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オッペンハイマー解説②:正反対の思想と深い敬意を併せ持ったノイマンの実像

「原爆の父」と呼ばれた天才物理学者、J・ロバート・オッペンハイマーの生涯を丹念に描き、全米で絶賛された傑作評伝がついに文庫化。アカデミー賞を受賞した映画監督クリストファー・ノーランも名著と賞賛する本書『オッペンハイマー(上・中・下、三巻組)』(カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン、河邉俊彦訳、山崎詩郎監訳、早川書房)は、日本での映画公開(3月29日)に先駆け好評発売中です(電子書籍も同時発売)。
この記事では本書中巻に収められた、高橋昌一郎氏(哲学者・論理学者)の解説文を特別に試し読み公開します。オッペンハイマーと同時期に活躍しながら正反対の思想を持ち、反発と深い敬意を併せ持ったジョン・フォン・ノイマン。本書に登場する二人の天才を根底で結び付けたものとは――

『オッペンハイマー』上中下巻、カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン、河邉俊彦訳、山崎詩郎監訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫
『オッペンハイマー』上中下巻
カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン
河邉俊彦訳、山崎詩郎監訳
ハヤカワ・ノンフィクション文庫

解説 オッペンハイマーとフォン・ノイマン

 高橋昌一郎(哲学者・論理学者)

ロバート・オッペンハイマーという偉才と同時代を生きたにもかかわらず、まったく正反対の思想に到達したのがジョン・フォン・ノイマンである。二人の生涯は、まるで螺旋状に絡まるように何度か交差して、互いに反発し合いながら、目の前に現実の危機が迫ると、互いに助け合った。その興味深いエピソードを紹介しよう。

ノイマンは、1903年12月28日にハンガリーのブダペストで生まれた。オッペンハイマーは、1904年4月22日にアメリカ合衆国のニューヨークで生まれているので、ノイマンより約五カ月年下ということになる。両者とも裕福なユダヤ家系の出身である。

ノイマンと少年時代を共に過ごしたノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーは、「なぜ当時のブダペストに多くの天才が出現したのか」と問われて、「その質問は的外れだ。なぜなら天才と呼べるのはただ一人、フォン・ノイマンだけだからね」と答えている。

後にアメリカでノイマンと一緒に原子爆弾の爆縮法を研究したノーベル物理学賞受賞者ハンス・ベーテは、「ノイマンの頭脳は常軌を逸している。彼は人間よりも進化した生物ではないか」と本気で考えていた。

もしノイマンがいなければ、現代のパソコンやスマートフォンや天気予報は存在しないかもしれない。

ノイマンは、わずか53年あまりの短い生涯の間に、論理学・数学・物理学・化学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・社会学・政治学という極めて幅広い分野に関する150編の先駆的な論文を発表した。

拙著『フォン・ノイマンの哲学』(講談社現代新書)では、彼のあだ名「人間のフリをした悪魔」を副題にして、ノイマンの生涯と思想に迫った。

そこに浮かび上がってきたのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」、この世界には普遍的な道徳や責任など存在しないという一種の「虚無主義」である。

22歳のノイマンは、スイス連邦工科大学チューリッヒ校応用化学科を卒業すると同時に、試験のためだけに帰省して単位を取得し続けたブダペスト大学大学院数学科博士課程も修了した。彼は、前代未聞の「学士・博士」として、最優秀成績で卒業したのである。

ノイマンの博士論文を読んで感激した数学界の大御所ダフィット・ヒルベルトは、彼をロックフェラー研究員としてゲッチンゲン大学に招聘した。すでに彼の実力を知っているヒルベルトは、面接で「君が着ているものほど立派なスーツは見たことがない。どこで仕立てたのか教えてくれないかね」とノイマンに尋ねたと伝えられている。

さて、1926年9月、ノイマンがゲッチンゲン大学に赴任するのと同時に物理学科の博士課程に編入してきたのが、オッペンハイマーだった。彼は、ハーバード大学を3年間の繰り上げで、しかも首席で卒業し、ケンブリッジ大学大学院に進学した後、物理学者マックス・ボルンの指導を受けるためにゲッチンゲンに移ってきたわけである。

オッペンハイマーは、アメリカでは「早熟の天才」と呼ばれていたが、同じ22歳のノイマンが、すでにゲッチンゲン大学で研究員としてセミナーを開催しているのを見て、自分以上の「早熟の天才」が存在することに驚愕したに違いない。

だからこそ、38歳の若さでロスアラモス研究所の所長に抜擢されたオッペンハイマーは、アメリカ合衆国に移住してプリンストン高等研究所教授となっていたノイマンを研究所に招こうとした。しかし、戦争省の科学顧問であり、「爆発研究の第一人者」として陸軍・海軍・空軍の複数の研究機関を飛び回っていたノイマンは、その誘いを断っている。

1943年7月27日付の手紙で、オッペンハイマーは、2週間だけで構わないからロスアラモスに来てほしいとノイマンに懇願している。そこでノイマンは、9月20日から10月4日までロスアラモス研究所に滞在し、行き詰っていた原爆の爆縮法を大きく進展させた。その後、彼だけはロスアラモスに自由に出入りできる特権の顧問となった。

原爆を完成させるまでに、ロスアラモス研究所には12万人の科学者・技術者・労働者がつぎ込まれ、開発に関わったノーベル賞受賞者だけで21人にもなる。ベーテは、「オッペンハイマーは、プリマドンナを大勢集めて、各自が才能を最大限に活かせるように配置し、実にうまく全員を踊らせた。その演出の手腕は、絶品だったよ」と述べている。

1945年8月6日と9日の原爆投下による日本の被害を知り、放射線被爆を受けた犠牲者の写真を見て、アインシュタインをはじめとする良心的科学者の多くが、恐れおののいた。オッペンハイマーが、ヒンズー教の経典から「我は死神なり、世界の破壊者なり」という言葉を引いて、その恐怖を表現したことは、よく知られている。

ただし、このオッペンハイマーの発言は、研究所の科学者からは大変な悪評だった。原爆がロスアラモスの無数の科学者・技術者・労働者の共同作業で完成した成果であるにもかかわらず、彼が「我」を主語にして、あたかも自分一人で原爆を生み出したかのように表現したからである。ノイマンは、「『原爆の父』オッペンハイマーは、罪を自白して自分の手柄にしたというわけさ」とジョークを飛ばして、皆を笑わせた。

戦後、ノイマンは、ソ連を先制核攻撃すべきだとトルーマン大統領に進言した。彼は「ソ連を攻撃すべきか否かは、もはや問題ではありません。問題は、いつ攻撃するか、ということです」と主張し、「明日爆撃すると言うなら、なぜ今日ではないのかと私は言いたい。今日の5時に攻撃すると言うなら、なぜ1時にしないのかと私は言いたい!」と叫んだ。この発言によって、彼は「マッド・サイエンティスト」の代表とみなされるようになった。

さらにノイマンは、水素爆弾も早急に開発すべきだと公言した。なぜなら、アメリカこそが常に「世界で最大の武器を保有するべき」だからである。彼は、良心的科学者たちからの道徳的批判に対しても「いっさい躊躇してはならない」と平然と答えている。

一方、オッペンハイマーは、水爆開発には猛反対の立場を取った。原爆は10万人単位の死傷者を生み出すが、その数千倍の威力を持つ水爆は、100万人から1000万人の一般市民を瞬時に大量殺戮する。水爆は、もはや人類を滅亡させるための最終兵器であり、その開発に科学者は加担すべきでないと主張したのである。

トルーマン大統領は、科学者たちに水爆開発を命じたが、それは理論的にも原爆開発より遥かに困難だった。その難関を突破する方法を発見したのが、長年ノイマンの助手を務めていた物理学者スタニスワフ・ウラムである。1951年2月、ウラムは、原爆を起爆剤に用いることによって、重水素に「核融合」を生じさせる方法を思いついた。

このウラムの方法を検証するためには、膨大な数の微分方程式や複雑な関連計算を行う必要があった。ノイマンは、1951年8月から9月にかけて、プリンストン高等研究所のコンピュータ「MANIAC」を2カ月にわたり24時間連続で稼働させて膨大な計算を行い、ウラムの理論が正しいことを検証した。

実は、このコンピュータの使用を許可したのが、1947年にプリンストン高等研究所の所長に就任したオッペンハイマーだったのである。ノイマンの申請に対して、オッペンハイマーは、莫大な経費の掛かるコンピュータ使用を「所長権限」により禁じることもできた。実はノイマンは、このような状況を見越して、オッペンハイマーの所長就任に反対した経緯がある。ところが、所長があっけなくコンピュータ使用を認めたので、ノイマンも驚愕したに違いない。オッペンハイマーの人間性には、底知れない奥深さがあった。

さて、1954年4月12日から5月6日にかけて「オッペンハイマー聴聞会」が開催された。オッペンハイマーがアメリカの水爆開発に反対するのは「ソ連のスパイだからだ」という偏見に満ちた告発を行った国会議員がいたためである。

この聴聞会には39名の証人が喚問され、ノイマンもその一人だった。当時、大統領科学顧問に就任していたノイマンは、水爆開発推進派の最重要人物であり、しかもオッペンハイマーを猛攻撃する物理学者エドワード・テラーと同じブダペスト出身である。周囲は、ノイマンの証言でオッペンハイマーは窮地に追い込まれるだろうと予測していた。

ところが、証言台に立ったノイマンは、オッペンハイマー所長がプリンストン高等研究所のコンピュータで水爆計算を行う申請を即座に許可した事実を挙げて、「オッペンハイマー博士の決断は、水爆開発において非常に建設的なものでした」と彼を擁護した。さらにノイマンは、過去のオッペンハイマーと共産主義者との繋がりを問われた際にも、「私は、それらの交友関係が大した問題だとは思いません」と明言している。

6月29日、オッペンハイマーは「公職追放」されることに決まった。その2日後の7月1日、プリンストン高等研究所の教授陣29名がオッペンハイマーを支持する声明を発表した。そこにアインシュタインと並んで、フォン・ノイマンの署名もある。

聴聞会から3年後にノイマン、それから10年後にオッペンハイマーは逝去した。


本書『オッペンハイマー』(上中下巻)は好評発売中です。(電子書籍も同時発売)

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■書誌概要

『オッペンハイマー(上中下巻)』
原題:American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer
著者:カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン
訳者:河邉俊彦
監訳:山崎詩郎
出版社:早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
発売日:2024年1月22日(電子書籍も同時発売)
本体価格:各巻1,280円(税抜)
※本書は2007年8月にPHP研究所より刊行された単行本『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』に新たな監訳・解説を付して改題・文庫化したものです。

■映画『オッペンハイマー』概要

(2024年3月29日 日本公開予定)
原題:Oppenheimer
監督、脚本:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン、クリストファー・ノーラン
出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネ
ット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー他
原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン 『オッペンハイマー 』(2006 年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ⽂庫、2024 年1 ⽉刊⾏)
2023 年/アメリカ
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
© Universal Pictures. All Rights Reserved.


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