見出し画像

人間観をアップデートする、哲学の知的冒険! マルクス・ガブリエル『倫理資本主義の時代』訳者あとがき

世界的哲学者、マルクス・ガブリエルによる初の「日本書き下ろし」となる著作、『倫理資本主義の時代』(斎藤幸平[監修]土方奈美[訳]、ハヤカワ新書)。

本記事では土方奈美さんによる「訳者あとがき」を全文公開します。中国哲学の研究や西洋哲学との比較を専門とし、またマルクス・ガブリエルとの親交も深い哲学者、中島隆博(東京大学東洋文化研究所所長)さんによるサポートとともに執筆され、本書の主張を理解するうえで重要なポイントが簡潔にまとめられている、この「あとがき」。「哲学界のロックスター」とも称され大きな注目を集める著者の実像から、「倫理資本主義」「道徳的事実」「エコ・ソーシャル・リベラリズム」といった本書を特徴づける数々のキーワードまでが、余すところなく語り尽くされます。


『倫理資本主義の時代』

著者:マルクス・ガブリエル

訳者:土方奈美

監修:斎藤幸平

出版社:早川書房(ハヤカワ新書)

発売日:2024年6月19日

本体価格:1,200円(税抜)

訳者あとがき


 私事になるがイタリアの高校に留学していたとき、必修で哲学(正確には「知の理論」)の授業があった。ヘーゲルやポパーなどの思想をもとに「何かを知っているとはどういうことか」を議論する。ヨーロッパの人というのは物事をここまで突き詰めて考えるのかと圧倒された。ふだんの勉強が水面に顔をつけるようなものならば、哲学は水深5メートルまで潜りにいくようなもの。そんな印象を受けた。

 本書を翻訳しながら一抹の懐かしさを覚えたのは、当時の感覚がよみがえってきたからだ。水深10メートルは潜った気がする。

 著者のマルクス・ガブリエル氏は「哲学界のロックスター」と呼ばれる。2009年に史上最年少の二九歳でドイツの名門ボン大学の哲学科正教授に就任し、新実在論で注目された。著書『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)は哲学書としては異例の世界的ベストセラーになっている。「哲学がかつて提示していた魅力を現代によみがえらせた人物」とガブリエル氏を評するのは、親交が深く共著『全体主義の克服』(集英社)もある中島隆博・東京大学東洋文化研究所教授だ。古代ギリシャ以来、社会や政治に深く関与し、より良い社会を目指すための提案をするのが哲学の伝統だった。しかし近代以降、特に大学のなかに取り込まれてからは社会からの乖離が進んだ。哲学は無用の用を旨とし、高尚かつ価値中立的な哲学学●●●をやっていればいいといった空気が強いなかで「それを軽々と乗り越え、哲学が生き生きとした、現実に関与する学問であることを私たちに改めて教えてくれるのがガブリエル氏だ」という。

=====

 ガブリエル氏はここ数年、倫理資本主義について積極的に発言・発信してきた。「倫理と資本主義は融合できる。資本主義のインフラを使って道徳的に正しい行動から経済的利益を生み出し、社会を大きく改善することは可能だし、またそうすべきだ」という主張である。それを初めて体系的にまとめたのが本書で、世界に先駆けて日本で出版される。

 極端な経済格差、環境破壊など資本主義の弊害を指摘し、改革を訴える声は経済学者のあいだからも出ている。哲学者が新たな資本主義のあり方を提唱する意義はどこにあるのか。「新しいビジネスモデルや社会契約は、哲学を検討に含めることで初めて可能になる」というのがガブリエル氏の考えだ。経済学者、政治学者、社会学者などには倫理的結論を導き出すことはできない。資本主義の副次的被害のうち、許容できるものとそうでないもの、すなわち善と悪を見分けるには哲学者の知見が必要なのだ、と。

 中島教授も「哲学者の立場から見ると、経済学など社会科学が前提としている倫理には批判的な吟味が足りないように見受けられる」と指摘する。倫理や道徳は両刃の剣であり、かかわり方を間違えると危うい道徳主義に陥る可能性がある。わかりやすい例が戦前の日本だ。18世紀の啓蒙時代から道徳の基礎づけに悪戦苦闘してきた哲学はこの点において一日の長があるという。

=====

 本書の前半は「倫理とは何か」「資本主義とは何か」といった基本的概念を定義したうえで、倫理と資本主義をリカップリングした倫理資本主義の思想を説明する。ガブリエル氏の倫理学でキーワードとなるのが「道徳的事実」だ。たとえば溺れている子どもがいたら、周囲にいる助ける能力のある大人は助けなければならない。ここにおいて溺れている子どもや助ける大人の国籍や性別や年齢などは一切関係ない。このような主観的意見や文化、社会的アイデンティティに左右されない普遍的な道徳的事実は確かに存在する。一見シンプルな洞察だが、自然と規範という二つの領域の橋渡しに苦慮してきた哲学界におけるブレークスルーだと中島教授は解説する。

 道徳的事実のなかには、まだ発見されていないもの、社会で広く認識されていないものもある。たとえば「奴隷制度は邪悪である」というのは今日では当たり前の道徳的事実だが、制度廃止までには数百年を要した。大多数の人々に見えていなかった道徳的事実が浸透し、悪しき制度の改革といった好ましい社会変化が起きること。それが道徳的進歩であり、資本主義はその推進力になるとガブリエル氏は見る。

 資本主義については経済活動の一側面、緩やかに結びついたいくつかの条件に過ぎないと看破し、今日人類が直面するさまざまな危機の原因を資本主義に帰そうとする風潮を戒める。その一方で今日の新自由主義的資本主義は新たな封建制ともいうべき状況を生み出しており、「資本主義らしさが足りない」と改革の必要性を認める。

 新自由主義の問題は、人間の自由は本質的に「社会的自由」であること、すなわち他者が存在しなければ実現しない自由であることを見落としている点にあるとガブリエル氏は指摘する。利己的利益の追求によって誰かの自由を奪うと、結局自分の自由を制限することになる。だから自由を求めるなら、他者の自由を広げなければならない。うまく機能している資本主義は知識を、そして新たな問題解決の方法を生み出す。そこに希望がある。こうして「道徳的価値と本質的に結びついた経済的剰余価値生産のあり方を考えることで、道徳的価値と経済的価値をリカップリングすることは可能であるし、そうすべきである」という結論が導き出されるのだ。

=====

 本書の後半では、倫理資本主義を包含する二一世紀の新しい社会ビジョン「エコ・ソーシャル・リベラリズム」へと議論を進め、それを実現するための具体的提案や思考実験を行う。たとえば子どもへの選挙権の付与だ。最大の理由として挙げているのは「道徳的進歩は往々にして子どもの介入によって起こる」という事実だ。子どもたちは当たり前とされる事柄に疑問を呈したりすることで、合理的とされる大人にいろいろなことを教えてくれる。子どもたちを単に庇護すべき存在ではなく、道徳的進歩の重要な推進力と見ているのだ。日本では最近、日本維新の会共同代表の吉村洋文・大阪府知事が、ゼロ歳児からの選挙権を党の公約に盛り込む方針を打ち出して話題を呼んだ。子どもが圧倒的マイノリティとなりつつある日本で、ガブリエル氏の提言は子ども選挙権という一見突飛な提案を吟味するうえで重要な示唆を与えてくれる。

 本書は有権者や消費者として社会や経済にかかわるあらゆる読者に向けて書かれているが、とりわけ企業社会に重要な投げかけをしている。「複雑な道徳的事実は実践を通じてのみ理解できる」とガブリエル氏は言う。日々企業活動に取り組むなかで新しい道徳的事実を見つけられる、そして人類を道徳的により良い存在にできる。生存にかかわる基本的な問題を解決するだけでなく、たとえばより良い企業文化など高次な問題にかかわる道徳的事実も、企業経営を通じて明らかにすることができる。「すべての企業に最高哲学責任者(CPO)が率いる倫理部門を設置せよ」という本書の提案は、その第一歩だろう。ビジネスは倫理学の実験室だという著者の主張は、企業人にとって激励であり挑戦状のようだ。

=====

「倫理資本主義は日本人にはなじみのある考え方ではないか」と中島教授は指摘する。近代日本経済の父と称される渋沢栄一の唱えた道徳経済合一の理念は、今も根強く残っている。古い啓蒙が提案し、主流派経済学の基礎となっている近代的な自立した個人という人間観に違和感を持つ日本の人々なら、倫理資本主義という主張を深いところで理解できるのではないか、というのが中島教授の見立てだ。ガブリエル氏が本書の第一読者として日本人を選んだ背景には、おそらくそんな直観があったのだろう。

 最後にひとつ注意喚起を。著者は倫理資本主義というビジョンをできるだけ多くの読者に届けるため、本書は哲学の素養がなくても読めるように書いたという。その一方で、哲学者として哲学的推論と論証の基本ルールを堅持したといい、「うまくバランスをとることができたかは、読者に判断していただくしかない」としている。訳者から見ると、本書は気楽に読める哲学風味の読み物ではない。現代社会の抱える複雑な問題に、ポピュリスト的なわかりやすい解を出す価値体系を提示するつもりはない、という記述もあるが、知的な横着をするなというのが本書を貫くサブテーマだと感じる。読者の皆さまにはヨーロッパを代表する知性の思考回路をたどる、水深10メートル級の知的冒険を楽しんでいただきたい。

 訳者あとがき執筆にあたり取材を快くお受けくださった中島氏のほか、翻訳の監修をお引き受けいただいた東京大学大学院准教授の斎藤幸平氏、日本オリジナルの本企画を実現させたタトル・モリ エイジェンシーの玉置真波氏、早川書房書籍編集部の一ノ瀬翔太、石川大我両氏にも大変お世話になった。この場を借りて感謝を申し上げる。

2024年5月 


〈本書の目次〉

はじめに
企業の目的は善行である/SNSの問題/必要なのは革命ではなく、大胆な改革/民主的な本

第1部 哲学者、経済を考える

第1章 「倫理」「資本主義」「社会」を定義する
「倫理」とは何か/テロリストとの対話が不可能な理由/「それぞれに正義がある」を超えて/「資本主義」とは何か/自由市場と国家/「社会」とは何か/経済と社会は同一ではない/倫理資本主義という考え方/本書の目的/エコ・ソーシャル・リベラリズム

第2章 入れ子構造の危機──現状の複雑性
資本主義が悪いのか?/「近代」の概念をアップデートする/「自由」、そして「自律性」/社会的自由──自由は個人だけの問題ではない/物質的成長の限界/新自由主義に与せずに、資本主義を防衛する/「共生」という思想/資本主義の柔軟性/人間の解放/未来を構想する──最高哲学責任者、子ども、AI

第2部 倫理資本主義

第3章 経済学の危機
マルクス以来の悪評/問題よりも多くの解決策を生み出してきた/アダム・スミスの『道徳感情論』/お金は翻訳ツール

第4章 道徳的価値と経済的価値をリカップリングさせる──新しい啓蒙への道
余剰価値生産の謎/私的保有と集団的保有/万国の人間よ、団結せよ!/倫理的洞察へのアクセス/COVID‐19の倫理学/道徳的に優れたビジネスは富を増やす/いかに問題を解決するか?

第5章 ヒトという動物──協力を最優先する
人類学的多様性/競争至上主義から協力至上主義へ/社会の複雑さと自由/ウイルス学的要請/「邪悪な協力」もある/社会的構築がすべてではない

第6章 道徳的進歩と持続可能性
「道徳的事実」の正しさ/倫理学のヒューリスティックスに欠かせない要素/生活の質を量的にはかるには/道徳的進歩にかかわる実在論/「倫理的中立性」は存在しない/戦争犯罪の邪悪さ/今日における「最高善」/SDGsの本質/消費主義社会の克服と倫理資本主義の実装

追伸:物象化としての「資本主義」
資本主義はシステムとして理解できるか?/啓蒙思考の価値/倫理資本主義に移行するためのヒューリスティックス/小結

第3部 応用篇

第7章 CPOと倫理部門
倫理部門の機能/もしも、フェイスブックに倫理部門があったら……?/新たな市場が生まれる

第8章 子どもたちに選挙権を!
「大人主義」という差別/真に普遍的な選挙権/子どもの想像力が未来を変える/日本におけるジェンダーとダイバーシティ

第9章 形而上学的パンデミック──欲望をコントロールする
新型コロナの封じ込めの成功が意味するもの/「形而上学的パンデミック」が必要だ/禁欲は無理、では「ほどほどの生活」なら?/経済成長のありかたはひとつではない

第10章 次世代のAI倫理 
「人間として生きる」とはどういうことか?/次世代のAI倫理の前提条件/AIから真の利益を得るために

結論

謝辞

訳者あとがき

〈著者略歴〉

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)
1980年ドイツ生まれ。哲学者。200年以上の伝統を誇るボン大学の哲学科正教授に史上最年少の29歳で就任。西洋哲学の伝統に根ざしつつ、「新実在論」を提唱し世界的に注目される。スタンフォード大学人文科学センター国際客員研究員などを兼任。NHK Eテレ「欲望の時代の哲学」などテレビ番組にも多数出演する。『なぜ世界は存在しないのか』『「私」は脳ではない』『新実存主義』ほか著書多数。本書は著者初の日本書き下ろし。

©Peter Baranowski

〈監修者略歴〉

斎藤幸平(さいとう・こうへい)
1987 年生まれ。経済思想家。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。著書に『ゼロからの『資本論』』、『人新世の「資本論」』など。監訳書にガブリエル&ジジェク『神話・狂気・哄笑』(共監訳)。

〈訳者略歴〉

土方奈美(ひじかた・なみ)
翻訳家。日本経済新聞記者を経て独立。訳書にファデル『BUILD』、スローマン&ファーンバック『知ってるつもり』(以上早川書房刊)、アイザックソン『レオナルド・ダ・ヴィンチ』など多数。

〈書籍概要〉

  • 書名:『倫理資本主義の時代』

  • 著者:マルクス・ガブリエル

  • 訳者:土方奈美

  • 監修:斎藤幸平

  • 出版社:早川書房(ハヤカワ新書)

  • 発売日:2024年6月19日

  • 本体価格:1,200円(税抜)