不要不急でもない19篇――『ポストコロナのSF』総解説 文:飛浩隆
2021年春、いまこのときに向けた小説アンソロジー『ポストコロナのSF』が発売されました。寄稿者のひとりであるSF作家の飛浩隆さんがTwitter上で行った、収録作の総解説をお届けします。飛さんご自身の作品については樋口恭介さんにご紹介いただきました。
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こないだ「みんな、短篇についてもっと語ろうぜ」みたいなことをつぶやいた手前、収録作ぜんぶについてひとことずつ書いてみたいと思います。とりあえず前半まで。
■最初は、小川哲「黄金の書物」。翻訳をなりわいとする「私」は、友人から紹介された人物とシュトゥットガルトの空港で遭い、二冊の本を日本に運んでほしいと頼まれる。これは晩餐の最初に出される、ミステリアスなひと匙のアミューズ。長い導入から本題が進みはじめるまで、「この料理はどの味覚へ行きつくのだろう?」と想像しながら舌触りを楽しんでいると、予想外の芳香があふれだし読み手を翻弄し、それも一瞬で消える。よく統制された逸脱、と矛盾した形容を与えたくなる。このクオリティを余裕で出している気配が心憎い。
■伊野隆之「オネストマスク」で、語り手の「僕」は、コロナ禍下の企業が導入したディスプレイ機能を持つマスクを支給される。本作は、オールドスクールの正統派でありながら、しかし技術描写のディテイルと、そしてなにより語り手が抱くいたたまれなさ、憔悴感は、まさにいま現在の我々の苦しさだ。
■高山羽根子「透明な街のゲーム」。おれが参加している「ゲーム」は、素人参加型リアリティ・ショーで、プレイヤーは都市封鎖中の街中へ出かけ、「きょうのお題」に合わせた作品を作る。ひとのいない街、配信クリエーション、フードデリバリーといった素材を組み合わせつつ、ぞっとするような岐路へと読者を連れていく。後半に出てくるシンボリックなイメージは、やはり…あの…あれのキービジュアルですね?
■柴田勝家「オンライン福男」。西宮神社の十日戎で有名な福男選び、コロナ禍が落ち着いた後も毎年行われる仮想競走の、10年以上にわたる歴史を振り返る。ナレーション原稿みたいな落ち着いた語り口とたっぷりなくすぐりを楽しみつつ、お正月気分あふれるホラのエスカレーションを味わっているはずだったのに、なぜか、こう…え、俺なんでホロリと来てるの? ごめ、ハンカチ取ってくる、となった。
■若木未生の作は、10年後の高校生の夏休みに寄り添う。親しい二人は、ちょっとした内緒を抱えてスーパー銭湯に向かう。すくすくと伸びていくかれらの感情に、読み手の背すじも伸びるようだ。「熱夏にもわたしたちは」という表題に続くことばはなにか? それは物語の終わりでそっと私たちにも手渡される。
■柞刈湯葉「献身者たち」は、国境なき医師団に加わった医師の仕事と視線を通じて、読み手を中東へ連れていく。途上国でCOVIDの蔓延を許せばそれは変異株を生み、制圧したはずの先進国を襲う。この問題の解決策としてかつて生まれた技術が本篇の背景をなす。語り手の「私」は紛争地域の只中である人物と出会い、事件が起こる。そこで突きつけられる課題はずっしりと重い。緊迫した状況の中で、「私」が別の人物に掛ける言葉の、縋るようなトーンが胸を抉る。
■林譲治が書くのは、いちどは捨てた故郷へ戻ってきた男が金に困って、とある葬儀に「代理出席」するエピソードだ。移動が抑制される状況下でひとびとはネットで代理参列者を探す。請け負い人は、依頼人の顔を浮かび上がらす仮面デバイスを着けて式場におもむく。この「仮面葬」の背後にある社会の(なんとも地に足のついた)ディテイル、屈託を抱えた主人公の心理の推移と、ささやかなクライマックスの先に獲得される認識の苦々しさが読みどころとなる。
■そうした苦々しさは、菅浩江「砂場」にも読み取れる。感染症がひとびとの認識と行動を塗りかえたあとの、公園の砂場にあつまる子どもとママ友、パパ友の姿がまず活写され、「清潔さ」についての我々の思考様式がさまざまに検分される。この情景に溶け込みつつ、それを観察するようでもある語り手はいったい何者なのだろう? その疑問は、後半の思いもよらぬ展開の中で明らかになり、SFとしての飛躍を通過したあとで、生命とは常に環境と対峙するものであることについて、読み手は深く考え込まされることになる。
■「粘膜の接触について」で、津久井五月は人と人の接触、就中セックスの問題に触れる。冒頭、高校生の主人公は「おまえも大人だからな」という父親から「6個入りのスキン」を渡される。それはわれわれが思いえがく「スキン」とはまったく異なるデバイスだ。作者はこのデバイスが生み出す時代の行動様式を通して「接触」をめぐるさまざまな検討と思索をくりひろげ、そこに生きる人びとの苦悩を素描する。ラストにはだれしも驚くだろうが、その「遠さ」にもかかわらず私たちがよく知る「さびしさ」も漂う。人と接することはなんであんなにも淋しいのだろう。
■立原透耶「書物は歌う」は、ここまでの収録作とはがらりと趣を変え、幻想味と寓話性が前面に出ている。大人がひとりもいなくなり、文明が途絶え、電気も使えない時代。「ぼく」はある日、遠くから聞こえる「歌声」に気づき、旅をはじめる。そこで出会うものの異様さに読み手は驚くことになるが、その後につづく一種の「遍歴」には愉しさを感じるだろう。ステイ・ホームがそのまま「旅」ともなる世界がひらけている。
以上、前半でした。ここまででもそのバラエティにびっくりですけど、さらに後半はエンジンをめいっぱい噴かして「いまここ」からぐんぐん離れていきます。一作30枚程度なのでどんどん読める。
■飛浩隆「空の幽契」はあらゆるものの中心を描く。それは空と陸の、過去と未来の、虚構と現実の、事実と事実でなかったものの中間だ。書かれたものはこれから書かれる続きのために反復されるが、書かれるはずだった続きは既に失われている。しかし、すべてが失われてしまったわけではない。それはあたかも、本書のちょうど中間地点に置かれた本作が、本書の前半と後半をつなぐ役目を果たしているように。そう。思えば解は始めから用意されていた。幽契とは何か。それは神との約束だ。人は人のみで生きるのではない。人はなぜ、架空と知りながら物語を書くのか。それは、空に橋を架けることで、神と約束を交わすためだろう。神を知ることで人は人になる。こうして「空の幽契」は、新たな物語を語り始める。(樋口恭介)
■津原泰水が聞かせてくれるのは異境の異響である。ハナル国の伝統音楽イム。それを奏でるのは同名の青銅器楽器イム。本作「カタル、ハナル、キユ」は非平均律たる「イム七音階」の説明からはじまり、やがてこの地に長く滞在したロシア人著述家ザハロフの目を通して、イムの奏法につうじた「日本人」ミノルタに接近していく。短い文章でこの作品を紹介するのはとにかく難しい。架空文化の描写はモザイク紋様のように精緻で魅惑に満ち、そこに感染症、野生生物の影が差し、イムの楽譜の正体があかされるに至って、この小品は人生と音楽そのものをすっぽりと掌中に収めてしまうかのようだ。
■舞台ははるか遠く、木星の大気鉱山へ飛ぶ。藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」はトラムの停留所に並んでいた通勤客たちを「木星嵐」が襲う場面からはじまる。しかし住人が怖れるのはガンマ線のダメージではない。「その後に来るもの」、だ。病原微生物でないものが引き起こす「感染症」とは? それにしても太陽系にひろがった人類社会の描写とその生活実感は素晴らしい読み物だ。登場人物たちの食事場面は「きのう何食べた?」っぽくもある。
■長谷敏司「愛しのダイアナ」は、さらに手の届かない場所を舞台にする。人類がみずからをサーバにアップロード化した時代の家族のお話しだ。主人公イワンはひそかに家に持ち込んだ「いかがわしいコンテンツ」を妻に見つかりとっちめられる。そこへ助け船を出すのは利発なダイアナ、両親がデザインし丹精込めて育てた愛娘だ。現実とデータ世界をともに侵す感染症下の状況を通じて描かれるのは(無限の人格コピーが可能になったとき何が起こるかの思考実験も含め)現代社会のカリカチュアであると同時に、「機会をうばわれる若者」の静かな怒りであり、その率直さとポジティブな力強さに胸を打たれる。
■アマサワトキオが天沢時生と名前を改め、へー心を入れ替えてまじめなお話しを書くのかなと思ったら、場末のコロニーで伝説のやくざが濡れタオルで磨崖仏を彫るっていうんだから(それさえほんの一コマ)、あいかわらずでした。ディテイルをぎっしり詰め込みながらまったく停滞しない、というよりはディテイルのひとつひとつが可燃性の高い推進剤になって否応なく話が前に進む(ケツに火をつけながら的に)という作風は「赤羽二十四時」とも共通する。しかし俺がいちばん笑ったのは宮本道人のマエセツだった……。しかし「この道」を極めるのと平行して、そろそろ「しんみりしたやつ」とか「死ぬほど怖い話」とかも見せてほしい(そっちもうまいのがわかってるので)。あっ、タイトルを挙げ忘れてました。「ドストピア」どす。
■「レトロネイザル」とは、鼻孔の前方からではなく、口の中でたちのぼる匂いに反応する嗅覚を指す。嗅覚の鋭いとされる動物より人間はこの能力、つまり「風味」の解像に秀でていると吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」は語る。生物兵器の後遺症で嗅覚をうしなった「私」は、特命を帯び特殊部隊とともにマレー半島北部を訪れる。料理の香りでコミュニケートする少数民族の元へ「白紙の嗅覚」を持つ私が遣わされた理由は何か? 物語は、「私」が心酔する元上官に書き送る四通の恋文の体裁をとる。愛と戦争。謀略と官能。「地獄の黙示録」と「戦場のメリークリスマス」を泥水で溶かし合わせたような(乱暴)一作。
■小川一水の「受け継ぐちから」の舞台はざっと千年以上(推定)の未来。とある星系の宇宙ステーションは忽然と出現した民間宇宙船からの救難信号を受信。軍医中尉のおれは医療ロボを連れて赴く。乗員は二人の重症患者と、ひとりの少年。しかし患者のウイルスは82年前を最後に確認されていない型だった。我々はCovid に打ち克てるのか。そもそも「打ち克つ」とはどういうことなのか。本作はこの問いを突きつけ、そして笑顔で励ましてくれる。これはもう「生粋の一水」と快哉を上げたくなる、少年の拳のような若々しさと力強さを湛えた一篇。
■Covidー19の今後の展開について、集中もっとも悲観的なヴィジョンを樋口恭介は示す。「愛の夢」の語り手は、人類がことごとく「眠り」についた未来で、文明と人類を守るネットワーク知性の一ノードだ。しかしなぜ機械知性がにんげんの言葉でこの(本作という)テキストを書き出しているのか? その答えを先送りしつつ、物語は人類のひとりが「眠り」から覚め、ノードと対話するその場に読み手を立ち会わす。ある決断が為されたあとの、長い長い後奏のごとき——あるいは本書のすべての作品のエンドロールのごとき言葉のながれに耳を澄まそう。
■エンドロールの最後の文字が上方へ消え去ったあと、舞台袖からひとりの演者が飄々と現れ、100文字からなる小咄を語りはじめる。北野勇作による70篇もの超短篇「不要不急の断片」は、新型コロナウイルス感染症に翻弄されたこの間の風景と心情を、超高性能のトイカメラでスナップした切手大の写真集のようであり、そう見せかけてその背後にふつうではぜったいに見ることのできない何かが写り込んでいたり、いや、そもそもこれは、いま現在はおろか地球上のことなのかどうかさえ実はあきらかでない。読み手は、目を見ひらいたり眇めたりしながらこの点綴をたどり、さいごにはやはり深い共感のため息を漏らす。
ちょっとでも琴線に引っかかるものがあったら、週末のお供にぜひ、お手にとってご覧ください。しばらくは電書の発売はないそうですし。
序文は、書き手と読み手、そしてこの状況を生きるすべての人に向けた日本SF作家クラブ池澤春菜会長のエール。巻末には、林譲治前会長とともにSF大賞実施を含む難局に当たった鬼嶋清美先代事務局長の淡々としつつもアツい手記、最終ページには真のスタッフロール。みなさま引き続きへこたれずやっていきましょう!