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12月16日発売『革命と献身 シンパサイザーⅡ』(ヴィエト・タン・ウェン/上岡伸雄訳)の訳者あとがきを特別公開!

早川書房では、『シンパサイザー』の続篇となる『革命と献身 シンパサイザーⅡ』(ヴィエト・タン・ウェン/上岡伸雄訳)を12月16日木曜日に刊行いたします。『シンパサイザー』の舞台はインドシナ半島とカリフォルニアでしたが、本作『革命と献身 シンパサイザーⅡ』の舞台は、フランス・パリ。前作の『シンパサイザー』をまだ読んでいない方も、この「訳者あとがき」を読めばすんなりと『革命と献身 シンパサイザーⅡ』に入れ、既に『シンパサイザー』既習済みの方には、復習として。『革命と献身 シンパサイザーⅡ』のネタバレなしの「訳者あとがき」では、本作を翻訳した上岡伸雄氏(学習院大学教授)に、読みどころや、前作『シンパサイザー』でおさえておくべきストーリーを余すところなく語っていただきました。
注意:以下の「訳者あとがき」には、『シンパサイザー』の結末が記載されています。

訳者あとがき

世界的なベストセラーとなった『シンパサイザー』(The Sympathizer, 2015)から六年、ヴィエト・タン・ウェンの待望の続篇、The Committed が二〇二一年初頭に出版された。本書『革命と献身 シンパサイザーⅡ』はその日本語訳である。
『シンパサイザー』は、いわゆる主流文学作品に贈られるピュリッツァー賞と、推理小説に贈られるエドガー賞を同時受賞。この快挙が示すように、人間存在の深みに迫るスリルと、スパイ小説のようなプロットで読ませるスリルとをあわせ持つ傑作だ。この作品を読んでいないと、『革命と献身』を読んでいてわかりにくい部分があるかもしれないので(作者は作品中でも丁寧に説明は加えているが)、まずは簡単に『シンパサイザー』の物語を振り返っておこう。
 時代は一九七五年四月、場所はヴェトナム戦争終結直前の南ヴェトナム、サイゴン。名前の明かされない主人公で語り手の男は、秘密警察の将軍に仕える大尉であり、北ヴェトナムからのスパイを見つけ出し、尋問する仕事をしている。そのときに活用しているのが、アメリカのCIAから教わった尋問テクニック。アメリカ留学の経験もあり、語学に堪能な彼は、CIAの指導員、クロードの一番弟子だ。しかし、その実、主人公は共産主義者であり、南ヴェトナム秘密警察の情報をこっそり北ヴェトナムに流している。つまり彼はダブル・エージェント、いわゆるモグラである。
 こうした主人公の二重性は、その出自にも由来する。彼はフランスの宣教師がヴェトナム人の少女に産ませた私生児であり、フランスの植民地支配を象徴する存在とも言える。そのため見た目からも私生児であることが明らかで、bastard と呼ばれると心にグサリと刺さる。彼の人格はこのように二重のアイデンティティを持つことから形成されており、自分でも「二つの顔を(そして精神を)持つ男」と自己を定義する。物事を両面から見られるという点では長所だが、どちらのサイドにもシンパシーを抱いてしまうという点では、不利に働くことも多い。
 主人公がモグラとなったきっかけは、寄宿学校(リセ)の時代にある。優秀な少年だけが送られ、フランス式の教育を受けられるこの学校で、彼はマンとボンという同級生と出会い、義兄弟の契りを結ぶ。そのマンが共産主義者であったため、感化され、共産党の地下組織に加わることになったのだ。とはいえ、ボンは心の底から共産主義者たちを憎み、彼らを殺すことだけを生きがいとしているため、マンと主人公は自分たちの主義をボンには絶対に明かさない。三人とも南ヴェトナム軍に属することになるが、ボンは反共産主義に身を捧げる一方、マンと語り手は共産主義革命に身を捧げ、スパイとして活動する。そういう状態で、一九七五年のサイゴン陥落を迎えるのである。
 主人公が仕える将軍は、南ヴェトナムの崩壊が間近であると判断し、アメリカに脱出する決心をする。主人公は共産党の幹部であるマンから、将軍とともにアメリカに渡り、将軍の活動を監視するように指示される。そこでボンの命も救うため、彼と家族の入国許可証も入手、一緒に逃げようとするが、空港での戦闘でボンの妻と一人息子は死んでしまう。嘆き悲しむボンとともにアメリカに渡った主人公は、ロサンゼルスでボンと共同生活を営みつつ、大学の事務員として働き始める。将軍はヴェトナム料理店を経営する一方、南ヴェトナム再興のための資金集めや私設軍の組織を始める。主人公はこういった将軍の動向をヴェトナムに残ったマンに知らせ続ける。
 アメリカに渡ってからの主人公の生活には、アメリカ人のヴェトナム人に対する無理解、広くは西洋人の東洋人に対する偏見と向き合う側面もある。大学の東洋研究学科長が抱いている歪んだ東洋観と、それを馬鹿にする日系人の秘書、ソフィア・モリとの恋愛関係。クロードから贈られたリチャード・ヘッドの『アジアの共産主義と東洋的な破壊の様式』という本(彼はこの本を暗号解読用に使い、マンと通信している)に描かれたアジア像と、その著者本人との対話。そして彼が関わることになる、アメリカ人の大物監督によるヴェトナム戦争映画の撮影。こうしたエピソードや語り手の思索を通し、いかに力のある者たち(つまり欧米人)がアジア人たちを独断で表象(リプリゼント)するか、つまりはアジア人のことを代表(リプリゼント)してしまうかについて、鋭い指摘がなされている。
 やがて将軍は南ヴェトナム再興計画を推し進めるにあたって、自分たちのなかにスパイがいるのではないかと疑うようになる。主人公は自分が疑われるのを避けるため、大食漢の少佐が怪しいと注進し、将軍の指示を受け、ボンとともに彼を殺す。さらに将軍はヴェトナム人ジャーナリストのソニーが、自分たちに批判的な記事を書いていることに怒り、主人公に彼を殺すように命令する。この二人は、殺されてから幽霊となって、彼に取り憑くようになる(『革命と献身』でも引き続き幽霊として登場する)。一方で、将軍の娘のラナが成熟した女性となり、歌手となって主人公を魅了。彼は彼女を口説き落として関係を持つ。ところが、これが将軍に知られ、将軍は彼を娘から引き離すために、タイで訓練中の南ヴェトナム軍の残党のもとへ彼とボンを送り込む。
 こうしてタイに渡った彼とボン、および数人の南ヴェトナム軍の残党は、ヴェトナムへの侵略を図るが、国境で捕まり、ヴェトナムの再教育キャンプに送られる。キャンプでは、ヴェトナム戦争末期の戦闘で重傷を負い、顔の部位の多くを失った(ゆえに「顔なし男」と呼ばれる)マンと再会。しかし、マンは主人公がいくつかの点で革命を裏切ったと考えており、彼を拷問した上で自己批判のための告白文を書かせる(『シンパサイザー』はその告白の集積という形をとっている)。主人公は、身を捧げてきた共産主義の理想が歪んでしまったのだと痛感せずにいられない。
 主人公の心はここにおいて大きく変化する。『革命と献身』でも通奏低音のように響き続ける言葉、「独立と自由以上に大切なものは何もない(Nothing is more precious than independence and freedom.)」というホー・チ・ミンのスローガンが、「〝何もない〟が独立と自由以上に大切である」という意味に変わってしまうのだ。大きな真理の虚構性に気づいてしまったわけだが、同時にその「何もない」に向き合って生きる術を模索しているようでもある。こういう状態で彼はマンの黙認の下、ボンとともに再教育キャンプを脱出し、ボートで海に乗り出したところで、『シンパサイザー』は結末を迎える。
 そのあとを引き継ぐのが本書、『革命と献身』だ。主人公とボンはボートでしばらくさまよったあと、インドネシアの難民キャンプで二年間を過ごし、一九八一年、パリに渡る。フランスは主人公の父親の祖国であるとともに、スパイとして連絡を取っていた「伯母」(実際にはマンの伯母で、フランス人とヴェトナム人の混血)のいる地。その「伯母」に連絡を取り、しばらく面倒を見てもらうことにしたのである。もともと二つの顔(そして精神)を持つ彼の分裂は、再教育キャンプでの経験を経て激しくなっており、彼は自分のことを「私」、「私自身」、「私たち」、「おまえ」など、多様に呼ぶようになる。
 共産主義には幻滅し、特定の主義に「献身」することのない彼だが、義兄弟の契りには縛られる。いまだに彼がスパイだったことを知らないボンに対しては、そのことをひた隠しにしなければならず、その一方で、「顔なし男」がマンであることを知らないボンから、マンを守らなければいけない。原題のThe Committed は、何かに「献身している人」のこと。献身に値するものは何か、そのようなものはあるのか、という小説の主題を表わすが、このcommitはさまざまな意味でも使われる──たとえば「罪を犯す」、「自殺する」などの動詞として、あるいは「(病院などに)収容する」という意味として。『シンパサイザー』でさまざまな意味に使われたsympathize やrepresent などと同様、一つの言葉の両義性から多様な側面を映し出すのは、作者の面目躍如といったところである。
 パリでの主人公は、難民キャンプで知り合ったボスと呼ばれる中国系ヴェトナム人にまず会いに行く。ボスは一足早くパリでビジネスを展開しており、彼の下で仕事をする約束になっていたのだ。ボスのビジネスは、表向きは輸入品ショップとレストラン(パリで最悪のアジア料理店と呼ばれる)の経営だが、実際はハシシやコカイン(ここでは「癒しの薬」と呼ばれる)の売買。主人公は伯母や、彼女のアパルトマンで知り合った知識人たちを通し、こうした麻薬の販路を拡大していく。
 パリでの生活を生き生きと語る主人公の饒舌な語りを聞いていると、作者がなぜこの続篇を書きたかったかが見えてくる。『シンパサイザー』では、おもにアメリカとヴェトナムの関係を扱ったわけだが、ヴェトナムを十九世紀末から長年植民地支配し、多大な影響を与えたのはフランスである。パリを模してサイゴンという都市を作ったのを初めとして、各地にフランス文化を移植、カトリック教会も至るところに作った。多くのヴェトナム人がこの期間にカトリック教徒となり、一九五四年のフランス撤退後も、共産党の支配に抵抗することになる(主人公も、また作者の両親も、このときに北ヴェトナムから南に移住している)。しかし、フランス人の態度には、遅れた原住民たちを「文明化してやる」という高飛車なものがあり、強制的に働かせて搾取するとともに、抵抗すれば厳しく罰するといった、利己的な支配を続けた。本書では、こうしたフランスの植民地支配がもたらしたものに対して、辛辣な批判の目が向けられている。
 フランスが植民地支配したのはヴェトナムだけではない。アフリカのアルジェリアや、カリブ海のマルティニーク島などもそうで、こうした地域の多くの人々がいまのフランスで生活している。彼らはたいていの場合、見た目だけで偏見を持たれ、白人と同等には扱われない。本書でも、アルジェリア系の麻薬の売人が登場し、主人公たちと熾烈な縄張り争いを繰り広げる。ホー・チ・ミンは、植民地支配の犠牲者同士、団結しようと呼びかけたのだが、現実でも小説中でも、それはなかなか難しいのだ。こうした植民地主義の問題、そのパートナーとも言える資本主義の問題が、マルティニーク出身の思想家、フランツ・ファノンやエメ・セゼールなどの著作からの引用とともに、頻繁に考察される。
『革命と献身』のストーリーは本当に盛りだくさんだ。主人公たちは、パリに住むヴェトナム人たちとも交流、ヴェトナムの文化を称えるイベントに参加し、これを通してボンには新しい恋人ができる。さらにこのイベントには、主人公のかつての恋人、ラナが歌手として出演することになっており、マンもそれに合わせてパリに来ているらしい。主人公はマンをボンから守れるのか? それと並行して語られる麻薬売人同士の抗争では、主人公はアルジェリア系の売人たちに襲撃され、拷問される。ヴェトナム系の売人たちが主人公をそこから救出し、リベンジを試みる……。
 こうした娯楽性の高いプロットに、哲学的な思索もたっぷり含まれるという点で、本書は『シンパサイザー』以上に破天荒な小説と言っていいだろう。植民地の支配者に対する両面感情を表わすFuck you! とThank you! がページの終わりまで羅列されたり、写真や劇の脚本のような部分が挿入されたりなど、前衛的な仕掛けにも富んでいる。
 作者の言葉遊びの巧みさはここでも健在だ。登場人物名の「レ・カオ・ボイ」は明らかにcowboyから。一つの単語を多様な意味に使う好例は、『シンパサイザー』でも頻出したbastardに見られる。「私生児」と「クソ野郎」といった意味をあわせ持つ単語で、『シンパサイザー』ではおもに前者の意味で使われるため、ほぼ一貫して「妾の子」と訳した。『革命と献身』ではそれが両方の意味で使われ、フランス語でそれにあたるbâtard のいくつかの意味も絡んで、さまざまに展開する。そのため訳者としては、片仮名で「バスタード」としたり、ルビを使って訳し分けたりして、対応せざるを得なかった。また、主人公の二つの精神を留めていたネジ(スクリュー)が緩んでしまい、そのためにいかれて(スクリュード)しまった、というふうに、screw を使った洒落も繰り返される。ほかにも、「嘔吐(レッチ)によって悲惨(レッチド)な気分になった」とか、「おまえの腸(コロン)から植民地主義(コロニアリズム)の痕跡をすべて排出させ」など、面白い例に事欠かない。
 さらに言えば、先行する著作の言葉がこっそり引用されている場合があり、こうした知的な仕掛けも本書の魅力である。翻訳に当たって協力を求めたイアン・マクドゥーガルさんが指摘してくれたもののなかから、二つだけ紹介しておくと、まず精神分析医の「じゃあ、まあ、始めていいかな?」という言葉は、フィリップ・ロスの『ポートノイの不満』の最後の文をおそらく踏まえている。「神聖なものは何もない」が「〝何もない〟が神聖だ」に変わっていくところは、漫画家のゲアン・ウィルソンの有名な絵(Nothing と書かれたご神体のようなものを人々が拝んでいる)を意識しているはずだ。このように、さまざまな知的刺激に満ちた本書の面白さを、少しでも多くの読者に味わっていただけたらと思う。
 作者のヴィエト・タン・ウェンについては、すでに『シンパサイザー』の「あとがき」で紹介したので、ここでは簡単にとどめよう。ウェンは一九七一年、ヴェトナムのバンメトート生まれ。一九七五年に家族とともにアメリカに渡り、七八年からはカリフォルニア州のサンノゼで暮らした。カリフォルニア大学バークレー校で英文学と民族研究(エスニシティ)を学び、英文学で博士号を取得。現在は南カリフォルニア大学でアメリカ研究と民族(エスニシティ)を教えている。
 小説家としては、この二作の長篇のほかに、短篇集の『難民たち』(The Refugees, 2017)がある。無名時代から書きためた短篇を集めたもので、彼の難民経験をもとにしたものが多い。特に〝War Years〟には、サンノゼで食料品店を経営していた両親との生活が反映されている。また、二〇一八年には編者として、各地の難民作家の体験記を集めた『ザ・ディスプレイスト』(The Displaced)を出版。アメリカのトランプ政権を初めとして、各地で排外主義が跋扈する時代に、難民に声を与える重要な書となっている。序文で、ウェンは自身のサイゴン脱出の壮絶な物語(と言っても、彼自身はほとんど記憶していないという)を語るとともに、「難民であること」や「難民を描くこと」の意義を強く訴える。山田文氏が翻訳し、ポプラ社から出版されているので、ぜひ手に取っていただきたい。
 現在のウェンは『シンパサイザー』と『革命と献身』の続篇を構想中だそうで、こちらはパリからアメリカに戻った語り手の物語となるらしい。と同時に、自己の難民体験を自分なりに振り返る回想録も執筆中とのこと。製作進行中という『シンパサイザー』のテレビドラマ版も含め、どれもとても楽しみである。

二〇二一年十一月三日

前作の『シンパサイザー』は、文庫版で好評発売中です。


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