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デジタル時代のネイチャーライティングが誕生した。ジェームズ・ブライドル『WAYS OF BEING 人間以外の知性』解説・江永泉

AIやドローンを用いた作品により世界的に注目されるアーティストにして、著書『ニュー・ダーク・エイジ』も読書人の間で話題を呼んだジェームズ・ブライドルが、自然・テクノロジー・人類の新たな生態学を探究した『WAYS OF BEING  人間以外の知性』(岩崎晋也訳、早川書房)。この記事では、批評家で「闇の自己啓発会」発起人の江永泉さんによる解説を特別公開します。

ジェームズ・ブライドル『WAYS OF BEING 人間以外の知性』

解説 デジタル時代のネイチャーライティング

批評家 江永 泉  

ジェームズ・ブライドル『WAYS OF BEING 人間以外の知性(原題Ways of Being: Beyond Human Intelligence)』。情報工学と認知科学を修めたイギリスのアーティストにして気鋭のメディア理論家たる著者が、IT革命以後の社会状況を踏まえて記した環境エッセイ。それが本書だ。二〇二二年出版の上製本版ハードカバーの好評を受けてか、翌年には並製本版ペーパーバックが刊行されている。

ブライドルの前著『ニュー・ダーク・エイジ』は、まるで「C」から始まる一〇のキーワードと関連語句を予測変換サジェストして並べたかのようなつくりだった。「1 Chasm 裂け目」「2 Computation 計算」「3 Climate 気候」……。ハイパーリンクからなるクラウドという主題が、議論の構成のレベルでも体現されていたのだ。論点トピックを多極的に配置したその記述スタイルは、国際政治学における新しい中世論(Neo-medievalism)を踏まえた表題(「新たな暗黒時代(New Dark Age)」)に相応しいものだった、と評せるだろう。

今回の『WAYS OF BEING』で重視されているのは、道である。歩み、やり方、その両方の意味合いで、だ。これまでとは別の仕方で知性を活かす道を探る著者ブライドルの旅は、現生人類や企業の問題ある振る舞いを意識しつつ、現代社会で幅を利かせる人間知能を遠く離れて(Beyond Human Intelligence)続けられている。いみじくも並製本版では、副題が以下のように変更されている。「動物、植物、機械たち:地球上にある(planetary)知性の探求」。こういった問題意識を踏まえれば、本書の表題は「さまざまな在りかた」や「生けるモノたちの交叉路」とでも訳せるだろうか。

ふたつの題辞エピグラフからは、この書物がカバーする領野の広範さがうかがえる。それに、本文の内容ともよく照応しており、示唆的な導入部となっている。最初の引用はプラトン『パイドロス』の、せみの声が響く一節だが、実際この本の序章も著者自身が住むギリシアの一地域、イピロスの紹介から始まっている。身近な生活の場、というだけではない。計算機科学における「神託機械」(アラン・チューリング)という概念コンセプトは本書でもたびたび検討される。その神託オラクルは古代ギリシアに由来する語だ。

もうひとつの題辞は、ムーンドッグの曲「ヒトの権利はもうたくさん(Enough About Human Rights)」の歌詞リリックからの引用である。20世紀後半のニューヨークで「6番街の海賊ヴァイキング」の異名を得ていた音楽家ミュージシャンの一九七八年の作品だ。人類以外の生物、クジラから虫そして植物までの権利はどうなるのか、と問う一節を、ブライドルはあえて字義通りに捉えて掲げているように映る。

そのままページをめくっていけば、多種多様な「知性/知能(intelligence)」との接近遭遇コンタクトを読者は体験することになる。ヒトそしてヒト以外の生物――キューバイグアナやシロイヌナズナといった動植物はもちろん、ミドリムシや粘菌なども含む――の振る舞いを活写する本書の筆致は、しばしばファーブル昆虫記やシートン動物記をも彷彿とさせる。ときに著者ブライドルは、在りし日のネアンデルタール人に思いを馳せる。またあるときは、コロナ禍に伴う都市封鎖ロックダウン期間中に巡り合ったツバメたちに書き手の目は注がれる。この本は一種の自然誌なのだ。だが、その瞳に映されるのは生物だけではない。様々な機械やアプリ、企業といった法人でさえもこの本は行為主体アクターとして記述している。「天然知能」(郡司ペギオ幸夫)と人工知能AIは分け隔てなく扱われるどころか、そもそも一緒くたにされているのだ。アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』や森山徹『モノに心はあるのか』とは議論の筋道や強調点が異なるところもあるが近しい世界観である。

たとえば第一章の導入部では、著者自身のアート作品も紹介しつつ、無人で自動運転が可能な車の「環世界」(ユクスキュル)が語られる。まるでコウモリやこけの生態を取り上げるかのような手つきでブライドルはこの語をロボットや乗用車に紐づけている。ほかにも、第六章では、上空を舞う鳥がつくるような影を嫌い実験室内の迷路を逃げ回るミナミコメツキガニの群れが取り上げられているが、そこで著者は躊躇なくこう記す。「カニでできたコンピュータ、カニコンピュータだ」(280頁)。ヒトと動物のみならず、人獣と木石の区別すら乗り越えていく著者の姿勢スタンスは、いわば汎知性主義的だ。

さらに、ユッシ・パリッカ『メディア地質学』を本書と同系統の理論書として名指せるだろう。パリッカは芸術家のガーネット・ハーツと共著で「ゾンビメディア論」を発表しているが、この作家は実は『WAYS OF BEING』にもローチボットの制作者として登場している。パリッカは、街路脇に積まれた汚れた氷雪をもまた塵埃を保存する媒体メディアとして把握し、同様に粉塵を吸着させられているはずの、鉱山や工場で働く人々の肺腑へと思考をつなげていく。実は、そうした現場で労働者により採掘され加工される希少金属レ アメタルこそが、現代のデジタルメディアに接続アクセスするための電子機器にとって不可欠な部品を形づくっているのだ。たとえばヒト・シュタイエル『デューティーフリー・アート』のような美術評論の、よりサイボーグ寄りなバージョンとして、パリッカの著作を把握することもできるように映る。そしてブライドルのこの著作も、また。

実際、本書において、様々な地球内知性体に関する記述は、コンピュータまたはサイボーグをめぐる古事物学的アンティクアリアンな考察とセットになっている。たとえば第七章。古代ギリシアの民主制デモクラシーを支えた水時計クレブシドラがアナログなタイムキーパー装置として再発見され、その都市国家ポリスで公職者を決めたクジ引き装置、抽選機クレロテリオンの発揮する真の無作為性ランダムネスが、現代のデジタル機械が生成する疑似乱数の限界と対照的な形で描かれる。要点ポイントは以下のことだ。「世界がコンピュータに似ているのではない。コンピュータが――わたしたちと同じく、植物や動物と同じく、雲や海と同じく――世界に似ているのだ」(257頁)。現実の雛形がバーチャル空間で描き出される、という先後関係の想定にブライドルは否を突き付けるのである。

「ガイア理論」(ラブロック+マーギュリス)を再評価するブライドルが、もし日本語を解するとしたら、あるスピノザの概説書に記された、以下のような表現を大いに肯定することだろう。すなわち、自然は台風を思考する。「自然の中に台風の真なる観念が生み出され、猛威を振るう台風と「同じものの異なった表現」になっている。[……]われわれだって自然の一部である。われわれに思考があるのに自然にはないと言うほうが実は変なのである」(上野修『スピノザの世界』111頁)。自然は現に台風を発生させるという形で台風を即時的にシミュレーティングしているのである。この意味で地球はコンピュータであり、知性を発揮しているわけだ。試みられているのは地球の擬人化ではない。知性の脱人間化であり、ポストヒューマン化である。

そのことと関連するが、認知哲学などでよく論議されてきた、強いAI/弱いAIといった人工知能AIの区分けに著者は拘泥しない。むしろこの本は強いて「知性/知能」をゆるく用いている。語の定義をめぐる論争の解消が本書の目的ではないからだ。あいまいな概念を分析的に解剖して具体的な事例との関係を整理するような科学哲学的な著作とは真反対に、著者はむしろ様々な事例を総合していく。これもまた「知性/知能」なのではないか、と。無際限な濫用の肯定ではない。その狙いは、「知性/知能」の意味内容を訂正リビジョンすることにある。

その際に念頭に置かれているのは、「知性/知能」の使いみちをめぐる想像力の貧困、という時代診断だ。「人工知能について語られるとき、対象となるのはおおむねこうした企業の知性であり、[……]利益を追求し、搾取するものとなる。この枠組みは本や映画、ニュース、人々の想像のなかで――SFではロボットの支配者と逆らえない全能のアルゴリズムの物語として――繰りかえされ、ついにはわたしたちの思考や理解を覆いつくしている。[……]そして、こうした想像とともに生きていくほかないというだけでなく、それを再現し、具現化し、自分たちや地球を損なうよう運命づけられているかのようだ」(21頁)。本書を通して、「知性/知能」をめぐる、ひとつの自問自答がなされている。そう読めるだろう。さながら映画『天気の子』の主題歌のように「できることはまだあるかい」、と。そしてスピノザのように「何ができるのか、私たちはまだ知らない」、と。

しかしながら、「知性/知能」の使いみちの再考とは、その将来的な可能性ポテンシャル危険性リスクを測りなおすことではないし、自らの信条を確かめなおすことでもない。いまあるところから出発し、どうやって別の仕方でするのか考えることだ。「ペーパークリップ仮説」(ニック・ボストロム)をはじめとする、超AIをめぐる一連の脅威シナリオには、この観点で言えばむしろ、技術的特異点シンギュラリティ待望論と同様のまずさがある。ブライドルのように、企業を「AI」の一種として再考するなかで見えてくるものは、破局であれ栄光であれ、将来の汎用AIが何をもたらすかではなく、無数の「企業AI」が粛々と活動しており、それが「じわじわとした暴虐(slow violence)」(ロブ・ニクソン)を地球環境に加え続けていることだ。そして『WAYS OF BEING』は、金属類を集める非破壊的な代替方法として着手されはじめた、高蓄積植物による農業採鉱の場景で結ばれる。

思えば事物を目的から解き放ち転用する手法の開発が、現代アートの本領だったはずだ。トイレという場から切り離され、署名と西暦年が塗料で描きつけられて、横倒しの形で作品として展示の場に設置された工業製品。今日の美術史ではマルセル・デュシャンの名とともに知られる作品『泉』が、その端緒かつ範例として語られてきた。それは小便器の別の使いみちに気づかせるとともに、アートとは何をすることなのか再考するようにも促してくる。芸術作品の使いみちを探る営みの担い手が、同時にテクノロジーの使いみちを探る営みの担い手でもあることは、不可解ではない。

本書の冒頭でブライドルが報道リポートしているように、金融危機以後のギリシアではAIを利用した企業による石油採掘が進行中である。イピロスの地域環境が破壊されてしまうと地元の人々から反対の声が挙がるも、ビジネスは止むことがない。地球規模グローバルな視点から言えば、「地球高温化」(江川隆男)は加速するばかりである。そうした状況だとすれば「私たちはこの星を破壊する機械を破壊することができる」(アンドレアス・マルム)といった新機械破壊運動ネオ・ラッダイトと見紛うばかりの主張すら出てくるのも無理からぬ話である。「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス)とは似て非なる「利己的な知性/知能」の専横があるわけだ。

「NO、国境ボーダー。NO、炭素カーボン。これらに至るやりかたを見つけるまでには長い時間を要するはずだが、これがベースラインの達成目標でなければ状況を悪化させ続けるだけだ」。ブライドルのTwitter(現X)の固定ポストにも、そんな二〇一九年の投稿が今なお掲げてある。同アカウントを遡ると、マルムの記事を肯定的に参照する投稿にも行き当たる。リンク先の記事から次の文言が引用されていた。曰く、「財貨スタンスのツケは我らが地球(Property will cost us the Earth)」。これはブライドルの現在の政治的な姿勢スタンスとも照応する文言だろう。もちろん「新しい美学(New Aesthetic)」の唱道者として注目を集めていた二〇一二年ごろと同様、「わたしは変わらず、コンピュータやネットワークの力と可能性を楽しみにしている」とブライドルは述べている。

ブライドル自身は『ニュー・ダーク・エイジ』から変わらず、それどころかよりいっそう強く、技術楽観論テクノ・オプティミズムそして資本主義を批判している。ブライドルはポストヒューマニズムを、いわゆる加速主義――技術革新の動きに伴走してポスト資本主義を目指す思想とされる――から切り離そうとしているのではないか。しかし、たとえば資本主義の乗り越えがたさを物語る「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレーズに、だからこそ「ともに手を携えなければ、前へは進めない」という本書の結びの言葉を接ぎ木することもできる。そもそも加速主義の揺籃の地だったサイバネティック文化研究ユニット(CCRU)には、ポストヒューマンな思想のよき使いみちを断念することなく探求していたフェミニスト、サディー・プラントも最初期に関わっていた。もっと先へ。共々に「加速」すること。新しい資本主義の将来にではなく、想像を絶するところもある、資本主義以後の未来に向かって。前代未聞の世界へ。そんな機運が、高まりつつある。「FREE FREE FREE 夢中なら 直感で加速する」(東京スカパラダイスオーケストラ「Free Free Free feat. 幾田りら」)。いま、これを書いている頭のなかで、こんな曲が鳴り響いている。

ネイチャーライターとしても知られるレイチェル・カーソンのふたつの著作、危機意識や注意深さを高めさせる『沈黙の春』と、感受性が培われ磨かれる『センス・オブ・ワンダー』。両者が混然一体となったような作品として、この『WAYS OF BEING』という本は把握できるかもしれない。要するに、これはデジタル時代のネイチャーライティングの試みなのだ。その美点と難点もカーソンに似ているように思える。ブライドルが、人類を滅ぼしてでも石油を求めるような企業の知性を認めないと断ずるとき、同時に、他のアリを奴隷化するサムライアリの存在や、ハリガネムシによって生殖能力を奪われ行動すら操られて水死する陸生昆虫の存在が森林の生態系を支えている事実が見えなくなってしまう。自然のすべてが連帯し調和しているというビジョンは、どんな生物も弱肉強食のサバイバルを強いられているという観念と同程度にファンタジーだ。悪もまた自然の一部である。そう考えると、もっぱら現行の資本主義に耽溺すると非難される側の加速主義にも、新たな使い道が開けるかもしれない。

いずれにしても、ブライドルによる「知性」の拡張的な使用、またはその意味内容の訂正は、無数の行為主体アクターの振る舞いが変わることを願いつつ試みられているのである。いまこの文章を読んでいる「知性」ある存在の日々の暮らしぶりや生きかたにも、きっと、思いを馳せながら。ささやかな形で、または劇的に。


執筆者紹介

江永泉(えなが・いずみ)
1991年生まれ。「闇の自己啓発会」発起人。専攻は文化研究、文学理論。「ナタの時代、あるいはデスゲーム的リアリズム」(SFマガジン2022年2月号所収)、「少女、ノーフューチャー――桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論」(Rhetorica#04所収)など。

著者紹介

ジェームズ・ブライドル
1980年生まれ。アーティスト・ジャーナリスト・テクノロジスト。ロンドン大学でコンピュータ・サイエンスと認知科学の修士号を取得。作品はアルス・エレクトロニカ、文化庁メディア芸術祭などで受賞。『イブニング・スタンダード』紙による「ロンドンの1000人の最も影響力のある人物」の1人、『WIRED』による「ヨーロッパの100人の最も影響力のある人物」の1人に選ばれている。

この記事で紹介した本の概要

WAYS OF BEING 人間以外の知性
著者:ジェームズ・ブライドル
訳者:岩崎 晋也
出版社:早川書房
発売日:2024年7月1日
定価:4,290円(税込)


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