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ヴァージニア・ウルフ「病気になるということ」片山亜紀訳①/新訳公開

本記事は、20世紀イギリスの作家ヴァージニア・ウルフによるエッセイ「病気になるということ(原題:On Being Ill)」の新訳の1記事目です。

「病気になるということ」 セクション1

 考えてみよう。病気とは誰でもかかりうるものである。魂にもたらされる変化はとてつもない。健康の灯火が消えたときに見えてくる未発見の国々には驚くべきものがある。インフルエンザに少しやられただけで、魂の荒野と砂漠が見えてくる。少し熱が出ただけで、鮮やかな花々の咲き乱れる崖と芝生があらわになる。病気にやられると、私たちの内部に根を張る頑丈な樫(かし)の老樹たちが根こそぎ倒れてしまう。死の淵(ふち)に沈み、これがとどめとばかりに覆いかぶさる水を浴びて目を覚まし、天使やハープ弾きに囲まれているのかと思うこともある――歯科医の椅子に座り、歯を抜いてもらったあとで表面に浮かび上がってくるときがそうだ。そして歯科医の「お口をゆすいで――お口をゆすいで」という呼びかけを、私たちは神様が天国の床に跪(ひざまず)いて歓迎してくれているのだと勘違いする。【1】

 こう考えてくると――実際、こんなふうに思わされることはよくあるのだが――病気が愛や戦いや嫉妬と同程度に文学の主要テーマになっていないというのは、いかにも奇妙なことである。インフルエンザをテーマにする小説がいくつもあっていい。チフスをテーマにする叙事詩、肺炎をテーマにする頌歌(しょうか)、虫歯をテーマにする抒情詩がいくつもあっていい。ところが例外はいくつかあるにしても――ド・クインシーは『阿片吸引者の告白』でその種の試みをしたし、プルーストのそこここの記述を拾えば病気についての本が一冊や二冊できるだろうが【2】――文学が総力を挙げて主張しているのは、我が関心事は精神にあり、ということである。肉体など一枚のガラス板のようなもの、魂はこのガラス板を介してはっきり鮮明に見えるのだから、欲望や卑しさなどの一つか二つの熱情を除けば肉体など無だ、無視してよろしい、存在しない、というのである。

 しかし真実はむしろ逆である。昼と言わず夜と言わず、肉体は介在する。愚鈍になったり鋭敏になったり、赤くなったり青くなったり、6月の暑さにまるで蠟(ろう)のように溶けたり、暗い2月に牛脂みたいに固くなったりする。内部の生物はガラス板を介してしか外が眺められず、ガラス板は曇ったり薔薇色に染まったりする。生物と肉体との関係はナイフと鞘、豆と豆鞘とは違い、片時たりとも離れられない。この生物はいつ果てるともしれない刻々とした変化をくぐり抜けねばならない。暑さも寒さも、快も不快も、空腹も満腹も、健康も病気もくぐり抜け、ようやく避けられない最期のときが訪れて――肉体は千々(ちぢ)に砕け、魂は解き放たれる(と言われている)。

 それなのに、こうした肉体の日々のドラマについては記録がない。人々はいつも精神のさまざまな作用について、精神に宿るさまざまな考えについて、精神による幾多の崇高な企てについて、そして精神がいかに世界に文明をもたらしてきたかについて書いている。そうやって書きながら、人々は哲学者が塔に籠(こも)るようにして肉体を無視するか、あるいは肉体が古ぼけた革のサッカーボールででもあるかのように蹴り飛ばし、雪原や砂漠での征服ないし発見の旅に出る。肉体が精神を奴隷にすべく仕掛けてくる大戦争、孤独な寝室で熱が出たり抑うつ症状に襲われたりするときの大戦争【3】のことは顧(かえり)みられない。その理由は、それほど考えなくてもわかる。こうした事実をしっかり見据えるためには、ライオンの調教師にも比すべき勇気と、逞しい哲学と、大地のはらわたに根を下ろした理性が必要なのだ。これらのものがなければ、肉体というこの怪獣、この奇跡、その苦痛は、じきに私たちを神秘主義の煙に巻くか、勢いよく翼を羽ばたかせ超越主義の歓喜へと誘うのがオチなのである。

 インフルエンザをテーマにした小説なんて展開がないだろう、愛が書かれないだろうなどと、大衆は文句を言うかもしれない。ところがこれは間違いで、病気はしばしば愛に偽装し、愛と同様の奇妙ないたずらをする。病気は、この人、あの人の顔を神々しくする。階段を上がってくる音がしないかと私たちは何時間も耳をそばだて、そこにいない人たちの顔に新たな意味を付与する(元気なときにはきわめて凡庸としか思わない顔にも、である)。その間も精神は、そこにいない人たちについての数々の伝説とロマンスを作り上げる――元気なときにはそんなことをする時間も趣味もないというのに。

 文学において病気の描写が見られない最後の理由は、言語の乏しさである。英語を使ってハムレットの思索やリア王の悲劇【4】について表現することはできても、悪寒や頭痛には語彙がない。英語の発展はかなりいびつである。まだ学校に通っている女の子であれ恋をしたなら、シェイクスピアやキーツの言葉【5】で心のうちを語ることができる。ところが頭痛に苦しむ人が医者に向かって痛みを表現しようとすると、とたんに言語は干上がってしまう。使えそうな出来合いの表現はない。自分で語彙を作らねばならず、片方の手に痛み、もう片方の手に純粋な音のかたまりを持って(たぶんバベルの住人たちが最初そうしたように【6】)ぎゅっと合体させると、新しい語彙がようやく転がり出てくる。でも、その語彙は物笑いの種になるだろう。イギリス生まれの人で、英語をむやみに変更できる人なんているだろうか? 私たちにとって英語とは神聖なもの、ゆえにやがて死なせてしまうのは必至だ。でもアメリカ人は古い言葉を操るより新しい語彙を作ることにかけて存分に才能を発揮しているので、私たちの救援に来て、また泉の水が湧き出るように尽力してくれるかもしれない。

 ただし、必要なのは新しい言語――より原始的、より感覚的、より猥褻(わいせつ)な――だけではない。どこに情熱を傾けるのかについての優先順位も変更しなくてはならない。四十度の熱を前にすれば、愛には退位していただかねばならない。嫉妬も、坐骨神経痛の痛みの前には退陣してもらわねばならない。不眠が悪役なら、ヒーローは甘くて白い液体、蛾の目と柔らかな羽毛に覆われた脚を持つ逞しき王子、その名はクロラールだ。【7】

訳注

【1】抜歯はインフルエンザの治療法の一つと考えられており、1922年5月26日にウルフは3本の歯を抜いてもらっている(解説参照)。また「死の淵に……浮かび上がってくる」は抜歯の際の全身麻酔についての記述らしい。1919年3月7日の日記でも、歯科医に歯を抜かれた体験について書いており(このときは虫歯だった)、本エッセイでの天国の記述はそのときの感慨に基づく(Anne Olivier Bell, ed., The Diary of Virginia Woolf, Vol. 1, p. 250)。ウルフは「ガス」というエッセイでも抜歯と全身麻酔について書いている(Stuart N. Clarke ed., The Essays of Virginia Woolf, Volume 6: 1933-1941 [Chatto & Windus, 2000] 所収)。

【2】 トマス・ド・クインシー(1785〜1859)はイギリスの評論家、随筆家。阿片を歯痛の鎮痛剤として服用したのちに常用者となった体験を、随筆『阿片吸引者の告白』(1821)に著した。マルセル・プルーストはフランスの小説家(1871〜1922)、大作『失われた時を求めて』(1913〜27)がある。

【3】 「大戦争 great wars」 という表現は、当時のイギリスで「大戦争the Great War」と呼ばれていた第一次世界大戦(1914〜18)に掛けたもの。

【4】 イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564〜1616)の『ハムレット』(1600〜01?)と『リア王』(1604〜05)への言及。『ハムレット』では王子ハムレットが「生きるべきか死ぬべきか」と逡巡する。『リア王』では老王リアが長女と次女に裏切られる。

【5】 シェイクスピアは『ロミオとジュリエット』(1595)『夏の夜の夢』(1594〜96)など、恋愛をテーマにした戯曲があるほか、『ソネット集』(1609)に集められた数多くの恋愛詩がある。ジョン・キーツ(1795〜1821)はイギリスのロマン派詩人。「輝く星」(1838)などの恋愛詩がある。

【6】 バベルは旧約聖書の『創世記』に出てくる伝説上の街。人々は普遍的な言語を持っていたが、天に届くほどの塔を建設しようとして神によって中断され、言語もバラバラにされた。

【7】 かつて入眠剤や鎮静剤として使われていた薬で、ウルフ自身も処方されていた。

*Source: Virginia Woolf, “On Being Ill,” The Essays of Virginia Woolf, Volume 5: 1929-1932, ed. by Stuart N. Clarke (Hogarth Press, 2009).


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