、(本書のパトリック・ロスファスのように)言葉の中にほんとうの音楽を宿して書くことのできる作家に遭遇することは、めったにない経験であり、大きな喜びです……ああ、最高!」(アーシュラ・K・ル・グィン)

 ぼく自身が本書を読みながら強く連想したのは『エンダーのゲーム』と《ゲド戦記》だったので、この二人の絶賛はさもありなんという感じ。それ以外にも、アン・マキャフリイ、ロビン・ホブ、テリー・ブルックス、タッド・ウィリアムズ、ロバート・J・ソウヤー、ジョー・ウォルトンなど錚々たる顔ぶれが賛辞を寄せている。

 それでもまだ信用できないという人のために、このシリーズのおおまかな設定を紹介しよう。

 物語の舞台は、地図を見ていただければわかるとおり、文明の四界(The Four Corners of Civilization)と呼ばれる四つの文化圏を有する大陸。南西の連邦(The Commonwealth)、北西のセアルド、北東のモデグ、南東のヴィンタスに分かれ、東西の中間にアトゥール帝国と小王国群、連邦の南のセンテ海にイルがある。第二巻以降の主舞台となる大学(the University)は、連邦の中心、イムリの町の近くに位置している。

 主人公は、かつて・無血のクォート・(Kvothe the Bloodless)、・秘術士クォート・(Kvothe the Arcane)・王殺しのクォート・(Kvothe Kingkiller)の異名をとった伝説の英雄。いまはコート(Kote)と名を変えて、道の石亭(the Waystone Inn)という安宿を経営している。高名な・紀伝家・(Chronicler=伝記作者、記録者)のデヴァン・ロッキースは、伝説のクォートを探し求めてついに道の石亭にたどりつき、ぜひとも身の上話を聞かせてほしいと亭主に頼み込む。

 紀伝家はあとへ引かなかった。「あなたはただの神話だと言う人もいます」

「わたしは確かに神話だよ」とコートが大げさな身振りをしながらあっさり言う。「自分で自分を創り出す特別な神話だ。わたしについていちばんよくできた嘘は、わたしが自分で語ったものだ」(本書第六章)

 ロッキースの著書『ドラッカス類の交配習性』を読んでいたこともあって、コートは紀伝家の申し出を受けるが、それには条件があった。すなわち、「語るのには三日かかる」「きっちりやるか、まったくやらないかのどちらかだ」。

 紀伝家はこの条件を呑み、かくして三日にわたって語られる長い物語の幕が開く。以後、コートが紀伝家に物語を語っている現在(三人称パート)は小説の外枠になり、・わたし・の一人称で語られるクォートの物語のあいだに、ときおりそれが「幕間」としてはさみこまれるスタイルをとる。

 実際にクォートの物語がはじまるのは、第七章の途中、この文庫版で一〇〇ページをすぎてから。クォートはまず、旅芸人一座に生まれたみずからの生い立ちから語り起こす。父親のアーリデンは、傑出した役者であり、歌手であり、リュート演奏家。エディーマ・ルーと呼ばれる移動民族の一員で、グレイファロウ男爵の庇護を受けた旅芸人の一座を率いて各地を転々としている。母親は言葉の才に秀でた美女で、貴族の出身だが、アーリデンと恋に落ち、一座に加わった。荷馬車に揺られて町から町へと旅するあいだに、父母から楽器や歌の手ほどきを受け、すくすくと成長してゆくクォート。

 やがて、あらゆる学問に精通した秘術士アベンシー(通称ベン)が仲間になると、クォートはその知識を貪欲に吸収し、やがてアベンシーからも将来を嘱望されるまでになる。この子はゆくゆく大学へ行って、ひとかどの秘術士になれるのではないか……。

 ところが、十二歳のとき、ある悲劇的な事件によって、クォートは両親と一座の庇護を離れ、たったひとりで生きていくことを余儀なくされる。身ひとつで投げ出された彼は、紆余曲折の挙げ句、タルビアンの町へと向かう……。

 と、この巻の物語はそこまで。『風の名前』のメインパートは、二巻以降、苛酷なサバイバル生活を経て、艱難辛苦のすえ大学に入学し、秘術士としての勉強を始めてからになる。

 正規の教育を受けずに育った野生児のような主人公が、少年期の鍛錬と持ち前の才能をフルに生かして、エリートたちの集団の中でのし上がってゆくわけで、さしずめ『巨人の星』の星飛雄馬(または『侍ジャイアンツ』の番場蛮)とか、『ガラスの仮面』の北島マヤとか、そんなタイプ。彼を目の敵にする教授や同級生の中でしたたかに生き抜いていくところは、ホグワーツ魔法魔術学院入学当初のハリー・ポッターとか、バトル・スクール時代のエンダー・ウィッギン(『エンダーのゲーム』)を思い出させる。ただし、クォートの場合、タルビアンの路上生活で辛酸を舐めたおかげで、目的のためには手段を選ばない図太さと悪知恵と負けん気の強さを身につけている。周囲から一目置かれるために、教授や有力な学生とも平気で対立し、徹底的に闘い抜く。そのために使う手練手管や、危機一髪のサスペンスが第二巻以降の読みどころ。

 同じ秘術校で学ぶ学生たちとの友情、運命の女性との恋、勉学と音楽の日々も描かれるが、いちばんの特徴はとにかく金銭的に苦労するところ。クォートの最大の目標は知識を得ることだが、そのため、ひたすら学費稼ぎに追われることになる。その意味では、苦学生ファンタジイと呼ぶべきかもしれない。

 もうひとつのポイントは、《ハリー・ポッター》のヴォルデモートのように、このシリーズにおける究極の悪を体現するチャンドリアン(The Chandrian)。「そう。すべての始まりはそこにあると思う。多くの意味、これはチャンドリアンについての物語なのだ」とクォート自身が前置きするとおり、作中になかなか姿を見せない彼らが物語の隠れた中心となる。チャンドリアンとは、神話や伝説に登場する邪悪な存在。アベンシーの説明によれば、テム語(古代言語)で・七人の者たち・を意味し、「晴れ渡った青空から稲妻のように現われ」て、理由も調べもなくただ破壊する。クォートとチャンドリアンの因縁と、彼らにまつわる謎がシリーズ全体を牽引してゆくことになる。

 第一部のタイトルの「風の名前」とは、《ゲド戦記》でもおなじみの、真の名前を知ることで相手を支配できるという考えに基づく。風の名前を知れば風を自在に操れるというわけだが、風にかぎらず、・名前・は、このシリーズの鍵を握る。

 彼はコートと名乗っていた。ここにやって来たとき、慎重に名前を決めた。新たな名をつけた理由のほとんどはどこにでもあるものだったが、いくつか特別な理由もあった。その理由の一つは、名前が彼にとって重要なものであったということだ。(本書第一章)

「ことばだ。ことばは忘れられた名前の色あせた影でしかない。名前は力を持つので、ことばも力を持つ。ことばは人の心を燃え立たせる。ことばはかたくなな心から涙を絞り出せる。七語で愛をもたらすこともできる。十語で強い人の意志をくじくこともできる。だがことばはしょせん、絵に描いた炎にすぎないんだ。名前は炎そのものとなる」(『風の名前』第五巻第八十六章)

 つまり本書は、名前を知ること、知識を得ることについての物語だと言ってもいい。クォートの旺盛な知識欲は、作者自身の人生をある程度反映しているようだ。このあたりであらためて著者の経歴を紹介しておこう。

 パトリック・ロスファス(Patrick Rothfuss)は、一九七三年、ウィスコンシン州マディスン生まれ。幼い頃から物語を読み聞かせてくれた両親の影響もあって、大の小説好きになり、小学校五年生の時分から、一日一冊(短いものなら二冊)は読んでいたという。そのほとんどがファンタジイかSFで、その頃から自分でも短篇や詩を書きはじめたらしい。

 ウィスコンシン大学スティーヴンズ・ポイント校に入学すると、化学工学を皮切りに、さまざまな専攻を転々として、なんと九年の長きにわたり大学に在籍。最終的に英文学の学士号を取得して卒業したのは一九九九年のことだった。

 ワシントン州立大学の大学院に進んで修士号を取得したあと、今度は教師としてウィスコンシン大学スティーヴンズ・ポイント校に戻る。そのあいだじゅう、ずっと書き続けていたのが、のちに《キングキラー・クロニクル》となる小説の草稿だった(友人たちとのあいだでは、The Book「例の本」と呼ばれていたとか)。

 この小説を出版してくれる版元を求めてあちこちに原稿を送ったものの、なかなか芳(かんば)しい反応は返ってこない。しかし、やがて転機が訪れる。その長大な小説の一部(のちに『賢者の怖れ』として刊行される第二部の一章分)を“The Road to Levinshir”という題名の独立した短篇小説に仕立て直し、SFとファンタジイの小説新人賞、「未来の作家」(the Writers of the Future)コンテストに応募したしたところ、二〇〇二年第二四半期の第一席を獲得したのである。

「未来の作家」コンテストは、サイエントロジー教会(ダイアネティクス)の創始者でSF作家のL・ロン・ハバードが新人作家の発掘を目的として一九八三年に創設した新人賞で、作品を商業出版したことがない作家志望者ならだれでも無料で作品を応募できる(分量の上限は、四百字詰め原稿用紙換算で百三十枚程度)。日本ではあたりまえだが、アメリカでは定期的に作品を公募している小説新人賞が非常に少ないという事情もあって、このコンテストは競争率が高く、毎回数千通の応募があるという。この賞を受賞したことで、作品がペーパーバック・オリジナルの受賞作アンソロジー、Writers of the Future 18 に掲載され、ロスファスはめでたく商業媒体デビューを果たす。これによって、ようやく編集者に原稿をちゃんと読んでもらえるようになり、そのアドバイスのもと、《キングキラー・クロニクル》を三部作に仕立てることを条件に、DAW Booksとの契約に漕ぎつける。

 そして二〇〇七年三月、第一部となる『風の名前』がついに刊行。出版社の強力なプッシュもあってたちまち大人気を博し、無名の新人のデビュー作ながら、〈ニューヨーク・タイムズ〉紙のベストセラーリストに名を連ね、大手の出版社やTV局、書店が後援する文学賞、クウィル賞(Quill=羽根ペン)のSF/ファンタジイ/ホラー部門を受賞した。

 この成功で、ロスファスは大学の仕事を辞めてフルタイムライターとなり、二〇一一年には、第二部の『賢者の怖れ』The Wise Man’s Fear を刊行。こちらは、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストで(ファンタジイ部門のみならず)ハードカバー部門の第一位に輝く快挙を達成した。

 ジョージ・R・R・マーティンはブログで、「待った甲斐があった。夜明け近くまでかかって、一日で一気読みしたけど、早く次の巻が読みたくてもううずうずしている。このロスファスってやつはほんとにすごいね」と絶賛。〈パブリッシャーズ・ウィークリー〉は「異世界ファンタジイの金字塔」と評した。

 さらに、この第二部刊行後、シリーズのスピンオフ中篇が二篇書かれている。“The Slow Regard of Silent Things” は、『風の名前』文庫版三巻から登場する謎のキャラクター(大学の地下に住んでいるらしい年齢不詳の女性)アウリが主人公。もともと、ジョージ・R・R・マーティンとガードナー・ドゾアが共同で編者をつとめるオリジナル・アンソロジー Roguesのために書きはじめた作品だが、長くなりすぎたために中断。かわりに、本書にも登場するバストを主役にした中篇 “The Lightning Tree” を書き、そちらがRoguesに収録された(二〇一四年六月刊。その後、単独でリリースされた電子書籍版は、《キングキラー・クロニクル》第二・四部と謳われている)。

 “The Slow Regard of Silent Things” のほうは、友人でもあるイラストレーター、 ネイト・テイラーの挿絵を入れて、二〇一四年十月に中篇単体で単行本化された(こちらは《キングキラー・クロニクル》第二・五部とされている)。

 現在、著者は《キングキラー・クロニクル》第三部にあたる The Door of Stone を執筆中。二〇一七年中にも刊行予定。

 また、冒頭で触れたとおり、二〇一五年には、《ソウ》シリーズなどで知られる映画制作配給会社ライオンズゲートがこのシリーズの映像化権を取得。『風の名前』を原作とする劇場映画版と、同じ世界を共有する(原作のプロットに縛られないオリジナルストーリーの)TVシリーズ版の製作が同時に進行している。どんな映像になるか、いまから楽しみだ。

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