_キネマと恋人_書影

「『キネマと恋人』は『カイロの紫のバラ』を凌いでいる。それについていくつかの点を挙げてみたい」――『キネマと恋人』解説/辻原登

『キネマと恋人』は2016年の初演時、第四回ハヤカワ「悲劇喜劇」賞を受賞。「悲劇喜劇」賞は、年間に一本、最も劇評意欲を奮わせた作品におくられる演劇賞です。『キネマと恋人』戯曲本にも収録している解説を早川書房のnoteで公開します。小説家・辻原登による、「オマージュとパスティーシュ」から紐解いた、ケラリーノ・サンドロヴィッチ論にもなっています。

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「キネマと恋人」解説 辻原登

 オマージュとパスティーシュこそ創造の源泉だと考えると、それが芸術作品だけに限らないことに気付く。精微な職人仕事も、より良く生きようとする我々の生もまた先人や古典に依拠しつつ営まれる。
 もしその作品が、あるいは人間がオマージュとパスティーシュの対象を超えるようなことがあるなら──稀にしか起こらないが──、我々はそれを傑作と呼び、高潔な人と称えるだろう。
 ケラリーノ・サンドロヴィッチ台本演出の『キネマと恋人』は傑作である。
『キネマと恋人』は『カイロの紫のバラ』を凌いでいる。それについていくつかの点を挙げてみたい。
 先ず、舞台設定だが、『カイロの紫のバラ』はニューヨークの隣州ニュージャージーのどこかの街の映画館、『キネマと恋人』は東京を遠く遠く離れた島の、一軒しかない映画館(梟島キネマ)。ニューヨークからの移動は飛行機だが、島へは連絡船。つまり、かたや地続き、かたや海に隔てられている。トム役の俳優ギルは飛行機でやって来て、飛行機で去る。寅蔵役の高木高助は船でやって来て、船で去る。島にやって来る映画は一、二年遅れ。
 空間と時間における、東京からの大きな距離がこのファンタジーのリアリティーを『カイロの紫のバラ』より保証する。
 さらにハルコが観る映画の豊富さ多彩さ──マルクス兄弟『吾輩はカモである』『オペラは踊る』、バスター・キートン『キートンの蒸気船』、他にローレル&ハーディ、ハロルド・ロイド、ハリー・ラングドンetc──、そして映画『カイロの紫のバラ』にあたるのが、オール・トーキー映画と銘打った『月之輪半次郎捕物帖』。これがまた出色の出来映えなのである。
 人物の多彩さ、豊富さにおいても、人情喜劇の組立てにおいても──、ハルコ、電二郎夫婦の絡みは、セシリアと夫のそれを、テンポ、ユーモア、ペーソスのいずれにおいても上回る。同じことは、ハルコと妹ミチルの関係にも言える(『カイロの紫のバラ』とは姉妹が逆転している)。

ミチル 人間がら、みぃんな見捨てられた魂んような存在だり。
ハルコ なに?
ミチル ええお姉ちゃん? 魂の観察者は魂ん中ん入ってくことはできんがっさ。だけんが魂ん淵んとこがら歩いて、魂と接触することはできるんだり。
ハルコ (実はよくわからないのだが)ああそう。良かったね。
ミチル お姉ちゃんわかっとる?
ハルコ わかっとらん。ちんぷらかんぷらだり。
ミチル 見捨てられた魂と見捨てられた魂が、せめてがら来世にでも出会えればええだりが……。(溜息)
ハルコ どうしたんだり。ミチル。
ミチル どうもせんよ。
ハルコ 見捨てられた魂?
ミチル そう。キミコにも今朝そう言って聞かせたんよ。
ハルコ キミちゃんに?
ミチル 「早く起きて芋がゆ作ってくれ」て駄々がこねるから。
ハルコ (ギョッとして)キミちゃんまだ三つよ。見捨てられた魂はまだ無理だり。
ミチル うなずいてただり。
ハルコ そりゃこわいからじゃないの?
ミチコ 違う違う。結局がら人生は無だって言うたら、考え込んでただり。
ハルコ 芋がゆ作ってやりんね。どうしたんミチル。妙ちくりんな本読んどらんで映画行こ。ね!
ミチル 映画なんて何千年か経てば誰も覚えてないがっさ。

 ナンセンスと情理の入りまじった台詞のやりとりは、どの人物同士との間にも弛緩することなく続き、展開してみごとなアンサンブルをなす。
 見逃してはならないのは、ハルコがセシリアより映画通であり(『キネマ旬報』の愛読者)、見巧者、すぐれた批評眼の持主であることだ。彼女が熱狂的な喜劇映画ファンであることがその証拠だ。ハルコはケラリーノ・サンドロヴィッチの分身に違いない。
 ハルコのまなざしに込められた熱狂と批評によって、寅蔵はスクリーンから誘(おび)き出される。あるいは拉致されるのである。セシリアにはそのようなまなざしはない。強い現実(批評)の吸引力はない。

寅蔵 (嬉しそうに)現実の世界は不可思議でいっぱいだ……。
ハルコ 映画ん世界の方がずっと不思議よ。ワクワクするだり。ミイラ怪人もドロドロ妖怪も現実にはおらんし。
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高助 惚れるわけがないだろう。架空の人物なんだから。架空の人物とつきあってどうなる?
ハルコ 寅蔵さんがら最高が人がっさ。
高助 それは僕が最高が人に演じてやったからだよ。だけど最高だろうが完璧だろうが、いないんだから実際には。実在しないんだよこいつは。
ハルコ だけんが。
寅蔵 実在できるよう精進する。

架空の人間が自己意識を持った瞬間だ。

 梟島には、この物語が始まる前にすでに『月之輪半次郎捕物帖』の作者・脚本家が乗り込んでいたことが第一幕前半で明らかになるが、そのあと、寅蔵がスクリーンから抜け出したと聞いて役者やスタッフが島に押しかけて来る。ここで演じられるスラップスティックの面白さは、時代劇中の侍言葉と島の言葉(ケラリーノ語)と東京言葉とが三つ巴となって入り乱れ、絡み合い、展開することで倍増する。
 畢竟、『カイロの紫のバラ』は映画の中の映画の話。スクリーン(フィルム)からスクリーン(フィルム)への出入りに過ぎない。『キネマと恋人』は舞台の中の映画の話だ。寅蔵が抜け出して来ると、そこは生身の役者がいる舞台であり、目の前には生身の観客がいて、寅蔵はそのまなざしも意識せざるを得ない。当り前のことだとはいえ、ドラマの深味と広がり、強度と輝きが違ってくるのである。
 この舞台が傑出している点は他にもある。映画館の雇われ支配人小松さんと売り子の存在だ。妻子持ちの小松さんがハルコに恋をしている、という事実は貴重な補助線で、ドラマの強度を上げている。だが、何よりも素晴らしいのは売り子だ。
 脚本家根本は『月之輪半次郎捕物帖』シリーズの筋書とセリフを支配しているが、売り子は常に梟島キネマの中にいて、スクリーンとスクリーン外のすべてを観ているのである。だからこそ、寅蔵がスクリーンを抜け出して起きるスクリーンの中のてんやわんやを「こん映画、傑作だり……」と賞賛し、やがてスクリーンの奥へ悄然と消えて行く寅蔵の後ろ姿に拍手し、「最高! 最高がっさ!」と喝采を送ることができる。胸のすく場面である。
 しかも、舞台では、脚本家根本と売り子は一人二役(村岡希美)。絶妙の演出というほかない。
 島の外から来た人間、映画の中から来た人間は全員去っていく。島はまさに陸から離れた島そのものとして、映画館もハルコも島の住人たちも海にというより宙に置き去りにされ、ハルコはまたスクリーンに夢中になる。掛かっているフィルムはハリー・ラングドンだ。
 構造はアレン作品より複雑、深化されているうえに、物語はテンポよく、笑いと涙を誘いつつ、我々のノスタルジーを掻き立てて幕となる。我々の内奥は島となり、一人の女性(ハルコ)の残像が焼き付けられる。
 しかし、我々は一つの傑出した舞台を観たはずなのに、一篇の映画を観たような思いに引き込まれるのはなぜか? ウディ・アレンの術中にはまったのだろうか。

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〇執筆者プロフィール

辻原登(つじはら・のぼる) 作家。1945年和歌山県生まれ。90年『村の名前』で芥川賞、99年『翔べ麒麟』で読売文学賞、00年『遊動亭円木』で谷崎潤一郎賞、05年『枯葉の中の青い炎』で川端康成文学賞、06年『花はさくら木』で大佛次郎賞、10年『許されざる者』で毎日芸術賞、11年『闇の奥』で芸術選奨文部科学大臣賞、12年『韃靼の馬』で司馬遼太郎賞、13年『新版 熱い読書 冷たい読書』で毎日出版文化賞書評賞、同年『冬の旅』で伊藤整賞を受賞。近著に『辻原登の「カラマーゾフ」新論』『不意撃ち』など。ハヤカワ『悲劇喜劇』賞選考委員。

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