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原尞、14年ぶりの新作『それまでの明日』(3月1日発売)第1章

原尞『それまでの明日』(2018年3月1日発売)

著者紹介ページ原尞(はら・りょう)、その7つの伝説とは?

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 西新宿のはずれのうらぶれた通りにある〈渡辺探偵事務所〉を訪ねてくるのは、依頼人だけではなかった。古びたドアをノックしさえすれば、記憶を失くした射撃選手も、性転換したゴースト・ライターも、探偵志願の不良少年もおかまいなしに入ってくることができた。一億円を奪われた暴力団員も、私を殺したい悪徳警官も現われた。もっとも、最後の警官だけは私の留守中に押し入っていたので、ドアをノックしたかどうかは不明である。事務所の入口に〝依頼人以外お断わり〟と貼り紙をしている同業者も多いのだが、それだけで彼らを撃退できるとは思えなかった。歓迎すべからざる人物の訪問はこの稼業の避けがたい一面であり、かりに聖人君子などがご入来したとしても、手ぶらでお引き取り願うしかないのだった。
 私は一ツ橋の近くにある興信所の雇われ仕事での張り込みを交替したあと、三日ぶりに自分の事務所に立ち寄った。日増しに寒くなる十一月初旬の夕方のことだった。あしたの夜の張り込みに備えて、ロッカーからコートを取り出そうとしていると、ドアにノックの音がした。「どうぞ」と答えると、五十代半ばの男がドアを開けて、事務所に入ってきた。
 驚いたことに、来訪者はまぎれもない紳士だった。そんなものはこの世ではとうに絶滅していると、私は思っていたのだ。紳士とはどういうことだと訊かれても返答に窮しただろう。一つだけ言えるのは、ドアの前で静かにたたずんでいる人物が、なぜだかこちらの気持まで紳士的にさせる不思議な能力を持っているということだった。
 私はロッカーから離れて自分のデスクにもどった。私の身ぶりで、来訪者は来客用の椅子に近づいた。かすかに左足を引きずるような歩き方には、ものなれた動きと落ち着きがそなわっていた。椅子に腰をおろして、まっすぐ私に注がれた眼には、ここを訪れる依頼人のほとんどが見せる不安げな様子はなかった。
〝彼は依頼人ではないな〟というのが、私の第一印象だった。私より年長であり、私より収入も多く、世の中のあらゆることに私より優れた能力を発揮できそうだった。探偵の仕事なら私のほうが上だと思うが、探偵に解決してもらわなければならないような問題が生じたとしても、たいていのことは自分で解決できる人間に見えた。
 時候の挨拶などお定まりの会話をひとしきり交わしたあとで、来訪者はようやく用件を切り出した。私の推量はみごとにはずれていた。
「うちの社ですでに融資が内定している、赤坂の料亭の女将の私生活を調査していただきたい」
 望月皓一はよく知られている金融会社の新宿支店長だった。金融業にたずさわる人間が紳士に見えるようでは、私の観察眼もあまり当てにはならないようだった。だが、金銭を扱う人間は紳士ではないと決めつけるのは公平な態度とは言えなかった。
「探偵の沢崎です」と名乗ってから、私は言った。「少し問題があります。きょうは水曜日ですが、実は今週いっぱいはよその興信所から頼まれている仕事が残っているので、ご依頼の件に取りかかることができるのは、来週からということになります」
「それで結構です」望月は白いものがちらつきはじめたこめかみのあたりをなでた。「今月中に、調査の結果がうかがえれば十分です」
「興信所の話も出たので、言っておかなければならないことがあります。依頼されたような女性の身辺調査は、個人営業の私などより、人員に余裕のある興信所のほうが、調査の精度も効率も格段にあがるはずです」
 正直な探偵なら、当然のすすめである。私は正直な探偵ではないが、この手の依頼はあまり気がすすまなかったのだ。
「そうですか」望月は私の意見を考慮していたが、やがて結論を下した。「やはり、あなたにできる限りの調査をお願いします。その調査次第では、もっと人員をかけた詳細な調査が必要になるかもしれませんが……あなたが今週まで仕事をされているという興信所は、優秀なところですか」
「調査費用がそれほど高くないわりには、確実なところだとは言えます」
「では参考までに、そちらの連絡先をうかがっておくことにします」
 私は〈一ツ橋興信所〉の名前と電話番号を教えた。彼がそれを自分の手帳に書きとめたところで、私は自分の名刺を渡した。彼は名刺を手帳に挟んで、コートのポケットにしまった。
「電話は職業別の電話帳にも載っています」
 望月はそれから十五分ほどで、赤坂の料亭〈業平〉の女将の平岡静子という女性の身辺調査に必要な事項を話し終えると、探偵料を前払いしてから、正式に私の依頼人となった。私が一日の探偵料を答えると、一週間分の料金と経費の一部にはなるでしょうと、会社の名前入りの封筒をデスク越しに渡した。
「失礼ですが、きょうのところは三十万円をお預けしておきます」
 私の経験からすると、安くない探偵料を前払いしたがる依頼人は、あまり紳士的ではない注文を口にすることがしばしばだった。
「これが私の連絡先です」と、彼は名刺入れから名刺を一枚抜き取って、私に渡した。
〈ミレニアム・ファイナンス〉の新宿支店の支店長の名刺だった。表には代表電話の番号が印刷されていて、裏には本人の自宅マンションの電話番号が手書きされていた。
 望月が私の手の中にある名刺に視線を注いだまま、考えをめぐらしていた。このあたりで飛び出す不当な注文のために、私はこれまでに助手の一人ぐらいなら雇えるほどの収入を棒に振ってきた。
「なにか?」と、私は訊いた。
「料亭の業平は赤坂でも指折りの老舗なのですが、うちからの融資話が外部に漏れると思わぬ差し支えが生じることもあると聞いていますので、その件だけはくれぐれも内密にお願いいたします」
「わかりました」
「来週の土曜日には、電話を差しあげるか、こちらにうかがって、それまでの調査結果を聞かせていただくつもりです……それで、あなたのほうからはなるべくなら電話しないでいただきたいのですが」
「無用の電話はもちろん控えるつもりですが、なにか特別の理由でも?」
「お恥ずかしい話ですが、少しばかり会社の事情があるのです」
 望月は会社の事情なるものを、彼らしい穏やかな口調で説明した。会社の内情に属することなので、ためらいながらの話は遠まわりしがちだったが、私なりに要約すれば次のようなものだった。
 ミレニアム・ファイナンスでは、経営能力に乏しい二代目社長を擁する専務派と、それに対抗して経営の健全化を図ろうとする常務派の二つが勢力争いをしていて、望月は後者に属しているのだという。今回の赤坂の料亭の増改築にともなう平岡静子への融資は、専務派が率先してすすめている案件で、一応取締役会での承認を得てはいるのだが、常務派としては彼らの絶対安全という保証を鵜呑みにしていいかどうか疑問の余地があった。とくに望月が支店長を務める新宿支店がそれを担当させられることになってからは、来月初めの最終判定までにできるだけ情報を収集し、専務派の融資計画に不正な意図が隠されていないかを、慎重に監視することになったのだという。
 私への調査依頼の件も、常務派の選り抜きの者だけですすめている極秘事項であり、新宿支店内に専務派に通じている者がいないとは限らないので、私からの電話などで彼らに不審を抱かれるようなことは極力避けたい、ということだった。
「そういう事情で、通常の業務のあとも、常務たちとの打ち合わせや内密の会合がつづく毎日なのです。中野の自宅は夜遅く帰って、睡眠をとるだけの場所になっている始末ですから、よほどの緊急の用件でない限りは、連絡は控えていただけるとありがたいのですが」
「よくわかりました」と、私は言った。「ご希望にそうようにしましょう。来週の土曜日の連絡を待っています」
 依頼人の望月は話し終えると、ようやくくつろいだ様子になった。コートの前を開けてから、来客用の椅子に少し楽な姿勢で坐りなおした。
「すでにおわかりでしょうが、おすすめの興信所のような大きいところを避けて、こちらにうかがったのも、そういう事情からでした」
「うちを選ばれたのは、電話帳からではなさそうですね」
「そうです。私はこちらの探偵事務所のことは……たぶん、二十年以上前ぐらいからよく存じていたんですよ」
 私は望月の顔をもう一度よく見直した。見憶えのある顔ではなかった。
「いや、存じていたと言っても、それはあなたのうしろの窓ガラスに書かれている〈渡辺探偵事務所〉の看板のことなんです。ここから少し入った北新宿公園の近くに古い知人の住まいがあって、そこを訪ねるときに気づいて以来、とても気になる看板だったんです」
「おかしなものがあるなという?」
「最初に気づいたときは、あるいはそういう感想をもったかもしれません。しかし、五年経っても、十年経っても、前の通りから見上げると、何事もなかったようにいつもちゃんとそこにある。夜分に通ったときに、窓に明かりが点いていることがありましたから、看板だけが残っているようなものではないこともわかりました。それに較べて、自分の勤め先がこの二十年間にいくつ場所を変えたかを考えると、それまでは常識だと思っていた自分の価値判断の基準が少しばかりあやしくなってきたのです」
「看板の内側をごらんになった感想はどうです? 常識がもどってきたのではありませんか」
 望月は首を横に振った。「そんなことはありませんが、私が意外だったのは、お会いするのはもっと年配の探偵の方だろうと思っていました」
「ほう」
「こちらの看板に気づいてから、おそらく二度目か三度目に前の通りを歩いていたときのことだったと思います」望月の視線は遠くに懐かしいものを見つけたような感じだった。「ちょっと一服したくなって、窓ガラスの文字を見上げながらタバコを喫っていますと、急に窓ガラスの一枚が開いて、私より一まわりぐらい年配の方が、同じようにタバコを片手に顔を出されたんです。私が驚いて、タバコの火を消そうとあわてていると、「どうぞ、ごゆっくり」と声をかけられました」
「それは、たぶん私の元のパートナーで渡辺という者です。事務所の名前はそのままになっているのですが、その後、ここは私がひとりで引き継いでいます」
 望月の顔は、渡辺の消息を聞きたがっているように見えた。
「渡辺が亡くなって、もう十七、八年が経ちました」
「そうでしたか」
 私はデスクの上のタバコを手にとって、彼にすすめた。
「タバコは五年前にやめてしまいました。きょうはそれが少し残念です」彼は金融業者らしからぬ屈託のない笑みを見せた。残念なのは、タバコをやめたことのようでもあり、渡辺に会えなかったことのようでもあった。
 元パートナーの渡辺賢吾がらみの依頼は、探偵の仕事としてはこれまでさんざん苦労させられたものばかりだったが、こんどばかりはそうはならないようだった。結局のところ、望月皓一の依頼は実にありふれたものだった。私の失望は大きかったが、それを顔に出したりはしなかった。私はひとに指図される雇われ仕事から、一日も早く解放されたかったのだろう。あまり気がすすまない身辺調査の依頼を引き受けた理由は、それに尽きていた。
 私は依頼人に抱いた第一印象から、彼ほどの人間にも解決できないような、もっと深刻な依頼を期待していたのかもしれなかった。依頼人の中には、こういう当たり障りのない社用の調査などで探偵の能力や信用度を試してから、おもむろに自分自身の切実な用件を切り出す者が、これまでにも五本の指にあまるほどあったからだ。こんどの依頼人の場合も、その可能性が完全になくなったとは言いきれなかった。
 私は語気を強めて訊いた。「ほかになにか話しておくべきことはありませんか」
「……ないと思います」依頼人の顔にそのとき初めて見るような表情が浮かんだが、それはすぐに消えた。「では、お手数をかけますが、よろしくお願いします」
 望月は来客用の椅子から立ちあがった。期待しているような依頼を引き出すつもりで、私がもう一押ししていたら、状況は変わっていただろうか。それはわからなかった。
 探偵を稼業にしてかれこれ三十年近くなるが、依頼人が友人になったことは一度もなかった。仕事が終わったあとで、私の仕事ぶりに満足しなかった依頼人はそんなにいなかったはずだ。友人にしたくなるような依頼人が一人もいなかったわけではない。だが、依頼人が友人になることはなかった。探偵の仕事とはそういうものだった。
「こういう経験は初めてなので、このビルの階段を上ってくるときは、緊張もしていたし、少し迷ってもいたのです。でも、こちらにうかがって良かったと思います」望月はコートの前を閉じて、ドアのほうへ向かった。
 私も椅子を立ち、ドアのところで振り返った依頼人に向かって、ただ黙ってうなずいた。年長の人間に対して、私は敬意をはらうことにしていた。少なくとも、相手が年甲斐もない言動を取らない限りはそうしてきた。依頼人がもしも〝紳士〟でなかったら、私は彼の足を引き止めるために、敬意に欠けるような言葉を口にしていたかもしれなかった。
「来週の土曜日にまたお会いします」と言って、彼は私の事務所をあとにした。
 依頼人の望月皓一に会ったのは、その日が最初だった。そして、それが最後になった。

(第一章了)

原尞『それまでの明日』(早川書房)は2018年3月1日発売!



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