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各書評で描写の美しさが絶賛、『尚、赫々たれ』第二部冒頭を公開

 老境に到った時、人は何を信じ、何を大切にして生きてゆくのか――本書『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』(羽鳥好之/著)では、〈西国無双〉と呼ばれた最強の武将・立花宗茂のまっすぐな生き方が描かれています。
 関ケ原の戦いで徳川方にはつかず敗戦。改易されたが、初代将軍家康や二代目秀忠にその能力を買われ、旧領回復となる。
 宗茂は徳川に仕えるようになり、三代目となる不安に圧せられている家光の心を包もうとする。そのためには関ケ原の真実が自身を不利な状況に追い込んでしまおうともかまわない、と考える……
 その純粋な心は、主君の姉・天寿院にも向けられる。悲運の人生の最中にある天寿院におくる数々の優しさ。
 その対話から生まれる美しい情景――各書評でも評価された第二部冒頭をnoteにて公開いたします。


『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』
第二部 「鎌倉の雪」
(二)より

 鎌倉行きの朝、明け六つに屋敷を出た宗茂は、まず竹橋の天寿院屋敷に向かった。
 供は近臣の木付帯刀(きつきたてわき)のほか、小姓組から四名、徒歩組から八名を選び、あとは小者のみとした。大名の遠出としては異例のことだが、天寿院の側に本多家から人数が出され、幕府からも警護がつけられることになっていた。不逞の輩の狼藉が懸念される一方で、なにより大御所の病魔退散を祈願するのが目的である。仰々しい旅は不似合いだった。
 竹橋屋敷の門前には、五十人を超える行列が天寿院のお出ましを待っていた。少数とはいっても、将軍家の実の姉なのである。この日になって初めて、宗茂は事態を把握した。金沢の海を眺めて野点など、悠長な旅ではなさそうだ。天寿院に聞いてほしくて、新たに工夫を重ねた笛の音も、どうやら出番はなさそうだった。宗茂は帯に挟み込んだ笛を握りしめた。
「飛驒守殿はお着きですか」
 玄関先から天寿院の声がする。あい変わらず明澄(めいちょう)な響きだった。宗茂が駕籠を出るより先、木付が玄関先に走る。
「立花飛驒守、参上仕り、すでに門前にて控えおりまする」
「ならば、はや、出立いたしましょう。ご挨拶は品川宿での休憩の折に申しあげます」
 木付が、天寿院の脇に控える侍女に言上する。
「その折、主、飛驒守に茶の湯の誂(あつら)えなど、お申しつけいただきたく存じまする」
「いえ、そのことならば明日、金沢の海を眺めながらと思っております」
 天寿院が直に答える声が聞こえた。
 この声に宗茂は胸の高鳴りを抑えられない。天寿院もやはり、景勝地でのひと時を楽しみとしている。旅の途上での野点は自分が亭主をつとめたい、手紙のやり取りで、そう申し出ておいた。そのために、茶碗は織部が気の張らない席で好んだ美濃の筒茶碗を用意していたし、茶杓も大御所から拝領したものを持参してきた。
 そしてなにより、その席で新たに作った曲をご披露する。天寿院の澄んだ声を耳に残しながら、工夫を重ねた新しい笛の音――。
 幕府大御番士(おおごばんし)を先頭に、天寿院の駕籠を本多家からの人数が囲み、その後ろに宗茂一行がつき従った。内濠沿いに道をとった行列が、大名屋敷を抜けて日本橋を渡るころ、登る陽が遠く霊峰富士を照らし出した。ここから品川宿まで、三里たらずの道をゆっくりと進む。
 京橋をわたり、新橋をすぎると、やがて右手に増上寺の大門が見えてきた。ここは徳川家の菩提寺である。いましも、大伽藍のいたるところで大御所快癒の祈禱が行われていることだろう。宗茂も駕籠の小窓をあけて大門を仰ぎ、首(こうべ)をたれて大御所の回復を祈る。
 立花宗茂の旧領復帰を認めたのは二代秀忠である。家康は徳川家の家臣として召し抱えはしても、大名としての復帰には乗り気ではなかった。西軍についた将たちの中で、特に能力の高い者を徳川の臣として召し出し、幕府の力を揺るぎないものにする。それが家康のやり口であり、自身に刃を向けた者を、真に許すことはなかった。
 その考えをあえて抑え、秀忠は宗茂をまず書院番頭として召し出した後、奥州棚倉に一万石を与えて大名の列に加えた。さらに加増を重ね、家康が没した三年後の元和五年、柳川に十万石余を与えて、旧領に復させたのだった。
 大坂夏の陣の折、宗茂は将軍秀忠の旗本にあって参謀をつとめていた。秀忠に行きすぎた高揚感があるとみた宗茂は、その軍令にしばしば再考を促している。そこに不満を募らせることなく、戦後も、秀忠は宗茂を厚遇し続けた。その二代目大御所が、いま、静かに世を去ろうとしていた。
 一行が品川宿に着いたのはおおよそ四つ。休息所となっていた本陣の大広間で天寿院が宗茂を待っていた。
「立花様、こたびは旅のご同行、かたじけなく存じます。この五日間、よしなにお願いいたします」
 型どおりの挨拶ではあったが、その目には悪戯っぽい色合いがみてとれた。
「大御所にひとかたならぬ御恩ある身。御方さまを案ずる大樹の思いも背負い、立花飛驒、戦場へと向かう気構えでお供いたします」
 宗茂も面をあげ、言葉とは裏腹に柔らかな笑みを天寿院に返した。
 休憩は昼餉も兼ねて一刻ほどの長い間がとってあった。この日は神奈川宿泊まり、陽が落ちるのが早いこの季節、天寿院は早々に寝所に入るとのことだった。話はおのずと大御所に及ぶ。
「私が大御所に出仕したのは、将軍職につかれた翌年のことでした。以来、二十五年を超える長きにわたり、側近くお仕えして参りました」
 天寿院がゆっくりとうなずく。
「大名方にはどう映るかわかりませんが、わたしには親しみある父なのです。少し気弱な面があるのも、かえって好ましかった。比べるには憚りありますが、先の大御所とはずいぶんと違いました」
「違うとは?」
「立花様ならば、構いますまい。駿府の大御所は父と違い、わたしには薄気味の悪い人でした」
 天寿院はそこで言葉を切った。その先を耳にしてよいものか否か、宗茂にも判断はつきかねた。しばしの間があった後、天寿院が口を開いた。
「大坂城に向かう前日、大御所は温かみのない目でじっとわたしを見つめました。わずか六つ、七つの時でしたが、その光景はよく覚えております。あとで聞けば、私を見つめたまま大御所はこう言ったそうです。――この姫と秀頼に子をなさせてはならぬ。供の侍女にそのこと、よくよく心得えさせよ――
 わたしは……そもそもが豊家の人質でした。長じてのちも、秀頼さまと閨は供にしたことがございません。でも、もとをただせば従妹、幼き頃から顔を合わせていると、そんな気もなく仲睦まじく過ごしました。ただ、そうしたくとも、ふたりだけの時など叶うはずもなかったのです」
「従う侍女も多数おられたでありましょう」
「侍女はもちろん、江戸から付き従ってきた番士なども数多(あまた)おりました。別の城で暮らすようなものですね」
 天寿院はカラカラと笑った。その声に深い翳りは感じられなかったものの、一瞬垣間見せた憂い顔が、宗茂の心に残った。
 その後は、大御所の茶の湯の手前や香道のことなど、心和む話に終始した。
 陽が中空をすぎるころ、神奈川宿を目指して出立した。
 川崎宿の手前、六郷橋にさしかかるあたりで宗茂は駕籠を降りて、引いてきた愛馬に跨った。馬上でうける風が心地よい。橋上から望む多摩川は冬の陽をうけてキラキラと輝き、多数の水鳥が羽を休めていた。
「あ、あ」
 宗茂の喉元からふいに嗚咽が漏れた。内裏雛のようだと噂された秀頼公と千姫。美しく育った二人は、触れ合うことのできぬ運命を呪ったろうか。いや、お互い背負う家の大きさに、相手を思う気持ちなど、取るに足りないものと思い定めていただろうか。
 ひとつだけ言えることは、思春期を迎えた千姫の多感で聡明な心が、無傷であったはずがないということだ。
 穏やかな陽を浴びる東海道は、行く手に雄大さを増した富士を望み、画(え)のような美しさだった。

 翌日、夜明けを待つことなく目覚めた宗茂は、ひとり静かにこの日の備えを進めた。音に聞く金沢の入り江と島々の風景は、奥羽の松島と並び、東国屈指だという。仙台の伊達政宗はてんで比較にならぬと口を尖らせたようだが、さてどうなのだろう。松島にもいずれ足を延ばしてみたいと宗茂は思ったが、もはや叶わぬ願いに違いない。
 ――茶にはよい水が要る
 天寿院との野点は準備万端だった。茶碗はもとより、茶筅から茶入れまで、ひとつとて意に添わぬものは持参していない。ただひとつ心配なのは水であった。江戸の町の水もほめられたものではなかったが、神田川を開削して外堀とする際に、小石川から江戸城内に水がひかれた。そのための掛樋(かけとい)は宗茂の住まう外神田からもさほど遠くなく、毎朝、茶の水はそこから得ていた。
 昨夜、宿の主人に訊ねたところでは、金沢の水は悪くないという。いや、山の手から地下を潜る湧き水は水質が格別よく、西に向かう廻船は金沢あたりで水を積み込むということだった。ならば、水は問題ない。
 ――もう一度だけ、笛のおさらいをしておきたかったな
 まさか本陣宿で笛の音をまき散らすわけにもいかず、思ったような音色と節回しを奏でられるか、心なしか不安ではあった。
 刻限どおり六つ半に神奈川宿をたった行列は、次の程ヶ谷宿から東海道を離れ金沢道を進んだ。途中、宗茂主従は街道を離れて山道をたどり、金沢の入り江を眺望する能見堂(のうけんどう)に寄り道をした。そこから眺める入り江が得も言えぬ風景であり、ぜひ、宗茂にみてほしいと天寿院は言った。ご本人はいくどか眺めたことがあるようで、今回は供の多さから遠慮したいとのことだ。
「なるほど、絶景かな」
 眼下の入り江には大小の小島が浮かび、そこにじゃれ付くように、漁師舟が幾艘も浮かんでいた。中心をなす島はなんという名か、堂々たる島影に向かって浜辺から太い砂州が渡し掛かり、それを縁どるように植えられた松並木に白い波が幾筋も寄せていた。名高い天橋立に優るとも劣らない。宗茂は思わず太い息を吐いた。
「まず、文句のつけようもないな」
「柳川が恋しゅうはございませんか」
 木付帯刀が背後に控えたまま言った。そこには、老いた藩祖をいたわるような響きが感じられた。海からの風は冷たさを感じさせるものの、襟元を合わせるほどではない。
「無性に海が見たいと感じることはあるが、柳川でなくともよい。ただし、柳川の魚は恋しい。掘割で鯰(なまず)など捕って食いたいものだ」
 能見堂を後にして浜辺に向かって降りてゆくと、入江を扼(やく)するようにして、堂々たる御社(みやしろ)が鎮座していた。一帯の海域を鎮守(ちんじゅ)する瀬戸神社である。
 境内にはすでに野点の設えが整っていた。幔幕(まんまく)で囲われた小ぶりな席は海に向けて開かれ、正面には琵琶島弁財天の優美な姿が望まれた。
 冬場の薄い陽ざしが中天から注いでいる。風は穏やかで潮騒が低く耳朶(じだ)をうつ。遠くの海が白く光っていた。
 畳三畳に日傘をかけた中、天寿院が背筋を伸ばして座っていた。幕の中には侍女がひとり控えている。この日の亭主役を申し出た宗茂は、風炉の脇に席を取り、ゆっくりと天寿院に対座した。
「こんなにも美しいと知っていたら、もっと早くに訪ねたものをと、悔やまれます」
「わたしも、鎌倉下向の折にはかならずここに立ち寄ります。まして、今日は天気にも恵まれました」
 神社が用意した懐石は簡素なものだった。それでも焼いた鯛は香ばしく、椀は、これも鯛の潮汁がたっぷりと海を感じさせた。
 宗茂は茶粥でしっかりと腹を満たしたが、天寿院はあまり箸がすすんでいない。世話役の宮司が宮の来歴などを披露したのち、膳部を下げる。
 宗茂は、用意してきた道具類をゆったりした動作で取り出す。風炉から松籟(しょうらい)が聞こえてくるのを待って柄杓(ひしゃく)を手にした。あまり堅苦しくならぬようつとめる。
 流れるような宗茂の手前を、天寿院が見つめる。やわらかな潮風が天寿院の襟元を盗むようになでて宗茂に届き、その鬢(びん)をわずかに揺らした。瞬時、宗茂の中で潮香が消えた。
 宗茂は、茶にまつわるあれやこれやについて、もうどうでもよくなっていた。潮香に負けぬよう少し濃い茶を練ると、天寿院が作法を超えた優美さでそれを口に運ぶ。天女の振舞いはかくやと思わせる。宗茂は小さくため息をついて言った。
「浜辺での茶事は初めてです。潮騒が得もいえぬ興趣を添えています」
「たしかに。わたしは桑名に嫁いだ折が初めてでした。城には入り江に張り出す出丸があって、そこに席が設けられました」
「惟任(これとう)日向守(光秀)の坂本の城には、琵琶湖に向けて月見櫓がせり出していたそうで、そこで茶会がよく催されていたと聞き及びます」
「風雅なことですね。関東はいまだ、及びもつきませぬ」
 互いに、それまで招かれた茶会の趣向について語った後で、すこし立ち入ったことかと思ったものの、宗茂は天寿院と鎌倉のつながりを尋ねた。禅宗の名刹は数多いが、この姫君に、禅は似合わぬように感じた。
「鎌倉にご所縁がおありと仰せでしたが」
 天寿院の視線が束の間、宗茂から離れて海に向かった。ややあって、ふたたび柔らかな視線を戻すと、ゆっくりと口を開いた。
「立花様は、秀頼様にお子があったのをご存知でしょうか」
 ふいの問いかけだった。
「………耳にしてはおりました。天下にお披露目してはいなかったように思いますが」
 豊臣秀頼には侍女に生ませた子が男女、一人ずつあった。徳川家を憚り大坂城外で養育されていたが、冬の陣の前に密かに城内に戻されていた。父のもとに日々を送ったのもわずか、夏の陣の後で、すぐに捕らえられた。男児は当然、命を奪われた。女児は――。
「豊家の血筋を残すは、女とはいえ災いの元となる、大御所はそう命じました。でも、わたしは女児だけはなんとしても救いたかった。秀頼様も淀の“かか”様も救えなかった、役立たずの嫁です。これだけはお聞き届けくださいと、父上から大御所へわたしの思いを伝えてもらいました」
「秀頼公へのせめてもの償い」
「いえ」
 天寿院がきっぱりと口にした。
「命のはかなさへの怒り、でしょうか」
 このときばかりは柔和な表情が崩れ、瞬時、顔から色が消えた。
「首こそ打たれませんでしたが、わたしも豊家の女としてあの城で死んだのです。女児の首まで打つというなら、この首も同様に願いたいと申しました。それを憐れと思ったか、父上は大御所に断りなく女児の助命を決めてしまわれた。土井大炊にいわせると、父上が祖父の意に逆らうのをみたのは、その一度きりだそうです。母上は……父は気の弱い人だと陰で口にしましたが、それは違う。ただ、人の心に寄り添うことのできる優しいひとなのです」
 天寿院が再び海に視線を向けた。病床にある父親に思いを馳せているのか、その眼の色には不安と悲しみが感じられた。宗茂は、この旅に寄せる天寿院の祈りに思いを致し、厳粛な気持ちになる。
「許された女児は、鎌倉の東慶寺に入りました」
「ああ」
「髪を下ろすことが助命の条件でしたので。天秀尼(てんしゅうに)と名乗り、いまは寺に住まう女たちの面倒をみています」
 通称、駆け込み寺。何らかの理由で夫との離縁を望む女たちが入る寺である。或いは夫に死別した女が、再嫁するにあたり、前夫との縁を断ち切るために入山する場合もあった。鎌倉の東慶寺と上野(こうずけ)の満徳寺が幕府公認の駆け込み寺とされたが、それが認められるにあたっては、千姫の果たした役割が大きかったとされている。
「では、この旅のもうひとつの目的が、その尼御前(あまごぜ)にお会いすることなのですね」
「わたしの娘ですから。尼の側にも積る話がございましょう」
 それから、天寿院は意外な話を語った。石田治部少輔の幼い娘、辰姫が奥羽の津軽家に匿われ、藩主為信の正室となっていたという。その後、幕府を憚った津軽家は辰姫を正室の座から降ろすものの、飛び地に設けた屋敷に住まわせ、参勤の折に、為信は数日をその地で過ごした。二人の断ち難き愛情ゆえと思われた。飛び地は満徳寺に近いことから、辰姫の身を案ずる天寿院は、存命中、なにくれとなく相談に乗っていたと話す。
「戦国の世は終わりましたが、女たちの過酷な生涯は終わってはいません」
 宗茂は一層、深い感銘の中にいた。茶道具に心煩わせていたわが身が片腹痛い。用意していた道具にまつわる古田織部の逸話も、茶杓を拝領した際に大御所から伝えられた忘れえぬ言葉も、なんと取るに足らぬ自慢話であろうか。天寿院の語る言葉のひとつひとつが、この姫が生きている姿をまっすぐに伝えてくる。
「なんでしょう、わたしばかりがお話をしていますね。立花様も、この旅に格別の思いがおありなのでしょう? それをお聞かせください」
 気持ちを入れ替えるように明るく言い、それと合わせるように目の色にも闊達さが戻ってくる。
「鎌倉右大将の墓に詣でたいと思っています。いまひとつ、できたら右大臣の墓にも参りたいのです」
「右大将は頼朝公ですか。右大臣とは?」
「三代将軍の実朝公です。歌の名人でありました」
 天寿院が納得したように、小さく、首を折った。
「立花様は歌も詠まれますのか」
「私の実父、高橋紹運は筑前の太宰府に近い岩屋城主でした。太宰府天満宮は連歌の本山、連歌興行も頻繁で、歌は私に身近だったのです」
「学問の神様のお導きですね。実朝公のお作の中から、お好きな歌をご披露くださいませんか」
 この姫ならばどんな歌を好むだろう。いくつか初句が浮かんだものの、いずれもしっくりと来ない。ええ、ままよ。
「右大臣に金槐集なる歌集がございます。なかにこんな歌がございます。
 ――もののふの 矢並(やな)みつくろふ 籠手(こて)のうへに 霰(あられ)たばしる 那須の篠原――」
 宗茂が二度、朗々と歌を口にした。
「荒々しく雄大な山野に、大鎧を着た颯爽たる武者姿、まるで一幅の画をみるような」
「そうお感じになられますか!」
 宗茂が弾んだ声を発した。思わず饒舌になる。
「下の句の“霰たばしる”がよいのです。なんというか、鎌倉武士の魂の鼓動がこの下句に籠められている。棚倉にあった頃、広大な那須野が原で馬を走らせたいと思い、参勤の途上に寄り道をいたしました。あの頃は、供づれも多くなかったゆえ」
 天寿院が目元をなごませてうなずいた。こんな話でいいのか戸惑いつつ、宗茂は話を止められない。
「ところが、です。右大臣は那須野が原には一度もいったことがない! 右大将と御家人たちがこの地で大がかりな巻狩りをやったそうで、その軍旅に思いを馳せて詠んだ歌なのです。画のような歌になった道理です」
「武人らしからぬ歌だと?」
「そう、都人(みやこびと)が読むような歌なのです。でも、私は嫌いではない。歌の仲間の間では、はなはだ評判が悪いのですが」
 天寿院が、首をすくめるようなしぐさをする。賛意を示したらしい様子に、宗茂は喜びが湧く。視線を海岸線あたりに投げた天寿院が、歌を口にした。
「――見渡せば 花も紅葉(もみじ)も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ――」
「定家卿ですね」
「秋でもありませんし、夕暮れ時でもないですが、漁師小屋など目にしてこの歌が浮かびました」
「寂びのある優れた歌です。まさに新古今の華」
「新古今集など、大坂城で無理に覚えさせられただけなのに、とっさに口をついて出るから不思議なことです」
 それからひとしきり、浜の景色に話が及んだ。
 琵琶島弁財天にむけて二つの橋がかかっているのが宗茂の目に映る。右大将夫人北条政子が、琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)弁財天を勧請(かんじょう)して建立したというが、その竹生島には京の聚楽第(じゅらくだい)から唐門が移築されていたはずだ。聚楽第のきらびやかな殿舎を思ううちに、いまはなき豊家の人々が、次々と宗茂の脳裏をよぎる。そう、才気があって洒脱でもあったあの関白秀次卿は、なぜ、太閤の怒りに触れたのか。謀反の咎(とが)というが、どんな行いがあって、そんな途方もない罪状が着せられたものか、あの時期の太閤の絶大な力を知る身には及びもつかなかった。ただひとつ――。
 でも、もういい。聚楽第も伏見城も、あの巨大かつ絢爛たる大坂城も、すべては夢幻の如く、この世から消えてしまった。
 おのずと言葉少なになった宗茂を、天寿院が包み込むように見守っていた。
 宗茂は野袴の帯にはさんでいた笛をゆっくりと取り出した。一節切の愛器が滑らかな手触りを伝えてくる。あたかも愛撫のときを待っているかのようだ。
 当初、能楽「井筒」の中から、旅寝の僧の夢に業平の妻が現れて舞う場面を吹いてみようと思っていた。八千子から習った曲を、一節切に合わせて編曲したものだった。低い調べは起伏にやや欠けるものの、より深い寂寥感をにじませる。
 だが、それはこの場になじまないような気がした。冬の陽ははや盛りをすぎ、浜の景色は静けさを増して、波の音がはっきりと耳に届くようになっていた。
 ――この場には、柳川の海を想って作った曲がふさわしいかもしれない
 宗茂が戦場で愛した曲を吹き始める。ゆったりとした調べが波の音と調和して静かにふたりのこころを浸してゆく。天寿院が眼を閉じた。曲の中に何かを探し当てようとするかのようだ。或いは何かに耐えている表情にも見える。ままよ、天寿院には天寿院の追憶があり哀しみがある。宗茂は笛を吹き続けた。
 やがて笛の音が止んだ。天寿院が眼を開いて浜辺に視線を向けた。
「柳川の海を想って、吹いておられたのではありませんか」
 内心の驚きを抑えつつ、宗茂が問い返す。
「どうしてそう思われるのですか」
「とても、こころ落ち着く調べです。ならば、故郷を想って吹かれた曲ではないかと思いました」
「あえていえば、海を想っての曲でしょうか。『汐入』と名付けています」
 天寿院がまた、小さくうなずいた。
「柳川の海、立花城のあった筑前の海、どうしてか海に惹かれます。海ははるか先に路が開け、ここではない場所へと、人を運んでくれるからでしょうか」
「わかるような気がします。それを想ってもう一度、お聴きしたい」
 宗茂が、目を閉じて笛を口にあてた。
 ひとしきり奏でた後、一転、笛の色調が変わった。天寿院はわずかに眼を見開いたが、すぐに閉じて耳を傾ける姿勢に戻った。笛の音が調子を早め、それとともに哀調を増してくる。
 武田信玄は一節切を何より愛した。念願の西上の途中、三河において徳川方の野田城を囲んだ折のこと、月夜の晩に敵陣から流れてくる一節切を耳にし、あまりの見事さに城際に近づいたところを狙撃されたと伝わる。真偽のほどは知れないが、宗茂はこの話が好きだった。或いは、越後の虎が長駆、越山して小田原城を囲んだ折、鶴岡八幡宮に参拝し、晩秋の月を眺めて愛用の一節切を奏でたともいわれる。
 名将の心を想って吹く曲に、宗茂は「野田城」と「鎌倉」と名付けていた。笛の音はいつか「汐入」から「鎌倉」に変わっていた。戦国武将たちの、言い知れぬ孤独が響いているような曲だった。
 会話こそ多くはないが、それが苦にならない親密さまで、互いの気持ちが寄り添っている。笛の力なのか浜の景色なのか。笛の音が止み、潮騒がまたふたりの耳に届く。
「よいものを聞かせていただきました」
 天寿院が低く言い、宗茂が低頭した。
 陽がわずかに赤みを加え、青みがかっていた風景全体が、少しずつ金色に染まり始める。風が出てきたのは、天候が崩れる兆しかもしれない。夕暮れまではまだ間があるが、そろそろ潮時だろう。
 宗茂主従は、浜の網元屋敷にこの夜の宿を決めていた。早めに宿に腰を落ち着けて、海の男たちと酒を汲みながら夕景を眺めるのも一興だろう。
 宗茂は天寿院にしばしの暇を願い、瀬戸神社を後にした。

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