これは「自らを知りたい」すべての人のための本である――養老孟司氏が語る『ヒトの目、驚異の進化』
Twitterでバズりにバズり、発売即3刷の話題書『ヒトの目、驚異の進化――視覚革命が文明を生んだ』(マーク・チャンギージー/柴田裕之訳)。本記事では、東京大学名誉教授・解剖学者の養老孟司さんによるレビューをお届けします。「解剖学は人体を「見る」学問である。それなら「見る」ことがよくわかっていたかというと、ちっともわかっていなかった」と語る養老先生が、本書に学んだこととは?
ソクラテスは「汝(なんじ)、自らを知れ」といったという。科学の世界はものを考える人たちの集まりなのだから、学者なら自分のことは普通よりよくわかっているに違いない。
むろんこれは皮肉である。たとえば私は解剖学を専攻した。解剖学は人体を「見る」学問である。それなら「見る」ことがよくわかっていたかというと、ちっともわかっていなかった。年を経るごとにそれを痛感する。
この本はヒトが「見る」ことについて、四つの特徴を挙げる。その四つが「見ること」についての常識を変えてしまう。
まず色。ヒトの肌は何色か。そう訊かれると、ふつうは肌色というのではないか。でも肌色は色ではないともいえる。トマトをトマト色というようなものだからである。では正解はなにか。無色。
そんなバカな。何色か知らないが、ともかく色はあるでしょうが。そう思うかもしれない。でも日本語で顔色というときは、厳密に色を指してはいない。著者が主張するようなことは、日本人ならわかっていなければいけなかった。われわれはむしろ「顔色を読む」のである。顔色という「色」はない。
著者の結論は、ヒトの色覚はまさに顔色を読むように進化した、というものである。これまでの考えでは、霊長類の色覚は果物のような食物の成熟度を見るために進化したとされてきた。でもさまざまな証拠から、顔色を見るためと考えた方がいい。
ヒトの網膜には、三種の波長を捉えるように分化した錐状体(すいじょうたい)という神経細胞がある。S、M、Lと名付けられている。三原色と思ってもいい。このそれぞれがどの程度反応するかで、物の色が決まる。不思議なのは、この三種の細胞が可視範囲の光を均等に割るのではなく、MとLが近くて、Sが遠いのである。このMとLの位置は、じつはヒトの顔色がいちばん変化する領域と一致している。
顔色はどう変化するのかというと、酸化ヘモグロビンの多少、血液量の多少による。前者では顔色は赤と緑の軸に沿って変わり、後者では青と黄の軸に沿って変わる。こうした顔色の変化は、相手の感情の状態や、子どもの具合の良し悪しを判断するにも重要である。そう思えば、色覚が顔色を見るために進化したのは不思議ではないともいえる。
二番目は両眼視についてである。ふつう両眼視は立体視にとって重要だと考えられてきた。著者の意見は違う。目の前に葉っぱのような邪魔ものがあって、その向こうにあるものを透かして見るとき、左右の目はじつは違う像を見るが、それを合成して、見ているものがなにかを判断できるようにする、つまり透視のためだというのである。
第三はいわゆる錯視である。心理学は錯視の多様な例を集積してきた。でもそれはじつは錯視ではない。三次元空間で動いているという状況だとすると、ものは錯視のように見えなければならない。知覚には時間がかかるから、もし「正しく」現在を認知しようとしたら、われわれは過去しか認知できない。実際には脳は予測された未来を知覚する。
第四は文字である。文字は自然のなかの形を示している。ヒトは文字を見るとき、自然を見ているのである。
見ることに関心がある人だけでなく、「自らを知りたい」人に、ぜひ読んでもらいたい本である。われわれは年中「見ている」が、いったいなにをどう見ているのだろうか。(毎日新聞2013年1月6日朝刊より)
東浩紀、石田英敬、円城塔、下條信輔、養老孟司 絶賛!!!
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