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読書は人間から逸脱していくプロセスに他ならない。#闇のSF読書会①

闇の自己啓発会は3月某日、#闇のSF読書会 をオンラインで行いました。今回の読書会は主に早川書房から刊行されているSF諸作について語るものですが、各作品の感想に入る前に、まずはメンバーそれぞれのSFを読むきっかけやモチベーションについて意見交換を行いました。ル・グィンやマーク・フィッシャーに触れつつ、「この肉体を捨てたい」「記憶の外部化」「脳内アプリ」などのテーマについて思い思いに話しているので、今回の記事ではその部分を公開します。

■参加者一覧

役所【暁】
編集者。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に魂を囚われている。自粛中に読んで印象的だった作品は、小川一水『天冥の標』。

【江永】泉
物体。ホラーゲーム実況動画を視聴していたら朝が来てしまう。自粛中に読んで印象的だった作品は、酉島伝法『るん(笑)』。

【木澤】佐登志
文筆家。生き物と死に物の中間を占める。好きな作家は矢部嵩。

【ひで】シス
エンジニア。食事のことを考えずに済ますために、最近Base Breadを24個買って消費中。

■読書は人間から逸脱していく過程

 まずは皆さんがSFを読むようになったきっかけを聞いていければと思います。僕はSFをそんなに読んでいるわけではないんですけど、触れ始めたきっかけとしてはいくつかあって。ひとつはアニメ『攻殻機動隊Stand Alone Complex』。第二話で病弱な肉体を捨てて戦車に脳みそを乗っける男が出てくるんですけど、その場面を見た時に僕のなかで初めて、「この人物は僕自身だ。そして自分もこうなりたいのだ」という思いが生まれたんです。その思いが自分の中で、SFへの強いあこがれとして今も存在し続けています。そして僕が戦車に脳みそを乗っけたいのは、自分のぼろぼろの体で生き続けることが苦しいからであって、現実の問題と切り離せないんですよね。切実な問題として、戦車に脳みそを乗っけたいと思ったわけで。SFの想像力に救われた面があるんです。
もうひとつのきっかけは、自分が現実社会と折り合いがつかずに苦しんでいた時に出会った小説でした。自分はその当時、自己啓発は読まないまでも著名な哲学書などを読んでいたのですが、その中で特定の人種・性別・属性への雑なステレオタイプなどが並べられているのを見てムカムカしたし、自分をさらに傷つけるような言葉を本のなかでも見て、逃げ場がなくてどうしようもなくなっていました。そのときに知人にすすめてもらったのが上田早夕里『華竜の宮』と飛浩隆『グラン・ヴァカンス』でした。読んでみたら、暗い現実とはまた違う世界を見せてもらったり、こういう世界も有り得るのかなと思わせてくれたり。SFってそれまで自分の中でめちゃくちゃハードルが高くて、超絶頭のいい人たちが読んでいるという雑なイメージがあって、僕なんてお呼びじゃないと思っていたんですけど、読んでみると僕でも面白いと思えるし、寄り添ってくれる物語もあるんだと思って。SFの今ここではないけれど、ちょっと頑張れば実現できそうな、その微妙なバランスが好きなのかもしれません。

江永
 役所さんの話とは文脈が違うんですが、この身体だと、できないことがあるなというのは自分も意識させられる機会が幾らかありました。例えば、自転車同士でぶつかりそうになったとき、相手に「気をつけろ、ババア」と凄まれたことがありますが、威圧的な見た目を取ることで、そもそもそういうことを言われないようにする、とかには私の身体だと手間がかかる。あるいは、私は体格差や視力が露骨に反映されるスポーツをやっていたのですが、トーナメントで負けてからトイレで対戦相手に「お前がヘタクソだから楽だった」とか煽られたりしました。ほかにも、お前、使えないなって言われて蹴られたり。これも、トレーニングとかでは、改善しきれない面もある。別の身体を生きることを、なので、異物が集団に紛れる的な発想と別に、そういう文脈でも想像したりします。この身体じゃない身体になる、というのは、異世界転生ものの、ひとつの意義なんだろうなと思います。別の生き物になったりする話と同じように、小さいころに読んだ動物小説のことも思い出します。ちょうど今は馬場翁『蜘蛛ですが、なにか?』がアニメで放映中ですね。二次創作だと、バイオハザードのクリーチャー視点の物語とか、モンスターハンターのモンスターに転生した物語を最近は読んでいました(アマチュア創作では、現状のマーケットで流通する紋切型をさらに重ねたり捩じったりして、何か現状のマーケットでは稀な情念を表現しようとしているように感じる作品も見つかります。そういうのに出会えるのは喜ばしいことです)。

木澤
 「この肉体を捨てたい」というテーマだと、今回採り上げる予定のウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』にもそれに近い描写が出てきますよね。肉体を捨ててサイバースペースにジャックインするという。もっとも、こうした肉体の超越という、肉体を魂がそこに囚われた牢獄と捉えて、魂の肉体からの解放を謳うテーマは、西洋の精神史においてはプラトニズムやグノーシス主義等々、連綿と続いている普遍的なテーマではありますが。

江永
 たしかに。それで言うと「いろんなものに接続する」というのはSFに限らずファンタジーでもある話ですし、本を読んで別人になることもテクノロジーによる自分の拡張であるとは言えそうです。アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』の話も思い出します。私は今、耳にイヤホンを差しながらスマホの画面を見て片手に本を持っていて、ホモ・サピエンス2.0になっていますし。いや、バージョンが旧すぎでしょうか(※ひでシス注:ソサエティでさえ5.0に達そうとしているのに)。

木澤
 それをいったら、読書それ自体が記憶の外部化であり記憶の拡張化でもあるので、読書自体が人間からどんどん逸脱していくプロセスのようなものとも言えるんじゃないですか。

江永
 そういう方面で、ざっくり想像すると、古代の非識字者は例えば石板とかを見ながらあれこれしている(読誦したり感動したりしていたかもしれない)識字者を、サイボーグみたいに見ていたのでしょうか。

ひで
 けものフレンズでかばんちゃんが看板に書かれた文字を読み上げた時、隣にいたサーバルちゃんに「えっ!? かばんちゃん急に何を言い出すの?!」って驚かれていました。文字を書くこと・読むこと、外部に概念を指し示すものや記憶を委ねるという行為は動物的な行為ではない、極めて人間的な行為ですよね。読書が人間的な行為であるという話は今回の『華氏451度』でも引き合いに出されていましたが。

 本を読むというのは、外付けハードウェアを増やしていく過程という感じがします。

江永
 その比喩が本のうちは大丈夫ですが、例えばSNSコミュニティや身の回りの人に適応していくと、どんどん非人間的になりそうですね。

 非人間的ですみません。僕はこの前知人と話していて、加速主義の話題になったとき、自分はあまり詳しくないけど、いまここに木澤さんや江永さんがいてくれたらってめっちゃ思いました(笑)。外付けハードウェアのように連れて来られたらいいのにと。

木澤
 それ、『華氏451度』の終盤に出てくる、一冊の書物の文章を丸ごと覚えている人々の共同体みたいですね。外付けハードウェアとしての人間。人間のデバイス化。

江永
 それでいうと、自分の中にさえたくさん人がいるというか、脳内キャラがしゃべりかけてくることが時々あります。「自分が尊敬している何某だったら、いまの自分になんてアドバイスするかな」とか。脳内キャラを仮構する。言ってしまえば、脳内相談アプリですよね。あるいは「ボット」か「AI」。あるいは「イマジナリーフレンド」の語を使うか、オカルト風に「トゥルパ」と呼ぶか、複数いるなら「脳内会議」みたいに表現する方がいいのかもしれない。「分人主義」(平野啓一郎)のような語の方が的確で掘り下げた議論につながっているでしょうか。私のイメージ源には、「チャットボット」や「アカウント」みたいなSNS的なものと別に、ポピュラー文化でいう「多重人格」表象(例えば田島昭宇[画]・大塚英志[原作]『多重人格探偵サイコ』みたいな)が混ざっている感じがします。

 自分も脳内に人間や人間でない生き物たちがたくさん住み着いているので、普通のことだと思っているんですけども。「頭の中でたくさんの人がおもいおもいに呟いており、中でも声が大きいものがあなたの思考と思われている。」というツイートを見ましたが、僕もそんな感じに自分をとらえていますね。

江永
 そういう感覚は、なるほどなと思ったりします。もちろん自分も政治経済についての義務教育を受けているので、人間はひとつの身体にひとつのペルソナを割り当てられている制度に組み込まれつつ生きていることは承知していますが、それはそれとして。

木澤
 僕も三歳ぐらいまで、自分の脳内にいろんな人格というかキャラクター(それらはなぜか野菜の擬人化で、たとえば人参やキャベツといったキャラクターがいました)が同居していて、それらと心のなかで会話していたんですけど、成長するにつれていつの間にか一つに統合されていましたね(彼らは一体どこへ消えてしまったのでしょうか)。それはなぜなのかと今から考えるとけっこう不思議ですよね。何らかの抑圧の過程なのか、社会化の過程なのか、ともあれ自己の中の複数性は自然と消去されて人格が一つに統合されていく。

ひで
 世の中としてはひとつの人間に一人格を前提にして、周りは接してきますからね。

木澤
 社会や行政のシステムもそれが前提になっていますよね。

ひで
 マイナンバーはひとりにひとつだけだし。

木澤
 一人の人間のなかに複数の人間がいると、統治する側にとってはいろいろ都合が悪いですから。

江永
 統治にコストが大変かかるというか面倒だろうなとは思います。

木澤
 そうですね。統治コストの問題。

 予期できない人間になっちゃいますもんね。

江永
 人格が一つということにしたほうが身体は管理しやすいのだろうと思います。協力もしやすい。私が突然ここで別人になったりしていたら、会話にならないでしょうし。

 別人格というより、守護霊みたいなものが脳内にいっぱいいる感じですかね。たまに憑依して自分の代わりに喋ったり文章を書いてくれるみたいな。この社会ではその場に応じた「適切」なコミュニケーションが求められるので、エヴァのダミープログラムが自分の代わりに自動で応答をしてくれる、みたいな感覚もあります。

江永
 守護霊というとスピリチュアルっぽいけど、デーモン(魔神)というとゲーテっぽくなります。デモーニッシュなもの(ゲーテの場合、個別の心理の問題とは前提にする文脈が違っているはずですが)。

木澤
 ソクラテスだったらダイモーン(神霊)になりますし。

 そうですね。なんかスピリチュアルな雰囲気になってしまうので、「脳内アプリ」という江永さんの言い方はすごくいいなと思いました。

江永
 ありがとうございます。「脳内アプリ」という言葉がそうやって、ほかの人に、よりよい意味で使われるようになると、私は、生きていた、意味がある、感じがする。私は、とても、ハッピー、になる。これが、闇の、自己啓発。(※江永注: 字面で伝わっているか自信がないのですが、突然テキスト読み上げソフトみたいな喋り方になっていました)

木澤
 いい感じにまとまりましたね。

ひで
 本にぜんぜん触れてへんやん

木澤 今日はいい会だった。ありがとうございました。

 いま完全にジョジョの「第三部・完」みたいになりましたね(笑)。

■「この世界が悪いとわかれば、ほかの世界を見るべきだ」

江永 話題を変えますが、闇というか、夜から始めます。『闇の左手』(原著1969年)の作者アーシュラ・K・ル・グィンは、『夜の言葉』という題のファンタジー・SF論集でも知られています(山田和子ほか訳。以下、引用は岩波書店「同時代ライブラリ」版より行いました)。そこに所収の評論「アメリカ人はなぜ竜がこわいか」(原著1974年)で、ル・グィンはこんなことを言っています。「イマジネーションの効用について、わたしの弁護をきいていただきたいのです。成熟とは伸び越えて別物になることではなく、成長することだとわたしは思います。子供が死んで大人になるのではなく、子供が生きのびて大人になるのです。成熟した大人のもつすぐれた能力は、すべて子供に内在するとわたしは信じていますし、若いうちにそれを大いに励まし伸ばしてやれば、大人になってから正しく賢明にそれを働かせることができるようになる」(評論集『夜の言葉』90-91頁)。作家自身が書いているファンタジーやSFの物語を、「大人」になったら「卒業」すべき幻想を描いたフィクションだとする物言いに抗弁する文脈です。
 ル・グィンは、フィクションの価値を疑う物言いをする人間も、実際には「現実」の人間関係やいわゆる「三面記事」的なジャーナリズム、俗悪なうわさ話でもって、白昼夢めいたファンタジーに耽っているのだと指摘します。それよりは幻想的で稚気じみたフィクションの提供する白昼夢の方が、いわば「有用」だ、とすら示唆します。どういう観点で「有用」なのか。イマジネーションをうまく働かせるトレーニングになるという観点です。私の理解では、「卒業」なる観念に安易に従って「子供時代」に働かせていたイマジネーションを「抑圧」したり、想像を打ち捨ててはならない、という話をしている。
 ル・グィンの記述には、もっと端的なファンタジー擁護(SFも含む)もあります。スーザン・ウッドによる『夜の言葉』の解説から孫引きします。「竜の言葉に耳を傾けない人々はおそらく、政治家の悪夢を実践して人生を送るよう運命づけられていると言っていいでしょう。わたしたちは、人間は昼の光のなかで生きていると思いがちなものですが、世界の半分は常に闇のなかにあり、そしてファンタジーは詩と同様、夜の言葉を語るものなのです」(『夜の言葉』293頁)。いい表現だなと率直に思います。――白状すると、私がタダ乗りするには、いささか、はばかられるところもある記述なのですが。例えば、成り上がりを描いたネット小説とか、「経済」や「政治」を描くと主張している小説にも私は関心のあるので。例えば、最近、服部正也『ルワンダ銀行総裁日記』の2009年増補版に、かなりエキセントリックな形容からなる帯文がついていたのを目撃したのですが――赤太字の部分だけ抜き出すと「46歳」「突然任命」「超赤字国家」「再建」「嘘のような実話」という感じで、全文を読むと、ある種のネット小説とドキュメンタリ番組の悪夢的な合体にすら思えてきます――さっき私が念頭に置いていたのは、この手のお話です(やる夫スレなどで『ルワンダ銀行総裁日記』を異世界召喚もののように紹介する文脈が数年以上前からあるとは、いちおう知っていたのですが。なお、やる夫スレとは電子掲示板上で発達した文字記号でつくるイラストを用いた縦スクロール漫画的な作品群を指します)。「ファンタジー」や「詩」の愛好家からするとたぶん、キッチュ(俗悪)で触れるに堪えない、という話にもなりそうです。というか、ル・グィン自身が、そのようなスタンスで書いているようにも私には映ります。
 ル・グィン自身は、いわゆる成功物語や勧善懲悪に映るような物語にも、ドギツイと評されそうな悲惨さや粗暴さを雑にカジュアルに描く物語にも、よしとは言わないところがあります。評論「子供と影と」の言を借りれば、そういうのは「偽のファンタジー」で「合理化されたファンタジー」だったり「センセーショナリズム」だったりするらしい(『夜の言葉』111頁,114頁)。私が関心を持ってしまうある種のキッチュな作品群――例えばネット小説、ライトノベル、ケータイ小説など――は、たぶんこれらの評論で擁護しようと想定されていたものからは、ズレているだろうと思います(その手のキッチュな作品群がしばしば軽侮の対象になるのは、「大人」のものとされる世俗的な願望と、「子供」のものとされる稚拙な意匠の合体と映るからでしょう。例えばファンタジー世界で企業人として出世するとか、三面記事的な意匠でできた物語世界で起きる悲劇や艶劇を鑑賞するとか)。
 それどころか、「救いがたく不毛」な作品や「貧弱なエサ[……]くだらぬ作品」も嗜む私のような読み手は、イマジネーションが「ゆがんだ」結果「矮小」になった「人格」の一事例として扱われかねない、とすら思います(『夜の言葉』82-91頁から語を拾いました)。「アメリカ人はなぜ竜がこわいか」を読んでいると、私が忠実なル・グィンの徒とは自分でも思えません。あと、いくら作家本人が合衆国出身とはいえ自分が嫌いな諸々を同時代のアメリカ文化の悪弊として語りすぎなので、そこは割り引いて読むというか、読者が己の問題関心に引きつけて、よく読むべきなのだろうなと感じます。
 ただ、私自身はこうした評論の中に、自分のようなオトナコドモが関心を持つ物語を、よく吟味するための言葉も見出します。――この呼称だと、まだ気取りすぎでしょうか。年齢の問題ではないので、推定教育歴の割に人品が幼稚に映り、発揮する社会性が拙劣に思われる個体とか形容してもよいのかもしれませんが、これはこれで自己卑下しすぎでウザく聞こえるかもしれません。現行でいう「大人」の劣等生、とかだと丁度いいでしょうか。――ル・グィンは、一面ではテンプレ的な勧善懲悪物語の善玉や悪玉とされる人物の振る舞いにも、二重性を見出します(『夜の言葉』110-112頁参照)。例がトールキン『指輪物語』だし、引き合いに出すのがソポクレス『オイディプス』なので、悪く言えば、偉大な古典は精妙複雑だから偉大なのだ式の評言に映る面もあります。でも、私はその二重性に着目する論を、俗悪(キッチュ)の中にも何かよきものを(あるいはその逆を)見出すという観点で解したくなります。何でもありを口実にした現状追認は避け、また「善」の価値引き下げではないニュアンスを込めながら、ル・グィンは二重性の語を用いており、そこに私は含蓄を感じます。
 特にこういうのは、いい言葉だなと思ってしまいます。「大人になるために必要なのは現実です。わたしたちの美徳のすべて、悪徳のすべてを超えた全体性なのです。知識も必要です。自分自身についての知識が必要なのです。[……]子供は自分自身の影になら向かっていくことができる、それをコントロールしたり、それに道案内させたりすることを学べるでしょう。そして大人になり、社会の一員としての力と責任感を身につけたとき、世の中に行われている悪に直面しなければならなくなっても絶望して気力を失ったり、自分の眼にしているものを否定したりすることの少ない人間におそらくなれるでしょう」(『夜の言葉』116頁)。私は自分が、まっとうイベントとか、まっとう情報といった、いわば〈優良品〉だけで育ったというよりも〈ジャンク品〉をも食べてきた者だという自覚があり、その事実を、いわば避けえたマイナスとしてしか形容できない価値観とは、別の立場を取りたいと思ってきました。なので、通過儀礼(子供→大人)よりは生涯学習(己の力を増大させ善用する)の姿勢でもって、また自分の内なるキッチュさなりと向き合うという意味合いにおいて、この辺りの記述を読み換えて解したいな、と思ったりします。

木澤
 なるほど、ありがとうございます。確認ですが、ル・グィンは、フィクションにおけるイマジネーションが成長にとって必要不可欠である、みたいなことを言っているという理解で大丈夫ですか?

江永
 そうですね。そういう意味合いに取れる記述をしています。ただ、話の強調点は、ビジネス上の成功者になるとか、世間話上で平均的とされる(その癖、中央値よりは明らかにいい感じの)暮らしをするとか、そういう典型的な生活者像を実現するのが「成長」なのではない、というところにあると思います。ここでいう「成長」とは、よりよく世界を捉えようとするようになること、という含意があると思います。
 ちょっとクソリプ的な響きを感じる向きもあるかもしれませんが、「ファンタジー」と無関係な「現実」がある、という区分け自体が想像の産物であると言えるのではないか。ル・グィンの言を借りれば、ベストセラーを読んで「自分もちょっぴり成功の力と秘密[ルビ:マナ]を味わったような気になる」のがすでに「魔法でなくてなんだろう」という話になる(『夜の言葉』84頁)。ビジネスにも「ファンタジー」が混ざっている。他方で、これは「ファンタジー」も「現実」に通用するかどうかという基準で判断をせよという話では、ないわけです(「夜」抜きで作りあげられた「昼」の価値観で「夜」を裁断するのも、その逆にも抗するべきだという話だと思っています)。またル・グィンの言を借りて言えば、「芸術家が悪を無視しようとするなら、光の館に入ることは決してないだろう」(『夜の言葉』99頁)。「現実」に「悪」が存在しない方がいいからと「ファンタジー」から「悪」を削除すれば話が済むわけではない、とは言えるのかなと思います(何がフィクションを通して考究すべき「悪」で、何がそうではないのか、どういう考究がよいもので、何がそうではないのか、などは常に論議されるべきでしょう)。
 ユング派精神分析と御伽話を参照しつつ、例えば「株式日報」や「ジャーナリズム」や「論理実証主義」や俗悪で商業的とされるポップカルチャーなどをざっくりと槍玉に挙げる議論を展開したり、ある種の「責任」観と「大人」になることを結び付けたりするところなど、ル・グィンの評論には、乗れない箇所も私は多々あるんですけど、そこに見出される姿勢に倣いつつ、キッチュなものたちにおけるイマジネーションのことを考えたいと思わせる力を、その筆致に感じもします。また、そこでは、自分の「影」(怪物性)を他者に投影しなくなる(他者を怪物視して排除することを止める)のが「成長」だという話もなされています(『夜の言葉』103-104頁)。

木澤
 つまり、あえて乱暴に要約してしまえば、現実を相対化するためにこそイマジネーションが必要だ、という話ですかね。

江永
 自分の読みにひきつけて話しているので、評論の解釈としては偏っていると思いますが、私はそういう話として読んでいます。自分を形づくるものを「現実」に合わせて切って捨ててはならないし、自分の「現実」で他を切って捨ててもならない。相対化というか、どうにか切り捨てずに折り合わせようとする、みたいなスタンスを見出せる評論だと思います。「大人たちは竜がこわい。なぜなら、自由がこわいからです」(『夜の言葉』91頁)なんていうキラーフレーズもあります。「大人」は「ファンタジーの内なる真実が、彼らが自らを鞭打って日々生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくることを知っているのです。大人たちは竜が怖い。なぜなら自由がこわいからです」という言い方をしています(同上)。この「自由」を、別の世界を生きる「自由」みたいなものと受け取っても、大意は損ねないのではないかと思います。

木澤
 なるほど。とても面白いです。今のル・グィンのお話を聞いていて僕が思い浮かんだのは、テッド・チャンの発言です。「路傍のピクニック」と題された、ケン・リュウ、エルヴィア・ウィルク、テッド・チャン、ユージーン・リムの四者による座談の中で、チャンがマーク・フィッシャーを引きながらSFについて述べている箇所があるんです。少し引用してみます。

SFに元型的なストーリーがあるとしたら、こういう感じだろう。初め、世界は馴染みのある場所として登場する。やがて新しいイノベーションなり発見なりが大々的な影響をもたらして、その世界は永久に変わってしまう。これは、伝統的な「善vs悪」のストーリーとは根本的に違う。後者では、悪に対する勝利は物事が平常に戻ることを意味するから。大雑把に言うと、善玉が悪玉をやっつける物語は現状の維持がテーマであり、SFは現状の転覆がテーマだ。だからこそ、SFは潜在的に政治性を帯びている。SFは変化についての物語だから。
昨年、批評家のマーク・フィッシャーの言葉をたまたま読んだ。「解放の政治は、これまで不可能だとみなされてきたものを達成可能に見えるようにすることがその使命であるのと同じく、常に『自然律』という見せかけを打破せねばならない。必要かつ必然だとされるものが、実は単なる偶然にすぎないことを暴かねばならない」。これこそSFの目指すところだ。
https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/culture-ja/roadside-picnic

 このチャンの発言を、先ほどのル・グィンの言葉と比較してみたくなりました。また上記の座談では、エピグラフとしてル・グィンの『闇の左手』から「真実とは想像力の所産である」という文章が引かれていますが、座談の中でエルヴィア・ウィルクがサイバネティック文化研究ユニット(CCRU)のハイパースティションという概念に触れてますね。つまり「フィクションの要素が歴史の中に自らを書き入れ、あるいは、歴史を書き換えることによって現実になるプロセス」。これもある意味非常にル・グィン的というか。とまれ、フィクションと現実の関係性について、ル・グィンを含めた少なからぬ作家が常に思考してきた、そのことに思いを馳せてみたくなります。

江永
 さながら自然法則であるかのように振る舞う現状の何かを、変えるというイメージ、それをつくりだす、みたいな感じでしょうか。そこで「伝統的な物語」に置かれるであろう諸々のジャンルからも色々な議論が出てきそうですが、SFが書かれたり読まれたりするときに、そうした「変化についての物語」が欲されているとしたら、それは麗しいことですね。ちなみにル・グィンは、書き手に向けて、こんな風にも言っていました。「あなたは自分自身で決まりを、法律を作り上げる国にいるのです。あなたは、独裁者と共に従順な民衆でもある。その国は、これまで誰一人として調査したことがないのです。地図を作り、街を建設するのは、ひとえにあなたの仕事です」(「書くということ」『夜の言葉』281頁)。テッド・チャンが動的な「変化」として語るところ、ル・グィンが静的な「調査」として語るところは、「現状」とされる何かの引き写しに留まる態度を批判するという点では、姿勢を同じくしていそうですね。ジャンルというか、フィクション一般がそう書かれたならば、また、そう読まれたならば、みたいな望みの話になってしまいそうですが。読み書きの目的や企図がそれに尽きるかは別の話で、読み手と書き手の目的や企図が一致するとは限らないとも思います(逆に言えば、だからこそ、「ジャンク」をよく咀嚼する――あるいは能書きを逸した仕方で触発される――場合もあるはずだと言えると思っています)。

木澤
 フィクションの要諦は、この現実を絶対的なものと見ないで、相対化するところにあるような気がしていて。この現実が悪いのであれば、ほかの世界を見ればいい。それこそフィリップ・K・ディックの1977年の講演のタイトルで、「この世界が悪いとわかれば、ほかの世界を見るべきだ」(『フィリップ・K・ディックのすべて――ノンフィクション集成』所収)というのがありましたね。ディックはそこで並行世界論などに言及しながら(ディックも『高い城の男』などで知られるようにパラレル・ワールドを追求した作家の一人です)、現時点で現実化されている世界とは異なっている別の現在、潜在する並行世界についての記憶を「思い出す」ことに対して熱を込めてオーディエンスに向けて語っています。その上で、次のような言葉を述べて長い講演を締めくくっています。「私たちは過去を失いはしましたが、過去は長い振幅のあとに私たちに戻りつつあります。私たちは、過去を私たちの未来として、失われたすべてが戻ってくるであろう未来として利用できるでしょう。」(飯田隆昭訳)

江永
 この世界しかないというわけではない、とイメージする契機としての相対化。それは自分も望ましく思うイメージのひとつです。他方で「キッチュ」喰らいでもあった私は、ネット小説などで自分が同じように「別の現在」の意義を打ち出せるのか、大袈裟に言えばそうした証し立てを、己に課さざるをえない気もしています。
 あるいは、ギャグのことを考えたりします。例えば、大川ぶくぶ『ポプテピピック』を「ほかの世界」として語ること、澤井啓夫『ボボボーボ・ボーボボ』を生きたい「ほかの世界」として語ること。これらはできるか。永井均は『マンガは哲学する』で、バカボンのパパを超人として捉えていましたが、自分はそういうことが言えるのか、というか、それがやりたいことなのか、みたいに。
 SFと「キッチュ」とギャグというのが一連なりになるのは、たぶん、自分がナンセンスとか「シュール」に関心があるからなんだろうな、と思っています。ソローキンとかクノーになるのでしょうか。ただ、非現実や幻想が好き、というのも微妙にしっくりしない。たまに世界自体がナンセンスになる、って感覚があって。少なくとも私個人の人生は、制度を申請したら私みたいな存在が考慮されていなかったとか、生身で制度のデバッグをしているような状態になったことがあります。楠見朋彦『零歳の詩人』(2000年)や、サムコ・ターレ『墓地の書』(2012年)みたいな、笑い事では全然ないものが描かれているのに、どこか間が抜けている、そういう話に妙にこだわってしまう。すごく大雑把に、ミステリやSF、ファンタジーやホラーは、笑うに笑えず、悲劇にもならないタイプの不条理が書ける、という印象があります。現実社会だとこんなことはあってはならないというものが、剥き出しかつ戯画的に描かれている。そういうナンセンスめいたものを通してしか掘り下げられない情緒だったりシチュエーションだったりも、ル・グィンが「自らを鞭打って日々生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくる」と語るところの、何か「内なる真実」へと、届く気がするんです。もちろん、そういう不条理を紋切型の表現でやったら、すごく危うくなる面もあります。

ひで
 テッド・チャンの「SFは潜在的に政治性を帯びている」論ですけども、テッド・チャン自身は現実の延長線上にありえる技術をたたき台にしてストーリーを書いていたりしますよね。たとえば、人工知能で思考する・自己決定権を持ったペットの話(『息吹』所収「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」)や、ルッキズムを乗り越えるために人間の脳内に存在する人間の美醜を認知する部位を不活性化させるための装置を頭につける話(『あなたの人生の物語』所収「顔の美醜について」)など。こういう技術がもし開発されたら、どういうポリティクスが働いて、どういう政治団体が出てきてどういう主張をするのか、というシミュレーション・レポートとしても読める。
 あり得る新技術によって引き起こされ得る政治的な動きを、SF小説という体(てい)ではなくて、たとえば、ぼくがエンジニアとして「AIを使ってこういうことができる」という論考として書くと、ポリティカルコレクトネスがある種行き過ぎている現状では、純粋に技術的な論考であっても書きようによっては叩かれる可能性もあると思うんです。だけどSF小説であれば、小説として消費されることでいい感じにおさまっている。
 SF小説って、ある技術革新によって今とは違った世界が訪れたとき、人間はどう感じるか、どう行動するのかという、柔らかい部分を豊かに書いてくれるから面白いですよね。

 僕はポリティカル・コレクトネスが行き過ぎているとは思ってなくて、むしろ現実社会や政治家などがあまりにもポリコレを無視していてやべぇなという気持ちで生きています。現実で傷つけられているので創作の中でまで傷つけられたくないなという気持ちがあるので(自分も無神経さで他者を傷つけてしまうことがあるので、気を付けないといけないなと思っています)、異なる他者への想像力があり、なおかつ面白い作品を見るとうれしい気持ちになります。SFというジャンルにはそういうポテンシャルもあると気付いて以降、もっと色々読んでみたいなと思うようになりました。

ひで
 たしかに現実社会でポリコレ無視は起こっています。プログラマ界隈で「テストツールの名前が『FactoryGirl』なのは性差別的でよくないから『FactoryBot』に改名しよう」とかやっている間に、報道番組がガチものの性差別CMを恥ずかしげなくリリースしてビビりました。

江永
 現実社会で言えば、入学試験で特定カテゴリに該当する受験者だけ説明抜きで点数操作するみたいな事態が続いていたと報道され始めたのがここ数年、という認識なので、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)は、どんどんやった方がいいと思っています(教育行政や学校経営に介入する知識と資力と技能が不足しているので、現状の私だと言いっ放しになってしまいますが)。異なる他者に関してだと、文脈は違いますが、私は公というか人前では隠してきた要素が多少あったので、ある種のSF的な、異物が人間の真似をしている、異物が人間に潜んでいるというイメージには、関心がありました(ジョン・カーペンター監督の映画『光る眼』1995年とか、ランド・ラヴィッチ監督の映画『ノイズ』1999年の感じとか。あとなんか惑星で人間そっくりだが無慈悲に人を襲うロボット兵士が戦場に紛れ込んでいて、みたいな映画を見た記憶があるんですが題名が思い出せない。P・K・ディック原作かと思ったけど、調べたら何か違う感じで)。あだ名が宇宙人だったり歩き方が変でゾンビとか言われたりしていた子供時代の経験も、たんにSFホラーっぽい作品に幼少から触れてきたことも、こうした関心を培ったうえで重要だったかもしれませんが、幾らかは後付けの理屈かもしれません。ただ、ル・グィンのこの言葉は私には身で思うところがある一節です。「竜がわたしたちをこわがらせるのは、竜がわたしたち自身の一部だからであり、芸術家はそのことを認めるようわたしたちに強いるのです。[……]わたしたちは敵に出会いましたが、その敵とはわたしたち自身だったのです」(「SFにおける神話と元型」『夜の言葉』131頁)。
 私は自分の出自に、話すと人から縁を切られたり(これは、だいぶ前の話です)、「今までそんな人がいるなんて考えたこともなかった」みたいなことを人にまだ言われたりする側面が含まれていて(同じ相手に、お前は然々の件に関して周りに話を聞いてもらえる有利な立場の癖に口を開くな、黙ってこちらの話を傾聴しろ、と別の面で批判されたりもしました。反省があります)、また長らく話してきた相手から、私の帰属するコミュニティのひとつに関して「比喩的に言えば、病気を感染すような危険な存在というイメージを持っている」と打ち明けてもらったりしたことがあります(なお、今でも相手とは、ともだちです)。私的な空間では、こういう話もしてみるものだな、と思っています。あまり、おおっぴらに話したくないのは、私と全く同一というわけではないんですが、境遇を多少同じくする人を看取った後で、その人の訃報が井戸端政談のネタにされたのを目撃した体験があるからです。一言居士みたいな感じで成敗してやった的扱いがなされると、要らぬ禍根が抱かれて消えないのは、自分の身で実感しました(井戸端政談の関連で、特定企業への要らぬ恨みを私は抱いています)。
 こうやって話ができるとか、こういう場で話をしていいと思えている時点で恵まれているという指摘を見たことがあり、それはそうだなと自分でも思っています。固有名を挙げていない仄めかしなので、ウソとか印象操作の類だと切り捨てたり無視してもらっても構いません(ただ、私以外、一般には、そういう詮議は止めた方がよいと思います)。おちょくられると、さすがに感情的になるかもしれませんが、それが正しい行為だと思って相手がするなら、理解できるように、がんばりたいです(だったら私が初めからこういう話をしなければ読み手に負担をかけずに済んだわけですが、それは、すみません)。
 科学とSFという話で言うと、いわゆる未来学者という枠組みがありますよね。例えばフリーマン・ダイソンとかレイ・カーツワイル。AI関連ならニック・ボストロムやマックス・テグマーク、環境関連ならレイチェル・カーソンやエマ・マリスも。で、ひでシスさんのさっきの話は、どちらかというと、独力ではストーリーという製品をつくるハードルがあがっている、とかの文脈で捉えるべきなのかなと思いました。イマジネーションと百科事典的な水準の教養の相克というか。日常生活での雑感についても、白昼夢や作り話についても、表現するなら専門家の監修(に準ずるガイドライン)に従うべきだという意識が明瞭になってきている。例えば、健康食品紹介番組やヘルスケア情報サイトなどの問題が大々的に報道されたりもあって、民間療法を批判する話は、ここ20年くらいは見かけてきた気がします。

ひで
 「ツイートにも専門家の監修を」が要求される一方で、中国ではマッドサイエンティストが実際にゲノム編集ベイビーを作ってしまっていたりする。雑感や思考実験、与太話にまで倫理を持ち込まれると、議論することさえブレーキが掛かってしまうのではと思ってしまいます。

江永
 ブレーキを掛けるというか、ちゃんと介入してコントロールした方がよい、という立場もあるとは思います。昔、ある人に、文学だったら思考実験みたいなものをどんどん更新してもいいけれど、法律とか制度は同じようにぽんぽん変えるわけにはいかない、本とは違って、それを読まない人の生も左右するから、と言われたことがあります。それはそうだなという気持ちと同時に、こういう風に話をするのは間違っているのかなという思いも出てくる。

ひで
 そうしてイマジネーションが人間の成熟とかかわっているという最初の話に戻るわけですが。

江永
 「ファンタジー」や「詩」などのフィクションをめぐる話だけなら、「イマジネーション」こそが人間の「成熟」に関わるのだ、と擁護するのは難しくないと思います。読んだ小説や観た映画が人生に影響を与えるように様々な人生の悲喜交々が「イマジネーション」に影響を与える、というサイクルは、「健全」な範疇ならかなりの割合の人がよしとするものでしょう(とはいえ、その範疇ですら「健全」の内実で議論が割れていくわけですが)。これが、未来学や、キッチュなカルチャー、ノンフィクションなどにも言及して「イマジネーション」でやり取りをするという談話になってくると、微妙になってくる。例えばル・グィンなら、自身が『闇の左手』という形でなした「思考実験」を「科学的に見れば、これはどうしようもない実験だと言えます。でも、それで結構。わたしは科学者ではないのですから。わたしは絶えずルールが変わり続けるゲームを行っているのです」(「性は必要か?」『夜の言葉』142頁)と語ることができる。自らを以て任ずるところの作家として。じゃあ肩書のない人間はどうなのか、あるいは、何か肩書があればそれで済むのか、逆に肩書をなしで済ませて語らうことはできないのか、などなど、気になってしまうところは出てきます。自分の考えが固まっていないんですが。

ひで
 確かにノンフィクションを題材に下手なことはいえない雰囲気はありますね。めっちゃ怖い。

江永
 最初の方で触れたトピックに戻りますが、私は、自分にとってのリアルがキッチュでもあるのとどう向き合うか、きちんと考えるべきだなと感じ始めています。例えば、いわゆる歴史物語系のやる夫スレを通して1964年から1970年までルワンダの中央銀行の総裁を務めた人物の回顧録に辿り着き、書店で当該書籍とネット小説的な物語類型をごちゃまぜに受容するような状況が現にある。そういうのを、「偽」の文化とか俗悪な文化による汚染とか頽落としては、私は捉えたくない。例えばフローベール『ボヴァリー夫人』や、さらに遡ってセルバンテス『ドン・キホーテ』などには、当時のポップカルチャー(騎士道物語や恋愛小説)に踊らされて、フィクションと人生をごたまぜにした挙句、諸々が滅茶苦茶になってしまうキャラクターたちが出てきます。でも、こうはなりたくないよね、こんなキッチュな文化は捨てようね、と済む話ではない(済む話でないから、現在まで読み継がれている面もあると思いたい)。ル・グィンみたいに「子供のやる"ごっこ遊び”」の延長に大人の自由活動の産物たる「『戦争と平和』だったり相対性原理だったり」がある(『夜の言葉』85頁)という発達史観は私には取れないのですが、とはいえ、こういう語らいを通して、自分なりに「イマジネーション」の善用というか、受け取ってきた玉石混交のイメージの、石の中にも含まれるはずの玉を引き出せるようなことができればと、考えたりはします。そういう業への練達を目指すという意味でなら、「成熟」や「成長」の語を、私でも使える気がします。

 先程の木澤さんのテッド・チャンの話が、自分は結構しっくりきました。勧善懲悪というのは既存の価値観に乗っかっているだけで何も変わらないじゃん、という部分ですね。例えばせっかく異世界転生しても、爵位とか“正規の”夫婦関係に乗っかって弱者を殴っているお話を見ると、俗世の価値観に縛られていて何も倒せていないのではないかと思ってしまいます。せっかくそういう想像力があるのならば、既存の価値観をぶっ壊したいという気持ちが強いです。だから僕は、SFかどうかはさておき、既存の価値観を壊していこう、変えていこう、といった方向性の作品が好きだし、ピックアップしていきたいなと思います。

■SF、SM、ミステリ

 ここでもう少し、自分がSFを好きだなと思った理由を追加で話しましょうか。まず僕は自分を不幸にした人間社会がめちゃくちゃになってほしいという気持ちと、僕自身がマゾヒズムに傾倒しているためにめちゃくちゃになりたいという気持ちがあって、それを一度にかなえてくれるものがポストアポカリプスとかディストピアなのではないかと思ったのです。例えばアーサー・C・クラーク『幼年期の終り』などを読むと、宇宙からヤバい存在がやってきて人類がより高みにのぼって、人類じゃなくなっていく話なわけで。そういう物語を読むと、「うれしー」という気持ちになります。人類がめちゃくちゃになるとうれしいし、自分も変な存在になりたいという気持ちが満たされて幸せな気持ちになります。SFとSMってちょっと近いんじゃないかということをこの前思って、木澤さんに、「えっ、この作品はSMじゃなくてSFですよ」とマジレスされたのを思い出しました。

江永
 実際、沼正三『家畜人ヤプー』とかはSF的な未来社会でSMというかドギツイ感じのマゾヒズムが描かれる話ですし。ある程度、親和性はありますよね。リアルとは別様の、壊れない身体のイメージを考えるとき、超科学技術みたいな意匠は役に立つ。いわゆるニュー・ウェーブSFを代表する作家のひとり、サミュエル・ディレイニーもBDSM(拘束具、しつけ、サディズム、マゾヒズム)的なイメージの参照で知られていた記憶があります(壊れない身体というよりは別様の力関係を考えるという含みが強かったはずですが)。あるいはウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』とかも、身体がガチャガチャに改造されているような世界の話だし、感覚描写などを含め、身体が滅茶苦茶になる感触もある。

 そういう具体例が出てくると、自分の欲望や願望が作品と接続したような気分になりますね。

江永
 あと、現実だとキッチュというか陰惨な紋切型が多すぎるので、SFとかファンタジーには、そういう紋切型に託されているものを、どうにかして、よりよく形にしようとする試みという面もあるのかなと。例えば幼少期に触れた物語って、今日の基準で考えたら問題含みの紋切型が出てきたりしますね(ル・グィンはアンデルセンの童話などを挙げていました)。でも、そのなかにある大事かもしれないところ、捨てられないところなどを考えるために、それらが参照しなおされる場合もあるのだろうな、と。

木澤
 少しだけ、僕がSFを読み始めたきっかけを話してもいいですか。僕はどちらかというとミステリ読みで、SFはまったく読んでなかった。ミステリの中でもたとえば麻耶雄嵩とか殊能将之が好きだったんですけど、あるとき殊能将之が日記でジーン・ウルフの『ケルベロス第五の首』を紹介していて、その流れでSFをつまみ食いするようになったんです。僕のような人間は何気に多いのではないでしょうか。ウルフの『ケルベロス第五の首』もまさにそうですが、SFとミステリって意外と近いところがあるというか、それこそ今回紹介する『ユービック』の虚実が反転していく構造は、岡嶋二人『クラインの壺』、あるいは虚実の構造が章ごとに反転していく竹本健治『匣の中の失楽』などを想起させますし。だから読みようによっては、『ユービック』もミステリとして読めると思っていて、そういう意味では僕のようなミステリ読みにもディックはおすすめしていきたいですね。『クラインの壺』や『匣の中の失楽』は、ディック的な部分をよりシステマチックかつ形式的にやっているような感じが僕にはしていて。要は、ディックはミステリとも親和性が充分高いというか、少なくとも僕の中ではSFとミステリはどこかで地続きになっているという印象を受けるんです。

江永
 いわゆるメタフィクションっぽい趣のものたちですね。

木澤
 そうですね。あと叙述ミステリ。

江永
 メタフィクションと言わずに、もっと科学っぽい言葉を使うとSFっぽくなるし、叙述トリックの話に持っていくとミステリっぽくなる。こう捉える限りにおいては、どういう「ガワ」を使ってテーマに取り組むかの違いで、いかなるテーマを描くかという点では、書ジャンルが通じているとも言えそう。もちろん、ジャンルごとの追究もあるでしょう。むろん、テーマありきじゃなくて、資料や史料を調査して吟味したり、ジャンルの約束事を掘り下げたりする綿密さを通して、テーマの紋切型を脱した問いを打ち出すような創作もあるはずですが。話を戻すと、私は岡嶋二人の片割れである井上夢人の『メドゥサ、鏡をごらん』という、枠物語的な意匠で幻想ホラー風の雰囲気を産み出している小説が好きで、自分の好みは幻想ホラー寄りです(例えば、コルタサルだったら「悪魔の涎」とか)。木澤さんと趣味が重なっているけど、入り方や好きなギミックはちょっと違うのでしょう。そういう意味では、この読書会の全員、SF、ファンタジー、ミステリっぽいものに対する関心があるから、話が合う面もあるのかな、という気がしてきました。

 みんなSFへの入り方はけっこう違っているのが面白いですね。

江永
 ある種の立場から見ると、四人全員フワフワしている、というかフワフワしたものに踊らされているように見えるのかもしれない。

 でも、だからこそぶつかり合いのケンカにならないというか、フワフワと受け止めているのが闇の自己啓発のある種の良さなのかもしれません。


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