【夏の春暮康一SF祭 02】『オーラリメイカー〔完全版〕』刊行記念! 中篇「虹色の蛇」改稿版を2カ月限定で全文Web公開!(後篇)【『法治の獣』ベストSF2022国内篇第1位】
『法治の獣』が『SFが読みたい! 2023年版』の「ベストSF2022国内篇第1位」を獲得、国産ハードSFの新星の中篇集が注目を集めました。
そしてこの夏、デビュー作にして第7回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作「オーラリメイカー」を含む中篇集が文庫化!
単行本版「オーラリメイカー」および同時収録作「虹色の蛇」を大幅改稿し、さらに新作中篇「滅亡に至る病」を収録した、『オーラリメイカー〔完全版〕』が刊行されました。
『オーラリメイカー〔完全版〕』の刊行を記念し、加筆修正された「虹色の蛇」を、二カ月間限定で全文Web公開します!
虹色の蛇
後篇
春暮康一
それからの数日、わたしたちのあいだの空気は深刻なまでに険悪だった。質問もなし、蘊蓄(うんちく)もなし。わたしが空を見上げ、ターゲットを決めて近づき、エミルはそれを見る。たまにエミルが特定の〈彩雲〉を無言で指さすと、わたしはその速度を目算し、回り込んで並走する。空を棲(す)み処(か)とする〈彩雲〉は、地域によって特有の相を見せるようなことはない。会話がなければ二日ともたずに飽きが来る過程を、エミルは頑(かたく)なに繰り返させた。もしかしたらわたしに対する嫌がらせのつもりだったのかもしれないが、だとしたら見当外れもいいところだ。
会話がないのだから、持て余した時間を観察に向けるしかない。クライアントの詮索は常に不毛なものだが、それにしてもエミルには不審な点が多かった。なぜ幼年者が保護者のつき添いもなく、こんな僻地の〈ゲート〉まで旅してきたのか? ほとんど知識も仕入れていないくせに、なんのために二十四日もの旅程を計画したのか? それに、エミルのふるまいから匂ってくる微妙な違和感。どこか誇張された無邪気さと無謀さ。駄々をこねるでも泣きわめくでもない、冷静にコントロールされた怒り。
とはいえそれは、わたしが幼年者に接し慣れていないというだけかもしれないが。いずれにせよ、わたし自身も不機嫌ではあったし、やかましい声を聞かずに済むのは願ったりだった。
九日目にとうとうエミルがしゃべりかけてきた。先にわたしに態度を和らげさせるのは無理と見切りをつけたか、あるいは単に意地の張り合いに興味をなくしたか。干上がった塩湖の底からほとりに乗り上げたとき、おもむろに少年は地平線の一画を指さした。
「あっちに行きたい」
指の向かう先を見るまでもなかった。そちらはわたしが常に電気的感覚によって意識している方角だったからだ。
「またあのときの悶着を繰り返したいのか? あえて命令するというなら、おれは中止の権利を──」
「近づくだけでいいから。いつでも逃げ切れると思えるところまで。少しは折れてくれてもいいだろ」
ぶっきらぼうにエミルは言い放つ。口論を予期していたわたしは気勢を削がれた。しおらしさを演出しているに違いないが、いったい何を企んでいるのだ?
とはいえ……安全を減じない限りで客の意向に従うことは当然契約に含まれているから、実のところエミルのこの申し出はまったく正当で、しりぞける理由のないものだ。正直をいえばわたし自身はイリス平野には少しも近づきたくなかったのだが、その理由の半分以上は危険ともエミルとも関係ない個人的な感情によっていた。
わたしは何日ぶりかにその方角に目を向ける。
イリス平野の空はすっかり秩序を失っていた。そのあたりの〈彩雲〉は、空間に突如出現した定常的な電場にもてあそばれ、妙に密集したり散らばったり、多色の群れが混合したりと、混沌とした様相を呈している。
平野に分散したトレーラーが相変わらず避雷ロッドを稼働させていて、自然な〈彩雲〉の動きを阻害しているのだ。一度、遠く離れた高台に上がった際にエミルの目を盗んで眺めてみたときは、距離がありすぎて何が起きているのかよくわからなかった。少なくとも、大規模な採掘設備は持ち込んでいないようだったが。
卓越風の風上を取るため、半日を費やして平野全体を迂回した。このあたりでは地面は粘土質に変わり、〈誘雷樹〉も生えていない。〈彩雲〉は鱗雲のように分断されて空を浮遊していた。
いままで見たことのない光景だ。これほど小さな群れでも生存上の機能を保てるのだろうか? 明らかにそうした〈彩雲〉は、電荷を操る能力を失っているのだ。
迂回した理由は風向きだけではなかった。平野のこちら側には第三ヒュッテがあり、そこはわたしが大雑把に危険地帯と考える領域のすぐ外側に位置していた。いざとなればそこを避難所にできるだろう──あまり気は進まないが。
わたしは慎重にバギーを進めた。ヒュッテに近づくほど、空を流れる〈彩雲〉はますます自然には取らないような形に崩れていく。それは巨人に引きちぎられた首や手足のようで、互いに触れ合うほど接近してもなんの攻撃も防御反応も示さないことがしばしばあった。おかげで放電を食らう危険を遠ざけておけるというものだが、わたしは毒を流され魚が浮かぶ川を遡上(そじょう)しているような気分になっていた。・存在のヒエラルキー・第二位に対する明確な侵害だ。まさかガイド連中がこんな真似に踏み切るとは。〈彩雲〉を駆逐して、ガイド事業自体をぶち壊すのがやつらの望みだろうか? あまり建設的なやりかたとはいえないようだが。
それでもエミルは、不格好な〈彩雲〉の珍しさに心を奪われているようだった。
イリス平野全域に展開しているトレーラー群はわたしにとって、常に自分の位置情報を発信し続けるビーコンのようなものだったから、何台がいまどこにいるかも、どんな動きをしているかもずっと前から把握していた。いちばん近くのトレーラーは二十キロほど先にあって、ある一点を中心として螺旋状にじりじりと荒野を徘徊しているようだった。なんらかの測量か観測をしているのか? トレーラーの方向からは、四百メガヘルツの汎用無線電波しか出ていなかったが。
やがて、第三ヒュッテが見えてきた。氷山のように一部だけが地上に突き出したシェルターには安心感を覚えたが、空模様にはまだ余裕があり、すぐに逃げ込む必要は感じられない。わたしはガレージのシャッター前を避けるようにヒュッテを通り過ぎた。
平野の中心部へさらに近づいていくと、地平線に低い構造物が現れた。ぎざぎざしたシルエットで、全体としては白っぽく見え、わずかに光を反射している。わたしは双眼鏡を覗き──よく勘違いされるが、わたしの視力が普通の人より特別優れているわけではない──トレーラーではありえないその建築を観察した。
高さ五メートルほどの、アンテナのような無数の尖塔と、そのあいだに張り巡らされたワイヤー。手前にはトレーラーも見える。すぐ脇に小型のクレーンとボーリングマシンが並んでいて、どうやら塔とワイヤーは、トレーラーから次々生み出され、その軌道上に残されていったものらしい。その建造物は電磁気的に中性だったから、遠くからわたしに知覚されることがなかったのだ。
しばらくのあいだ、わたしはハンドルから両手を離したまま双眼鏡を握っていた。尖塔群を馬鹿みたいに眺めながら近づき──ふいにその正体が意識に浮かんできて、バギーを急停止させた。シートベルトに締めつけられたエミルが不審げにこちらをうかがう。
変化はたたみかけるようにやってきた。
はじめに、トレーラーが生み出していた電場が一瞬で消失した。張り詰めた張力がひと息に解け、険しい渓谷のように切り立っていた電位地図がほとんど平坦になる。短い電気的静寂。
それからすぐ、空電のようなノイズと唸りがわたしの網膜を、鼓膜を、真皮(しんぴ)を刺激した。さっきまでよりはるかに弱く、穏やかな電場がほとばしり、速やかに新しい平衡状態へと遷移する。反応的な変動をともなう場の界面が瞬く間にわたしの体を通り過ぎ、それまでの千倍の範囲に広がった。
穏やかな風がひと筋、バギーのフレームを吹き抜け、それきり静まった。
わたしはエンジンを吹かし、感覚を研ぎ澄まして次の変化を待ち構える。
何が起きたのか? 避雷ロッドの不調か、メンテナンスか。しかし、暴力的な張力と入れ替わりに現れた新しい電場は、トレーラーではなく、それが作ったばかりのワイヤー網から発せられているようだ。これがワイヤーの本来の機能なのか?
一分ほど待ってみたが、新しい変化は起きなかった。周囲はほとんど常態に復したように──トレーラーが乗り込んでくる前に戻ったように見える。こうなることを予想していたわけではないが、わたしは必要以上に慎重に針路を選んでいたから、周囲十キロ以内に大きな〈彩雲〉はいなかったし、いまの電位地図書き換えによってわたしたちのほうに近づこうとしているものもひとつとしてなかった。
当面の危険はない。このまま進んでも問題はないだろう。とはいえ、これを引き起こした何者かが気まぐれに元の環境に戻すことも十分考えられる。
わたしはその場で転回し、第三ヒュッテへと引き返すことにした。エミルも素直に従った。気がつくと、電場源がトレーラーからワイヤーに切り替わったのはすぐ近くのひと組だけではなくて、平野全体で同じことが起きているようだ。〈彩雲〉を問答無用で引きちぎる腕はもはやなくなった。代わりに薄く、ほとんど知覚に上らないような電場が空気を満たし、震えていた。
第三ヒュッテのガレージは車両で埋め尽くされていた。多くのガイド業者がここに集まっているようだ。無造作に停められたバギーの中には、不用心にも点火キーが刺さったままのものもある。しかし、あわてて避難してきたというわけでもなさそうだ。階下にいるガイド連中は、この変動すべてを把握しているだろう。彼らと顔を合わせるのは拷問のようなものだが、エミルが当然のようにエレベーターへと歩いていくのを止めるわけにもいかなかった。
地下一階のホールに入るなり、数十の視線がいっせいにこちらに集まった。
一瞬の沈黙。ざわめき、引きつるような高笑いがひとつ響く。それを合図にしたように、おしゃべりが再開された。にやにや笑いがあちこちから向けられ、小声のあざけりがわたしの耳に正確に届く。
荷物を置くため手前のテーブルに近づくと、二つ隣の席に座っていた男が絡んできた。
「いまさら何しに来た? 何が起きたか気になるか? それともとうとう観念したか? 仕事がなくなっちまうもんなあ」
わたしはそれを無視した。部屋じゅうから発散されている気後れのない敵意としたり顔が、地上で起きていることについてのわたしの推測を、強く裏打ちしていた。
ホールの片隅のモニターに、イリス平野の〈彩雲〉の分布が映し出されていた。まだ〈彩雲〉はさっきまでの暴力的な張力から完全に立ち直ってはいないものの、徐々に本来の群れの大きさと色を取り戻しつつある。
ワイヤー網は人工的な〈誘雷樹〉なのだ。それも、本家よりずっと洗練された。
トレーラーの避雷ロッドは、周囲の電位を強制的に零(アース)近くまで押し下げ、あるいは引き上げることができる。いわば力まかせの抑圧だ。安全を確保するが、肝心の〈彩雲〉を引き裂き、ばらばらにしてしまう。それでは意味がない。
だからきっとこのワイヤー網は、もっと精妙な働きをしているに違いない。空間の電位配置を監視し続け、その傾斜がきつくなりすぎると──破局的な放電へと滑り落ちる限界勾配に近づくと、電荷を少しだけ中和するのだ。
それは〈彩雲〉に小さな電荷を与えたり奪ったりすることにほかならず、〈誘雷樹〉がやっていることと部分的には同じだった。〈誘雷樹〉も、制御された勾配で電荷をゆっくりと蓄えることがもしできれば、枝を再度生やすコストを省けるのだが、〈彩雲〉のすばやい電気的応答に追随しきれず、最後には放電を起こしてしまう。
だが、ワイヤー網はそうではない。普段は〈彩雲〉の自由な動きを阻害することなくセンサーとして働き、危険なほど増長したものだけをやんわりと押し返すのだ。
賢いやり方といえた。観光客とガイドは落雷の危険を免れるし、〈彩雲〉のふるまいを大きく歪めて絶景にノイズを乗せることもない。大陸じゅうをカバーするようになれば、不便な移動の手間や時間管理もいらなくなるだろう。〈彩雲〉にしても自然のままの生態を保てるから、惑星原住生物への干渉を禁ずる憲章にも抵触しない──少なくとも、あからさまな形では。
わたし以外の全員にとって都合がいいというわけだ。わたしが、他のガイドを出し抜くことができなくなるから。三倍の金を払わずとも、機器や能力に関係なく誰もが同じ景色を、等しく安全な場所から見られるようになるだろう。
「これでおまえも終わりだ、エスパーよ。〈彩雲〉から逃げ回らなくても、雷に打たれるやつは金輪際いなくなるんだからな。ぼうず、いまからでも遅くないぞ。こいつについていくのなんかやめちまえ。でないと最後の荒稼ぎに引っかかっちまうぞ」
男は気が大きくなったのか、わたし越しにエミルにまで話しかけはじめた。マナー違反も甚(はなは)だしいが、エミルのことは子供と思って軽視しているのだろうし、わたしに対しては言わずもがなだ。
エミルは知らない人間に話しかけられて当惑したのか──あるいは何かに怒ったか、わたしと行動していることを恥ずかしく思ったか──顔の温度を少し上げた。
「そうかもね。できたら、この人との契約は破棄して、あなたたちにガイドをお願いしたいんだけど」
ホールじゅうが爆発したかのように沸き上がった。周りのガイドたちがエミルのそばに集まり、背中を嬉しそうに叩く。口々に名前を聞き、藍色の髪をくしゃくしゃとかき回した。そのうち肩に手を置いて、保護者然とした空気を出しはじめた。
「聞こえたか? エスパー。破棄したいとよ。金をむしれなくて残念だったな」
「フランコ、いいね? 着手金なら返さないでいいからさ」ガイドたちに囲まれたエミルは無表情で言い放つ。
わたしは腕を組んで小さくため息をつく。どうやら、このホールの全員がわたしに敵対しているようだ。特段珍しいことではなかったが。
「何があってもガイドを続けさせるんじゃなかったのか?」
「気が変わったんだ。あんたといてもつまらないってわかったからね」そこここで忍び笑いが漏れる。
わたしはエミルの澄まし顔をまじまじと眺めると、肩をすくめてふたたび息をついた。「勝手にしろ」
またもや歓声が上がる。口論をするには多勢に無勢だったし、別に金にこだわっているわけでもなかった。本音をいえば、ここから出ていく口実ができて安堵してもいた。だいいち、こいつらはわたしを殺そうとしていたに違いないのだ。ひと晩も一緒にすごしたら、いずれどちらかから手が出ていただろう。
もともと補給目的ではなかったから、ほとんど腰を下ろすこともなく、嘲笑に見送られてホールを後にした。わたしはガレージでバギーを手早く整備すると、ワイヤー網のこそばゆい作用下にある荒野へ進み出た。
〈白(アルバ)〉が地平線に沈む前に別のヒュッテに逃げ込む時間は十分あったが、そうはしなかった。代わりにわたしは第三ヒュッテの周りをうろうろと巡り、やがて二キロほど離れた丘のふもとに大きな一枚岩を見つけた。大岩は大部分が地中に埋まっているが、地上部分の高さは二メートル以上ある。
わたしはバギーを停め、背部トランクからワックス爆薬を運び出した。緑色の脂っぽい塊を三百グラムほどちぎり取り、信管を刺して、岩から三メートルほど離れた地面に埋める。それから岩の反対側に回り、さらに百メートルほど離れると、何重もの安全装置を解除し、スイッチを押し込んだ。
低周波の爆発音が轟(とどろ)き、岩の向こうに土煙が上がる。やがて風に乗ってぱらぱらと砂が降ってきた。
岩のそばに戻ると、バギーがすっぽり収まる大きさの穴が開いていた。周りの土を広く吹き飛ばしているから、バギーに乗ったまま底へ降りていける。ガイドがへまをして〈彩雲〉に囲まれたり、日没までにヒュッテに戻れなかったりした場合に、雷を逃れるための即席の避難所だ。ヒュッテほど確実な安全が保障されるわけではもちろんないが、バギーごと入って、なおかつ高い岩などが近くにあれば、十分なシェルターになる。土中に車高の半分ほどが収まると、視野の中央に、亀の甲羅にも似た第三ヒュッテが小さく見えた。双眼鏡を使えば十分よく見える距離だ。
まもなく日が沈む。平野の向こうの山地から影が伸びてきて、いつとも知れずわたしの頭上を通過していった。〈白(アルバ)〉に横から照らされた高い〈彩雲〉は明から暗のグラデーションを空に並べていて、伝統水彩画のパレットを思わせる。暗くなっていく背景に火をつけるかのように、地面が影に落ちても〈彩雲〉だけが最後まで色を失わずにいた。
夜は敵だった。太陽が沈むと、〈彩雲〉は光を浴びることができないから、動きが鈍くなる。風に対抗して針路を制御することができず、そのぶんだけ不慮の縄張り侵犯が増え、放電も制御できなくなる。人間のほうも、暗くなれば〈彩雲〉を見ることができないから、楽しくもないし、いつ執行されるかわからない死刑を待っているようなものだ。だから、ガイドたちは日が落ちるずっと前にヒュッテへと逃げ帰る。わたしにしてもそうだった。粘る時間の差はあるにせよ。
数百メートル左側で、ワイヤー網は鈍色(にびいろ)の木立のようにたたずんでいる。それがおよぼす影響はもちろんこの場所にも届いていて、夜でも正しく機能した。普通ならそろそろ各地で無制御放電がはじまる頃合いだが、わたしの電気感覚は警告のはるか手前の緊張すら訴えなかった。いまここでバギーを降り、穴から這い出したとしても、なんの危険も感じないだろう。
実際、カルテル連中は大したものだ。〈彩雲〉を手なずけ、夜を手なずけた。これまで見ることのできなかった〈彩雲〉の、時間帯で変わる様相が、知る人ぞ知る絶景ではなくなる。この惑星は、一度に二つのセールスポイントを得たというわけだ。
一人きりになると、〈緑(フルン)〉の大地の静けさとわびしさが、わたしの内にも染み入ってくる。言いようのないフラストレーションが、無防備な心を苛(さいな)んだ。
わたしは仕事を失うだろう。一度ならず二度までも。たとえ続けられたとしても、ずいぶん嫌な思いをすることになる。愉快ではないだろう、カルテル連中に見下されながら、細々とやっていくのは。
窓の外を見上げると、すぐ近くにはぐれ〈彩雲〉がぽつんと浮かんでいた。擾乱を生き延びた群れだ。真紅の雲底が、上昇気流をつかもうとパンケーキ状に延び広がっている。
それは、ひどく色あせて見えた。
〈彩雲〉が変わったわけではない。その鮮やかさはいままでとなんら変わっていない。ワイヤー網の影響でもない。ただ、自分に嘘をつき通すことはできなかったというだけだ。第一ヒュッテでエミルが口にした話題が、いまなおわたしを感傷に引きずり込んでいた。
なんのことはない、わたしは〈彩雲〉に、自分自身を見ていたのだ。風に吹かれるまま、漂流するように生き、客を争って共食いをし、しかし目的を持たない。
それを美しいと思いたかった。流れに身を委ねるのも、悪くない生き方だと。しかし、わたしが本当に美しいと思っていたのは、〈彩雲〉ではなく──
潮時ということなのだろう。もともと愛着のある星でもなかったのに、たまたまわたしの体の改変仕様がこの仕事に向いていたというだけで、よく七年も続けてこられたものだ。考え方によっては、古参ガイドたちの不興を買ったという点で、向いてさえいなかった。どちらからも歩み寄らず、理解し合わず。元外交官とは思えない体たらくだ。
やがて空に星が出はじめて、わたしはその素朴な光を懐かしく思った。きらびやかな色彩とはほど遠い、漆黒の闇にちりばめられたかすかな輝点。力強さと孤独とを同時に感じさせるコントラスト。
〈彩雲〉の舞台を転換する幕間などではない。まして、稲妻の筆に塗り潰されるキャンバスでもない。夜と星、それこそが美だと、かつてのわたしは思ったのではなかったか。どこかに井戸が隠されているから砂漠が美しいように、知性と文明がどこかに隠されているから、星空は美しいのだ。夜空に見上げる価値があるのは、人類が橋架けし、心を通わせるはずの何かが、そこで待ち受けているからだ。
わたしはそこで必要とされていたはずだった。
星空がかげってきて、記憶から意識が引き離される。〈彩雲〉がゆっくりと集まりはじめていた。可視光領域では黒一色だが、赤外線と電波ではっきりと見える。〈彩雲〉は眠気を誘う鈍い輝きと動きで、わたしを宇宙から切り離すかのように平野に群がった。
〈彩雲〉の棲む空は、星を見るには向かないのだ。そう考えると妙に気分が晴れた。
この星を出よう。落ちぶれて、鼻持ちならないガイド連中におもねる前に。
§
目を覚ますと空が白んでいた。飛び起き、あわててバギーの外へ出る。穴を這い上り、ヒュッテに視線を飛ばす。岩をぐるりと回って周囲を見渡したが、特に異常はなかった。〈白(アルバ)〉が地平線から昇ろうとしている。眠るつもりはなかったのだが。
わたしは頭を振ると、穴の縁近くに腰を下ろして頬杖をついた。
さて、どうしたものか。いつまでもここにいるわけにはいかない。周囲の電気的状況は昨晩よりひどく悪化しているというほどではなかったが、この粗末な避難所で無制限の安全を期待するのは、あまりにも幸運とワイヤー網に頼りすぎている。いっぽうで、わたしがここにとどまっている理由のほうは、時間が経つにつれて、曖昧でぼやけたものに変わりつつあった。
肩を落として目線を上げる。空を覆う〈彩雲〉はまだ晴れていなかった。むしろ普段より密集し、平野に巨大な影をいくつも落としている。あらゆる色があらゆる方角から押し寄せているようだ。朝から壮観なものだが、特別珍しいというほどでもない。
とはいえ、そろそろ決断しなければ、もう一日ここで足止めを食うはめになるかもしれなかった。首を巡らせ、最後に視点をヒュッテに落とす。違和感に目を細める。
ガレージが開こうとしている。
わたしは隠れるように穴を滑り降り、バギーに乗り込んだ。顔半分だけを地面から覗かせ、双眼鏡の狙いをつける。エンジンをかけ、平坦な白いシャッターをにらむうち、バギーがそこから進み出てきた。一台きりだ。こちらに向かってくる様子はない。右手方向、ワイヤー網とは反対側へターンしていく。
拡大率を上げると、暴れる視界の端に、きらめく藍色の髪がちらと見えた。が、その近くにあるはずのガイドの顔は見えない。何度か目標を見失ううち、だしぬけにバギー全体が視野に収まった。
エミルは一人きりだった。自分でバギーを運転している。わたしはヒュッテにもう一度目を向けた。シャッターはすでに閉まりかけていて、後続が出てくる気配はない。
もちろん、ガイドたちが客にバギーの運転を許可するわけもない。キーが刺さったままのバギーがガレージにあったことを思い出した。何かの目的でエミルは、ガイドたちを出し抜いたのだ。
アクセルを吹かし、砂煙を上げて穴から飛び出す。〈彩雲〉ははるか地平線から次々と押し寄せ、頭上で渦を巻きはじめている。上空一キロまでの空間にわたり巨大な電位がのしかかっていたが、致命的な勾配はワイヤー網の働きによって地表近くでかき消えていた。
わたしは急いでエミルを追う。あの子供がどうやら、安全圏から出ていくつもりらしいとわかったからだ。ヒュッテで新しい雇用人から、ワイヤー網の原理と、電気的中和がおよぶ範囲について説明を受けたに違いないのだが。
やがて遠くで稲妻が走った。視野が痙攣(けいれん)したように白くひらめき、左右に引き裂かれる。数秒して轟音が鳴り、それを皮切りに空が点滅をはじめる。エミルはまだはるか先を走っていて、このまま行けば、こちらが追いつく前に安全圏を越えてしまうだろう。
エミルはバギーに載っている電場検出器を使っているだろうか? 使っていて、いまはまだ警報音を出していないのをいいことに驀進(ばくしん)しているのかもしれないが、進む先に何が待ち受けているかははっきりわかるはずだ。それなのに、なぜあの子供は止まりもしなければ曲がりもしないのか? なぜ脇目も振らず、わたしが追いつけないほどの全速力で、死のルーレットが回る地へと向かうのか? 少なくとも、避雷ロッドを載せていないのは間違いない。わたしをここにとどまらせた薄い予感はどうやら当たっていたようだが、かといってエミルの行動の意図がわかるわけではない。
わたしはアクセルをいっそう強く踏み込む。ともすれば減速したくなる衝動を抑えつけるためだ。わたしの全感覚に結びつけられた本能は、すぐに引き返すか、さもなくば減速して観測精度を上げるよう求めていた。
二台の距離が五百メートルを切ったころ、とうとうエミルが安全圏を越えた。わたしは警笛のついていないハンドルを力まかせに殴りつける。本人が気づいているかどうか知らないが、ここから先は、エミルはいつ死んでもおかしくない。瞬きをするあいだに体の半分を炭化させているかもしれないのだ。
諦めが心に重く落ちる。わたしにできることはもうなかった。声は届かないし、手が届くこともない。緊張を解き、アクセルから足を離すかハンドルを切るべきだった。
そうする代わりに運転を自動に切り替え、等速モードにする。空いた両手でルームミラーをねじり、全体重をかけると、乾いた音とともに樹脂製のアームがもげた。窓からミラーを突き出して太陽にかざす。エミルがこちらに気づいていながらあえて無視しているのだとしたら、いくら合図を送ったところで無意味だが。
ミラーの傾きを不器用に変え、そこに意識を集中しようと努める。いつのまにかわたしも安全圏を越えていた。生存欲求を投げ出すのは並大抵のことではない。バギーのフレーム内は比較的安全とはいえ、苦しまずに死ぬチャンスをみすみす逃しているだけかもしれなかった。
空が光るたび電位地図が塗り替わり、皮膚がそれを精査するより先にふたたび一新される。波に洗われつつある砂城をスケッチしようとするようなものだ。それも、四方八方から迫りくる大波に。わたしは冷や汗をぬぐいながら、その手も震えていることに気づいた。七年のキャリアのうちでも、これほど死に近づいたのははじめてだろう。ガイドに求められるのは危険な電気的袋小路を避ける能力であって、そこから抜け出す能力ではない。突出した〈彩雲〉の電場に入り込むたび、わたしは総毛立って震えた。
しかし、無謀な直進が功を奏した。子供のくせにどこで覚えたのか、エミルの運転は手動(マニュアル)で、小さな地形の起伏を迂回したり、小刻みにブレーキを踏んだりするから、しだいに距離が詰まってきた。
丸く風化した砂岩が露出する岩石砂漠にさしかかると、さらにエミルのスピードは落ちた。岩場を避けようと針路を緩やかに変えるのを見越して、わたしはカーブの内側を直進する。距離が百メートルほどになったとき、わたしのエンジン音かミラーの反射光か、あるいは単なる気まぐれか、そのどれかがエミルを振り向かせた。
最初エミルはスピードを上げて逃れようとしたが、すぐにこちらに向き直った。わたしのバギーにはごてごてした機器が載っていないから、追っ手が誰なのかシルエットで気づいたようだ。
「何やってるんだよ!」
風に乗って甲高い声が届く。それはこちらの台詞だ。わたしはスピードを落とさずエミルの側面に回り込んだ。ハンドルを大きく回すと、運転モードが手動に切り替わる。そのままの勢いで車体をぶつけ、エミルのバギーを切り立った岩石に押しつけた。
金属のきしむ音が響く。車軸が歪みそうな衝撃があった。二台はもつれ合い、数メートル進んで動かなくなった。内装フレームがまき散らした耐衝撃フォームの、蜘蛛(くも)の巣のような残骸が服にまとわりつく。
「死にたいのかよ! なんでここにいるの!」運転席でフォームに絡め取られたままエミルが叫ぶ。
「だからこっちの台詞だ。何をしている」
「何してたっていいだろ。フランコとの契約はとっくに解除されてるんだから。あれが冗談だとでも思ってたの?」
わたしはそれには答えず、窓から腕を伸ばして手振りをした。
「いいから、さっさと中に入れ。ヒュッテで話を聞く」
落雷の間隔はすでに一秒を切っていた。わたしが平静を保てる限度をとっくに超えている。上空と足元のあいだでひとたび電位差が開きはじめたら、走り出す間もなく電撃が体を貫くだろう。もはや生き残るためにできるのは、〈彩雲〉が目こぼししてくれるよう祈りながら、少しでも早く安全地帯に戻ることだけだ。
それなのに、エミルは逃げ出した。
フォームを手でちぎり、岩とわたしのバギーに挟まれた車体を捨て、窓から体を滑らせて外へ出ていった。帰れというようなことをわめきながら、バギーが入れない岩の隙間に駆け込んでいく。わたしはひとしきり毒づくと、ハンドルの下に手を入れ救難ビーコンを作動させた。苦労して外に出て、エミルのバギーでも同じことをする。
それから、湿り気のない嵐の中を駆け出した。
岩場は足元が悪かったが、子供の背丈をすっかり隠してしまうほどではなかった。エミルはずいぶんと先を走っている。こういう場所では子供のよく回る脚のほうが速いし、頭が周りの岩より高く出すぎていないぶん、落雷の恐怖が和らいでいるのだろう。わたしはといえば、フレームに頭上を保護されていないというだけで怖じ気づき、上を見ることもできず、不格好な中腰でそろそろと走っていた。
ごつごつした岩に何度も足を取られる。つんのめって顔を岩肌にしこたま打ちつける。遠くでエミルが振り向くのが見えた。また何かを叫んでいる。前を向き、さっきより速く走り出す。どうも追いつけそうにない。そのうち見失うだろう。
死にたいのかと、エミルはそう言った。やはり、危険を知らずにここまで来たわけではないということだ。まぎれもなく自分の意志で安全圏を出た。欲しがってもいない選択肢を与え、その上で拒否されもした。さらにいえば、すでに契約を破棄されたいま、わたしはエミルになんの責任も負っていない。
なのになぜ、わたしはまだあの子供を追いかけているのか? 生き残る最後のチャンスだったかもしれないのに、それを棒に振ってまで。
やがて本当に見失った。首を回しても、見えるのは折り重なる岩の島々だけ。わたしは立ち止まり、途方に暮れてしゃがみ込む。吐き気を感じながら、絶望と恐怖が心を握りしめるのを振り払えずにいた。
後ろを振り返ると、第三ヒュッテのあたりが真っ暗な影に染まっているのが見えた。電荷を中和し続けているから、稲妻もひらめかない。周りじゅうすべての〈彩雲〉があそこに集まり、積乱雲のように太陽光を分厚く遮っているのだ。
集まっている?
なんなのだ? 集中して積み重なれば、ほとんどの群れは光を受けられず、運動能力を奪われてしまうというのに。なぜ進んで狭い戦場に殺到するのか? それとも、ワイヤー網が微妙に歪める電場が、蟻地獄のように〈彩雲〉を引きずり込んでいるのか? だとしたら、カルテル連中の目論見も結局はうまくいかないことになるが。
「戻れって言っただろ! なんで来るんだよ!」背後から声。エミルが岩棚の上に立っていた。わたしより少し高い目線で、駄々をこねるように顔を歪めている。
「いいから、そこから降りろ。おまえを連れて帰るためだ」
「余計なお世話なんだよ。びびって動けないくせに、かっこつけるなよ」
そのまま背を向けて走り去るかと思ったが、エミルは意外にもわたしのそばに降りてきた。顔の温度が高い。決壊寸前の、正真正銘の怒り。
「いいかげんに──」エミルの叫び声は耳をつんざく破壊音にかき消された。
目を傷めるほどの閃光が、遠くの〈彩雲〉と大地のあいだを満たす。わたしは核兵器の火球が間近で炸裂したに違いないと思った。エミルを引き倒して地面に伏せる。肌がちりちりと焼けつくような痛み。続いて、閃光の方角から突風が吹き荒れる。
わたしは目を閉じ、衝撃が過ぎ去るのに何秒かかるかを数えた。まるまる十秒が過ぎても、エネルギーは衰えなかった。恐る恐る目を開ける。全身に火傷を負った気がしていたが、体を見渡すと服も焼けていなかった。掌をかざしてもただれてはいない。強すぎる電気刺激が感覚を飽和させているのだ。
首を回して光の方向を直視すると、さっきまで暗かった場所が白く照らされていた。イリス平野の中心部が、絶え間ない雷撃に晒(さら)されている。
「なんなの?」
「伏せていろ」わたしはエミルが顔を上げたがるのを押さえつけた。蛇のようにとぐろを巻く〈彩雲〉たちは、出会い頭に互いの群れを食い合いながら、でたらめに重なっては崩れていた。
「ヒュッテがやられてる!」エミルはわたしの指の隙間から横目で覗き見ていた。驚きに目を見開いている。「避雷ワイヤーが止まったんだ!」
「いや……そうじゃない。ワイヤーはまだ働き続けている。だが〈雲〉がそれを破壊しているんだ。大挙して押し寄せて、あまりにも速く電位勾配を増大させている。ワイヤー網の中和限界を超えて、空気の絶縁を破ったんだ」
「ワイヤーの能力が足りなかったということ? 業者が手を抜いたとか」
「それもたぶん違う。いままでこれほど〈雲〉が集中したことはなかった。異常なんだ。ワイヤー網それ自体に反応しているとしか思えない」
「でも、そんなことしたって──」
「〈雲〉になんの得もないと思うか? それが間違いだ。これまでおれたちはずっと思い違いをしてきたんだ。〈雲〉は、〈誘雷樹〉から逃げるのに失敗したから放電してしまうんだと思っていた。望まざる破局なんだと。だが本当はそうじゃなかった。放電には理由があって、やつらには必要なことだったんだ。放電させずに電荷だけを奪うものが現れると、ぶち壊すためにこうやって集まるんだ」
地球(テラ)上で雷が、不活性な窒素分子を強制的に酸素と結びつけ、植物が利用可能な形に変換しているのと同じように。〈緑(フルン)〉の土中にはアンモニアを生み出す微生物がいないことを考えると、放電による窒素固定は、光合成をする〈彩雲〉にとって生命線と呼べるものなのかもしれなかった。
雷まで含めて、この惑星の完成された生態系なのだ。〈誘雷樹〉がワイヤー網と同じことをしないのは、電荷をすばやく操作できないからではなくて、放電をともなわないとたちまち駆逐されてしまうからに違いない。〈彩雲〉が生存のために獲得した、荒々しい防衛機構の発動によって。
「ヒュッテの人たちは? どうなってるの」
エミルの声は重く、疑問とは裏腹に、答えを予期しているようでもあった。いかに堅牢なヒュッテといえども、あれほどの雷を受けたら無事では済まないとわかっているのだ。しかし、わたしがわかっているほどではないだろう。拡張されたわたしの耳には、いまこの瞬間にも、第三ヒュッテの方向から絶えず聞こえていた低周波がひとつ、またひとつと静まりつつあるのが捉えられていた。発電機やボイラー、ポンプのたぐいが動作を止めていくのが。
それは、ガイドたちの断末魔の悲鳴に等しかった。
わたしは目を閉じて静かに首を振る。もはやあの場所で呼吸している人間はいないだろう。エミルは小さく息を呑み、体の力を抜く。
いったい何人が? 五十人、あるいは百人? ワイヤー網を敷設していた開発業者もいたはずだから、もっとだろう。しかしその事実さえ、わたしの心に深く染み通ってはこなかった。
まだ危機が過ぎ去っていないからだ。わたしたちはここで命拾いしたわけではなく、蛇の牙から遠ざかったわけでもない。母船が沈没して漂流するボートのように、死を先延ばしにされているだけだ。事実、荒れ狂うエネルギーの濁流に、わたしたちも投げ込まれているのだから。〈彩雲〉は人類の文明を沈黙させたことにも気づかない様子でいまだ天にとどまっていた。
「……いちおう言っとくよ。昨日の夜、ヒュッテのガイドたちに聞いたんだ。避雷ロッドでフランコを殺そうとしてたのかって」
わたしは身を固くする。この状況で言うことかと一瞬思ったが、すぐに考え直した。ガイドたち自身からこの話を聞ける可能性がなくなり、わたしたちもいつ後を追うかわからないのだから、告げるならいましかないのだ。突然死を前にしてそうする意味があるかはともかく。
何も言えずにいると、エミルはわたしがその先を聞きたいかどうか見定めているふうだったが、やがて続けた。
「トレーラーの話をしたら驚かれたし、謝られた。同乗して業者に使い方を教えなかったのは、自分たちガイドの責任だ、悪かったって。あんたにも」
「……わかった」
エミルはうなずき、ひとつ息をつくと、窮屈そうに身動きした。わたしは反射的に押さえ込む力を強める。
「やめろよ、もう逃げないからさ。それより……空を見たいんだ。手をどけて」
腕の力を緩めると、エミルは息をつき、体をさっと回して仰向けになった。わたしはいぶかしむ。なぜこの子供は、これほど落ち着いていられるんだ? いつ死が襲ってくるかわからないというのに? わたしだったら、すばやく動くと雷に見つかるという不合理な妄想に囚われてしまいそうだが。周囲には、とりあえずわたしたちの体の厚みよりは突出した岩が乱立しているが、こんな状況では二十メートルの避雷針があっても安心できないだろう。
吐き気をこらえながら、苦労してわたしも同じ体勢になる。一メートルを隔てて二人は並ぶ。
そこでわたしは息を呑んだ。
視界のすべてを極彩色の〈彩雲〉が埋め、渦巻いていた。終末の日を彩る錯視。体の外にありながら、心の内側へと叩きつけられる剥き出しの感情。まるで憎悪を煮えたぎらせるかのように、あるいは、慈悲で包もうとするかのように。
そして、それがどちらであってもただ切り裂く、青白い電光。
背筋を走る悪寒に身をすくめながらも、わたしはその美しさに見入る。〈雲〉がうごめく一瞬また一瞬のあいだに、心の情景も移り変わっていく。ある瞬間は、高熱にうなされ金縛りに遭いながら、現実との狭間で悪夢を見ている気分。ある瞬間は、途方もなく寂しい不毛の次元を、独り寄る辺なく漂流している気分。またある瞬間には、獲物を探して這い回る虹色の蛇のもとで、息をひそめる虫になった気分。それは外部から施しのように与えられる自律的な美ではありえない。モルネは正しかった。美とは認識の中からのみ生まれるもので、恐怖こそがその本質だ。
時間の感覚が揺らめき、一秒とも一年とも思える瞬間があった。
空間の感覚が溶け去り、百万光年先の銀河を眺めている気分になった。
〈彩雲〉に一千億の命を感じ取り、ただひとつの命を感じ取った。
そこにあるのは、もはや自分自身とさえ区別のつかない、境界の溶け合った精神だ。万華鏡のように反射する感情の断片。わたしは、〈彩雲〉とわたしと、どちらが恐怖を感じているのかわからなくなった。あるいは美を。歓びを。
やがて、ほんの少しずつ、雷の間隔が延びていった。
空の明度が徐々に上がり、〈彩雲〉の層が薄まってきたのがわかる。身を焦がす激情がふたたび理性のもとへ下るように、電荷が分散していく。たぶん、飽和攻撃のスイッチが切れたのだろう。
しだいに耳鳴りが雷鳴に勝るようになって、緊張が体から漏れ出ていく。長いあいだ呼吸していなかった気さえした。
「──で、まだ聞いてないんだけど」
「え?」夢から醒めたようにわたしは振り向く。
「なんで、わざわざ追いかけて来たの。ていうか、なんで昨日のうちに逃げなかったの」
その目は空を見つめたままだ。努めて無関心を装っているのがわかる。卑近な話題にわたしはどこか冷めた気分になって、嵐の後のように散り散りになった自分の心を慎重に繋ぎ合わせる。いったい、エミルはいまの光景をどう感じていたのだろう?
「……ああ、それは、おまえが嘘をついていたからだ」
「え?」今度はエミルが振り向くのがわかった。だが今度はわたしのほうが、空に視線を戻していた。
「おれはエスパーだからな。騙そうとしているやつはわかるんだ──顔面の温度でな。ずっと違和感はあったが、おれとの契約を解除したときが決定的だった。あのとき、おまえはまったく本心じゃなかった。心の底で何を考えていたかは知らんが、とにかく隠しごとをしていた。裏があると思ったんだ。だから、それを確かめるために待っていた。こうなるとは思わなかったがな」
「煙たがられるわけだよ。やなやつ」エミルはそっぽを向いた。「フェアじゃないね」
「だろうな」わたしは自嘲する。「次はおまえが答える番だ。なぜヒュッテを出た? わざわざ死にたがる理由はなんだ?」結果を見れば、ヒュッテを出たせいでエミルは死に損ねたわけだが。
「別に死にたいわけじゃないよ。いつ死んでもいいってだけ。この景色を見てみたかったんだ。〈彩雲〉に囲まれた空を」
「だったら、なぜ死んでもいいんだ。こんな景色が、命と引き換えにするようなものなのか?」
そう言って顎で天を指しながら、それもあまりフェアではないかもしれないと考える。ついさっきまでそこにあった幻想的な光景は、いまではどこか安っぽいまがいものに変わりつつあった。〈彩雲〉の色も体積も少なくなってきているし、何よりきっと、恐怖が薄れたからだろう。だが、記憶の中に鮮やかに焼きつけられた、この世のものとは思えない景色と比べてもなお、そのために命を捨てられるとまでは思えなかった。少なくともいまとなっては。
説教じみたことを言うつもりはなかった。欲求の価値観は人それぞれだし、命の価値も同様だ。ただ、こんなときでも、何がエミルをひどく厭世的にさせているのかは気になった。つまるところわたしは、自分の命をこの子供のために投げ出した意味があったのか、わからなくなっていたのだ。
顔を向けると、エミルもこちらを見据えていた。なぜかわたしは、エミルの顔をはじめて見たような気がした。その割にどこかで見覚えのある、弛緩した表情。遠い過去に感情を忘れてきたかのように虚ろな瞳。夢を見ているような、病に倦(う)んでいるような。
「おまえは──無痛者か」
「当たり。よくわかったね」
子供に特有の大胆さだと思っていた。無知からくる無謀、あるいは単なる非日常への興奮だと。しかしいまにして思えば──ウィラ夫妻よりうまく隠してはいたが、痛みと恐怖の欠如がすべての底流にあったのは明らかだ。これまでわたしがその可能性を考えもしなかったのは、常識的な社会ではそんなことがありえないからだ。
「おまえ、何歳だ?」本人の申告では十一歳だったはずだが。
「そこは嘘ついてないから。でもぼくは・制約・を犯してないよ」
クイズのヒントでも与えるような軽さでエミルはしゃべる。身体改変は全人類にあまねく普及しているが、たったひとつだけ制約が課せられている──責任能力のおよぶ範囲を超えて改変してはならない。平たくいえば、自分の体を改変できるのは自分だけ、責任能力のない幼年者は改変できないということだ。まともな改変医は誰も、その制約を破る片棒を担ごうとはしない。
「だったらなんだというんだ? 先天性の無痛症とでも言うつもりか? 遺伝病などとっくの昔に──」
そこでわたしは言葉を止めた。息も止まる。遺伝。先天性。そしてエミルはさっきこう言ったのだ。ぼくは制約を犯してない。
エミルが背伸びしたいあまり闇医者にかかったというなら、その気持ちはわたしにも理解できる。結局は自己責任の範疇(はんちゅう)なのだし、寛容な保護者として口をつぐんでもいられるだろう。
だが、もうひとつの可能性はまったく容認できなかった。それは唾棄すべき邪悪であり、人間の尊厳を踏みにじる行為だ。
「……遺伝子改変か」
「余計なことをしてくれちゃったわけ。両親ともバイオ屋だったんだけど、酵素でひと山当てて、ちょっといかれてたんだ」
もちろん、不可能事ではない。汎用の医療ソフトと、生化学の基本的な知識と、自由に使える医療台つきラボと、法倫理から切り離された(サイコパス)AIがあればできることだ。後ろのほうほど手に入れにくくなるが、仕事で生体工学に従事していたのであれば伝手(つて)があったのかもしれない。無痛症状を発現する遺伝子変異は特定されているのだから、なおさらハードルは下がる。
とはいえ、行為自体の難易度と、実行に移す信念とは別問題だった。いったいどんな狂気が加担すれば、遺伝子を書き換え、我が子の自由性に傷をつける冒涜が正当化されるというのか?
太陽系人類(ソラリアン)の遺伝子改変が最盛期を迎えたのは遠い遠い過去のことだ。太陽(ソル)系内天体の開拓時代、身体改変のレベルはどんどん源流に遡っていき、やがて複数のコロニーで同時多発的に、宇宙生活や種々の病原因子に適応した生物学的新種とその亜種が生まれた。数十世代にわたる血統(ブラ ンド)の淘汰を経て、いま宇宙で生きている太陽系人類(ソラリアン)のほとんどが、このとき水平伝播した新人類の血に連なっている。
しかし、遺伝工学がもてはやされたのはそこまでだった。倫理的にも実用的にも、遺伝子レベルで刷り込むのは宇宙で生きるのに必須の機能だけで、それ以上の・拡張・は個人の自由意志に委ねるべきだったからだ。遺伝的に水中適応した海洋人(マリナー)の子孫が、有翅人(アレーション)としての生活を望まない保証があるだろうか? あるいはその逆が? 現代においてヒトの遺伝子操作に手を染めるのは、ヒエラルキー第一位に対する冒涜行為、子孫の意向を無視してアイデンティティを縛りつける重大な人権侵害と見なされている。
「二人とも無痛者だった。もちろん、普通の後天的改変だったけどね。でもあいつらが手術に踏み切ったのはもう百年も生きた後だったから、苦痛を取り除いても恐怖心を忘れることはできなかった。で、本当に・人間らしく・生きるには、生まれつき苦痛を感じなくするしかないって結論づけた。過去には戻れないから、二人の願いはまだ見ぬぼくで叶えることになったってわけ。いまはどっちも牢屋にぶち込まれてるけど。ぼくが告訴したとき、二人とも鳩が豆鉄砲食らったような顔してたよ」
ではやはり、ガイド契約の同意書は偽物だったわけだ。そのうえ無痛症の申告もしていない。まあ、いまさらどうでもいいことだが。
エミルの両親がエミルを愛していなかったとは思わない。個人レベルで、誰に知られることもなく遺伝子操作を完遂し、その子を育て上げるには、並外れた慎重さと忍耐力が必要だったはずだ。遊びや酔狂、ましてや憎しみでできることではない。まぎれもなくそれは、子に対する愛情から来たものだったろう。しかし、歪んだ愛情だった。
「おまえは幸せだって言われて育った。安全機構もひととおり組み込まれてるから、気がついたら骨を折ってることもないし、飲み物で火傷することもない。最初は不満なかったよ。まあそれが当たり前だったし。でも何かが違った。友達は、ぼくだけがわからないことで泣いたり、笑ったりしてた」
「笑ったり?」わたしは眉をひそめる。エミルは少しだけ心外そうな顔をした。
「ほんとさ。気づいてないだろうけど、フランコだってそうしてる。周りが急に面白がったり、興奮したりするときって、ぼくにはわからないことが多いんだ。断言してもいいけど、痛みも恐怖も、必要なものなんだよ。苦しみを味わってこその幸せとか、他人の痛みを共感するだとか、そういう古臭い説教を言ってるわけじゃない。単に生物学的に、痛みと恐怖が人を楽しませてもいるってこと。そうじゃないことのほうが多いらしいのは認めるけどね」
「割に合わないってことは知ってるわけだ。それなのに、おれたちのことがうらやましいか? 喜ばしいものなんかじゃないぞ。おまえが思う以上に」
エミルの両親の仕打ちを正当化するつもりはさらさらないが、かといって苦痛をむやみにありがたがる傾向も健全とは思えなかった。結局のところ人は、自分にないものを過剰に美化するのだ。
「ぼくが思う以上に? なんでそんなことがわかるの。ぼくに痛い気持ちがわからないのと同じように、あんたも痛くない気持ちはわかってない。恐くない気持ちもね。さっきまでの〈彩雲〉の景色、あんたにはどんなふうに見えてたの? ぼくはなんとも感じなかった。カメラ越しに見てるのと同じさ。現実じゃないんだ。誰がなんと言おうと、あいつらはぼくから大事なものを奪ったんだ。与えたんじゃなく」
わたしは衝撃を受け、返す言葉をなくす。たしかにエミルの言うとおりだった。恐怖なしにあの光景を眺められる気分を、わたしはわかっていない。いくらか色あせ、遠くに感じられてもなお生々しく思い出せるあの美と戦慄は、まるで生と、生への執着そのもののようであった。そして、それが感じられないということは……
目を伏せ、小さくうめきながら、わたしはエミルに共感を伝える。同情の色を出さずにそうするのは難しかった。その二つは似ているが違うものだ。それからわたしはアプローチを変えた。
「だが、まだわからないな。そこまで意思を固めているなら、なぜ死んでもいいと思うんだ。あと二年すればおまえも自分の意思で好きに身体改変できるようになる。痛みを感じられるようにすればいい。そうする方法はあるんだろう?」
エミルは口ごもった。顔をしかめて内省している。これまで誰にも打ち明けなかった葛藤、あるいは心の中ですら言語化したことのない動機を組み上げているようだ。わたしはふいに、十一歳の子供にこれほどの苦悩を与えた親を殺してやりたくなった。
「……いま流行っている無痛化改変は、先天的無痛症の発現メカニズムをベースにしていないんだ。それってなんでかわかる?」
「いや」
「先天的無痛症は、全身の末梢神経を物理的に減退させてしまうからさ。でも改変でそんなことをしたら、後で気が変わっても元に戻せなくなっちゃうでしょ。だから無痛化改変では、神経は丸ごと残した上で遮断するわけ。わかるかな」
「ああ」もちろん、すべての改変は、自然人に戻せることを前提条件にしているはずだ。
「ぼくの場合は無痛症だから、はじめから神経がないわけ。そこから時間をかけて代替神経を生やすことならいまの技術でもできる。でもそれをしたら、望んでももう一度無痛者に戻ることはできない。なぜならいまの無痛化処置は、代替神経に対しては効果がないから。新しい無痛化手法を確立しようとしたら長い時間がかかる。ぼく以外には需要がないから、ひょっとしたら何十年も」
そしてエミルは沈黙を挟む。わたしも言うべきことを見つけられなかった。
いくつものブレークスルーを重ねるたび洗練されてきた太陽系人類(ソラリアン)の生体工学は、いまやあらゆる身体改変の需要に応えているように見えるが、そこに使われているのは万能の魔法などではなく、その場しのぎの(アドホック)技術の寄せ集めにすぎない。宇宙の構造がこれほど解き明かされ、〈ゲート〉が星々を繋ぐ時代になっても、その点は変わっていなかった。生命の深淵さは宇宙にも匹敵し、それでいて宇宙の明快さとは対極の複雑さを持つ。しかも、生体工学は種族特有の(ローカル)技術だから、異種族の専門的知識が発展を後押ししてくれる見込みも薄かった。どんな改変も、前提となる生体構造が違えば、その不一致を吸収するほどの柔軟さは持ち合わせていない。エミルがひとたび苦痛を手に入れたら、事実上、後戻りはできないのだ。
「だけど、それでもぼくは痛みを取り戻す処置を受けると思う。ずっと考えたけど、きっとそうする。だって、いつまでも奪われたままで、自分にないものにあこがれ続けるなんて耐えられないからね」エミルはそこで困ったように笑う。「でも、それこそが最悪なんだよ。だって結局、あんたの言うとおりなのはわかってるんだ。苦痛なんて望んで手に入れるようなものじゃない、ものすごく嫌なものだってことくらい想像つくし。いままでいっぺんも痛かったことがないのに、普通の人の感じる痛みなんて受け入れられるわけがないんだ。だから、どっちにしたってぼくには耐えられないのさ」
「それで、死ぬかもしれない危険を冒すのか。どちらの道を選んでも救いがないから、選ばないために」
「これまでは自分に言い訳できた。改変処置を受けたくても、制約がそれを許さないからって。だけどあと二年したら、嫌でもどっちかを選ばなけりゃならない。どっちもぼくの逃げ道にはならないのにさ。選ばないで済むんなら、そのほうがいいわけ。いまのうちなら、なんの苦しみもないわけだし」
わたしは息をつく。込み入った理屈だ。謎は解けたが、愉快な真相ではなかった。
わずかに差し込みはじめた日の光を受けて、エミルは無気力な笑みを向ける。しかしそこには、どこか吹っ切れたような晴れやかさが見てとれた。
「ずっと隙をうかがってたんだ。地図を憶えて、あんたのバギーを盗んで、〈雲〉に囲まれる場所まで自力で行こうと思ってた。でもあんたはいつまで経ってもどじを踏まなかった。考えてみれば、普通より危険に近づくことを売りにしてるんだから、そこらへんはちゃんとやってんだよね。だから第三ヒュッテで別れたんだ。ワイヤー網が稼働しだして、次のチャンスもなさそうだったし」そう言うと、今度は自嘲めいた口調になる。「でも、このぶんだとまた生き延びそうかな。進んで自殺するのはポリシーに反するから、また新しい冒険を探さなくちゃ。とびきり危ないやつ。今度はぼく一人で済ませるんだ、邪魔が入らないように」
それきり黙る。わたしは息を抜いた。邪魔扱いされたことに文句を言いたくなったが、言えることはなさそうだった。
代わりに天を仰ぐ。すでに〈彩雲〉の切れ間から空が多く覗きはじめ、雷鳴は遠く小さくなっていた。電位のうねり周期が長くなり、凪(なぎ)に向け収束しているのがわかる。
「さてと、もうあんたの質問は終わりだろ? ぼくももうひとつ聞きたいことがあるんだけど──」
エミルがこちらを向いて口にしかけたその質問はしかし、声にならなかった。わたしの表情から、ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。そのときわたしが感じ取っていたのは、にわかに高まりはじめたうねりの揺り戻し。近い未来の氾濫を予期させる、穏やかだが仮借ない電位の推移。そして……
右手上空でライムイエローとネイビーブルーの〈彩雲〉が互いに放電し、その余波がわたしたちの上空に正電荷を上積みした。同じ瞬間、左手側に低く張り出したライラックの〈彩雲〉が岩に雷を落とし、周囲の地面の電位がゼロにリセットされた。
すべては最悪のタイミングで重なった。瞬きの刹那に無から現れた形なき怪物が、わたしの全神経を鞭打つように痛めつける。あらゆる粒子の流れが狙いすまして、破局的な電位差を積み重ねている。二人が横たわる、まさにこの場所で。
エミルの輝く髪が逆立ちはじめ、わたしは動くことができなかった。
そして、白い闇が世界を塗り潰した。
§
置き去りにされた二台のバギーのうち、片方は電子基板を黒焦げにされていたが、もう片方は幸運にも嵐を生き延びた。
〈彩雲〉の群れが怒りをぶちまけ終え、風に帆を立て四散してから、ビフレストの救助隊がイリス平野に到着した。第三ヒュッテとワイヤー網の残骸がさんざんかき回され、そのすべてが失意のうちに終わった後で、平野の外れから発信されている救難信号に誰かが気づいた。踏み込んだ岩石地帯で彼らは、電紋をまとって横たわる体と、そこに寄り添う人影を見つけた。
いくつもの判断を誤った。あるいは、遅れた。悠長に身の上話を聞いている暇があったら、大きな岩の陰に移動していればよかったのだ。でなければ、少しでも地面に穴を掘っていればよかった。巨大な蛇の視線に射すくめられたように動けず、半分は死を覚悟してもいたせいで、最善の選択肢を遠ざけてしまった。
エミルの心境に感情移入しすぎたのもよくなかった。痛みと恐怖を感じず、もしかしたら美も感じず、未来に失望し、死に急いでいる子供。膨れ上がった静電気が二人の頭上で犠牲者を物色しはじめたとき、わたしのひねくれた正義感が頭をもたげたのだ。福音のように天から降ってくる突然死を、こいつは望んでいたのではなかったか? 間に合うかどうかは別としても、とにかくわたしは動こうとしなかった。それよりもっと悪い道を選んだのだ。
既知宇宙には様々な生物がいる。〈彩雲〉や〈誘雷樹〉のように電荷を操る能力を身につけ、その上で知性と文明を獲得したものもいる。そういう種族の痙攣的なおしゃべりに耳を傾けるため、《ソロモン》の外交官は電場を感じ取る異能を備えたのだ。
しかし、コミュニケーションは決して一方通行ではありえない。外交官は当然、自分でもしゃべることができなければならない。だから、その体に植えつけられた発電器官は数百ボルトの起電力を生み出せる。
その力を使って、わたしは自分の周りの電場を操作し、中和することができた。あれほどまでに集積し、荒れ狂っていた〈彩雲〉のもとでは、避雷ロッドがあってさえ生き残る役には立たなかっただろう。だが、〈彩雲〉とわたし自身のあいだの電位差を少しだけ埋め、他の場所よりも落雷しにくくすることならできる。秒速十万キロで襲いかかる鎌首を自分から逸らすことなら。
それがわたしの切り札だった。わたし一人の。
「──で、そいつでまたぼくの邪魔をしたわけか。やっぱやなやつ。天邪鬼。おせっかい。恩着せがましい」
エミルは枕元でまくしたて、わたしの追憶を無遠慮に遮る。破れたわたしの鼓膜は治療を後回しにされていて、すべての音節はがさがさした雑音をともなった。
わたしが寝る小さな一室は明るかった。救助隊員は、意識をなくしたわたしを岩石地帯から運び出し、ビフレストの治療室に収容していた。ここの医療機器は、こうした事態に備えて高水準のものがそろっている。救命機に同乗したエミルは、わたしの改変内容をわかる限り正確に救急医に伝えてくれたようだ。だが、いま使われている麻酔はわたしとは相性が悪いのか、あまり効いていなかった。
「ねえ、なんで──」
「判断を誤ったと言ったろう。おまえなんぞ助けるつもりじゃなかった」気道も焼けていたから、振り絞るような声しか出せない。エミルはそんなことにはお構いなしだ。
あの瞬間、わたしが実のところ何を考えていたのかはわからない。何かを考えていたかどうかもかなりあやしい。とにかく時間がなかったのだ。突然張りつめた緊張のせいでコントロールを失ったか、単に錯乱していたのかもしれないが、ともかくわたしは電場を作り出した。ただし、天地の電位差を埋めるのではなく、押し広げる方向にだ。エミルを襲いかけていた稲妻は局所的な電位勾配に導かれ、熱源に飛びつくガラガラヘビのようにわたしへと落下した。
最初からどうかしていたのだ。エミルを追ってバギーを走らせたときから──ひょっとしたら、もっと前から。この惑星に降り立って以来、風に流されるように受動的に生きてきたはずなのに、なぜわたしはあんなことをしたのだろう?
「違うよ。なんで助けたかじゃない。ずっと聞きたかったのはそうじゃなくて……なんで外交官をやめたの?」
最初わたしは、質問の意味がわからなかった。思考の範囲は限定され、遠い過去のことに思いを馳せるのが難しかったからだ。そしてまた、ひねくれが顔を出す。この子供はもしかして、自分が秘密を告白したのだから、こちらにも同じ重さの告白をさせられると思っているのだろうか。
「言いたくないなら、別にいいよ」エミルは先手を打った。興味なさげに膝の上に目を落とし、ぼろぼろになった〈緑(フルン)〉の地図と、電磁波で真っ黒になったD紙の広告を見比べている。うまいやり方だ。天邪鬼なわたしはまんまと口を開いた。
「必要とされなくなったからだ。《ソロモン》計画はずっと昔から、異種族との交流を進めていた。太陽系人類(ソラリアン)は当初の理念どおり、銀河に孤立した知的種族を見いだしては、文明どうしの架け橋の役割を担っていた。といっても、まともに交流できるのは生存条件が近い水‐炭素生物(ウォーターカーボン)相手に限られていたがな。〈ホイッスル〉と〈マグネター〉が話そうと思ったら、おれたちのような外交官があいだに立ってやらなきゃならなかった。異種族のテクノロジーには得手不得手があって、適切な翻訳機をいつでも用意できるとは限らなかったから」
「いっつも外交官がそばにつくわけ? それってちょっと献身的すぎない?」
「太陽系人類(ソラリアン)側の打算もあったんだ。異種族の社会に入り込んで、あらゆる交流の場に立ち会うことで、宇宙で何より重要な情報を集めることができるからな。〈ゲート〉の技術だって、異種族の特化した知識を太陽系人類(ソラリアン)がまとめ上げてはじめて実現したんだ」
エミルはふうん、と感動なさげにうなずく。〈ゲート〉がなかった時代、太陽系人類(ソラリアン)のほとんどの活動は太陽(ソル)からたかだか数光年の範囲内に限られていたことなど想像もつかないだろう。もちろん、わたしだってその大変革に立ち会ったわけではないが。
「で、それがどうして必要とされなくなったの」
「結局のところ、おれたち外交官は過渡期の変種(フリーク)でしかなかったのさ。交流網が成熟して、コミュニケーションの媒体がひととおり出そろうと、《連合(アライアンス)》全種族の共通プロトコルが作られることになった」
もっとも基本的な二進法(バイナリ)シグナルによる手続き則から、会話媒体ごとに特化した符号化体系まで。対話インフラの共有度に応じて使い分ける七段階の外交言語。それらが承認された日、《連合》の諸種族は太陽系人類(ソラリアン)から独り立ちした。外交官はもはや無用の長物となった。少なくとも、そのほとんどは。
「そのこと自体は別に悲劇じゃない。むしろ《ソロモン》が望み、勝ち取った最大の成果だ。ただ、外交官が星々を渡り歩く時代は終わったということさ。多くの人間が仕事を奪われた」
当時のことをいまでも憶えている。外交官としてのわたしの最後の仕事が、まさにその外交言語への賛同署名だった。自らをお払い箱にするサインを、わたしはした。どんな気持ちだったかなどは関係ない。ただ、そうするのが正しいとわかっていた、それだけだ。
だがその瞬間に、星空の美は奪われてしまったのだ。わたしから永遠に。
わたしは自分自身を救おうとしなかった。望んだ道を選べなかった。
「それで、《ソロモン》から捨てられたんだ。気の毒に」エミルは無神経に言った後、あわてた様子でつけ加える。「ああ、でも、ここのガイドもけっこう向いてると思うよ? その能力があれば客も安全だし」
「それで慰めてるつもりか? 毎回こんな真似をしていられるか。おまえにこの痛みを味わわせてやりたいよ」
わたしは憎たらしい子供をにらみつけると、頭を上げて自分の体を見回す。右肩から右脚にかけて、シダの葉に似た赤黒いフラクタル模様が走っていた。見方によっては、雷をそのまま閉じ込めたかのようだ。あのとき、電流のほとんどは皮膚のすぐ下の発電細胞を伝っていったから、臓器への重大な障害は残らずに済んだ。
「それは無理な相談だね。ぼくの体をどうするかはぼくが決めるんだから。けど」
エミルは一拍置いてから、わたしの顔をひたと見つめる。
「ぼくに何か約束させたいことはある?」
いつのまにか、その顔はふざけていなかった。決意と覚悟、それからほんの少しの気後れ。一秒ごとに揺れ動き、意志の力でそれを押しとどめている。〈彩雲〉の電場のようにうねる波。
たぶんそれは、エミルなりのけじめのつけ方だったのだろう。死の願望に、無関係のわたしを巻き込んだことの代償を、これからの自分の人生で払うことが。たとえばわたしがかすれた声でこう言えば、エミルは従うだろう──痛みを夢見るのなんてやめろ。人は誰でも、ままならないものを抱えているんだ。
あるいはそれがエミルを救うことになるのかもしれない。選択を強制されることが。
わたしは口を開いた。
「おれの前から消えてくれ。もう姿を見せるな」
エミルはほんの一瞬、驚いたように目を開き、それからすぐ伏せた。ふたたび顔を上げたときには、いつもの生意気な顔に戻っていた。
「あんたもお人好しだね。ま、いまのはぼくがフェアじゃなかったよ。そう言われると思ってたから」そう言って立ち上がり、くるりと身をひるがえす。サイドチェストにD紙を放り出すと、地図のほうを手に取って小さく振り動かした。
「じゃあね。奇形(フリーク)どうし、けっこう楽しかったよ」
そしてわたしは独りに戻った。エミルはガイド料を満額支払っていて、治療費はそれで楽にまかなえた。
第三ヒュッテのあった場所はすでに瓦礫(がれき)を撤去され、情報収集ドローンも撤収していた。痛ましい災害の爪痕は梁材(りょうざい)でふさがれ、バリケードで隔離されている。それでも、外殻にどれほど大きな穴が開いたかはひと目でわかった。
周囲のいたるところには、信じがたい高熱で融かされ泡だった金属片が散らばっていた。いまだに何百メートルも離れたところで、バギーや外壁の残骸が見つかっているという。わずか二十七分のあいだにヒュッテ上空でまき散らされたエネルギーの総量は、まさに核兵器に匹敵するものだった。
誰も、長くは苦しまなかったと思いたい。
救助隊の報告によれば、犠牲者は百四十六人。その中には誰一人、わたしを殺そうとした者はいなかった。彼らはただ、自分が正しいと思うことをしたのだ。
危険を売りにしたアトラクションにとって、その現実化は命取りになる。ヒュッテ壊滅の噂は光速を超えて宇宙を伝わり、わたしがルシュの助けを借りて五十日間のリハビリを終えたときには、〈緑(フルン)〉はすでにもぬけの殻だった。
まもなくこの星は放棄されるだろう。ここへの航路も、ここからの航路も閉鎖される。〈ゲート〉を開かずにただ維持しておくだけでも無視できないコストがかかるから、利益を生まない星系はあっさり手を引かれるのが常だった。
〈彩雲〉は自らの手で、思い上がった征服者(コンキスタドール)を返り討ちにしたというわけだ。わたしが無意識に自分を投影していた〈彩雲〉は、受動的な漂流生物などではまったくなかった。それは生きるための戦いに身を投じ、隠された本能の牙を剥いたのだ。七年もそばで観察していながら、そんなことにも気づかなかったとは。
これでまたひとつ、宇宙から危険な冒険が減った。
あの少年にとっては都合の悪い世界になる。
§
わたしは太陽(ソル)系に戻ると、タイタンの競売市で有り金をはたいて船を買った。個人用の恒星船など経済的に引き合うものではないが、とにかく売りには出されている。わたしが購入したものは、無補給で千年間、乗員を主観時間ゼロで生き延びさせられることを謳い、大気圏突入できる艦載機と〈ゲート〉通行機能と、最高級の身体改変ユニットを備えていた。外交官向けの超感覚改変までやってのける代物だ。
たぶん、エミルを追いかけたときの無謀さがまだ抜けきっていないんだろう。素朴な夜空を思わせる、黒く静まりきったD紙に、子供じみたメタファーを感じ取ってしまったのかもしれない。まったくどうかしている。だが、それくらいでちょうどよかった。ガイドの連中は新しいことを試みたのだ。わたしもそれにならうとしよう。・危険な冒険・なら、十一歳の子供にもできた。自分で生き方を選ぶことなら〈彩雲〉にさえできた。同じことがわたしにできない理由があるだろうか?
この船でわたしは、既知宇宙の外へ出ていくつもりだ。半径五千五百光年のトポロジー的もつれの、さらに外側へ。長く寂しい旅になるだろう。恐ろしいという思いもあった。だが立ち止まるつもりはない。エミルが言ったとおり、たしかに恐怖とは人を楽しませるものだ。それに、やはりわたしには、鮮やかな虹色より、あの懐かしい夜空のほうが性に合っている。
そしてそこにはきっと、わたしを必要とする何かが待っているはずだ。
巨大なエンジンが立てる二ヘルツの卓越振動を聞くあいだ、わたしは広々とした艦橋(ブリッジ)で奔放な空想をもてあそんだ。いままで見てきたどんな言語とも違う言語。そこに根ざし、分かつことのできない文化。
光り輝く歌。揮発性の話法。電子の調べ──あるいは〈彩雲〉の放電は、彼らの会話だったのかもしれない。太陽系人類(ソラリアン)のアボリジナル・コミュニティに古くから伝わる虹蛇ユルルングルのように。
そういえば、船を落札したとき、オークショニアがほくほく顔で話しかけてきた。奇遇なことに、少し前にももう一人、わたしのと同型船を買ったやつがいたそうだ。そいつの名前は憶えていなかったが、髪が目障りな藍色で、腕に等高線をペイントした、生意気そうな青白い子供だったという。
ひょっとしたら、二隻の船はどこかですれ違うかもしれない。どちらも星に憑かれたように、未知の深宇宙を漂い続ける。片方はまだ見ぬ文明を求めて、もう片方は、たぶん死に場所を求めて。もしも本当に出会うときが来たら、約束は破られることになるが、わたしはとがめたりしないし、向こうも悪びれはしないだろう。
なんといってもあちらは生意気なのだし、こちらは外交官なのだから。
了
●【夏の春暮康一SFまつり】掲載一覧
07/28【夏の春暮康一SF祭 01】「虹色の蛇」(分載前篇)
07/31【夏の春暮康一SF祭 02】「虹色の蛇」(分載後篇)
08/04【夏の春暮康一SF祭 03】 林譲治『オーラリメイカー〔完全版〕』解説公開