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この文字列を読んでいるあなたの脳でいま起きていること、あるいはリアルの虚構性

by早川書房ノンフィクション編集部

ノーベル賞作家のジョゼ・サラマーゴは、『白の闇』(雨沢泰訳)で失明のパンデミックを描いた(新型コロナウイルスが世界的に蔓延する社会状況に合わせたのかどうか、本書は3月5日に河出文庫より文庫化された)。

作中、感染者を診察することで自身も感染・失明した目医者の男は次のように内言する。

目が見えないため、病人の肌の青白さや、毛細血管の充血による赤みに気づくこともできない。細かい検査をしなくても、こうした外見上の徴候から病気がわかることはよくあることだし、臨床医学の歴史全体からその有用さは証明されている。粘液や皮膚の色が、正しい診断を下すあらゆる可能性を持っていると言ってもいい。

この不運な目医者は、理論神経科学者マーク・チャンギージーが『ヒトの目、驚異の進化――視覚革命が文明を生んだ』(柴田裕之訳。奇しくも『白の闇』と同日にハヤカワ・ノンフィクション文庫より文庫化された)の第1章で提唱する仮説をそっくり裏返したような存在だ。

チャンギージーによれば、私たちの目は一種のテレパシー能力を備えていて、相手の肌の色を通じて、感情や体調を精確に読み取ることができる。「人間の目は肌の色の変化を見て取る目的で進化してきたのだが、それに気づきさえしないまま、長年のうちに、臨床医学が私たちの天然のオキシメーター(酸素飽和度計)の能力を活かすように進化してきた」。

ヒトの目、驚異の進化_帯

目の機能に合わせて臨床医学の側が「進化」したのであり、その逆ではない――このロジックは第4章で再び用いられ、「文字は自然を模倣して作られた」という最驚の知見を導くことになる。

どういうことか。

第一に、アルファベットや漢字をはじめとする各種文字について、字形を構成するLやXなど「文字素」の出現頻度を調べると、驚くべきことにすべての文字でよく似た分布を示す。どうやら、人類はみな同じ文字を読み書きしているらしい!

では、その理由は何か? 自然界における文字素(と同型の輪郭線)の出現頻度が、先ほどの分布とやはり一致するというのだ。これはチャンギージーによれば、自然環境を認識するという本来の目の機能に合わせて、文字の形状が進化した結果である。「自然淘汰は、目が自然界のものを上手に処理できるようにした。そこで、文化は自然界のものと似た特性を持つ視覚的記号を進化させた。目ができるかぎりうまく処理できるように。」

図13

【『ヒトの目、驚異の進化』p. 298より。詳しくはぜひ本文をあたってみてほしい。なお、この仮説は東浩紀+石田英敬『新記号論』(ゲンロン叢書)のなかで紹介され、話題を呼んだ。東さんは「心底驚きました」「これは本当に感動的な研究ですね」と驚嘆を述べていて、熱い帯コメントを頂きました。石田さんには、巻末解説を寄せて頂きました→こちら

さて、チャンギージーのこうした考察から思い知らされるのは、視覚のフィクション性である。私たちは光の波長と量を「色」として認識し、文字の背後に自然を見ている。そうとは気づかぬままに。だとすれば、人為的に操作したり、拡張したりすることもできるのでは? SF作家のグレッグ・イーガンが「七色覚」(『ビット・プレイヤー』山岸真編・訳、ハヤカワ文庫SF所収)で描いたのは、まさにそんな世界だ。

ビット・プレイヤー_帯

主人公の少年ジェイクは、自身の人工網膜に、正常な生体では赤・緑・青の3種からなる錐状体セットを7種に増やすような改変を施し、「生物学的な色覚以上の色覚」を得る。

父さんの顔はまるで発疹ができているかのようで、ほぼ左右対称に両頬が赤くほてり、ロールシャッハ・テストのような染みがこめかみを飾っていた。その結果、父さんの顔はテレビ番組のひどいエイリアンのメーキャップにどうしようもなく近いものになっていて、一方、母さんと姉さんはそれと大差ない仮面にさらに趣向を凝らしたものをかぶっていた。いつものぼくなら気づくことのない、ふたりがじっさいにしている化粧が、化粧の過程を一種のフィンガーペイントだと思って自分でもやりたがった四歳児の手になるもののように見えた。

こうなると、私たちが見ている世界、「生物学的な色覚」の世界の絶対性は揺らいでしまう。ジェイクの見ている「七色覚」の世界が、「より正しい」のではないか? ジェイクはもともと網膜に遺伝的な「異常」があり(彼の祖父は同じ異常により失明している)、「正常」な視力を保つために人工網膜を使っていた。色覚が拡張された今、正常/異常は逆転した。

ぼくの目の前にある世界は、まぎれもなく、世界がそう見えるべき姿に違いはなく、それに手の届かない人々は、空っぽの眼窩にガラスか石が詰まっているも同然に、無力で気の毒なのだ。

現実対虚構ではなく、現実がそもそも虚構で、可変。視覚性失認症により「妻を帽子とまちがえた男」(オリヴァー・サックス)ならずとも、あなた自身の脳と目が、その虚構を作り出している――この文章を読んでいる、いまこの瞬間にも。

ヒトの目、驚異の進化

早くも4刷! マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化――視覚革命が文明を生んだ』(柴田裕之訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、本体1060円+税)は早川書房より好評発売中です。

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