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私立探偵フィリップ・マーロウ、72歳!? シリーズ最新作『ただの眠りを』訳者あとがき

レイモンド・チャンドラーの〈私立探偵フィリップ・マーロウ〉シリーズを世界を放浪する異色作家ローレンス・オズボーンが引き継いだ最新作『ただの眠りを』が発売されました。なんと本書のマーロウは72歳! 訳者の田口俊樹氏によるあとがきで中身をご紹介します。

ただの眠りを

※書影はAmazonにリンクしています。
【書誌情報】
■書名:ただの眠りを
■著者:ローレンス・オズボーン
■訳者:田口俊樹
■発売日:2020年1月9日
■価格:本体1700円+税
■出版社:早川書房

訳者あとがき
田口俊樹

 チャンドラーの没後、マーロウものの長篇は本書のまえに3作書かれている。まず第1作は『プードル・スプリングス物語』(菊池光訳)で、チャンドラーの同名の未完の遺稿をロバート・B・パーカーが書き継いだ。第2作は同じパーカーによる『夢を見るかもしれない』(文庫化に際して『おそらくは夢を』に改題 石田善彦訳)で、第3作は文芸作家ジョン・パンヴィルがベンジャミン・ブラックの筆名で書いた『黒い瞳のブロンド』(小鷹信光訳)。本書はこれら3冊の後塵を拝しての第4作となるわけだが、ひとつ特徴的なのは、3作中2作がともにチャンドラーのオリジナルの続篇──第2作は『大いなる眠り』、第3作は『ロング・グッドバイ』の続篇──だったのに対して、オリジナルとはなんの関係も持たないまったくの新作であるところだ。加えてマーロウの年齢。御年72歳。老人探偵というのはもちろん作者ローレンス・オズボーンの発明ではない。この未曾有(みぞう)の老人時代、ことさら珍しいわけではない。とはいえ、本書の老探偵はこの新時代の新たなキャラクターではない。人物像のすでに固まった、私立探偵の代名詞のようなあのフィリップ・マーロウである。なかなか思いきった設定とは言えるだろう。

 そんなマーロウ老のもとに保険会社から調査依頼が舞い込む──ドナルド・ジンという保険契約者がメキシコの海で遊泳中に水死し、すでに多額の保険金も支払われている。また、その水難事故にことさら不審な点があるわけでもない。それでもなにぶんメキシコでのことなので、念のため現地に行って、事故の詳細を調べてもらえないだろうか──マーロウは現在メキシコのエンセナダの近くに住み、隠居暮らしを送っている。それでもお金はいくらあっても困らない。それに退屈しのぎにもなる。そんな理由からマーロウはこの「ヒーローになる必要のない仕事」を引き受け、現地カレタ・デ・カンポスに赴く。そして、昔ながらのやり方で調査を開始する。すると、次々に不審な点が出てくる。まず水死体の身元がすぐに判明したのは、身分証を持っていたからだということがわかる。しかし、普通そんなものを身につけて泳ぐだろうか。もしかしたら、死んだのはドナルド・ジンではないのではないか。これは保険金詐欺を目論(もくろ)んだ偽装殺人で、ジンはまだ生きており、死んだ男になりすましているのではないか。そう思ったマーロウはジンがなりすましていると思われるリンダーという男の足取りを追って、マサトランをはじめメキシコ各地を転々とする……

 といったストーリーそれ自体はおなじみのもので、探偵が失踪者を追うというのは、私立探偵小説の定番と言っても過言ではない。著者オズボーンはそれを様式のように本書に取り入れている。加えてこれまたハードボイルドにつきもののアクション・シーン。マーロウと謎の男“トッパー”との対決シーン。72歳のマーロウに見合って派手さはないが、それだけにリアリティの大いに感じられる印象に残るシーンだ。マーロウ老が手にするのが日本映画の『座頭市』にヒントを得た仕込み杖というのも、われわれ日本人読者にはなんだか嬉しい。

 それはともかく、本書からは古きよき時代のハードボイルドに対する著者の敬意が随所に感じられる。それでも、マーロウ・ファンにもそうでない読者の方にも訳者がなにより自信を持って本書をお勧めできるのは、あのマーロウの72歳の現在の老境が活写されているところだ。それがこの本の一番の手柄だろう。

 これは訳者自身が本書のそんなマーロウとほぼ同年だからだとは思うが、それにしても本作のマーロウ老の老いた言動と老いた思いに我が意を得たりと何度膝を叩いたか知れない。嬉し恥ずかし、おもに女性と酒にまつわることながら。

 これまた私事になるが、探偵や刑事を主役に据えたいわゆるハードボイルドというジャンルの小説を読んでよく覚える疑問がある。この探偵、この刑事はどうしてこんな行動を取るのかという疑問だ。「職業意識」というひとことで片づけられる場合もなくはない。また、70年代から80年代にかけて、個性豊かな探偵があまた輩出したネオハードボイルド時代には、探偵の「掟/コード」ということがよく論じられた。探偵はそれぞれ独自のコードを持っており、そのコードに従って行動しているというわけだ。が、実際のところ、そういうものとは関係なく、たいていの探偵が、ま、無茶をする。自分でもよくわからない動機に衝(つ)き動かされて無謀な行動に出る。ホラー映画で若くて可愛くて馬鹿な女が自分から危険な場所に足を踏み入れるのとよく似た、お約束のような愚かな行動だ。そういうことをしないと、話が盛り上がらないということもあるのだろうが、旧作のマーロウも──短篇も含めると──何度も暗闇でうしろから殴られて気絶しているはずである。

 本書のマーロウの場合、金と気ばらしを理由に保険会社の依頼を引き受けるというのは、わからないでもない。が、そのあとのマーロウの行動はおよそ理に適(かな)っていない。だから本人も自らを訝(いぶか)しみ、何度も自問してはその都度言いわけを考える。ただの好奇心だとか、プライド──“あらゆる人間にとって最悪の動機”──だとか。ドナルド・ジンの妻ドロレスに「(あなたが)こんなことをすることにどんな意味があるのか、あなたはどう思っているのか」と問われると、「それはいい質問だ」などと答えてさえいる。

 ただ、後半にはいり、ジン夫妻からひどい仕打ちを受けたあとはこんなことを思う。「今の私にあるのは、ジン夫妻と対決しなければならないという思いだけだった。彼らに傲慢さの代償を払わせたいだけだった」やられたらやり返す。このまま黙っていてはいけない、と父親がいじめっ子にいじめられた息子を諭(さと)すシーン。アメリカのホームドラマによく出てくる。英語で言えば get even 。本書のマーロウも途中からそう思うわけだが、これはハードボイルドと呼ばれるアメリカの多くの私立探偵小説の探偵にあてはまる行動原理だろう。

 ただ、この動機はあくまでもやられたからやり返すということであって、実のところ、マーロウ老には最初からもっと別の動機がある。それが一番大きな動機で、著者オズボーンはさきの訳者の疑問に明確に答えてくれている。読めばすぐにわかることで、自明の理のような答だ。だからマーロウにも最初からわかっている。それでもわからないふりをして最後になってようやく自ら認めるのだが──もしかしたら読者の興を殺(そ)ぐことになるかもしれないのでここでは伏せるが──この動機の提示に訳者は一番膝を打った。

 ハードボイルド作品には魅力的なヒロインが欠かせない。でもって、そのヒロインと主人公がどう関わるかというのが作品の大きな読みどころとなる。当然、かかるヒロインは魅力的であればあるに越したことはないはずだが、マーロウものの長篇七作すべての新訳者、村上春樹氏は『リトル・シスター』のあとがきにこう書いておられる。「チャンドラーの女性登場人物の造形(そしてその描写)は、男性登場人物のそれに比べて、なぜかポテンシャルが落ちる。男たちの姿は本当に生き生きと鮮やかに描写されているのに、女性たちの姿にはどこかみんな『書き割り』みたいな雰囲気がある。(中略)彼女たちは、小説的に言うなら、自発的に動いていない」

 なるほど。確かにマーロウものに出てくるヒロインは案外印象に残らない。みなとりあえず“いい女”ではあるのだけれど、“生身感”に乏しい。言うなれば記号としての“いい女”のようなところがある。ヒロインとからむマーロウが酸(す)いも甘いも噛み分けた大人の男というよりどこかしら少年っぽく見えるのは、もしかしたら相手がそんな存在だからかもしれない。では、本書のドロレスはどうか。与えられた役まわりはステレオタイプながら、“生身感”は大いに感じられるように思うが、これは訳者の欲目か。いずれにしろ、本書ではマーロウのほうがヒロインとは関係なく、ぐるっと一周して少年に戻っている。

 チャンドラーのマーロウは「卑(いや)しい街をゆく孤高の騎士」であると同時に、弱者に寄り添う探偵でもあった。本書のマーロウもそれは変わらない。「ほかの人間の企みのために自らの意志に反して浜辺に放り出され(略)他人の都合の犠牲になったもの言わぬ負け犬」に思いを寄せずにはいられない。そんな心やさしきマーロウへのオマージュのようなエピローグ。このエンディングの老人ふたりの無言の語らいに訳者はぐっときた。老境とはたいていほろ苦く淋しく切ないものだ。が、思いがけなく初恋のように甘酸っぱいものにもなるのではないか。本書はそんな希望を老人に抱かせる。見事な老人小説だ。

 著者ローレンス・オズボーンを簡単に紹介しておくと、1958年、ロンドンの生まれで、〈ニューヨーク・タイムズ・マガジン〉や〈ニューヨーカー〉や〈プレーボーイ〉にジャーナリストとして長く寄稿したのち、2012年に上梓した長篇小説 The Forgiven が好評を博し、〈エコノミスト〉紙が選ぶ2012年のベストブックの一冊にも選ばれている。本書はそんな著者の長篇6作目となる。放浪癖のある人のようで、ポーランド、フランス、イタリア、モロッコ、アメリカ、メキシコ、イスタンブールなど世界各国を転々としていた時期があり、現在はバンコク在住。尚、本書は惜しくも受賞は逃したが、今年度のアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞の候補になった。

2019年11月

ただの眠りを

※書影はAmazonにリンクしています。
【書誌情報】
■書名:ただの眠りを
■著者:ローレンス・オズボーン
■訳者:田口俊樹
■発売日:2020年1月9日
■価格:本体1700円+税
■出版社:早川書房


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