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【試し読み】祝・年末ミステリベスト三冠!&本屋大賞翻訳小説部門第1位! 傑作ミステリ『われら闇より天を見る』冒頭公開!

好評発売中の『われら闇より天を見る』(クリス・ウィタカー/鈴木恵訳)。本日はその冒頭を特別公開! 「翻訳ミステリ史上、最高のラスト1行。」という触れ込みの本書ですが、冒頭のシーンもとてもいいんです……。ぜひお読みください!

われら闇より天を見る
クリス・ウィタカ―/鈴木恵訳
解説:川出正樹
四六判並製単行本
価格:2300円+税
ISBN:978-4-15-210157-0
ページ数:520ページ
発売日:2022年8月17日


 何かが見えたら手をあげてくれ。
 煙草の巻紙でもソーダの空き缶でもかまわない。
 何かが見えたら手をあげてくれ。
 くれぐれも触らないこと。
 手をあげるだけでいい。
 町の人々は仕度をして浅瀬に立っていた。十五メートル間隔で横一列になったまま動きだす。百の眼が地面を見おろしていたが、それでもみな隊列を崩さない。振り付けされたゾンビたち。
 背後の町は空っぽになり、始まったばかりの長い夏は、早くもそのニュースで窒息していた。
 行方不明者はシシー・ラドリー、七歳、髪はブロンド。たいていの人々は顔見知りだったので、デュボア署長が写真を配る必要はなかった。
 ウォークは列の端にいた。怖いもの知らずの十五歳、一歩ごとに膝が震えた。
 人々は林の中を軍隊のように進んだ。警官らに先導され、懐中電灯を左右に振り。林のむこうには海があった。はるか先だったが、少女は泳げなかった。
 ウォークの横にはマーサ・メイがいた。付き合いはじめて三カ月、ふたりはまだ一塁にとどまっている。マーサの父親はリトルブルック監督教会の牧師なのだ。
 マーサがウォークのほうを向いた。「まだ警官になりたい?」
 ウォークはデュボア署長に眼をやった。うつむいて、最後の希望を一身に背負っている。
「スターは先頭にいたよ」とマーサは言った。「お父さんと一緒に。泣いてた」
 スター・ラドリー、行方不明の少女の姉。マーサの親友。彼らは結束の固いグループだった。いないのはひとりだけだ。
「ヴィンセントは?」マーサは訊いた。
「さっきまで一緒だったんだけどな。反対側にでもいるのかな」
 ウォークとヴィンセントは、兄弟のように仲がよかった。九歳のとき、たがいの手のひらを切って押しつけあい、クラスを超えた友情を誓っていた。
 ふたりはそれ以上おしゃべりをせず、ひたすら地面を見つめ、サンセット・ロードを過ぎ、願い事の木を通りすぎた。コンバースのスニーカーが草を掻きわける。ウォークは懸命に眼を凝らしていたが、それでも危うく見落とすところだった。
 カブリロ・ハイウェイ、すなわちカリフォルニアの海岸を千キロにわたって走る州道一号線。そこから十歩のところ。ぴたりと立ちどまり、顔をあげると、隊列が自分を置いて先へ進んでいくのが見えた。
 ウォークはかがみこんだ。
 小さな靴だった。赤と白の革。金色の留め金。
 ハイウェイを走ってきた車がスピードを落とし、ヘッドライトがカーブを曲がってきて、ウォークを照らし出した。
 そのとき、少女が見えた。
 ウォークは大きく息を吸い、手をあげた。


  1


 ウォークは浮かれた人混みのはずれに立っていた。彼が生まれたときからの知り合いもいれば、むこうが生まれたときからの知り合いもいる。日焼けした別荘客たちは、この海が削り取っているのが建物だけではないことも知らずに、カメラを手に気楽な顔で立ち交じっている。
 地元のニュース局も来ていた。「ウォーカー署長、一言いただけますか?」KCNRの記者が言う。
 ウォークは微笑んで両手をポケットに深く突っこみ、人垣をすりぬけようとしたが、そこで群衆がわっと声をあげた。
 ガラガラという音とともに屋根が崩れ、下の海に落下していった。崩れるたびに少しずつ骨組みがむきだしになり、もはや人の住居ではなくなっていく。ウォークの記憶にあるかぎり、そこはずっとフェアローン家の住まいで、彼が子供のころには、二千平方メートルの土地が海まで広がっていた。一年前に立入禁止となったが、浸食はつづき、ときおり州の自然局の連中がやってきては測量と判定を行なっていた。
 カメラのさざめきと不謹慎な興奮のなか、スレートがばらばらと滑り落ち、フロントポーチがはずれかけた。肉屋のミルトンが片膝をついてすかさずシャッターを切り、旗竿が傾いて国旗が風にひらめく決定的瞬間をものにした。
 タロウ家の下の男の子が、そばに近づきすぎて母親に襟をぐいと引っぱられ、尻もちをついた。
 かなたでは太陽も海に落下して、海面をオレンジと紫と名もない数々の色彩に切り分けている。記者はすでに撮影をすませ、取るにたらないささやかな歴史の一齣を最後まで見届けようとしていた。
 ウォークはあたりを見まわし、ディッキー・ダークがいるのに気づいた。無表情で見物している。ダークは巨人のように背が高く、二メートル十センチ近くあった。不動産業を営んでおり、ケープ・ヘイヴンの町に住宅を数軒と、カブリロ・ハイウェイにクラブを一軒所有している。十ドルと一片の道徳心を犠牲にするだけではいれる悪の巣窟を。
 さらに一時間立ちつづけ、ウォークの脚が疲れてきたころ、ポーチがついに力尽きた。見物人たちは拍手をしたくなるのをこらえ、背を向けて帰りはじめた。バーベキューとビールの待つわが家へ、ウォークの夕方の巡回路を火影で照らす庭の炉の前へと、三々五々、灰色の塀を乗りこえていく。塀は板石を空積からづみしただけのものだったが、いまだにがっちりしていた。そのむこうには願い事の木と呼ばれるオークの巨木が、広がりすぎた枝々を支柱で支えられてそびえている。古いケープ・ヘイヴンは生き残るために手を尽くしていた。
 かつてヴィンセント・キングと、その木に登ったことがあった。あまりにむかしのことなので、それもまた取るにたらないできごとなのだろうが。ウォークは震える手を銃に載せ、もう片方の手をベルトにかけた。きちんと締めたネクタイ、糊のきいた襟、磨きあげた靴。地位に満足する彼を、賞賛する者もいれば、憐れむ者もいた。一度も出港したことのない船の船長だと。
 群衆にさからって歩いてくる少女の姿が見えた。弟と手をつないでいるが、弟は姉のペースに合わせるのに苦労している。
 ダッチェスとロビン。ラドリー家の子供たちだ。
 彼らのことなら知るべきことはすべて知っているウォークは、小走りでふたりに駆けよった。
 男の子は五歳で、声もなく泣いており、少女は十三歳になったばかりで、一度も泣いたことがない。
「お母さんか」とウォークは言った。それは質問ではなく、痛ましい事実の確認にすぎなかったので、少女はうなずきもせずに踵を返して先に立った。
 三人は黄昏の街を通りぬけた。白い木の柵とそれに張りわたした電飾という、つかのまの平和の中を。月が昇り、道を照らし、彼らをあざけった。それは三十年前から変わらない。建ちならぶ豪邸、自然と闘うガラスと鋼、途方もなく美しい眺め。
 それらをあとにして、ジェネシー通りにはいる。ウォークはそこに住んでいた。両親の遺した古い家に。アイヴィー・ランチ・ロードにはいると、ラドリー家が見えてきた。ペンキのはがれた雨戸、逆さに置かれた自転車、脇に転がるタイヤ。ケープ・ヘイヴンでは、光からほんの少しはずれるだけで、暗黒も同然になる。
 ウォークは子供たちを残して庭の小径を走っていった。明かりはついていないが、テレビのちらつきが見える。ふり返ると、ロビンはまだ泣いており、ダッチェスは険しく厳しい眼でまだウォークを見つめていた。
 スターはカウチにいた。そばに酒瓶が一本、今回は錠剤は見あたらない。片足は靴をはいているが、片足は裸足で、小さな指と、マニキュアを塗った爪が見える。
「スター」とウォークは膝をついて彼女の頬をたたいた。「スター、起きろ」穏やかに声をかけたのは、子供たちが戸口にやってきたからだった。ダッチェスは弟に腕をまわし、弟は小さな体内から骨がなくなったかのようにぐったりと姉にもたれている。
 ウォークは少女に、九一一番へかけろと指示した。
「もうかけた」
 スターのまぶたを押しあげてみたが、白眼しか見えなかった。
「助かる?」と少年の声。
 ウォークはサイレンが聞こえないかとふり返り、夕焼け空に眼を細めた。
「外で救急車を待っててくれないか?」
 ダッチェスは意図を察し、ロビンを連れて出ていった。
 そのときスターが身震いし、少し吐いてまた身震いした。まるで神か死神が、彼女の魂をつかんで引きずり出そうとしているようだった。ウォークはそれを長年待っていた。解放を。シシー・ラドリーとヴィンセント・キングの事件から三十年がたつというのに、スターはいまだにそこから逃れられず、ぶつかりあう過去と現在に未来を弾きとばされて、いっこうに立ち直れなかった。

 ダッチェスは母親と一緒に救急車に乗った。ロビンはウォークが連れていってくれる。
 彼女は救急隊員の作業を見守った。ありがたいことに、その男は微笑みかけようともしなかった。髪は薄いし、汗は掻くし、死のうと決めた人たちを救うのにもうんざりしているようだった。
 救急車はしばらく家の前に停まっていた。あいたままのドアのむこうには、いつものようにウォークがいて、ロビンの肩に手をかけている。ロビンにはそれが必要だった。大人の慰めが。安心だという認識が。
 向かいの家々ではカーテンが動いて、人影が無言の非難を向けてきた。そのとき、通りのはずれにダッチェスと同じ学校の男の子たちが現われた。顔を赤くして自転車を飛ばしてくる。建築規制がしばしばトップニュースになるような小さな町では、ニュースはあっというまに伝わる。
 ふたりはパトロールカーの近くで止まり、自転車を乗りすてた。背の高いほうが、息を切らし、髪を額に貼りつかせたまま、そろそろと救急車に近づいてきた。
「死んだの?」
 ダッチェスは顎をあげてそいつの眼をにらみつけた。「おまえこそ死ね」
 エンジンがかかり、ドアが閉められ、曇りガラスが世界をぼやけさせた。
 二台の車はくねくねと道をくだり、最後のカーブを曲がって丘をあとにした。そのむこうに広がる太平洋と、溺れる人々の頭のように海面から突き出た岩々を。
 ダッチェスは自分たちの住む通りを最後まで見つめていた。街路樹がペンサコーラ通りの上で腕を差しのべあい、枝を手のように組み合わせて、彼女と弟のため、ふたりが生まれるはるか以前に始まったこの悲劇のために、祈りを捧げはじめるまで。

 こんな夜に出くわすたび、ダッチェスは夜にすっかり呑みこまれてしまい、自分には二度と朝は来ないのだ、ほかの子たちのようには来ないのだと思うのだった。病院は今回もヴァンカー・ヒルで、ダッチェスはそこをいやというほどよく知っていた。母親が運ばれていったあと、照明の映るぴかぴかの床に立って入口を見ていると、ウォークがロビンを連れてはいってきた。彼女は近づいていって弟の手を取り、エレベーターに乗せて二階にあがった。明かりを落とした家族室で、椅子をふたつくっつけてならべると、向かいの備品室から柔らかな毛布を勝手に持ってきて、その椅子を即席のベッドに仕立てた。ロビンは疲労に引きずられてふらふらしており、眼のまわりに不穏な隈ができていた。
「おしっこ行く?」
 こくり。
 トイレに連れていき、数分待ってから、きちんと手を洗わせた。歯磨きを見つけ、指先に少し絞り出して歯と歯ぐきをこすってやる。ロビンが口をすすぐと、口元を拭いてやった。
 靴を脱がせたあと、椅子の腕ごしに、小さな動物のようにそこに収まったロビンに毛布をかけてやった。
 ロビンが眼をのぞかせた。「置いてかないでね」
「置いてかないよ」
「ママは助かる?」
「うん」
 テレビを消すと部屋は暗くなった。非常灯がふたりを赤く染めたものの、穏やかな光だったので、ロビンはダッチェスがドアにたどりついたときにはもう眠っていた。
 彼女は冷たい光の中に出ると、ドアの前に立った。誰も入れないつもりだった。家族室は三階にもある。
 一時間後、ウォークがふたたび現われて、さも疲れたようにあくびをした。ダッチェスはウォークが昼間、カブリロ・ハイウェイをパトロールカーで走るのを知っていた。ケープ・ヘイヴンから先のあの完璧な数キロを。瞬きするたび絶景が見えるので、国の反対側から人々がやってきては家を買い、一年のうち十カ月は空き家にしておく、そんな楽園のような場所を。
「ロビンは寝たか?」
 ダッチェスはこくりとうなずいた。
「様子を見てきたが、お母さんはだいじょうぶだ」
 彼女はまたうなずいた。
「何か飲んでくるといい。自販機が廊下の――」
「知ってる」
 部屋をのぞくと、弟はぐっすり眠っており、揺り起こすまで目覚めそうになかった。
 ウォークが一ドル札を差し出すので、ダッチェスはしぶしぶ受け取った。
 廊下の先へ行ってソーダを買ったが、飲まなかった。ロビンが起きたときのため取っておくつもりだった。ならんだ仕切りをのぞいてみた。出産と涙と命の音を。抜け殻になった人たちも見えた。ひどくうつろなので、もう回復しないのがわかった。警官たちが悪いやつらを連れてきた。腕には刺青、顔は血だらけだ。あたりには酔っぱらいと、漂白剤と、吐物と便のにおいがした。
 すれちがった看護師に笑いかけられた。たいていの看護師は前にもダッチェスを見かけたことがあるのだ。勝ち目のない手を配られた、よくいる子供のひとりを。
 戻ってみると、ウォークがドアの脇に椅子をふたつならべていた。ダッチェスは弟の様子をのぞいてから腰をおろした。
 ウォークがガムを差し出したが、彼女は首を振った。
 ウォークが話したがっているのがわかった。気休めを言いたがっているのが。長い人生におけるちょっとしたつまずきにすぎない、いまにすっかり変わると。
「電話しなかったんだね」
 ウォークは彼女のほうを見た。
「福祉に。電話しなかったんだね」
「しなくちゃいけないんだが」ウォークは悲しげに言った。ダッチェスとバッジのどちらかを裏切っているという口ぶりだったが、どちらなのかはわからなかった。
「でも、しないよね」
「しない」
 ウォークの腹は薄茶色のシャツをぱんぱんにしていた。ぽっちゃりした赤い頬は、両親に・だめ・と言われたことのない甘やかされた少年を思わせる。表情はつねにあけっぴろげで、ウォークが秘密をかかえているところなどダッチェスには想像もできない。母親はウォークのことを、ほんとうにいい人だと、何かすごいことのように言っていた。
「少し寝なさい」
 そのままじっと座っていると、やがて星が傾いて夜が明け、往生ぎわの悪い月が、新たな一日に残る染みのような、残像のような姿に変わった。向かいに窓があった。ダッチェスはその前に立ってガラスに額を押しつけ、下り斜面に茂る林と向き合った。鳥のさえずりと。かなたには海と、波間に点々と浮かぶトロール船が見える。
 ウォークが咳払いをした。「お母さんのことだが……男が一緒にいたのか――」
「男はいつだっている。ろくでもないことが起きるときには、いつだって男がいる」
「ダークか?」
 ダッチェスは表情を変えなかった。
「わたしには言えないのか?」
「あたし、無法者だから」
「そうか」
 ダッチェスは髪にリボンをつけており、しじゅうそれをいじっていた。ひどく痩せていて、ひどく色白で、母親と同じようにひどく美しい。
「あっちに生まれたばかりの赤ん坊がいた」ウォークは話題を変えた。
「なんて名前だった?」
「わからない」
「五十ドル賭けてもいいけど、ダッチェスじゃないよ」
 ウォークは穏やかに笑った。「エキゾチックで珍しい名前だ。知ってるか、きみはエミリーになるはずだったんだぞ」
「嵐はつらくなければならぬ(エミリー・ディキンスンの詩の一節)」
「そのとおり」
「母さんはまだこの詩をロビンに読んでやってる」ダッチェスは腰をおろして脚を組み、ふくらはぎをもんだ。スニーカーはぶかぶかですりきれている。「これがあたしの嵐なの、ウォーク?」
 ウォークは答えられない質問に答えを探すように、コーヒーをひとくち飲んだ。「わたしはダッチェスが好きだよ」
「自分がなってみれば? 男の子だったらあたし、エミリーの恋人だったスーザンにちなんで、スーにされてたかも」ダッチェスは顔をあおむけ、ちらつく蛍光灯を見あげた。「母さんは死にたがってる」
「そんなことはない。そんなふうに考えちゃだめだ」
「自殺っていちばん自分勝手なまねなのか、いちばん自分を捨てた無私な行為なのか、どっちなんだろう」
 六時に看護師がダッチェスを病室へ連れていってくれた。
 スターはベッドに横になっていた。母親どころか、人間ともいえない姿だった。
「ケープ・ヘイヴンの女公爵ダッチェスさま」笑ってはいたが、弱々しかった。「もうだいじょうぶよ」
 ダッチェスに見つめられると、スターは泣きだした。ダッチェスは部屋にはいっていって、母親の胸に頬を押しつけ、まだ心臓が打っていることにびっくりした。
 ふたりは一緒に横になったまま、夜明けに包まれていた。それは新たな一日ではあったが、約束の光ではなかった。約束など偽りだということを、ダッチェスは知っていた。
「愛してるよ、ダッチェス。ごめんね」
 ダッチェスはいろんなことを言いたかったが、いまはこれしか言葉が見つからなかった。「愛してるよ、ママ。わかってる」


  2


 丘の頂上で大地は切れ落ちていた。
 紺碧の空に日が昇ると、ダッチェスは後部席に弟とならんで座り、弟の小さな手を握った。
 ウォークはふたりの住む通りにゆっくりとパトロールカーを走らせ、傷んだ家の前に駐めると、あとについて中にはいってきた。朝食を作ろうとしたが、戸棚が空っぽだったので、〈ロージーのダイナー〉までひとっ走りしてパンケーキを買ってきて、ロビンがそれを三枚平らげるのをにこにこと見ていた。
 ダッチェスがロビンの顔を洗って服を出してやってからポーチに出ていくと、ウォークは階段に腰かけていた。ケープは静かに目覚めはじめており、郵便配達が通りすぎ、隣家のブランドン・ロックが家から出てきて芝生に水をまきだした。ラドリー家の前にパトロールカーが駐まっているのを誰も気に留めないことが、彼女は悲しくもあればうれしくもあった。
「送っていってやろうか?」
「いい」ダッチェスはウォークの隣に腰をおろして靴紐を結んだ。
「お母さんを迎えにいってやってもいいぞ」
「ダークを呼ぶって言ってた」
 母親に対するウォーカー署長の友情というのが実際はどんなものなのか、ダッチェスは知らなかったが、どうせファックしたいだけだろうと思っていた。町の男たちはみんなそうだ。
 ダッチェスは荒れた庭をながめた。去年の夏は母親と一緒に花を植えた。ロビンは小さなじょうろを買ってきて、頬を紅潮させながら何度も水を運んでは、土を軟らかくした。ルリカラクサ、インドアオイ、マウンテンライラック。
 みんな放置されて枯れた。
「お母さんは話してくれたか?」ウォークが優しく尋ねた。「ゆうべのこと、わけを教えてくれたか?」
 何度訊かれても慣れない残酷な質問だった。わけなどないのだから、たいていは。でも、今回はウォークがなぜそれを訊くのかわかっていた。彼女もヴィンセント・キングのこと、崖のそばの墓地に埋葬された叔母シシーのことは知っていたからだ。シシーの墓は誰でも知っていた。白ちゃけた木の柵のむこうに、生き延びられなかった赤ん坊や、親の祈る神と同じ神に命を奪われた子供たちとともに眠っている。
「なんにも言ってなかった」
 背後でロビンが出てくる音がした。ダッチェスは立ちあがって弟の髪を整え、唾をつけて頬の歯磨きをこすり落とすと、鞄をのぞきこんで絵本と連絡帳と水筒がはいっているのを確かめた。
 鞄を背負わせてやるとロビンはにっこりし、ダッチェスもにっこりと笑いかえした。
 パトロールカーが長い通りを走り去っていくのをならんで見送ると、ダッチェスは弟に腕をまわし、ふたりは歩きだした。
 隣人はホースの水を止めると、かすかな跛行を懸命に矯正しながら庭のはずれまで歩いてきた。ブランドン・ロック。がっちりして、日焼けしている。片耳にピアス、もさもさの長髪フェザード・ヘア、絹のローブ。ときどきガレージのドアをあげてメタルをガンガンかけながらベンチプレスをしている。
「またか、おまえらの母ちゃん? 誰か社会福祉に電話すべきだな」鼻が折れたまま治っていないような声。片手にダンベルをさげ、ときおりそれをくいくいと持ちあげる。右腕のほうが左より明らかに太い。
 ダッチェスはブランドンのほうを向いた。
 風が吹いてきて、ローブの前がひらいた。
 ダッチェスは鼻をしかめた。「児童への公然猥褻。お巡りさんに知らせなくっちゃ」
 ブランドンの眼が険しくなり、ロビンは姉を引っぱって歩きだした。
「ウォークの手が震えてたの見た?」ロビンは言った。
「朝はいつもひどいんだよ」
「なんで?」
 ダッチェスは肩をすくめたけれど、ほんとうは知っていた。ウォークと母親、ふたりに共通する問題と、それへの対処のしかたを。
「ゆうべママは何か言ってた? あたしが寝室にいたとき」ダッチェスが部屋で宿題に、自分の家系図づくりに取り組んでいたら、ロビンがドアをドンドンとたたいて、ママがまたおかしくなったと知らせてきたのだ。
「自分の写真を出してきてた。むかしの、シシーとおじいちゃんと一緒のやつ」母親の写真に写るその背の高い男を最初に見たときから、ロビンは自分に祖父がいることを受け入れていた。自分は一度も会ったことがないのも、母親が祖父のことをまったくといっていいほど口にしないのも、気にならないようだった。ロビンには親類という無意味な名前のクッションが必要なのだ。自分はそれほど無防備ではないと思わせてくれるものが。いとこ、おじ、日曜日のフットボールとバーベキュー、そういうものにロビンは憧れていた。クラスのほかの子たちと同じような暮らしに。
「ヴィンセント・キングのこと、知ってる?」
 ダッチェスは弟の手をつかんで道を渡り、フィッシャー通りにはいった。「なによ、あんたどんなことを知ってんの?」
「シシー叔母さんを殺したんだよ。三十年前、七〇年代に。男がみんな口ひげを生やしてて、ママがへんてこな髪型をしてたころ」
「シシーはね、あたしたちの叔母さんじゃないの、ほんとは」
「叔母さんだよ」とロビンはあっさり言った。「お姉ちゃんにもママにも似てるもん。そっくりだよ」
 ダッチェスは何年もかけておおよその事情をつかんでいた。酔った母親から聞いたり、サリナスの図書館で新聞記事を調べたりして。この春にはその同じ図書館で家系図づくりの調べものもした。ラドリー家の家系をさかのぼっていたら、びっくりして本を床に落っことした。ビリー・ブルー・ラドリーというお尋ね者の無法者とつながりのあることがわかったのだ。その発見は彼女を大いに喜ばせ、授業中にみんなの前で発表したときには、鼻が高いなんてものではなかった。けれども、父方のほうはまだすべて空白で、何ひとつわからず、それが母親との険悪なやり取りを招いた。母親は一度ならず二度までも、行きずりの男を相手にして妊娠し、ふたりの子供を、自分にはいったい誰の血が流れているのかと、終生悩ませることになったのだ。‟尻軽”、彼女は小声でそうつぶやき、その結果、一カ月間遊びにいくのを禁じられた。
「知ってる? キングはきょう刑務所から出てくるんだよ」重大な秘密だというようにロビンは声をひそめた。
「誰に聞いたの?」
「リッキー・タロウ」
 リッキー・タロウの母親は、ケープ・ヘイヴン警察で通信指令係をしている。
「リッキーはほかになんて言ってた?」
 ロビンは眼をそらした。
「ロビン?」
 彼はあっさり降参した。「あんな男はフライにされちゃうべきだったって。でも、そう言ったらドロレス先生にしかられた」
「フライにされるって、あんたどういう意味だか知ってんの?」
「知らない」
 ダッチェスはロビンの手を引いて道を渡り、ヴァージニア・アヴェニューにはいった。家々の敷地が少し広くなった。ケープ・ヘイヴンの町はゆるやかに海へとくだっており、土地価格は下へ行くほど高くなる。ダッチェスは身の程を知っていた。彼女の家は海からいちばん遠い通りにあるのだ。
 ふたりは生徒たちの集団のあとについた。ロサンジェルス・エンジェルスとドラフトについてのおしゃべりが聞こえてきた。
 門の前まで行くと、ダッチェスは弟の髪をもう一度さっとなでつけ、シャツのボタンがきちんとかかっているのを確かめた。
 幼稚園はヒルトップ中学の隣にあった。ダッチェスはいつも休み時間はフェンスぎわで弟の様子を見て過ごした。ロビンは笑顔で手を振り、ダッチェスは弟を見守りながらサンドイッチを食べるのだ。
「いい子でね」
「うん」
「ママのことはなんにも話さないんだよ」
 抱きしめて頬にキスをしてから中に入れ、ドロレス先生に迎えられるまで見ていた。それからまた生徒たちでいっぱいの歩道を歩きだした。
 顔を伏せたまま階段をのぼった。そこに数人の生徒が集まっていた。ネイト・ドーマンとその仲間たちだ。
 ネイトはシャツの襟を立て、痩せこけた二の腕まで袖をまくりあげていた。「おまえんちのお袋、またやらかしたってな」
 笑いがいっせいにあがる。
 ダッチェスはまっすぐにネイトと向き合った。
 ネイトはにらみかえした。「なんだよ」
 彼女はその眼を見すえた。「あたしは無法者のダッチェス・デイ・ラドリー、おまえは臆病者のネイト・ドーマンだ」
「あほか」
 ダッチェスが一歩詰めよると、ネイトの喉がごくりと動いた。
「こんどうちの家族のことを口にしたら、首を斬り落とすからな、このチンカス」
 ネイトは笑おうとしたが、あまりうまくいかなかった。ダッチェスにはとかくの噂があった。かわいい顔と華奢な体をしているくせに、人が変わったようにキレるので、彼の仲間たちでさえ近づこうとしない。
 ダッチェスはネイトを押しのけると、ふうっと大きく息を吐く彼を尻目に校内へはいっていった。つらい一夜のせいで、今日もまた眼を充血させて。


  3


 浸食されつつある崖がくねくねと一キロ半つづいたあと、道は湾をめぐってクリアウォーター入江の背の高いオークの並木の奥へ消えている。その道をウォークは時速五十キロ以下でゆっくりとたどった。
 ダッチェスとロビンと別れると、キング邸まで車を走らせて私道の落ち葉を袋に詰め、庭のごみをひろった。三十年間、毎週そこの手入れをしていた。変わらない習慣のひとつだ。
 出勤すると、受付にいるリーア・タロウに声をかけた。人員はふたりきりなので、ウォークは二十四時間いつでも呼び出しに応えなくてはならない。その窓からいくつもの季節が過ぎるのをながめてきた。別荘客が来ては去っていくのを。ワインやチーズやチョコレートを詰めた贈り物のバスケットを残して。おかげで彼は毎年ベルトに新たな穴をあけるはめになった。
 警察にはルーアンという補助員もいて、必要になると来てくれた。パレードやショーのあるときや、たんに庭いじりに飽きたときなど。
「今日の準備はできてます? キングの帰還の」
「三十年前からできてるさ」ウォークは笑みを抑えようとした。「ひとまわりしてくる。帰りにペイストリーを買ってくるよ」
 いつもの朝と同じようにメイン通りをのんびりと歩いていった。練習した歩きかたで、テレビで見た警官のように大股に。私立探偵マグナムみたいな口ひげをたくわえてみたり、《科学捜査ファイル》を見ながらメモを取ったり、ベージュのレインコートを買ったりもした。ほんものの事件が起きたとしても、準備は万全だった。
 街灯から旗が下がり、ぴかぴかのSUVが数珠つなぎに駐まり、緑の日よけが塵ひとつない歩道に影を落としている。パターソン夫妻のメルセデスが二重駐車していたが、切符は切らないことにした。こんどカーティスに会ったときに、それとなく警告しておけばいいだろう。
 肉屋のそばまで来ると足を速めたが、ミルトンのほうが先に出てきてポーチに立った。赤い飛沫の飛んだ白衣を着て、手のひらに染みついた血をそれで拭えるとでもいうように布巾を持っている。
「おはよう、ウォーク」ミルトンは毛深かった。体じゅうに巻き毛がみっしりと生えていて、日に三回は眉を剃らないと、通りがかりの動物園職員に麻酔銃で撃たれかねない。
 ウィンドウには、きのうまでメンドシーノ山地を歩きまわっていたような新鮮な鹿がぶらさがっていた。ミルトンは狩りをする。猟期にはいつも店を閉めて、鹿撃ち帽をかぶり、ジープ・コマンチにライフルとビニールシートと、クーラーボックスいっぱいのビールを積んで出かけていく。ウォークも一度、言い訳の種が尽きてつきあったことがあった。
「あいつとはもう話してくれたか? ブランドン・ロックとは」ミルトンはその名前を一語一語、吐き捨てた。礼儀正しい会話の途中で息切れでもしたように。
「まだこれからだ」
 ブランドン・ロックのマスタングは点火不良がひどく、最初にミスファイアを起こしたときには通りの半分が通報してきた。いまでは生活妨害になりつつある。
「聞いたよ、スターのこと。まただってな」ミルトンは血だらけの布巾で額の汗を拭いた。噂では肉しか食べないらしく、その影響が現われてきている。
「もうだいじょうぶだ。大したことはない、今回は気分が悪くなっただけだ」
「全部見てたよ。困ったもんだな……子供たちがいるってのに」
 ミルトンはスターの家のま向かいに住んでおり、スターと子供たちに強い関心を寄せていた。それは衰退中の【近隣監視団/ネイバーフッド・ウォッチ】を率いているからというより、孤独な暮らしのせいだった。
「きみはなんでも見てるな。警官になればよかったんじゃないか」
 ミルトンは手を振った。「おれは監視団で手一杯さ。こないだの晩なんか10‐51だ」
「レッカー車要請か」
 ミルトンは警察のテン・コードをやたらと、それもまちがえて使う。
「あんたに親身になってもらえてスターは運がいいよ」ミルトンはポケットから爪楊枝を取り出して、前歯にはさまった肉片をせせりはじめた。「ヴィンセント・キングのことを考えてたんだよ。今日なのか? みんなそう言ってるけど」
「ああ」ウォークはかがんでソーダの空き缶をひろい、ごみ缶に放りこんだ。首筋に日射しが暑い。
 ミルトンはひゅうと口笛を鳴らした。「三十年だぜ、ウォーク」
 十年のはずだったのだ。最悪でも十年のはずだったのに、中で喧嘩があったのだ。ウォークは詳細な報告を受けておらず、幼なじみがふたつの死を背負ったことしか知らなかった。十年が三十年になり、過失致死が殺人に、少年が大人になったことしか。
「いまでもあの日のことを思い出すよ。みんなで林を歩いたことを。じゃ、あいつは岬に戻ってくるのか?」
「おれの知るかぎりでは」
「あいつに必要なものがあったら、ここへよこしてくれていいぞ。というより、どうだろうな、ウォーク。牛足を二本ばかり取っておいてやるってのは。どう思う?」
 ウォークは言葉を探した。
「そうか」ミルトンは咳払いをして下を向いた。「今夜は……スーパームーンだ。ちょっとした眺めになるはずだし、ちょうど新しい〈セレストロン〉の望遠鏡を買ったところでもあるし。いや、まだいろいろと設定しなきゃならないんだけど、もし寄ってみたかったら――」
「今夜はいそがしいんだ。またこんど」
「わかった。でも、勤務のあとここへ来てくれ、首肉を持ってってもらいたいから」ミルトンは鹿のほうへ頭を傾けた。
「頼むよ、おい、やめてくれ」ウォークはあとずさりすると、腹をたたいてみせた。「体重を減らさないと――」
「だいじょうぶ、赤身だから。とろ火で煮込めばなかなかのもんだ。心臓ハツを進呈してもいいんだけど、おれがいちど焼き目をつけると風味が歌うんだ」
 吐き気がこみあげてきて、ウォークは眼を閉じた。手が震えだした。ミルトンが気づいて、さらに何か言いたそうにしたので、急いで歩きだした。
 あたりに人影がなかったので、錠剤をふたつ口に放りこんだ。自分の依存ぶりを痛切に意識した。
 カフェや商店の前を通りすぎ、何人かに挨拶し、アスター夫人が食料品の袋を車に積みこむのに手を貸し、フェリックス・コークがフラートン通りの交通について意見を述べるのを拝聴した。
 それから〈ブラントのデリカテッセン〉に立ちよった。ペイストリーとチーズがウィンドウいっぱいにならんでいる。
「ちょっと、ウォーカー署長」
 アリス・オーエンだった。髪をひっつめにしてトレーニングウェアを着ているというのに、顔にはしっかりと化粧をしていて、雑種の小型犬を抱いている。犬はあばらを一本一本数えられるほど痩せこけてぷるぷる震えており、ウォークが手を伸ばしてなでようとすると、歯をむきだした。
「買い物をしてくるあいだ、レイディの番をしててくださらない? すぐに戻るから」
「いいですよ」ウォークはリードに手を伸ばした。
「ああ、下におろしちゃだめ。切ったばかりで爪が痛むの」
「爪が?」
 アリスは犬を彼の腕の中に押しこんで、店内にはいっていった。
 ウィンドウ越しに見ていると、注文をすませてからほかの別荘客と立ち話を始めた。十分後、犬はまだウォークの顔にはあはあと息を吐きかけていた。
 ようやく出てきたアリスは両手が袋でふさがっていたので、ウォークは彼女のSUVまで犬を抱いていって、彼女がそいつを乗せるまで待っていた。アリスは礼を言い、紙袋のひとつに手を突っこんでカンノーリを一本くれた。ウォークは受け取るまいとして、ひとしきり遠慮したあと、自分の姿がメイン通りから見えないところまで行くと、ふた口でぺろりとそれを食べてしまった。
 キャシディ通りを歩いていき、途中から近道をしてアイヴィー・ランチ・ロードにはいった。スターの家まで行くと、しばらくポーチに立ったまま、中でかかっている音楽に耳を澄ました。
 ノックもしないうちにスターがドアをあけ、愛想をつかすのを不可能にするような笑顔でウォークを迎えた。抜け殻ではあっても美しく、打ちのめされてはいても眼はきらきらしている。オーブンで何か焼いていたのか、ピンクのエプロンを着けている。だが、戸棚は空っぽなのをウォークは知っていた。
「こんにちは、ウォーカー署長」
 ウォークはつい、にっこりしてしまった。
 扇風機がゆっくりとまわり、石膏ボードがところどころむきだしになり、急いで日光を遮断しようとしたのか、カーテンがリングから引きちぎられている。大きな音でラジオがかかり、レーナード・スキナードがアラバマの歌をうたうなか、スターは踊りながらキッチンをまわり、ビールの空き瓶やラッキーストライクの空箱をごみ袋に入れていく。ウォークににやりと笑いかけると、まるで子供のように見えた。彼女にはいまだにそんなところがあった。傷つきやすく、問題を抱えた、問題児。
 スターはくるりと一回転してから、アルミ箔の灰皿を袋に放りこんだ。
 暖炉の上に一枚の写真があった。十四歳のふたりが、未来が襲いかかってくるのを待っている。
「頭の調子は?」
「最高。いまははっきりしてるよ。いろいろありがとう……ゆうべは。でも、あたし、必要だったのかもしれないと思うんだ。最後にもう一度ね。いまはもうちゃんとしてる」スターは頭をつつくと、踊りながら片付けをつづけた。「子供たちはさ、何も見なかったよね?」
「今日はそんなことを話題にする日か?」
 音楽がフェイドアウトすると、スターはようやく動きまわるのをやめて額の汗を拭い、髪を後ろで結んだ。「時は流れるものね。ダッチェスは知ってるの?」
 自分の娘のことをウォークに訊いていた。
「町じゅうが知ってる」
「あいつ、変わったと思う?」
「おれたちはみんな変わったさ」
「あんたは変わってないよ、ウォーク」賞賛のつもりだったのだろうが、彼には軽蔑にしか聞こえなかった。
 ウォークはもう五年もヴィンセントに会っていなかった。会おうとは何度もしたのだが。当初はグレイシー・キングと一緒に古いビュイック・リーガルで足繁く面会に通った。冷酷で厳しい判決だった。十五歳の少年を成人刑務所に送るというのは。スターの父親が証言台に立ち、シシーのことを語った。どんな少女になりつつあったかを。検察は現場の写真を見せた。幼い脚を、血まみれの小さな手を。ハッチ校長が呼ばれて、ヴィンセントの素行について証言した。不良だったと。
 それからウォークの番になった。父親が茶色のシャツを着てきまじめな顔で傍聴していた。タロウ建設の職長で、会社はふたつ離れた町に夢を煙にしてしまう工場を持っていた。同じ年の夏に、ウォークは父親に連れられてオリエンテーションに行った。オーバーオールを着て立ったまま、灰色の人々を見ていた。内臓のように入り組んだパイプと足場を。金属の大伽藍を。
 その法廷でウォークは父親の誇らしげな視線に迎えられ、真実をありのままに述べて、友の運命を決定した。
「これでもうあたし、後ろをふり返らなくてすむ」スターは言った。
 ウォークがコーヒーをいれ、ふたりでそれを持ってデッキに出た。ブランコにとまっていた鳥たちがもの憂く飛び立ち、ウォークは古びた椅子のひとつに腰をおろした。
 スターは顔を扇いだ。「あいつを迎えにいくの?」
「来るなと言われたよ。手紙を書いたんだけど」
「でも、行くんでしょ」
「行く」
「あいつには話さないでね……あたしのことやなんかは」スターは片膝を上下に揺すり、椅子を指で連打した。真の浄化が訪れる前の全精力。
「でも、きっと訊かれる」
「ここには来てほしくないの。無理だと思う、あたしの家じゃ」
「わかった」
 スターは煙草に火をつけて眼を閉じた。
「ところで、いいカウンセラーがいるんだ。新しいプログラムを――」
「やめて」とスターは片手をあげてさえぎった。「言ったでしょ。それはもう終わったの」
 ふたりはカウンセリングを試していたことがあった。ウォークが長年にわたり毎月、スターをブレア・ピークの精神科医まで連れていっていたのだ。その医者は優秀だったらしく、当時は経過も良好だった。ウォークは彼女をおろすと、自分はいつもダイナーに行って時間をつぶしていた。三時間か、ときにはもう少したつと、スターから電話がかかってくるのだ。日によっては子供たちがその長いドライブにつきあうこともあり、自分たちの無邪気さが置き去りにされ、遠ざかっていくあいだ、後ろで黙りこくったまま、じっと前を見つめていた。
「そうはいかないさ……このままってわけには」
「まだ薬をやってるの、ウォーク?」
 ちがうんだと伝えたかったが、どう伝えればいいのかわからなかった。ふたりは病人だった。どこからどう見ても。
 スターは手を伸ばしてウォークの手を握りしめた。悪気はないの。
「シャツにクリームがついてるんじゃない?」
 ウォークは自分の胸に眼をやり、スターは笑った。
「これがあたしたちなの。あたし、いまでもときどき感じるんだから」
「何を?」
「十五歳の気分を」
「人は年を取るんだぞ」
 スターはみごとな煙の輪を吐き出した。「あたしは取らないの、ウォーク。あんたはどんどん老けていくけど、あたしはね、まだ人生を始めたばっかりなの」
 ウォークは派手に笑い、やがて彼女も笑いだした。それが彼ら、ウォークとスターだった。三十年の歳月がみるみるほぐれ、あとには軽口をたたいてふざけあうふたりの高校生だけが残された。
 ふたりはさらに一時間を、安らかな沈黙に包まれて過ごした。口にはしなくても、おたがいひとつのことしか考えていないのはわかっていた。ヴィンセント・キングが帰ってくる。


  4


 ウォークは片眼で海を、重なりあう金色と轟く寄せ波を見ながら車を走らせた。
 百六十キロ東のフェアモント郡矯正施設まで。
 過ちを寄せあつめたように入道雲がわきあがり、運動場の男たちが立ちどまって空を見あげている。
 だだっ広い駐車場にパトロールカーを乗りいれると、エンジンを切った。ブザーの音、男たちの怒声、監禁された魂の放つ孤独な波が、神なき平野へと広がっていく。
 事情はどうあれ、十五歳の少年が送られる場所ではなかった。判事は石のような顔をしたまま、苛烈な矯正の必要性を説いた。ラス・ロマスにある裁判所とはかけ離れた、更生の厳しい実情を。その晩のもたらした被害の大きさにウォークはときどき驚くことがあった。亀裂は八方に広がって新しいものを古いものに、みずみずしいものを朽ちたものに変え、多くの人生に暗い影を落とした。それはスターにも見て取れるし、スターの父親にも見て取れたが、誰よりもダッチェスにはっきりと見て取れた。ダッチェスは自分が生まれるずっと前から、その晩を背負っていた。
 トランクをコンコンとたたかれ、ウォークは車をおりて所長のカディに笑いかけた。すらりとしていて、背が高く、にこにこしている。受刑者たちにもまれた非情な男の外見とは裏腹に、カディはいつも愛想がよくて親切だった。
「ヴィンセント・キングか」とカディは笑顔で言った。「仲間の面倒は自分たちで見るってわけだな。ケープ・ヘイヴンはどうだ? いまでも楽園の面影があるか?」
「ええ」
「正直なところ、ヴィンセントみたいなやつがあと百人いてほしいよ。看守たちはあいつがいるのをたいていの日は忘れると言ってる」カディは歩きだし、ウォークもならんで歩きだした。
 ゲートを通過し、もうひとつ通過して、緑がかった色に塗られた背の低いずんぐりした建物にはいった。カディが言うには、その色はどの季節も華やかにするという。「人間の眼にいちばん安らぐ色でね。許しと自己変革を表現してる」
 ウォークは刷毛を手にしたふたりの男が口を結んで一心に幅木を塗っているのを見つめた。
 カディはウォークの肩に手を置いた。「いいか。ヴィンセント・キングは刑期を務めあげたが、それを本人に納得させるのは容易じゃないぞ。困ったことがあったら電話をくれ」
 ウォークは待合室に立って、広大な風景のなかで運動場を周回する男たちをながめた。みなカディから恥の罪を教えられたというように頭を起こしている。風景を暴力的に切り裂いている鉄条網さえなければ、息を呑むような光景だっただろう。麦畑に立つ農民と子供たちを描いたジョン・スチュアート・カリーの水彩画《我らがすばらしき大地》を髣髴させる。つなぎ服の男たちはみなかつては、迷える子供だったのだ。
 ヴィンセントが面会者を受け入れなくなって五年がたっていたので、いまでも青いその眼がなければ、ウォークにはそれがヴィンセントだとはわからなかったかもしれない。ひょろりとして、がりがりに痩せ、血色も悪く、入所当時の生意気な十五歳の面影はどこにもなかった。
 だがそこで、ヴィンセントがウォークに気づいてにっこりと微笑んだ。それは思い出せないほど多くのトラブルにウォークを巻きこみもすれば、救い出してもくれた笑みだった。ヴィンセントは健在だった。人は変わるものだと世間がいくら言おうと、友は健在だった。
 ウォークは一歩近づき、抱きしめようとしかけたが、思いなおしてゆっくりと手を差し出した。
 ヴィンセントはそれがたんなる挨拶だということを忘れたかのようにその手を見た。それから軽く握った。
「来るなと言っただろ」淡々とした静かな口調で言った。「でも、ありがとう」彼の動作には恭しさのようなものがあった。
「会えてうれしいよ、ヴィン」
 ヴィンセントは書類に必要事項を書きこみ、看守がひとり、そばでそれを見守った。三十年ぶりに自由の身になる男など、とくに珍しくもないのだ。カリフォルニア州のありふれた一日。
 三十分後、最後のゲートを通過したところでカディが現われ、ふたりはふり向いた。
「娑婆は厳しいぞ、ヴィンセント」カディはヴィンセントをすばやくしっかりと抱きしめた。ふたりのあいだに何かが交わされていた。三十年にわたる節度ある関係がついに破られたのだろうか。
「半数以上だ」カディはそのまましばらくヴィンセントを離さなかった。「半数以上がここに戻ってくる。そのうちのひとりになるなよ」
 もったいをつけたその台詞を、カディはこれまでに何度口にしたのだろうか。
 ふたりはならんで歩きだした。パトロールカーまで来ると、ヴィンセントはボンネットに手を置いてウォークを見た。
「制服のおまえは初めて見るな。写真をもらって気絶しかけたが、こうして実物を見ると、たしかにお巡りだ」
 ウォークはにやりとした。「ああ」
「お巡りと仲よくできる自信はねえな」
 ウォークは笑い、安堵のあまりへたりこみそうになった。
 初めはゆっくりと運転した。ヴィンセントはほぼ何にでも眼をやり、窓をおろして風を受けていた。ウォークは話しかけたかったが、最初の数キロは夢の中にでもいるようにのろのろと車を走らせた。
「思い出すよ、セントローズ丸にこっそり乗りこんだときのことを」ウォークは努めてさりげない口調で言ったが、会話の始めかたを学ばないまま大人になってしまった気分だった。
 ヴィンセントは顔をあげ、その記憶ににやりとした。
 その日は十歳の夏休みの初日で、ふたりは早朝に待ち合わせた。海まで行くと、乗ってきた自転車を隠してトロール船に忍びこんだ。防水シートの下で荒い息をしているうちに日が昇り、光がシートの内側まで届いてきた。ダグラス船長と乗組員たちが果てしない海原へ船を向けたときのエンジンの鼓動を、ウォークはいまでも憶えていた。這い出していくと、船長は怒りもせずに、ふたりを一日預かると無線で連絡した。その数時間ほどウォークは熱心に働いたことはなかった。板や箱をごしごしこすった。魚の血のにおいもその気分には、見知らぬ暮らしの味にはかなわなかった。
「ダグラス船長はまだ働いてるぞ。アンドルー・ウィーラーという男はチャーター船をやってる。船長はもう八十歳にはなってるはずだ」
「あの日おれはお袋に八つ裂きにされたよ」ヴィンセントはそこで咳払いをした。「ありがとう。葬式のこと、何もかもやってくれて」
 ウォークはバイザーをおろして太陽をさえぎった。
「じゃあ、あいつのことを教えてくれるか?」ヴィンセントは姿勢を変え、脚を伸ばした。ズボンの裾が二センチばかり長い。
 ウォークは踏切で停まり、貨物列車が通過していった。錆色の鋼鉄の箱が次々に、キーキーと。
 線路を渡り、鉱山ができたときに一緒にできたような町にはいると、ようやくウォークは口をひらいた。「スターは元気だ」
「子供がいるんだろ」
「ダッチェスとロビンだ。憶えてるか、初めてスターに会ったときのこと?」
「ああ」
「ダッチェスを見たら、あのときへ逆戻りするぞ」
 ヴィンセントは遠い眼をした。友の心がどこにあるのかウォークにはわかった。スターの父親が初めて岬にビュイック・リヴィエラを乗り入れてきた日だ。ふたりは自転車を漕いでいって、トランクに詰めこまれた家財を、窓に押しつけられた衣類やケースや箱を見た。〈ステルバー〉のハンドルを握ったまま、ならんでうなじを日に焼かれていると、まず父親がおりてきた。長身でがっしりしていて、おまえらが何を考えているかはお見通しだといわんばかりに、じろじろとふたりを見た。だが、ふたりはまだ子供で、ウォークの記憶にあるかぎり、関心があるのは、ヴィンセントの占い玩具〈マジック8ボール〉に告げられたとおりの幸運をつかんで、ウィリー・メイズの〈プロ〉カードを見つけることだけだった。それから父親は、まだ眠っている幼い女の子を、シシー・ラドリーを車から抱え出し、その子の頭を肩に載せたまま、初めての通りを見渡した。ふたりが向きを変えて帰ろう、ウォークの家の庭に造っているツリーハウスに戻ろうとしかけたとき、後ろのドアがあいて、見たこともないほど長い脚が現われた。ヴィンセントは悪態をつき、口をあけたままその少女を見つめた。自分たちと同い年ぐらいの、ジュリー・ニューマー級美人だった。少女はおりてくると、ガムを噛みながらふたりを一瞥した。うっひゃあホーリー・シット、ヴィンセントはまた悪態をついた。それから少女は、父親に連れられてクラインマン夫妻の旧宅にはいっていったのだが、はいる直前に首をひねってふたりのほうを見た。にこりともしない冷ややかな一瞥だったが、その視線は炎となってヴィンセントの胸を貫いた。
「寂しかったよ。おまえがいいと言ってくれれば、面会に行ったのにな。毎週だって行ったのに」
 ヴィンセントはいかにもテレビを介して人生を送ってきた男らしく、風景から眼を離さなかった。
 セントラル・ヴァレー・ハイウェイにはいると、ハンフォード近郊の食堂に寄ってハンバーガーを食べた。ヴィンセントは食べかけのまま、窓の外に眼を向けて、母親と子供や、生きてきた年月をすべて背負っているかのような腰の曲がった老人を、じっと見つめていた。何を見ているのだろうかとウォークは気になった。名前を知らない多くの車か、テレビでしか見たことのない店か。一九七五年から千年紀の変わり目をはさんで今日まで、世の中の変化をそっくり見逃し、かつては空飛ぶ車やロボット・メイドの世界に思えた二〇〇五年に、いきなりやってきたのだ。
「家のほうは――」
「おれが様子を見てる。修理が必要だ。屋根、ポーチ、板の半分は腐ってる」
「そうか」
「ディッキー・ダークという開発業者がいて、夏前は毎月あそこをうろついてた。もし売る気があるのなら――」
「ない」
「そうか」言うことは言った。ヴィンセントが金を必要としているのなら、あの家を売ることはできる。海に面したサンセット・ロードに建つ最後の家を。
「じゃ、そろそろ家に帰るか?」
「おれはいま家を出てきたばかりだぞ」
「いや、ヴィン、それはちがう」
 ふたりはファンファーレもないままケープ・ヘイヴンに帰りついた。親しい顔も、パーティも、ばか騒ぎもない。眼下に太平洋が、果てしない海がひらけると、ウォークは友が大きく息をついたのに気づいた。岬とそのむこうの松林に、豪邸が建ちならんでいるのが見える。
「建てちまったんだ」ヴィンセントは言った。
「ああ」
 当初は反対もあったのだが、充分ではなく、金が落ちるという期待の声にかき消された。ミルトンのように商売をやっている連中が次々に発言し、努力も限界だと訴えた。エド・タロウも、自分の建設会社は事業を継続することが困難になっていると述べた。
 ケープ・ヘイヴンは断崖に彫りこまれたのどかで変わらぬ町だ。アナハイムとはちがうのだ。ウォークは自分の子供時代の上に、なんとしても手放したくない思い出の上に、新たな煉瓦が積みあげられるたびにそう思った。
 友の手を盗み見ると、無数の深い傷跡が拳を横切っていた。むかしから喧嘩っ早いやつだった。
 ついにパトロールカーは坂をのぼってサンセット・ロードにはいった。キング家の旧宅が、晴れわたった空の下に歓迎されざる暗い影のように建っていた。
「まわりの家がなくなってるな」
「落ちたんだ。崖がどんどん崩れてるんだよ、デューム岬みたいに。最後の一軒はきのうだ。フェアローン邸は。おまえのうちは崖からたっぷり離れてるし、二年前に防波堤が造られたからな」
 ヴィンセントは犯罪現場さながらにテープを張りわたしてある現場を見た。そのむこうには、通りが孤立しない程度の距離に家が数軒あったものの、どれもかなり離れているため、いちばんすばらしい眺めは彼の家が独占していた。
 ヴィンセントはパトロールカーをおりて家の前に立ち、腐った破風とはずれた雨戸をしげしげと見た。
「草刈りはしておいた」
「ありがとう」
 ウォークはヴィンセントについて曲がりくねった小径を歩いていき、階段をのぼり、ひんやりした薄暗い玄関ホールにはいった。花柄の壁紙が七〇年代と無数の懐かしい記憶を呼びさます。
「シーツは敷いてある」
「ありがとう」
「冷蔵庫に食料も入れておいた。チキンと――」
「ありがとう」
「何度も言わなくていいよ」
 暖炉の上に鏡があったが、ヴィンセントは見ずに通りすぎた。動きかたがむかしと変わったとウォークは思った。一歩一歩が、位置取りと判断についての教訓の賜物なのだと。最初の数年がつらいのはわかっていたが、それは夜ごと泣き明かすつらさではなく、ハンサムな少年が凶悪きわまりない男たちのなかにいるつらさだった。ウォークとグレイシー・キングは手紙を書いた。判事や最高裁判所ばかりか、ホワイトハウスにまで。せめて隔離してほしいと。だが、何もしてもらえなかった。
「一緒にいてほしいか?」
「帰って仕事をしろよ」
「あとで様子を見にくる」
 ヴィンセントは戸口まで送ってくると、手を差し出した。
 ウォークは彼を、帰ってきた友を引きよせて抱きしめた。ヴィンセントがたじろぐのは、体を硬くするのは、意識すまいとした。
 そのときエンジン音が聞こえ、ふたりは通りを見た。キャデラック・エスカレードが停まった。ディッキー・ダークだ。
 ダークがおりてきた。大きな体を似合わないスーツのようにまとっている。背中を丸め、下を向いて。服装はいつも黒ずくめだ。上着も、シャツも、ズボンも。きざで、わざとらしい。
「ヴィンセント・キングか」ダークの声は太く、重々しかった。「ディッキー・ダークだ」笑顔は見せない。決して。
「手紙は受け取ったよ」ヴィンセントは言った。
「町はさぞ変わっただろう」
「ああ。見憶えのあるものといえば願い事の木ぐらいだ。あの根元の穴によく煙草を隠してたのを憶えてるか、ウォーク?」
 ウォークは笑った。「〈サム・アダムズ〉の六本パックもな」
 ダークはようやく顔をあげると、ウォークの眼をとらえ、ぞっとするような眼つきでにらんだ。それから家をながめまわした。「最前列の最後の一軒だ。奥の土地もきみが所有している」
 ヴィンセントはウォークの顔を見た。
「百万払おう。実勢価格は八十五万だ、現状では。市場は上向いてる」
「売るつもりはない」
「後悔するぞ」
 ウォークは微笑んだ。「まあまあ、ダーク。この男は帰ってきたばかりなんだ」
 ダークはなおもしばらくにらんでいた。それからふたりに背を向けると、大きな影を遠くまで落とし、悠然と帰っていった。
 見送るヴィンセントの眼は、ウォークには見えないものが見えるかのように、じっとダークを追っていた。


30年前の事件の罪と罰。過去に囚われて生きる警察署長ウォークと、世の理不尽に抗いながら生きる少女ダッチェス。ヴィンセント・キングの帰還は、彼らにどのような影響を与えるのか……。そして新たな悲劇が起こり――。
続きは書籍版でお楽しみください。