7月20日発売!〈ローダンNEO〉第1巻『スターダスト』冒頭試し読みvol.2
いよいよ刊行迫る、〈ローダンNEO〉。第1巻『スターダストの』冒頭試し読みvol.2を公開します!
vol.1の第1~2章に続き、第3~5章です。正篇の〈宇宙英雄ローダン〉と違い、〈ローダンNEO〉ではローダンたちが月へ向かうストーリーに加え、周辺人物の物語がいくつか同時進行していきます。
読み進んでいくと、これらのストーリーがとても緻密に組み上げられ、やがて大きな流れになっていくことが分かります。正篇をすでにお読みの方は、幾度も膝を打つでしょう。
引き続き試し読みをどうぞ!
〈ローダンNEO〉第1巻『スターダスト』冒頭試し読みvol.1→●
〈宇宙英雄ローダン〉シリーズ正篇、第1巻『大宇宙を継ぐ者』冒頭試し読みvol.1→●
3
打ち上げは円滑に進んでいた。
《スターダスト》は「爆竹」──と呼ぶことは今はもう許されないが──ことNOVAロケットに載せられ、天へと昇っていく。管制センターではNOVAをののしる技術者たちの怒声に近い報告が飛び交っているが、それでも、すべてが順調なことに変わりはなかった。
せめてもとばかりに、起こりうる非常事態を辛辣に予測しあう技術者たちの声がイヤホン越しに耳に届き、フルパワーで稼働するロケットエンジンのうなりをかき消した。
彼らの声はローダンにとって、けっして不快ではなかった。技術者たちの荒っぽい口調は、すべてが順調に進んでいることを示しているのだから。地上と自分とをつなぐへその緒のような声にすがりながら、ローダンは頬の肉をこそぎ落とそうと襲いかかる6Gの加速重力に耐えていた。
管制センターの技術者たちは、みな気のいい連中だ。民間企業や軍に勤務すればNASAの数倍の給料をもらえるだろうに、彼らはそうはしなかった。それだけ、彼らにとって宇宙の星々への夢は大きいのである。だが今、月面基地の失敗によってその夢が立ち消えとなりかねない事態に、彼らは神経をとがらせていた。だからその苛立ちをブラックジョークに包みこみ、互いに不安を押し隠しているのだ。
NOVAは、彼らにとって不気味な存在だった。機械工学とエレクトロニクスの粋を結集した驚異のロケットについては、毎秒何百個ものセンサーや測定器が、その機嫌のよしあしを伝えてくれる。にもかかわらず、このロケットには何かはかりしれない意思が宿っているように感じられるのだ。
いずれにせよ、技術者たちがジョークを飛ばしている間は、自分もクルーたちも心配は無用なのだ。少なくとも、ローダンはそのように自分に言い聞かせていた。
ガクン、と衝撃がくる。爆発音とともに、燃焼を終えたNOVAロケットの一段目が切り離された。同時にローダンの眼球を眼窩にめりこませ、肺から空気を押し出さんとしていた加速重力が、ふっと消える。彼は水からつかみ出された魚のようにベルトの下で身をよじった。他のクルーたちが同じように空気を求めて荒い息をつくのが聞こえてくる。
「すべてのシステムは問題なく稼働している」
イヤホンから自制のきいた、落ち着いた声が入ってきた。パウンダーだ。
「三三秒間の休憩だ、諸君」
ブルがうめき声をあげ、そのまま口をつぐんだ。のどまで出かかった辛辣なコメントを口にするだけの空気が足りなかったのだろう。
ローダンは顔を横に向け、友人に目をやった。ブルの顔は、その赤毛と同じくらい真っ赤になっている。血液の足りない身体部位に血を送り出そうと心臓が奮闘しているのだ。
ブルの向こうに丸い船窓が見えた。あちらは地球側である。ローダンは、いまや六〇キロ近く眼下にあるはずの故郷の地をひと目見ようと、窓の外に目を向けたが、それは叶わなかった。目が言うことをきかず、焦点がぶれていたからだ。
「二段目ロケットの点火まで、あと五秒」パウンダーの声が言う。「四、三、二、一」
加速重力が復活した。先ほどよりもさらに強力な負荷が、体重の七倍もの力で宇宙飛行士たちを圧迫し、その骨をくだき内臓を押しつぶそうとする。
ローダンは叫ぼうとした。だが、のどを突く叫びは重圧につぶされて微かなうなりに変わり、二段目エンジンの発する轟音に跡形もなくかき消されていく。
加速重力のせいで顔を横向きに固定されたまま、ローダンはブルに目を向けた。そして、さきほどの自分の感覚が正しかったことを知った。ブルの顔は頬肉がそげ、まるで見えない指に肉をぐいと引っぱられているかのようである。
《スターダスト》の搭載コンピュータによれば六分ちょうど、しかしローダンにとっては永遠にも感じられた時が経過したのち、二段目のエンジンが燃え尽きた。爆音と衝撃とともに二段目が切り離され、無重力による非現実的な浮遊感が突如として訪れる。
「耐えろ、諸君。難所はすでに越えたぞ!」
パウンダーが言った。老司令官のその声に、一種の共感の響きが混じってはいなかっただろうか……? いや、おそらくローダンの聞き違いだ。きっと、加速重力で脳の血管がまいっているのだ。
とはいえ、事実としてパウンダーの言は正しい。《スターダスト》の推進ロケットは予想に反して着実に、その任を果たしていた。残るは、もっとも小型の三段目エンジンのみ。このエンジンは緩やかな加速度で《スターダスト》を月へと運ぶことになっている。おそらく、その頃にはローダンは何も気づかず眠りに落ちているだろうが……。
「おい、みんな見ろよ!」
ブルが声をあげる。数値上は、ブルの重力加速度への耐性はクルーのなかでもっとも低かったが、現実には正反対だった。いったいなぜなのか、ローダンにはわかる。医療チームの実験では、ブルの生理学的数値を正確に測定することは可能かもしれないが、この男の本質である不屈の精神を数値で測ることなどできないからだ。
ブルは、グローブをはめた手で船窓を指さしていた。ガラスの向こうに窓枠に切り取られた地球が見えた。南太平洋だ。西にはニュージーランドの緑の二島が、南には南極大陸の氷が広がっている。広大な海面に、太陽光がきらきらと輝いていた。
「地球ってやつは実に美しいな」ブルが無邪気な感動とともに言う。「こんな光景なら、何度見ても飽きないと──」
うめき声と、続いてのどの詰まるような音がブルの言葉をさえぎった。
ローダンは反対側に顔を向ける。無重力のなか、その動きに体全体がふわりと浮きそうになるのを座席ベルトがおしとどめた。
うめき声の主はフリッパーだった。黒ずんだ無数の水滴がヘルメットの内部をただよい、透明プレートの内側にはりついて彼の顔を隠している。
「落ち着け、フリッパー」
声をかけたのはマノリだった。船医は座席ベルトを外すと、きびきびとした優雅な動きでシートからすべり出る。まるで、生まれてこのかた無重力下で過ごしてきたかのような身のこなしだった。
「少しの間、息を止めるんだ。今すぐ行く」
次の瞬間、マノリはフリッパーのもとにたどり着いていた。彼はヘルメットの非常開口部に両手をそえる。バイザーが上部にスライドし、開口部から黒ずんだ水滴があふれ出て船室内に舞い散った。それは血液だった。
「大丈夫、すぐに処置する」
マノリはそう言って宇宙服のポケットから小型のポンプを取り出すと、かすかな機械音とともに血液の球を吸引していく。フリッパーの顔があらわになった。彼は青ざめ、同時に恥ずかしさに赤くなっているようにローダンには思われた。フリッパーは視線を泳がせ、他のクルーたちから目をそらした。
「口を開けてもらえるかな」マノリが言うと、フリッパーは指示に従った。
「やはりな。舌だ」
船医はそう断定すると、ポケットからさらに別の器具を取り出した。ミニサイズのスプレー缶のように見える。そして、事実そのとおりだった。シューッという音が響く。
「プラズマスプレーだ」船医が説明する。「これで、月に着く頃には、きみの舌はきれいさっぱり治っているさ」
そう言って、励ますようにフリッパーの肩をぽんと叩いたマノリは、その反動でふわりと席に舞い戻ると、再びしっかりとベルトを締めた。
クラーク・フリッパーは深く息を吸いこんで、ローダンの視線を気丈に受け止めた。「初心者じみたミスだ」目に涙をためて彼はつぶやいた。
「ひどいミスです。すみません、ペリー。もう二度と、こんなことにはならないと約束します」
ローダンは軽く手をふってみせた。
「気に病むな。このメンバーのうちの誰にだって起こり得ることだ」
「しかし……」
「謝る必要はない。きみは──」
「どうした? そちらで何が起こっている、ローダン?」
パウンダーの声が会話に割りこんだ。
「医療チームから、きみたちの興奮レベルが規定水準を超えていると報告があった。脈拍と血圧が通常値を大きく上回っていると」
気まずそうにシートに身を沈めるフリッパーに安心するよう目で合図しながら、ローダンは答えた。
「特に何もありません。なにぶん、みな興奮しておりますから」
「ああ、そうだろうとも! いいから、何が起こっているのか知らせたまえ」
「ですから、何も。普通でないミッションを前に、普通以上に興奮しているだけです。普通のことでは?」
ローダンの耳に、はるか二〇〇キロ下方のネバダ宇宙基地の管制センターでパウンダーが鋭く息を吸いこむ音が届いた。彼は、矛盾をよしとはしない。
「きみは……」言葉を止めた後、パウンダーは続けた。「そうだな、きみの言うとおりだ、ローダン」
「ご理解いただき感謝します、サー。今後の飛行ですが、予定どおり我々はディープスリープに?」
「むろんだ」
「全員、聞いたとおりだ」
ローダンはクルーに向かって言った。
「フリッパー、マノリ、そして私はディープスリープに入る。その間、ブルは《スターダスト》が月軌道に無事入れるようサポートを。時間になったら、私がブルと交代する。質問は?」
返事はなかった。
「よし、では開始!」
フリッパーが目に浮かぶ涙をぬぐい、ヘルメットをかぶりなおす。彼はローダンに感謝の視線を投げかけると、薬剤の注入を開始した。そして、またたく間に昏睡にも似た深い眠りに落ちていく。次に彼が目を覚ますのは月に到達する直前となるだろう。さらにマノリもフリッパーに続いた。次はローダンの番だ。
「心配いりませんぜ、ペリー。このベイビーは俺がしっかりあやしておきますから」
ブルがそう請け合う声を聞きながら、注入を開始する。次の瞬間、ローダンは夢なき夜の深い眠りへと落ちていった。
声が、ローダンを眠りから呼び覚ました。
クルーたちの声ではない。パウンダーでも、技術者たちのものでもない。だが、どこか聞き覚えのある声だった。
「……紛争のさらなる激化が予想されます」
声のひとつが語っている。女性だった。
「イラン外務省は、同国の忍耐はもはや限界に達したとの声明を発表。最近発生した少数勢力のクルド人とスンニ派による暴動は、国外、すなわちイラクが裏で糸を引いているとしています。イランはこうした事態を、これ以上甘受するつもりはないと……」
「台湾は中華人民共和国の不可分の領土であります」
別の男性の声が言う。
「我が人民の神聖なる国土が簒奪者の手で汚されるのを、いったいいつまで手をこまねいて見ているのか。彼らは誇大妄想のすえに挫折した資本主義帝国の傀儡に過ぎません。我々はいつまで、恥辱のもとで生きねばならないのか。いつまで──」
「ブラジル、インド、パキスタンの核保有国三国は、核不可侵条約を締結しました」
さらに別の声が言う。
「これにより締約国三国の核戦力は、共同最高司令部の指揮下に即時移行することとなります。〈世界平和安定協定〉の主導国は、世界の他の国々に対してもこの協定への参加を呼びかけています。この声明を受けて、国際金融市場では一時株価が持ち直し……」
ローダンは目を開けた。そこは《スターダスト》のコックピットだった。無重力のなか、体をシートに固定しているのは座席ベルトのみ。そのとき彼は、先ほどの声の正体に気づいた。《スターダスト》の正面ディスプレイが六つのウィンドウに分割され、各々にアナウンサーやコメンテーターや特派員が映し出されていたのだ。
「言いたいことはわかってますよ、ペリー」隣からブルが言った。
「俺のこと、どうしようもないニュース依存症だって思ってるんでしょう。そうですよ、俺はだめな奴だ。ここに映ってるのは、一〇万キロ以上離れた地上の話だっていうのに。だが、俺たちの行く手には……そう考えたら、どうしても、何か別のことで気分をまぎらせたくて」
ローダンは顔を横に向け、友の顔をまっすぐに見つめた。ブルはつらそうだった。長いこと泣いてから涙をぬぐったかのように、目の下が赤くなっている。月へと驀進する宇宙船のなかで、ただ一人眠らず見張り役を務め、帰還のフライトははたしてあるのかと思いをめぐらせる。それはけっして、楽な任務ではないだろう。
「気にするな」ローダンは言った。「俺たちはみな、ちっぽけな人間さ」
それから、今もなおディープスリープ状態のマノリとフリッパーを指して尋ねた。
「二人に異常はないな?」
ブルはうなずく。
「《スターダスト》は?」
「ご機嫌な旅に、クッションで丸くなる子猫みたいにのどをゴロゴロ鳴らしてますよ。NOVAの三段目エンジンは予定どおり三時間前に切り離されました。ぐっすり寝てたんで気づかなかったでしょう?」
ローダンは冗談には乗らず、さらに尋ねる。
「ほかには?」
「特にありません。ああ、技術者連中が次々に新しいブラックジョークを開発してましたよ。録音してあるんで、俺が寝ちまったら聞くといいでしょう」
「そうするよ。よい夢をな」
「どうも!」
ブルは伸びをすると、楽な姿勢を探して体を動かす。右手の人差し指と親指がディープスリープへと誘う注入器のスイッチにかかった。だが、スイッチはいっこうに押されない。
「大丈夫か?」ローダンは静かに尋ねた。
「ああ、もちろん!」ブルは答えた。だが、しばらく黙ったあと続けた。
「いや、違う……全然大丈夫じゃありません」
「不安か?」
ブルはにやっと笑ってみせた。
「俺はテストパイロットで宇宙飛行士ですぜ? 不安なんて俺の辞書にはありませんよ」
「それじゃ、何か心配でもあるのか?」
「心配じゃなく、『根拠ある懸念』と言ってください。オーケー?」
「オーケー。で、いったい何を懸念している?」
「これですよ」
ブルはニュースチャンネルを消し、ディスプレイに一枚の画像を呼び出した。それはパウンダーに見せられた、あの写真だった。月面基地から送られてきた最後の写真。神経がすり減るほどの粗い画質で、クレーターと、その中央にある巨大な丸い物体が映っている。
「これがどうした?」ローダンは尋ねた。
「こういう考えかたもありますぜ、ペリー。すべては、はったりかもしれない。我らが友人、大ロシアと中国のね。こいつはただの薄っぺらいバルーンってわけだ。試しに計算したんですが、真空状態なら、宇宙服の酸素ボンベ一本もあればこの大きさのバルーンをパンパンに膨らませるには十分です。ありえる話ですよ」
「だが、おまえはそうは思わないわけだな?」
「思いませんね」ブルは首をふった。
「親愛なる大ロシアと中国の連中に、そんなユーモアはありません。俺は宇宙飛行士として連中に最大限の敬意を払っていますが、それでもです。違う、これは人間のしわざじゃない。わかるでしょう、ペリー? こいつは明らかに未知の、地球外生命体のものだ」
「おまえの言葉を借りれば──こういう考えかたもあるな。つまりだ、それ以上に納得のいく答えは俺には思いつかない。おそらくパウンダーにもな」
ブルの瞳に辛辣な満足の笑みが浮かぶ。
「俺にもです。ということは、こいつは地球外生命体のしわざってことだ」
「それじゃあ不満なのか?」
「ロシア人や中国人や、その他の人間のしわざってよりはマシですけどね」
「ですけど、何だ?」
「もう嫌ってほど何度も考えたんですよ。俺たちはなぜ、《スターダスト》で宇宙に送り出されたのかって」
「それは、月の状況を確認するためだろう」
ブルは音を立てて息を吐き出した。
「まさか! それなら無人探査機のほうがよっぽど役に立ちますぜ。だけど、無人探査機は全部、不可解な形で故障しちまった。一台残らずにね。それに月面基地も。大ロシアと中国の宇宙ステーションからの連絡も途絶えたままだ」
「いったい、何が言いたいんだ?」
ローダンは尋ねたが、その実、とっくに答えに気づいていた。
「簡単ですよ。どうしてパウンダーは俺たちを月に送りこんだのか? 奴は頑固だし、俺は一度ならず奴のことを……まあその、嫌な野郎だとののしってきました。でも、パウンダーは馬鹿じゃない。殺人者でもね。俺たちを送りこむからには、奴には何かしら勝算があるんですよ。俺たちの知らない何かを知っているんだ。問題はそれが何なのか──」
ローダンはすぐには答えなかった。ただ彼には予感があった。口にできるほど明瞭ではないものの、その予感は「ミッション」などと大層に呼ばれる、この馬鹿げた飛行に命を賭けるにたる希望を彼に与えてくれるのだった。
ローダンは肩をすくめて、ただこう言った。
「まあ、そのうちわかるだろう。さ、もう眠るんだ! おまえが睡眠不足なばかりに肝心な瞬間を見逃したりしたら、俺は自分を許せないからな!」
ブルは黙ってローダンを見つめた。口を開いて何かを言いかけたが、やめにした。彼はローダンをよく知っていた。こうなったら、この男はもう何もしゃべるまい。
ブルは注入器のスイッチを入れた。
ローダンはしばらくの間、物思いにふけるように友人を見つめていたが、やがて正面ディスプレイをオフにし、コックピット内の照明を落とした。
星々の光のなか、ローダンと眠りに落ちたクルーたちは月に向けて疾駆していった。
4
《スターダスト》が月の軌道に入る一時間前、夜明けが近づく頃合いに、レスリー・パウンダーは自分の執務室に足を踏みいれた。今回のミッションがはたして成功するのか否か、NASAの飛行司令官にはわからない。彼に確信できたのは、ローダンという最良の人材を送りこんだということ。そして、たとえ何が起ころうと、自分には当分──いや、もしかすると二度と、安息など望めないということだけだった。
彼は明かりをつけないまま、部屋をぐるりと囲む大きな窓の前に立った。
パウンダーの執務室は、ネバダ宇宙基地の管制タワーの最上階にある。それはロケットの形状を模した四〇階建てのタワーだった。二〇年近く前、タワーの建設をめぐってパウンダーの首はあやうく飛びそうになったものだ。
当時のNASAは、海面上昇の影響でフロリダのケネディ宇宙センターからの移転を余儀なくされていた。その際にヒューストンのジョンソン宇宙センターに全機能を移すことに反対し、ネバダ宇宙基地の建設を強行したのがパウンダーだった。このことはのちに、先見の明に富んだすばらしい決断であったことが判明する。
しかし、当時の人々はパウンダーの「浪費」を、とんだ誇大妄想だと非難した。彼はそうした声を歯牙にもかけなかった。ただでさえ足りない予算の一〇パーセントもの額を常識外れのプロジェクトに費やすのかという、激しい批判に対しても同様だった。
レスリー・パウンダーの生涯の使命は、人類の宇宙進出を後押しすることである。だが自分自身が宇宙の星々を目指すには、彼はあまりに年老いていた。交互に襲いくる重力加速度と無重力との負荷に、その骨身は耐えられないだろう。
その代わり、ほかの誰かを宇宙に送り届けるためならば、彼はあらゆる尽力を惜しむことはない。──そして、その尽力を来る日も来る日も狭苦しいネズミ穴のような司令室で行うなど、あってはならないのだ。
パウンダーが、今もなおNASAの飛行司令官の座にとどまっているのは、この資金不足の宇宙開発機関を引き継ごうという者が一人もいなかったからである。
東の空が明るくなっていく。ネバダ宇宙基地は、ネバダ州の北から南へと連なる無数の谷のひとつに位置している。谷底は平坦で乾燥した大地が広がり、まるで月面のようだった。わずかな違いはといえば、荒涼たる岩々の合間に頑固に根を張るジョシュアツリーくらいのものだろう。そこから山の斜面を登っていくと──実際、パウンダーはよくそうしている。宇宙にあこがれを抱いてはいても、彼は大地を愛する男なのだ──、節くれだった松の木がジョシュアツリーにとって代わる。そうして汗を流し息を切らして山頂にたどり着けば、澄みきった空気のもと、はるか遠くまで続く眺望を楽しめるのだ。
天をふり仰げば、頭上には現実とは思えぬほど壮麗にきらめく宇宙が広がっている。あの空の上では、今この瞬間にも《スターダスト》が星々の間をぬって月軌道にアプローチしているはずだ。ローダンとその部下たちは今、何を思うのだろうか。
パウンダーは考える。はたして彼らは何を──。
「いやあ、実にすばらしい眺めじゃないか」背後から声がした。「うらやましいねえ、パウンダー」
レスリー・パウンダーは一呼吸おいてから、ゆっくりと振り返った。彼は驚愕などしてはいなかった。かつて、妻と子供たちの乗った車がフロリダで事故を起こしたあの日以来、彼が驚愕することはもはやない。車を呑みこんだ沼地は二年もの間、彼の家族を解放してくれなかった。あの日以来、パウンダーを驚愕させられるものは、この世に存在しない。
一人の男がパウンダーのデスクの前に座り、回転椅子に身を預けて無造作にくつろいでいた。小柄な、まるで小びとのような男だ。年は若くない。少なくともパウンダーと同年代である。頭頂は禿げあがり輪のように白髪が残るのみだが、その顔には不可思議なほどに若々しい張りがあった。あくまでも自然で、美容整形を施したときによく見られる人工的なぎこちなさはまったく感じられなかった。
「まあ座りたまえ、パウンダー!」
男はそう言って、気取った様子で来訪者用の椅子を指し示した。まるで、ここが彼自身の執務室であり、侵入者は自分ではなくパウンダーであるかのように。
「憲兵隊を呼んで、きみを窓から放り投げてやるべきかな、マーカント」パウンダーは言った。「それでも、まだ笑っていられるか、見ものではある」
「おもしろい実験だ」と、マーカント。「憲兵隊がきみの命令に従うと仮定すればだがね」
彼はデスクの端に載った電話を指し示した。
「試してみるかね?」
パウンダーは考える。アラン・マーカントは謎の存在だった。この男がネバダ宇宙基地に出没するようになったのは、数年前のことである。何者かと問いただされるたびに、あるいは問われもしないうちから、彼は相手の鼻先に身分証をつきつけた。国土安全保障省(ホームアンドセキユリテイ)。その肩書きは、相手に畏怖とは言わないまでも、畏敬の念を抱かせるには十分だった。
それ以外にマーカントが何をするかと言えば……何もしていなかった。彼はただ、その辺にいるだけなのだ。ネバダ宇宙基地内部の、到底立ち入れないような場所に忽然と現れては、権力と時間をもてあました雑談好きの好々爺としてふるまうのが常だった。
いったい、この男の目的は何なのか? パウンダーには推測することしかできない。スパイか? あるいは単なる陽動で、別の国土安全保障省のエージェントが人知れず任務を遂行できるよう、奇抜な行動でまわりの注意を引いているのか?
実のところパウンダーは、一度ならず自分たちはペテン師にかつがれているのではないかと疑った。どこかの頭のおかしな輩が国土安全保障省の名をちらつかせ、完璧に偽造した身分証を使って人々をからかい、悦に入っているのではないか、と。
しかし、その線はありえなかった。というのも、マーカントの素性を探ろうとしたパウンダーの試みはことごとく失敗に終わったからである。情報ネット上に関するかぎり、マーカントは存在すらしていない。それは、たったひとつの真実を指し示していた。すなわち、マーカントはたしかにアメリカ合衆国で最高峰の権力を擁する、かの諜報機関に所属しているということだ。
その男が今、《スターダスト》が人類の命運を左右するミッションを担い月に到達しようというタイミングで、彼の執務室に現れて悠然とくつろいでいる。
パウンダーは深く息を吸ってから、ドアに歩み寄り扉を閉めた。彼は誇り高い男だ。しかし、パウンダーという男のなかには、誇りよりもさらに強力な二つ目の本質が隠れていた。それは好奇心である。彼は来訪者用の椅子に腰かけた。
「何が望みだ、マーカント」
「きみと話したいと思ってね」
「なぜ?」
「今現在の状況を憂慮しているからだよ」
パウンダーは思わず声をあげて笑い飛ばした。
「きみが心配するにはおよばんよ。宇宙にいるのは私の部下だ」
マーカントはじっと黙ったまま、陽気な顔にそぐわない、常ならぬ真剣なまなざしでパウンダー見つめる。それから、言った。
「私のでもあるがね」
「うぬぼれるな」パウンダーは身を乗り出す。「国土安全保障省は法も正義も関係ないとでも……」
「私の部下は別に、国土安全保障省の人間として話しているんじゃない」
マーカントは言葉をさえぎった。
「私は一人の人間としてここに来たのだよ。《スターダスト》は人類を未知へと運んでいる」
パウンダーは一瞬たじろいだ。マーカントの声に真剣な響きがあったからだ。
「……とにかく心配はいらない。ローダンは私の部下のなかでも、もっとも有能な男だ。《スターダスト》のクルーたちは、およそ人力のおよぶかぎりにおいては確実に信頼できる」
「その点に関しては、そう早急に断じるのはどうかと思うがね」
マーカントはまばたきをして言った。
「まあ、それについては後回しだ。私が心配しているのは、なにも《スターダスト》に乗る四人だけではない。人類全体を案じているんだよ」
マーカントは、ここでぐっと身を乗り出した。
「パウンダー、我々は今、奈落の淵に立っている」
パウンダーは相手をじっと見やった。この男は、いったい自分に何を求めているのだ?
気でも違ったのか? それとも、そのいわくありげな雰囲気に騙されていただけで、本当は最初から気がふれていたのだろうか? パウンダーは口を開いた。
「労力のむだ遣いではないかね、マーカント? 人類は、そもそも最初から奈落の淵で生きてきた。そしてきみが指摘したとおり、現在もそうして生きているのだ」
「たしかに。だが私はね、今この瞬間、ほんのひと押しで今度こそ奈落の底に転がり落ちるくらい、我々はぎりぎりの位置に立っているのではないかと危惧している」
パウンダーは理解した。少なくとも、理解したと思った。
「《スターダスト》のミッションのことか? そのことならば心配ないと──」
しかし、マーカントは首をふった。
「いや、《スターダスト》のことじゃない。私が言っているのはここ、地球のことさ」
彼は指の関節でコンコンとデスクを叩いてみせた。
「パウンダー、きみが私を毛嫌いしているのは知っている。無理もない。諜報機関の人間を好む奴はいない。なにしろ、信用ならないからねえ。だが、ここはひとつ見かたを変えてみないか。たとえば、私はきみと同じくらいのベテランだ。もう何十年もこの世界で生きてきた。多くを経験し、多くを成し遂げてもきた。もっとうまくやれた仕事もある。だがそれ以上に、いつの日かこの所業のために地獄の業火に焼かれるだろうと思うような仕事も数多くこなしてきた。まあ、地獄があればの話だがね。とにかくだ、私は多くを経験し、多くの人間と知り合い、対話してきた。信頼を醸成し、ときには友情を深め、ときには共通の目的のために手を組む。そうするうちに、目には見えない、しかし確実に存在するネットワークが構築されていくわけだ。すると、どんな文書にも記されず、どんな記録媒体にも保存されていない情報が耳に入ってくるようになる」
「いったい何が言いたい?」
パウンダーは問いただす。マーカントの言葉は彼を不快にさせていた。的を射ていると感じてしまうからこそ、なおさらにだ。認めたくはないが、彼とマーカントは自分が思っている以上に似た者同士なのだ。
「大ロシアと同盟を組んだイラン人民共和国が、イラクに対して新たに攻撃を加えようとしている」
パウンダーは額にしわを寄せる。
「それがきみの話の本題か? イラクに攻撃だと? もう何度目だと思っている? 一五回目? 二〇回目か? いまさら誰が気にするというのかね?」
「二三回目だ」とマーカント。「だが、これが最後になるだろう。イランは戦術核兵器の投入を計画している。いっぽうで偶然耳にしたのだがね、イラクの参謀本部はその場合、報復攻撃を行う用意があるようだ。戦略核兵器でテヘランを焼き払うつもりなのだよ」
パウンダーが絶句するなか、マーカントは続ける。
「これが何を意味するか、わかるかね? 世界はあと戻りできない一線を越えるのだ。代理戦争は大ロシア対アメリカの直接戦争に発展するだろう。数万もの核弾頭を保有する二国のね」
マーカントの声には、無造作な感じを無理に装うような響きがあった。そのことがパウンダーに、この諜報部員が真実を語っているのだと確信させる。
しかしなぜ、星を夢見る一介の民間人である自分にそんな話をするのか? しかも、よりにもよってこのタイミングで。
「それだけじゃあない」マーカントは続けた。
「中国の諜報機関内にいる情報提供者が、こんな報告をしてきた。もしアメリカと大ロシアが核戦争を開始したら、中国はその機に乗じて台湾を奪還するつもりだとね。アメリカは自国に手いっぱいで台湾を防衛できない。ただし、だ。この侵略は成功しないだろう。なぜなら、台湾はすでに秘密裏に核能力を保有している。中国が攻撃をしかければ、さらなる核戦争は避けられない」
「たしかに懸念すべき情報だ。真実であればの話だが」パウンダーは慎重に口を開いた。
「だが、どうしてそれを私に? 私は予算を削られ沈みゆく非軍事宇宙機関の長に過ぎない。それに、俗世のごたごたとは可能なかぎり距離をおいている」
「だからこそだよ。私だって上からの信用の薄い、ただの老いぼれ諜報部員だ。名も知らぬ小国に置かれたアメリカ大使館と同じくらい、どうでもいい仕事をあてがわれた窓際族さ。そんな我々に世界を動かす働きができるなどとは、誰も思うまい。だからこそ、我々は世界を変えられるのだ。互いに協力しあえばね」
「わからん。私に何をしろと──」
「《スターダスト》は、地球外生命体とコンタクトをとるために月に向かった。私の目を欺けると本気で思っていたのかい?」マーカントは微笑んだ。
「すでに把握ずみだ。私だけではなく、国土安全保障省もね。私については安心してくれていい。だが省のほうは話は別だ。あそこの連中は狭量でね。視野が狭いものだから、地球とその中で起きる争いにしか目が向かない。そして愚かにも、それが変えがたい人間の本質だと思いこんでいる。こうした手合いは未知なる存在を恐れる。脅威や侵略といったものさしでしか、物事を測れないのさ。目には目を、歯には歯を、民族と民族の争い、そういった考え方しかできない。彼らは恐怖にかられ、その恐怖心の命じるままに行動するだろう。そうなれば、いかなる手段も正当化される」
「たしかに、そういう人間もいる」
パウンダーは認めた。彼自身、長いキャリアのなかで、そういった了見の狭い人間と向き合ってきたのだ。
「だが、結論を急ぎすぎではないかね? きみの主張が正しいとすれば、大統領はなぜ《スターダスト》の打ち上げ命令を出したのだ」
「私の主張が正しいからこそさ。目的は、地球外生命体との平和的なコンタクトではない。彼らのような人間からすれば、そんなことあってはならない。そう、《スターダスト》は爆弾を運んでいるのだよ。未知なる存在を跡形もなく消し去るための爆弾をね」
「何を……まさか、そんな……」
パウンダーの言葉が力なく途切れる。彼はマーカントを見つめ、必死になってその表情を読もうとした。この諜報部員の言葉がでたらめで、すべては趣味の悪い冗談であるというサインを読みとろうと。しかし、そんなサインはどこにもなかった。
「《スターダスト》に積みこまれた陸上車両は細工されている」マーカントが言う。
「国土安全保障省が車両に核爆弾を仕掛けたのだ。爆弾は無線信号で起爆する。無線信号が途絶えたら、時限装置が作動して爆破する仕組みだ」
パウンダーは反論しようと口を開いたが、言葉は出てこなかった。ここ数週間のことを思い返す。政府の態度が突然変わり、ワシントンに呼ばれたことを。政府は《スターダスト》の打ち上げのため、ほぼ無制限の予算を提供してくれた。長年自分を無視してきた長官や官僚たちが、彼のためにわざわざ時間をつくり、機嫌をとってきた……。
マーカントの言葉は真実だ。爆弾はたしかに存在する。
「どうすればいい?」パウンダーは問う。
「クルーたちに警告しろ。ただし、まわりには気づかれない方法でだ。きみは古だぬきだ、できないとは言わせんよ。断言してもいいが、きみはローダンと機密の暗号をとり決めているはずだ。彼に警告したまえ!」
パウンダーは時計に目をやる。まもなく《スターダスト》は月の軌道に入り、その軌道に乗って月の裏側へと到達するだろう。月の陰に入れば、通信はできなくなる。時間がない。パウンダーはドアに向かう。ドアノブに手をおいたところで、再びマーカントに振り返った。
「よかろう。私はローダンに警告を送るが、きみはどうするのだ? どんな手を打つ?」
「さて、特には」
グリルパーティーでたわいない会話を終えるときのように軽い笑みを浮かべて、マーカントは言った。
「もう二、三人、古い友人とおしゃべりでもするとしようか……」
5
距離にして一秒。といっても、一光秒である。およそ三〇万キロ。それが三日間の飛行を経た今、《スターダスト》と地球とを隔てる距離だった。
わずか脈拍一拍分に満たない通信の遅延が、《スターダスト》のクルーたちに自らと故郷との間に横たわる虚空を認識させる。
ペリー・ローダン、レジナルド・ブル、エリック・マノリ、クラーク・フリッパー。今は全員が人工的なディープスリープから目覚め、月への接近を油断なく見守っていた。
彼らの心に不安はない。ディープスリープによってもたらされた深い安息感と平静心のおかげだった。持続時間は二、三時間といったところだが、その間は、あたかも宇宙全体を敵にまわしても勝てる無限の力を手にした気分になれるのだ。四人の男たちにとってそれは装甲であり、ちっぽけな鉛の機体で宇宙を往く彼らにとって唯一の防御壁だった。
実際の彼らは無敵どころか、かぎりなく脆い存在だ。ささいな不具合、見過ごされたプログラムミス、スペースデブリの小破片との衝突、あるいはたったひとつの判断ミスが命とりになりかねない。
クルーのコンディションを常時監視し、グリーンの数値をひっきりなしに羅列するディスプレイから、ローダンは目を転じた。
フリッパーは、持ち前の揺るぎない自信を多少は取り戻したようだった。目覚めた彼を、吉報が待っていた。ベスの登山隊からの救難信号が受信され、現在、発信位置を特定中なのだという。救助隊も派遣されるだろう。もしかしたら、ベスの救助は間に合うかもしれない。もしかしたら──。フリッパーはその希望にすがっていた。
マノリはいつものように平静に、シートに身を横たえている。規則正しく呼吸し、身じろぎひとつしない。はたしてこの男が取り乱すことなどあるのだろうかと、ローダンは不思議に思った。そんな様子は想像さえできなかったが、考えるにつけ、そんな事態は避けたいものだとも思う。
ブルは、ヘルメットのバイザーを下ろしている。ローダンは、内蔵ディスプレイにちらつく画像を目で追った。外側から見ているので左右が反転しているが、ブルは三つのニュースチャンネルを同時に追っているようだった。映像は戦車と、移動式発射台に威圧的に掲げられたミサイル、そして憤った様子で演説する男たちのように見える。
だがディスプレイの大半を占めていたのは、シミュレーションゲームの画面だった。友人の築いた惑星帝国がまたたく間に銀河の大部分を制覇していくさまを、ローダンは眺めていた。中心にある惑星は、ブルが「テラ」と名付けた地球だった。むだに悩むことをよしとしない友は、うまく気分転換をしているようだ。
では、ローダン自身はどうなのか? 自分の不安とどのように向き合うのか? 彼は心の内に耳をすます。すると、奇妙な確信がわいてくるのだ。自分は今、二度と戻れない奈落の淵に立っている。生きたければ、これまでの人生を脱ぎ捨てて、奈落に飛びこまなくてはならない。その先の人生をうかがい知ることもできず、そもそも、そんなものが存在するのかすらも不確かなままに──。
「着陸五九分前」
管制センターから通信が入った。まるで機械のように冷静で感情のないアナウンスだが、機械ではなかった。その一瞬──いや、地球との一光秒の距離のために二瞬ほど遅れて、同じ声が今度は活気にみちた調子で告げる。
「そろそろ降参したらどうだ、レジー! どうあがいたって俺には勝てんさ。あんたが一個艦隊をつくってる間に、こっちは銀河の半分を制圧したぜ!」
ブルがヘルメットのバイザーを上げた。笑っている。
「またやられたぜ、レイモンド。まったく、いつもぎりぎりで勝ちやがる」
そうだ、レイモンドだ。この技術者の名前を、ローダンはすっかり忘れていた。ネバダ宇宙基地には、彼のような技術者が文字どおり何百人もいるのだ。少なくともローダンにとっては、その全員の名前を覚えるなど不可能だった。彼は、本当に重要なことしか記憶にとどめないのである。
たとえば、このシャトル・プロジェクトの技術主任だったバーンハードのことはよく覚えている。ドイツ系アメリカ人の技術主任はとにかく気性が荒く、彼にくらべればパウンダーですらつきあいやすい人物に思えるほどだった。バーンハードは悲劇的な事故で命を落とすまで、パウンダーすらかすませるほどの熱意をもって献身的に、この宇宙飛行計画に尽力した。その不屈の働きがなければ、自分が今こうして地球を飛び立つことはなかっただろう。ローダンは一瞬たりとも疑うことなく、そう信じていた。
いっぽう、ブルは全員の名前を覚えていた。全員だ。技術者だけではない。臨時雇いの掃除スタッフ一人ひとりにいたるまで、全員である。しかも彼は、その各々とすんなり良好な関係を築いてのけるのだ。
「そっちこそ、レジー!」レイモンドが返す。「ま、ぎりぎりどころか、今はお互い一光秒も離れてるがな。おい、気をつけろ。今のあんたの体調データをパウンダーが知ったら、あのおっさん、シャトルを出してあんたを回収しようと追っかけてくるぜ!」
「望むところだ。そうなれば、この狭っ苦しい筒から抜け出せるってもんさ」
「たしかにな! それに……」
レイモンドの声が途切れる。しばし沈黙が続いたのち、彼は事務的な声で告げた。
「逆噴射フェーズ開始まで、あと三〇秒。総員、配置についてください!」
三〇万キロ離れてはいても、ネバダ宇宙基地で何が起こったのかは容易に想像がついた。パウンダーが管制センターに入ってきたのだろう。それで、机に足を乗せて業務にいそしんでいた何百人もの技術者たちが、しゃんと背筋を伸ばしてディスプレイに向かったというわけだ。あのご老体はユーモアを解さない。仕事は仕事であり、そこには一片の笑いも許されない。
「逆噴射フェーズまで、あと一〇秒……五、四、三、二、一、ゼロ!」
容赦ない衝撃とともに《スターダスト》のエンジンが逆噴射される。体重の九倍ものGが宇宙飛行士たちをシートに押しつけた。ローダンは目を閉じ、網膜にちらつく色鮮やかなもやに意識を向けて苦痛をやりすごそうとするが、うまくはいかなかった。無重力下で過ごした三日間で、体が新しい環境に慣れきっていたためだ。
《スターダスト》が月に近づいていく光景を、ローダンは想像する。肉眼でもはっきりと見える、燃えさかる星のような機体がしだいに速度を落として、最終的には秒速三・五キロまで減速していく様子を。ここまで減速することで、月の重力場がちっぽけな宇宙船をとらえ、その周回軌道に引きこんでくれるのだ。
周回軌道に乗った《スターダスト》は、そのまま月を一周する。これはクルーに過度の負荷をかけることなく減速するためであり、同時に偵察のためでもあった。
《スターダスト》は着陸に先だって月の地表を探査する。特に月の裏側は入念に偵察しなければならなかった。月の衛星がそろって不具合を起こして以来、月の裏側は人類の歴史上長らくそうだったように謎めいた場所に逆戻りしてしまったからだ。その後、順調に周回を終えれば《スターダスト》は着陸態勢に入り、月面のアームストロング基地に着陸することになっていた。
逆噴射フェーズが終了すると、ローダンとクルー一同は安堵のため息とともに快適な無重力を味わった。一〇秒後、姿勢制御用ロケットが噴射され、機体を精密な動きで旋回させていく。コックピットの窓の向こうに月が姿を現した。手を伸ばせば届くほどに近い。
実のところ、この旋回は貴重な燃料を浪費する動作だった。しかも二重にである。というのも《スターダスト》は着陸にあたって、もう一度方向転換しなければならなくなるからだ。しかし、ブルは頑としてこの旋回を主張した。
「俺たちの《スターダスト》をあんな……ええと、気まぐれな花形女優みたいなロケットに乗っけて月まで飛ばしておいて、こっちは月をひと目見ることも叶わないなんて、そりゃあないでしょう!」
最初の飛行会議の際、ブルはそう言って憤慨した。それに対してパウンダーは──常であれば太陽が毎朝東からのぼるのと同じくらい確実に、攻撃には攻撃で返すはずの彼が、このときはブルをちらりと一瞥しただけだった。そのまなざしには一種の尊敬が混じっていたようにローダンには思われた。それっきり、パウンダーは何事もなかったかのように飛行計画の説明を続けた。しかし、後日配布された飛行計画書には、ブルの主張した旋回動作がしっかりと記載されていたのだった。
月はみるみる大きくなっていく。その姿は、やがてコックピットの窓いっぱいに広がった。ブルが船室の照明を落とすと、ディスプレイも自動的に暗くなる。青白い月光が《スターダスト》の船内を満たした。
軽い咳払いに続いて、パウンダーから通信が入った。
「諸君、そちらは順調かね?」
「イエス・サー」
船長であるローダンが代表して答える。
「すべての飛行および診断データは許容値の範囲内だ」
まるでローダンの返答を聞いていないかのように、パウンダーは続けた。
「それは幸いです」
「ところで、クラーク・フリッパーに報せがある。救助隊がアンナプルナ連峰から発信されたモールス信号をキャッチした。信号は不規則で、自動送信とは思えないとのことだ。きみの……」
パウンダーは適切な表現を探して、しばし口ごもった。
「きみの友人の登山隊には、まだ生存者がいるのだ」
「ありがとうございます。それは朗報です」
フリッパーは硬く答えたのみだったが、その目尻に涙がたまっているのをローダンは見逃さなかった。
「うむ、そうだろうな」
パウンダーは言って、ふと黙る。少しの沈黙ののち、再び口を開いた。
「ところで、ローダン。きみには悪いニュースだが、賭けはそちらの負けだ。セント・ヘレンズ山は噴火をまぬがれた」
そしてパウンダーはひとつ咳払いをした。
「さて諸君、《スターダスト》はこれより一四秒後に月の陰に入るようだ。陰を通過したのちに、また連絡する。以上、通信終わり」
パウンダーの通信が終わるか終わらないかのうちに、ブルが勢いよく振り向いた。
「賭けって何です、ペリー? パウンダーが賭けだなんて……」
ローダンは計器に目を向けたまま言った。
「その話はあとだ、いいな? 我々は今にも……」
突然、《スターダスト》の船内が暗くなる。月の陰に入ったのだ。月は太陽光をさえぎり、船の発する電波も、地球から発信される電波も呑みこんでしまう。
コックピットの画面下端に流れていた地上ステーションからの診断データがフリーズし、「接続が切断されました」という警告メッセージが現れた。
《スターダスト》のクルー一同は息を殺して、じっと待った。何かが起こるのを。耳をすまし、孤独など大したことではないと自分自身に言い聞かせる。自分たちと地球とをつなぐへその緒のような通信がもたらすのは、安心感という幻想に過ぎない。途絶えたところで、なんの問題もない──。
数秒が過ぎた。
何も起こらない。
ブルが深く息を吸いこんだ。
「さあ、ペリー! 俺をごまかそうったって、そうはいきませんよ。あんたは賭けなんてしない。それに、あのくそ頭の固いパウンダーにいたっては、賭けって言葉すら知らないだろうさ。白状したらどうです、いったい──」
ガクン、という衝撃がブルの肺から空気を押し出す。突如、《スターダスト》のエンジンが作動したのだ。船が旋回をはじめる。飛行計画にはない急なエンジン噴射に、ブルは叫び声をあげた。だが殺人的なGに肺を圧迫され、その叫び声は押し殺したうめきに変わる。シートに斜めに押しつけられた彼の左腕は、ありえない方向に固定されていた。
ローダンはあえてそれを無視し、エンジンのデータを呼び出した。網膜の上におどる焼き付き越しに、なんとか数値を読みとった。《スターダスト》はエンジン全開で逆噴射していた。
右手を必死に動かし、シート内側のセンサー部分に叩きつける。ピーピーという機械音が正しくヒットしたことを知らせてくれた。シートからジョイスティックがせり上がる。ローダンはやっとの思いで片手を持ち上げ、グローブに覆われた人差し指と親指をレバーにかけて、しっかりと握った。
「搭載コンピュータに異常発生」絞り出すように声を発する。「再初期化!」と叫び、人差し指と親指を同時に押しこんだ。ディスプレイが暗転すると同時に、《スターダスト》のエンジンが停止した。恵みの無重力が再び船内を包んだ。
だが、それはまやかしの恵みだった。《スターダスト》は月に向かって落下している。スピードが落ちすぎて、周回軌道上の飛行を維持できなくなったのだ。
ブルが痛みにうめいている。マノリがシートベルトをはずしてブルのもとに飛んでいくのを、ローダンは視界の端で確認した。
「肩を脱臼している」
船医はそう診断する。そしてシートの背にしっかりとつかまると、そのままなんの説明もなく脚をあげ、ブルの肩に強烈な一撃を加えた。ブルから激痛の叫び声があがる。
「今はもう、もとどおりだがね」
マノリは平然と告げ、ポケットから使い捨て注射器を取り出した。
「痛み止めだ、レジナルド。少なくとも多少は効くだろう」
マノリが痛み止めを注射すると、ブルのうめき声はしだいに消えていく。船医は最後にもう一度ブルに向かってうなずくと、すばやくシートに戻ってベルトを締めた。
コックピットのディスプレイはダウンしたままである。
「初期化失敗。バックアップ・コンピュータ1、初期化開始」
ローダンは言う。ディスプレイは黒画面のままだ。
「初期化失敗。バックアップ・コンピュータ2、初期化開始」
反応なし。
「初期化失敗。バックアップ・コンピュータ3、初期化開始」
反応なし。
「初期化失敗。バックアップ・コンピュータ4、初期化開始」
やはり反応なし。
「初期化失敗。手動操縦に移行する」
「不可能だ!」マノリが叫んだ。「飛行データもない状態で……」
「高度三六〇キロ、降下速度秒速一・八キロ」
はっきりと告げる声があった。痛みをおし殺すような響きの声の主はブルだった。
「その数値……どうしてわかる?」
「こいつさ」
ブルが左手を上げる。その手首には、古めかしい機械仕掛けの腕時計がはまっていた。
「エンジンが急発進したときの時刻を覚えておいた」
「時刻を覚えておいた、だって?」船医は唖然とした。「あの加圧下で、肩を脱臼しながらか?」
「ああ。たまたま時計に目がいってね」
そう言うブルの口調には、ローダンにさえ一瞬本気かと思わせる響きがあった。
「偶然……」マノリはブルを呆然と見やる。「だが、どうやってそこから降下速度と高度を?」
「いやなに、高度も確認しておいたのさ。あのとき船の高度は月面上空六一〇キロだった。あとは経過時間と元々の高度、それに俺の知るエンジン推進力から数値を計算した。ここを使ってな」
ブルはヘルメットを指でコツコツと叩いてみせた。マノリは言葉もなく黙りこんだ。
月はいまや間近に迫り、地表全体を視界に収めるのも難しいほどだ。クレーター、山脈、そして青白いむき出しの岩肌が彼らを待ち受けていた。
「逆噴射、開始!」
ローダンは宣告ののち、エンジンを点火する。Gが発生するが、その威力は弱い。地球の重力の二倍程度のゆるやかなものだ。
コックピットにしばしの静寂が訪れた。クルーたちはそれぞれ思考にひたる。すると、フリッパーが叫んだ。
「ペリー、だめです!」
「どうした、クラーク」
「レジナルドの提示したデータに基づいて、燃料消費量を概算したんですが……」
「着陸には足りないか?」
「いいえ、着陸は可能です。ただ、地球に戻るだけの燃料が残りません!」
ローダンはゆっくりとうなずいた。フリッパーは搭載物管理技術者だ。彼は《スターダスト》のあらゆる構成部材と積載物の重量をグラム単位で暗唱できる。
「どうすべきだと思う?」
「逆噴射せず自然落下し、衝突直前でエンジンを全開にすべきです。これなら効率よくエンジンを使用でき、着陸後も帰還用の燃料を確保できます」
「レジナルド、おまえの意見は?」
「クラークからの信頼は光栄だが……」ブルがうなる。
「俺の概算はそこまで正確なものじゃない。数値に〇・一パーセントでも誤差があれば、俺たちは地面に激突して、ひかれたハリネズミみたいにぺちゃんこになりますぜ」
ローダンはコックピットの窓から外を見やった。月はもう眼前に迫っている。粉塵の立つ大地から突き出た岩山のひとつひとつが識別できるほどだ。
「このまま慎重に接近を続ける」彼は決断した。「あとのことは、無事着陸してから悩むとしよう」
それから、わずか二分足らず。《スターダスト》は後部エンジンを吹かしながら、やわらかに月面に着陸した。パウンダーでさえ称賛せざるを得ないであろう、なめらかな着地だった。
もっとも、パウンダーが再び《スターダスト》と対面をはたす可能性は、いまや限りなくゼロに近かったが。