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カンピエッロ賞受賞『甘くない湖水』(ジュリア・カミニート/越前貴美子訳)訳者あとがき

早川書房から、2023年11月7日にイタリアの小説『甘くない湖水』(ジュリア・カミニート/越前貴美子訳)を刊行いたします。イタリアの二大文学賞、ストレーガ賞の最終候補に残り、カンピエッロ賞を受賞した、イタリアで18万部超の話題小説です。こちらのnoteでは、訳者の越前貴美子さんによる「訳者あとがき」を公開いたします。


◆あらすじ

私の母は掃除婦をしながら四人の子どもを育て、障がいを持つ夫を支えた。厳しくも誇り高い母からは、勉学に励み、正しく生きることを強要されてきた。だが私は、貧しさや不条理におしつぶされ、母の厳格さにも息苦しさを覚え、鬱積した心の闇から、次第に暴力的な衝動に駆られていくーー。湖畔の町で10代から20代を過ごした少女、ガイアの内面をつぶさに描き、カンピエッロ賞を受賞、ストレーガ賞最終候補となった傑作長篇、待望の邦訳。

◆訳者あとがき

 本書はジュリア・カミニート『甘くない湖水』(二〇二一年、ボンピアーニ社)の全訳である。本作品は、イタリアの最も重要な文学賞であるカンピエッロ賞とストレーガ賞の、それぞれで最優秀賞と最優秀賞最終候補に選ばれ、世界中の多くの言語に訳されている。
 カミニートは一九八八年にローマで生まれた。二〇一六年に最初の小説 La grande A(『大きなA』)を発表して、ジュゼッペ・ベルト賞、バグッタ賞、ブランカーティ賞を受賞し、注目を集めた。その後、二〇一七年に短篇集Guardavamo gli altri ballare il tango(『私たちは他のみんながタンゴを踊るのを見ていた』)を、二〇一八年に童話La ballerina e il marinaio(『踊り子と漁師』)を、二〇一九年にフィエーゾレ賞を受賞した小説Un giorno verrà(『いつかやって来るだろう』)を、二〇二〇年に子ども向けのMitiche. Storie di donne della mitologia greca(『ギリシャ神話の女性のはなし』)を発表し、ついに『甘くない湖水』でベストセラー作家の地位を不動のものとした。まだまだ若いカミニートの、今後の活躍が期待される。

 本書の冒頭において読者は、語り手の母アントニア・コロンボの、恐るべき形相の描写に度肝を抜かれる。面会の約束も取らず役所の奥まで入り込み、職員によって放り出されながら、住む権利すら与えられていない自分の住居について窮状を訴え、窮状を改善しようとしない役所の非情を罵り、座り込みを決めたアントニアの、スカートは裂け、ブラウスははだけている。
 訳者も冒頭のシーンには驚いた。実は、訳者が本作品を初めて読む機会を得たのは、作品を訳すことになる前のこと。二〇二一年度ストレーガ賞の国際審査員としてであった。最優秀候補に残った十二作品をすべて読み、その中から最優秀として推す作品を決める過程で、本作品は冒頭のインパクトにおいて群を抜いていた。ローマにある半地下の穴倉のような場所に認可もなく住む貧しい語り手一家の暮らしは、想像を絶する世界であり、著者が作品世界をどこまでデフォルメして表象しているのかが掴めず、戸惑うしかなかったというのが正直な感想であった。
 ところが、この特異な場面設定に驚きつつも、よどみのない語りのリズムに乗せられて読み進むうちに、読者はアントニアの娘ガイアの目を通した物語世界の現実へと引き込まれていく。著者の語りがもつすさまじい力と、登場人物たちが巻き起こす驚くばかりの出来事によって。
 本作品をひとことで表すとすれば、ガイアの〈成長の物語〉となるであろう。そのなかで〈母と娘〉、〈友情〉、〈家(族)〉のテーマが、イタリアが近年抱える社会問題を背景として扱われた青春小説である。と、このように要約しても、平凡なイメージを与えるだけで、残念ながら作品の魅力は伝わらない。少し内容に立ち入ってみよう。

 物語の始まりにおいて、ガイアはまだ小さな女の子である。父親違いの兄と、双子の赤ちゃんの弟たちがいる。複雑な家族構成の一家はもうじゅうぶんに貧しかったが、一家を支えるはずの父親が、仕事中に足場から落下して足を切断。車椅子の生活を強いられる彼に代わって、母親が家族全員の生活をひとりで背負うことになる。こうして、家族を養うためにがむしゃらに働き、劣悪な住環境を改善すべく役所に怒鳴り込み、何が何でも居住の認可を手に入れようとする、母親の存在感は増していく。
 若くして人生のありとあらゆる不幸や不運を生きてきた母親の口癖は、「ほしいものを手に入れるには、主張し続けなければならない」であり、子どもたちはそんな彼女の、正しく生きるという目的に則って人生を切り開こうとする姿を見て育つ。しかし、しっかり者の母親は、往々にして娘に重圧を与える存在にもなり得る。母親の苦労を知るガイアは、必死で勉強して優秀な成績を収めるものの、思春期になると、自分を支配しようとする母親に反抗心を抱くようになる。そしてそこに、周りの友だちに許されるのに自分には決して許されることのないささやかな贅沢や、貧しい家庭に育つ自分をからかうクラスメートへの恨みが加わり、大きな怒りとなってガイアを爆発させる。読者は、ガイアが引き起こすいくつもの事件を、ひやひやしながら読むことになる。
 中学校から高校へと進み、ガイアが大人の仲間入りをすると、彼女が抱える問題は複雑で深刻になっていく。互いを縛り依存しあう友情と、中身のない恋愛が、彼女をいらだたせる。行き場のない怒りは増幅し、さらに友だちやボーイフレンドであると信じていた人物による〈裏切り〉によって火に油を注がれ、ガイアは復讐の欲望へと掻き立てられていく。こうして、取り返しのつかない出来事や事件の、目撃者あるいは当事者になっていく。どうしてこうも傷つけ合わなければならないのか。彼女が繰り返し味わう暴力的な痛みは、読み進めるのが辛くなるほどである。
 巻末の覚書にあるように、本作品は自伝ではないが、著者が周りの人の経験を見聞きして抱いた痛みが書かれている。だからこそ、表象された出来事は臨場感にあふれ、ガイアに寄り沿う読者は、ヒリヒリした痛みを自分のもののように共感する。
 しかしながら、苦い青春の記憶に満ちた本作品を読み終えて読者が抱くのは、嵐が去ったあとの静けさに似た穏やかな読後感であり、物語の〈これから〉には希望すら感じられる。
 ガイアの怒りの爆発の果てに、著者がいかにして希望を書き込むことができたのかを知るには、ガイアの心の痛みを読者として引き受けたうえで、物語を最後まで注意深く読むしかない。著者は巧みな語りの戦略によって、取り返しのつかない出来事を、最後に実に見事に回収させる。デフォルメされた母親の姿はもとより、ガイアが臓腑の中で育てる憎しみのヘビや、自分がしてしまった取り返しのつかない行いから逃げようとする彼女の姿に重ね合わされるイノシシといった比喩とともに、著者の手腕によって、ガイアの感情の変化が目に浮かぶ形と熱量をもって読者に差し出されるのである。『甘くない湖水』がイタリア文学に与えられる最も重要な賞を受賞した理由が、ここにある。どうすることもできない貧しさや不運、裏切りに対する怒りや憎しみに満ちたガイアの物語に、著者はいかに希望を書き込んだのか。

 物語の舞台は、一家がはじめに住むローマと、ローマから引っ越してガイアが青春を送る、アングイッラーラ・サバツィアという人口二万人にも満たない小さな町である。ラツィオ州にあるこの町は、ローマからわずか四十キロメートルという通勤通学圏に位置し、ブラッチャーノ湖畔にあって風光明媚なことから、首都圏に住むイタリア人や外国人に居住地としても避暑地としても人気がある。著者が描写するとおり、湖岸から、その昔サラセン人の攻撃を防ぐために築かれたという大きな門を通って石畳の坂を上がって行くと、入り口を突き合わせて民家が立ち並ぶ狭い路地が教会へと通じている。教会前のテラスからは、瓦屋根の連なりと、その下方に明るく輝く青い湖面が広がっているのが見える。この町を訪れる者は、猫を追って迷路のような路地を歩くガイアが、洞窟のバール前で知り合いの男の子に出くわす場面や、建物の屋根に上って花火を見る場面を、まさに追体験できる。
 ガイアの母親が、家族をよき方向へ導き、一家が平和に暮らせる場所として選んだこの町で、ガイアの青春の出来事のすべてが起きる。そのうちのひとつで、ボーイフレンドと行ったディスコから、いや気がさしたガイアが湖畔の暗い車道をひとり歩いて帰る箇所を引用する。

 湖の音だけが私の連れだった。たまにしか聞こえない湖の音は、海の音とはまったく違っていた。実際、湖水は普通メロディーを奏でなかった。水は澱んでいて動かず、湖面はきらきらして物を映すだけだった。たまに風が吹く時だけ、水は歌をうたった。

 町のシンボルである湖は、このようにいつもそこにあって、ガイアの青春を見守っている。友だちのエレナに裏切られたガイアが、待ち合わせた砂浜でエレナをひどい目に合わせるときも、当然、湖はただ事件が起きる場所としてそこにあるだけだ。
 もっとも湖は、ガイアの苦い青春の一部始終を静観していると同時に、輝くばかりの若さの舞台にもなる。男の子たちに混ざって突堤から飛び込みの競争をして勝ったことや、砂浜にタオルを敷いて友だちとノンシャランな昼下がりを過ごした思い出が、夏の太陽に照らされた突堤の地面の焼けるような熱さや、友だちのふざけた踊りや言葉とともに、幸せな記憶として読者に印象付けられる。湖にはガイアの記憶がしっかりと宿っている。

 湖がガイアの青春を見守る役目を終えたとき、一家は湖畔の町を後にしてローマへ戻る。『甘くない湖水』の物語は、つまり円環構造になっている。
 最終章において、ローマに戻ったガイアが家のバスルームの水道の蛇口を開けると、水がほとばしり、キッチンや居間の床を浸してあふれた水位が上がり、空気も家の中を巡っていく。このシュールで象徴的な場面は、湖畔の家からローマの家へのバトンタッチを思わせ、圧巻である。ガイアは目を閉じて数を数え始める。
 十二に分かれた章立てのあと、「湖は魔法の言葉」と題した数ページが添えられている。ここでは、それまで作品を通して〈私〉と称していた語り手のガイアが、逆に、ガイアを〈あなた〉と呼びかける語り手へと取って代わられる。この新たな語り手は、湖畔の町の新市街を青春の記憶に導かれて車で巡る彼女の姿を、神の視点で追っていく。そうしながら、車道が二つに分かれる地点に差し掛かったとき、ガイアの道行の描写に終始していた語り手が、いきなり複数形の〈私たち〉を名乗り始める。そうして、遠回しで撮っていたカメラが急にフォーカスするかのように、車を運転しているガイアの元へ降り立ち、「どうするかはあなたが決めること」と言う。自分たちはそこに自転車を停めることにしたから、「あなたは車から降りて歩いて行きなさい」と言う。当箇所で初めて読者は、ガイアの道行に寄り沿ってきて、車道の分岐点でこう言いながらガイアの背中を押す〈私たち〉が、かつてこの町を共に自転車で走り回った仲間たちであることを知る。
 今、ガイアは、ひとり記憶の中へと入っていく。失われてしまった友情を取り戻すために。

 最後に、邦訳タイトル『甘くない湖水』(L’acqua del lago non è mai dolce)について。これは、普通に訳せば、「湖水は決して甘くない」となる。苦い出来事に満ちた青春時代を送ったブラッチャーノ湖の水は、ガイアにとって苦かったのだろうか。そう考えるのは自然である。ただ、思い出してみよう。作品中に一度だけ、ガイアが「湖の水はいつだって甘い」と歓喜に溢れて叫ぶ場面があったことを。それは、大切に思っていた友人イリスが自分を棄てて別の友人アガタに鞍替えしたと思ったガイアが、イリスへの腹いせに、新しくできた友人エレナとの親密さを見せつけようと、みんなで過ごす湖上でエレナとじゃれながら調子に乗ってそう叫ぶ場面である。つまり、エレナといれば甘美だと。「湖の水はいつだって甘い」というガイアの言葉は、天邪鬼の言葉である。本当は、イリスがいなくて「湖の水は苦い」にもかかわらず、言ってしまった言葉。
 タイトルに関しては、時制にも注目を。ガイアが湖畔の青春時代を振り返って苦かったと感じたとの意味がタイトルに込められているとすれば、時制は過去形であるべきだ。もっとも、著者が過去形でなく現在形にしたのは、人生甘くないとの普遍的なメッセージにするためだったとも考えられる。しかし訳者は、タイトルの言葉が、ガイアから今は亡きイリスへ向けられたものであると考える。「湖の水はいつだって甘い」と腹いせに言ってしまった言葉を、勇気をもって自身の記憶に分け入ったガイアが、今、「湖の水は甘くなんかない」と言うことで、イリスに前言を撤回するのだと。このように訳者が考えるのは、ボンピアーニ出版社から二〇二一年に出版された版の表紙タイトルの「けっして」の文字mai が、そこだけイタリックになり強調されているからでもある。著者はお茶目にも、タイトルにこんな仕掛けを施している。
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 いつもイタリア語の疑問に答えてくれる親友Sonia d’Aroma と、ベルギーで本を読んで語り合ったみんなに、感謝を。
 なお、女性がより良く読み書きできることを願って、カンピエッロ賞の授賞式に赤のスニーカーで登場したジュリア・カミニートの、素晴らしい作品を訳す機会を与えてくださった早川書房の皆様に、とりわけ吉見世津さんに、心から感謝申し上げる。

 二〇二三年十月

◆著者プロフィール

ジュリア・カミニート Giulia Caminito

🄫 Luca Di Benedetto(禁転載)

1988年、イタリア・ローマ生まれ。2016年 La grande A (未訳)で作家デビュー。ジュゼッペ・ベルト賞、バグッタ賞、ブランカーティ賞を受賞した。2019年に発表した Un giorno verrà (未訳)ではフィエゾーレ賞を受賞した。2021年に発表した本作で、イタリア文学界最高峰のストレーガ賞の最終候補の残り、ストレーガ賞につぐとされるカンピエッロ賞を受賞し、イタリア国内だけ18万部超のセールスを記録し、20言語以上での翻訳が決定した。