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なぜ〈カルチャー〉が勝利するのか――イアン・M・バンクス論 著:ジョセフ・ヒース(『反逆の神話』著者)

『反逆の神話』『啓蒙思想2.0』のジョセフ・ヒースによる、サイエンス・フィクション論にして現代社会論。「自由」の最果て、「カルチャー」と「アイデンティティ」の逆説。

なぜ〈カルチャー〉が勝利するのか──イアン・M・バンクス論

ジョセフ・ヒース/青野浩訳

もう何年も前になる。いろいろ物知りの友人から、1冊の本を手渡され「あなたはこれを読むべきね」と言われた。イアン・M・バンクス著『Use of Weapons(武器の使用)』と題された本だった。

僕は表紙のキャッチコピーをチラ見して、「〈カルチャー〉(the Culture)って何なの?」と尋ねた。

「そうね。説明するのは難しい」と彼女は答えた。彼女は腰を据えて長い会話をしたがっているように見えた。

「タイには、〈犬〉(the Dog)と呼ばれる存在がいるのよ。タイではどこに行っても〈犬〉を目にするの。道端をウロウロしていたり、市場を忍び歩いてる。問題は、タイには品種という概念が存在しないこと。4本脚でワンワン吠える動物は、どいつもこいつも犬でしかないわけね。もし君が犬を、どんな品種であろうとも路上に放てば、そいつは数世代で〈犬〉に戻ってしまうの。これこそ〈カルチャー〉なのよ。つまり、〈カルチャー〉とは、あらゆる文化間の闘争による進化的勝者、魅力が極限まで堆積したようなものね」

「読んでみるよ」僕は言った。

「そうそう、メインキャラクターが首を切り落とされる──というか、こう言った方が君的にはお気に召すかしらね。体がチョンパされて、お見舞いにドローンが帽子を被せてくれるイカすシーンがあるわよ」

読み終えた『Use of Weapons』は、大のお気に入りとまではいかなかった。ただ、まずまず面白かったので、前作Consider Phlebas(フレバスに思いを馳せる)を入手して通読してみた。読んでみて気づいたのが、バンクスは基礎的な世界観設定を、十分なまでに精緻化していることだった。私見だが、この作品をもって、バンクスは20世紀後半のSFにおいて、先見性ある偉大な作家として確固たる地位を築いたのである。 

社会と技術の進化方向

当時活躍していた、「先見の明がある」作家達──ウィリアム・ギブスン、ニール・スティーヴンスンらと比べると、バンクスは過小評価されている。ギブスンやスティーヴンスンは、テクノロジーの進化に先見性を見出し、「サイバースペース」によって世界がどう変容するかという観点から考察を行っている。彼らが果たした重要な役割は、社会で起きている真の技術革新が機械に関するものでなく、情報の収集・伝達・処理に関わるものであることを明らかにしたことにあった。

対照的にバンクスは、何よりもまず「文化の進化」によって未来は変容し、テクノロジーによる変化はそれに付随するものに過ぎないと想像していた。このバンクスの先見性は、非常に深遠なものであったと私は主張したい。しかし、バンクスの先見性は過小評価されている。文化は私たちを完全に取り囲んでいて、私たちの世界認識をそっくり形作っているために、私たちは文化の長期的なトレンド変化について視座を持ちづらくなっているからだ。

実際、現代のSF作家は、文化や社会の進化についてほとんど語ってきておらず、テクノロジーだけが進み、古代の社会構造はそのまま保持した未来を想像するのが、ジャンルのテンプレ的なお約束となっている。最も影響力の大きい事例が、フランク・ハーバートの『デューン 砂の惑星』だ。

『デューン』では、高度な銀河文明が想定されているが、社会はいがみ合う複数の「一族」によって支配されており、これら全ては「皇帝」の名目上の権威の下にあると設定されている。『デューン』が人気となっている理由の一端は明らかに、「遥かな過去に由来する社会構造──ファンタジー小説からほとんど改変されることなく持ち込まれたもの」と「未来のテクノロジー」を並べていることにある。

このような世界観設定は、生産力〔訳注:生産様式をも含む包括的な生産の駆動力を意味する。マルクス経済学用語〕の発展が生産関係を変容させるとのマルクスの見解(「粉挽き機械は封建領主に関する社会関係を生み出し、蒸気機関は工業資本家に関する社会関係を生み出すことになる[※1]」)がまったく顧みられていない点で、愉快である。現代的な言葉に置き換えれば、マルクスは次のように主張しているのだ──技術と社会構造の間には関数的関係があり、〔技術や社会が変化すると〕従来の組み合わせは成立しなくなってしまう、と。

この点において、マルクスは確かに正鵠を射ていた。『デューン』における設定の中核は、社会学的に素朴なものとなっている。 エネルギー兵器を備えた封建制はナンセンスだ──封建社会はエネルギー兵器を生産できず、エネルギー兵器は封建制の社会関係を弱体化させるだろうからだ。

『デューン』は曲がりなりにも、社会と技術の進化方向が正反対である設定を、一見ありえるものとして考察してみせたことで、一種の独創性を示している。これの凡庸なバージョンは、SFファンを飽き飽きさせている設定──古代ローマ帝国を表層的に模した未来像を提示したものだ。これは、ローマ帝国崩壊のシナリオを基本的になぞったアイザック・アシモフの『銀河帝国興亡史』シリーズに端を発しているのだろう。

『スタートレック』でも、〔原案者の〕ジーン・ロッデンベリーは、古典(双子の英雄ロムルスとレムスなど)から引いた筋書きを執拗に使用している。そして、言うまでもなく、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズだ。「共和制」の崩壊と「帝国」の台頭を大々的に扱っている。これら作品の世界設定に共通しているのが、未来世界の人類が、遥か太古の政治的・社会的な課題に直面していることが当たり前のように仮定されていることだ。

こうした文脈において、バンクスの作品を特徴付けているのが、テクノロジーの発展が社会構造の変化を引き起こし、人々が新たなる社会的・政治的な課題に直面するような物語を構想していることである。実際、バンクスは、テクノロジーが発展することの社会的・政治的帰結について思慮深い考察を行っており、このことが彼をSFにおいて卓越した存在としている。

例えば、半自律型知能のドローンが登場し、常に個人が社会によって監視されるようになれば、刑事司法制度に存在価値はあるのだろうか? といった考察だ。カルチャー・シリーズでは、重罪を犯した個人は否応無く「懲罰ドローン」の監視下に置かれ、再犯は予防されることになる。これは、単に再犯率をゼロにするだけではない。前科者は一生ドローンに監視されることが社会に広まれば、犯罪の強力な抑止力としても機能する。

これは、既に実用化されている足首につける監視ブレスレットを考慮しても、現行トレンドを拡張した極めて妥当な未来予測である。しかし、この考察は、さらに掘り下げることができる。例えば、刑事司法制度が不要になってしまえば、国家の中心機能の一つが消失するだろう。これこそ、カルチャーの中心的特徴となっている政治的アナーキズムを根底とした社会変化の一つである。

しかし、バンクスはもっと根源レベルでの仮説を展開している。バンクスは、カルチャー・シリーズの統一的世界設定において、テクノロジーの発展によって文化があらゆる実用的制約から解放され、文化が純粋にミーム化する状況を想定している。これはおそらく、バンクス作品における最も重要な着想だ。だが、これがどうして重要なのかには若干の説明が必要だろう。

ミームと文化間競争

ミームとは、生物学的進化において遺伝子が担っているのと同等の役割を文化において担うものとしてリチャード・ドーキンスによって提唱された用語である[※2]。ドーキンスは、生命の基礎的な構成要素を「自己複製子」と呼んだ。自己複製子とは簡単に言えば「自己を再生産するもの」である。ドーキンスが気付いた重要なことは、自己複製子は生物学的な領域に留まらず、人間の社会行動にも見いだせることであった。

多くの場合、ミームは宿主にとって明らかに有益なので、「自己の再生産」に成功しているのかどうかを見出すのは難しくはない──例えば、ヒトが習慣化している火を使う調理方法は文化によって再生産されていると考えられる。ところが場合によっては、文化のひな型が再生産されても、宿主になんら利益をもたらさず、逆にコストをかけていることがある。これが可能となっているのは、ミームの自己再生産において、特殊な「トリック」が存在しているからだ。

文化が機能するとはつまり、社会における物質的な再生産に貢献することであり、また貢献に際し様々な形で制約を受けるということである。社会制度は基本的に、十分な量の食料生産、治安の維持、若者の教育、社会秩序の再生産、そして究極的には文明による様々な成果を再生産する障害となっている集合行為問題〔訳注:集団協調による解決策が、フリーライダーの出現等で失敗に至る問題〕を克服するために構築されている。

こうした諸制度は、社会化によって作り出される人格構造とほぼ一致しており、これによって、人は制度のもとでの特定の役割(すなわち、戦士、労働者、教師など)に従うよう配置される。「文化」とは、これらの制度や人格構造の象徴的・情報的な相関関係を指して用いられる用語であり、複数世代にわたって再生産されるものである[※3]。

エスノグラフィー(民族誌学)の歴史を振り返れば、社会における文化と、制度的構造が生み出す要求の間に存在する「適合」に驚かされずにいられない。常に軍事的脅威にさらされている社会は、武徳を讃える文化を持っているだろう。共同的な経済を特徴とする社会では、怠惰は強く批判されるだろう。平等主義的な社会では、ボス的な性質は重篤な人格的欠陥として扱われるだろう。仕事において非常に厳格な時間管理が行われている工業社会では、時間厳守が求められるだろう。他にも挙げられる。

もちろん、両者の相性が悪い場合(すなわち、文化が機能不全に陥っている場合)もある。多くの社会で、制度的構造を変えるのが困難になっているが、その理由の一つが、文化が新しい〔構造〕パターンに「適応」していないことにあるのは言うまでもない(なので例えば、家族の絆を重視する文化のもとでは、縁故主義や汚職が発生するため、官僚機構の創出が困難となっている)。

ここでも、エスノグラフィーの歴史を参照すれば、並外れた多元的共存性と創意工夫を人類社会に見出すことができる。しかも、文化と社会構造の双方に、この多元的共存性を見出すことができるのだ。

歴史において、文化は互いに競合することで、ある文化は強大で支配的になり、ある文化は衰退し完全なる消滅に至っている。同じようなダイナミズムは、言語を巡る競争にも見られる。多くの言語が絶滅していく一方で、特定の言語(標準中国語、英語、スペイン語など)は影響力を強め「超言語」へと拡大を遂げている。同様に、あらゆる他文化圏を魅了する係留地となるような「超文化」の出現も見ることができる。

歴史的に見ても、このような文化間競争の推移において、競争に優位性を与える有力な源泉となってきたのが、望ましい社会構造や効果的な協力体制を推し進める能力である。ローマ文化が西洋に及ぼした多大な影響を考えてみてほしい。ローマが崩壊してから千年経っても、学童達はまだキケロを暗記させられており、ユスティニアヌス法典が広範な〔帝国の旧〕領域において事実上の法律として機能し続け、ラテン語がヨーロッパの学識ある階級の筆記言語として残ったのである。

これらは並外れた遺産だ。ローマ帝国が〔崩壊後も〕模倣された大きな理由は、単純にその文化が西洋においてこれまで経験した中でもっとも偉大で、最も長く続いた帝国を維持させた文化だったからだ。

同様に、漢王朝の文化も、主にその制度の発展を通して中国全土に伝播された。皇帝制、そしてそれを維持するための巨大な官僚制が、行政の効果を高める科挙制度とともに広まったのである。

強力な制度を持つ社会は、より豊かになり、軍事的にもより強大となる。あるいは、この両者がなんらか形で組み合わさったものとなる。このような社会の文化は、模倣、あるいは他者からの強制によって再生産されている[※4]。

そして、制度構造において、過去一世紀、人類社会で支配的なトレンドになってきたのは、顕著なまでの単一制度への収斂であった。最も重要なのが、市場経済と官僚制国家の必要性が、国家レベルでは唯一の望ましい社会構造として、ほぼ普遍的に受け入れられてきたことだ。市場経済と官僚制国家は社会が「成功する」ための基礎的な設計図と考えられている。結果、資本主義や官僚制度を実用的に受容できない文化は徐々に消失するか、変容を余儀なくされ、文化的多様性がきわめて狭められている。

このような文化的多様性の淘汰はしばしば「西洋化」と呼ばれるが、これは正確ではない。実際には、これら淘汰の多くは、文化に資本主義と官僚制度の実用的条件を組み込むために、社会が耐え忍ばざるを得ない「適応」プロセスにすぎないのである。西洋以外の文化が「西洋的」になってきているのではない。西洋文化そのものを含めて、あらゆる文化がわずかなバリエーションに集約していっているのである[※5]。

こうした淘汰プロセスの興味深い帰結の一つが、この競争が袋小路に陥りつつあることだ。社会を統合するには伝統的な障壁が多く立ちはだかっているが、現代の官僚的資本主義の制度は、ほぼ機械的なやり方でこれを解決している。アメリカ、日本、ヨーロッパなど現代の「超文化」を見てみればわかるように、実用面においてはどれを選んでもさして変わらない。成功した社会を〔模倣〕構築しようとした時、そこに優劣は存在しない。すると、何か競争するものが、残されるのだろうか? 文化のミーム的特性、つまりは自己複製の純粋な能力だけが残されるのである。

ドーキンスのミーム論についての半世紀にわたる議論を再度考察してみよう。ミームは自己を複製するのに、必ずしも宿主に利益をもたらす必要はない。ドーキンスが特に説得力ある例として挙げているのが、不幸の手紙である。現代で似たようなものだと、電子メールやツイッター等だ。内容自体は怪しいものであっても、たいていの不幸の手紙には、知り合い全員にコピーを送るべきだとするもっともらしい理由が書かれている。むろん、その理由に完全に説得力がある必要はない。一部の人が一定数の人に転送してしまうだけの説得力があれば良い。

ドーキンスは続けて、多くの宗教も似たような経路で受け入れやすいことを示唆している。例えば、キリスト教が広まった大きな要因の一つは、多くの信者に宣教の熱意を植え付け、不信心者を改宗させたい願望を抱かせたことにある。中国人は15世紀にアフリカへの大航海を何度か行ったが、アフリカ大陸に永続的な影響を与えられなかった。

なぜなら、彼らは上陸したものの興味を引くものを見つけられなかったので、何もせずに帰路についたからだ。対照的にヨーロッパ人は、アフリカ大陸の沿岸を周遊することに主に関心を寄せていたが、「魂の救済を必要としている何百万人もの人々」に気づいた宣教師を同行させていた。そして、宣教師らは定住して布教を開始した。

信念体系を比較してみればわかるように、儒教が強い影響力を持つのは、その実用的な性質によるところが大きい。だからこそ、国家形成において最初期の推進力の一つとなり、極めて安定的な社会構造を中国文明にもたらしたのだ。もっと一般化して、漢王朝の文化が普及した理由を説明するには、その文化と、文化が影響を与え、強化した一連の社会制度との密接な関係を指摘することが欠かせない。漢王朝の文化は、それが直接的に模倣されることで普及したのではない。むしろ、文化と結びついて機能する制度の影響力によって普及している。

このように普及したことは、同時に、漢王朝の文化が国家制度の枠を超えて普及するのを非常に制限することになった。文化は制度に紐付いていたからである。一方、キリスト教の影響力の強さの要因は、そのウイルス的性質にある。自己複製子の拡散に非常に長けているのだ。ただし、実際のところ、キリスト教は影響力の拡散に関して安定状態を生み出すことには成功していない。今日の非西洋国家(韓国やガーナ等)での普及に成功しているのは、キリスト教がローマ帝国を内部から乗っ取ることを可能にした性質で概ね説明が可能となっている。

価値観の衝突

次に、バンクスのシナリオを検討してみよう。現代の超文化の生成プロセスを想定し、さらにそれが300年、400年続くと想像してみてほしい。まず必然的に起こるのが、文化の実用性が完全になくなってしまうことである。バンクスは、人間社会における固有の問題が、全て本質的にテクノロジーによって解決可能になった(ドローンが刑事司法の問題を解決したような)世界を想定している。ここで最も重要となっているのが、欠乏という根本的な問題が解決されれば、ヒトはもはや働く必要性がなくなると想定されていることだ。全ての重要な決定はAI(あるいは〈マインド〉)による慈善的なテクノクラシーによってなされることになる。

すると、人類(正確にはヒューマノイド)には何が残されるのだろう? バンクスは、バーナード・スーツの著作『キリギリスの哲学──ゲームプレイと理想の人生』で描かれたような人生を想定しているのだ──全てはゲームとなり、故にある水準では、真面目に取り合うものがなくなってしまう人生である(※6)。ただ、バンクスがスーツよりはるかに深く洞察していたのが、〔全てがゲーム化した〕社会の終着点だった。

〔ゲーム化によって〕文化があらゆる実用的制約から解き放たれると何が起こるのか? 答えは明らかだろう──〔異なる文化を持つ〕惑星間競争が進行するなかで、最もウイルス性の高い、あるいは最も伝染性の高い文化が勝ち残る。つまりカルチャーは、ヒト型生命体の感性や嗜好に訴えることだけに最適化された自己複製子になるのだ。

これこそが、『Consider Phlebas』の主人公、ホルザがカルチャーを嫌う理由である。本作はイディラン帝国とカルチャーとの戦争を舞台にしているが、カルチャー・シリーズの中では珍しく主人公がイディラン帝国側で戦っているため、カルチャー外部の視点から描かれた作品となっている。イディランは、昔ながらの実用的文化のアーキタイプとして描かれており、イディランの政治構造は宗教によって統合された階層的な権威主義の帝国となっている。

イディランとカルチャーとの戦争は、奇妙な非対称をなしている。カルチャーは帝国ではなく、伝統的な意味での「政治形態」すら取っていない。カルチャーは文化がそのまま具現化されたものだからだ。首都もなければ、従来の意味での「領土」さえも保持していない。

戦争の第一段階において、カルチャーは、急速に拡大するイディラン圏からの撤退に多く時間を費やし、戦時生産への切り替えを完了し、艦隊の増強を図った。(……)カルチャーは、銀河系のほとんど全域を利用しての潜伏が可能となっていた。存在全体が、本質的に移動可能だったのだ。オービタル〔訳注:カルチャー・シリーズに登場する、惑星を取り巻くリング状のスペースコロニー〕さえも移動させ、場合によっては単に放棄することができたのである。構成員を移動させることさえできている。イディラン人は、フロンティアの維持、惑星や衛星の確保、そして何よりもどんな代償を払ってもイディラン人の安全を守ること、これらに宗教的に傾倒していたのである[※7]。

〔主人公〕ホルザはイディラン人ではなく、ドッペルゲンガー種族の最後の生き残りの一人だ。作品を通しての問いかけ──というか、カルチャーのエージェントであるペロスティック・バルヴェダによって主人公ホルザに投げかけられる問いが、「イディラン人は、自種族の優位性を排他的かつ熱狂的に信じている宗教的狂信者であることが自明であるにもかかわらず、なぜお前はイディラン側で戦っているのか?」というものだ。

[イディラン人]による領土の拡張はその始まりから、他の種族を〝平定・統合・教説〟し、神の眼前に跪かせる聖戦であったことは明らかだったではないか。お前は虚しくないのか[※8]。

対照的に、カルチャーでは、平和的共存・寛容・平等が何よりも優先されている。ならばなぜ、第三者であるお前がイディラン側に付くのか? とバルヴェダは問う。

ホルザにしてみれば、〔カルチャーとイディランの〕違いは、イディランには欠点があるが、深み、つまりは真剣さがあるのだ。これはカルチャーには欠けている要素である。イディラン人は生き甲斐を持って活動しているのである。哲学的に言えば、イディランの人生は、チャールズ・テイラーが「強い評価(strong evaluation)」と呼んだもので構築されている[※9](実際、カルチャーが、戦争を真剣な戦いとして把握できないことは、カルチャー・シリーズを通してのユーモア要素となっている。

これは例えば、艦船名に反映されている。艦船名は大抵、「市民が志願するってどういうこと? 号」や、「悪党級戦艦:価値判断号」「拷問者級戦艦:外国人差別号」「醜態級戦艦:通常道徳の制約下から逸脱号」など不真面目に名付けられている)。

マックス・ウェーバーは、近代性は「精神なき専門家、心なき官僚主義」を生み出すとの、有名な診断を行っている。このウェーバーの診断によってカルチャーを考察してみよう。カルチャーでは、専門家の役割はAIに引き継がれており、人類には「心なき官僚主義」の役割しか残されていない[※10]。

したがって、カルチャーで構成員を主に魅了しているのは、終わりなきパーティーの開催や、極限までのセックスやドラッグ依存になることである(遺伝的・外科的な改造により、カルチャーの構成員は、自身の身体にほぼ無制限の変化を作り出す能力を得ている。こうした自己改変は、強烈で長時間にわたって何度もオーガズムを得るための性器の強化や、様々な神経伝達物質を生成する特殊な腺の設置、痛覚の軽減、多幸感の創出、覚醒状態の維持、他にも望ましいであろうほぼ全ての感覚を作り出している)。

ホルザが、カルチャーを嫌っている理由がわかるだろう。表面上ホルザは、人類が人間性を機械に明け渡したことに不満を持っている。しかし、ホルザの本当に求めているものは、〔人生に〕根源的に深い意義を提供してくれる文化である。これはカルチャーが明らかに提供できないものの一つだ──それどころか、カルチャーにかかると、それは冗談に変わってしまう。カルチャーは抗し難い魅力を持っているかもしれないが、それ故に本質的に酷くつまらない存在なのだ。

ホルザは秘めている軽蔑の感情を表に出さないように努めた。「またかよ」と彼は思った。拝聴モードに耐えるのはこれで何度目だ? こういうのは大抵、三級、いや四級以下の社会にいる奴らで、人類基盤で、男性であることが多い。落ち着いた調子で、カルチャー内にいることがいかに楽しいかを垂涎のトーンで話しやがる。(……)続けて、薬剤分泌腺の素晴らしさについて聞くことになるんだろうな、とホルザは思った[※11]。

カルチャー側の退廃と、真剣さの欠如によって、イディラン人は自国の勝利を当然視するに至っている。カルチャー側の軟弱な退廃ぶりと、イディラン側の過酷な軍国主義を比較してみれば、カルチャーは戦うまでもなく、即座に敗北するのが明らかに見えたのだ。しかし、これは誤算だった。実際、カルチャーはなにがあっても降伏することはない[※12]。

これこそが、カルチャーの実態を理解するにあたっての核心へと至る道である。カルチャーとは、究極のミームの複合体(あるいは「ミーム連結体」)なのだ。これは、カルチャーにおいて、〈コンタクト〉が果たす役割と関係している。

コンタクトのアイデアは、リベラルな社会における既存のトレンドを、バンクスが卓越した視点によって外挿したものだ。コンタクトとは何なのか? 一番わかりやすい説明は、『スタートレック』の惑星連邦が保持している「最優先指令」の正反対の原理に基づいて運営されているものである。

『スタートレック』では、「ワープ以前」の文明、つまり技術的に未発達な世界への干渉は禁止されている。カルチャーは、これと正反対の原理で統治されている。つまり、可能な限り広く徹底的に干渉しようとするのだ。コンタクト部門の優先的な役割は、あらゆる文明の発展に軽度に(あるいは徹底的に)介入して、「正義の側」が勝つように仕向けることにある。

むろん、これを行うには、カルチャー自身も場合によっては価値観の変容を受け入れなければならない。なのでコンタクトは、「特殊状況部(SC)」として知られるサブセクションを保持している。仕事は、「オムレツを作るためには卵を割らねばならない」〔訳注:英語のことわざ。「成功には多少の犠牲が必要」「やってみないとわからない」といった意味〕というやつである(むろん、前例のないやり方で実行されるとの意味で「特殊状況」と呼ばれている)。SCのエージェントは、カルチャー・シリーズの大半において「ヒーロー」に最も近い存在だ。しかし、エージェントはその役割を担うにあたって、常にある種の曖昧な立場に立っている。

コンタクトの使命は、読者のほとんどが直観的に納得できるものだ。原始的な世界で、ファシストの独裁者と、自由を愛する民主主義者の間で争いが起こっているとしよう。技術的に進歩した異星人なら、後者が勝利するよう画策するのが当たり前ではないだろうか? これは「過去に戻ることができるなら、赤ん坊のヒトラーを絞め殺すべきだろうか?」という形で、アームチェア哲学の練習問題としてよく問われる。

ところが、カルチャーはこの改変能力を実際に持っており、仮定の選択を現実の選択に変えてしまう。『スタートレック』の惑星連邦による「最優先指令」のような、何もせずにじっとしているべきだとの考えは、控えめに言っても道徳的直感に反するのである。

しかし、コンタクトによる「正義の側」を勝利させるための調整とは何を意味するのだろう? これはつまるところ、カルチャーと同じ価値観を共有する側に干渉することだ。そして干渉すれば、単なる個人の自由を超えた多くのものが問われることになる。例えば、技術の発展に伴い、あらゆる社会は最終的に機械の知性をなんらかの方法で受け入れなければならなくなるだろう。つまり、AIに完全に法的・道徳的人間性を認めるかどうかを決定しなければならなくなるのだ。カルチャーは当然この問題について見解を保持している。カルチャーが知的な機械による博愛主義的なテクノクラシーで運営されているからだ。

したがってコンタクトとSCは、彼らが「カーボン・ファシスト(有機体至上主義者)」と呼ぶもの(すなわち「人間の主観的な経験のみが本質的な価値を持っている」と主張する者[※13])が、いかなる世界においても支配的な政治派閥として出現するのを防ぐために干渉することになる。

こうした介入には二つの見方をとることができる。「インサイダー」の観点では、コンタクトは真実と正義を(あるいは「正義の側」の勝利を)を保証してくれる存在だ。しかし、「アウトサイダー」の観点からだと、カルチャーがやっていることは、カルチャー自身を再生産していることに他ならない。カルチャーは、遭遇したすべての社会を、カルチャーの新しいコピーとするために変化させている[※14]。

しかも、これは単なる無計画の気晴らしではない。コンタクトはそれ自体が、カルチャーの「最優先指令」を体現している存在だ。コンタクトは、カルチャーの中核にして本尊であり、カルチャー内の多くの住人にとっての存在意義であり、生きる意味を汲み出せる唯一の源泉となっている。それでいて、カルチャーが拡散するための中心的なメカニズムでもある。これがカルチャーの活力源となっており、根本レベルにおいてカルチャーは自己を再生産するために存在している。カルチャーはこれ以外の目的を持たない。

自由とアイデンティティ

カルチャーが、自身の内部で満たすことができなかった唯一の欲求は、人類のオリジナル素材にルーツを持つ構成員達と、その構成員が生み出した機械(創造主からどれほど離れた存在であっても)に共通するもの──「自分が役立たずであると感じたくない衝動」であった。カルチャーの構成員は比較的楽観的で、快楽主義的な生活を楽しんでいたが、カルチャーにおいてこれが正当化されていたのはもっぱら、コンタクト部門の世俗的な福音主義の成果によっていた。彼らはあまり進歩していない文明を見つけだし、分類・調査・分析するだけでなく、コンタクトの行為が正当化できると想定できた場合に、他の文化の歴史的プロセスに(公然と、あるいは密かに)実際に介入を行っていた[※15]。

上の引用箇所は、バンクスが社会学的に最も鋭い観察力を発揮している箇所だが、これもまた、現代の文化的トレンドを拡張して推察されている。近代化は様々な発展を伴っているが、その一つとして、アイデンティティは生得的なものではなく自ら獲得するものになったことがある。この考え方は非常に分かりやすい。伝統的な社会では、人は、出自や生まれ持った性質、つまり家族の構成、身分、ジェンダーなどによって、ほとんど規定されていたのだ。

対照的に、近代社会では、「出自」よりも「選択」が選好されており、人がその出自によって制約や制限を受けることは、不公平の極みと考えられている。このように、通う学校、キャリアの選択、結婚相手の決定、ライフスタイルの選択こそが、アイデンティティ獲得につながるとの考え方に変じたのである。我々の社会において「誰かと知己になること」は、生まれによって決まらず、人生における主体的な選択によってもたらされるものとなっている。

むろん、この双方にメリットとデメリットがある。選択することの利点は、獲得志向の社会に生きる人からすれば、具体例を挙げるまでもなく明らかだ。だが欠点もある。かつての身分制度のもとでは、人は「アイデンティティの危機」に苦しむことはなく、二十代の大半をかけて「自分を見つける」必要はなかったのだ。ところが、全てが選択されるようになってしまえば、何をもって選択すればよいかの基礎が揺らいでしまう。様々な選択肢を比較評価する定点がもはやなくなってしまうのだ。これは、生き甲斐の危機を生み出す。チャールズ・テイラーはこれを「強い評価」の衰退と関連付けている[※16]。

人類はその歴史において、「アダムの呪い」を嘆くことに多大な時間を費やしてきた。そして、ほとんどの人の人生に生き甲斐と達成感を何よりも与えているのが仕事である。すると、仕事がなくなり、あらゆるものが趣味となれば何が起こるだろう? 趣味は楽しいものだ。多くの人が、趣味にもっと多くの時間を割こうと、仕事からの逃避を試みて多大な時間を浪費している。しかし、趣味は楽しいかもしれないが、ある意味では取るに足らないものでしかない。

趣味は、人生に意義を与えることはできない。なぜなら、趣味は任意に選べるものだからだ。趣味を止めたところで、世界は何も変わらないし、何の影響もないだろう。つまり、趣味は重要事ではないのである。

今度は、カルチャー内で、ヒトがどのような選択を保持しているのか考えてみてほしい。ヒトは、男性にも女性にも、あるいはそのジェンダー的に中間な存在にもなることができるのだ(実際、カルチャーでは、多くの市民がジェンダーを常に入れ替えており、ジェンダー自認を強く固定するのは、少し風変わりと見なされている)。人は好きに人生を送ることができる。どんな外見でも、どんなスキルでも身につけることができる。生理機能や脳の化学反応を自由に変えて、好きなものを獲得できる。

こうした選択肢があれば、ヒトはどのように選択するのだろう? 根本的に突き詰めれば、ヒトは何者になるのだろう? ヒトのアイデンティを形作り、際立たせるものは何だろう? 我々が人生を振り返ってみれば、行ってきた全ての重要な選択は、受けている制約、配られた手札、生まれ持っての才能、性別、生まれた国等を判断材料として重視してきている。制約がなくなってしまえば、別の道を選ぶ根拠は存在するのだろうか?

これこそが、アルベール・カミュのような実存主義の作家が取り組んだ問題だ。自由にはパラドックスが存在し、選択できるようになればあらゆる生き甲斐が失われてしまう。カミュが推した解答は、不条理主義、つまりパラドックスをあるがままに受け入れることだった。この道を選んだ者はほとんどいない。社会学的には、「生き甲斐の危機」を解決するには、一般的に二つの手段が存在している。

一つ目の選択肢は、伝統的なアイデンティティを受け入れることだ──これは「新伝統主義」と呼ばれている。帰属的カテゴリーにおいて真正性があると想定されているものを讃えるのだ。ほとんどの宗教的原理主義がこのような構造を保持しているが、新伝統主義は、ケルトの伝統を再発見した郊外在住のアメリカ人のように、もっと温和な形態を取っている。子どもにカハルやエイダンと名付け、地元のアイリッシュパブに居座るわけだ。もう一つの選択肢は、唯一の意味のある価値として自由そのものを道徳的に肯定することだ。これはしばしば、他者に自由をもたらそうとして、布教を行おうとする願望を伴うことになる[※17]。

このため、自由主義的な社会では、バンクスが描写したような「世俗的な福音主義」と言うべきものが非常に強く発達する傾向がある。これは、特有の切迫感を持っている。なぜなら、現代文化にはアイデンティティの危機が存在し、それが解決されれば、強い葛藤的不安を解消できるからだ。そうした責任の重さに耐えうるのかという疑いの目が向けられ続け、それを理由の一端として、この福音主義はときに執拗なものとなる。したがって、コンタクト部門によって実行される、カルチャーの「最優先指令」は、イディランの宗教に似た性質を持つに至る[※18]。

これが、両者の戦争が破壊的なものとなり、8514億人の犠牲者と9100万隻以上の艦艇が失われた理由である。双方ともに、相手側に実存的な脅威を与えていたのは、物理的な消滅の脅威からではなく、他方が勝利すれば、相手側において人生の意味や目的を与えている信念を根底から覆す可能性があったからなのだ。

これによって、カルチャーは最大にして最も奥深い魅力の係留地、究極のミーム連結体となっているのである。カルチャーは、自己を再生産するための存在だ。その目的意識、存在意義のすべてを、あらゆる社会を探索し、その社会を自文化に改変させることを目的にした一連の活動に捧げている。むろん、カルチャーの構成員はこのような自己認識を抱いていない。構成員は、「正しいことをしている」だけなのである。もちろん、この自己欺瞞は、カルチャーによる自己複製の効率化の一端となっている。

特定の見方をすれば、カルチャーは『スタートレック』のボーグとそれほど違わない。違いがあるとすれば、バンクスは読者を騙して、事実上ボーグに共感させるように仕向けていることだ[※19]。実際、バンクスは、現代の自由主義的な社会に生きる我々もボーグの一部である、との皮肉な指摘を行っている。『スタートレック』におけるボーグは野蛮の象徴だ。「君は同化され、ボーグに奉仕してしまうんだぞ」──ボーグ側からだと、違って見えているかもしれない。「私たちは、単に手助けに来ただけです。私たちに加わりたくないなんてまったくもって奇妙ですね」──これこそカルチャーの見解だ。しかし、外側から見ると、カルチャーとボーグには間違いなく本質的な類似性がある。

総括しよう。カルチャー(文化)の形成に関して、バンクスは次の三つをアイデアの中心に据えている。一つ目は、この先、社会の組織化についての基本的な課題はテクノクラシーに基づき解決され、それにともない文化間の競争が、実用的な属性ではなく、ウイルス的な性質によって行われるようになると考えたことだ。二つ目は、〔異なる文化間の〕コンタクト(接触)こそが、カルチャー(文化)の基礎的な自己複製のメカニズムだと仮定したことである。三つ目は、コンタクト(接触)が実行されるのは、無為による気晴らしだけでなく、カルチャー(文化)を突きつめることで生じる実存的危機の解決策となるからだという洞察である。これによって、カルチャー(文化)は超ウイルス的な性質を得る。自己複製こそ、カルチャー(文化)の唯一の存在意義なのである。

参考文献

※1 Karl Marx, The Poverty of Philosophy (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1955), p.109(カール・マルクス「哲学の貧困」、『マルクス・コレクション 2』筑摩書房、2008所収).

※2 Richard Dawkins, The Selfish Gene, 2nd edn (Oxford: Oxford University Press, 1989)(リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子 40周年記念版』日髙敏隆・岸由二・ 羽田節子・垂水雄二訳、紀伊國屋書店、2018).

※3 以下を参照。Talcott Parsons, The Society System (New York: Free Press, 1951)(タルコット・パーソンズ『社会体系論』佐藤勉訳、青木書店、1974)

※4 バンクスは『ゲーム・プレイヤー』の中で、文化と社会制度が実用的に統合された極端な思考実験として「アザド帝国」を描いている。アザド帝国では、文字通りゲーム(アザドのゲーム)による文化的実践によって紐帯が形成されている。カルチャーのエージェントが、ゲームで皇帝を敗北させると、帝国の社会構造全体が崩壊することになる。

※5 Joseph Heath, “Liberalization, Modernization, Westernization,” Philosophy and Social Criticism, 20 (2004): 665-690.

※6 Bernard Suits, The Grasshopper: Games, Life and Utopia (Toronto: University of Toronto Press, 1978)(バーナード・スーツ『キリギリスの哲学──ゲームプレイと理想の人生』川谷茂樹・山田貴裕訳、 ナカニシヤ出版、2015). 「なので、ユートピアでは、ゲームをプレイすることが、生計を立てる唯一の手段となる必要はない。ただ、“なくてはならないもの”としてゲームはユートピアの本質となる。我々の文化とは根本的に違う文化を私は想定している。我々の文化は、経済・道徳・科学・性愛などの様々な欠乏に基づいているのに対して、ユートピアの文化は充実さに基づいている。したがって、ユートピアにおいて重視される制度は、今日のような経済・道徳・科学・性愛の制度ではなく、スポーツやその他ゲームを促進する制度となるだろう」(p.194)

※7 Consider Phlebas, pp. 460-461.

※8 Consider Phlebas, p. 455.

※9 Charles Taylor, “What is Human Agency?” in Philosophical Papers, Vol.1 (Cambridge: Cambridge University Press, 1985).

※10 ザカルヴェはUse of Weaponsの中で次のように述べる。「彼はそれまで、カルチャーが生理機能を変化させることについて聞いてきたが、にわかには信じがたいと思っていた。カルチャーの住民が自分自身を変えてしまうのを受け入れていなかった。彼は、住民らが本当に快楽の瞬間を伸ばすことを選んだとは思ってもみなかった。ましてや、ほとんど全ての経験(とりわけセックス)を強化することのできる多種多様な薬剤分泌腺を体内で増殖させるなど想像すらしていなかったのだ。しかしある意味では、これは理にかなっていると彼は自分自身に言い聞かせた。ドローンやマインドの方が物質的にもエネルギー的にも効率的な時代に、強さや知性のための超人を生み出しても無意味なのだ。しかし快楽は……たしかにまあ、別問題だ」(p. 260)

※11 Consider Phlebas, p. 64.

※12 「[イディラン人は]敵が自分たちのことをほぼ完璧に理解している一方で、カルチャー内で機能している信念、責務、さらには恐怖や士気の影響力を自分たちが総合的に誤解してしまっているとは想像できなかった」(Consider Phlebas, p. 456)

※13 Use of Weapons, p. 101.

※14 ベイーチェはUse of Weaponsの中で次のように述べる。「ザカルヴェ。これらすべてのことについて、カルチャーは君が想像するほど無関心ではないかもしれないんだ。カルチャーは、他の〔文明の〕人々が自分たちのようになるのを望んでいるのだよ、 シェラルデニン。カルチャーはテラフォーミングを行わない。なので、他の文明人もテラフォーミングを行うのを望んでいない。これにも議論の余地はある。君も分かっているだろう。(……)カルチャーは機械の感性を盲信していて、誰もがそうすべきと考えているのだ。それだけならまだしも、私が思うにカルチャーは、あらゆる文明が機械によって運営されるべきだと信じている。これを望む人は少ない」(p.241)

※15 Consider Phlebas, p.451.

※16 以下も参照のこと。Andrew Potter, The Authenticity Hoax (Toronto: McClelland & Stewart, 2010), p. 263.

※17 ポターはThe Authenticity Hoaxで次のように指摘している。「人類発展の終着点、つまり認識を巡る古代からの苦闘の集大成が、権利章典とベストバイ〔訳注:アメリカの家電専門のディスカウントショップ〕の混合に過ぎないとの示唆は、どんな人にであれ不安感をもたらすだろう」(p. 239)

※18 ザカルヴェはUse of Weaponsの中で次のように述べる。「むかしむかし、重力井戸を超えたはるかかなたに、王も法律もお金も財産もない、魔法の国がありました。誰もが君主のように暮らし、礼儀正しく、全てが満たされていました。皆平和に暮らしていました──ですが、退屈もしていたのです。時の経過によってこの有様に至ったことで、楽園は使命としての善行を開始しました。住民は裕福でない地域への慈善訪問を行うことになったのです。君はこう言いたいのだろう」(p. 29)

※19 これは『ゲーム・プレイヤー』においてもっとも明らかである。

(了)

*『SFマガジン』(早川書房)2021年12月号より転載

WHY THE CULTURE WINS : AN APPRECIATION OF IAIN M. BANKS by Joseph Heath
Copyright © Joseph Heath 2017
Permission from Joseph Heath arranged through The English Agency (Japan) Ltd.

著者紹介:
ジョセフ・ヒース(Joseph Heath)

1967年生まれ。哲学者。トロント大学哲学部教授。同大学ムンク国際問題・公共政策大学院教授。同大学倫理学センター元所長。著書に『ルールに従う』『資本主義が嫌いな人のための経済学』『啓蒙思想2.0』など。

著者新刊情報

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