見出し画像

【キム・チョヨプ来日決定! 記念企画第2弾】新刊『この世界からは出ていくけれど』より傑作短篇「ローラ」をWeb全文公開!【2カ月限定】

韓国新世代SF作家の旗手、キム・チョヨプ氏の来日が決定!
11/25~26に行われる「K-BOOKフェスティバル 2023 in Japan」にて、SF作家の小川哲さんとの対談が決定しました。

来日決定を祝う記念企画第一弾として、新刊である第2短篇集『この世界からは出ていくけれど』から、問題作にして傑作の短篇「ローラ」を、2カ月間限定でWeb全文公開します!

ローラ

          キム・チョヨプ

            ユン・ジヨン/訳、カン・バンファ/監修

 ジンはノートパソコンから手を離して、窓の外へ視線を投げた。もう日が暮れかけている。点滅するカーソルを一日中見ていたのに、まだ返事を書き終わらない。溜まっていたメールに長らく返事をしていなかった。それでも以前は本文くらいは確認したものだが、今ではタイトルを見ただけでどんな内容かだいたい予想がつくので、それすら読まなくなっていた。
 メールのほとんどは、《間違った地図》について尋ねるものだった。課題や論文執筆のためにもっと多くの事例について話を聞かせてほしいだとか、参考資料をもらえないかといったちょっとしたお願いメールが多かったが、ほかにもメールの内容はさまざまだった。「地図」が使い物にならなくなった人が身近にいるというものから、自分は《間違った地図》を持っているのではないか疑われると訴えるもの、はたまた単刀直入に今すぐ会って話がしたいと乞うものまで。
 初めのうち、ジンがそんなくどくどしい身の上話にすべて目を通していたのは、ひょっとしたら自分が探し求めている事例が見つかるかもしれないという期待からだった。しかし時間が経つにつれて、彼はそんな期待を捨てた。ジンには、自分にメールを送ってくる人たちの切実な気持ちがよくわかった。自分もかつてはそうだったから。世界中を飛び回り、睡眠時間を削って取材をしたり、慣れない医学用語につまずきながらも論文を読んで勉強したのもそのためだった。でも、もう取材は終わったのだ。ジンは探していたものを得られなかったし、疲れていた。
 たくさんの人たちが、《間違った地図》を読んで驚くべき悟りを得たと、生きるうえで大事なインスピレーションを与えられたと、自分自身と他人についてより深く理解するようになったと言ってくれた。それは不思議なことであり、また理不尽でもあった。その本を書いた当の本人であるジンにしてみれば、疑問ばかりが山ほど残ったのだから。
 ローラを理解するために始めた旅は、いかなる答えも与えてはくれなかった。《間違った地図》はほかの誰かにとっては救いだったかもしれないが、ジンは救われなかった。彼は今では、その件に区切りをつけたジャーナリストにすぎない。《間違った地図》が昨年、長篇ドキュメンタリーとして制作され、いくつもの映画祭で受賞したことで、原作者であるジンへのインタビューの申し込みやメールでの問い合わせが急に増えたが、彼が返事一つ出さなかったのはそのためだった。何か言葉を付け足したところで、それは蛇足になる気がしたから。ジンのなかでこの問題は、こうして未完のまま終わってしまったのだから。
 ところが、一週間前に届いたメールはいささか趣きが異なっていた。Hと名乗る女は、参考資料を要請することも、本人やほかの誰かの話を延々と述べることもなかった。それどころか、自分が誰なのか、どうやってこの本を見つけたのかといった通り一遍の話すらなかった。そのメールはありきたりな書き出しから始まっていた。《間違った地図》を読んで大きな衝撃を受けたと、この本は自分の人生にとってとても意味のある何かについて話していると。もちろんそれだけなら、ジンはこのメールをほかのメールと同じように扱っていただろう。
 Hはさらに質問を付け加えていた。ローラについて尋ねたのだ。
 
 以前、あなたの恋人の話を読んだことがあります。わたしが置かれた状況とよく似ていたので、その文章について長らく考えてきました。献辞にあるLは、おそらく彼女なのだろうと推測します。彼女もこの本を読んだのでしょうか? 彼女がどんな決定をしたか、お聞かせ願えませんか?
 
 Hはどこでローラに関する話を読んだのだろう? ジンは本のなかで一度もローラに言及しなかった。あの旅程のすべて、そしてあらゆる文章の根底には、ローラを理解したいと切実に願う気持ちがあったが、それでも彼は結局、ローラの名前を書かなかった。たとえ彼女が自分の話を書くことを許可していたとしても、やはり書かなかっただろう。
 本が出たあと、インタビューでうっかり話したのだろうかと振り返ってみたが、やはりそんな記憶はない。敏感な一部の読者からときどき、序文にある彼女とは誰かと尋ねられることがあったが、ジンはその質問に対してはいつも口をつぐんだ。ひょっとしたら、Hが言う「以前」というのは本当にずっと昔、ジンの頭に《間違った地図》の草案が浮かぶよりも前のことなのかもしれなかった。彼が原稿料で人並みに生計を立てられるようになるよりも前、雑誌にくだらない恋愛コラムを書いてせいぜいはした金を稼いでいた時代。そのころ書いた文章を思い出すと後悔が押し寄せたが、まずはHにローラの話をどこで読んだのか訊いてみなくてはと思った。
 メールを書くあいだに自動洗浄を終えたコーヒーマシーンが、けたたましい音をたてながらコーヒーを淹れ始めた。ジンは食卓に歩み寄り、コーヒーカップを手に取った。手に触れる熱いカップの感触がよそよそしく感じられた。そんな時がある。ローラについて、彼女の人生や感覚について絶えず考えるようになってからというもの、こんなふうにごく日常的な感覚にふと違和感を抱く瞬間が。ジンは手のひらで感じる熱気と手の甲に触れる冷たい空気の対比について考えながら、ローラのことを思った。彼女の人生は、どんな感覚で満たされているのだろうか。
 ローラは言った。愛と理解は同じじゃないと。その言葉に同意できないジンは、長い取材を始めた。ローラのある部分が自分にとって完全なる未知の領域として残されているということ、そして彼女は自分にそれについて説明する気すらないということが、ジンにとっては哀しかった。ジンは世界を飛び回り、ローラと境遇の似た、しかしまったく同じではない人々に出会った。彼らはジンのことを警戒し、時に歓迎し、稀には拒否することもあったが、ジンは彼らのうちにそれぞれに異なる内面の真実を垣間見た。そうして自分はローラのことをほぼ理解できたのだと、彼女の複雑な内面にほとんど手が届いたように思えた瞬間もあった。
《間違った地図》は、こんな献辞から始まる。
 
 いまだ知り得ないLへ。
 

 
 人間はそれぞれが固有の身体地図を持っている。手足を意識していないときでもそれらがどこにあるかがわかるのは、人間に身体の位置と動きを感知する固有の受容感覚があるからだ。しかし一部の人たちは、ずれた固有受容感覚を持っている。つまりは、《間違った地図》を持っているのだ。
 神経麻酔が原因で一時的に固有受容感覚を失うことがある。それを経験した人たちは、自分の身体が自分のもののように感じられなかったとか、ひどい場合だと、身体と精神がばらばらになったような感覚を覚えたのだと語る。ほとんどの場合、それは一時的に現れる副作用にすぎない。その一方で、不一致の感覚が消えない人たちもいる。彼らは自分の身体がそんなふうに存在することに困難を感じる。はたから見れば普通に見える手足を自分のものでないと感じたり、自身の視覚あるいは聴覚といった感覚に対して抵抗を感じたりする。彼らは地図と現実の身体とを一致させたいと望む。そのために、自分の目を失明させる人もいれば、腕を切断する人たちもいる。
 
 ジンが最初に向かった目的地はマドリッドだった。マドリッドのとあるレストランで、彼は切断欲求を持つ人たちと会って話を交わした。会はまだ発足したばかりで、彼らのなかには身体完全同一性障害の診断を受けた人たちもいた。彼らは脳内の身体地図と実際の身体との不一致から生じる不快感を経験していた。なかには補助器具を使って身体の一部を固定し、無力化させることで満足できる人もいたが、一部の人たちは依然として、自分たちに適した医療施術、すなわち手足の切断を引き受けてくれる医者を世界各国で探していた。
「何か別の治療法はないんでしょうか?」
「もちろん、みんな色々試しましたよ。心理カウンセリングやら精神治療やらね。薬だって何十種類も飲みましたし。ごく稀にですが、鏡治療やシミュレーション治療で効果があった人もいないわけではありません。しかしそれでもだめだった人たちが、こうして集まっているんです。医師たちがわたしたちを治そうと、どれだけとんちんかんなことをくり返してきたのかを聞いたら、あなたもきっとため息が出ますよ」
 彼らは自分たちのような人たちのケースを集めた公開ウェブサイトをつくり、運営した。ウェブサイトは世界的に注目されたが、すぐにたくさんの非難に直面した。彼らは直ちに精神治療を受けるべきだという声が上がり、一部の障害者団体は身体の障害を美化するなと不快感を示した。ウェブサイトは暫定的に閉鎖された。
「手足を失った状態で生きることが大変だということは、わたしたちにだってわかっているんです。わかっていながらも、このうんざりする不一致感がどうしても耐えられないんです。何の問題もない手足を切断することが、とても奇怪に映るであろうことは承知しています。ですが、安全な環境を確保したうえで身体に適切な処置を施されるのと、無駄な希望を盾にしていつまでも精神的な苦痛を与えられるのとでは、どちらがより残酷でしょうか? わたしたちは数十年ものあいだ、ちゃんとした治療を受けられませんでした。症状がひどくなれば病院に監禁されるか、いつかは精神の異常を治療できるだろうと慰めの言葉をかけられるだけでした。まだありもしない治療法を仮定して語ることに、なんの意味がありますか?」
 団体の要職を務めているという男が、きっぱりと言った。
「わたしたちが知っている人たちのなかには、自分で脚の切断を試みて、感染による死に至った者もいます。切断には成功したものの、自分が感覚している部位よりも下のほうを切ってしまって、その後も違和感を感じ続ける人もいますしね。わたしの知ってるヤツなんか、結局銃を腕にぶっ放してから、病院に出向いて切断するところを細かく指示しましたよ。ヤツは今では自分の身体に満足しています。今わたしたちに許された方法なんて、それくらいしかないんですよ」
 話を交わした人のうちの誰かが、ジンが本を執筆中だと聞いて、ヘユンを紹介してくれた。彼女は珍しく、固有感覚そのものをそっくり失った人だった。最初、ジンは教えてもらったヘユンのメールアドレスに連絡をしてみた。彼女は手の位置感覚がないのでタイピングがとても大変なのだと言って、ビデオ通話を求めてきた。画面のなかのヘユンは、外見上は驚くほどなんの問題もないように見えたが、話をしているあいだも絶えず自分の身体を横目で確認していた。そうしないと身体がそこにあることがわからないので不安になるのだと。ジンはマドリッドにある団体について話し、切断という治療法についてどう思うかと訊いた。
「あのおかしな連中からわたしを紹介されたんですね? 面白い連中だと思いますよ。あの人たちの心境はよく理解できます。わたしも自分で知覚できない身体を持っていることが恐ろしく思えることがあります。しかし、切断と言われると、どうでしょう。だって、わたしのケースを考えてみてください。もしもそうしたやり方でしか、つまり切断によってしか問題を解決できないというなら、わたしには死以外に方法がないわけです。そうでしょう? ならばわたしは、何をすべきでしょうか?」
 ヘユンは冗談だと言って笑った。
「確かに、わたしはよく死ぬことを考えます。それでも、よくわからないですね。あなたの表現を借りれば、彼らは変形した地図を持っているわけですが、わたしの場合は地図をまるごとなくしてしまったようなものですよね。そこには違いがあるので、同一線上で比較することはできないのではないでしょうか」

 アメリカのコネチカット州に本部を置く世界トランスヒューマン連合という団体は、人間の身体の持つ限界を乗り越えることを目指していた。彼らの主な目的は、身体を拡張する施術を合法化することで、そのために増強自律化法案を推進していた。その連合には今も、規制すれすれまで身体を改変する人たちが集まっていた。
 連合の会長は、肩まで垂れさがった耳が印象的な女だった。
「要するに、今の法律は無駄に厳格なんですよ。規制の理由というのは、治療はいいけど向上はだめってことなんですけどね。でも、治療と向上のあいだの線引きは常にはっきりしているわけではありません。人間はいつだって身体を改造したり、改変したりしてきましたからね。強化を認めないという話なら、よくあるインプラント施術だってなんの異常もない骨に手を加えているわけだし、ワクチンの接種も同じく禁じるべきじゃないでしょうか」
 会長は両耳に古風なデザインの大きいピアスをつけていたので、まるで古代文明から現代にワープしてきた王族のように見えた。
「わたくしどもの連合の会員はたいてい、新しい感覚に興味を覚えます。視覚と聴覚の改善にはとりわけ興味を持っているんですが、今行われている施術でも、普通の人の二倍の視力のスーパービジョンを実現することは十分可能なんです。ただ、その施術の許可を受けるためには視力が低下したことを証明しなければならないというのが、おかしな現実なんですよね。磁気センサーを指に埋め込むというのも、流行り始めています。わたしはふだんの生活に不要だと思ったのでやっていませんが、若い人たちの話では、けっこう面白いセンサーらしいですよ。あ、身体の見た目を変形させることも、もちろんあります。骨と筋肉の一部を新素材に思い切って取り替えることで、ピンと背筋の伸びた優雅な姿勢を手に入れたという会員の話も聞いたことがありますし。彼はモデルとして大いに活躍中です。わたしみたいに、外見に関しては簡単な施術だけで満足する人たちも多いですけど」
 トランスヒューマンたちは、身体を改変したり改造したりすることにとても積極的だった。命に危険がない限り、また時には進んで危険を冒してまで、限界ぎりぎりの挑戦をしていた。彼らの目標は明確だった。より優れた技能を追い求め、既存の身体の持つ限界を超越すること。
 ジンがトランスヒューマン連合の会員たちに《間違った地図》の中核となるアイデアを話したとき、彼らのほとんどは首を振った。
「自分の身体が間違っていると感じたことはありません。わたしたちの事例を載せたいと思っておられるのなら、さほど適した事例とは思えませんね。ただし、人間の精神が潜在的に持っている無限の能力に比べて、その容れ物となる身体があまりに物足りないとは感じています。わたしたちが目指すのは、精神の潜在的な可能性を十分発現できるように身体を強化することなんです」
 トランスヒューマンたちは、身体完全同一性障害を持つ人たちとは違ったし、事故で手足を失ってから幻肢痛を患うようになった人たちとも違っていた。彼らは身体に手を加えることに対して抵抗がないので、身体を積極的に改造することでより優れた身体を手に入れたいと願っていた。
 会話がそろそろ終わりかけたころ、ジンが尋ねた。
「それでは、腕をもう一本つけることについては、どう思われますか? それも一種の増強と言えるのではないでしょうか?」
「さあ、どうでしょう。たまに手が足りないと感じることは確かにありますね。片手に書類を、もう片方の手にコーヒーを持っていて、重たいガラスの扉を押し開けようとするときだとか……」
 女はおかしな質問を受けたというように、無神経に答えた。
「でも、そんなことでもなければ、日ごろ腕が二本では足りないと思うことはありませんね」
 

 
 ローラは三本目の腕を欲しがった。
 ジンは二十歳のときにローラに出逢った。大学のジムで運動を終えて帰ろうとしていたときだった。ジムのユニフォームを着たバイトの子が、タオルをたくさん積んだカートを押しながら向こうから近づいてきて、すぐ目の前で柱にぶつかった。びっくりした人たちが周囲に集まり、ジンが床に散らばったタオルを拾うのを手伝っているあいだも、どこか心ここにあらずという様子だったのがローラだった。彼女はジンに心からの礼を述べ、あなたが手伝ってくれていなかったら夕方の家庭教師のバイトに遅れるところだった、今度ぜひお茶をおごらせてほしいと言った。そのときジンが彼女に抱いた感情は、まだ軽い好奇心と好感程度だった。問題は、その次にカフェで会ったときだった。自分から言い出してトレーを運んでいたローラは、何もないところで突如バランスを失い、床に倒れた。ジンはひどく驚き、洋服がコーヒーのシミだらけになったローラのほうへ駆けつけた。そのとき目にした彼女の表情が忘れられない。
 コーヒーをこぼした人が通常見せるような、驚いたり、自分を責めたり、イライラしたり、恥ずかしがったりする様子はなく、不思議にも諦めと無関心が入り混じった表情。言ってみれば、「仕方ないよね」とでもいうような顔をしていたローラ。
 ジンと目が合うと、ローラは笑顔をつくって見せた。
「洗濯しても素晴らしいシミが残っちゃいそう。ところでここのコーヒー、とっても良い香りですね。今度またおごらせてくれませんか?」
 ジンは彼女が楽天的すぎると思った。それはあながち間違った考えではなかった。ただ、ローラに瞬く間に魅了されてしまったため、彼女が何か解決不可能な問題を抱えているかもしれないということにまでは考えが及ばなかった。ジンがローラの問題に気がついたのは、ずっとあとになってからだった。思えば最初からいくつかおかしなところはあったのに。
 ローラはふいに両手を挙げたり、入りかけた店のドアの前で急に立ち止まったり、片手でフォークを動かしながら、もう片方の手でそれを止めようとしたりすることがあった。彼女のそんな行動を目にしたとき、ジンは単純にちょっと変わった子だと思った。またローラは、おっちょこちょいで片付けてしまうにはあまりにも頻繁にどこかにぶつかったり、倒れたり、擦り傷をつくったりした。しかも、そんなときでも彼女は、それをあまり残念に思うふうにも見えなかった。いつだったか、ローラの右腕にたくさんの傷跡を見つけたとき、ジンは彼女が自傷をしているのではないかと疑ったくらいだった。恐る恐る大丈夫かと訊いたとき、彼女はどうということもないというふうに答えた。
「小さいころ、大きい交通事故にあったことがあるの。その後遺症からか、ときどき身体から力が抜けることがあるんだよね。思いっきり引っ張ったゴムひもを、パッと放したときみたいに。でも、そんなに深刻な問題じゃないよ。誰だって一つくらい、そういう悩みはあるもんでしょ」
 三十歳を前にローラはそれまで勤めていた会社を辞めて、フリーのデザイナーとして働き始めた。そのときもジンは、ローラが在宅勤務になってよかったと、毎日通勤するよりもそのほうが楽だろうと思っただけだった。
 その翌年、二人が出会って十年余りが経とうとしていたころのことだった。彼女は初めてジンにこんな話をした。
「わたしには三本目の腕があるの。それを実際につけようと思ってるんだ」
 十一歳のときに事故に遭って以来、彼女は現実には存在しない三本目の腕に激しい痛みを感じるようになったという。事故で切断された四肢に幻肢痛を感じるのはそれほど珍しいことではないが、ローラの場合は、そもそもありもしない過剰な四肢に痛みを感じているわけなので、どんなリハビリ治療も役に立たなかった。唯一、彼女にとって効果があったのは、VRを用いたシミュレーション治療だった。二十歳になるころ、神経科の医師が提案した方法だった。シミュレーション療法は予想よりもうまくいき、ローラの感じていた三本目の腕の痛みはぐんと和らいだ。しかしそれと引き換えに、三本目の腕があるという感覚はより鮮明になった。
 彼女の決定をジンはどうしても理解できなかった。事故の後遺症のせいで偽の感覚を経験するようになったのなら、その感覚のほうを治すべきであって、作り物の腕をくっつけることがどうして解決策になるというのだろう? ジンはローラを説得するために新しいクリニックを探し、ほかの病院でもカウンセリングを受けてみるよう勧めた。
 ジンがひどく困惑し、なんとしてでも自分を止めようとするので、しばらくのあいだローラはジンの提案に従ってみせた。彼女は三本目の腕を取りつける話をまた持ち出す代わりに、ジンに勧められるがままにおとなしくクリニックに通った。ジンは毎晩ローラに、きっとよくなるから大丈夫だと、だから諦めないでと言って聞かせた。
 だが、ローラのは長くは続かなかった。数カ月後、彼女は告げた。
「ジン、わたしね、来週手術の予約を入れたの」
 ローラはもう何年も前から、機械腕の移植を準備してきたのだと話した。まず、三本目の腕をつける手術は身体の強化や趣向のための身体改変ではなく、彼女が経験している「不一致」の症状に対する治療目的だということを、気が遠くなるような書類手続きを経て証明してみせなければならなかった。次にローラは、自分の感じている三本目の腕の形態を自分でデザインし、義肢の専門家たちと相談しながら、機械の腕を製作した。そうして出来上がった腕を試しに装着してみて動かしながら、細かく微調整を行なった。そしていよいよその腕を神経と筋肉につなげる手術を受ける前に、まず家族に移植を決心したことを話し、最後にジンに知らせたのだった。自分の恋人が実際には存在しない腕のせいで混乱していること、その解決策が脳を治すのではなく新しい腕を取り付けるというものだということ、そのどちらもジンにとっては不可解だったが、何より受け入れがたかったのは、彼女が自分にはひと言の相談もなしにひとりですべてを決めてから通告してきたことだった。
「そんなとんでもない手術を許可してくれたって?」
「そう。だから本当に簡単じゃなかったわ。十年ものあいだわたしの脳を資料として残し続けたの。見て。これがわたしの脳内地図よ」
 ローラが差し出した資料には、モノクロの脳スキャンデータと共に医師の所見が記されていた。あらゆる手を尽くしたにもかかわらず、ローラは長い歳月のあいだ変わることなく、三本目の腕の存在を生々しく感じていた。どんな方法を試してみても、ローラの脳は治療できなかった。《間違った地図》は、すでにローラの人生を隅々まで捉えて離さなかった。
「ほら、今この瞬間にも、三本目の腕がジンを撫でているみたいなの。わたしたちが抱き合うとき、わたしはその手を使ってあなたの頬に触れる。それなのに、その手が実在しないことに気づくたびに、自分が何かの隙間に挟まった存在のように思えるの。ジン、あなたの気持ちについて考えなかったわけじゃない。もしもわたしがあなたの立場だったとしたら、やはり自分も受け入れられなかっただろうと、そう思ったこともあるの」
 無言のままのジンにローラが言った。
「あなたがいなくなったら、わたしはとても悲しいと思う。あなたを愛することは、わたしにとっても幸せなことだから。でも、だからといって、自分らしくなることを諦めるわけにはいかないの。自分らしくあることは人生をかけた冒険だから。あなたに支持してもらえたら嬉しいけど、それがだめなら……」
 ローラは言葉を切り、長いあいだジンを見つめたあと言った。
「それでも仕方がないの。わたしにはこうするしかないんだから」
 

 
 ジンにとって一番つらかったことは、ローラがはなから自分に理解してもらおうとしなかったことだった。彼女は過剰四肢を自分だけの問題として抱え込み、ジンには長いこと三本目の腕の存在について話さず、機械の腕を取り付ける直前になってようやくすべてを通告した。そんなローラの態度を目の当たりにして、彼女は初めからどんな理解も期待していなかったのかもしれないとジンは思った。あるいはそのとき感じた苦しみこそが、《間違った地図》を書くようジンを導いたのかもしれない。ジンにとって書くことは人を理解する方法だったし、彼はローラの内面を理解したいと思ったのだ。
 本と論文をかき集めて文献調査を進め、知人を通して情報提供者を募り、インタビューを要請した。承諾してくれれば世界中どこへでも駆けつけた。一年半余り続いた取材で、ジンは何十人もの、ローラと似たケースの人たちに出会った。間違った脳内地図と身体との齟齬を身体を改変することで埋めようとしているという点で、身体完全同一性障害を持つ人たちとローラは似ていた。他方、身体から何かを取り除くのではなく、付け足すことを望んでいるという点では、彼女はトランスヒューマンたちとも似ていた。しかしながら誰一人として、ローラとまったく同じではなかった。
《間違った地図》で紹介した事例のうち、ローラと似たケースはたった一つ。取材に応じてくれた老人は、それはもう過ぎ去った過去のことなのだと回想した。その症状は、五十代後半に脳卒中で倒れたあとに現れたという。約二週間のあいだ、左の腰の辺りに腕がもう一本動いているような感覚があった。しかし老人は長いリハビリを経て、今はかつて腕が生えていた箇所が時折ムズムズするだけで、そうした感覚はほとんどなくなったのだと話していた。そのほかには文献上報告された事例が一部あるが、ローラのように過剰四肢を経験するケースはとても稀だった。たいていの場合は、インタビューした老人と同じように脳の病変の合併症として現れることが多く、ローラのようにはっきりと腕を感じることはなかったし、ほかの機能障害が治れば幻肢も一緒に消えた。
 ジンは機能的磁気共鳴映像(fMRI)を使って過剰四肢を研究した数十年前の論文を発見して、取材を申し込んだ。論文の共著者から、研究の対象だった患者の個人情報は教えられないという断りと共に、その後新しい事例は見つかっていないという返事が返ってきた。ジンの取材に唯一応じてくれた研究員も、実験の結果には懐疑的だった。
「わたしが研究に参加したのは事実です。イメージの分析を担当しました。でもその後、同じ症状の患者には二度と会えませんでした。科学の研究をしていると、稀にそんなことがあります。たった一度だけ観測されて、それっきり二度と現れない特異な現象というのが。個人的には、そういったものは自然の一時的なエラーだと見なすべきじゃないかとも思うのですが……。ひょっとして何か、念頭に置いている特定の事例がおありでしょうか?」
 ジンの心が一瞬揺らいだのは事実だ。研究員はローラの状況について、自分にわかる範囲で科学的な説明を加えながら解説してくれるだろう。それでもジンは結局、ローラについては話さなかった。彼女が自分の幻肢をついに実現させたということも。
 
 ジンはローラが言った比喩について、よく考えることがあった。
「あなたがこれから一生住むことになる家の間取り図を、設計者が差し出すの。『これがあなたの家ですよ』って。その間取り図には確か、に広い部屋が一つあるのね。大きな窓があって日当たり抜群で、部屋の片隅に本棚を置いて書斎としても使えそうなくらい素敵な部屋。だけど、いくら探してもその部屋が見つからないわけ。実際には、手狭なリビングがあるだけ。間取り図をくれた設計者があざ笑うの。『よく探してごらんなさい。部屋は間違いなくそこにありますよ』って。からかわれているのかな? それともわたしが見ているのは幻なのかな? 時間が経てば経つほど、その部屋を求める気持ちは募っていくのに、何かに目隠しをされていて扉が見つからないんだろうか? 間違っているのは自分なのか、この家なのか、そもそも自分の受け取った間取り図のほうなのか?」
 ジンは、ローラが誰からも完全に理解してもらえないことで、しばしば憂鬱になることを知った。ローラを理解するたった一人の人、その人になりたいとジンは思った。《間違った地図》を書きながら、ジンはローラが経験している現象や、彼女の身体に内在する不快感を、少なくとも頭では受け入れられるようになった。しかし、それはまるで教科書のなかの文章を諳んじたり、数式を機械的に書き写すときみたいに、いつも上滑りして真の理解には至らないのだった。
「ジン、あなたがそのすべてをやり遂げたことを思うと、わたしは嬉しいのと同時に悲しくもなるの。誰かのことを理解したくて、人は文章を書いたり、本を探して読んだり、頑張って想像を巡らせたりするけど、あなたのように世界中を旅して一冊の本を完成させる人はめったにいないと思う。わたしも知っているわ」
 ローラがほほ笑みながら言った。
「だけど、一つだけはっきりさせておきたいの。あなたはわたしのためじゃなく、あなた自身のためにその旅をしたのだということを」
 

 
 Hは二通目のメールで、ジンが大学時代に雑誌に寄稿したエッセーを読んだのだと書いていた。ジンはようやく、そのとき書いた文章の内容を思い出した。それは恋愛ものの軽いエッセーで、彼女がおっちょこちょいでよくケガをするのが心配だけど、そんな彼女のことがとても可愛く思えるという内容だった。当時、ジンがそのエッセーを見せると、ローラが「こんなことまで書くんだ」と笑った記憶も一緒に思い出された。ローラのそうした特性が身体の不一致感覚によるものだということをもし知っていたなら、それでもやはり可愛らしいとばかり感じていただろうか。
 
 わたしがあなたにメールを送った本当の理由について、そろそろお話しましょう。ジン、わたしもあなたと同じなのです。とても近しい人が身体を直したがっているんです。それは誰が見ても恐ろしい結果へと向かっています。わたしは不安だし、怖いです。その人を失うかもしれないということも怖いのですが、何よりわたしが恐れるのは、自分がその人をこの先もずっと理解できないかもしれないということ、そうしてついには愛せなくなってしまうのではないかということ、それが最も怖いのです。
 
 その人というのはHの恋人かもしれないし、家族なのかもしれない。Hは、改変した身体を持つことになるその人のことを変わらず愛せるだろうか、もしも自分がその身体をおぞましく感じてしまったら、それは正しいことなのか、その人の変化をどう受け入れるべきなのかと、混乱しているようだった。
 
 だけどジン、あなたならわかりますよね。わたしたちは彼らを説得できないということを。だからといって理解もできません。わたしたちはただ……待つだけです。これから起こるだろう変化を。
 だとすれば、わたしたちにできることはいったい何でしょうか。

 
 ジンには、Hの途方に暮れるような心情と混乱が理解できた。もう何年もの月日が経っていたが、ジンはいまだにローラの三本目の腕に慣れることができないでいるし、それを見るのは苦痛だった。
 もしもローラが三本目の腕をごく自然に操っていたなら、また何かが違っていただろうか? ローラは新しい腕に適応できなかった。三本目の腕は彼女の右肩の辺りの筋肉と神経に接合されたが、ローラがその腕をうまく操れない理由が、もともと人間にはない身体部位を接合したからなのか、それとも後天的につながれたためなのかは不明だった。
 神経の接合部位を覆う人工皮膚からはしょっちゅう膿が流れ、醜い傷跡もできた。腕をまめに拭いてやらねばならず、結局人工の皮膚を半分ほど除去した。ローラは機械腕の見た目が気に入らないようだった。重たい三本目の腕のせいでしょっちゅうバランスを崩し、炎症に苦しんだ。そしてしまいには、元からあった腕の機能まで低下してしまった。医師は機械の腕を取ったほうが良いだろうとアドバイスした。
 でもローラはそうしなかった。三本目の腕をつけたまま生きていくと言った。それが自分にとっての最善の現実なのだと。
 ローラにとって三番目の腕は、増強でも向上でもなかった。それは身体を傷つけることであり、むしろ欠陥を持つことにつながった。ジンがあのような長い旅に出たのは、欠陥を持つことを自ら選択する人たちがどうしてそうするのか、その理由を少しでも理解したいと思ったからだった。
 ジンは冷めたコーヒーを一口飲むと、メールの続きを書き始めた。
 
 Hさん、わたしにあなたを助けることができるかどうか、それはよくわかりません。おそらくわたしが何を言っても、あなたはその人を説得しようとするでしょうし、その方は自分が望む選択をすることでしょう。そうするとあなたは混乱し、自分もまた何かしらの決断を下さなくてはならないと思うことでしょう。しかし、必ずしもそうする必要はないのだということを、今のわたしは言いたいです。
 実は、今でもわたしは、あなたと同じ混乱を感じています。この混乱はこの先もずっと続くでしょう。あの長い旅が終わって、たくさんの時間が流れた今になってようやく、結局そこにも答えはなかったのだと気づいたのです。あなたからの最初のメールを受け取ったあと、なぜかローラに会わなくてはいけないような気がしました。
 昨日、わたしはほぼ二カ月ぶりにローラに会いました。彼女が機械腕を取り付けてからというもの、わたしたちは付き合っては別れてを何度も繰り返していました。そのすべての原因がローラの腕にあると言うつもりはありません。それはただ、わたしたちのあいだに決して埋められないみぞがあることを確認させられた一つの事件にすぎません。
 どうしてもこれ以上待てなくなって会いに来たのだと言うと、彼女はそうなると思っていたと言って笑いました。そして、三本目の腕でわたしをぎゅっと抱きしめました。
 その腕は相変わらず硬くひんやりしていて、ひどい油のにおいがしました。力の調節ができないので、腕の部品に何度も肩を刺されましたし、空気中に露出した人工の筋肉がわたしの頬に触れました。いつまでも決して慣れることのない感触。わたしの違和感を知りながらも、ローラはいつもわざと三番目の腕を抱擁に加えました。今回もそうでした。
 わたしと目が合ったとき、ローラはいたずらっぽい表情でニッと笑いました。その瞬間、わたしは自分が今でもローラのことを愛していることを知りました。それと同時に、ひょっとしたら永遠に彼女のことを理解できないであろうことも。
 しかし、それに気づいたとき、嫌な気はしませんでした。
 愛していてもついに理解できないものが、きっとあなたにもあるのではないでしょうか。

 
 最後の文章を書き終えたちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。
 ジンは、薄いカーテン越しに降り注ぐ陽射しと揺らめくシルエットを見た。窓の向こう、ドアの前に誰かが夏の庭に背を向けて立っていた。右肩から伸びた直線の機械腕とぎこちない動き、傾く影。銀色の表面で陽射しが散乱した。
 ジンがついに理解できないであろうローラが、そこにいた。

●早川書房noteでは、キム・チョヨプ氏来日に向けて、いくつものコンテンツを掲載予定です。第三弾に乞御期待!

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!