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チンパンジーも「自由」「平等」「共同体」を重んじる!? 橘玲「これからのリバタリアニズム」第2回

米国を代表するリバタリアンの一人であるウォルター・ブロックが売春や麻薬密売など「不道徳」なビジネスを徹底擁護した『不道徳な経済学――転売屋は社会に役立つ』が発売即重版するなど、いま再び注目を集める「リバタリアニズム(自由原理主義)」。同書の翻訳を手がけた作家・橘玲氏が、「これからのリバタリアニズム」と題しその潮流を読み解きます。今回は第2回。

これからのリバタリアニズム 橘玲

(第1回はこちら

功利主義と原理主義

リバタリアニズム(自由原理主義)の思想をすこし詳しく見ていくと、そこには一般に「功利主義と原理主義の対立」と呼ばれる問題がある。ここは、ウォルター・ブロック『不道徳な経済学』を理解するうえで大事なポイントだ。

最大多数の最大幸福」を掲げる功利主義Utilitarianismは、言うならば「結果オーライ」の思想だ。功利主義者は、「なにがほんとうに正しいかなんてわからない」という立場(不可知論)をとる。でも、人間が生きていくためには、なにが正しくてなにが間違っているかの判断が必要になるので、「いろいろやってみて、うまくいったものが"正しい"」と決めてしまうのだ(これを「帰結主義」「プラグマティズム」という)。

正しいかどうかを損得(効用)で判断する経済学は、この功利主義ときわめて相性がいい。すぐれた経済政策とは、社会にもっとも大きな効用(=富)をもたらす政策のことだ。

それに対して原理主義者は、なんらかの価値の源泉があらかじめ存在すると考える。リバタリアンの場合、この価値(自然権)は「自由」であり、リベラリストなら「(自由を含む)人権」となるだろう。リバタリアンが古典派の経済学者と、リベラリストがケインズ派の経済学者と手を携(たずさ)えるのは、彼らが自分たちの奉(ほう)ずる価値を補強するかぎりにおいてでしかない。その主張がどれほど似ていたとしても、原理主義者と功利主義者のあいだには思いのほか深い溝がある。

リバタリアンであれ、リベラリストであれ、・原理主義的・自由主義の特徴は、(キリスト教原理主義やイスラーム原理主義と同様に)いっさいの妥協を許さないことにある。日本では・極右・の排外主義者だけでなく、反核・反戦を唱えるリベラルな市民団体にもしばしば狂信的なかたくなさが見られるが、原理主義的リバタリアンもこうした傾向から無縁ではない。

その一方で功利主義者には、生命の重さを計量するような冷酷さがつきまとう。たとえば、ホームレスから臓器を摘出してより有用な人(たとえば難病の治療薬を開発中の生化学者)に移植するのは、功利主義的にはどこも間違っていないのだ。

こうした残酷さを拒否するならば、なんらかの「原理」から善悪を判断するほかはない。だが世界はあまりにも複雑なので、どのような「原理」も必ず自己矛盾をきたしてしまう。現代の政治哲学が抱える問題とは、ようするにこういうことなのだ(たぶん(5))。


チンパンジーの「正義感覚」 


私たちが奴隷制に反対するのは、ひとはみな平等だと「感じる」からであり、自由を奪われるのは耐えられないと「感じる」からだ。「天(神)から与えられた人権」という"神話"は近代以降に文化的につくられたものだが(ギリシア・ローマ時代の奴隷は自らの境遇を嘆いても、それが不正だとは思わなかっただろう)、そこから生まれる感情はきわめて強力なので、現代人はもはや奴隷制やアパルトヘイトを思い描くことさえ嫌悪するようになった。

こうした「正義感覚」は、フランス革命で掲げられた「自由」「平等」「友愛」の三色旗に象徴されている。

「自由」とは「なにものにも束縛されないこと」だが、ジョン・ロックに始まる政治思想では私的所有権こそが自由の基盤だとされた。

誰もが自由に生きるためには、人種や性別、国籍や宗教のちがいによってひとを差別しない「平等」な社会をつくらなくてはならない。

さらに私たちは、家族や仲間(友だち)といった「共同体」をとても大切なものと考えている。徹底的に社会的な動物であるヒトは、共同体(家族や恋人、友人との絆)からの承認によってしか幸福を感じられないのだ。

興味深いのは、「自由」「平等」「共同体」というヒトの正義感覚を、チンパンジーも同じように持っていることだ。

チンパンジーの社会は、アルファオス(かつては・ボスザル・と呼ばれたが、最近は"第一順位のオス"の意味でこの言葉が使われる)を頂点としたきびしい階級社会で、下っ端(下位のサル)はいつも周囲に気をつかい、グルーミング(毛づくろい)などをして上位のサルの歓心を得ようと必死だ。

そんなチンパンジーの群れで、順位の低いサルを選んでエサを投げ与えたとしよう。そこにアルファオスが通りかかったら、いったいなにが起きるだろうか。

アルファオスは地位が高く身体も大きいのだから、下っ端のエサを横取りしそうだ。だが意外なことに、アルファオスは下位のサルに向かって掌を上に差し出す。これは「物乞いのポーズ」で、"ボス"は自分よりはるかに格下のサルに分け前をねだるのだ。

このことは、チンパンジーの世界にも先取権があることを示している。序列にかかわらずエサは先に見つけたサルの"所有物"で、ボスであってもその"権利"を侵害することは許されない。すなわち、チンパンジーの社会には(自由の基盤である)私的所有権がある。

二つめの実験では、真ん中をガラス窓で仕切った部屋に2頭のチンパンジーを入れ、それぞれにエサを与える。

このとき両者にキュウリを与えると、どちらも喜んで食べる。ところがそのうちの一頭のエサをブドウに変えると、これまでおいしそうにキュウリを食べていたもう一頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒り出す。

自分のエサを取り上げられたわけではないのだから、本来ならここで怒り出すのはヘンだ(イヌやネコなら気にもしないだろう)。ところがチンパンジーは、ガラスの向こうの相手が自分よりも優遇されていることが許せない。

これはチンパンジーの社会に平等の原理があることを示している。自分と相手はたまたまそこに居合わせただけだから、原理的に対等だ。自分だけが一方的に不当に扱われるのは平等の原則に反するので、チンパンジーはこの"差別"に抗議してキュウリを壁に投げつけて怒るのだ。

三つめの実験では、異なる群れから選んだ2頭のチンパンジーを四角いテーブルの両端に座らせ、どちらも手が届く真ん中にリンゴを置く。初対面の2頭はリンゴを奪い合い、先に手にした方が食べるが、同じことを何度も繰り返すうちにどちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。

このことは、身体の大きさなどさまざまな要因でチンパンジーのあいだにごく自然に序列(階層)が生まれることを示している。いちど序列が決まると、“目下の者”は“目上の者”に従わなければならない。ヒトの社会と同じく、組織(共同体)の掟を乱す行動は許されないのだ(6)。

このようにチンパンジーの世界にも、「自由」「平等」「共同体」の正義がある。相手がこの・原理・を蹂躙すると、チンパンジーは怒りに我を忘れて相手に殴りかかったり、群れの仲間に不正を訴えて正義を回復しようとする。興味深いことに、自由主義、平等主義、共同体主義はいずれも「チンパンジーの正義」とつながっているのだ。

ところがその後、正義感覚をもたないにもかかわらずきわめて影響力の大きな政治思想が登場した。それが功利主義だ。

ジェレミ・ベンサムによって唱えられた功利主義は、「最大多数の最大幸福」で知られている。政治思想は「正義」の本質をめぐる争いだが、ベンサムはこれを不毛な神学論争だと批判し、「なにがよい政治かは結果で判断すべきだ」と主張した。これが「帰結主義」で、みんながすこしでも幸福になればそれが事後的に「正義」になる。──政治の役割は、効用(幸福)を最大化するように社会のルールを最適化することなのだ。


政治思想と進化論


政治思想(主義=イズム)の対立を理解するうえでの出発点は、「すべての理想を同時に実現することはできない」というトレードオフだ。誰もが、自由で平等で共同体の絆のある社会で暮らしたいと願うだろうが、これは机上の空論で原理的に実現不可能だ。

自由な市場で競争すれば富は一部の個人に集中し、必然的に格差が広がっていく。それを平等にしようとすれば、国家が徴税などの・暴力・によって市場に介入するしかない。自由を犠牲にしない平等/平等を犠牲にしない自由はあり得ない。

一方、共同体主義者(コミュニタリアン)は、歴史や文化、伝統などによって支えられた共同体(コミュニティ)こそがひとびとの幸福を生み出すとして、共同体を守るためには個人の自由が一定の制約を受けても仕方ないとする。だがリベラルとリバタリアンは、経済的な不平等を容認するかどうかで激しく対立するとしても、自由な個人を共同体の下位に置くような思想をぜったいに認めないだろう。

それに対して功利主義は、正義の感情的基盤とは関係なく合理性によって幸福を最大化できる制度を構築しようとするから、ある面では正義感覚と同調するとしても、多くの場合、ひとびとの感情を逆なでする。この関係は図①のようになる。

図1

下部の半円にある三つの「正義」(リバタリアニズム、リベラリズム、共同体主義)はいずれもチンパンジーと共有している。すなわち、「進化論的な基礎づけ」がある。正義感覚によって直感的に正当化できるこの三つの正義は等価で、リバタリアニズムを中央に置いたのは便宜的なものにすぎない。

功利主義を半円から別にしたのは進化論的な基礎がないからだ。ただし、功利主義の考え方は私的所有権(市場経済)を重視するリバタリアニズムときわめて相性がいいので、その部分がもっとも厚くなっている。一方、極端な平等主義や共同体主義では功利主義(市場原理)は全否定される。

共同体主義のなかでもっとも功利主義から遠い「保守の最右翼」は、日本古来(とされる)伝統を重んじ、武士道など日本人の美徳を説く(そのさらに右には、"鬼子"としての「ネトウヨ(ネット右翼)」がいる)。その一方で共産党や左派の市民運動は、大企業や富裕層への課税によって社会福祉を拡充し、すべての社会的弱者を国家が救済すべきだと主張する(そのさらに左には革命を目指す極左がいる)。

右翼と左翼は不倶戴天の敵のような関係だと思われているが、最近は市民運動の集会に新右翼の団体が参加することが珍しくなくなった。しかしこれは不思議でもなんでもなく、図を見ればわかるように、市場原理(功利主義)を否定することで両者の思想は通底しているのだ。

リバタリアニズムと功利主義は国家の過度な規制に反対し、自由で効率的な市場が公正でゆたかな社会をつくると考える。両者の政治的立場はきわめて近いので、日本では包括して「新自由主義(ネオリベ)」と呼ばれているが、原発事故のような極限状況では主張が対立する。功利主義者は電力の安定供給や金融市場の混乱を避けるために国家による東京電力の救済を容認するだろうが、リバタリアンは市場原理を貫徹して東京電力を破綻させ、株主や債権者がルールに則った責任をとることを求めるだろう。

なお、この図ではうまく表現できないが、国家を唯一の共同体とするコミュニタリアン右派が典型的な保守派だとするならば、マイノリティを含む多様な共同体を尊重する多元主義Pluralismのコミュニタリアン左派はリベラルと親和性が高い。

歴史的に「個人」よりも「世間」が重視されてきた日本では、「自己責任によって自由に生きる個人」を基礎とした欧米型のリベラリズムは浸透せず、右も左もその多くは共同体主義者で、「日本的リベラル」はコミュニタリアン左派のことだ。立憲民主党の枝野幸男代表は「私はリベラルであり、保守であります」と述べたが、それもこうした文脈で理解できるだろう。

(第3回に続く)


5
 原理主義と功利主義のちがいは、「自然権」と「自然法」によって説明することもできる。原理主義者は、すべての人間には天賦の権利(自己所有権、人権)が備わっていると考え、その自然権から自然法が成立する。自然権は自由な個人間の社会契約によって保証されると考えるから、彼らは「契約論者」でもある。一方功利主義者は、自由な社会(市場)のなかで、言葉や貨幣などの交換を通して自然に(自生的に)秩序が生まれ、それが自然法になると考える。この場合自然権は、自然法によって事後的に定められた権利だ。
6
 自由と平等の実験はフランス・ドゥ・ヴァール『あなたのなかのサル──霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房)、共同体の実験は藤井直敬『つながる脳』(NTT出版)より。

*本記事は、『不道徳な経済学』の巻頭に収録した序説「これからのリバタリアニズム」を再編集したものです。

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