【新人ミステリ作家が語るSFのおそろしさ!?】アガサ・クリスティー賞受賞記念エッセイ(西式豊)
第12回アガサ・クリスティー賞を受賞した西式豊さんのデビュー作にして、近未来SFミステリの新たな傑作『そして、よみがえる世界。』。本欄では、西式さんがミステリとSF、そしてエンターテインメントへの想いをつづった、SFマガジン2023年2月号掲載の受賞記念エッセイを再録いたします。
「SFこわい」
西式豊
気の回る読者であれば、本稿のタイトルを見て、「アガサ・クリスティー賞」を受賞してデビューしたばかりのミステリ作家が、実は大のSFファンで、怖いこわいと言いながらひとしきりSFへの愛を語った後に、「今度は血みどろのホラーがこわい」などと言ってサゲるのだろうと思われたかもしれないが、本当に申し訳ない。私、西式豊は文字通りの意味でSFが怖いのである。
小学校三年生の夏休みに一月かけて横溝正史の『獄門島』を読破して以来、自分の読書体験はミステリというフィールドの上に積み重ねられてきた。
言うまでもなく、どのようなジャンルの読者であろうと、読書好きという共通項はあるわけだから、「拙者はミステリ以外は一切読まぬ。SFは不倶戴天の敵だ」などと豪語しているミステリファンはいないはずだし、その逆もないだろう。(ですよね?)
自分自身、SFには苦手意識を持ちながらも、ケン・リュウだのテッド・チャンだのアンディ・ウィアーだの、読書界を席巻したベストセラーくらいは読んでいるし、本邦探偵小説の歴史をたどれば、海野十三や香山滋は、完全にSFの人だろう。
それなのに、SFに対してアウェーの意識がいまだに拭いきれないのは、自分自身にとってSFというジャンルが、どうにも敷居の高いものに思えているからだ。
その理由であるが、過去にSFファンの方から「お前にはSFマインドのなんたるかがわかっていない。この、未熟者が!」などと言われて打擲されたトラウマがある、などと告発したいわけでは一切ない。
それを言ったら、普段は和やかに会話をしているミステリファンだって、ひとたび〈本格の定義〉を互いに論じさせたら最後、いつ果てるとも知れない血の抗争がはじまるのは必定なわけで、熱心なファンほど己のこだわりをゆずれなくなるのは世の習い。SFファンがおっかないから敷居が高いと感じているわけでは断じてない。
むしろ真相はその逆で、ジャンルにはあまり詳しくないというこちらの意識が、ただ純粋に作品を楽しむための心の余裕を奪って、SFというジャンルを難しくとらえているのが原因のような気がする。
門外漢の私が、数少ない読書の経験から考える〈良いSF〉の条件とは、作品の中に独自の哲学を持つこと、自分の想像を超えた世界の在り様が描かれていること、の二点になる。
どちらも凄まじいまでの頭脳と才能と思索がなければ到達できない境地だ。少なくとも実作者としての自分には、とうてい力が及ばないレベルの芸当である。
これこそが、SFは恐いと私に思わせる根源的な要因なのだ。
ところがである。このたび上梓された私のデビュー作『そして、よみがえる世界。』は、”SFミステリ”という触れ込みで売り出し中なのだ。
あらすじはこうだ。
BMIと仮想現実の実装化によって、身体障害者の生活圏がめざましく拡大した近未来。
主人公である天才脳神経外科医の牧野は、自らも脊髄損傷者だが、脳内インプラントを利用して手術支援ロボットを直接操作することで、健常者の医師が尻込みするようなオペでさえ難なくこなすことができる。
そんな彼が、ある少女にほどこした視覚再建手術に関するトラブルを契機に、仮想空間の成り立ちに関わる極秘プロジェクトの秘密に肉薄していくことになる。
〈BMI〉〈仮想現実〉〈近未来〉。確かにお膳立てだけをみればSFだ。自分だってそう思う。これすなわち、SFというジャンルには、舞台設定やガジェットだけそれらしい要素をとりこめば、なんとなくSFに見えてしまうという、とんでもない懐深さがあることの証左であろう。
裏を返せば、SFには表面だけをそれっぽくなぞったナンチャッテSFが成立する余地があり、真摯にSFを追求する硬派の読み手にあっては、鋭い鑑識眼によってナンチャッテSFを即座に判別して「こやつはニセモノであるぞよ、排斥せよ!」と厳しい裁断を下すのではないかと、ミステリ畑から出てきた新人作家は戦々恐々としてしまうのである。
それらしい道具立てをそろえることで安易にジャンル小説まがいの代物をでっち上げて、そのジャンルが長い時間をかけてつちかってきた娯楽としての成熟や、ファン層へのアピールにフリーライドしてしまう創作物が跋扈(ばつ こ)するのは、なにもSFに限った話ではない。
私がホームと感じるミステリにあっても、〈孤島〉〈館〉〈名探偵〉といった意匠だけを借りてきて、見立て殺人やダイイング・メッセージ風のイベントをぶっこんでやれば、それでミステリを名乗ることは難しくない。
けれども、ミステリにおけるナンチャッテを見分けることは、決して手練れの読者でなくても簡単なことだ。トリックだけでなく、ミスリードや伏線回収といった語りの技巧が、作品自体の優劣に露骨に反映されるからだ。
対してSFの場合は(あくまでも自分の考えだが)哲学や世界観という根幹の部分は、物語を読み取った読者の中で立ち上がってくるものであり、例えそれだけの芯がなくても、物語さえ面白ければとりあえず娯楽商品としては成立することが可能だ。
物語の指向として、ミステリは技巧を、SFは哲学を追求するという特性を持つからこそ、SFの方が自己申告さえすればニセモノでもまかり通ってしまう可能性が高い。それゆえに、門外漢の自分がSF的要素を自作に取り入れようとした時にも、上っ面の模倣だけで良しとしてしまう恥さらしを平気で犯しかねない。そんな気おくれを、どうにも払拭することができずにいるわけだ。
考えてみれば、SFというジャンルほど、その成果を様々な物語によって簒奪されてきたフィクションはないように思える。
一九七〇年代に相次いで公開されて一大旋風を巻き起こした映画『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』『宇宙戦艦ヤマト』は、それぞれが、英雄叙事詩、異郷訪問譚、軍事冒険活劇という極めて古典的な物語であるにもかかわらず、ライトセーバーや空飛ぶ円盤や波動砲といったビジュアル要素の目新しさが大衆へとアピールしたがゆえに、十把ひとからげにSFブームとしてもてはやされたという経緯がある。このような事実などは、最もわかりやすいその一例にあげられるだろう。
『2001年宇宙の旅』が遠い過去になった今日でも、コアなファンではない一般大衆にとっては、宇宙や未来やロボットが出ていればSF、くらいの認識はそれほど変わっていないはずだ。なかにはもともとSFのお家芸であったタイムリープのように、それ自体が独立してエンターテインメントのサブジャンルとして量産されている事例さえあるほどだ。
しかし、ここでなによりも強調しておきたいのは、私が『そして、よみがえる世界。』を執筆するにあたって、決して都合よくSFの美味しい上澄みだけを利用したわけではない、という点だ。
こんなにも長々と、SFに対する苦手意識を語ってきた自分が、なにゆえに自作にSF的要素を導入したのかといえば、それが物語から要請された唯一の必然だったからに他ならない。
ミステリの創作には、大別して二つの流れがあると思っている。
「あなたもミステリ作家になれる」的な指南書でよくとりあげられるのは、トリックが先かプロットが先かという問題だが、自分としては〈プロットのみが独立して成立可能か否か〉の方が、より重要な分岐点だと考えている。ようするに、作品内で描かれる謎とその解決が、別の探偵役や別の舞台設定においても成立するか否か、という視点である。
ミステリの芯である技巧をフェアネスな推理遊戯に特化するのであれば、必要となるのは美しい謎と純粋なロジックだけになる。確固たる人気を持った名探偵を創造した作家の場合、どのようなプロットにも手持ちの人気キャラを投入可能という意味で、この方向性の方が創作の効率は良くなるはずだ。
その対極に位置するのが、中核に据えられた謎と論理が、特定の登場人物と特定の舞台設定の中でしか成立しない、という方向性でプロットを練り込む手法だ。こちらの場合は、必然的に毎度おなじみ名探偵の介在する余地がなくなり、ノンシリーズの独立した作品として結実することになる。
元よりこれは、どちらがより優れているかという話ではなく、ただ単にケース・バイ・ケースの論点に過ぎないが、自分は圧倒的に後者の方法論を好んでいる。
『そして、よみがえる世界。』の場合(ネタバレ直結なので、迂遠な書き方しかできないのが歯がゆいですが)、最初に思い付いたのは、作中で発生するすべてのイベントの根幹を成す〈見える/見えない〉を巡る諸問題についてのアイディアだった。
その思いつきを長篇ミステリとして成立させようと、必死で頭をひねっていた自分は、仮想空間という舞台設定を導入すれば、実現可能であると結論づけた。
現実と仮想空間を行き来する物語の中で、二つの世界に同時に存在する自分という状態を、我が事に引き寄せて読者に共有してもらうには、リアルな肉体が持つ身体障害を、仮想空間で克服しようと試みている人物を主人公とするのが最適だと思われた。
SFが怖いはずの私のデビュー作が、こともあろうに近未来SFミステリになってしまったのは、そんな背景があったからだ。
自分が書こうとしている小説が、どう考えてもSFに片足をつっこんだものになると気が付いた私は、正直ビビりまくった。
仮にも”SFミステリ”を標榜する以上、適当に技術の上っ面をなでただけの描写で良しとするわけにはいかないからだ。
ただ単に面白いだけではなく、独自の哲学を持ち、読者が見たことのない世界を提示すること。
もちろん自分は、今はこれが精一杯というつもりでその目標を果たした気ではいる。
哲学の部分は、脳と身体と自由意志の問題について、世界に関しては、テクノロジーによって障害の意味付けが根本的に変貌した社会と、その先に広がる人類未踏の領域によって。
けれども、そんな作者の思い込みが本当に物語の中から読み取られるか否かは、ひとえに読者の判断にかかっている。
いまはただ、硬派のSFファンと厳格なミステリファンの双方から「お前はなんにもわかっていない。この未熟者めが」とボカスカにされないことを切望するのみである。
と、ここまで書き進めてきた今、にわかに心配になってきたのは、本稿では一顧だにしなかったホラーについてである。
幸運に恵まれて、私が二作目、三作目に着手できた時、万が一にもホラー的な作品を書くことになった場合を考慮して、ホラーのファンにも今からきちんとアピールしておく必要があるだろう。
そうなると、やはりこの原稿のサゲは、タイトルから導かれる既定路線で締めくくるしかなさそうだ。
「今度は血みどろのホラーがこわい」
お後がよろしいようで。
本エッセイはSFマガジン2023年2月号に掲載しています!