「意見の相違」こそが豊かな社会と人生をつくる—『まずは「聞く」からはじめよう』冒頭特別公開
競技ディベートの世界大会を二度制覇した伝説のディベーターが自らの経験から導き出した、よりよい対話のための技術を指南する『まずは「聞く」からはじめよう——対話のためのディベート・レッスン』(ボー・ソ著、川添節子訳、早川書房)が本日発売しました。
今回の記事では、本書「はじめに」を特別公開いたします。2003年の夏に家族とともに韓国からオーストラリアに移住して以来、周囲の環境になじめず、自分の意見をうまく伝えられなかった著者を救ったのは、ディベートでした。彼がディベートから学んだのは、主張を無理に一致させるのではなく、より良い形で意見を異にするための方法と精神。本書では、そのすべてが余すところなく語られます。
2005年の運命の日から17年あまり、ぼくは今でも良い議論を目指して走り続けている。途中、節目になることはいくつかあったが、ゴールには到達していない。競技ディベートで2回世界チャンピオンになり、オーストラリアン・スクールズ・ディベーティング・チームとハーヴァード・カレッジ・ディベーティング・ユニオンという世界有数のチームの指導にあたった。韓国からオーストラリア、そしてアメリカ、中国と世界を渡りあるき、それぞれの場所でより良い形で意見を異にする方法を模索してきた。
この本は、ぼくのこれまでの短い人生を振りかえって、2種類のディベートについて記したものだ。
一つは競技ディベート。与えられた論題について、公平な審判の前で自分たちの意見を述べて競い合うゲームである。その起源は古く、古代ギリシャの修辞学や初期仏教の修練にさかのぼり、議会制民主主義の発展とともに進化した。今では、世界中の高校や大学で盛んに行なわれ、そこで活躍した経歴を持つ大統領、首相、最高裁判事、業界のリーダー、受賞経験のあるジャーナリスト、著名な芸術家、市民社会のリーダーは大勢いる。ディベートを学ぶのは簡単だが、完全にものにすることはできない。だから、子供も大統領候補も参加できる(参加の意義は違うかもしれないが)。
もう一つのディベートは、人生で日常的に遭遇する意見の相違によるものだ。ディベートチームに参加する人は少ないが、人は誰でも日々なんらかの形で議論している。ぼくたちは物事がどうあるべきかというだけではなく、現状についても異なる意見を持っているので、単に何かを認識するだけでも対立を招きかねない。そうして起きた議論で、ぼくたちは相手を説得し、解決策を探り、自分の信念を振りかえり、自分のプライドを守ろうとする。個人あるいは職業上の、もしくは政治的な利益は、こうした議論に勝つだけではなく、正しい形で行なえるかどうかにかかっているとわかっている。
ぼくが言いたいのは、競技ディベートは日常生活のなかでもっと上手に意見を異にする方法を教えてくれるということだ。うまく意見を異にすれば、多くが実現できる。たとえば、自分の思いどおりにする、将来の対立を減らす、対立する相手との関係を保つといったことだ。本書ではこれらについて触れることになるだろう。だが、目指すところをもう少し控えめな言葉で言うなら、こういうことだ。すなわち、ぼくたちは意見の相違があるほうが、ないよりも良い結果をもたらすように、意見を異にしなければならない。
本書では、そのためのツールと根拠を示す。
前半は競技ディベートの基本的な五つの要素──論題、立論、反駁、修辞法、沈黙──とともに、それらを操るためのスキルや戦略について述べる。こうした要素は、日々の議論の根底にある物理的性質を明らかにするものだ。つまり、形式論理よりも使いやすく、交渉術よりも広く使える知識体系を手にすることになるだろう。
後半は、競技ディベートの教訓を生活の4つの側面──悪い議論、人間関係、教育、テクノロジー──に当てはめ、良い議論が公私ともにぼくたちの生活を向上させることを示す。ぼくは古くからある競技ディベートは、議論を無視せず中心に据えたコミュニティのほうがうまく機能する証拠になるのではないかと思っている。どのような真実の証でもそうだが、それが示す結論は必ずしも明確ではない。ディベートの歴史には、支配、ごまかし、饒舌、排除がつきものだ。しかし、ディベートにはすばらしいものを生み出す可能性もある。刺激的で愛にあふれた、啓示的な意見の相違によって豊かになる人生と社会である。
良い議論について本を書くには微妙な時代だと思う。今の時代、政敵と闘うために船を出すことはないが、意見の相違がかきたてる疑念や侮蔑、敵意はかつてないほどに大きくなっているように見える。だから議論をしても、双方が相手の悪意を想定するせいで、話はかみ合わなくなる。ディベートに対する意識が高まっているこの時代に、対話を維持するための価値観やスキルは地の底まで落ちている。これが「分極化(polarization)」という言葉が意味するものだ──意見が合わないというのでもなければ、意見に大きな隔たりがあるとか、相違の数が多いというのでもない。意見を異にするのがあまりにも下手くそなのだ。ぼくたちが行なっている議論はただ苦痛なだけで、まるで役に立たない。
(中略)
間の悪いことに、ディベートするのに今よりいい時代はない。ぼくたちは、かつてないほどに個人の自由を享受し、選挙権を持ち、世界とつながっている時代に生きている。公共の場は多様化し、公共の対話は論争と化している。意見を異にするやり方が下手くそだと知ったからといって、こうした重要な成果が失われるわけではない。過去を美化する必要もない。ぼくたちは多元主義を許容してこなかったし、意見の相違をうまく扱ってもこなかた。だから新しい道をつくらなければならない。
不安定な時代だからこそ、人は意見の一致を求めてしまうのかもしれない。違いを排除し、共通するものにこだわりたくなるのかもしれない。もともと内気な人間として、ぼくは日々こうした本能の力を感じている。だが、その力に流されればつらい思いをすることも知っている。
シドニーの子供時代の数年間、ぼくは自分のまわりから議論を追い出し、同意を軸に生きようとした。この経験を通じてわかったのは、同意してばかりの人生は満たされないということだった。そうやって生きるためには、たくさんの妥協と自分への裏切りを必要とする。そうしてもっとも価値あるもの──特に率直さ、挑戦心、繊細さ──とのつながりを失うことになる。
世界のあちこちに足を運んで確信したのは、政治社会も意見の不一致がなければ衰えるということだ。繁栄する国は、議論を進化させる。そうした考えがなければ、人間の多様性に敬意を抱くことも、不確実な未来を受け入れることもできない。一方、その逆で、ただひたすらに一致を求める共同体は、歴史的に見れば、独裁政治や露骨な多数決主義に向かう傾向がある。自由民主主義においては、良い議論は社会が実施すべきものというより、社会そのものでもあるべきだ。
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著者紹介
ボー・ソ (Bo Seo)
韓国系オーストラリア人のジャーナリスト、作家、ディベーター。オーストラリア代表チームとハーヴァード大学ディベートユニオンの元コーチ。2013年にWSDC(世界学校ディベート選手権)で、2016年にはWUDC(世界大学ディベート選手権)で優勝。清華大学で公共政策の修士号を取得。現在は《オーストラリアン・フィナンシャル・レヴュー》の記者をしながら、《ニューヨーク・タイムズ》や《アトランティック》など多くの媒体に記事を寄稿。
訳者略歴
川添節子
翻訳家。慶應義塾大学法学部卒業。主な訳書にバージス『欲望の見つけ方』、ロブ『夢の正体』、(以上早川書房刊)、アンダーソン『ホビットの料理帳』、ローゼンタール『奴隷会計』など。
書籍概要
著者: ボー・ソ
訳者: 川添節子
出版社: 早川書房
発売日: 2024年4月5日
本体価格: 2,600円(税抜)