進化するGoogle翻訳に、翻訳家が思うこと。『予測マシンの世紀』訳者あとがき


書評サイト「HONZ」レビュー
などで早くも話題沸騰の新刊『予測マシンの世紀』。本書を翻訳した小坂恵理さんに「訳者あとがき」を寄稿いただきました。

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訳者あとがき

この数年、人工知能(AI)は大きな注目を集めるトピックとなり、シンギュラリティ(技術的特異点)やディープラーニング(深層学習)といった言葉に触れる機会もめずらしくなくなりました。少子高齢化が進む日本では、人間に代わる戦力としての期待も寄せられています。では、皆さんが会社経営者で、人手不足に悩んでいるとしたら、AIをどのような形で導入すると成果が上がるのでしょうか。「AIはスグレモノらしい。何だか難しそうでよくわからないが、ウチでもとりあえず試してみるか」というわけにはいきません。本書によれば、会社の業務内容を細かく分類したうえで、AIが役に立つ場所はどこかを見つけ出し、そこに思い切ってAIを導入するのが成功の秘訣です。この場合、AIに出来ること、出来ないことを正確に理解しておくことが肝心で、そのための見取り図を本書は提供してくれます。

現段階でのAIは、膨大なデータに基づいた「予測」が専門です。数年前、アルファ碁が人間のプロ棋士を破って大きな話題となり、近い将来、AIの思考力は人間を上回るのではないかという声も聞かれましたが、当面はそのような可能性はありません。アルファ碁は大量のデータを分析して最善の一手を予測しているだけで、人間のように想像力を働かせてあの手この手を考えているわけではないのです。その証拠に、碁盤のマス目の数を変えてみると、AIは混乱状態に陥るといいます。人工知能が人間の脳を超える時点、すなわちシンギュラリティに到達し、特化型ではなく、人間に匹敵する汎用人工知能が登場するまでには、まだまだ時間がかかります。

現段階では、予測が役に立つ業務は何かを見つけ出し、そこにAIを導入すれば、正確な予測が短時間で行なわれ、業務全体がスムーズに進行することが期待できます。いまのAIは「予測マシン」なのです。予測を手がかりにして何を実行するか決断を下したり、想定外の出来事への対応策について判断したりすることが、人間の役割として残されます。アルファ碁の事例からもわかるように、データがなければAIは予測できません。


■「予測マシン」ができること、できないこと

本書には予測マシンの具体例がたくさん登場します。たとえば画像診断。人間が見落とすわずかな病変をAIは目ざとく発見できるので、画像診断の仕事はAIに任せ、それを頼りに人間の医師が治療方針を決定する形が増えてくる可能性が考えられます。あるいは、自動運転。危険を回避するためにはいつブレーキを踏むべきか予測します。ただし、自動運転になれば人間のドライバーは不要というわけにはいきません。無人トラックの車列が強盗に襲われたとき、人間が同乗していなかったら突発事態に対応できません。人間には、監督者としての役割が求められます。そもそも運転をすべて機械に任せていたら、人間のドライバーとしての能力は衰え、予想外の展開に対して咄嗟の判断が不可能になります。これが飛行機の操縦だったら、多くの人命が関わってきます。映画化もされた有名なハドソン川の奇跡(機長がトラブルに陥った飛行機を無事に不時着水させた)は、機長が経験豊富だったからこそ実現したものです。これからAIが職場に導入されても、決して人間が追い出されるわけではありません。

ただし、仕事の内容は変わります。優れたカーナビが車に搭載されれば、タクシー業界ではロンドンのブラックキャブの運転手のように道路に精通している人材は不要になり、ウーバーなどの素人運転手が代役を務められます。従来の職がなくなっても、代わりにどんな仕事が登場するのか見定め、自分はそれをできるか、するつもりがあるか、よく考えてみることが大切です。


■トロント大学と「創造的破壊ラボ」

本書『予測マシンの世紀』は、アジェイ・アグラワル、ジョシュア・ガンズ、アヴィ・ゴールドファーブの三人の経済学者による共著です。いずれも、カナダのトロント大学を研究の拠点にしています。実は現在、トロント大学はAI研究の最前線として大きく注目されています。同大学は国の支援を受けた地道な基礎研究が実を結び、優れた研究者を輩出しています。現在のディープラーニングブームのきっかけを作ったジェフリー・ヒントンもトロント大学で長年研究を続けてきました。二〇一二年から二〇一六年のAI関連論文の引用回数ランキングでは、トロント大学はMITやグーグルを抜いて世界六位にランクされたそうです(東京大学は六四位)。いまやトロントには、数多くのAI関連企業が拠点を置くようになっています。アメリカはトランプ政権になってから移民の受け入れに消極的になり、イギリスはEU離脱決定の影響で、EUの研究助成金を失う可能性が現実味を帯びてきました。これに対し、カナダは政府が研究を大きくサポートしています。研究開発減税など資金面での各種支援に加え、二〇一六年一一月には、高度海外人材向けのビザ発効制度の導入を発表しました。一定の要件さえ満たせば、簡単にビザが発行されます。逆にアメリカは、専門技能を持つ外国人向けのビザの審査を厳しくしています。

本書の著者らが所属するトロント大学内の「創造的破壊ラボ」では、人工知能の分野を中心に有力なスタートアップ企業を対象に集中的な指導を行なっており、プログラム課程を終えた企業には起業資金が提供されることもあります。ガンズ教授は昨年来日し、公正取引委員会競争政策研究センター主催の国際シンポジウム「ビッグデータとAIの活用がもたらす新しいビジネスと競争政策」で基調講演を行ないました。そして今年三月には、アグラワル教授の来日が予定されています。


■便利さ vs. プライバシー

ところで、AIを予測マシンとして活用するためには、大量のデータが必要とされることについては少し前にお話ししました。実際、グーグルやアマゾンなどを利用するときには、その見返りにこちらから個人情報を提供しており、それがサービス向上に役立っています。たとえばアマゾンで買い物をすると、その履歴を参考にしておススメ商品がたびたび紹介されてきます。その予測の精度はまだそれほど高くありませんが、本書によれば、精度が一定のレベルまで達したら、ユーザーが注文するよりも前にアマゾンから商品が届けられ、受け取っても気に入らなければ回収するシステムに転換され、それを支えるインフラが整備され、新しい流通形態が誕生する可能性があるそうです。いまは宅配便サービスがすっかり定着していますが、一昔前には想像もできなかったことを考えれば、決して夢物語ではないのかもしれません。

ただし、どんどん便利になるのはありがたいけれども、大事な個人情報があちこちで公開され、悪用されるのは困りものです。クレジットカードが不正利用されるケース、知らないところで中傷的な記事を書かれるケースなどが、本書でも紹介されています。個人情報はできるだけ知られたくない、でも便利なサービスは受け続けたい……そんなとき、どうすればよいのでしょう。

本書では、こうした疑問への具体的な回答を提供する代わりに、トレードオフについて考えることの大切さを強調しています。AIからサービスを提供してもらうために自分のデータを提供したときの、プラスの面とマイナスの面について考えたうえで、AIを利用すべきかどうか判断するのです。マイホームの購入など大きな買い物をするときには、このようにじっくり検討するプロセスが不可欠であり、AIも例外ではありません。

本書によれば、AIの分野で将来有望な国は中国だそうです。中国は個人情報を国が管理する体制が整っていて、しかも人口が多いため、予測マシンに欠かせない大量のデータを確保しやすいからです。実際に現政権はAI大国を目指しており、それを他の国々も警戒し、最近では通信機器大手ファーウェイの副会長がカナダで逮捕されて話題になりました(カナダもAI立国を目指していますが、トルドー首相は政治的な関与を否定しています)。ファーウェイは商品のコストパフォーマンスの高さがウリになっている反面、共産党や軍部との関係性が疑われ、国の安全保障上の脅威と見なされているようです。その後、中国ではカナダ人の身柄が拘束され、中国と西側諸国との対立はエスカレートしています。本書でも指摘されていますが、AIがどの国で進歩しようとも、その恩恵が世界中にもたらされることを考えれば、中国だけを目の敵にする必要はないのかもしれません。しかし国益が関わってくると厄介です。今後の各国の対応が見逃せません。

■翻訳の未来

本書では、AIによる自動翻訳の技術が大きく向上したことについても取り上げています。少し前まで、自動翻訳された文章はほとんど理解不能でしたが、いまではだいぶ読みやすくなりました。では、技術がさらに進歩したら、たとえばAIが『予測マシンの世紀』をあっという間にまるごと翻訳するようになり、翻訳家はお払い箱になるのでしょうか。翻訳家としては非常に気がかりですが、当面はその心配はなさそうです。

というのも、人間とAIでは、翻訳の仕方が異なるからです。人間の翻訳家が英語の文章を日本語に訳すときには、辞書を引き、文法の知識を頼りに英文を解釈したうえで、どのような日本語を使えば意味を正確に伝えられるか頭をひねり、前後関係も考えながら、こなれた訳文を完成させるように心がけます。つまり、適切な範囲内で意訳するわけです。これに対してAIの翻訳は、大量のデータを集め、それに基づいて適訳を予想するので、これまで登場する頻度の高かった訳語が選ばれることになります。文章に込められたニュアンスをくみ取るわけではないので、どうしても直訳調でわかりづらくなってしまいます。したがって、データを集めて訳語を予測する段階まではAIに任せ、人間の翻訳家はそれを頼りにして判断を下し、訳文を完成させるという具合に、しばらくはAIと人間が仲良く共存できるのではないでしょうか。

実際、翻訳家の仕事は技術の進歩の恩恵を受けています。昔は翻訳と言えば、原稿用紙に手書きしたものです。分厚い辞書を何冊もそろえ(百科事典全集もありました)、わからないことがあれば図書館に出かけ、関連企業に電話で問い合わせるときもありました。完成した原稿は郵便で送るか、納期が迫っていれば直接手渡ししました。やがてワープロが登場すると手書きの作業から解放され、ファックスが登場すると、完成した原稿を自宅にいながら納品できるようになりました。「なんて便利な時代になったのか」と感激しているうちに、まもなくパソコンが普及して、メールでの納品が主流になりました。インターネットで様々な情報を検索できれば、図書館に通う必要はなくなります。電子辞書を使えば、紙の辞書をめくっていたときに比べて時間が大幅に短縮されます。技術の進歩がなければ、この本の翻訳には少なくとも二倍の時間がかかっているはずです。

皆さんもぜひ、本書を参考にして職場での作業効率を高め、AIに任せられるものは任せ、人間にしかできない仕事に専念できる環境を積極的に取り入れてください。シンギュラリティに達して汎用人工知能が実現するのは遠い先の話だとしても、技術は確実に進歩しています。

本書の著者は三人ともAIの最先端で活躍する研究者で、これからの社会で生きぬくためのヒントを色々と紹介してくれます。最先端の分野をテーマとする本書の翻訳は決して簡単ではありませんが、今回は早川書房の一ノ瀬翔太さんに最初から最後まで、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。どうぞ、皆さまが『予測マシンの世紀』を楽しんでいただけますように。

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アジェイ・アグラワル、ジョシュア・ガンズ、アヴィ・ゴールドファーブ『予測マシンの世紀――AIが駆動する新たな経済』(小坂恵理訳、本体1,700円+税)は早川書房より好評発売中です。

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コメント1件

すでに人間とAIの役割分担の時代に入っていると思いますが、純技術的にはAIは記憶容量、演算速度、ニューラルネット階層数などを限界なしに拡張できますので、人間が束になってかかってもAIの知能に歯が立たない時が来るのはそれほど遠くないと考えます。
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