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人生を選べ――平凡な父親/凄腕の殺し屋、2つの顔をもつ男の場合。ゴンクール賞受賞小説『異常【アノマリー】』試し読み

フランスでは最高峰の文学賞ゴンクール賞を受賞し、アメリカではエンタメとして高く評価される、異例の傑作小説『異常【アノマリー】』(エルヴェ・ル・テリエ、加藤かおり訳)。
2月2日より、紙と電子書籍を発売します。
ここでは、その冒頭を公開します!

『異常【アノマリー】』
エルヴェ・ル・テリエ 加藤かおり 訳
早川書房 2月2日発売
装画:POOL 装幀:早川書房デザイン室

【あらすじ】
「もし別の道を選んでいたら……」
良心の呵責に悩みながら、きな臭い製薬会社の顧問弁護士をつとめるアフリカ系アメリカ人のジョアンナ。
穏やかな家庭人にして、無数の偽国籍をもつ殺し屋ブレイク。
鳴かず飛ばずの15年を経て、突如、私生活まで注目される時の人になったフランスの作家ミゼル……。

彼らが乗り合わせたのは、偶然か、誰かの選択か。
エールフランス006便がニューヨークに向けて降下をはじめたとき、異常な乱気流に巻きこまれる。

約3カ月後、ニューヨーク行きのエールフランス006便。そこには彼らがいた。誰一人欠けることなく、自らの行き先を知ることもなく。

圧倒的なストーリーテリングと、人生をめぐる深い洞察が国際的な称賛をうける長篇小説。

第1部 空ほどに暗く [2021年3月~6月]


ブレイク

人を殺すのは、たいしたことじゃない。必要なのは、観察し、監視し、熟考することだ。それもたっぷりと。そしてここぞという瞬間に、無を穿つ。そう、それだ、無を穿つ。世界がどんどん収縮し、銃身に、あるいはナイフの切っ先に集約されるよう工夫する。ただそれだけ。問いを発してはならない、怒りに身を任せてはならない。手順を選び、作法どおりにふるまう。ブレイクはやり方を心得ているし、しかもそれがあまりにも昔からなので、いったいいつそうしたことを身につけはじめたのか、もはやわからない。そしてその後の所作は、おのずとひとりでになされる。

ブレイクは他人の死で食い扶持を稼いでいる。どうかここで人の道を説くのはご遠慮願いたい。倫理をめぐる議論になったら、ブレイクは統計値を持ち出すつもりだ。というのも――悪いが、言わせてもらうぜ――保健大臣が予算をケチり、こっちではCTスキャンを、そっちでは医師を、さらにあっちでは蘇生室を、と削っていくのは、ブレイクが思うに、見知らぬ何千人もの命を大幅に縮める所業にほかならないからだ。けれども世のつねで、大臣に責任はあるが、罪はない。ブレイクの場合はその逆だ。だがどちらにしても、彼には弁明する義務はないし、弁明する気もさらさらない。

人殺しに大切なのは、資質ではなく気質だ。心の態様とも言えるだろう。当時ブレイクは11歳で、まだブレイクとは名乗っていない。彼は母親のとなり、ボルドー近郊の県道を走るプジョーの助手席に座っている。さほどスピードは出ていない。そこに犬が1匹現われて、道を横切ろうとする。衝撃で車がわずかにスリップした瞬間、母親が叫び声をあげ、ブレーキを踏む。目一杯踏みこんだせいで車体がジグザグに揺れ、エンストする。いいこと、車のなかにいるのよ、ああ、どうしましょ、車から出ちゃだめ。ブレイクは言いつけを無視し、母を追って車外に出る。灰色の毛のコリー犬で、ぶつかった衝撃で胸が潰れ、路肩に血が流れている。けれどもまだ死んではいない、うめき声をあげている。赤ん坊がめそめそ泣くような声だ。母はパニックに陥って右往左往し、ブレイクの両目に自分の手をあてがい、支離滅裂な言葉を口走り、救急車を呼ぼうとする。でも、ママ、犬だよ、ただの犬だってば。犬はひび割れたアスファルトの上で喘ぎ、折れてねじれた身体を妙な角度に曲げ、どんどん弱々しくなっていく痙攣に身を震わせ、ブレイクの目の前で息絶えようとしている。そしてブレイクは、犬から命のともしびが消えていくのを好奇のまなざしで見つめている。やがて犬は絶命する。ブレイクはほんの少しだけ悲しみを演じる。というか、彼が悲しみと想像するものを表現する。母を困惑させないように。けれども、実際にはなにも感じていない。母はその場で、小さな亡骸の前で、いつまでも凍りついている。ブレイクはしびれを切らし、母の袖を引っ張って言う。ママ、行こう、突っ立ってたってなんにもならないよ、もう死んじゃったんだから、ねえ、行こうよ、サッカーに遅れちゃう。

人殺しにはスキルも求められる。ブレイクは必要なスキルが漏れなく自分にそなわっていることを、シャルル叔父に狩りに連れていってもらった日に自覚した。3発で、ウサギ3匹。これを才能と呼ばずして、なんと呼ぶ? 彼はすばやく正確に狙いを定め、目もあてられないおんぼろのカービン銃でも、まるで手入れがなされていない鉄砲でも見事に使いこなす。縁日の祭りでは女の子たちが彼のあとをついてまわる。ねえねえ、あたし、キリンが欲しいな、ゾウが、ゲームボーイが、そう、それそれ、もいっかい、それお願い! そうしてブレイクはぬいぐるみやゲーム機を配り、射的屋泣かせの存在となったあと、今後は目立たずこっそりやろうと決める。ブレイクは叔父が手ほどきしてくれるほかのもろもろの事柄も好きだ。シカの喉を切り裂くのも、ウサギの皮を剥ぐのも。とはいえ、はっきりさせておこう。ブレイクは殺すことには、手負いの動物にとどめを刺すことにはなんの喜びも感じない。彼は倒錯した悪人ではない。そうではなく、彼が魅了されるのは、技術に裏づけられた所作、繰り返しによって身につくスムーズで流れるような型(ルーティン)だ。

20歳のブレイクは、リポウスキー、ファルサティ、あるいはマルタンといったきわめてフランス的な名前(訳注:リポウスキーは1900年代に始まったポーランド移民、ファルサティは1950年代のマグレブ移民を象徴する名前)を名乗り、アルプス山麓の小さな町の料理学校に通っている。断っておくが、これは決してやむにやまれぬ選択ではない。というのも、彼ならなんでもできたはずだから。電子工学もプログラミングも好きだったし、外国語を学ぶのも得意だった。ほら、たとえば英語にしても、たった3カ月間、ロンドンの〈ラングス〉のクラスに通っただけで、ほぼ訛りなしで話せるようになった。けれどもブレイクがなにより好きなのは料理で、レシピにある料理をつくっている無のひととき、厨房の慌ただしい喧騒のただなかにあってもゆったりと流れる時間、鍋のなかで溶けるバターを眺め、白ネギを煮詰め、スフレを膨らます長い静かな一刻を気に入っていた。香りやスパイスも好きだし、皿のなかに色と味のアレンジメントをつくり出すのも好きだ。というわけで、学校一優秀な生徒になってもおかしくなかったのだが、ったく、リポウスキー(あるいはファルサティ、もしくはマルタン)のくそめ、お客にもう少し感じよくしたってバチはあたらんだろうに、料理人ってえのはな、サービス業なんだよ、サービス業、おい、聞いてんのか、リポウスキー(あるいはファルサティ、もしくはマルタン)!

ある晩、あるバーで、したたかに酔ったある男が、別のある男を殺してほしい、と彼に持ちかける。その男にはおそらく、そう願うだけの理由があるのだろう。仕事がらみか、あるいは女がらみの。だがブレイクには理由などどうでもいい。

「やってくれるか? カネは払う」

「あんたはイカれてる」ブレイクは言う。「完全にイカれてる」

「カネは払う。大枚だ」

そう言って、男はゼロが3つついた額を提示する。ブレイクは鼻で笑う。

「まさか。あんた、冗談ほざいてんのか?」

ブレイクは時間をかけてゆっくり飲む。男がバーのカウンターに突っ伏し、ブレイクは彼を揺すって言う。

「いいか、聞け、おれは殺しをするやつを知っている。ただし相場は、あんたの提示額の2倍。直接会ったことはない。明日、そいつに連絡する方法を教えてやる。だがそのあと、おれにこの話は二度とするな、いいな?」

そしてその夜、ブレイクはブレイクをつくり出す。ウィリアム・ブレイク(訳注:イギリスのロマン派詩人、画家)にちなんで。というのもブレイクは、アンソニー・ホプキンスが出ていた映画『レッド・ドラゴン』を観たあと彼の作品を読み、この詩を気に入ったからだ。〈危ない世界に飛びこんじゃったよ/無力で、まっぱだかのまま、おぎゃあと泣くだけ/雲に隠れた悪魔みたいに〉(訳注:「幼子の嘆き」より)。それに〝ブレイク〟は黒い湖(ブラック・レイク)、つまり得体の知れないノワールな湖(ラック)を連想させ、なんとなく楽(ラク)に生きられるように思えたからだ。

翌日には早くもジュネーブのネットカフェで、北米のサーバーを使って〈blake.mick.22〉なるユーザー名のメールアドレスがつくられる。ブレイクは中古のノートパソコンを見知らぬ男から現金で買い、古いノキアの携帯電話とプリペイドカードと、カメラと望遠レンズを手に入れる。装備をととのえると、この見習いコックはバーで知り合った男に〝ブレイク〟の連絡先を伝える――〝このアドレスがまだ使えるかどうか、保証の限りじゃないがな〟。そして待つ。3日後、件の男がくだくだと長ったらしいメッセージを送ってくる。警戒しているらしい。質問攻めにし、弱点を探ろうとしているのだ。返事をよこすまでに丸1日あいだをあけることもある。ブレイクは標的、必要なブツの手配、納期について説明し、慎重にことを進めようとするその姿勢に相手もついには安心する。ふたりは合意に至り、ブレイクは報酬の半額の先払いを要求する。前金だけですでにゼロが4つつく額だ。だが先方が〝自然死〟を装うよう指示してきたので、ブレイクは報酬を2倍に釣り上げ、1カ月の納期を要求する。男はいまや相手がプロだと納得ずみなので、つべこべ言わずに要求をすべてのむ。

とはいえ、これは初仕事であり、ブレイクはあれこれ算段する。彼はすでにきわめて緻密で、慎重で、想像力旺盛だ。彼は何本もの映画を観ていた。ハリウッドの脚本家に殺し屋がどれほど世話になっているか、想像もつかないだろう。ブレイクは殺し屋稼業に手を染めた当初から、報酬や契約にまつわる情報を受けとる際には、ブツをビニール袋に入れ、バス、ファストフード店、工事現場、ごみ箱、公園など彼が指定した場所に置き去りにさせる方法を採用する。かえって人目につくようなあまりにもうら寂しい場所や、取引相手を見失ってしまうようなあまりにも混雑した場所は避ける。彼は指定した場所に何時間も前に赴き、周囲に目を光らせつづける。手袋、フード、帽子、メガネを着用し、髪を染め、カツラの被り方、頬のくぼませ方や膨らませ方を学び、さまざまな国のナンバープレートを何十枚も持つことになる。年月とともにナイフ投げの技術――距離に応じてハーフスピンまたはフルスピン――のほか、爆弾のつくり方やクラゲから検出不能な毒を抽出する方法を習得し、ものの数秒で9ミリブローニングやグロック43を分解して組み立てる技を身につけ、追跡不能な暗号通貨〈ビットコイン〉で支払いを受けたり武器を買ったりするようになる。ディープウェブにサイトを設け、ダークネットの達人になる。というのも、ネット上にはありとあらゆる分野の指南書が必ず存在するからだ。あとはただ探しさえすればいい。

というわけで、ブレイクのターゲットは50代の男だ。相手の写真は入手ずみだし、名前も知っているが、あえて〝ケン〟と呼ぶことにする。そう、バービー人形の夫の名前。うまい呼び名ではないか。ケンにしておけば、生々しさが薄れる。

ケンは独り暮らしだ。幸先がいい、とブレイクは思う。既婚者で3人の子持ちでは、どうやってチャンスをつくればいいのかわからない。ただし50代となると、自然死の選択肢は限られる。自動車事故、ガス漏れ、心臓麻痺、転倒事故、そんなところか。だがブレイクはまだブレーキに不具合を仕込んだり、ステアリングに小細工したりする方法を会得していないし、心臓麻痺を引き起こす塩化カリウムの調達方法も知らないし、かといってガスによる窒息死はなんとなく気が進まない。というわけで、転倒事故でいくしかない。なにしろ年間1万人が死んでいる。そのほとんどが年寄りだが、なんとかなるだろう。それにケンは筋骨たくましいタイプではないが、取っ組み合いをするなど論外だ。

ケンはアネマス近郊の戸建て集合住宅の一階にある2LDKに住んでいる。3週間かけてブレイクはひたすら観察し、計画を練る。前金を使って古いルノーのバンを購入し、シート、マットレス、照明用の予備バッテリーなどでざっと装備をととのえ、住宅地のそばの高台にある閑散とした駐車場に陣取る。そこからだとケンの自宅が見える。彼は毎朝8時半に家を出てスイスとの国境を越えると、19時頃に帰ってくる。週末に女が訪ねてくることもある。10キロほど離れたボンヌヴィルに住むフランス語教師だ。ケンの行動パターンが決まっていて、スケジュールを先読みしやすいのは火曜日だ。普段より早めに帰ってくるとジムに直行し、2時間後に戻ってきて20分ほど浴室で過ごし、そのあとテレビを観ながら夕食をとり、パソコンの前で少しだらだらしたあと就寝する。というわけで、火曜の夜が好都合だ。そこでクライアントにメッセージを送る。〈月曜日、20時?〉表記のルールは、〈決行日マイナス1日、決行時刻マイナス2時〉。かくしてクライアントは、火曜日の22時にアリバイをつくる。

決行日の1週間前にブレイクはケンの家にピザを宅配させる。配達人がチャイムを鳴らす。すぐさまドアを開けたケンは驚いて相手と押し問答し、配達人はピザの箱を抱えて帰っていく。ブレイクはこれで必要な情報をすべて手に入れる。

翌週の火曜日、今度はブレイクがピザの箱を持って玄関先に現われる。ひと気のない通りに一瞬目を走らせると、滑り止め防止のオーバーシューズを履き、手袋を確かめてしばし待つ。そしてケンがシャワーから出てきた瞬間にチャイムを押す。ケンがバスローブ姿でドアを開け、ピザの箱を手にした配達人をみとめてため息をつく。だが彼が言葉を発する前に空箱が落ち、ブレイクはふた股に割れた警棒型スタンガンを相手の胸に押しつける。電撃を受けたケンががくりと床に膝をつく。ブレイクもしゃがむと、それから10秒、ケンが動かなくなるまで警棒を押しあてつづける。メーカー公称出力は800ボルト。ブレイクはみずから実験台となって試してみたが、電極を1本あてただけであやうく失神するところだった。彼は泡を吹いてうめいているケンを浴室まで引きずっていくと、念のためにもう一度電気ショックを与え、ケンの頭、つまりこめかみのあたりを両手で挟んで持ち上げる。そしてたった1回、満身の力をこめてバスタブに激しく叩きつける(この動作は椰子の実を使って10回リハーサルした)。バスタブの縁にあたって頭蓋骨が砕け、衝撃のせいで菱形のタイルが割れる。マニキュアを思わせる深紅色の血がすぐにどろりと広がり、生温かい鉄錆の芳しいにおいが立ちのぼる。ケンの口は呆けたようにぽかんと開き、かっと見開いた目は天井をじっと見据えている。ブレイクはバスローブの胸元をちらりと開けて確認する。電気ショックの跡は残っていない。それから彼は、不運にも足を滑らせたケンに重力が強いたであろう仮説の軌道に従って、できるだけそれらしく死体の姿勢をととのえる。

だが立ち上がって自分の仕事をほれぼれと眺めていると、突然、猛烈に小便がしたくなる。想定外の事態だ。なにしろ映画のなかの殺し屋は小便などしない。あまりにもせっぱつまった尿意なので、とりあえずトイレを拝借し、ことがすんだら徹底的に掃除しようとまで考える。だが警察官がほんの少しでも頭を働かせたり、あるいはただ単に手順を踏んで漏れなく粛々と調べ出したりしたら、DNAが検出されるだろう。確実に。というか、少なくともブレイクはそう思う。というわけで、懇願しきりの膀胱を無視し、責め苦に顔をゆがめながら、そのまま計画を続行する。石鹸を手に取り、まずはケンの踵に押しつけ、次いで床にこすりつけて線を描くと、滑って飛んでいったと仮定される方向に放り投げる。すると石鹸は跳ね飛び、便器の背後に着地する。完璧だ。石鹸を見つけて警察官は顔をほころばせ、謎が解けたと有頂天になるだろう。ブレイクはシャワーをぎりぎりまで高温に設定して蛇口を開くと、蒸気を立てている湯を避けながらヘッドを死体の顔と胸に向け、浴室を出る。

そして窓辺に走り寄ってカーテンを閉め、最後に室内をチェックする。身体が数メートル引きずられたことを示す跡はどこにもない。やがて赤みがかった湯が床を濡らしはじめる。パソコンはつけっぱなしで、モニターにはイギリスの芝生と花壇が映っている。ケンは園芸好きだったようだ。ブレイクは集合住宅を出ると手袋を脱ぎ、200メートル先に駐めておいたスクーターまで慌てずに歩く。そしてスクーターを発進させ、1キロ走ると、スクーターを停めてようやく放尿する。くそっ、と思わず声が出る。黒い綿のオーバーシューズを脱ぐのをうっかり忘れていたのだ。

2日後、心配した同僚が警察に通報し、サミュエル・タドレールが不慮の事故で死んでいるのが発見される。ブレイクはその日のうちに残金を受けとる。

それらはみな、ずっと昔の話だ。以来、ブレイクはふたつの人生を築いてきた。一方の人生の彼は目につかない存在で、20のファミリーネームと20のファーストネームを持ち、そのそれぞれに対応するさまざまな国籍のパスポートを所有している。そのなかには本物の生体認証がついたパスポートもある。そう、そうしたものをつくるのは、一般に考えられているよりたやすい。もう一方の人生の彼は〝ジョ〟という名で、ベジタリアン料理の宅配サービスを手がけるしゃれたパリの会社を遠隔経営し、ボルドーとリヨンのほか、いまではベルリンとニューヨークにも子会社を持っている。事業のパートナーのフローラは彼の妻でもあり、夫婦のあいだに生まれたふたりの子は不満たらたらだ。それというのも父親が頻繁に、しかもときに長期にわたって旅に出るからで、それは確かにほんとうだ。

2021年3月21日

ニューヨーク州、クォーグ

この3月21日、ブレイクは旅先にいる。小糠雨のなか、濡れた砂浜を走っている。長い金髪、バンダナ、サングラス、黄色と青のトレーニングウェア。いかにもジョガーらしい派手派手しさで、逆に目につかない。ニューヨークにはオーストラリア人名義のパスポートで10日前に着いた。大西洋を横断する空の旅は荒れに荒れた。ブレイクが本気で死を覚悟し、これはこれまでさんざん死を請け負ってきたことに対する天罰だと観念するほどに。飛行機が底なしのエアポケットに落ちたときには、金髪のカツラが吹っ飛びそうになった。そして続く9日のあいだ、彼は毎日クォーグの灰色の空の下、ビーチを3キロ走っている。海岸線に並ぶのは、少なく見積もっても1千万ドルは下らないバラック小屋の別荘群。開発業者は砂丘を整備し、通りにわかりやすく〈砂丘ロード〉という名を授け、一帯に松と葦を植えた。どの別荘も隣家から見えないように、どの所有者も海を独り占めしていると信じて疑わないようにするための配慮だ。ブレイクは小さな歩幅でゆったりと走る。そしてこれまで毎日同じ時刻にしてきたように、大きなガラス窓と海に通じる階段のついたテラスをそなえ、セコイアの幅広の帯板を張った美しい平屋根の家の前でつと足を止める。そこで息を切らしたふりをし、脇腹の痛みを装って上体を屈め、これまたそれまで毎日してきたように顔を起こし、遠くにいる男に手を上げて挨拶する。相手は50がらみの小太りの男で、庇の下、手すりに肘をついてコーヒーを飲んでいる。一緒にいるのは、もう少し若くて大柄な、褐色の髪を短く刈りこんだ男だ。板壁に背をつけて控えているこの男は、警戒するような面持ちで砂浜に目を光らせている。ホルスターを装着しているのだろう、ジャケットの左側の布地が膨らんでいる。ということは右利きか。今日もブレイクは微笑みを浮かべると――この週二度目だ――、ふたりに近づくため、背の低い草とエニシダのあいだに延びる砂地の小道をのぼる。

ブレイクは慎重にそろそろと伸びをすると、あくびをしてリュックからタオルを取り出し、顔の汗を拭き、水筒を出して冷たい紅茶を長々と飲む。そして年嵩の男が声をかけてくるのを待つ。

「やあ、ダン。調子はどうだ?」

「ハイ、フランク」〝ダン〟ことブレイクはまだ息を喘がせながら答える。脇腹が痙攣しているふりをして顔をしかめる。

「走るにはうっとうしい天気だな」男は言う。1週間前の初めての出会い以来、口ひげと灰色の顎ひげが伸びっぱなしだ。

「それを言うなら、うっとうしい1日ですよ」ブレイクはふたりの男から5メートルほどのところで立ち止まって言う。

「今朝、きみのことを考えたよ、オラクル社の株価を見てね」

「その話はよしてくださいよ。今後数日の値動きをわたしがどう予測してると思います、フランク?」

「どう予測してるんだ?」

ブレイクはゆっくり丁寧にタオルをたたむとリュックにしまい、それからゆっくり丁寧に水筒も収める。そしてさっとすばやくピストルを取り出す。そして若いほうに即座に3発お見舞いする。衝撃で男は後ろに弾き飛ばされ、ベンチにひっくり返る。そのあと、驚愕しているフランクに3発。彼はほんの一瞬身体を震わせると、がくりと膝をつき、手すりに倒れこんで動かなくなる。ふたりとも胸に2発、額のど真ん中に1発。1秒で合計6発、使用したのはシグ・ザウエルP226。消音器(サイレンサー)付きだが、どのみち波音が雑音をすべてかき消した。またひとつ、瑕疵のない完璧な契約遂行。やすやすと10万ドルが転がりこむ。

ブレイクはシグ・ザウエルをリュックにしまうと、砂の上に散らばった6個の薬莢を拾い集め、いともたやすく仕留められたボディガードに視線を投げてため息をつく。ここにもひとつ、駐車場の警備員の名目でズブの素人を雇って2カ月仕込み、いきなりガチな現場に送りこんだ不埒なセキュリティ会社があるらしい。この哀れな男がまともに仕事をしていたら、彼は〝ダン〟という名前とブレイクがふと漏らした〈オラクル〉の社名を、望遠レンズで撮影したブレイクの写真をつけて上司に報告していただろう。そして会社の上層部は、〈オラクル・ニュージャージー〉のロジスティクス部門のサブ・ディレクターを務める、長い金髪をしたダン・ミッチェルなる人物の身元を確認してこのボディガードを安心させることができたはずだ。この人物はブレイクにかなり似ているのだが、それもそのはず、ブレイクは何十もの会社組織図をあたり、幾千もの顔のなかからこれぞと思える自分のそっくりさんを探しあてていた。

そのあとブレイクはふたたび走りはじめる。雨脚が強くなり、足跡がぼやける。トヨタのレンタカーは200メートル離れたところに駐めてある。ナンバープレートは先週、ブルックリンの路上で見つけた同じ型の車から引っぺがしたものだ。彼は5時間後には新たな名義でロンドン行きの飛行機に乗りこみ、ユーロスターでパリに戻ることになる。帰りの便が10日前のニューヨーク行きの便ほど荒れなければ、言うことなしだ。

ブレイクはいまやプロ中のプロで、仕事の最中に尿意を催すことなどもはやない。

2021年6月27日(日)、11時43分

パリ、カルチェ・ラタン地区

ブレイクにたずねてみるがいい。確かにサンジェルマン界隈で一番うまいコーヒーを飲めるのは、セーヌ通りの角にあるこのバーだ。うまいコーヒー。ブレイクが言わんとするのは心底うまいコーヒーで、それは良質の豆、つまりここでは焙煎されたばかりのニカラグア産コーヒー豆を細挽きしたものと、濾過してまろやかにした水と、エスプレッソマシン――まさにこの場合は毎日きちんと洗浄がなされたチンバリ社製――との親密なコラボレーションから生まれ出る奇跡である。

ブレイクがオデオン座の近く、ビュシ通りに宅配専門のベジタリアンレストランの1号店をオープンして以来、彼はこの店の常連だ。どうせ浮世のあれこれを嘆くのなら、パリのテラスでかこつほうがいい。というわけで、この界隈にいる彼は、ジョナタンかジョゼフかジョシュアを略した〝ジョ〟という人物で通っている。従業員さえも彼を〝ジョ〟と呼び、彼の名前はどこにも出ていない。おそらく商業登記簿に記載された、彼の会社を所有する投資会社の資本保有者の名義欄をのぞいては。ブレイクはつねに秘密主義に徹することを、あるいはいわば人目につかないようにすることを信条としており、あらゆる物事がその信条の正しさを日々証明している。

ここではブレイクも警戒を緩めている。買いものをし、ふたりの子を学校まで迎えに行き、加えて4軒ある店のそれぞれにマネージャーをひとりずつ置いてからは妻のフローラと一緒に劇場や映画館に出向くようにさえなった。まさに平々凡々な暮らし。たまに怪我をすることもあるが、それはポニーに乗る娘のマチルドに付き添ったとき、うっかり馬房の扉に額をぶつけるくらいのかわいいものだ。

彼のふたつのアイデンティティを隔てる壁は完璧な気密性を誇っている。ジョとフローラはリュクサンブール公園からすぐのところにある瀟洒なアパルトマンのローンをすでに完済し、ブレイクのほうは12年前、北駅の近くに1LDKのアパルトマンを現金で購入した。このアパルトマンはラ・ファイエット通りにあるこれまた瀟洒な建物のなかにあり、ドアと窓は金庫の壁と遜色がないほど強化されている。正式な借家人がこの部屋の家賃を支払っていて、その名前は毎年変わるが、もともと借家人など存在しないので、そのぶん変更の手続きはもっと楽だ。何事にも用心しすぎることはない。

というわけで、ブレイクはコーヒーを飲む。砂糖なし、気がかりなし。フローラから勧められた本を読むが、彼女には先の3月、パリからニューヨークへ向かう便でその本の著者を見かけたことは内緒にしている。時刻は正午。フローラはカンタンとマチルドを彼女の実家に連れていった。ブレイクは昼食をパスする。というのもまさに今朝方、本日15時の約束を取りつけたからだ。昨夜、契約が一件舞いこんだのだ。稼ぎのいい、朝飯前の仕事。クライアントはかなり急いでいるようだ。

いつもと同様、別人になるためラ・ファイエット通りに立ち寄る必要がある。そんなブレイクを、フードを被った男がひとり、30メートル離れた場所から硬い表情でうかがっている。

【…】

『異常【アノマリー】』は、2月2日より、紙と電子書籍を発売します。

◉著者紹介

Francesca Mantovani (c) Editions Gallimard

エルヴェ・ル・テリエ Hervé Le Tellier
1957年、パリ生まれ。小説家、ジャーナリスト、数学者、言語学者など、多方面で活躍する。1992年より、国際的な文学グループ〈潜在的文学工房(ウリポ)〉のメンバーとして小説の新しい形式と構造を探求する作品を発表。2019年には4代目の会長に就任する。30ほどの著作を刊行する長いキャリアを経て、63歳のとき、本作で一挙に世界的に注目される。2020年、本作はフランスで最高峰の文学賞ゴンクール賞を受賞し、同国内で110万部を突破。40の言語で翻訳が決まっている。

◉訳者略歴

加藤かおり
フランス語翻訳家。国際基督教大学教養学部社会科学科卒業。訳書『念入りに殺された男』エルザ・マルポ、『ちいさな国で』ガエル・ファイユ、『ささやかな手記』サンドリーヌ・コレット(以上早川書房刊)、『星の王子さま』サン゠テグジュペリ、他多数

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