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今なぜアダム・スミスなのか。堀内勉氏の解説を一挙公開!『アダム・スミス 共感の経済学』

 好評発売中の『アダム・スミス 共感の経済学』(ジェシー・ノーマン:著、村井章子:翻訳)
 21世紀の今、なぜアダム・スミスの哲学や思想に改めて注目する必要があるのか? 日本の渋沢栄一や宇沢弘文、さらには現代のSDGsとの意外なつながりとは?
 本書の持つ今日的意義を、『読書大全 ――世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』などの著書がある、堀内勉氏にご解説いただきました。

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 経済学を学んだことがない人でも、「見えざる手」で有名なアダム・スミスの名前を一度は聞いたことがあるだろう。本書にも詳しく書かれているように、「近代経済学の父」と呼ばれるスミスの思想は多岐にわたっており、今日に至るまで、哲学から政治学、社会学の分野で多くの思想家たちに大きな影響を与えてきた。

 近年、経済学者を対象に行われた調査で引用回数が断トツに多かったのがスミスで、2位のケインズを大きく引き離していた。また、学術雑誌でも、スミスは経済分野での「偉人」として引用されることが多く、マルクス、マーシャル、ケインズの合計よりも多く、且つ現代の経済学者の合計の3倍以上にもなっている。

 本書はそうしたスミスという巨人の実像に迫る伝記であり、彼の思想の解説書であり、またその今日的意義を示した啓蒙書でもある。

 スミスがこれほど重要な人物であるにもかかわらず、その評伝で分かりやすく書かれたものはとても少ない。彼の思想が極めて広範にわたっていることや、私生活がとても地味であったことなど、様々な原因が挙げられるが、いずれにしても、スミスについては学者がその専門的見地から書いたものが多く、彼の生涯と思想の全体像を示してくれたものはなかった。

 そうした中でも、スミスの倫理学と経済学については、経済学史を専門にしている大阪大学教授の堂目卓生による『アダム・スミス ──「道徳感情論」と「国富論」の世界』(中公新書、2008年)が分かりやすい。本書『アダム・スミス 共感の経済学』は、主にスミスの生涯とその思想的背景について書かれたもので、個々の本の内容を解説したものではないため、堂目の『道徳感情論』と『国富論』の解説と合わせて読むことで、スミスの思想がより一層深く理解できると思う。

 本書の著者であるジェシー・ノーマンは、イギリス保守党の現役の国会議員で、財務担当補佐官も務めた経験があるベテランである。国会議員になる前は、バークレイズ銀行の管理職であり、しかもユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで哲学を学び、そこで教鞭をとった研究者でもある。スミスの親友であったエドマンド・バークの評伝など、これまでに数冊の著作もある。

 本書は、そうした多様なバックグラウンドを持つ著者による、スミスの政治経済学の現代的な意味を理論と実践の両面から解説し、成功している画期的な本である。因みに、スミスの時代には、今の経済学= economics は政治経済学= political economy と呼ばれており、国家運営という政治学の視点も含んだ、より幅広いものとして認識されていた。これがどのような経緯で今日の自然科学的な主流派経済学に変わっていったかが、本書で記されている。

 スミスの著作で最も有名なのが、1776年に出版された『国富論』である。ここには、後の経済学に見られる着想のほとんどが含まれており、近代経済学の出発点とみなされている。

 拙著『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP、2021年)の中でも書いたが、スミスが生きた18世紀のイギリスは、政治の民主化、近代科学の普及、産業革命の進展という「啓蒙の世紀」であった一方、格差と貧困、財政難と戦争といった深刻な社会問題を抱えていた。

『国富論』は、その『諸国民の富』(Wealth of Nations)という原題の通り、富とはなにか、なにが国民にとって富にあたるかを説明している。スミスは、貴金属こそが富だと考える重商主義を批判し、富の源泉は人間の労働であるという労働価値説を唱えた。つまり、国民の労働で生産される生活必需品や便益品こそが富であり、労働価値を高めるためには設備投資や資本の蓄積が必要だとして、自由貿易の重要性を訴えた。そして、個人が利益を求めて利己的に行動しても、「見えざる手」(invisible hand)によって結果として経済はうまく回るとして、市場の自由競争に基づく自由放任主義を唱えた。こうしたスミスの考えは、イギリス産業革命の理論的支柱となり、それまでの重商主義による保護貿易政策は見直され、自由貿易主義への転換がもたらされた。

 ここに、例の「見えざる手」という言葉が出てくる訳だが、これが現代の市場原理主義、新自由主義につながるものだとして批判の的になっている。実はスミスの全著作を通して、「見えざる手」という言葉は3回しか登場していない。『国富論』においてはわずか1回で、しかもしばしば誤解されるような「神の見えざる手」(invisible hand of God)という言葉ではない。

「神」に相当するものは、スミスの「天文学史」の中において、「ジュピターの見えざる手」(invisible hand of Jupiter)という言葉で、「ジュピター」(古代ローマの最高神)として登場するだけである。

 本書では、こうした言葉の一人歩きが大きな誤解を生んでいるとして、スミスにまつわる以下の5つの神話(誤解)を、ひとつずつきめ細かく解きほぐしている。

神話1 アダム・スミス問題:『道徳感情論』は利他主義と善を、『国富論』は利己主義と強欲を説いており、この2つは整合性が取れていない?

神話2 アダム・スミスは自己利益の擁護者である:『国富論』がスミスの最終形であり、最終的には経済学が倫理学に勝ると考えていた?

神話3 アダム・スミスは金持ち贔屓である:当時のスコットランドの商業発展の結果生じた資産と所得の甚だしい格差を、自由市場制の帰結として正当化した?

神話4 アダム・スミスは政府嫌いである:自由放任(レッセフェール)の偉大な預言者であり、政府や国家の介入にはすべて反対だった?

神話5 アダム・スミスの本質は経済学者である:スミスは多くの分野で功績を残したが、全体として見るとなによりもまず経済学者だった?

 この中で最も注目すべきなのが、最後の神話5である。道徳哲学者、法学者、文学者といった多彩な顔を持っていたスミスの真の姿は哲学者であり、本人自らもそのように考えていた。スミスは、経済活動を政治学、心理学、社会学、倫理学などから切り離したような、部分的な説明を是としなかった。彼にとっての経済活動は、これらすべてを包括した「人間の科学」の一分野に過ぎなかったのである。 

 こうしたスミスへの誤解を解く上で重要なのが『道徳感情論』である。1759年に第1版が出版されたこの本は、『国富論』の17年も前に書かれたスミスの処女作である。なぜ人々は法がない状態でも道徳的に振る舞い、社会は秩序を保っていられるのか、そこでの人間の本性とはなにかが考察されている。スミスは、トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で示した、人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」であるという前提を批判し、人間の持つ「共感」を共通の出発点として、人間そのものの中に道徳や規範の根拠を求めようとした。そして、社会秩序は、神や聖書といった超越的な存在や理性によってではなく、道徳感情によって基礎づけられていると考えたのである。

 スミスは『道徳感情論』を生涯に5回も書き直しており、1790年に出版した第6版(最終版)の序論では、1776年に出版した『国富論』は、その構想の一部であった旨をつけ加えている。こうしたことから、現在では、『国富論』は単なる自由放任と弱肉強食を説いた自由至上主義的なものではなく、共感を持つという人間像を前提とした経済理論であるとして、両書はいわば「車の両輪」として位置づけられているのである。

 実は、スミスの著作はこれらに留まらず、法と統治の理論と歴史に関する「諸国民の法」(Law of Nations)という本も出版する計画だった。しかし、この本は完成を見ることはなく、葬り去られてしまった。というのは、スミスは晩年、友人たちを遺稿管理人に指名し、ごく一部を除いてその原稿をすべて破棄するよう指示していたからである。もちろん、友人たちはそれに抵抗したのだが、スミスに強く促される形ですべて焼却してしまった。

 本書ではこのような経緯をたどった上で、スミスの大学での講義録から復元された草稿などを通じて、スミスの思想体系は、①修辞学、文学、自然神学、②道徳哲学(倫理学)、③法学、④政治経済学の4つの柱から構成されていたことを明らかにしている。

 このうち、本として完成し出版されたのが、道徳哲学(倫理学)についての『道徳感情論』と政治経済学についての『国富論』である。そして、未完に終わったのが、「文学、哲学、詩、修辞に関する思想史」と「法と統治の理論と歴史(法学講義)」である。

 前者については、スミスの講義内容が変遷していることもあり、その全貌は明らかになっていない。他方、スミスが『道徳感情論』の中でも予告していた後者の「法と統治の理論と歴史」が、『国富論』、即ち、『諸国民の富』に対応する「諸国民の法」なのである。これは、道徳を掘り下げて正義と司法とに関連づけ、法の整備がいかに生存や財産形成に貢献したかを記すことで、『道徳感情論』と『国富論』を橋渡しする役割を担っていた。このように、スミスの思想体系は、神学と倫理学を含む広い思想の上に、「諸国民の法」と「諸国民の富」があるという、包括的な経済と社会のあり方を示すものだったのである。

 それではなぜその後、『道徳感情論』のような倫理学が脇に置かれ、スミスの思想は新自由主義や市場原理主義と呼ばれるものに結びつけられることになってしまったのだろうか。

 市場における均衡の存在を証明し、ノーベル経済学賞を受賞したケネス・アローは、その著書『一般均衡分析』の中で、完全競争下の自由市場においては、個人の自己利益の追求は何物にもまさる経済効率を生むと最初に理解したのがスミスであると書いている。

 アローが完成させた一般均衡理論は、合理的で利己的な個人が市場取引を行えば、社会的に効率的な状態である均衡に達するという「見えざる手」の理論的背景だとされている。しかし、著者に言わせれば、一般均衡理論はスミスの思想の延長線上とは別のところにあるのである。

 現代の主流派経済学では、個人は「合理的な経済人(ホモ・エコノミカス)」として行動することになっている。主流派経済学とはなにかを厳密に定義するのは難しいが、その代表格と言えるのが、アローらと「経済学の数学化」を主導した新古典派総合のポール・サミュエルソンである。彼は、新古典派のミクロ経済学の基礎と、ケインズのマクロ経済学の視点(GDP、インフレ、雇用等)を統合(総合)した。ここで想定される合理的な経済人は、自己利益だけを追求し、効用を最大化しようとする存在であり、これが長らく経済的合理性の基準となり、現代の経済学全体の前提となってきたのである。

 しかし、その後、こうした見方は実験経済学や行動経済学の見地から、必ずしも正しくないことが指摘されるようになる。そして、やはりノーベル経済学賞を受賞した厚生経済学のアマルティア・センの言葉を借りるなら、主流派経済学は、「事前に選択された前提の下、厳密に定義された質問に対する答えの精度」ばかりを問題にしているのである。著者も、こうした主流派経済学の態度を、形式主義に堕してモデルの精緻化に注力しているとして痛烈に批判している。

 それでは、『道徳感情論』を著したスミスの没後200年でなにが起きたのだろうか。本書ではこの間の経緯が細かく説明されているが、まとめると、ジェレミー・ベンサムの「効用」、トマス・マルサスの「自己利益」と「性的欲望」、デービッド・リカードの「比較優位の原則」を経て、ジョン・ステュアート・ミルの「政治経済学の定義について」という論文の中で、「合理的な経済人」がその全貌を現すことになる。

 そして、1870年代のレオン・ワルラスら三人の学者による「限界革命」に至り、経済学を数式で表そうとする試みが加速し、政治経済学は遂に経済学へと変身を遂げることになるのである。ここでの合理的な経済人というのはもはや人間ではなく、ひとつの経済主体(原子のような最小単位)とだけ見なされる。そして、1950年代にアローらによって一般均衡理論が完成することで、分析ツールだった数学が経済学の主役にのし上がったのである。

 著者に言わせれば、極端な主流派経済学は、他の学派(マルクス経済学、オーストリア学派、ポスト・ケインズ派、開発経済学、マネタリズム)の主張をすべて排除している。また、商取引のように双方向ではなく、一方向の活動である寄付、慈善、NGOを見落としており、女性の役割(伝統的に女性と結びつけられてきた見方や考え方=協調的で利他的、直感的で共感力が強いこと)や家族、結婚、家事、育児、介護などについても無視している。要は、人間としての活動の多くを切り捨てた仮定の上に成り立っているのである。

 ここで著者は、フェミニスト経済学のジュリー・ネルソンによる、経済学の新たな定義を紹介している。ミルは政治経済学を「富の生産、分配、消費を律する法則の学問」と定義したが、ネルソンによれば、経済学とは「人間の生活とその充実を支えるために社会はどのように自らを組織し、あるいはそれに失敗するかを知るための学問」である。そしてこの定義に従うなら、経済は「正しく」社会の中にある。

 この「経済が社会の中にある」という発想は、経済人類学の理論を構築したカール・ポラニー(ポランニー)が『大転換』の中で言っている、「市場の社会への埋め込み」という考え方に類似している。

 ポラニーは、一般的に経済というのは社会の中に埋め込まれているものであり、経済原理の一部が肥大化して分離独立した19世紀以降の市場経済は、人類史における特異な制度であるとした。18世紀後半から始まる産業革命以後、世界規模での市場経済化が始まり、それまでに存在しなかった「市場社会」が成立し、「人間(労働)」「自然(土地)」「貨幣」を商品と見なすようになっていった。

 ポラニーは、このように市場経済が世界規模で進む様子を、ウィリアム・ブレイクの詩「ミルトン」にある言葉を借りて「悪魔のひき臼」と呼んだ。そして、完全に自己調整的な市場経済になるためには、人間と自然環境を純粋な商品へと転換しなければならず、それが社会と自然環境を破壊すると考えた。この「悪魔のひき臼」に人間がすりつぶされないよう食い止めるためには、社会の中に「正しく」経済を包含しなければならず、決してその逆であってはならないのである。

 このように著者は、経済と社会と人間との関係を、誤った順番で把握することのないよう訴えている。

 最後に、これとの関係で、本稿は日本語版の解説ということでもあり、経済と人間との関係性の議論の延長線上として、渋沢栄一と宇沢弘文の思想について簡単に触れてみたい。

 これまで説明してきたスミスの思想には、「日本資本主義の父」である渋沢栄一、「社会的共通資本」の宇沢弘文、更には、国連のSDGs(持続可能な開発目標)と共通したものがあると感じている。その共通点はなにかと言えば、それは人間の本質から離れ、「合理的な経済人」という架空の人間像のみに基づいて、自然科学のアナロジーで進化してきた経済学とそれが加速する経済のあり方、資本主義の仕組みを、もう一度、人間の側に引き戻そうという試みだということである。

 渋沢栄一が1916年に著した『論語と算盤』の「論語」は道徳や倫理を、「算盤」は利益を追求する経済活動を意味している。ここで渋沢栄一は、『論語』を拠り所に道徳と利益の両立を掲げる「道徳経済合一説」を唱えた。そこで彼が思い描いた経済の姿は、公益を追求するのに最適な人材と資本を広く集めて事業を行い、そこで得た利益を出資した人たちで分け合う「合本主義」というものだった。

 この約150年前に書かれたスミスの『道徳感情論』は、自由な経済社会が成立するための前提として、他者の感情に公平な立場から共感する「観察者」としての人間像を提示している。これは、後の主流派経済学が前提とした、ひたすらに自己の利益だけを追求するだけの合理的な経済人とはまったく異なる人間像であった。スミスが『国富論』で提示した自由な競争というのは、他者への共感の上に成り立つのである。こうしたスミスの思想は、正に渋沢栄一が実業を行う中で見出した人間像そのものと言うことができる。

 同じように、「日本でノーベル経済学賞に最も近かった」と言われた経済学者の宇沢弘文は、近代経済学の現状について、「資本主義の中にも人々が本来の人間性を取り戻せる仕組みを埋め込めないか」「人間が社会の中心に置かれず、グローバル市場経済の大きな歯車にすりつぶされなければならないのはなぜか」という強い危機感を抱いていた。そして、いかにして経済学に社会的な視点を導入できるかというテーマに取り組み、1980年代に社会的共通資本という答えを導き出すことで、一旦、人間から離れてしまった経済学をもう一度、人間の側に引き戻すことに尽力した。

 社会的共通資本とは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」のことである。具体的には、①自然環境(山、森林、川、湖沼、湿地帯、海洋、水、土壌、大気)、②社会的インフラ(道路、橋、鉄道、上・下水道、電力・ガス)、③制度資本(教育、医療、金融、司法、文化)の3つに分けられる。それらは、国家的に管理されたり、利潤追求の対象として市場に委ねられたりしてはならず、職業的専門化集団によって、専門的知見と職業的倫理観に基づき管理・運営されなければならないとされる。

 これは、2015年に国連が提示したSDGsに通じる考え方である。なぜなら、SDGsの中核的な理念は、「誰一人取り残さない」社会の実現だからである。

 SDGsは、貧困、飢餓といった開発途上国の課題だけでなく、気候変動、イノベーション、働きがいなど、先進国の課題も内包する広範囲な目標で、この17項目の課題全てを解決すれば、地球の持続可能性が担保されるという壮大なものである。つまり、SDGsというのは、経済や社会がなんのためにあるのかを問い直し、我々の手を離れて自律的な運動システムになってしまった世界をもう一度、我々自身の手に取り戻そうという、人間性回復の運動なのである。

 このように、スミスの「共感」を通じた人間への深い理解は、その後、主流派経済学と経済のグローバル化によって片隅に追いやられてしまった反面、150年後の渋沢栄一、その70年後の宇沢弘文、更にその30年後のSDGsへと受け継がれているのである。

 本書において著者はSDGsにまでは言及していないが、これが現代を生きる我々にとって、スミスの哲学・思想の最も身近な今日的意義であり、その点には著者も同意してくれるのではないかと思う。

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著者紹介
ジェシー・ノーマン
(JESSE NORMAN)
1962年生まれ。イギリス保守党の国会議員で、2019年に財務担当補佐官を務める。オックスフォード大学で古典を学び、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で哲学の修士号と博士号を取得。政界に入る前は、共産主義の東欧で教育プロジェクトを運営し、バークレイズ銀行で管理職を務めた。UCL名誉研究員、国立経済社会研究所理事などを歴任。これまでの著書に、「保守思想の父」として知られるエドマンド・バークの評伝(未邦訳)などがある。

訳者略歴
村井章子
(むらい・あきこ)
翻訳者。上智大学文学部卒業。主な訳書に、カーネマン『ファスト&スロー』、カーネマン、シボニー、サンスティーン『NOISE』(以上早川書房刊)、スミス『道徳感情論』(共訳)、ミル『ミル自伝』、フリードマン『資本主義と自由』、バナジー&デュフロ『絶望を希望に変える経済学』など。


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