もし、他人の記憶を擬似体験できる未来がやってきたら……三雲岳斗『忘られのリメメント』冒頭公開
8月21日発売、特殊なシールを額に貼るだけで、他人の記憶を擬似体験できるようになった近未来を舞台に描くSFサスペンス『忘られのリメメント』(三雲岳斗)の冒頭部分を公開します。
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海の中にいる自分を思い出す。
世界は果てしなく続く深い青。
陽射しはその濃密な青に溶け、群青色の闇へと沈んでいく。
呼吸の音は聞こえない。息継ぎなしで潜るフリーダイビング。静寂の中に響くのは、ガイドロープを手繰ぐる潜降具(スレッド)の振動と、自分自身の鼓動だけだ。
潜水時間は二分を過ぎていた。ウェットスーツ越しに水の冷たさを感じる。過酷な水圧が、肉体の輪郭を歪ませる。息苦しさはすでに限界を超えていた。しかし意識は奇妙に穏やかだ。深い瞑想状態のように。あるいは自我を持たぬ死者のように。
酸素の消費を抑えるために、不要な思考をすべて遮断する。言葉が意味をなくし、あらゆる感情が消える。微睡みにも似た奇妙な多幸感──死への誘惑すら最後には解体されていく。
水深計(ゲージ)の数値が、二百を指した。潜降具(スレッド)が降下を停止する。エアリフトにガスが注入され、発生した浮力が肉体を押し上げた。
焦れるほどゆっくりと浮上する。死と静寂の世界から、光の中へと。
そして彼女は、目を覚ます──
第一章
1
最初に知覚したのは、痛みだった。耐えがたい苦痛というほどではない。肉体の存在を実感できる程度の柔らかな刺激。甘噛みだ。
笑い声のようなかすかな吐息が耳元をくすぐる。降りそそいでくるのは甘いローズの香り。瞼(まぶた)を開けると、人懐こい子犬のような童顔が間近にあった。ソファに仰向けに横たわる深菜(みな)を、下着姿の真白(ましろ)がのぞきこんでいる。
「お目覚めですか、先輩」と真白が言った。
「痛いよ、真白」
深菜は半眼のまま顔をしかめて、首の付け根の真新しい歯形に手を当てる。幼子が母親の目を盗んで囓ったケーキのような、無垢であどけない噛
み痕だ。
「親切で起こしてあげたんですから、もっと感謝してくださいよ」ふっくらした唇をちろりと舐
めて、真白は悪戯っぽく微笑んだ。「そろそろ準備しないとまずくないですか?」
「準備って?」なんだっけ、と深菜が訊き返す。
「ミーシャに呼ばれてるんですよね?」
「そうか……ミーシャ……」
壁際の置き時計を一瞥して、深菜はうんざりと溜息をついた。
そう。覚えている。ほかの誰でもない、深菜自身の記憶だ。今日の十五時に迎えを寄越すと、ミーシャはたしかに言っていた。彼との会話が脳裏に再現されて、深菜はそれを思い出す。
「もしかして、ぼくを噛んだのはミーシャのせい?」
「べつに嫉妬しているわけじゃないですけど」真白が澄まし顔で答えてくる。「ちょっとした目印みたいなものですね。先輩が私のことを忘れないように」
「自分の持ち物には名前を書いておきなさい」
「そういうこと」
「けっこう本気で噛んでたよね」
「ちょっと気持ちよかったです。私、意外とこういうの好きかも」
「変な性癖に目覚めるのはやめてほしいな」
不安げに呟く深菜を見つめて、真白は満足そうにクスクスと笑った。コーヒーを淹れますね、と言い残し、彼女は下着姿のままキッチンへと向かう。深菜はそんな同居人の背中をぼんやりと眺めた。肩甲骨から太腿にかけての美しい曲線。名前どおりの真っ白な肌。
彼女、三崎真白(みさきましろ)は二十一歳。医学専攻の女子大生。医者の卵だ。
そして彼女は娼婦でもあった。路上(ストリート)の私娼(フッカー)や時給制の性労働者(セックスワーカー)とは違う、本物の高級娼婦(コルティジャーナ)。富裕層向けエスコートクラブに所属するコールガールだ。
十七歳でふらりと実家を飛び出した真白は、それから二年後、深菜が彼女と知り合ったときにはすでに今の生活(スタイル)を確立していた。毎週火曜日と土曜日の夜に、彼女は年上の男たちと寝て、大学の学費とアパートメントの家賃の半分を稼いでいる。
家賃の残りの半分を払っているのは深菜だが、それはむしろ深菜に負い目を感じさせまいとする真白の気遣いのようなものだった。なにしろ男たちが彼女に贈ってくる服や宝石を処分するだけで、深菜の年収と大差ない金額になるのだから。
それでも真白は深菜を必要としていたし、深菜にしても事情はおおむね同じだった。二人は互いに、家族でも友人でも恋人でもなく、そのすべての代替品になる同居人を求めていたのだ。
真白にとっては、自分が無償で誰かを愛せることを忘れないために。
そして深菜にとっては、己の自由意思の存在を証明するために。
「そういえば、先輩、またMEM(メム)ってたんですか?」二人分のマグカップを運んできた真白が、深菜の額の擬憶素子(シール)に目を留める。「今度は誰です?」
「マルティナ・クロワ」と深菜は答えた。
「何者ですか?」
「フリーダイバーだよ。女性で初めて二百メートル級の素潜りに成功した元世界記録保持者」
「世界王者さんですか」
「その記録を出した次の潜水で、事故に遭って死んじゃうんだけどね」
「よくそんな人の擬憶(ぎおく)を入れる気になりますね」真白が綺麗に整えた眉を寄せる。
「そうだね」渡されたコーヒーをひと口すすって、深菜は笑った。「それは自分でも不思議に思う」
「なんですか、それ」
真白が呆れたように肩をすくめる。深菜はわざとらしく反省の表情を浮かべて、額の擬憶素子(シール)を乱暴に剥がした。そのまま握り潰して、ゴミ箱へと放りこむ。
擬憶素子(シール)は再利用が可能だが、それほど高価なものではないし、記録内容の書き換えもできない。そして一度読みこんでしまった擬憶を、再び体験するのは無意味だった。不要というよりは無駄なのだ。少なくとも、そう、深菜にとっては。
残ったコーヒーを飲み終えるころには、擬憶の余韻も抜けていた。深菜は中途半端な長さの髪を無理やり結い上げ、バスルームに向かう。
シャワーを浴びて戻ってくると、真白は本を読んでいた。表紙の色褪せた古い文庫本だ。A・E・ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』。
MEMが普及した現在でも、書物の需要が消えたわけではない。特に真白は読書家だった。大学の課題やレポートの合間に、彼女は様々な小説を実に楽しそうに読んだ。S・S・ヴァン・ダイン。サキ。中島敦。トマス・ピンチョン。メアリ・シェリー。体質的に長く本を読んでいられない深菜には、そのことが少しうらやましい。
「その服、新しく届いたやつですね」
外出着に着替えた深菜を見て、真白が満足そうに目を細めた。
深菜が着ているのは黒の上下だ。上着は前時代的なライダースジャケット風のデザインで、身体の表面に張りつくような人工皮革のパンツと透過素材のシャツは最近流行のものだった。
ほっそりとした長身の深菜がそれらをまとうと、どことなく人形めいた硬質な印象になる。あまり趣味のいい服装とは思わなかったが、雇い主(クライアント)の意向とあれば着ないわけにもいかない。
「問題ないかな?」
「大丈夫。似合ってますよ。ミーシャにしては上出来です」
本を置いて立ち上がった真白が、深菜の前髪を直してくれる。そして彼女は、壁際の棚から、ペンライトほどの大きさの道具(ツール)を取り出して深菜に差し出した。
「忘れ物です、先輩」
真白の手に握られていたのは、折りたたみ式のナイフだった。果物を切るための可愛らしい調理器具ではない。特殊鋼を鍛えた分厚い刃。獲物の皮を裂き、肉を抉るための狩猟用だ。
「ありがとう、真白」
ずっしりと重い刃物を受け取り、深菜はそれを上着のポケットにねじこんだ。そんな深菜を見つめて、真白が微笑む。
「愛してますよ、先輩」
真白の言葉にうなずいて、深菜は彼女の頬に優しくキスをした。
大丈夫、と自分自身に言い聞かせる。大丈夫、ぼくは真白を愛している。ぼくは彼女を傷つけない。ぼくは彼女を殺さない。決して(ネバー)。決して(エバー)――
2
待ち合わせの駅へと向かう電車の中で、誰かに名前を呼ばれた気がした。
乗客の疎らな午後の車輛。ドアの近くに立った少女たちの声だった。藍色の制服を着た女子高生。流行の髪型。流行のメイク。双子かと見紛うほどよく似た背格好の二人組。それぞれの映像端末(ホロギア)を広げたまま、彼女たちの世代に特有の、退屈さと真剣さの入り混じった口調で会話を続け
ている。
「宵野深菜(しょうのみな)? ああ、うん、知ってる」右側の少女が冷ややかに頷く。「最近、ちょっと人気だよね。ああいうの好きなんだ?」
「あの人のライブは?」と左側が尋ねる。「経験(や)ったことはある?」
「私、憶え手(メメンター)はべつに好きじゃないからさ」右側の少女が首を振り、彼女の前髪がふわりと揺れた。白い額が一瞬だけ露わになる。「MEMって、ほら、疲れるし」
「貸してあげるから、試してみなって」プラスチック製のケースを取り出した左側の少女が、どこか懸命な表情でそれを友人に押しつける。「ショウノの擬憶は、ほかのと全然違うから。感覚が生々しいっていうか、敏感っていうか、とにかく凄いの。身体の奥がゾクゾクするよ」
「本当に?」相方の勢いに押し切られたように小さなケースを受け取って、右側の少女が苦笑する。「なんかいやらしいね、それ」
「だから人気なんじゃない?」左側の少女が真顔で言った。二人は互いに顔を見合わせて笑う。
目的の駅が近づいて、電車がゆっくりと減速を始めた。
深菜はこっそりと立ち上がり、二人の少女に気づかれないように別のドアへと向かった。
今の少女たちと似たような会話は、深菜が商業的な憶え手(メメンター)となって以来、この国のあちこちで何度も繰り返されてきたのだろう。自分の過去の体験を、見知らぬ誰かが同じように体験している。それは、恥ずかしさとも誇らしさとも違う不思議な感覚だ。自分がそれについてどう感じて
いるのか、深菜にはいまだによくわからない。
駅に着いて止まった電車を降りて、深菜は改札口へと向かう。
すれ違う人々が、時折、足を止めて深菜に視線を向けてくる。彼らの大半は深菜の容姿や、風変わりな服装に注意を惹かれているだけだ。だが、ごく希に深菜の職業を知っている人々がいて、さらにそのうちの何割かは深菜の擬憶を体験(し)っている。そんな彼らが深菜に向けてくる感情は
様々だ。古い友人と再会したときのような親しげな表情を浮かべる者もいれば、別れた恋人と遭遇したときのように決まり悪げに顔をしかめる者もいる。
深菜自身は、彼らに対してなんの感情も覚えない。少なくとも、そう思えるように努力していた。自分の過去の体験を──機械的に記録された記憶を売る。そこには個人のプライバシーに属する情報も多分に含まれることになる。たとえば感情。そして感覚。不安や喜び。苦痛や快楽。それらすべてを保存して切り売りすることを、歓迎する人々もいれば、快く思わない人々もいるだろう。だがそれは深菜にはどうしようもないことだ。
世間がどう思おうと憶え手(メメンター)とはそういう職業で、そして深菜はその一員なのだから。商業的にはたいして成功しているわけではないが、それでも憶え手(メメンター)であることに変わりはない。擬憶体験(リメメント)技術の申し子。エンターテインメント目的で消費される、擬似記憶の提供者だ。
不躾な視線は何度も感じたが、幸い面倒に巻きこまれることもなく、深菜は改札をくぐって駅舎の外に出た。急行の止まらない小さな駅だ。駅の裏口には広いロータリーがあって、短い時間なら一般の車輛が停まっていても見咎められることはない。
約束の時間にはまだ早かったが、待ち合わせの相手は先に来て深菜を待っていた。
恐ろしく目立つ銀色の自動運転車を路肩に寄せて、その横に、恐ろしく目立つ大柄な白人が立っている。彼の姿に気づいて、深菜は、深く溜息をついた。
たしかに深菜を呼び出したのは彼だが、こんなにも早く本人に会えたのはまったく想定外だ。
業界最大手の芸能事務所の社長が直々(じきじき)に迎えに来るなんて、どう考えても厄介事の予感しかしなかった。
車は無音のまま路上に停まっていた。昼間だというのに車内は暗く、中の様子はわからない。
それは個人で合法に所有できる中では、もっとも大型で、設定速度の速い車種だった。居住性と空力性能を両立させた巨大な車体は、ある種の獰猛なクジラを連想させた。搭載された電子知能(ゴーストボット)は最新型で、海外の王室専用車と同等のハッキング対策が施されているらしい。
一方、車の内装はシンプルで、むしろ殺風景ですらあった。機能性だけを追求したいびつな形状のシートが四つ。収納式のデスクと業務用の情報端末。天井と一体化した照明。それ以外の無意味な装飾品は、なにひとつ置かれていない。製造企業のエンブレムすら。
この車の存在を深菜は以前から知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。
物珍しくはあったが、嬉しいとは思わない。むしろ不安だけが募っていく。
ミーシャが直々に深菜を迎えに来たのも異例だし、なにより彼がこの車を持ち出すのは、決まって大きなトラブルのときだと聞いていたからだ。たとえば彼の部下が商売上の過ちを犯したとき。あるいは愚かな新参者が、彼の縄張りに手を出したとき。もちろん深菜は、そのような面倒に関わった覚えはなかったが、だからといって不安が消えるわけではない。
音もなく開いたドアをくぐって、深菜は奥の座席についた。
ミーシャは、その深菜と向かい合うように後ろ向きに座る。
年齢のよくわからない白人男性だ。三十代の半ばにも見えるし、五十を過ぎているようにも感じられる。髪の色はくすんだ灰色で、爬虫類の瞳を思わせる鏡面レンズのサングラスが目元を覆っている。白い肌にはしみもしわもなく、それが彼に平坦で非実在的な印象を与えていた。歴史の教科書に印刷された、啓蒙君主の写真を眺めているような感覚だった。
非人間的な雰囲気ではあるが粗暴さはなく、情緒的ではないが高い知性は感じられる。つまりは現実的で機能的な人種ということだ。無条件に尊敬できる類いの人間ではないが、深菜は決して彼のことが嫌いではなかった。でなければ、彼と取り引きなどしない。
「きみの作品の増産が決まった」
ミーシャは前置きなしにそう言った。
馴れ馴れしい呼びかけも回りくどい挨拶もなかった。彼は余計な言葉を口にしない。
「横浜と新葉(しんよう)のコンサート。本数はそれぞれ三千本。きみの取り分は来月中に振り込ませる。先月発売したプロモーションMEMも好評だ」
そう、と深菜はうなずいた。憶え手(メメンター)である深菜にとって、作品とはしょせん過去の断片に過ぎない。銀行口座の残高が増えるのは喜ばしいことだが、それ以上の感想は特にない。
車がなめらかに加速を始めていた。モーターのうなりも振動もなかった。聞こえるのは深菜自身の呼吸の音だけだ。ミーシャが息をしているのかどうかも深菜にはわからない。
「今日の呼び出しは、それが理由?」静寂に耐えかねて、深菜は訊いた。「次の仕事は来月だと聞いていたのだけど」
「MEMの制作スケジュールに変更はない。少なくとも現時点では」ミーシャが事務的な口調で言った。「今のは単なる情報の提示だ」
「情報?」
「私が、きみを高く評価しているという事実と、その根拠を伝えた。憶え手(メメンター)は希少な人材だが、全員が利益を生み出せるわけじゃない」
「なるほど」
深菜は素っ気なく笑ってみせた。利益を出したから、評価される。実に現実的でわかりやすい理屈だ。信頼や友情などという曖昧な概念を持ち出されるよりは、シンプルでいい。
「つまり、これからぼくが巻きこまれる厄介事は、あなたの本意じゃないってこと?」
「そうだ」と彼はうなずいた。深菜は無言で唇を曲げる。
ミーシャというのは愛称だ。彼の本名を深菜は知らない。書類上は是呂和(コレロワ)という苗字を使っているが、本当の国籍は不明。ともあれ、彼は流暢な日本語をしゃべり、難解な日本語の法律文書を苦もなく読みこなした。
彼の父親は、東京がまだ日本の首都だった時代に、麻布で外国人モデル中心の小さな芸能事務所を経営していた。ミーシャはそこでスタッフとして働き、基本的なショービジネスの作法を学んだらしい。父親は彼がいずれ自分の跡を継ぐと信じていたし、事務所のモデルたちや取り引き先も、そうなることを望んでいた。しかしミーシャは、ある日突然、父親を追い出すような形で事務所を乗っ取り、雇っていたモデル全員を解雇した。そして、すべての資産を新たな産業分野へと注ぎこんだ。リメメント技術によって生み出される擬似記憶体験機器──すなわちMEMの制作と販売に。
電流や光刺激を使って脳内の特定の記憶を操作する技術は、二〇一〇年代にはすでに確立されていた。量子制御技術の発達によって、それをより安全に、かつ安価で手軽に行えるようにしたのが擬憶体験(リメメント)── Re:MEMENTO ──と呼ばれる技術だ。
リメメント技術は瞬く間に長足の進歩を遂げ、現在では切手サイズの擬憶素子、通称”MEM”を額に貼り付けるだけで、最長二時間程度までの擬似記憶を再現できるようになっている。映像や音声だけでなく、味覚や触覚などの五感のすべて、さらには原体験者の当時の感情までも生々しく味わうことができるのだ。
その技術は、ささやかだが広範な影響を世界にもたらした。
特にエンターテインメント分野に与えた衝撃は大きかった。芸能人としての華やかな生活、一流スポーツ選手としての活躍、人気歌手としての大観衆の前での熱唱──MEMを使えば、それらの体験が容易に手に入る。彼らのファンにとっては、この上なく魅力的な話だろう。
ヒマラヤの高山への登頂、人跡未踏の秘境への到達、宇宙からの帰還。常人には一生味わえないような驚異的な体験すら、商品に変わる。蓄音機や映写機に匹敵する、まったく新しい記録媒体(メディア)の創出だ。
ミーシャは、リメメント技術の公開と同時に、持てる資金と人脈のすべてを使ってMEMの制作に乗り出した。
それは大きな賭けだった。彼はその賭けに勝利した。
そしてミーシャは、その勝利を維持するために、なにが必要なのかをよく理解していた。
彼は優良なコンテンツをMEM市場へと次々に投入した。
鍵を握るのは人だった。MEMの内容は人の記憶に依存する。ゆえに魅力的な記憶を提供できる人材こそが、市場における競争力の源泉だ。
ミーシャはありとあらゆる手段を使って、その人材を確保した。
俳優、スポーツ選手、冒険家、ミュージシャン──様々な分野のトップと専属契約を結び、同時に、若い世代の発掘と育成にも金を惜しまなかった。
人々がMEMの潜在的な市場(マーケット)の広大さに気づいたとき、そこに至る道筋は、ミーシャと彼の仲間たちによって完全に押さえられていた。人材と流通経路を支配することで、彼らはMEM市場における巨大な影響力を手に入れたのだ。
だが、そのミーシャは、今、己の意に反した行動を強いられている──と言う。
その状況が、深菜には上手く呑みこめなかった。実に馬鹿げた話だった。
ミーシャが作り上げたシステムは堅牢だ。国内外の政治家にも、官僚にも、警察やアンダーグラウンドの組織にも、彼の友人は大勢いる。深菜の目に、それは軍隊を備えた巨大な帝国のように見える。なのに今、彼の帝国には小さな穴が空いていた。MEMの帝国を滅ぼしうる蟻の一穴。どうやらそれを穿ったのは、ほかならぬ深菜らしい。信じがたいことだった。
「白(ブランク)MEMを持っているか?」とミーシャが言った。
深菜は黙ってうなずいた。常に記録用(ブランク)の擬憶素子(シール)を持ち歩くように深菜を教育したのは、ほかならぬミーシャ本人だ。
「何枚だ?」
「八枚。十六時間分」
「すべて出してくれ。ここで破棄する」
「破棄?」深菜は不満の意思を表すために眉を上げた。
「我々が向かっている場所に、記録装置はいっさい持ちこめない。撮影機材(カメラ)も録音装置(レコーダー)も。もちろんMEMもだ。それが彼らの規則(ルール)なんだ」
「彼ら」深菜が訊き返す。「リギウス・リメンバランス社?」
「気づいていたのか?」
「簡単な推理だよ」深菜は首を振って苦笑した。「あなたに命令できる立場の組織が、ほかにい
るとは思えないからね」
「私の立場はきみが想像しているほど盤石じゃない」ミーシャが気怠げに息を吐く。「だが、そう、たしかにリギウスは我々にとっての最大の脅威だ。なんといってもリメメントの技術は、彼らが開発したのだからね。MEMに関する特許のほぼすべてを彼らは独占している。我々が擬憶素子(シール)を一枚売るごとに、リギウスは利益の十三パーセントをかすめとっていくんだ。それでもMEMで商売している以上、彼らの支配には逆らえない」
気の利いた返事を思いつかなかったので、深菜はしばらく黙って彼を見つめていた。銀色のサングラスの表面に、深菜自身の歪んだ姿が映っている。
「しかしリギウスにも悩みがあった。MEMを商品化するためには、誰かが記憶を提供しなければならないからだ。それも人々が金を払って体験してみたいと思える魅力的な記憶を、だ」
ミーシャは独り言のように言葉を続けた。
「冒険家やスポーツ選手の場合はまだよかった。冒険や試合は非日常だ。彼らのプライベートとは完全に切り離されている。しかしタレントやミュージシャンは、そうはいかない。彼らが提供した記憶には、薄汚れた舞台裏が必ず映りこむことになる。仲間内の確執。冷えた弁当の残骸。汗と煙草と薬(ドラッグ)の臭い。記憶は究極の個人情報だからな。どんな有名人も──いや、有名人だからこそ、記憶の提供には抵抗を覚える」
「だけど観客はそれを求めている?」
「そうだ。需要と供給に乖離がある」
「ビジネスチャンス」と深菜は言った。
「そう、ビジネスだ」ミーシャはうなずいた。「我々は問題の解決を試みた。有名人が記憶を提供しないのなら、記憶を提供できる人間を有名にすればいいと考えたわけだ。結果的に、その試みは上手くいった。自分の内面をさらけ出すことを厭わない人間は、若い世代を中心に一定の割合で存在する。彼らの中から容姿や才能に恵まれているものを選別し、適性に応じて訓練を施し、宣伝費を使って売り出した」
「知ってる」深菜は短く相槌を打った。
舞台(ステージ)でも映像(フィルム)でも音楽(チューン)でもなく、MEMを中心に活動するアーティストたち。彼らはいつしか憶え手(メメンター)と呼ばれるようになり、多くのファンを獲得した。それはここ数年の間に起きた出来事だ。
「リギウスはリメメントの技術を提供し、MEMを製造する。我々は憶え手(メメンター)の活動を支援し、MEMに埋めこむコンテンツを制作する。どちらが欠けても、ビジネスは成り立たない。互いに持
ちつ持たれつで、我々は上手くやってきた。これまでは」
そう言って、ミーシャはじっと深菜を見つめた。
オーケー、と深菜は両手を上げた。不満はあるが、深菜とて彼を困らせたいわけではない。
「安心して。リギウスと揉める気はないよ。十三パーセントの特許使用料にも文句はつけない」
冗談めかした口調で言いながら、深菜はアルミ包装された白(ブランク)MEMのパッケージを取り出した。車内中央のテーブルに、それを八セットまとめて置く。
ミーシャはそれらを開封して、ひとつずつ中身を確認した。取り出した擬憶素子(シール)を順番に引き裂いて、車のダストボックスに放りこんでいく。瞬く間に八枚の白(ブランク)MEMは、この世界から消滅した。深菜はそれを無言で眺めていた。
「ふたつ、質問してもいいかな」彼が作業を終えるのを待って、深菜は訊いた。
「ふたつ?」ミーシャがかすかに首を傾げた。
「リギウスがぼくを呼びつけた理由は、なに?」
「わからない」ミーシャは即答した。「リギウスはその情報を開示しなかった」
「ぼくの作品になにか問題が?」深菜が、コツコツと自分のこめかみを指さす。
「完全に否定はできないが、その可能性は高くない」
彼は慎重に言葉を選んで言った。そして思い出したように深菜の服装を眺めた。流行遅れのライダースジャケットと合成皮革のパンツ。憶え手(メメンター)としての深菜のイメージに合わせて、ミーシャが用意したものだ。
「きみはロックシンガーだ。若い女性ということで、アイドル的な扱いを受けることがあるにせよ、ね。商品として流通しているきみのMEMはライブ中のものがほとんどで、リギウスにとって不都合ななにかが映りこむとは考えづらい」
「だろうね」
「問題があるとすれば、それはきみのMEMではなく、きみ自身だろう」
「どういう意味かな?」深菜は傷ついたような表情で彼を睨む。
「そのままの意味だよ。リギウスはきみに興味を抱いてる。きみの体質に。あるいは過去に」
「興味」深菜は小さく舌打ちした。「それはいい意味で? 悪い意味で?」
ミーシャはなにも答えず、短く溜息をついただけだった。
深菜は自分が馬鹿な質問をしたことを認めた。リギウス社の思惑を、ここで彼と議論したところでなんの意味もない。
「もうひとつの質問は?」とミーシャが訊いた。
「そろそろぼくたちの目的地を教えてもらえるかな?」
深菜はいびつな形のシートにもたれて頬杖をついた。
車は、新葉市の湾岸部を走っていた。
夕陽に照らされた海面は魚の鱗のように輝き、逆光に浮かぶ高層ビル群は、記憶の中で見た巨大な蟻塚を連想させた。深菜自身の記憶ではない。深菜の内側にある誰かの記憶だ。
深菜は、自分たちが、そのビル群のどこかにあるリギウスの本社に向かっているのだと思っていた。だが、違った。車はビルの隙間を抜けて、そのまま郊外を目指している。
ミーシャがゆっくりと振り返り、視線の動きだけで遠くの岬を指し示した。曲がりくねった道の先にある、小さな岬だ。その先端には屋敷が建っている。屋敷の周囲にはなにもなかった。一棟だけの、孤独な建物だ。
「あれが、目的地だ」とミーシャは言った。「迫間影巌(はざまかげよし)──リギウス・リメンバランス最高経営責任者の屋敷だよ」
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『忘られのリメメント』三雲岳斗
【内容紹介】擬憶素子、通称「MEM(メム)」を額に張るだけで、他者の記憶を擬憶体験(リメメント)できるようになった近未来。MEMに記憶を書きこむ"憶え手"である歌手の宵野深菜(しょうのみな)は、リギウス社CEOの迫間影巌(はざまかげよし)から脱法MEMの調査を依頼された。そのMEMには、死亡したとされる稀代の殺人鬼・朝来野唯(あさくのゆい)の模倣犯による犯行の模様が記録されているらしい。
かつて朝来野と同じ研究施設で暮らし、朝来野の記憶を移植された深菜は、自らの擬憶に対する朝来野の影響を否定するため、捜査を開始する。だが同時期に深菜の同居人・三崎真白(みさきましろ)が殺されてしまう事件が発生。殺害現場に残されたメッセージを読んだ深菜は、朝来野の死そのものに疑問を抱きはじめる――記憶と擬憶をめぐる、静謐なるSFサスペンス。