人を愛することをやめられない、400年を生きる孤独な男――『トム・ハザードの止まらない時間』書評特別先行公開
好評をいただいているマット・ヘイグ『トム・ハザードの止まらない時間』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)。ベネディクト・カンバーバッチ主演映画化も決定しているこの傑作の、SFマガジン2019年2月号掲載の冬木糸一氏による本作書評を先行掲載いたします。ぜひ本書評でこの作品の魅力の一端を味わってみてください。(編集部)
悠久の時を生き、愛を求める孤独な男のロマンス
冬木糸一
第一のルールは、恋に落ちないこと。年をとるのが15倍ほど遅くなる遅老症(アナジェリア)を患っているトム・ハザードは、上司にあたるヘンドリックからある時そう忠告を受ける。一般人と生きる速度が異なる彼らは、愛の夢をみると痛い目にあう。だからこその忠告だ。しかし長い時を生きるトムは、次第に孤独な生き方に耐えられなくなりつつあった──そんな導入ではじまる『トム・ハザードの止まらない時間』は、SFミステリ『今日から地球人』や、うつの日々を綴った『#生きていく理由 うつヌケの道を、見つけよう』のマット・ヘイグによる、別れを恐れながら、それでもなお人を愛してしまうジレンマに陥った孤独な男の人生を紡いでゆく、SFロマンスだ。
舞台となる年代は2018年だが、トムは1581年生まれの437歳。ペストも革命も二度の世界大戦も生き延びてきた、いわば “生きた歴史” だ。トムも所属する遅老症患者らの組織「アルバトロス・ソサエティ」は、彼らの存在が世間に知られぬよう、8年おきに新たな身分と住処を用意し移動を促している。トムもまた、物語冒頭で歴史教師としての新たな身分が割り当てられ、長い長い過去を思い返しながら、英国ロンドンを中心とした日々を綴っていくことになる。母を魔女狩りで失い、かつて一度だけ愛した女性も、彼女を守るために別れざるをえなかった。同じく遅老症と思われる娘とも生き別れ、もう絶対に誰にも愛情を抱いたりしないんだから! と固く凍りついていった彼の心が、現代で出会う謎めいた同僚のフランス語教師カミーユに溶かされていく描写がまた素晴らしい。
それらを彩る文体は、孤独と絶望に沈み込んでいるトムのメランコリックで詩的な語り、『音楽とは時間(テンポ)だ。時間(テンポ)をコントロールすることなんだ』といった音楽と時間のアナロジーなど豊かで繊細。中でも特筆したいのは歴史の授業だ。トムは校長との面談で歴史をよみがえらせられるかと問われ、『歴史をよみがえらせる必要などありません。歴史はもともと生きています』と答えてみせる。その言葉通りに、なぜ魔女狩りが起こってしまったのか。その時人々は何を考えていたのか。“偉大な作家”だけで終わりがちなシェイクスピアは、実際にはどのような人物だったのか(タバコを吸い、臭い息を吐く実在の人物だ)、そうした生の歴史そのものを、実体験を交えながら生き生きと描き出してみせるのだ。
遅老症患者の中には隠れることを嫌い、本当の自分でいたいと転居もせずに、オーストラリアでサーファーとして暮らすオマイのような人間もいる。トムは教師生活をおくるかたわら、そうした人間の説得に向かうこともあるが、正直に生きたいと願うのは彼も同じだ。別れを予測しながらも、誰かを愛してしまう。恐怖を乗りこなしたいと思うが、恐怖から逃げ出してしまう。物語の終盤、そんな彼がオマイから、『波は人を殺すことがある。けど、人は波に乗ることもできる』と語りかけられ、自分の人生を守りながらも縛り付けてきた組織の実態、自身の恐怖の根源をしっかりと見据えた時、長く続いた暗いトンネルから抜け出たような爽快感が訪れる。
ロマンス、家族の絆、過去の回想は歴史小説の趣があり、組織周りの話はSFとして──と無数の側面から楽しませてくれる一冊だ。なんでも、ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化も決定しているようである。
『トム・ハザードの止まらない時間』
マット・ヘイグ/大谷真弓訳
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