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【3万部突破!】あなたは、初恋の人の名前を検索したことがありますか――? 究極の恋愛小説・早瀬耕『未必のマクベス』(ハヤカワ文庫)冒頭公開

「あなたは、王として旅を続けなくてはならない」――IT系企業に勤める中井優一は、帰国の途上、マカオの娼婦から予言めいた言葉を告げられる。やがて香港の子会社の代表取締役として出向を命じられた優一だったが、そこには底知れぬ陥穽が待ち受けていた。

早瀬耕未必のマクベスハヤカワ文庫

i Night Flight - Late Summer

 旅って何だろう? と考える。
「自分の居場所から離れて、滞在あるいは移動中であること」と、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に考えてみる。そう仮定すれば、旅を続けることは難しい。どんな場所だって、たとえそれが、飛行機の窮屈な座席だとしても、そこで長い時間を過ごしてしまえば、やがて自分の居場所になってしまうだろう。自分を取り囲む環境に対して、「ここは自分のいるべき場所ではない」と意地を張り続けることは、並大抵の意思の力ではできないと思う。
 だから、多くの場合、旅はどこかで終わりを迎える。
 仕事の都合で、ひと月に二、三回の出張を繰り返していると、ときとして「旅慣れているね」と言われる。それは矛盾した評価だと思う。ぼくは、初めての空港でパスポート・コントロールに手間取ることもないし、セキュリティ・チェックでまごつくこともない。英語が通じない街でも、なんとか食事をして、タクシーに乗ることができる。それを「旅慣れている」と評するのならばそうだろうし、そう言われて嫌な気分もしない。酒席で、そんなふうに言われれば、得意顔で旅先での失敗談を話したりしているのだろう。
 けれども、「旅慣れた人」は、旅などしていない。大半の「旅慣れた人」は、旅に似た移動を繰り返しているだけだ。飛行機が離陸するとき、旅先での出来事を想像して心躍らせることも、帰国したときにほっとすることもなくなる。それは旅ではなく、ただの移動に変わってしまっている。それでも「旅慣れている」と評される人がいるならば、彼は、その移動が終わったときから旅を始めるのだろう。
 たとえば、本来、王となるべきではなかった男が、何かの偶然で、臣下には許されない緋色の王衣を纏(まと)うことになったとしよう。初めのうち、それは彼にとって旅かもしれない。しかし、まがい物の王衣を長く着続けてしまい、その緋色が、王冠を狙う者たちとの血の謀略に由来するのを知るころには、王座はいつしか自分の居場所となり、偽物の王衣も本物の緋色に染まる。そこで、旅を終わらせることができれば、幸いと言うべきだろうか。旅の途上だったはずの王座で、本来、自分のいるべき場所を失い、どこにも帰ることができなくなってしまうことが、本当に幸せなのだろうか。
 旅は、自分の居場所に帰る道を知っている間に終わらせる方がいいと、ぼくは思う。

 ぼくが、エコノミークラスのシートモニタでハリウッド映画を観終えたとき、着陸に向けたシートベルト着用サインを二十分後に点灯するアナウンスが流れた。イヤホーンを外して、窓側に目を向けると、三列シートの真ん中を空けて座る伴(ばん)は、小さな窓から退屈そうに夜空を眺めていた。午後八時、バンコクから香港(ホンコン)までのフライトは、大きな揺れもなく、順調に夜間飛行を続けていた。
「つまらなかっただろう?」
 伴は、窓の外に話しかけたみたいだった。夜空しか見えない窓に、イヤホーンを外すぼくの姿が映ったのだろう。
「うん、二時間、窓の外を眺めていた方が有益だった」
「結末は秘密にしてください、なんていう話は、つまらないに決まっている」
「そんなものかな……」
 九月のバンコクを発つとき、ぼくは、シートポケットの冊子に東京では公開前の映画を見つけて、窓側の席を伴に譲った。
「そんなもんだよ。世界中で上演され続けているシェイクスピアは、たいていの観客が結末を知っている。結末を明かせない話なんていうのは、『二回観ても、つまらない話ですよ』って喧伝しているのと同じだ」
 ぼくと伴は、三十五歳を過ぎて配属された部署で同僚となってから、同じフライトで出張することが多い。飛行機が三列シートのときは、真ん中の座席を空けて、通路側と窓側の席を予約する。真ん中の座席は、万国共通に不人気だ。おかげで、半分くらいの割合で、ぼくと伴は、二人で三人分の座席を使い、エコノミークラスでの移動を少し楽に過ごせる。
「伴は、シェイクスピアを観るのか?」
「何かのときにひとつだけ戯曲を読んだけれど、つまらなかった。結末が分かっている話に、二時間も三時間も付き合うのは、時間の無駄だろう」
 ぼくは、返す言葉を見つけられない。
「一般的なマーケティング論として、『世界で多くのチケットを売っているのは、大半の人が結末を知っている話だ』ということだ。それと、俺個人の趣味は違う」
 伴の断定的な発言は、その話題の終わりを意味した。ぼくは、客室乗務員を呼んで、ダイエット・コークとラムのロックを注文する。チャイナドレス風の緋色の上着に着替えた彼女が、キューバリブレの材料を運んでくると、シートベルト着用のサインが点灯した。機体が旋回を始めて、伴の先にある窓に、きらめく香港の夜景が映る。ぼくは、客室乗務員が着陸時の安全確認を始める前に、プラスティックのカップのラムにダイエット・コークを注ぎ足して、氷の先を指で押さえてステアをしてから、シートテーブルをしまう。香港は、仕事ではなく、明朝の成田行きの便へのトランジットだ。ぼくは、飛行機の中でキューバリブレを飲む権利を持ち合わせている。
 ところが、キューバリブレを飲み干しても、機体は旋回を続けたままだった。ぼくと伴に挟まれた空席のシートモニタは、いつもそうするように、フライトマップを映しているが、飛行機が高度を下げた記録もない。香港国際空港までの距離は、近くなったり遠ざかったりを、ゆっくりと繰り返している。
「香港国際空港でトラブルが発生したため、当機は、しばらく着陸の許可が下りない見込みです。当機の運行には支障がないので、乗客はシートベルトを着用したまま、そのまま待ってください。着陸態勢中のため、客室乗務員のサービスはありません」というような英語のアナウンスが流れる。もしかすると、トラブルの内容も伝えていたかもしれないけれど、ぼくの語学力では、そこまで聞き取れなかった。続けて、広東(カントン)語のアナウンスが流れる。キャセイ・パシフィックの客室乗務員の広東語は、いつ聞いてもリズム感がきれいだ。まるで、「今夜は空気が澄んでいるため、お客様は、しばらく香港の『百万ドルの夜景』をお楽しみください」と伝えているような優美さがある。
「雲呑麺(わん たん めん)で、サン・ミゲルを飲むのは、お預けだね」
 伴が、香港でよく飲まれているフィリピン産ビールの名前を挙げる。ぼくたちが日本のエアラインを出張に使わないのは、経費節約を目的とした副部長の指示だったが、バンコクから東京に戻るのに直行便のないキャセイ・パシフィックを選んでいるのは、香港で気楽な夜を過ごすためだ。トランジットを理由に、香港市内の安ホテルに一泊して、早朝の便で東京に戻っても、旅費精算の際、副部長に不愉快な思いをさせなくて済む。名ばかりの管理職が、半日の時間を無駄にしたとしても、部の経費には何の影響もない。
「空港を出るのが十二時を過ぎるようだったら、ホテルをキャンセルしよう。雲呑麺を食べて、三、四時間、空港のソファで横になれば朝になる」
 伴の提案に、ぼくは「そうだね」とうなずく。酔っ払って、深夜の安ホテルに転がり込むよりは、空港にいる方が安全だ。
「いいけど、空港の中の店は、禁煙なんだよな」
「香港の飲食店は、先々月から全面禁煙だよ」
 北京(ペキン)オリンピックの準備が本格的になったころから、香港にも「禁煙」の流行語が押し寄せてきて、二〇〇九年七月に、香港政府は、とうとう、バーもナイトクラブもお構いなしに、飲食店の全面禁煙に踏み切った。もっとも、外食率が高い香港の飲食店が、その規制のおかげで売上げが落ちた印象も受けない。ただ、テラス席の床が灰皿に変わっただけだ。煙草を吸わない伴には分からないだろうが、前の客の吸い殻が残る灰皿で煙草をもみ消すよりも、床に落として靴底で火を消す方が、ずっと気持ちが好いし、火も確実に消せる。
 ぼくと伴は、どちらかと言えば寛容な乗客だと思う。百万ドルの夜景の遊覧飛行をしたおかげで、到着が二時間遅れても、さして不満を感じない。ダイエット・コークがなくて、ペプシ・コーラでキューバリブレを作ることになっても、「まぁ、キューバリブレだな」と思うし、ラムがなければ白酒(ハツザウ)を代わりにして「チャイナ・リバティ」なる新種のカクテルを試してみる。
 けれども、その夜の香港国際空港の管制官は、ぼくたちほど寛容ではなかったようだ。百万ドルの夜景の遊覧飛行は十五分も続かず、澳門(マカオ)国際空港へのダイバート(着陸地変更)を告げるアナウンスが流れる。もしかすると、空港のトラブルの他に、機体の不具合を告げるアナウンスがあったのかもしれない。機体は、副機長のアナウンスが流れる前から降下を始め、十分も経たないうちに、カジノのどぎつい電飾が窓の外を掠(かす)める。
「澳門は初めてだな」
「俺もだよ」
 ぼくと伴のどちらが、そう話しかけたのかは覚えていない。
 澳門国際空港は、思いの外、小さな空港だった。滑走路から駐機場まで十分とかからず、パスポート・コントロールに並ぶこともなく、十時前には到着ロビーでキャセイ・パシフィックの空港社員の説明を聞いていた。香港までのフェリーのチケットと、トランジットの乗客には香港国際空港までの機場快線(エアポート・エクスプレス)のチケットが配付されるらしい。彼の説明によれば、香港と澳門間のフェリーは深夜でも三十分置きに運行していて、香港の中環(セントラル)まで一時間程度で行けるとのことだった。
「中井(なかい)は、『深夜特急(しんやとっきゅう)』は読んだ?」
 フェリーのチケットを配布する列に並びながら、伴が思い出したように言う。(続く)

――――――

早瀬耕『未必のマクベス


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