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【〈メグレ警視〉シリーズ復刊企画第三弾!】『メグレとマジェスティック・ホテルの地階〔新訳版〕』解説全文公開!

『メグレと若い女の死〔新訳版〕』『サン・フォリアン教会の首吊り男〔新訳版〕』に続く〈メグレ警視〉シリーズ新訳復刊企画第三弾『メグレとマジェスティック・ホテルの地階〔新訳版〕』。メグレを知っているという方も、メグレは読んだことがないよという方も、ぜひお手に取ってみてください!
 本日は、その『メグレとマジェスティック・ホテルの地階〔新訳版〕』の解説を全文公開いたします!

メグレとマジェスティック・ホテルの地階〔新訳版〕
ジョルジュ・シムノン/高野優 訳
装画:御法川哲郎
デザイン:早川書房デザイン室

解説


 本書『メグレとマジェスティック・ホテルの地階〔新訳版〕』は、〈メグレ警視〉シリーズを大きく三つに分けたときの中期に当たる作品であり、シリーズの面白さが最もよく表れている作品だと言っても過言ではない。実際に、シリーズのファンからは中期の代表作としてよく知られている。
 大まかなあらすじは次のようなものだ。
 シャンゼリゼ通りに面する超高級ホテル《マジェスティック・ホテル》で、女性の死体が発見された。女性は名前をエミリエンヌといい、スイートルームに一家で宿泊しており、実業家である夫のオズワルド・J・クラークは前日に列車でローマへと旅立っていた。死体は地階にある普段使われていない従業員用のロッカーの中に押し込められるような形で入っていた。発見者は、ホテルのカフェトリの主任であるプロスペル・ドンジュ。メグレ警視は捜査の中で、エミリエンヌはミミという名前でカンヌにあるキャバレーで働いていたこと、ドンジュの同居人であるシャルロットがミミと同僚であったことなどを知る。さらに、ドンジュはミミと関係を持っていたのだ。状況証拠はドンジュが犯人であることを示しているが、メグレにはなぜか彼が殺人を犯したのだとは信じられなかった。しかし、予審判事の元へと送られてきた匿名の手紙によって、ドンジュは勾留されてしまう。そして、第二の事件が起こり……。判事に手紙を送ったのは誰なのか? 上流階級の女性はな
ぜホテルの地階で殺されたのか? そして、真犯人の正体とは? 様々な謎が渦巻く中、メグレ警視が真実を解き明かす。

 元々はガリマール社から刊行されたMaigret revient…(メグレの帰還)に収録されていた作品で、タイトルにあるとおり、前期の最後の作品となる『メグレ再出馬』から八年経って、久しぶりに読者の前にメグレ警視が戻ってきた形になる。この本には、他に『メグレと死んだセシール』(《EQ》一九九一年十一月号)と『メグレと判事の家の死体』(《EQ》一九八八年三月号)が入っているが、執筆順でいえば本作がいちばん最初に当たるようだ。
『死んだセシール』と『判事の家の死体』もファンからの評価が高い作品であるが、本書が中期の代表作とされるのは、ミステリ作家にして評論家であるトーマ・ナルスジャックが高く評価していることが大きな要因であろう。ナルスジャックは評論「メグレ警視論」の中で、クラークがメグレの顎を殴ったことで、メグレがクラークを判事の部屋へと連れて行く箇所を取り上げて、フランス語がわからないクラークと、英語がわからないメグレが互いに「何と言ったんだ?」と繰り返して会話にならないところは、ルネ・クレールの映画に匹敵する詩的なシーンだと語る。こうしたシーンは初期作品では見られなかったものであり、その変化はシムノンの〈メグレ警視〉シリーズに対する創作法の変化であるとナルスジャックは指摘する。

空しくも一九三〇年代の物語(註:〈メグレ警視〉シリーズ初期作品のこと)を堅苦しいものにしていたある種のぎごちなさ、もったいぶった様子を、シムノンとメグレは失ったのである。(中略)この親切さ、滑稽な人のよさなどが釣り合いと力と健全さを表しているのであり、とても以前のシムノンは、それをこれほどには持ち合わせていなかったのである。

(トーマ・ナルスジャック「メグレ警視論」小副川明・訳/『名探偵読本2 メグレ警視』所収/註は引用者)

 少し│厳《いかめ》しい雰囲気のあった前期に比べて、中期以降のシリーズ作品は、滑稽味がありながらも質実剛健としたものに変わっていくが、メグレとクラークが行うユーモラスな掛け合いと、そのユーモアの裏にある鋭い攻防のようなものは、そうした中期以降の雰囲気をよく表している。

 また、本作はシリーズの中でも珍しく、メグレが形式張った謎解きをする作品で、事件の謎を解き明かしたあと、メグレは事件の関係者を司法警察局へと集めて自らの推理を披露する。謎解きパートである第十一章「大団円」は、最もミステリとして盛り上がるシーンだ。名探偵が関係者一同を集めて「さて」と言い出してから推理を披露するというのは、ミステリにおけるお約束ごとのようなものだが、メグレもご多分に漏れない。

「さて、皆さん、お集まりかな? じゃあ、トランス、扉を閉めてくれ」

(本書二五〇ページより)

 シムノンが意識していたかどうかは分からないが、謎解きミステリとして読むと、本作はこのメグレが「さて」と始めるシーンまでに、推理に必要な鍵が揃っていることに気付かされる。事件が起こるきっかけとなった│とある出来事《、、、、、、》についても、勘のいい読者であれば指摘できるようになっている(しかも、シムノンはその出来事が読者の印象に強く残るような工夫も凝らしている)。

 思えば、〈メグレ警視〉シリーズは、そのほぼ全ての作品がメグレの一人称で書かれ、彼の入手した情報や、彼の考えを余すことなく読者に伝えられるようになっていた。メグレの視点で証拠品を見て捜査をし、メグレの思考で事件について推理をすることができるようになっていたのだ。その意味で〈メグレ警視〉シリーズはミステリとして非常にフェアであると言えるだろう。
 本作は、そうした公正さはもちろんのこと、手がかりの開示の仕方がかなり巧妙で、メグレがたどる推理と同じように読者も推理できるような構成になっている。フェアな謎解きミステリとして、本作はシリーズの中でも屈指の完成度を誇る。中期の代表作たる所以はここにもある。

 前段で第十一章「大団円」が本作で最もミステリとして盛り上がるシーンだと書いたが、ミステリではなく、小説家としてのシムノンの魅力が最も発揮されているのは第七章「「何と言ったんだ?」の夜」だ。ここでは、前述したクラークがメグレを殴る場面が描かれるのだが、その書き方は少し不思議な形式になっている。
 章の冒頭、メグレは、クラークの宿泊しているスイートルームを訪れて彼の息子と家政婦と話をするのだが、その情景描写の途中で「これはその夜のことになるが、家に帰ると、メグレは妻にこの時の場面をこう話した」(本書一五四ページより)という一文が挿入され、場面は急に未来へと飛び、読者はメグレ夫人に語るメグレの話を聞く形で事の顛末を知ることになる。その後、一度は視点が現在へと戻ってくるものの、クラークの恋人であるダロマン嬢の眼の前でクラークがメグレを殴ろうとする直前に、場面は再びメグレ夫人との夜のシーンへと飛ぶ。ここの箇所が非常に面白い書き方になっているので、少し長いが引用をして見てみたい。

 やはり同じ夜のこと、メグレの話を聞いて、首を横に振りながら、マダム・メグレは言った。
「白状しなさいよ、メグレさん。あなた、わざと相手を怒らせたでしょう? あなたときたら、たとえ相手が天使だって逆上させることができるんだから」
 メグレは白状しなかった。だが、気分は愉快だった。別にたいしたことをしたわけではない。激高するクラークの前で、両手を上着のポケットに突っ込み、面白そうに相手を眺めただけだ。
 それのどこが悪いというのか? あの時、メグレはドンジュのことを考えていた。ドンジュはサンテ刑務所に留置されている。ダロマン嬢のような美しい女性とダンスをすることもない!
 そのダロマン嬢はクラークの様子に不穏なものを感じたのだろう、席を立って、こちらにやってきた。

(本書一五九ページより)

 それまでメグレ夫人と会話をする未来のシーンが描かれていたのに、最後の段落でいきなり現在のシーンへと戻ってきていることに気付く。これは、シムノンが得意とする手法だ。
〈メグレ警視〉シリーズに限ったことではないが、シムノンの作品では度々予告なしで時系列が変化する。時には一段落の中で時系列が変わってしまうことすらあるのだ。例えば、『メグレと若い女の死〔新訳版〕』(早川書房刊)には次のような箇所がある。疲れて家へと帰ってきたメグレが、夫人に「もうお休みになる?」と聞かれたところだ。

メグレはうなずいた。二人は早めに床に就いた。翌朝は風があって、空は雨模様だった。

(『メグレと若い女の死〔新訳版〕』六八ページより/平岡敦訳)

 不思議なもので、こうした時間の急なジャンプも、読んでいるときには全く気にならない。シムノンは時間の流れというものを非常に意識していた作家で、場面々々にふさわしい時間の流れ方に合わせて小説を書いている。重要ではないシーンは、一段落の中で夜から朝へと早回しするように描き、重要なシーンは反芻するように未来と現在を行ったり来たりさせ、読者へ印象づける。そうしたシムノンが小説を書く時の呼吸がよく分かるのが、本作の第七章なのだ。
 それだけに、シムノンの小説を読むときは油断ならない。うっかり二、三行読み飛ばしてしまうだけで時系列がわからなくなってしまうことがあるからだ。シムノンの小説の時系列を把握できているかどうかは、一文たりとも落とさず、しっかりと読むことができているかどうかのバロメータになる。もし、近頃、小説を飛ばすように読んでしまっているな、と感じている方がいれば、一度シムノンの小説を読んでみてほしい。早くなりすぎたペースを戻す、いいきっかけとなってくれるはずだ。

 本作は《EQ》一九九五年五月号に掲載されてから、三十年近く経っての新訳となるが、その間、文庫の〈メグレ警視〉シリーズは新刊が書店に並んでいない状況が続いていた。タイムパフォーマンスが必要以上に求められすぎる昨今、シムノンの作品のような、ゆっくりと小説を読み込む楽しさを教えてくれる作品は貴重であり、そして読まれるべきであると思う。
 これからも〈メグレ警視〉シリーズを含めたシムノンの小説をたくさん紹介していきたい。

編集部

 二〇二三年九月


【書誌情報】

■タイトル:メグレとマジェスティック・ホテルの地階〔新訳版〕
■著訳者:ジョルジュ・シムノン/高野優訳 
■定価:1,298 円 ■発売日:2023年10月4日 ■ISBN: 978-4-15-070955-6
■レーベル:ハヤカワ・ミステリ文庫
※書影等はAmazonにリンクしています。

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