見出し画像

もはや対岸の火事など存在しない――『ウイルス・ハンター アメリカCDCの挑戦と死闘』文庫版訳者あとがき

感染症対策人類最後の砦たるアメリカ疾病予防管理センター(CDC)
その活躍を描いた『ウイルス・ハンター アメリカCDCの挑戦と死闘』(エド・レジス/渡辺政隆訳、ハヤカワ文庫NF)が7/22に発売となります。
文庫化に際し新たに加えられた渡辺政隆さん(サイエンスライター、東北大学特任教授)の訳者あとがきを公開します。

■文庫版訳者あとがき

 二〇一九年末に中国に端を発した新型コロナウイルス感染症COVID-19は、二〇二〇年七月二日現在、未だに世界中で猛威を振るっており、世界の感染者数は一〇〇〇万人を突破し、死亡者数は五〇万人を超えた。終息はおろか収束の目途さえまったく見えていない。
 新型コロナウイルス感染症は、現代医学が初めて直面する病原体を原因とする新興感染症であり、今回も人類に不意打ちを食わせた。一般にウイルス病の予防にはワクチンが有効だが、未知の感染症に備えたワクチンは存在するはずもない。治療法についても、しばらくは試行錯誤の対応が迫られる。
 新興感染症が出現した際の対処法としては、まずは患者の隔離と感染経路をたどって突発的流行(アウトブレイク)を防ぐことが優先される。そこで活躍するのが疫学であり、公衆衛生の専門家である。
 本書の主役は、エボラ出血熱とアメリカにおいてさまざまな感染症対策の任に当たっている米国疾病予防管理センターCDCである(本文にもあるように、CDCの正式名称は何度か変更されており、日本語表記は各時点での正式名称に即している)。
 本書は一九九六年に原書が出版され、その翌年に日本版が刊行されたが、CDCとはいかなる機関で、感染症対策の現場がいかなるものかを知るうえで、現時点でも大いに参考になる。
 エボラ出血熱は、一九九五年のザイールでの流行以後もアフリカでのアウトブレイクが七回ほど起こってきた。治療法については未だ確立していないが、対処法についてはほぼ定着してきたと言ってよいだろう。宿主についての調査も進み、食虫性のコウモリが最有力視されている。
 CDCについては、今回のコロナ禍でその存在が改めて脚光を浴び、日本にも同種の機関が必要ではとの声が高まっている。
 合衆国保健福祉省傘下にあるCDCの歴史については本書に詳しいが、その体制は、現在のその正式名称Centers for Disease Control and Prevention の〝センター〟が複数形になっていることからもわかるように、センターの集合体であり、一二のセンターといくつかのオフィス(局)で構成されている。センターのなかには感染症以外の疾病や公衆衛生を担当する部局もある。日本の国立感染症研究所を、予算人員の規模のみならず、管轄する範囲でも凌駕する組織なのである。
 CDCの公式サイトにあるそのミッションは、「アメリカの安心・安全・健康を国内外のいたる所に存在する脅威から守る」こととしている。そのために課している役割としては、次の六項目で要約できる。
  ・新たに出現する健康への脅威の探知と対応
  ・国民の健康に深刻な害を及ぼす健康問題への取り組み
  ・疾病予防への最新科学技術の投入
  ・健康で安全な行動、地域社会、環境の整備促進
  ・公衆衛生リーダーの育成、疫学調査員を含む公衆衛生担当者の訓練
  ・国の保健衛生のモニター
 では、日本の状況はどうか。日本で感染症対策に従事しているのは国立感染症研究所だけではない。日本には全国に保健所のネットワークがあり、感染症の発生を地域ごとにモニターしている。本書の単行本版訳者あとがきではО157騒動に言及し、疫学探偵の必要性を指摘した。その後の対応で、日本でも国立感染症研究所での疫学トレーニングが充実され、必要な人材の育成が進められてきている。
 エボラウイルスなどを研究できるバイオセーフティ・レベル4研究施設は、国立感染症研究所村山庁舎の施設運用が二〇一五年八月七日に正式に許可された。長崎大学感染症共同研究拠点への設置も計画されている。
 CDCが世界最高水準の機関となっている背景には、公衆衛生学の専門大学院の充実もある。なかでもジョンズ・ホプキンス大学とハーヴァード大学の公衆衛生大学院が有名である。特にジョンズ・ホプキンス大学は、新型コロナウイルス感染症のニュースでもたびたび名が出るように教育研究リソースが充実している。日本でも、海外のそうした大学院を修了した疫学の専門家が活躍するようになっており、公衆衛生学を学べる専門職大学院の設置も進んでいる。
 COVID-19ではアメリカの感染者数と死亡者数が世界最大となっており、CDCがありながらなぜという声もある。これについてはさまざまな意見があると思うが、最大の敗着は、国外からの感染症の流入を水際で食い止められなかったことであり、その元凶は政策的な要因だと思われる。また、米中関係の悪化により、CDCによる中国国内での事前の情報収集と連携がうまくいかなかったせいだという意見もあるようだ。
 一方、日本における対策では、第一波の中国からの伝播は後手に回ったもののなんとか最小限に食い止められたが、三月後半になり、ヨーロッパ観光から戻った日本人旅行者から感染クラスターが発生した。そこで厚労省のクラスター対策班が採った作戦は、見つかった感染者の周囲を徹底的に調べ上げ、クラスターを一つひとつ潰すことで感染の拡大を抑えるというもので、とりあえずはそれがうまくいった。
 対策に当たった専門家には、それに先立つ経験があった。二〇〇二年から〇三年にかけて世界の三〇を超える国と地域で重症急性呼吸器症候群(SARS)が発生した際、アジアでの封じ込めの成功に、多くの日本人疫学者が貢献したのだ。
 今回、そうした経験を積んだ専門家が対策を練り、各地の保健所と連携をとることで、なんとか抑え込むことができたのだ。アメリカとはちがい、社会医療制度が充実していることも幸いした。思い付きの政策が錯綜するのをよそ目に、専門家の冷静な対応が功を奏したといえるだろう。したがって、ここで安易に「日本モデル」などという言葉を掲げていい気になっていてはいけない。
 ともあれ、コロナ禍は今後も続くことを覚悟しなければならない。われわれにできることは、まずはウイルスと感染症の正体を知り、各人ができる対策を実行することだろう。それと、今後、新手の感染症がいつまた現れないとも限らない。それに備えるには、感染症研究とその対策にあたる専門家の養成や設備の拡充を図るしかない。そうした政策を適切に推進させることに、われわれは無関心であってはならないのだ。
 コロナ禍は、グローバル社会の弱点を思い知らせた。もはや、対岸の火事など存在しない。今日の自分の行為が、明日には地球の反対側の人に影響を及ぼさないとも限らないのだ。自国ファーストを謳うナショナリズムは危うい。CDCがその機能を十全に発揮できなかった元凶がアメリカファーストだったかもしれないことこそが、それを教えている。


二〇二〇年七月三日
渡辺政隆

画像1

『ウイルス・ハンター アメリカCDCの挑戦と死闘』
エド・レジス/渡辺政隆訳 ハヤカワ・ノンフィクション文庫
本体価格900円+税(電子版同時発売)
カバー写真:©CDC/Dr.Todd Parker カバーデザイン:早川書房デザイン室

(担当編集:小野寺真央