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何度も訪れるであろう世界的危機を脱するために――『新薬という奇跡』文庫版解説(サイエンスライター・佐藤健太郎)

人類を救う特効薬やワクチンはどのように生まれるのか? その舞台裏を描く『新薬という奇跡 成功率0.1%の探求』が刊行されました(単行本時タイトル=『新薬の狩人たち 成功率0.1%の探求』)。
文庫版でも単行本に引き続き、サイエンスライターの佐藤健太郎さんに解説をお寄せいただきました。

新薬帯

『新薬という奇跡 成功率0.1%の探求』
ドナルド・R・キルシュ&オギ・オーガス/寺町朋子訳
ハヤカワ文庫NF
ISBN:9784150505752
定価1,254円(10%税込)
推薦:仲野徹(大阪大学大学院教授)
解説:佐藤健太郎(サイエンスライター)
カバーデザイン:坂野公一(welle design)

■文庫版解説 佐藤健太郎(サイエンスライター)

 本書のハードカバー版『新薬の狩人たち 成功率0.1%の探求』が発売されたのは、2018年5月のことであった。多くの医薬品産業の関係者や、これから医薬品業界を目指す学生たちが、本書を手に取ったと聞く。奥が深く、複雑怪奇とさえいえる医薬品の世界の最適な案内書といえる本書の刊行に、多少なりと関われたことを心から光栄に思う。

 その後の3年で、医薬品業界にもいくつかの変化が訪れた。そのひとつが、バイオ医薬品と呼ばれる分野の台頭だ。バイオ医薬は2000年代初頭から目覚ましい成長を遂げていたが、ここ数年で横への広がりも加速し、より多彩なタイプが登場している。この分野の成長については、本文及びハードカバー版の解説では簡単にしか触れていないので、ここで補足しておきたい。

 バイオ医薬とは、バイオテクノロジーを用いて製造される医薬品の総称だ。タンパク質製剤、遺伝子治療薬、細胞治療薬、血液(及びその成分)、ワクチンなどがここに含まれる。中でも伸長が目覚ましいのは、抗体医薬と呼ばれる一群の医薬品だ。本書で主に取り上げているアスピリンやペニシリンなどの古典的な医薬(低分子医薬)とは、様々な面で異なっている。たとえば低分子医薬は、原子が数十個から数百個つながった程度の小分子がその本体で、主に錠剤や粉末などの形態で投与される。これに対し、抗体医薬は約二万個の原子から成る巨大分子であり、点滴や注射での投与がなされる。また、低分子医薬は微生物の培養、あるいはフラスコ内での化学合成によって作られるが、抗体医薬は遺伝子組み換え技術を駆使して製造される。このため、その開発や製造には、これまでの医薬とは全く違ったノウハウが求められる。

 抗体は、もともと人体に備わった免疫作用を担うタンパク質の一種だ。体内に入ってきた病原体のタンパク質を見つけ、結合して無効化してしまう機能を持つ。しかし近年、外部から侵入してきた病原体ではなく、人体の特定のタンパク質を狙って結合できる抗体が製造できるようになった。これをバイオテクノロジーの手法によって作り出し、体内に注入して用いるのが抗体医薬だ。たとえば、ガン細胞が増殖する際には、「細胞分裂せよ」とスイッチを入れるタンパク質が働く。その作用を抗体でブロックすることで、ガンの増殖を防ぐことができる。旧来の抗ガン剤は、健常な細胞もガン細胞も見境なく攻撃してしまうために、一般に強い副作用がある。しかし抗体医薬は、ガン細胞のみを狙い撃ちするよう設計できるため、副作用が比較的少なく済む。

 こうした抗体医薬は、旧来の低分子医薬にはない鋭い薬効と高い安全性を有し、ガンやリウマチの治療に大きな進展をもたらした。中でも、肺ガンなどの治療薬であるニボルマブ(商品名オプジーボ)は、それまでであれば全く治癒の見込みがなかった進行ガンにも著効を示すケースがあることから、大きなブレークスルーとして注目を集めた。ニボルマブ創出の鍵となったタンパク質PD-1の発見者である本庶佑・京都大学特別教授は、この功績によって2018年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。こうした優れた医薬が生み出されたのも、抗体医薬の技術の進展あればこそだ。

 さらに近年では、遺伝子治療や細胞治療といった、新たなジャンルの医薬も盛んに研究され、いくつかはすでに医療の現場で活躍している。たとえば白血病治療薬として2017年に米国で認可された「キムリア」は、患者の体から免疫細胞を取り出し、ここに遺伝子操作を加えてガン細胞への攻撃能力をもたせた上で、培養して体内に再注入するというものだ。これは医薬と呼んでよいものなのかと思えるが、すでにこうした治療法が医薬の名目で承認され、薬価がつけられている時代なのだ。

 その他、スマートフォンのアプリによって行動管理を行ない、糖尿病やニコチン依存症などの治療を助けるデジタルヘルス分野も、近年大きな注目を受けている。製薬企業が開発に加わり、臨床試験を経て厚労省が認可するという手順を踏んでいるから、これらも医薬の範疇とみなすことができる。このように、医薬という枠組み自体が、この数年ほどで大きく変わりつつあるのだ。

 こうした変化を受け、製薬企業のあり方も以前とは異なってきている。以前は医薬品候補化合物を発見し、臨床試験を経て販売までを自社内で全て行なう体制が当然とされていた。しかし医薬品のスタイルが多様化している現在では、先進的な研究を行なっているベンチャー企業から医薬品の種を(時にはベンチャー企業ごと)買い上げて、臨床試験なども外部機関に委託してしまうケースが増えている。要は、製薬企業が「製薬」をしなくなり、医薬商社というべき存在に変化しつつあるのが現状だ。この流れの中で、本書に登場するような「ドラッグハンター」たちのあり方も、少なからず変わってきている。

 そうした状況の中、人類は巨大な災禍に見舞われた。言うまでもなく、中国・武漢に端を発したパンデミック、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がそれだ。本稿執筆時点で、この病気の感染者は世界で1億6千万人、犠牲者は330万人を超えており、この数字はまだまだ増え続けるだろう。歴史を振り返れば、いつかこのような事態は必ず起こり得るものだ──と頭ではわかっていたつもりでも、いざ目の当たりにしてみると予想外のことばかりで、これがパンデミックというものかと呆然とする他ない。

 こうした大きな災厄の中、医薬品業界及びドラッグハンターたちに大きな期待が寄せられたのは当然のことであった。2020年2月には早くもいくつかの医薬の臨床試験が開始されるなど、これまでなら考えられないほどの速度で治療薬開発レースが開始された。

 ここで臨床試験入りした化合物は、一からCOVID-19向けに開発されたものではない。既存の抗ウイルス薬などを片端から試験し、効果のありそうなものから順次臨床試験を行なうといったやり方だ。いわば、新しい競技がスタートしたばかりでまだ専門の選手はいないから、とりあえず似たような競技の選手をテストし、向いている者に出場してもらうようなやり方だ。

 こうした中から、まずレムデシビルが承認を受けた。これはもともとエボラ出血熱の治療薬として臨床試験が行なわれていた化合物だが、効果が不十分でお蔵入りになっていた。それが新型コロナウイルスには有効とわかり、一躍脚光を浴びたわけだ。日本では2020年5月に特例承認を受け、COVID-19に関わる医療の現場で活躍している。

 次いで承認を受けたのが、デキサメタゾンだ。抗炎症作用・抗アレルギー作用・免疫抑制作用などを持つステロイド剤で、1950年代から使われ続けている歴史の古い薬剤だ。これも臨床試験によって、COVID-19による炎症を抑制し、死亡率を低下させることが示された。極めて安い薬価ながら、世界で多くの患者を救った、コストパフォーマンス抜群の薬だ。また2021年4月には、リウマチ治療薬として開発されたバリシチニブが、第三のCOVID-19治療薬として承認を受けている。一方、日本発の治療薬として期待を集めたアビガンやイベルメクチンは、臨床試験で十分な結果を示すことができず、いまだ承認には至っていない。また、新型コロナウイルスの増殖を防ぐべく一から設計された新薬も、ようやく臨床試験入りを果たそうとしている。

 しかし、世界的な感染拡大という状況を決定的に変えうるのは、やはりワクチンだ。ただし当初、ワクチンの開発には時間がかかり、COVID-19が自然に収束する方が先ではないかとの意見も少なくなかった。これまで最短で開発されたおたふくかぜワクチンでも、開発から承認まで4年の歳月を費やしていたことを考えると、この見方も無理もないことであった。2009年にパンデミックとなったH1N1型インフルエンザでは、半年ほど経ってからワクチンが投入されたが、そのころにはほとんど流行は収まっていたという経緯もある。

 しかしmRNAワクチンという新しいテクノロジーと、米国が潤沢に予算を投入した「ワープスピード作戦」が、この予測を見事覆して見せた。ファイザー/ビオンテック社及びモデルナ社の開発したmRNAワクチンは、発症リスクを95パーセントほども低下させ、大きな副作用は見られないという、驚異的な成績を示した。ここまで優れたワクチンが最初から登場してくるとは、全く予期しなかったことだ。

 この裏には、長期に渡る地道な基礎研究の積み重ねがあった。mRNAは、四種のヌクレオチドの繰り返しでできており、このメッセージに従ってタンパク質が合成される。そこで、コロナウイルスの表面に突き出たスパイクタンパク質をコードしたmRNAを体内に送り込むと、それに沿って体内で指定されたタンパク質が作られる。免疫系はこの見知らぬタンパク質に反応し、これを中和する抗体を作り出す。いざ本物のウイルスが体内に侵入した時には、この抗体が働いて発症を防いでくれるという仕組みだ。

 ただし、mRNAは安定性が低く、体内の酵素によってすぐ分解されてしまう。これを防ぐため、RNAの部品となるウリジンの構造を変化させ、RNAを脂質ナノ粒子でくるむなどの工夫を施して、mRNAワクチンは生まれたのだ。欧米のメガファーマと活発なバイオベンチャー群、そこに在籍するドラッグハンター群の底力を見る思いがする。これらワクチンの力で、ようやくこの厄介なウイルスとの闘いの出口が見え始めたのは、大変に喜ばしい。

 前述した製薬企業の医薬商社化の流れの中で、かつてのドラッグハンターたちは時に追いやられ、活躍の場を他に移すものも少なくない。だが、これからも何度も訪れるであろう世界的危機を脱するには、彼らの力が不可欠だ。今後も優れた人材がこの世界の門を叩き、存分に活躍するだけの場が与えられることを、心より願わずにいられない。

 2021年5月

新薬


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