橘玲が徹底解説! あなたの周りにも多数?「知ってるつもり」の困った人々
「知ってるつもり」な人を待つ悲惨な未来
by 橘玲(『言ってはいけない』著者)
「モリカケ」問題や憲法改正、原発の是非から「歴史戦」まで、あるいは芸能人の不倫や官僚のセクハラに至るまで、あらゆる分野で「知ってるつもり」が増殖している。彼ら/彼女たちの思考を支配するのは単純な善悪二元論で、自分は絶対的な真実や正義を手にしていて、相手は絶対的に間違っているとされている。異なる主張や立場を頑強に拒絶し、間違いを指摘されるとさらに攻撃的になるのも特徴だ。
困ったひとたちが目に余るようになったのは日本だけでなく世界的な現象で、だからこそスローマンとファーンバックの『知ってるつもり——無知の科学』が評判を呼んでいるのだろう。
ほとんどのひとは、水洗トイレやファスナーの仕組みすら正確にこたえられず、自転車のペダルとチェーンの関係を図に描けない。こんなに無知なのにすべて「知ってるつもり」なのは、自分の知能を錯覚しているからだ。なぜなら、そのほうが気分がいいから。
「知ってるつもり」が増えている理由のひとつは、現代社会がますます複雑化して「本当に知っている」ことが難しくなったからだ。かつて熟練の自動車整備工はエンジンの音を聴くだけでどこが不調かわかったが、高度なテクノロジーとソフトウェアで管理されたいまの車に対しては、新人だろうがベテランだろうがマニュアルどおりの検査をするしかない。地球温暖化への対応でもワクチンや遺伝子組み換え食品の安全性でも、「本当に知っている」ひとがいなくなれば「知ってるつもり」が幅をきかせるようになる。——より正確には「本当に知っていること」を説明するのに長い注釈が必要になったのだが、そうなるとほとんどのひとは面倒で耳を傾けなくなるのだ。
もうひとつはインターネットやSNSによって、同じ価値観のひとが集まりやすくなり、「知ってるつもり」が増幅されるようになったからだろう。こうした対立は、アメリカだと共和党(保守)と民主党(リベラル)、日本だと親安倍と反安倍のイデオロギー対立として表われ、政治的な議論の範疇を超えた憎悪の応酬になるところも瓜二つだ。ヨーロッパの移民問題やイギリスのEUからの離脱も同じで、これもまた世界的な現象だ。
価値観のちがいで憎み合うのは、それがアイデンティティに直結するからだ。徹底的に社会的な動物であるヒトにとってアイデンティティは「社会的な私」の核心で、トランプを支持する白人はマイノリティ(主に黒人)へのアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)を「逆差別」だと怒り、安倍政権を支持するネトウヨは韓国や中国の「反日」を自分個人への攻撃と感じるのだ。
SNS上の意見がどんどん過激になるワケ
ヒトは長い進化の過程のなかで、集団のなかで自分を目立たせながら、他の集団に打ち勝つという複雑なゲームに習熟してきた。集団同士の抗争に負ければ(男は)皆殺しにされてしまうのだから、部族主義はヒトの本性に深く組み込まれている。そして現代社会においては、人種や宗教のちがいを前面に押し出せなくなったことで、政治的イデオロギーが部族の指標にされるようになった。
スローマンとファーンバックはこの現象を「グループシンク(集団浅慮)」として説明している。同じような考えをもつひとが議論すると一人ひとりの見解がますます極端化することで、いったんこうなると説得によって意見を変えさせるのはほとんど不可能だ。そしてインターネット(SNS)は、グループシンクの状況をつくるのにものすごく適している。このままでは社会はますます分断されていくだろう。
だったらどうすればいいのだろうか。認知科学者である著者たちは、この本で「賢さ」のパラダイムを変えることを提案している。
テクノロジーの急速な進歩によって、学校教育で使われてきた「賢さ」の指標はほとんど役に立たなくなった。教科書に書いてあることをひたすら暗記する能力はウィキペディアがあれば不要だし、微分・積分などの複雑な計算もいまでは表計算ソフトがやってくれる。AI(人工知能)がビッグデータと深層学習でますます賢くなれば、機械に代替できることはずっと多くなるだろう。
そんな時代にまず重要なのは、自分の無知を受け入れることだ。なぜなら「知ってるつもり」のひとは、現在の(間違った)知識に安住して、それ以上の知識を獲得しようとは思わないから。
すべてが複雑化する高度知識社会では、あらゆることを「知っている」ことはもはや不可能だ。だとすれば次に重要なのは、自分の無知を前提として、知るべきこととそうでないことを選り分ける能力だろう。水洗トイレの仕組みを知らなくてもとくに不都合はないが、トイレが詰まったときに誰に修理を頼むかは知っている必要がある。
そのうえで、自分が知るべき知識が社会のなかでどのように分布しているかを見極めることだ。本書ではそれを「体と世界を使って考える」「他者を使って考える」「テクノロジーを使って考える」として説明している。かんたんにいえば、「賢い」ひとは「賢さ」を拡張する方法を知っているのだ。
IQでもGRITでもなく
現代社会では、知能テストで計測できる一般知能(g因子)が過度に重視されている。もちろんこれは理由のないことではなく、社会的・経済的な成功において一般知能がもっとも強力な説明要因であることはさまざまな研究で繰り返し指摘されている(成功にとって次に重要なのは「やり抜く力(GRIT)」だ)。
本書でもっとも刺激的なのは、この一般知能(g因子)に「集団知能(c因子)」を対置したことだろう。知識が個人ではなく社会に広く分布しているのなら、知能もまた集団的(collective)なものになるはずだ。
3人ずつのチームに空間的推論、道徳的推論、買い物の計画立案、グループとしてのタイピング作業をさせたところ、個人の知能指数(g因子)は集団の成績を予測するのにそれほど役に立たなかった。グループのパフォーマンスは集団知能(c因子)と強く相関していたのだ。——「キッチンを改装するときには、自分の仕事を完璧にすることしか念頭になく、戸棚とカウンターのバランスを見ることすらできない一流の職人ばかりを集めるより、チームワークのできる半人前の職人を集めたほうが満足のいく仕上がりになる」と著者たちは説明している。
集団知能とはいったい何だろう? これは新しい概念で定説はないが、意外なことに、まっさきに思い浮かぶ「集団のまとまり、意欲、満足度に関する指標」はチームの成績を予測するのに役に立たないという。研究データが示したのは「社会的感受性、メンバー同士が頻繁に役割を交代すること、女性の割合」などで、多様性が集団にとってプラスになることを示唆している。
知識社会というのは、定義上、言語運用能力や数学・論理的能力の高いひとが有利になる社会のことだ。知識社会が高度化するにつれて仕事に必要とされる知能のハードルは上がり、ブルーカラーを中心に多くのひとが中流から脱落していく。これが先進国で共通して起きていることだが、「賢さ」のパラダイムが変わることによって「一般知能(g因子)至上主義」が見直されるかもしれない。企業がより多くの利潤をあげようとすれば、個人ではなく集団の知能を最大化しなくてはならない、というように。
だがこれで、知識社会が変わっていくのかはまだわからない。2つの知能がどのような関係にあるかはこれからの研究課題だろうが、一般知能の高いひとが自分の知能を最大限活かせるような集団を選択する、ということもじゅうぶん考えられるからだ。
そうなれば、社会はいずれ「賢い集団」とそうでない集団のあいだで分断されるかもしれない。というより、すでにそうなっているのかもしれないが。
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橘 玲 (たちばな・あきら)
作家。1959年生まれ。『「読まなくてもいい本」の読書案内』『幸福の「資本」論』『80' s』ほか、著書多数。『言ってはいけない』で新書大賞2017を受賞。
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