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話題沸騰の翻訳エンタメ小説『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』(ガブリエル・ゼヴィン/池田真紀子訳)一部試し読み公開

早川書房から10月6日(金)に刊行された『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』(ガブリエル・ゼヴィン/池田真紀子訳)。ゲーム制作を通してつながった男女の友情の物語です。

ある寒い冬の朝、ゲーム作りを学んでいるMITの学生セイディと、ハーヴァード大学で数学を学んでいるサムが、ボストンで再会するところから物語は幕を開けます。こちらのnoteでは、セイディとサムが駅で偶然再会し、別れる直前の場面からの一章の一部を公開いたします。

試し読み

 セイディはまたサムを軽く抱き締めた。「会えてよかった」
 それから電車のほうに歩き始めた。どうしたら引き留められるだろう。これがゲームなら、ポーズボタンを押せるのに。リスタートして次は違うことを、正しい台詞を、言い直せるのに。インベントリを開け、セイディをつなぎ止めるアイテムを探せるのに。
 電話番号さえ交換していないのだ。サムはすがるような気持ちでそう考えた。一九九五年のいま、誰かを探すのに使えそうな手段をひととおり思い浮かべた。昔なら──サムが子供のころなら、誰かと別れたきり二度と会えなくなることも珍しくなかったが、いまはそういう時代ではない。相手を法則に基づく推測を予測不能な生身の人間に変換したい気持ちさえあれば足りるようになってきている。どんどん小さくなる旧友の後ろ姿を目で追いながら、サムはこう自分に言い聞かせた──グローバリゼーションやら情報スーパーハイウェイやらで、世界じゅうが同じ方向に進んでいる。セイディ・グリーンを探し出すのは簡単だろう。メールアドレスは推測がつく。MITの学生には同じパターンのメールアドレスが割り当てられる。あるいは、MITの学生名簿をオンライン検索してもいい。MITの情報科学科──セイディが在籍しているのはきっと情報科学科だろう──に問い合わせる手もある。セイディのカリフォルニアの実家に電話して、父親のスティーヴン・グリーンと母親のシャリーン・フリードマン゠グリーンに尋ねるのもいいだろう。
 反面、サムは自分をよく知っていた。電話しても嫌がられないと一〇〇パーセント確信できないかぎり、サムは自分から電話したりなどしない。サムの脳は、どうしようもないほどマイナス思考だ。セイディの態度は冷たかった、あの日本当は授業なんかなかったのだ、単にサムから逃げたかっただけに違いない──連絡しない言い訳をいくらだってひねり出すだろう。サムの脳は、セイディがサムにまた会いたいと思っていたなら、連絡先を渡したはずだと言い張るだろう。そしてサムはこう結論する──セイディにとってサムは過去のつらかった時期を象徴する存在で、また会いたいと思うわけがないと。あるいは、これまでもたびたび頭をよぎったように、セイディにとってサムは大切な存在でも何でもなく、金持ちのお嬢様の社会奉仕にすぎなかったのだと。サムは、セイディがハーヴァード・スクエア近くに住むボーイフレンドの話を持ち出した意味をくよくよ考えるだろう。セイディの電話番号、メールアドレス、住所を調べるだろうが、行動に移そうとはしないだろう。だから、地球ほどの重みをもって、セイディ・グリーンに会うのはこれが最後になりそうだとサムは思い定め、その重みに押しつぶされかけながら、一二月の極寒の日、地下鉄駅を遠ざかっていく彼女のすべてをつぶさに記憶に刻みつけようとした。ベージュのカシミアの帽子、ミトン、マフラー。絶対に軍の放出品を買ったのではない、キャメル色の七分丈のピーコート。だいぶくたびれたブルージーンズは、ブーツカットの裾がところどころほつれている。白いストライプが一本入った黒いスニーカー。斜めがけにしたコニャック色のメッセンジャーバッグは体の横幅と同じくらい大きく、ものがぱんぱんに詰めこまれていて、脇からクリーム色のセーターの袖が片方だけはみ出している。髪は──艶やかで、少し湿っていて、肩甲骨のすぐ下まで届く長さだ。いま見えているセイディは真のセイディではないとサムは思う。地下鉄駅にあふれている身ぎれいで頭のよい女子学生の誰とも区別がつかない。
 後ろ姿が見えなくなる寸前、セイディが向きを変えて駆け戻ってきた。「サム! まだゲームやってる?」
「もちろん」サムは勢いこんで答えた。「やるよ。しょっちゅうやってる」
「これ」セイディは三・五インチのディスクを彼の手に押しつけた。「これ、私のゲーム。超忙しいだろうけど、暇があったらやってみて。感想を聞かせてもらえるとうれしい」
 セイディは走っていって電車に乗りこみ、サムはそのあとを追った。
「待って! セイディ! どうやって連絡すればいい?」
「ディスクにアドレスが入ってる」セイディが答えた。「Readmeファイルを見て」
 電車の扉が閉まり、セイディをMITのあるスクエアへと運んでいった。サムはディスクを確かめた。ゲームのタイトルは〔ソリューション〕。ラベルに手書きの文字が並んでいた。いつどこで目にしても、セイディの筆跡は見分けられる。
 その夜、アパートに帰ってからもすぐには〔ソリューション〕をインストールせず、パソコンのディスクドライブの隣に置いておいた。セイディのゲームは後回しにするという選択は思いがけず強力なモチベーションになって、サムは第三学年論文計画書の作成に没頭した。計画書の提出期限はもう一カ月も過ぎていて、いっそクリスマス休暇明けに先延ばしだと開き直っていた。さんざん悩んだ末にサムが絞り出したテーマは、〈選択の公理の不在におけるバナッハ・タルスキーのパラドックスへの代替アプローチ〉で、計画書を書くだけでも退屈きわまりなく、実際に論文を書く段になったときのことを考えると気分がどんよりした。サムに数学の才能があるのは明らかだったが、格別の興味があるかとなると微妙だと自分でも思い始めていた。数学科の指導教官で、フィールズ賞候補の呼び声が高いアンデシュ・ラーションからも、その日の午後の面談でその点を遠回しに指摘された。面談の最後にこう言われたのだ──「きみはすばらしい才能に恵まれているね、サム。だが、何かが得意だからといって、それを心から好きかどうかはまた別の話であることを忘れないように」
 夕飯はマークスと一緒にテイクアウトのイタリア料理ですませた(マークスの旅行中、サムが残り物で食いつなげるよう、マークスはとても食べきれない量をわざと注文した)。マークスは、コロラド州テリュライドへのスキー旅行にまたしてもサムを誘った。「いいからおまえも来いって。スキーができなくたって心配はいらない。ほとんどずっとみんなでロッジに入り びたってるだけだから」サムはお金がなくてクリスマス帰省すらできない。マークスから遊びに誘われては断るというのが季節ごとの恒例行事になっていた。夕飯のあと、サムは道徳的推論(若き日のウィトゲンシュタインの哲学、すなわち自分はすべてについて間違っていたと断じる前のウィトゲンシュタインの哲学を学ぶ講義)の課題を読み始め、マークスは旅行の支度をした。荷造りがすむと、マークスはサムに宛てたクリスマスカードを書き、五〇ドル分のビール券と一緒にサムのデスクに置いた。ディスクに目を留めたのはこのときだった。
「〔ソリューション〕って?」マークスはそう訊き、緑色のディスクを手に取ってサムに差し出した。
「友達が作ったゲーム」サムは答えた。
「友達?」マークスが訊き返す。一緒に住んで三年目になるが、サムから友達という言葉が出たことはほとんどなかった。
「カリフォルニア時代の友達だよ」
「プレイしないのか」
「そのうちやる。きっとつまらないだろうし。頼まれたから軽く試してみるだけ」セイディを裏切るようだが、きっとつまらないに決まっている。
「どんなゲーム?」
「知らない」
「でも、タイトルは格好いいな」マークスはサムのパソコンの前に座った。「まだちょっと時間がある。やってみようぜ」
「いいよ」サムは一人になってからプレイするつもりでいたが、マークスとはふだんからよく一緒にゲームをやっていた。二人とも格闘ゲームが好きだった。〔モータルコンバット〕〔鉄拳〕〔ストリートファイター〕。たまにテーブルトークRPG〔ダンジョンズ&ドラゴンズ〕のキャンペーンを再開することもある。サムがダンジョンマスターを務めるキャンペーンは、すでに二年以上続いていた。
〔ダンジョンズ&ドラゴンズ〕を二人でプレイするのは、ほかにはない親密な経験で、キャンペーンの存在は二人の秘密になっている。
 マークスがディスクを挿入し、サムはパソコンのハードドライブにゲームをインストールした。
 数時間後、サムとマークスは〔ソリューション〕を最後まで終えた。
「いやはや、すごかったな」マークスが言った。「おっと大遅刻だ。アジダの家で待ち合わせしてるんだ。この分じゃ殺されちまう」アジダというのはマークスの最新のガールフレンドだ。トルコ出身、身長一八〇センチ、スカッシュが得意、ときおりモデル業── マークスの恋人としてごく標準的なスペックだ。「五分だけのつもりだったのに」
 マークスはコートを着た。セイディのと似たキャメル色のコートだった。「おまえの友達、猛烈に悪趣味だな。けど、たぶん天才だよ。で、そいつとはどういう知り合いだって?」

+++++試し読みココマデ+++++


■書誌情報

書名:トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー
著訳者:ガブリエル・ゼヴィン/池田真紀子訳
ISBN:978-4152102737
本体価格:2420円(税込)
判型:四六判並製
装幀:田中久子
発売日:2023年10月6日


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