意思決定に人間は要らない!? 橘玲氏が語る、『NOISE』(ダニエル・カーネマン他)の衝撃
カーネマンの新たな挑戦 橘玲氏による書評
近代経済学は、目先の損得だけでなく長期的な効用や確率まで正しく計算できる「合理的経済人(エコン)」を“発明”したことで、壮大な理論の塔を生み出した。この前提が神聖不可侵とされたのは、エコンが否定されるとこれまでえんえんと築き上げてきたアカデミズムの巨大な建築物が根底から崩れてしまうからだ。
だが「人間(ヒューマン)」はほんとうに、機械のようにあらゆることを合理的に計算しているのか。この前提はふつうのひとの常識や直感とはかけ離れているので、経済学は現実の市場経済とはなんの関係もない象牙の塔だとずっと揶揄されてきた。
心理学者のダニエル・カーネマンはエイモス・トベルスキーとともにさまざまな独創的な実験を行ない、人間には多種多様な認知の歪み(バイアス)があり、その結果、選択や行動はつねに一定の方向にずれてしまうことを明らかにした。こうしてコンピュータのような「合理的経済人」の前提は覆され、経済学は「人間科学」として再生した。――これが行動経済学誕生の物語だ。
行動経済学はその後、進化生物学や脳科学と融合し、わたしたちの認知バイアスが、人類が進化の歴史の大半を過ごした旧石器時代の環境に適応するためのものであることを明らかにしていった。人間は「経済学的に合理的」なのではなく、「進化論的に合理的」なのだ。
これは人文科学の大きなパラダイム転換だが、その立役者であるカーネマンは新著『ノイズ』で新しい領域に挑戦した。その主張をひと言で要約するなら、「意思決定が失敗する理由はバイアスだけではなく、それと同等か、それ以上に影響力の大きな要因=“ノイズ”がある」になるだろう。
現代社会は、(カーネマンらの努力によって)バイアスの存在を意識するようになったものの、ノイズの存在はほとんど気づかれていない。カーネマンは、法学者のキャス・サンスティーン(行動経済学を実際の政策に応用する「ナッジ」で有名)、意思決定理論のオリビエ・シボニーとともに、その危険性に警鐘を鳴らしている。
アメリカの裁判では、同じ犯罪であっても、若い黒人の有罪率は高く、童顔の白人だと執行猶予がつきやすい。これがバイアスで、裁判官や陪審員は、自分は人種差別とは無縁だと思いつつも、無意識のうちに、白人よりも黒人を犯罪と結びつけている。
これだけでも不公平だが、こうした認知バイアスをすべてなくすことができたとしても問題は解決しない。裁判官に大きな裁量権が与えられていることで、同じ犯罪でも、どの裁判官に当たるかで判決や量刑が大きく異なっているのだ。
1970年代にこのことに気づいたのは著名な裁判官であるマービン・フランケルで、偽造小切手のほぼ同額の現金化で有罪になった(ともに前科のない)2人の男に対し、1人は懲役15年、もう1人が30日とされた事例などを大量に収集し、こうした異常な事態はとうてい容認できないと告発した。人種や年齢、性別、犯罪歴などの個別の要因を調整してもなお生じるこうした「ばらつき」がノイズだ。
カーネマンらが指摘するように、バイアスとノイズはずっと混同されてきた。重い量刑を科すことに対して、「あの裁判官は黒人に偏見がある(バイアス)」と、「あの裁判官は軽犯罪に対してもきびしい判決を出す(ノイズ)」が、同じタイプの説明として受け入れられてきたのだ。
バイアスが一切なくてもノイズは生じるし、それはしばしば許容できる範囲を大きく超える。CTやMRIの画像検査に人種や性別のバイアスが入り込む余地はないが、それでも同じ画像を複数の専門家に見せると、「がん」から「問題なし」まで検査の結果がばらつく。正解は1つなのだから、このノイズを放置しておくと、健康なひとに不要な手術・投薬がなされたり、早期に治療すれば回復した患者が放置されたりする事態になる。
こうしたノイズは裁判の判決や病気の診断(精神科はとりわけノイズが多く、医者によって病名が異なることは珍しくない)だけでなく、児童相談所(虐待のおそれのある子どもを保護施設で預かるか、家庭に戻して様子を見るか)、難民認定申請(調査によれば、ある審査官は申請の5%しか許可しないが、別の審査官は88%を許可しており、「難民ルーレット」と名づけられた)など、広範な領域で観察されている。会社の採用や昇進、保険料・保険金の査定のような日常的な出来事にも大きなノイズがあり、当たりくじと貧乏くじで運命が変わったりする。「判断」のあるところには、つねにノイズが生じるのだ。
本書の指摘で興味深いのは、ばらつきの要素を「レベルノイズ」「パターンノイズ」「機会ノイズ」の3つに分けたことだ。
レベルノイズは「きびしい裁判官」と「甘い裁判官」のばらつきのことで、被告人にとっては前者は「外れ」、後者は「当たり」になる。ここまでは多くのひとが気づいているだろうが、近年の心理学は、その時々の気分によって判断が変わることを明らかにした。
よく知られているのが刑務所の囚人の保釈審査の研究で、1日のうち午前中と昼食後は審査が甘く、昼前と夕方は審査がきびしくなった。これは意志力が枯渇するためで、最初は一人ひとりの事情を慎重に審査していても、空腹や長時間の仕事で疲れてくると意志力がなくなって、責任を問われることのない「保釈なし」に判断が傾くようになる。これが「機会ノイズ」で、重要な判断をしてもらうのなら、朝いちばんか昼食後を選ぶべきだということになる。それ以外にも、天気のいい日や、応援するスポーツチームが勝った翌日には判断が甘くなるなど、さまざまな機会ノイズが発見されている。
それに対してパターンノイズは、判断をする者の個性のことだ。いつもはきびしい裁判官も、高齢女性の軽犯罪には(自分の母親を思い出して)温情を見せるかもしれない。逆に被告人の利益を重視するリベラルな裁判官も、若い男性の薬物使用には(自分の息子に裏切られたことを思い出して)きびしい判決を出すかもしれない。
驚くのは、ばらつきのなかで、このパターンノイズの比重が予想外に大きいことだ。これは、専門分野ではレベルノイズの存在が(ある程度)知られるようになり、判断の手順をマニュアル化したり、AI(人工知能)のようなアルゴリズムを導入するなどして、改善が進んでいるからだ。機会ノイズは、心理学の研究対象としては面白いものの、実際の影響はそれほどのものではないらしい。
一方パターンノイズは、一人ひとりの判断者の個性であり、「人間らしさ」のことだ。これを否定してしまっては、「すべての判断は機械にやらせればいい」ということになってしまう。
そして著者たちは、まさにそのような主張をする。機械は原理的に「ノイズフリー」だが、アルゴリズムにバイアスが混入することはあり得る。だが人間の判断はバイアスとノイズの2つに影響されているのだから、一般論としては、判断は機械任せにしたほうがより「公平」なのだ。
だが人間の抵抗によって、こうした改革がすぐに実現できるとも思えない。だからこそ、すこしでも人間の判断からノイズを減らすようにしなければならない。これは「公正」や「健康」といった重要な価値に関連しているが、それと同時に、企業にとっても、判断にともなうノイズをなくすことは収益の最大化に大きく貢献するだろう。
本書では、さまざまな現場でのノイズの事例だけでなく、それを改善する具体的な方策も豊富に提示されている。重要な判断にかかわる仕事をしているすべてのひとにとって必読書となるにちがいない。
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著訳者紹介
■著者紹介:
ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)
1934年生まれ、認知心理学者。プリンストン大学名誉教授。専門は意思決定論および行動経済学。2002年にはノーベル経済学賞を受賞。著書に『ダニエル・カーネマン 心理と経済を語る』、『ファスト&スロー――あなたの意思はどのように決まるか?』(早川書房刊)など。
オリヴィエ・シボニー(Olivier Sibony)
フランスHEC経営大学院教授。25年にわたって、パリとニューヨークでマッキンゼー・アンド・カンパニーのシニア・パートナーを務めた。著書に『賢い人がなぜ決断を誤るのか?――意思決定をゆがめるバイアスと戦う方法』など。
キャス・R・サンスティーン(Cass R. Sunstein)
1954年生まれ、ハーバード大学ロースクール教授。専門は憲法、法哲学、行動経済学など多岐におよぶ。オバマ政権では行政管理予算局の情報政策および規制政策担当官を務め、またバイデン政権では国土安全保障省の上級参事官に任命される。リチャード・セイラーとの共著『実践 行動経済学』は全米ベストセラーを記録。他の著書に『スター・ウォーズによると世界は』(早川書房刊)など。
■訳者紹介:
村井章子(Murai Akiko)
翻訳者。上智大学文学部卒業。主な訳書に、カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房)、フリードマン『資本主義と自由』、スミス『道徳感情論』、バナジー&デュフロ『絶望を希望に変える経済学』など。