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開催まであと3日! 「桁違いの実力」と「尋常ではないツキ」だけでは勝てない。それが日本一決定戦”グランプリ”

『グランプリ』(高千穂遙)第1章冒頭掲載、第5回。練習がキツすぎて意識が飛ぶ!? 第一線で活躍を続ける選手はみな、過酷な練習を積んでいるようです。


グランプリ

第一章 日本選手権競輪(承前)
 

     5
 
 選手宿舎に戻った。
 まずは風呂に入って、汗を流す。それから夕食だ。
 食堂に遠山岳彦(たけひこ)がいた。都合がいい。食べながら、あしたの話をした。スタートで、どの位置をとるか。他のラインがどう動いたら、どう対処するか。そういったことを雑談混じりに打ち合わせた。遠山は二期下の三十歳で、瀬戸はこれまでに二回ほど連携したことがある。仕事は悪くない。二回とも、瀬戸は連(れん)に絡むことができた。
「須走と関が叩き合うと思います」
 遠山はそう展開を読んだ。徹底先行のふたりが主導権を奪おうとして意地を張り、絶好の捲りごろになるはずだと言う。
「ということは」
「いちばん怖いのは綾部さんです」
 遠山は周囲を見まわし、声をひそめた。食堂には十数人の選手がいる。綾部の姿はない。だが、立川は綾部の地元だ。東京の選手は何人かいる。
 食事を終え、瀬戸は自分の部屋に入った。
 競輪選手の宿舎は、四人部屋になっている。テーブルとテレビが置かれた畳敷きの小部屋に、ベッドが四つ。それで一室になっている。相部屋になるのは同地区の選手たちだ。GⅠの五日目となると、すでに帰郷してしまった選手もいる。きょうは三人部屋だ。
 部屋には誰もいなかった。まだ時間が早い。入浴したり、食事をしたり、洗濯をしている者もいる。マッサージを受けている選手もいる。サロンでくつろいでいる選手も多い。瀬戸のマッサージの予約は午後八時だ。あと一時間ほど余裕がある。
 CSの競輪チャンネルできょうのレースのダイジェストを見ようかと思ったが、やめた。何がよくて、何がだめだったのかは、はっきりしている。あらためて確認する必要はない。
 瀬戸は巣箱にもぐりこんだ。ベッドの上、カーテンで仕切られた自分だけの空間。それが巣箱だ。
 仰向けに寝転び、手足を伸ばす。ベッドに敷いてあるマットレスは自分で宿舎に持ちこんだものだ。睡眠の質は、大きくレースに影響する。熟睡できない選手は勝てない。だから、愛用の寝具をわざわざ持ってくる。耳栓も用意するし、アイマスクをかけることもある。
 スウェットのポケットから携帯音楽プレーヤーを取りだした。イヤフォンを耳にはめる。通信機能がなければ、電子機器の持ちこみに制限はない。液晶画面付きの携帯DVDプレーヤーやゲーム機も大丈夫だ。
 仰向けに横たわり、好みのJポップを聴く。
 目を閉じると、師匠の顔が浮かんだ。
 入門したのは、十六年前だ。清河一嘉は三十七歳。そのときすでにベテランの競輪選手であった。
 工業高校の自転車部員だった瀬戸は、二年生の夏に競輪選手になることを決めた。そのことを自転車部のコーチに告げると、元競輪選手だったコーチは、清河を紹介してくれた。競輪選手には弟子をとる人と、とらない人がいる。清河は前者だった。自宅横につくった練習場を道場と呼び、そこに十一人の現役競輪選手と三人の競輪選手志望者が通っていた。話はすぐにまとまり、瀬戸は高校在学のまま、清河道場の一員となった。
 清河道場の練習は、瀬戸の想像をはるかに超えていた。厳しいと思っていた部活の練習だったが、道場でのそれと比べると、幼稚園のお遊戯並みでしかなかった。
 トラック競技では、一般道路での練習を街道練習と言う。バンク練習は広島競輪場でおこなわれるが、街道練習はメニューによって行く場所が変わる。山の中に入り、距離五キロ以上の急坂を固定ギヤのピストで登ることもある。入門して最初の街道練習が、この登坂訓練だった。ピストに前後ブレーキを装着し、まず三十キロを走って練習コースに行く。ギヤ倍数は四十八丁×十六丁の三・〇だ。部活のバンク練習は三・五七前後でやっていたが、アップダウンのある街道練習となると、そこまでギヤ倍数を落とす。
 この街道練習で、瀬戸は記憶が飛んだ。坂道でのダッシュ練習。四本目までは覚えている。だが、それ以降、何をしたのかは、いまに至るも思いだせない。気がつくと、瀬戸は清河道場の床に転がっていた。先輩たちに、ちゃんと自走して帰ってきたと言われたが、その記憶はまったくない。脚が痙攣(けいれん)し、腰から下の感覚もどこかに失(う)せている。立とうとしたが、立てなかった。結局、ピストと一緒に清河の車の後席に放りこまれ、全身硬直状態で、家に帰った。
 翌日は筋肉痛でのたうちまわっていたが、練習は休ませてもらえなかった。朝、清河が車で迎えにきて、広島競輪場に連れていかれた。このときも、ウォームアップを兼ねた五十周の周回練習以外の記憶がほとんどない。しかし、一キロメートルタイムトライアルの記録は残っていた。一分十五秒。競輪学校合格には、ほど遠いタイムだった。
 競輪学校には二度目の挑戦で合格した。
 入学して、競輪学校の練習があまりに楽なので、驚いた。記録会のタイムは順調に伸びていったが、競走訓練での成績はいまひとつだった。
「勝敗は無視しろ。とにかく先行して、逃げられる限り逃げる。それだけをやれ」
 そう清河に言われたからだ。
 同じように先行にこだわる同期のライバルがいた。
 名古屋の室町隆(たかし)だ。一発合格で入学してきた室町は一歳年下だったが、身長も体重も同期でトップという大型選手で、その走り方から入学と同時にダンプカーという綽名(あだな)をつけられた。
 ダンプカーの室町と瀬戸は、卒業記念レースまで、先行争いを繰り広げた。結果として、どちらも在校十位以内には入れず、卒業記念レースも準決勝止まりになった。
 卒業後、伊豆の競輪学校から広島に戻った瀬戸は、デビューまでの間、清河道場であらためて徹底的に鍛え直された。
 デビュー戦は、圧勝だった。二着の地元選手に四車身の差をつけて勝った。二戦目、三戦目も逃げ切りで勝利し、瀬戸は実戦初場所を完全優勝で飾った。
 瀬戸がS級に昇級したとき、清河がA級に陥落した。皮肉な入れ替わりであった。このおかげで、瀬戸は師匠の前を走る機会を逸した。特別競輪に師匠とともに出場し、先行して師匠をゴールまでひっぱりたい。瀬戸のその願いは、ついにかなわなかった。清河がS級に戻ることは、もうなかった。
「仕方がない」と、清河は笑った。
「俺んとこにくるのが、三年くらい遅かった」
 清河が引退する。
 いつか、その日がくることはわかっていた。それが、そんなに遠くない日であることも承知していた。
 しかし、いざ本当にその日がきてしまうと、瀬戸は自分でも驚くほどに動揺した。
「石は、俺の最高傑作だよ」
 雑誌で清河がそうコメントしているのを読んだことがある。
 師匠にそう言われると、反発する選手もいる。自分は自分で努力してここまできた。師匠につくってもらったわけではない。
 そのように思うらしい。
 瀬戸は違った。
 読んで、そのとおりだと納得した。
 S級にあがるまでは、ただ清河に言われるままに走ってきた。
 徹底先行。その指示を愚直に守りぬいてきた。
 S級にあがって十年目。壁に当たって勝てなくなり、捲りに転向するときも、瀬戸は清河に相談した。自分で勝手に決めることはしなかった。清河は一言「好きにやれ」と言っただけだった。だが、その一言が重かった。それがあって、はじめて戦法を変えることができた。気分を一新して、競輪に対峙(たいじ)することが可能になった。あの一言がなかったら、壁を越えられたかどうかわからない。越えたにしても、それはもう少し先になっていただろう。
「勝ちてえなあ」
 瀬戸は目をあけた。頭の中では、女性シンガーの歌声が大音量で渦を巻いている。
 グレードレース、むかしでいう特別、準特別競輪の決勝で瀬戸が勝ったことがあるのは、GⅡまでだ。GⅠは、全日本選抜競輪の三着が最高成績だ。三十歳だった。獲得賞金のランキングでKEIRINグランプリに出場できた。
 GⅠで、勝ちたい。勝って、またKEIRINグランプリにでたい。もちろん、今度はグランプリでも勝つ。そして、その勝利を師匠の引退のはなむけとする。
「臭い話だ」
 瀬戸は苦笑した。とんでもない人情芝居である。舞台かなんかで見せられたら、臭くて席を立ってしまう。とてもじゃないが、いたたまれない。そもそもGⅠの決勝もグランプリも、勝ちたいと思っただけで勝てるようなやわなレースではない。どちらも体験して、実感した。桁違いの実力と、尋常ではないツキ。そのふたつがそろって、ようやくなんとかなる。だが、なんとかなっても、かなうのはグランプリ出場までだ。グランプリで勝つには、もうひとつ、何かが要(い)る。
 何かとは、なんだ?
 見当もつかない。
「入ります」
 部屋に、選手がふたり帰ってきた。岡山の選手だ。丹那(たんな)と根見川(ねみかわ)。どちらも後輩で、あしたは第二レースと第四レースを走る。
 時計を見た。七時五十五分。マッサージの時間だ。
 瀬戸は、うっそりとからだを起こした。(続く)

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