話題沸騰のミステリ『われら闇より天を見る』書評家・川出正樹氏による解説を全文公開!
発売後から話題沸騰のミステリ『われら闇より天を見る』(クリス・ウィタカー/鈴木恵訳)。今年絶対に見逃せないミステリである本作。まだお読みになっていない方はぜひお手に取ってみてください!
本日は、書評家の川出正樹氏による解説を全文公開いたします。
We Begin at the End
──ミステリと教養小説とロード・ノヴェルが一体となった
‟終わりから始める人々の物語”
書評家
川出正樹
「なにをやろうが、友だちは信用できる。それが友だちになるってことなんだ」
トム・フランクリン『ねじれた文字、ねじれた路』
「助けはない。誰も助けてはくれない。自分以外に頼れる人はいない」
フランシス・ハーディング『カッコーの歌』
「なぜならあたしはもう無法者だからだ」
ジョーダン・ハーパー『拳銃使いの娘』
We Begin at the End──人は終わりから始める。
生きていく中でつらい・終わり・を体験した時、人はどんな思いを胸に、何を選び、いつどこに向かって新たな一歩を踏み出すのか。クリス・ウィタカーの『われら闇より天を見る』は、その原題We Begin at the Endが端的に示すように、この普遍の命題をテーマに据えた奥深く滋味豊かな犯罪小説だ。
物語の核にあるのは、三十年前に起きた幼い少女の不幸な死。子供が子供を誤って殺してしまった傷ましい事件に対して、成人刑務所での懲役十年という厳しい判決が下る。そして三十年後、刑務所内での喧嘩により相手の囚人を殺害し二十年の刑を加算されたヴィンセントが刑期を勤め上げて帰郷したことが引き金となり、新たな惨事が連鎖的に起きていく。作者クリス・ウィタカーは、この一連の悲劇が引き起こした余波に巻き込まれ、人生を大きく変えざるをえなくなった老若男女の生き方と死に様を、飾り気なく力強い文章を連ねて悠揚迫らぬ筆致で描き上げる。
舞台となるのは、アメリカ合衆国西部の二つの場所だ。
ひとつは、太平洋の絶景を望むカリフォルニア州の断崖に彫りこまれたかのような、小さくてのどかな海辺の町ケープ・ヘイヴン。何世代にもわたってこの土地で暮らしてきた住民も多く、ほとんどの人々が顔なじみである一方、一年のうち十ヶ月間空き家状態となる富裕層の別荘が近年増え始めてきている。またカブリロ・ハイウェイ(カリフォルニア州道一号線)沿いの他の町同様、海蝕の進行による崖の崩壊が深刻化している。
もうひとつは、さえぎるものなき大空の下で、命を吹き込みきれないほど広大なモンタナ州の大地に拓かれた個人農場。ケープ・ヘイヴンからは千六百キロ離れ、数キロ圏内に町はない。地平線を山々が縁取る美しくも厳しい大自然と一体となったこの地は、傷ついた魂の持ち主をあるがままに受け入れ、内省を促す。
クリス・ウィタカーは、この対照的なふたつの舞台の上で、・終わりから始める人々の物語・を紡ぐにあたり、これもまたあらゆる点で対照的なふたりの男女を主人公に配した。
ひとりは、ケープ・ヘイヴン警察の署長を務めるウォークことウォーカーだ。両親が遺した家に一人で暮らす四十五歳で肥満進行中の独身男性。制服をきっちりと身につけ曲がったことは決してしない。正直者の少年がそのまま大人になったかのようなウォークは、生まれ育った平穏な町で通信係を除くただ一人の警察官として、二十年以上の間、地域住民と別荘族のためにパトロールし続けてきた。誰に対しても分け隔てなく親切に接し、自らの地位に満足する彼を賞賛する者もいる一方、軽罪以上の事件を手がけたことがないために憐れむ者もいた。「一度も港を出たことのない船の船長」だと。
多くの住民から慕われているウォークだが、三十年前の事件を契機に変化を拒絶するようになり、ケープ・ヘイヴンを旧き良き時代だと信じる姿、即ち、彼が十五歳の少年だった頃の状態のままに留めておくことに固執している。そうして自分自身も含め、すべてを変わらないままにしておけば、親友のヴィンセントが出所した時に、あの悲劇の前に戻って仲間とともに人生をやりなおせると信じているのだ。そのため、新たな土地開発や建設計画が提出されるたびに反対の立場をとり続けていて、十年ほど前にケープ・ヘイヴンに進出してきた巨漢の不動産業者ディッキー・ダークに対しては、常々疎ましく感じている。
もうひとりの主人公は、‟無法者”を自認する十三歳の少女ダッチェス・デイ・ラドリー。彼女は、自分のものは何一つ持っていない。父親がどこの誰かも分からない。それどころか子供時代すらなかった。というのも母親のスターは、妹のシシーが恋人のヴィンセントに誤って殺されてしまった三十年前の事件からいまだに立ち直れず、しばしばアルコールと薬物を過剰摂取するため、子供たちの面倒をほとんど見ることができないからだ。ダッチェスは、そんなスターの行動に目を配ると同時に、六歳の誕生日を間近に控えた幼い弟ロビンの人生を少しでもましなものにすべく、すべての力を注いでいる。
母親譲りのブロンドの髪と明るい色の眼に華奢な体。そんな恵まれた容姿とずば抜けた歌唱力を備えた中学生のダッチェスが、周りの人間に対して繰り返し「あたしは無法者だ」と言い放つ。それは、神様にイカサマされたかのような境遇にあって、世間の常識やルール、偽善や悪意に対して中指を突き立て、家族を守るためならば手段を選ぶつもりはないと自分に言い聞かせ続けるためだ。ダッチェスにとって、学校の課題で家系図作りの調べものをしていた際に知った、母方の血筋に西部開拓時代のお尋ね者のアウトローがいたという事実は、勝ち目のない手札を配られた人生を生き抜くための強力な縁であり、誇りなのだ。彼女は一度も泣いたことがない。
この対照的なふたりを中心に、クリス・ウィタカーは、過去と現在の悲劇に関わってしまった人々の怨嗟と憤怒、悲嘆と悔恨、失意と諦念、贖罪と救済、そして停滞と再起を、ミステリの結構を備えたビルドゥングスロマンのスタイルで、瑞々しく、荒々しく、情感豊かに描き、先述したテーマを浮き彫りにしていく。
物語は、一九七五年初夏の夜に行方不明になったシシーをケープ・ヘイヴンの住民が総出で捜す中、カブリロ・ハイウェイ沿いに横たわる彼女を、怖いもの知らずの十五歳の少年ウォークが発見するシーンで幕を開ける。わずか二ページ程の捜索活動の最中に、ウォークが牧師の娘マーサと三ヶ月前に付き合い始めたこと、将来警察官になりたいと思っていること、ヴィンセントとは九歳の時にたがいの手のひらを切り血を交えて友情を誓ったこと、シシーの姉スターはマーサの親友であること、そしてヴィンセントを含めた四人の少年少女が結束の固いグループであることが要領よく語られていく。
この簡潔なプロローグに続いて第一部・無法者が始まる。シシーの死から三十年が経った二〇〇五年六月初旬、ヴィンセントの出所を明日に控えたその日、子供の頃の願い通り警察官としてケープ・ヘイヴンの町に奉職するウォークは、崖沿いに集まる人混みのはずれに立っていた。海蝕が進み、また一軒、家が海へと落下していくのを見物する人々に目を配るためだ。時の流れと自然の力によって故郷が否応なく変わっていく瞬間をウォークに静かに見つめさせることで、作品のテーマを冒頭からスマートに提示する印象的な出だしだ。 次いで、ロビンの手を引いて自分の方に歩いてくるダッチェスの様相から、母親のスターがまたしてもアルコールを過剰摂取したと察したウォークがラドリー家に駆けつけ、子供たちと共に病院に同行する顛末が描かれる。翌日ダッチェスは、学校で前夜の出来事を揶揄する同級生に対して、「あたしは無法者のダッチェス・デイ・ラドリー、おまえは臆病者のネイト・ドーマンだ」「こんどうちの家族のことを口にしたら、首を斬り落とすからな」と威勢の良い啖呵を切る。
片や、退院したスターを心配して家を訪れたウォークは、愛想を尽かすのを不可能にするような笑顔で出迎えられる。そして、昨夜の不始末は、もう後ろを振り向かなくてすむために必要な行為であり、ヴィンセントと自分の家で会うのは無理なので連れてこないで欲しいと告げられる。
こうしていよいよウォークに出迎えられてヴィンセントが帰郷する。理由も明かされないまま面会を拒絶されて以来五年ぶりとなる親友との再会に気分が高揚するウォーク。だが、当のヴィンセントは、三十年ぶりに自由の身になれたにもかかわらず、すべてを諦めたかのようなうち沈んだ態度を崩さない。曾祖父が建てた廃屋寸前の屋敷に戻ってきたヴィンセントを待ち構えていた不動産業者のダークが、百万ドル出すから家を売れと執拗に迫る。絶景を望む海辺の土地を再開発するのに、最後に残ったヴィンセント邸が邪魔なのだ。ダークは同じエリアの貸屋に暮らす母子家庭のディー・レインにも法律を楯に立ち退きを迫り、ウォークに彼女を説得するよう強く要請する。
一方ダッチェスは、ヴィンセント出所から三日目の真夜中に、母スターが玄関先の枯れた芝生の上に顔面をひどく殴打された状態で倒れているのを発見する。ダークが経営するナイト・クラブでバーテンダーの仕事をしているスターが、数日前に家に押しかけてきた雇用主兼家主のダークと激しく言い争っていたことから、彼に殴られたと判断。仇を討つべくダークの店へと自転車で駆けつけ、過剰な報復を決行する。
帰宅したダッチェスが、自らの境遇とアイデンティティを再認識するシーンが、胸を衝く──「鏡を見ながら一センチほどのガラスのかけらを腕から引き抜き、血があふれ出てくるのを見つめた。その赤さを、そこにひそむ歴史を。心を鋼にしてくれる無法者の家系を」。
だが、激情に任せてダッチェスが投じた一石は、彼女の予想を遙かに超えた余波を生み、新たな惨事を引き起こしてしまう。
この百ページほどの第一部の中でクリス・ウィタカーは、小さな町の密接な人間関係を手際よく描き、一連の事件の遠因となる諸事情をさりげなく提示し、手がかりを配し、伏線を敷いて‟終わりから始める人々の物語”を堅固な謎解きミステリとして作り込んでいく。その入念さと大胆さは、最後にすべての真相が明かされた際に再読し、思わず唸ってしまうほどだ。
そして第二部・大空で、モンタナが舞台に加わり物語は大きく動き出す。ウォークは、シシーの事件後に町を去り、今や離婚と家庭問題専門の弁護士となっているかつての恋人マーサと思わぬ再会を果たすこととなり、ともに新たな殺人事件の真相究明に奔走する。ダッチェスは、生まれてから一度も会ったことがなかった祖父ハルとの邂逅に始まる一連の体験を通じて青年への道を歩き始める。その道は紆余曲折を経て、第三部・清算での彼女の「生涯にわたる過ちの数々を正しに行く道」へと繋がり、第四部・愛惜へと至る。
世代も性別も境遇も信条も、すべてにおいて正反対のウォークとダッチェスだが、一つだけ共通するものがある。それは二人とも、自分ではなく他人の幸せのために生きているという点だ。ダッチェスは弟ロビンのために、ウォークは親友のヴィンセント、そして彼が愛したスターとその子供たちであるダッチェスとロビンのために。無法者と法執行官。コインの裏と表のようなふたりが、逆境に臆せず周りの人間の思惑を意に介さず、己の信念に従って突き進む。
それは無私の行為だ。だが作者は、手放しで賞賛するようなことはしない。よかれと思った行為は、必ずしも相手のためになるわけではないし、ある人にとって望ましいことが別の人には厄介な問題になることもしばしばだ。崇高な動機も実は心の脆さに根ざすことは少なくない。ウォークもダッチェスも人一倍傷つきやすい魂の持ち主ゆえに己を殺し、それぞれが信じる‟正義”を心の支えに理不尽な現実に抗って生きているのだ。
この主人公ふたりを始めとして登場人物のほぼ全員が、それぞれ深刻な問題を抱えているために、一つのことしか見えない状態になっている。辛い過去から逃れたい、幸せだったころに戻りたい。厳しい現実を打破したい、愛するものを救いたい。復讐を果たしたい、罪を償いたい。そんな信念に凝り固まってしまった結果、周りが見えなくなり、ついには良いと信じる目的のためならばこの程度の逸脱は大した問題じゃないと自分自身に言い訳をして、一瞬の激情に任せた愚かな行為に手を染めてしまうのだ。そしてその波紋は、次の悲劇を呼び起こす。
クリス・ウィタカーは、人がディスコミュニケーション状態に陥った時、自らの行為がどんな影響を及ぼすのかを考えないまま突っ走ってしまう愚かさと怖さと哀しさを、冷徹な慈悲を持って描き出す。ヴィンセントのもとを訪れたウォークに矯正施設の所長カディがしみじみと漏らす言葉が忘れがたい。曰く、「悪に程度などないのかもな。一線をどのくらい越えたかなど、問題じゃないのかもしれん」。
無論、人は誰でも過ちを犯す。そして犯した罪は贖われなければならない。けれども贖罪は必ずしも容赦と呼応しない。過ちを犯した者は、どうすれば赦されるのか。どうしたら罪の意識から解放されるのか。『われら闇より天を見る』は、人が生きていく中で決して逃れることができないこの難問に正面からがっぷりと取り組んだ傑作だ。作者クリス・ウィタカーがたどりついた結論は、We Begin at the End──人は終わりから始める、という原題に端的に示されている。
人は誰一人として人生の始まりを選ぶことはできないが、‟終わり”を選ぶことはできる。それは、単純に死を選ぶということではなく、これまでの人生に区切りを付ける時が来たと判断することを意味する。そうして過去を清算し、先に進むべく新たな一歩を踏み出すのだ。
ダッチェスとウォークの生き方を通じて、作者は読者に訴えかける。人は、何度も間違え、躓き、そのたびに手痛いダメージを受けても、学び、選択し、責任を引き受けて先へと進んでいくのだと。
クリス・ウィタカーはロンドン生まれのイギリス人。子供の頃から読書が好きで、デニス・ルヘインやテス・ジェリッツェン、ジョン・グリシャム、そしてスティーヴン・キングといったアメリカ人作家のミステリを読んで育つ。とりわけキングはお気に入りで、親から読むのを禁じられていた『IT』を図書館からこっそり持ち出し、死ぬほどびびっていたそうだ(「図書館警察」!)。
高校時代に、同級生たちがしっかりとした将来の夢を持っているのに対して、自身の将来像を描けないことから不安と嫉妬を抱えた毎日を送り、経済学の試験前夜に泥酔。気がついたら病院に運ばれていて、大学進学のチャンスを失ってしまう。パン屋やスーパーマーケットに勤めた後、不動産業者として働いていたときに暴漢にナイフで襲われ重傷を負い、深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、寝食もままならない状態に陥ってしまう。そんな辛い日々の中で執筆療法について知り、主人公を自分自身から少女に変えて、ことの顛末を書き記していく。このとき生まれたのがダッチェスだ。ただし、この世の不幸を肩に背負った少女を主人公に、思いつくままに断片を書き連ねたもので、『われら闇より天を見る』とは、まだかけ離れたものだった。 こうして自身に起こっていることすべてを他の誰かに投影することで、ようやく心の安定を取り戻したクリス・ウィタカーは、二十歳の時に、たまたま新聞で株式仲買人が愛車のフェラーリと一緒に写っている記事を読み、自分もそんな夢のような生活がしたいと思ってロンドンの金融街で働き始める。二十四歳の時に、かねてからの念願が叶ってフィナンシャル・トレーダーに昇格するも、二万ドル失ったら取り引きを止めるようにという上司の指示を無視して、初日に二百万ドルの損失を出してしまう。警察に行くか、働いて半額を返済するかを迫られて後者を選択。妻にも言えない秘密を抱えてしまったストレスから再びダッチェスの物語を書き始める一方、がむしゃらに働き三十歳の誕生日を前に巨額の借金を完済する。
ちょうどその頃、ジョン・ハートの『ラスト・チャイルド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読んで感激したクリス・ウィタカーは、成功した弁護士であるハートが、妻子のある身で事務所を辞めて作家になる決断をしたと知り、自身も昇進の話を断って退職する。そしてスペインに引っ越し執筆を開始。二〇一六年にアメリカ西海岸の小さな町トールオークスを舞台した『消えた子供 トールオークスの秘密』(集英社文庫)を刊行。誰もが顔見知りのスモールタウンで、幼児失踪事件をきっかけに、狭い共同体で日々を送る人々の秘密や溜め込んできたものが明るみに出て、ある者は積極的に、ある者は不本意ながらこれまで歩んできた人生と向き合い変容していく様を、シリアスさとユーモアを交えた文章で瑞々しく描いた。このデビュー作で二〇一七年の英国推理作家協会(CWA)賞ジョン・クリーシイ・ダガー(ニュー・ブラッド・ダガー)賞(最優秀新人賞)を受賞し、一躍注目を浴びる。
翌年、アリゾナ州グレイスという同じく小さな町を舞台に、五人の少女が行方不明になったのに続いて双子の姉が消えてしまった謎を妹が探るAll The Wicked Girlsを発表する。
そして二〇二〇年、それまで二十年近くにわたって断続的に書き続けてきたダッチェスの物語に本格的に取り組み、三年の歳月を掛けた第三作『われら闇より天を見る』を満を持して刊行。見事、二〇二一年の英国推理作家協会(CWA)賞ゴールド・ダガー賞(最優秀長篇賞)をはじめ、オーストラリア推理作家(ACWA)賞(ネッド・ケリー賞)最優秀国際犯罪小説賞、シークストン賞最優秀賞を受賞する。
二〇二二年現在の最新作は二〇二一年に発表したThe Forevers。小惑星の衝突により地球滅亡まであと一ヶ月という状況下で、自殺とも他殺ともわからないかつての友人の死の謎を、幼い頃に両親を亡くした十七歳の少女が調べ始めるヤングアダルト小説だ。
デビュー作以来、一貫して舞台をアメリカに設定しているクリス・ウィタカーだが、イギリス人である彼が、なぜ他国を舞台にした作品を書くのかという質問が、本国のインタビューでもしばしばなされている。それに対するクリス・ウィタカーの回答は、アメリカは犯罪小説を書く作家にとって理想的な舞台だから、というものだ。犯罪そのものよりも、その余波に強い関心を抱くウィタカーは、具体的には、銃器問題や小さな町の保安官、FBIの存在といった犯罪絡みの法律や警察機構を挙げている。さらに、『われら闇より天を見る』に関しては、大きな物語を描ける広大で変化に富んだキャンバスが必要であり、ロード・ノヴェルとしての展開も併せ持つこの作品は、一国の中に世界を内包するようなアメリカでなければ成り立たなかっただろうと述べている。ちなみに作者は、コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』(ハヤカワepi文庫)を生涯の愛読書として挙げており、人生を変えた書である『ラスト・チャイルド』とともに、本書には舞台設定から文体、人物造形に至るまで、これら不朽の名作の影響が随所にうかがえる。
作家業のかたわら、地元ハートフォードシャーの図書館でパートタイムで働き、本書をどのジャンルの店に並べれば良いのか迷うと述べているように、謎解きミステリ、リーガル・スリラー、ロード・ノヴェル、青春小説、教養小説と様々な要素が一体となった‟終わりから始める人々の物語”を、多くの人に手に取って貰いたい。
二〇二二年六月